江戸時代の譜代大名について語ろう
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外様が養子を送り込むには、男子後継者がいない家
もしくは宗家の娘と年齢が釣り合う男子で婿養子が条件
勝手に養子送りまくることもできんだろ
養子縁組には幕府の許可も必要だし 土井利位は幸運過ぎる。
仙台藩の庶子だった父親が、たまたま運良く土井分家から養子に迎えれてたら
たまたま本家の古河藩に跡継ぎが無く、たまたま庶子の利位が養子に入ったら運良く老中まで出世できるんだから
親子二代で部屋住みで終わるはずが
吉宗並のシンデレラストーリー 外様から養子に入った譜代大名って、徳川家に対する忠誠心ってあったのかな? 幕末には徳川一門の親藩すら明治新政府に寝返って
徳川宗家の主城江戸攻めに参加していたから
譜代云々なんて関係ないよ 出自よりも家臣の振り付けに従って動くことが求められる
譜代も外様も養子も関係ない >>181
島津は将軍外戚にはなっていない
島津の姻戚だった五摂家筆頭近衛家の養女という名目で
将軍御台所を2回出したのは事実だが 十八松平家も結構関係ない家から養子入れたりしてるね。
一門は松平氏の男系に限るのかと思ったら、そんなことなかった・ 本当の一門である親藩は幕末に川越松平家が有馬家から養子を入れるまでは、
ほぼ全て家康の男系子孫で固めてたけどね。
例外は江戸前期の越前系支藩に久松松平や新庄から養子が入ってるくらい。
(新庄からの養子だけは、理解に苦しむ)
鷹司松平とか奥平松平は、一応親藩扱いだけど、初代からして他人や女系だし、
久松松平も田安家から養子が入るまで譜代なのか親藩なのかわからない曖昧な位置。 >>192
久松松平は家康の異父弟というだけで
もともとは男系でも女系でも松平の血を引いていない
父系なら久松家、母系なら水野家だからね(家康と母親が一致)
そんな家が親藩扱いされてることが凄い
日本は天皇家以外はかなり女系相続も多いしね
家康の娘の産んだ孫に松平姓与えたりしてる まあ、鷹司、奥平、久松は将軍位継承権のない、名誉親藩みたいなもんだから。
越前系の支藩に、ごく一部とはいえ、他家からの養子が入ったのも、将軍位継承権のない越前家一門だから。
将軍になる可能性のある御三家の連枝松平は、明治維新まですべて家康の男系子孫に限られてる。 >>194
鷹司は紀伊連枝
奥平は家門→譜代
久松は松山、白河・桑名のみ家門 越智松平のいいとこ探そうぜ
幕末6万1千石。初代は家宣の弟、家斉の子供と水戸家からの養子をとったそんな親藩。
でも表高少なくない?いやいや、御三卿で10万石なので成立年代を鑑みれば妥当と擁護してみる。 越智家
官位は従四位下
侍従
と官位だけならまあまあ。実質、血筋は水戸家支藩に。水戸連枝の讃岐藩が溜間なんだが。 なあ、お前らって松平と一切関係ないのに、
松平を松平以上に語り合ってなにがたのしいの? 越智家は初代清武はじめ、宗家から冷遇されすぎ。
家宣ほど、同母弟に冷淡な人物が名君や君子のように持ち上げられるのはおかしい。
綱吉がキチ害だったのと、新井白石が側近だったということで過大評価されてるが、
実際には肉親に冷たかっただけの男。 どうせ館林藩主にするのなら、はじめから両典と同じ待遇で10万石やればよかったのにな。
ていうか、普通に甲府10万石に封じてやれよ。 御三卿が10万石格だから、越智家の成立次期が遅いこともあり、こんなもんかな。 ちびちび加増して譜代なのか親藩なのかわからないような中途半端な扱いにとどめるより、
スパッと甲府家の所領をそのまま継承させればよかっただけのこと。 大名同士の敬語は、何を基準に身分の上下が決まっていたのか?官位なら従五位は多い、表高は五位の大名のなかで上下の幅がある。
たとえば、従四位下の松江松平家当主は、津山藩の当主に三河守様と呼んでいたのか?
