江戸時代の譜代大名について語ろう
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, ‐ ´ └―'´ ` 今川徳三 『「鬼平」の江戸』 中央公論新社
121頁
およそ大名の奥方などというものは、殿様のお国入りの留守中は、
つれづれの余りに日頃お気に入りの若侍や、ひいきの歌舞伎役者など、
ひそかに居間に引き入れ、夜の相手をさせるなど、不埒な遊びにふけり
がちであったから、下々の者まで奥方を見習ってたるみっ放しであった。
これって本当?こんなにルーズだったのか?なんだか信じられないけど。
また池波正太郎の時代小説短編『芸者変転』によると
「将軍・徳川家治の側近くつかえる八千石の大身旗本・石川甲斐守」には、「百人を越える奉公人」がいるが、
「四十四歳の端正な面」の「大名の家に生まれたむすめ」あがりな美熟女奥方の愛する、
「今年二十一歳になる甲斐守の長男・源太郎」は「甘えほうだいに育ちあがり」、「父・甲斐守よりも母・真佐子」が、
「幼いときから可愛がり、手元からはなさなかった」という。
「江戸」ならぬ「東京」育ちの世襲アホボンが、世襲政治家となるの今も昔も同じだね。 >譜代大名は酒井も井伊も片諱を貰っておらず、徳川家との血の繋がりもないから松平の姓も貰わなかった。
双方とも結構な血縁者なんだけどな。
酒井家はもともと松平の親族格の家。
しかも、酒井忠次は家康の祖父の松平清康の娘が正室だから義理の叔父だし、その子の家次たちは家康の従弟。
井伊家も、築山殿の母を出した家とされている上に、井伊直政は家康の養女を娶り、娘が家康の4男の忠吉に嫁いだ。
家康の養女の実父の松平康親は、家康の侍女を妻として松平康重が生まれており、康重は家康のご落胤とされている。 上田藩主、伊賀守 松平忠固の再評価の動きがあり、忠固を主役にした映画脚本まで作った者がいる >>484
元禄年間だと大名の妻が
怠け者が多いって、当時の
随筆にあるけど、不倫は
リスクが高すぎだろう。 真田は譜代の要素を十分に満たしてたと思うんだが
外様扱いにされたのは
信之を初代として徳川譜代の要素を満たす沼田系真田分家としてではなく
上田の本家の領地も丸々継承してる事からして
あくまで豊臣系かつ西軍だった真田本家の後継者として位置付けられたからなのかな?
それとも親父と弟がやらかした懲罰的な意味合いなのかな? 本多忠勝の娘を正室に迎えたが、一度家康の養女に直ってから嫁いだかそうでないかが切り分けになりそう。
家康の養女にはなっていないという説もある。 >>488
譜代大名をどう定義するかによるが
当時「御譜代大名」と呼ばれたのは帝鑑間席の大名のことで雁間詰や菊間櫞頰詰の者は除外される
真田は帝鑑間席なので正真正銘の御譜代大名 >>492
真田家は松平定信の子の幸貫の代になって
帝鑑間席に移った上で老中に就いたと言うのを読んだことがあるが
信之は上田と沼田を併せた真田家旧領+加増分をもって
上田藩を立ち上げたという事は
昌幸の嫡男として真田家を継承したとすれば
外様が妥当と言えば妥当なのかも
信之個人は譜代の要件を満たしてはいたが
関ヶ原の時点で実質的には分家独立していた一方で
形式上は昌幸の嫡男という曖昧な立ち位置だったのもあるのかと 武鑑を見ればわかると思うが真田家はその前から帝鑑間席
そもそも老中になると無席になるのだから老中になて帝鑑間席になるということはない
老中を辞めると元の帝鑑間や雁間に戻るように仰せ付けられる
これを勘違いしたのか幸貫が帝鑑間席となった旨の記述は見かけことがあるがその前はどの席だったのかについての記述はついぞ見たことがない
そもそも家門譜代外様の別は明治の学者が出自によって分類したもので「その限りでは」意味のあるものだが当時の実態等を反映させたものではない
例えば水戸徳川の分家である宍戸松平家はこの基準で見れば家門だが当時は帝鑑間席御譜代の列に入れると明言されている
認識の方便としての枠組みを基準にして他の問題にまで及ぼすのは一種の倒錯
言い換えれば「外様だから〜」「外様なのに〜」というのは馬鹿みたいだからやめときなさい 加えて豊臣大名としての真田家は北条征伐以前から徳川の与力大名という立場であり
それ故に信之が本多の息女を家康養女として縁組をしているのであって
幕初から譜代扱いとされてもさほど不審には当たらない 秀吉の指示で徳川与力ではあったが
豊臣政権下に於いては、徳川与力と言うより
独立大名として遇されてた感が強い
小松殿は昌幸が
「嫡男の嫁に陪臣の娘なんか貰えるか」
とゴネた結果、家康養女として嫁いだ説がある
秀吉の指示とはいえ