官位では津山が松江に優位するが、表高は松江が優位の場合。 >>204
基本的に大名同士の敬語は『殿』を使う
相手が三家、三卿の場合でも『殿』を使用
様を使うのは将軍、将軍世嗣、御台所、将軍世嗣の御簾中に限られる
敬語を使う相手大名の序列は
官位上位>家督についてからの年数>年齢
であり、
同じ官位の場合はその官位に先に就いた方が上位になる
表高の序列は大廊下、大広間以外の大名、旗本の将軍に拝礼する順番に関係するが、敬語の使用には関係ない
因みに津山は松江の本家筋なので、松江は常に敬語を使用する 将軍の直臣という意味では大名も旗本も同格
大御所、将軍実父、将軍生母、将軍子弟(姫君含む)も尊称である『様』の対象 正室に将軍養女格を迎える場合に「お姫"様"」と敬い扱うのはそういう事か >>205
参考になりました。
二条城の黒書院あたりに人形で当時が再現されてる。上座から、老中、高家、若年寄の順で座っている。
高家は老中支配だから老中の次はまだわかるが、若年寄より上位とはね。 大名同士だと、「薩摩殿」「左衛門尉殿 」などになるはず。大河だと誰かわからなくなるんで名前で呼ぶばあいが少なくない。
上掲のとおりなんだろうが、八重の桜では容保が、井伊大老に対し「掃部頭様 」と呼んでいた場面があった。溜間詰と大老の身分差の肌感覚はわからない。 >>208
初期の頃はともかく、若年寄は譜代の小大名の終着駅で老中とは全く別コースだからな。
官位もそれほど高くない。
官位順に並んだらそうなるだろう。
高家は禄は低いが官位だけは高いからな。 >>209
容保なら掃部頭殿だろうな。
老中以下だと大老に対して主君並の態度をとったから様づけだと思う。 溜間の格ってどのくらい?幕政に参与できるから高いといわれるが、大広間などとは別の次元で、とあるインナーサークルを指称したものと理解すべきだろうか? 幕末の溜間詰では讃岐、会津が思いつく。水戸も?御三家は溜間じゃないはずだが。
幕末時点で誰が常溜だったかわかる? 老中、若年寄の就任について規則性はあるかな?老中については大河内、大給はコンスタントに輩出。松前はイレギュラー。柳沢は吉保以外では、幕閣にはついていないはず。
越智松平武元は、吉宗の信任が理由と考える。老中といっても家柄枠でいきなり老中と、官僚機構での立身出世の枠とがある。 老中は三河譜代が多数なんだが、小笠原もいるよね。吉田藩と唐津藩の小笠原だよな。小倉は老中だしてないはず。
若年寄は、堀から何人か出してる。保科から若年寄がいるが、保科では老中は無理なのかな。堀の若年寄どまりは妥当に思う。 >>212
譜代の中の客分が溜間。
井伊、平八郎流本多、榊原、酒井左衛門等は家康のパートナーとして天下を獲った家なので譜代の中でもお客さん扱いの別格。 柳沢は吉保が出世しすぎて、綱吉から松平姓や将軍の一字をもらったり、
甲府に20万石の大封をもらったりして、親藩なみの待遇を受けてしまったばかりに、
子孫が幕閣になれなくなってしまった。 格が高いとかえって幕閣になれないというのが徳川時代の特色だからね。
柳澤家にしてみたら幕閣になって持ち出しせずに済んだのでよかったかもね。
そのせいか大和郡山藩は穏やかに幕末まで続いている。 榊原、本多は幕閣少ないよな
本来、老中は家宰・執事的な役目だとされ、武門の家柄に相応しくなかったと思われていた。 酒井左衛門も確か1回老中になっただけだな。
榊原、本多宗家、酒井左衛門は基本的に幕閣に入らない家とみていいだろう。
井伊だけは例外的に幕閣に入ることもあるが常に大老職だからな。 家康の戦闘部隊だった家となると
酒井
本多
石川
大久保
鳥居
井伊
榊原
まあこんなとこだな。
石川は出奔して消え、大久保、鳥居は途中で改易があったからな。 酒井は宿老とか老分とでもいうべき
足利幕府においても、斯波らは管領になりたがらなかった。老中も当初は相談役みたいなもの。
だからといって、間部や田沼が幕府枢要になれたのもな。 酒井は累代の宿老家だからな。
本多、大久保がそれに次ぐ家で、井伊と榊原は武功で宿老の仲間入りした家。
間部や田沼は幕府の枢要と言っても番頭さんだから成り上がり者でもまあまあありだ。
異例なのはやはり柳澤だな。 >>209
それはただの演出でしょう。対話の時、大老から老中は官名呼び捨て、老中から大老は
御前様(おまえさま)と敬称すると「江戸時代制度の研究」にありますが、官名に様付する
のは基本的には将軍家限定では?三家、三卿も殿付ですし。
三家が殿付になったのは、側近が「尾張様」「紀伊様」と三家を様付していたのを家光が
「家臣である三家に自分と同格の敬称を使うのは心得違いだ」と咎めたからだとか。
大老・老中や三家も平大名や旗本も、「目見得以上の直臣」というくくりで同格というのが
礼式の一つの基本にあるようです。 >>225
小栗は旗本どまりなのはなんでかな?