第一次上田合戦の結果からして
徳川与力に組み込む
組み込まれる謂れがない
からして、互いに与力と言うよりは
客分という認識だったんではないかと思われる
なので厳密には外様だけど
小松殿の存在や諸々の経緯から扱いは譜代
という感じなのでは? 徳川の養女を貰ったから譜代というのなら国持のほとんども譜代になると思うが 客分の使い方が間違っている気がするけど…
戦国時代における与力とは
戦時下に指揮命令下に入る事であって
平時は君臣の関係はなく、あくまで同格。
だからこそ、家康も忠勝の娘を養女とした上で
真田に嫁がせている。
だから真田は外様。
いつから譜代格になったのかは
ハッキリとはしないが、
幸弘の頃から実質譜代扱いとなり、
幸弘の養子で井伊家出身の幸専か
その養子で松平定信の子の幸貫の代になって
ようやく現状を追認してもらった
という感じだと思う。 寄騎はあくまでも寄親の部下であって主君の直臣としては同格というのは決まり文句のようなものだが(それはある意味で真実ではあるのだが)
実際には家臣団の身分秩序の中で同格というのはあり得ないことで
身分格差があるから寄親寄騎関係が成立するのだから
その同格という言葉に惑わされないようにするべき
徳川は井伊酒井榊原本多などを有力な独立軍団として育て上げる過程で多くの直臣をそれらの与力として附属させているが
幕藩体制が制度的に安定していく中で与力衆は完全に井伊らの家来、即ち徳川の陪臣として扱われるようになっており
与力衆による直臣復帰の試みは数々の運動や騒動(嘆願や出奔)にも拘わらずいずれも果たされず
公儀は「おまえらの主人は附属先の家」という態度を崩さなかった
例えば有名な長坂血槍九郎の本家なども結局本多の家来に成り下がっている(旗本の長坂家は分家)
徳川にとっての与力というのは容易に(ではないかも知れないが)家来に転換するようなものだったかも知れない それはあくまで徳川家中の問題
昌幸が家康の与力になったには、真田側から頼み込んだ話しではなく
あくまで秀吉の指示によるもの
家康と昌幸の間に緩やかでも主従の関係があったかなかったかと言えば
主従関係はなかったと見るのが妥当
主従の関係があったのであれば、家康の関東移封の際に
他の徳川家中と共に関東に移っているはずだが、それもない
それどころか、家康に関東移封の命を下した秀吉自身が
関八州の一部である沼田領を家康にではなく、改めて昌幸に与えている
つまり徳川与力になる事を命じた秀吉自身が明確に否定している
少なくとも昌幸自身は上田での戦に勝った自分が
何で徳川ごときに頭下げなきゃいけないんだというのは終生あったはずで
あったからこそ、関ヶ原での決断に繋がっている
家康の娘婿だった信之個人はともかく
真田家としては関ヶ原前に徳川家中に加わった事はなく
外様大名からスタートと見るのが自然だと思う 戦中ならともかく、秀吉が家康に真田を付けてやるメリットがない
家康は武田旧臣や北条旧臣を独自に取り込んでいる >>502
君は話を少し整理した方がいい
こちらは豊臣時代に徳川家康と真田昌幸の間に主従関係があったなどと言いたいわけではない(信之は主従に近いと見ていいと思うが)
従って強いて主従関係を否定するほどに論点がズレる
そもそも与力大名であることまで否定することは荒唐無稽
豊臣時代から幕初まで与力大名というのは地域ごとのまとまりで編成されているのだから
沼田という隣接地に所領を得たことこそがその証左となりうる(立場としては結城秀康と同じ)
それが何故「秀吉自身が明確に否定」したことになるのか理解に苦しむ
そもそもの論点は江戸期の徳川が真田をどのように見ていたか
幕初について言えば徳川が与力という立場をどのように見ておりそれがその後に真田の立場にどのように影響を与えたかというそれこそ徳川家中の問題以外の何物でもない
(信之に関して言えば家来同然に行動を共にしており主従と見られて差し支えないはず)
繰り返すが「譜代だから」(又は「外様なのに」)帝鑑間に班しているという認識は倒錯であって
逆に帝鑑間席だから「御譜代大名」と呼ばれると考えるべきもの
そしてそれは徳川がそれら大名をどのように見ていたかの問題 寛政譜を見返してみたが真田歴代の記事で席についての記述はほとんどなかった
尤も寛政譜の通例として収録されているうちの最後の当主の記事にはその家の領知・居城・伺候席などについての記述が含まれるが
真田家の場合はそれが幸専でそこには「代々帝鑑間に候す」と記されている
真田が帝鑑間に移動したというのなら移動前の席もわかる筈だが管見の限りではそういう記述を目にしたことがない
柳間なのか?雁間なのか?
(信之の時代から帝鑑間という記述を見たことはあるがこれはちょっと真偽不明)
>>500の言う「実質譜代扱いとな」ったり「現状を追認してもらった」ということがどこから推論できるのか教えてほしい 堀田備中、松平伊賀に代わり、太田備後守、間部下総守、松平和泉守を、新たなる老中に迎えた。 堀田正盛は家光に殉死、長男正信は鋏で喉を突いて自殺、三男正俊は城の中で又従兄弟に殺害される
因みに肥後藩細川宗孝を城の中で殺害した旗本板倉勝該には堀田正信の血が流れているだと。 文政期に越前松平斉善が彦根との交代転封を画策した話と、慶応期に、井伊家の駿府転封計画があがっていた話は興味深い 1623年(元和8年)の東国の一斉転封は、譜代大名中心の、かつ秀忠期としては大規模で注目に値する。
最上家57万石除封にともない、鳥居忠政、酒井忠勝、戸沢政盛、松平重忠、六郷政乗、内藤政親、真田信之、仙石忠政を移転さすものだったからである 酒井忠勝という同姓同名が同時代にいたのも不思議だな 大名家とか大身旗本家の正室の名前に
「の方」と付けるのは、
側室っぽいから不適当? 方ってまさに「〜の方(ほう)にお住まいの人」って語源じゃないの?
別に属性を表しているわけじゃない
貴人を直接固有名詞で呼ばずに居住地で呼ぶのは武士以前からあるし
ただ慣例として北の方に御台所が多く済む住居形態が多くなったから
そうなっていったという気がする素人 サンクス。
側室がいない家なら
あながち不自然ではない? 維持費がバカにならないとは思うが、高取の植村って譜代大名、2万500石にしては立派な近世城郭もってたんだな
のち、嫡男が遊女と相対死にしてしまい、隠して家督をついだのが庶子の植村家長。4500石加増 高禄旗本の奥向きの方が
譜代大名の奥向きよりも贅沢なんだろうか。 井伊直弼は桜田門外の変のあと幕府に隠され、胴体と首は水戸藩の医師によって縫い合わされた 水戸浪人は首を抱えて若年寄遠藤但馬の邸に自首、
井伊家が、首を返してくださいととりにきたけど、遠藤は遠藤で、幕府の許可がおりないから待ってくれの一点張りで、
胴体は雪道に放置だから見た人の口伝てで死んだことはバレバレ。
しかしながら公方からは医者の派遣と朝鮮人参の恩賜、
水戸藩家老は身のすくむ思いで彦根藩邸に見舞いに訪問 江戸時代、特に幕末はカオスだったな。
ちょんまげかと思えばヒゲはやしてハットかぶってた人がいた。 譜代大名の正室を暗殺とか、
町方の人間には至難の業? 池波正太郎先生の
忘れ形見、うめやす君も
大身旗本奥方の暗殺に
悩んでいたな
遊び好きの奥方なら
仕留めやすいかも >>519
会津藩主松平容保が大老襲撃は水戸脱藩浪人の個人的責任であり、
水戸藩及び藩主に罪なしと主張して、水戸征伐の声が上がっていた幕閣をなだめた
おかげで桜田門外の変を引き金とする内戦の発生を防げた 調停したのは安藤信正でしょ
その頃の松平容保にそんな政治力はとても無い 寧ろ安藤・久世あたりは他の御三家と雄藩使って抑えるつもりだったと
そこに否と答えて当初は無視されたが後日将軍に呼ばれて話を聞き対処した・・・と
「元会津家臣」の話ではそうなってるw 老中を出した真田とか
将軍の子や一橋家の子がが継いだ蜂須賀とか黒田は外様なのか? 名君、名政治家を多数輩出した岸和田藩。今は学力も所得も低いヤンキーの町。殿様たちが泣いている。 同時代で「御譜代大名」と呼ばれていたのは帝鑑間席の大名のこと