土屋あたりでも大名になれたというのに。 >>226
江戸自体の江戸大名屋敷の地図には、水戸殿、尾張殿、紀伊殿と殿付で記載。
他の大名は、松平周防守などと表記されている。たぶんみなさんも見たことある地図だよ。御三家の屋敷はさすがに大きい。 ちなみに越智松平家の正式名称は、松平右近将監家です。日本テレビ「 白虎隊」では、容保が「桑名少将を 」と呼んでいる。とすれば、越智松平は、浜田侍従と呼ばれるのだろうか。幕末、大村隊が浜田藩に宛てた口上では「浜田候」と表記がなされていたきがする。 >>227
小栗の本家は秀康、忠直、光長の家老
越後騒動で断絶 >>230
従五位下美作守だから諸侯並といえるかもな 浜田藩=越智松平家は親藩なのか譜代なのか、実にわかりにくい。
武元のように老中になったり、武厚(斉厚)のように寺社奉行になった当主がいるが、
普通、親藩の当主はそのような役職につかないはず。
その意味では、久松松平家も白河・桑名藩の定信が老中に、定敬が京都所司代になり、
松山藩の定成が老中上座になっているので、親藩なのか譜代なのかわかりにくい。 >>232
家門かって言われればそう
将軍の弟に端を発しているから
じゃあ容保みたいに幕政に参与しているのはどうなるかな?武元は実直な人柄を見込まれて西の丸老中で家重を輔弼した。 >>233
会津は高松家門の宿老待遇
白河・桑名、浜田は譜代 広瀬、宍戸、糸魚川、母里は家門の譜代扱い
松山、白河・桑名は家門
会津、高松は家門の宿老扱い >>235
20頁の康英では、自らは家康公の孫なのに、石見に行きたくないとだだコネると、土井に「津和野藩は実質旗本だから、石見の国主待遇ですぜ 」となだめられた、という部分から。
幕末の藩士の家老尾関、川ばた監物の部分など。長州の和睦条件を呑めないから城破却したとか。 >>235
48頁 尾関家老 福島家家老だった先祖
85頁以外 石州口の戦い 紀伊家のだめだめ、因幡藩の裏切り、長州の態度硬化
こんな条件だったんだな
172頁 生田精 鳥取藩主にねぎらわれる 庄内藩に降りかかった領地替えとは、長岡への転封ですが、これは減封に等しいです。
なにか落ち度があったのでしょうか? 何年か前のNHK金曜日の時代劇では、殿中で大名同士が「領地+侯」で呼び合ってた。
「相良侯」とか、「白河侯」とか 国持上位格=井伊(酒井)は幕閣に入ると自動的に大老扱い
元々従四位少将以上の家柄だし 稲葉氏って春日局の縁者で老中も出してる譜代大名なのに、
なんで臼杵藩だけ外様になってるの? 臼杵の稲葉は稲葉一鉄の子孫の稲葉本家。
春日局の旦那の稲葉正成は一鉄の孫娘(春日局とは別の娘)と結婚して稲葉氏を名乗った。
春日局は継室で、その子の正勝は正成の嫡男ではない。
正勝が大名になったのは完全に春日局の子だからで、正成とは関係ない。
元来が美濃の国人で、その後信長の家臣として大名になった稲葉本家が外様大名なのは当然じゃねえの?
それに忘れてはならんのは、一般的に外様大名は将軍の客分だから譜代大名より格式は上ということ。
由緒ある稲葉本家は春日局の子として大名になった稲葉家より格式は上。 >>248
本家が外様で分家が譜代、というと細川家もそうだね。
常陸谷田部には譜代の細川家があった。 外様で伏見奉行になったのは成島?
丹羽は外様でも、秀忠縁戚で幕府に忠実。
仙台藩が幕末に佐幕になったのが驚き。真っ先に新政府になびきそうなイメージがある。世良の人格の下劣さ所以か。 真田のように血統で譜代扱いになったのは別として、実力で譜代になったのは脇坂くらいかな。松前って幕末に突然変異で老中になったけど、譜代なんかな? >>250
秀忠に取り立てられたから譜代になるの?
丹羽も譜代なりそうだな。立花に譜代の家があるけど沿革からいえば立花氏って外様かも。安城譜代とか、古参が譜代はわかり易い。 >>253
旗本に外様は居ないので、旗本が大名になると譜代大名になるんだよね。
外様大名が一旦旗本に落とされてから再度大名になると、今度は譜代大名になると聞いた。 >>254
旗本は将軍の直臣だから譜代になるということなんだね。 >>254
丹羽家のように浪人から取り立てられたらどうなるんだろ。 >>254外様の知行分地の旗本は、禄は将軍家から貰ってないのかな?
旗本辞典によれば、長州毛利の分家旗本はなかった。鍋島、島津の旗本はある。外様の旗本ってまずいないんじゃない? たとえば、外様が庶子に知行分地したとする。1万石以上ならば、支藩となり、1万石未満なら自動的に旗本になるのかな?鍋島の場合は、家督争いの末に直参になり、家禄は将軍家から貰っていたと思う。本家と仲違いしてるので分地してもらえないということ。 >>258
本家が外様大名の万石以下分家は旗本になる
鍋島、田村、脇坂、浅野など 福知山の朽木は、本家が外様大名の家系で、旗本だった分家が累進して譜代大名になった >>254
柳川の立花家は、大広間詰だから外様系表大名ではないの?
初代(?)の宗茂は、改易、浪人から御書院番頭を経て大名復帰したが上記のとおり表大名。
幕初だからかもしれないが、旗本出身でも必ずしも譜代ではなかったみたい。
真田なんて、家康の娘婿で関ヶ原前から家康に臣従してたのに、譜代ではなく外様だった。 幕府草創期はいろんな制度が確立する前だからねえ。
確かに復興後の立花家は後年なら譜代大名コースだよな。
真田が譜代にならなかったのはほんと不思議。
関ヶ原時点の信之の本城は沼田だったわけでもろに家康の勢力圏内だったしね。 >>261
立花家は言うとおり幕初だから。
まさか関が原で西軍に組した人を譜代にはできんw
真田は臣従じゃなくて家臣だったかどうかでしょ。
関が原前に家康から知行を受けたのが譜代。
個人的に不思議なのが諏訪氏。
これこそ譜代の条件を満たしてるはずなのに。
まあ准譜代とか言われてたみたいだけど。 >>263
幕末に大番頭だった小大名の立花がいたような気がする。それを念頭に置いたんだが。 >>259
俺が幕府側だったら毛利あたりに分家旗本作らせて体力削いでやりたいところだが。毛利は庶子の処遇はどうしたのかな。
浅野氏祐は、外様の浅野の分家だと思うんだが、忠臣だったね。本家はあれだったが。 >>266
庶子は分家の跡取りや、分家に空きがなかった場合は永代家老クラスの家の養子に。
このクラスの他の大名とあまり変わらんと思うけど。 >>263
逆に脇坂の譜代入りのハードル低くない?
そもそも幕閣に登用されて結果出しから譜代って。子孫は東京で医師してる。 脇坂のように結果出して譜代以外は、真田のように血縁パワーで願い譜代がせいぜい。
旗本から大名も、大名になれた幸運の持ち主だ。 幕末あたりになると、諏訪とか松前とか下手渡立花とか丸岡有馬とか、
外様出身の幕閣が増えているが、中小大名だと全く警戒されないんだな。 >>271
警戒というか、その頃は財政不足人手不足状態だから、役についてくれる小大名なら大歓迎でしょ。
幕末は本来の譜代大名やら代々の旗本やらが溶けて役に立たなくなってる状態だからね。 幕末になると開幕から200年くらい経っていて、外様と譜代の差は格式だけになっていたと思う。
外様も将軍の臣下になって何代も代を重ねているし、譜代とは婚姻と養子で繋がってるし >>273
外様も徳川家と姻戚だったり養子が言ったりしてるからな 外様と譜代の差がなくなってるってことは、
譜代や親藩の忠誠心も相対的に低下してるってことなんだよね。
最末期に尾張や越前、淀の稲葉や井伊なんかが先頭切って新政府側に寝返る始末。
かと思えば東北の外様が旧幕府側に立って戊辰戦争戦ってるしな。 戊辰戦争は東西対決の様相を呈していた
井伊は10万石減知されてるし、芸州口では負けるはずのない戦いにフルボッコ。浅野、津和野藩なんて中立で、幕府としての体をなしていない。あれで幕府は終わり。 日本有数の雄藩、仙台藩でも歯が立たないなら何やってもだめだな。兵力では諸侯随一といわれ、2万人くらい動員できるとさえ言われた。幕府並の兵力だな。 >>276
幕末の奥羽越列藩同盟は旧幕府忠義の同盟ではない
奥羽越列藩同盟の盟主は皇族の北白川宮能久親王
薩長が旗印に掲げる明治天皇に対抗して
江戸から逃げてきた輪王寺宮を擁立して薩長に対抗しただけで
徳川のために戦ったわけでも何でもないから 稲垣、植村は影薄い。譜代大名で幕閣だしてない家ってあるかな?鳥羽藩稲垣なんて幕閣にいたかな?青木、青山くらいはすぐ思いつくのだが、譜代でも老中・若年寄をほとんど輩出しない家ありそう。 本庄は江戸期に譜代になり、さらに松平性まで与えられ幕末に老中まで
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