黒書院溜間詰なら「溜詰」、雁間詰なら「詰衆」、菊間櫞頰詰なら「詰衆並」と呼ばれて区別される
真田家はほぼ幕初から一貫して帝鑑間席だから正真正銘の「御譜代大名」
大広間席の蜂須賀や黒田は当然「御譜代大名」ではない
(但し本来大広間席の大名でも越前、薩摩、因幡、阿波、津山、前橋、明石などは公儀との縁組によって幕末までには大廊下席に移動している) >>528
真田は松平定信の長男が養子に来て老中になった
実父が老中首座を勤めた松平定信ということで席も譜代席が与えられていた メクラにレスしてもあなたのレスを読んでもらえないので無意味 寛政譜にも真田は「代々帝鑑間に候し云々」と書かれてるからね 譜代とか外様とかは明治時代の学者が適当に分類したのを踏襲してるだけだからな
真田がいつから徳川に臣従したのか確定しにくいが(与力大名の立場から徐々にズブズブになっていったのだろう)
かなり初期から帝鑑間大名だったようで
相馬や戸沢のように殿中席の移動を伴う「御願い御譜代」ではなかったことは確か 定信の実子を迎えるまで老中が出てないのも不思議だな、真田さん
10万石では大きすぎたか 10万石級の帝鑑間譜代大名では美濃大垣の戸田家も老中就任がない
他には相模小田原の大久保は幕初から老中
備後福山や陸奥白河の両阿部や若狭小浜の酒井は老中の常連だが雁間から功績によって帝鑑間に移動してる
十五万石級だと播磨姫路の酒井くらいしかいないがこれは大老にもなる家 老中に就任するメリットって、大名個人の名誉欲を満たすだけ?
要路筋に貢ぎまくって老中を務めても大した加増もないみたいだし。
逆に水野忠邦のように内分の豊かな領地からそうでもない領地への転封とか。
財政的なメリットは、付け届けくらい?
家格も四位侍従になれるのは老中になった一代のみで、次代はまた五位の朝散太夫だし。 >>538
だって老中になれば、幕府政治を主導できるじゃん
野心ある政治家にとってはたまらないだろう 収入が同じなら楽な仕事のほうがいいよな
失敗すれば処分されるしさ 譜代大名の楽なお役目bPは、役料が石高の100%の大阪加番? >>538
一応老中や所司代の次代は60歳で四品に昇れる 仙石が帝鑑間席というのも奇妙だ。のちに柳間席に移動され、外様だと正式に扱われたわけだが 諏訪って地味に老中出してるんだな
松平定信の外孫だからという理由で 江戸時代の大名は養子だらけ
はじまりが外様の家でも
どんどん徳川や松平の血筋の養子に
置き換えられて行っている >>546
ミスリーディングな書き方だな
逆に奥平は島津の血統になってるが >>548
入り婿だろ
もともと奥平の男系は松平ではないし
女子に入り婿を繰り返している
昌高は先代の血を受け継ぐ正室に子がなかったため
結果的に別の血筋になってしまっただけで
本来は女系継承するはずだった >>547
地味にかの有名な上杉鷹山を輩出している。 上杉は譜代なのか?
としつこいageバカに聞いても無駄か スレの流れ → スレ違いもわからないバカ>>553 阿部一族は2系統で老中を出しまくってるが
優秀な血統だったのかな 竜田神社は、房丸所蔵の宝剣とされる名刀「竜田丸」を御神体として、寛文二年(1662)に建立されたと社伝がのこる。 岡崎譜代や浜松譜代ならぬ江戸譜代がいるとしたら、北条旧臣とかになるの?
中山信吉は水戸徳川家の付家老だから万石以上でも大名ではないね 井伊家の当主を大老にするかどうかは実質的にだれが決めてたの?
形式的には将軍さまでしょうが 家治危篤から松平定信政権掌握までは、江戸時代屈指の暗闘が繰り広げられた。
近従が主殿頭を刺し殺すべしとまで反感を抱いていることを、出羽守忠友から知らされた意次は、しばらく病と称して登城を控えていたが、
既に出羽守は民部卿に寝返っており、家治の下命として老中免官、58000石のうち、2万石を収公された。
また、民部卿は、御三家に対し、次期老中の推挙を働きかけたが、御三家からは、秋元摂津守永朝の名しか出てこなかった。
民部卿は、秋元では話にならぬとし、御三家の同意のもとに、松平越中守定信、酒井若狭守忠貫、戸田采女正氏教を推挙し、
あわせて、就任させてはならないものとして、阿部伊予守正右を挙げた。
ところが、出羽守忠友らは、定信らの老中就任を拒み、逆に、非推薦リストにあった阿部正右が老中にされてしまう。 >>562
もともとは将軍家光が任命した臨時職で
形式上は将軍が必要だと判断した際に置くものだった
ただし後のほうになると政務を取らない将軍も続いたしグダグダ
井伊直幸は田沼意次に賄賂を積んで大老になったと噂になってたし 譜代大名って、江戸での役職はどんなのがあったの?大名火消しとかもしてたの? 幕末の庄内藩のように、幕府から江戸市中警守を頼まれることがある。 江戸在府で、という意味かな
譜代大名の定義にもよるが
大老
老中・老中格
御側御用人
若年寄・若年寄格
御奏者番・寺社奉行
大御番頭(旗本役)
江戸在府に限らなければ
京都所司代
大坂御城代
大坂御定番
伏見奉行(旗本役)
幕初だと
大御留守居
幕末だと
学問所奉行
二条御定番
甲府御城代
山田奉行(旗本役)
山陵奉行
禁裏附頭取
京都見廻役
ちなみに無城がこれらの御役に就くと一代城主格とされる 駿府城代に大名が就いたのは幕初の2人くらい
長崎奉行も同様で1人くらいしかいない >>567
そうです。江戸在府で、という意味です。
譜代大名は火消しの職を仰せつかる所もあったのでしょうか? 大名火消は譜代に限らない
また大名火消は江戸城の門番と同じで役職扱いではない >>571
ということは、大名火消しをやりつつ、他の役職も兼ねなければならなかったって事ですか?
(つまり、大名火消しは江戸に参勤してきた 譜代を含むほとんどの大名がしなくてはならなくて
それをした上で、譜代は他の役職もしなければならなかったってこと?) >>572
役職者は当然免除
役に就いてない大名のノルマみたいなもので交代制
他に役職扱いでないものに大坂加番などがある >>573
交代制ってことは、江戸参勤中はずっとってことではなく、
例えば1ヶ月おきに当番になったりならなかったりとか、そういう感じ? >>574
そこまでいくとよく知らないが担当地域を他の家と10日ごとに交代とかそんな感じだったかな
門番だと二交代のようだがこちらは期間まではちょっとわからない
参覲交代のたびにコロコロ変わって門番役をやったり火消役をやったりという感じだろう
ただ門番役は家来がやればいいが火消役は大名本人が出張らなければならない
他に大名に対する課役には普請役(いわゆるお手伝い普請)、勅使などの饗応役などがある
これらは持ち出しで給料は出ない
大坂加番だけ例外で給料を貰える 譜代関係で、一番高位に昇ったのは何気に、榊原康政の甥の照久(従二位、久能山東照宮祭主)なんだよな。
水戸徳川家よりも上位とは、すごい。一代限りではあったけど。 非参議だから従四位下の参議より下座
もう少し官位について勉強しましょう 俺の大伯父は従三位を追贈されてたから
譜代大名以上クラスだったんだな。 >>578
官位の序列について勘違いして論じてメチャクチャになってる奴っているよな
質問サイトで「位階が序列を表すので従三位中納言より正三位参議の方が上ですキリッ」とか知ったかぶってるバカは可愛い方で
昔の論文見てたら豊臣政権〜江戸初期の武家の官位による序列とその変遷を論ずるのに位階の上下だけを問題にして揚げ句に公家成大名と諸大夫を区別せずに論じててぶったまげた 駿河忠長に付けられた朝倉って
もし独立してたら譜代大名扱いだったのか? 左近将監乗邑は1万石没収のうえ老中を免職になったが、子息和泉守乗祐は帝鑑間席筆頭にあげられた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています