江戸時代の譜代大名について語ろう
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>>484
元禄年間だと大名の妻が
怠け者が多いって、当時の
随筆にあるけど、不倫は
リスクが高すぎだろう。 真田は譜代の要素を十分に満たしてたと思うんだが
外様扱いにされたのは
信之を初代として徳川譜代の要素を満たす沼田系真田分家としてではなく
上田の本家の領地も丸々継承してる事からして
あくまで豊臣系かつ西軍だった真田本家の後継者として位置付けられたからなのかな?
それとも親父と弟がやらかした懲罰的な意味合いなのかな? 本多忠勝の娘を正室に迎えたが、一度家康の養女に直ってから嫁いだかそうでないかが切り分けになりそう。
家康の養女にはなっていないという説もある。 >>488
譜代大名をどう定義するかによるが
当時「御譜代大名」と呼ばれたのは帝鑑間席の大名のことで雁間詰や菊間櫞頰詰の者は除外される
真田は帝鑑間席なので正真正銘の御譜代大名 >>492
真田家は松平定信の子の幸貫の代になって
帝鑑間席に移った上で老中に就いたと言うのを読んだことがあるが
信之は上田と沼田を併せた真田家旧領+加増分をもって
上田藩を立ち上げたという事は
昌幸の嫡男として真田家を継承したとすれば
外様が妥当と言えば妥当なのかも
信之個人は譜代の要件を満たしてはいたが
関ヶ原の時点で実質的には分家独立していた一方で
形式上は昌幸の嫡男という曖昧な立ち位置だったのもあるのかと 武鑑を見ればわかると思うが真田家はその前から帝鑑間席
そもそも老中になると無席になるのだから老中になて帝鑑間席になるということはない
老中を辞めると元の帝鑑間や雁間に戻るように仰せ付けられる
これを勘違いしたのか幸貫が帝鑑間席となった旨の記述は見かけことがあるがその前はどの席だったのかについての記述はついぞ見たことがない
そもそも家門譜代外様の別は明治の学者が出自によって分類したもので「その限りでは」意味のあるものだが当時の実態等を反映させたものではない
例えば水戸徳川の分家である宍戸松平家はこの基準で見れば家門だが当時は帝鑑間席御譜代の列に入れると明言されている
認識の方便としての枠組みを基準にして他の問題にまで及ぼすのは一種の倒錯
言い換えれば「外様だから〜」「外様なのに〜」というのは馬鹿みたいだからやめときなさい 加えて豊臣大名としての真田家は北条征伐以前から徳川の与力大名という立場であり
それ故に信之が本多の息女を家康養女として縁組をしているのであって
幕初から譜代扱いとされてもさほど不審には当たらない 秀吉の指示で徳川与力ではあったが
豊臣政権下に於いては、徳川与力と言うより
独立大名として遇されてた感が強い
小松殿は昌幸が
「嫡男の嫁に陪臣の娘なんか貰えるか」
とゴネた結果、家康養女として嫁いだ説がある
秀吉の指示とはいえ
第一次上田合戦の結果からして
徳川与力に組み込む
組み込まれる謂れがない
からして、互いに与力と言うよりは
客分という認識だったんではないかと思われる
なので厳密には外様だけど
小松殿の存在や諸々の経緯から扱いは譜代
という感じなのでは? 徳川の養女を貰ったから譜代というのなら国持のほとんども譜代になると思うが 客分の使い方が間違っている気がするけど…
戦国時代における与力とは
戦時下に指揮命令下に入る事であって
平時は君臣の関係はなく、あくまで同格。
だからこそ、家康も忠勝の娘を養女とした上で
真田に嫁がせている。
だから真田は外様。
いつから譜代格になったのかは
ハッキリとはしないが、
幸弘の頃から実質譜代扱いとなり、
幸弘の養子で井伊家出身の幸専か
その養子で松平定信の子の幸貫の代になって
ようやく現状を追認してもらった
という感じだと思う。 寄騎はあくまでも寄親の部下であって主君の直臣としては同格というのは決まり文句のようなものだが(それはある意味で真実ではあるのだが)
実際には家臣団の身分秩序の中で同格というのはあり得ないことで
身分格差があるから寄親寄騎関係が成立するのだから
その同格という言葉に惑わされないようにするべき
徳川は井伊酒井榊原本多などを有力な独立軍団として育て上げる過程で多くの直臣をそれらの与力として附属させているが
幕藩体制が制度的に安定していく中で与力衆は完全に井伊らの家来、即ち徳川の陪臣として扱われるようになっており
与力衆による直臣復帰の試みは数々の運動や騒動(嘆願や出奔)にも拘わらずいずれも果たされず
公儀は「おまえらの主人は附属先の家」という態度を崩さなかった
例えば有名な長坂血槍九郎の本家なども結局本多の家来に成り下がっている(旗本の長坂家は分家)
徳川にとっての与力というのは容易に(ではないかも知れないが)家来に転換するようなものだったかも知れない それはあくまで徳川家中の問題
昌幸が家康の与力になったには、真田側から頼み込んだ話しではなく
あくまで秀吉の指示によるもの
家康と昌幸の間に緩やかでも主従の関係があったかなかったかと言えば
主従関係はなかったと見るのが妥当
主従の関係があったのであれば、家康の関東移封の際に
他の徳川家中と共に関東に移っているはずだが、それもない
それどころか、家康に関東移封の命を下した秀吉自身が
関八州の一部である沼田領を家康にではなく、改めて昌幸に与えている
つまり徳川与力になる事を命じた秀吉自身が明確に否定している
少なくとも昌幸自身は上田での戦に勝った自分が
何で徳川ごときに頭下げなきゃいけないんだというのは終生あったはずで
あったからこそ、関ヶ原での決断に繋がっている
家康の娘婿だった信之個人はともかく
真田家としては関ヶ原前に徳川家中に加わった事はなく
外様大名からスタートと見るのが自然だと思う 戦中ならともかく、秀吉が家康に真田を付けてやるメリットがない
家康は武田旧臣や北条旧臣を独自に取り込んでいる >>502
君は話を少し整理した方がいい
こちらは豊臣時代に徳川家康と真田昌幸の間に主従関係があったなどと言いたいわけではない(信之は主従に近いと見ていいと思うが)
従って強いて主従関係を否定するほどに論点がズレる
そもそも与力大名であることまで否定することは荒唐無稽
豊臣時代から幕初まで与力大名というのは地域ごとのまとまりで編成されているのだから
沼田という隣接地に所領を得たことこそがその証左となりうる(立場としては結城秀康と同じ)
それが何故「秀吉自身が明確に否定」したことになるのか理解に苦しむ
そもそもの論点は江戸期の徳川が真田をどのように見ていたか
幕初について言えば徳川が与力という立場をどのように見ておりそれがその後に真田の立場にどのように影響を与えたかというそれこそ徳川家中の問題以外の何物でもない
(信之に関して言えば家来同然に行動を共にしており主従と見られて差し支えないはず)
繰り返すが「譜代だから」(又は「外様なのに」)帝鑑間に班しているという認識は倒錯であって
逆に帝鑑間席だから「御譜代大名」と呼ばれると考えるべきもの
そしてそれは徳川がそれら大名をどのように見ていたかの問題 寛政譜を見返してみたが真田歴代の記事で席についての記述はほとんどなかった
尤も寛政譜の通例として収録されているうちの最後の当主の記事にはその家の領知・居城・伺候席などについての記述が含まれるが
真田家の場合はそれが幸専でそこには「代々帝鑑間に候す」と記されている
真田が帝鑑間に移動したというのなら移動前の席もわかる筈だが管見の限りではそういう記述を目にしたことがない
柳間なのか?雁間なのか?
(信之の時代から帝鑑間という記述を見たことはあるがこれはちょっと真偽不明)
>>500の言う「実質譜代扱いとな」ったり「現状を追認してもらった」ということがどこから推論できるのか教えてほしい 堀田備中、松平伊賀に代わり、太田備後守、間部下総守、松平和泉守を、新たなる老中に迎えた。 堀田正盛は家光に殉死、長男正信は鋏で喉を突いて自殺、三男正俊は城の中で又従兄弟に殺害される
因みに肥後藩細川宗孝を城の中で殺害した旗本板倉勝該には堀田正信の血が流れているだと。 文政期に越前松平斉善が彦根との交代転封を画策した話と、慶応期に、井伊家の駿府転封計画があがっていた話は興味深い 1623年(元和8年)の東国の一斉転封は、譜代大名中心の、かつ秀忠期としては大規模で注目に値する。
最上家57万石除封にともない、鳥居忠政、酒井忠勝、戸沢政盛、松平重忠、六郷政乗、内藤政親、真田信之、仙石忠政を移転さすものだったからである 酒井忠勝という同姓同名が同時代にいたのも不思議だな 大名家とか大身旗本家の正室の名前に
「の方」と付けるのは、
側室っぽいから不適当? 方ってまさに「〜の方(ほう)にお住まいの人」って語源じゃないの?
別に属性を表しているわけじゃない
貴人を直接固有名詞で呼ばずに居住地で呼ぶのは武士以前からあるし
ただ慣例として北の方に御台所が多く済む住居形態が多くなったから
そうなっていったという気がする素人 サンクス。
側室がいない家なら
あながち不自然ではない? 維持費がバカにならないとは思うが、高取の植村って譜代大名、2万500石にしては立派な近世城郭もってたんだな
のち、嫡男が遊女と相対死にしてしまい、隠して家督をついだのが庶子の植村家長。4500石加増 高禄旗本の奥向きの方が
譜代大名の奥向きよりも贅沢なんだろうか。 井伊直弼は桜田門外の変のあと幕府に隠され、胴体と首は水戸藩の医師によって縫い合わされた 水戸浪人は首を抱えて若年寄遠藤但馬の邸に自首、
井伊家が、首を返してくださいととりにきたけど、遠藤は遠藤で、幕府の許可がおりないから待ってくれの一点張りで、
胴体は雪道に放置だから見た人の口伝てで死んだことはバレバレ。
しかしながら公方からは医者の派遣と朝鮮人参の恩賜、
水戸藩家老は身のすくむ思いで彦根藩邸に見舞いに訪問 江戸時代、特に幕末はカオスだったな。
ちょんまげかと思えばヒゲはやしてハットかぶってた人がいた。 譜代大名の正室を暗殺とか、
町方の人間には至難の業? 池波正太郎先生の
忘れ形見、うめやす君も
大身旗本奥方の暗殺に
悩んでいたな
遊び好きの奥方なら
仕留めやすいかも >>519
会津藩主松平容保が大老襲撃は水戸脱藩浪人の個人的責任であり、
水戸藩及び藩主に罪なしと主張して、水戸征伐の声が上がっていた幕閣をなだめた
おかげで桜田門外の変を引き金とする内戦の発生を防げた 調停したのは安藤信正でしょ
その頃の松平容保にそんな政治力はとても無い 寧ろ安藤・久世あたりは他の御三家と雄藩使って抑えるつもりだったと
そこに否と答えて当初は無視されたが後日将軍に呼ばれて話を聞き対処した・・・と
「元会津家臣」の話ではそうなってるw 老中を出した真田とか
将軍の子や一橋家の子がが継いだ蜂須賀とか黒田は外様なのか? 名君、名政治家を多数輩出した岸和田藩。今は学力も所得も低いヤンキーの町。殿様たちが泣いている。 同時代で「御譜代大名」と呼ばれていたのは帝鑑間席の大名のこと
黒書院溜間詰なら「溜詰」、雁間詰なら「詰衆」、菊間櫞頰詰なら「詰衆並」と呼ばれて区別される
真田家はほぼ幕初から一貫して帝鑑間席だから正真正銘の「御譜代大名」
大広間席の蜂須賀や黒田は当然「御譜代大名」ではない
(但し本来大広間席の大名でも越前、薩摩、因幡、阿波、津山、前橋、明石などは公儀との縁組によって幕末までには大廊下席に移動している) >>528
真田は松平定信の長男が養子に来て老中になった
実父が老中首座を勤めた松平定信ということで席も譜代席が与えられていた メクラにレスしてもあなたのレスを読んでもらえないので無意味 寛政譜にも真田は「代々帝鑑間に候し云々」と書かれてるからね 譜代とか外様とかは明治時代の学者が適当に分類したのを踏襲してるだけだからな
真田がいつから徳川に臣従したのか確定しにくいが(与力大名の立場から徐々にズブズブになっていったのだろう)
かなり初期から帝鑑間大名だったようで
相馬や戸沢のように殿中席の移動を伴う「御願い御譜代」ではなかったことは確か 定信の実子を迎えるまで老中が出てないのも不思議だな、真田さん
10万石では大きすぎたか 10万石級の帝鑑間譜代大名では美濃大垣の戸田家も老中就任がない
他には相模小田原の大久保は幕初から老中
備後福山や陸奥白河の両阿部や若狭小浜の酒井は老中の常連だが雁間から功績によって帝鑑間に移動してる
十五万石級だと播磨姫路の酒井くらいしかいないがこれは大老にもなる家 老中に就任するメリットって、大名個人の名誉欲を満たすだけ?
要路筋に貢ぎまくって老中を務めても大した加増もないみたいだし。
逆に水野忠邦のように内分の豊かな領地からそうでもない領地への転封とか。
財政的なメリットは、付け届けくらい?
家格も四位侍従になれるのは老中になった一代のみで、次代はまた五位の朝散太夫だし。 >>538
だって老中になれば、幕府政治を主導できるじゃん
野心ある政治家にとってはたまらないだろう 収入が同じなら楽な仕事のほうがいいよな
失敗すれば処分されるしさ 譜代大名の楽なお役目bPは、役料が石高の100%の大阪加番? >>538
一応老中や所司代の次代は60歳で四品に昇れる 仙石が帝鑑間席というのも奇妙だ。のちに柳間席に移動され、外様だと正式に扱われたわけだが 諏訪って地味に老中出してるんだな
松平定信の外孫だからという理由で 江戸時代の大名は養子だらけ
はじまりが外様の家でも
どんどん徳川や松平の血筋の養子に
置き換えられて行っている >>546
ミスリーディングな書き方だな
逆に奥平は島津の血統になってるが >>548
入り婿だろ
もともと奥平の男系は松平ではないし
女子に入り婿を繰り返している
昌高は先代の血を受け継ぐ正室に子がなかったため
結果的に別の血筋になってしまっただけで
本来は女系継承するはずだった >>547
地味にかの有名な上杉鷹山を輩出している。 上杉は譜代なのか?
としつこいageバカに聞いても無駄か スレの流れ → スレ違いもわからないバカ>>553 阿部一族は2系統で老中を出しまくってるが
優秀な血統だったのかな 竜田神社は、房丸所蔵の宝剣とされる名刀「竜田丸」を御神体として、寛文二年(1662)に建立されたと社伝がのこる。 岡崎譜代や浜松譜代ならぬ江戸譜代がいるとしたら、北条旧臣とかになるの?
中山信吉は水戸徳川家の付家老だから万石以上でも大名ではないね 井伊家の当主を大老にするかどうかは実質的にだれが決めてたの?
形式的には将軍さまでしょうが 家治危篤から松平定信政権掌握までは、江戸時代屈指の暗闘が繰り広げられた。
近従が主殿頭を刺し殺すべしとまで反感を抱いていることを、出羽守忠友から知らされた意次は、しばらく病と称して登城を控えていたが、
既に出羽守は民部卿に寝返っており、家治の下命として老中免官、58000石のうち、2万石を収公された。
また、民部卿は、御三家に対し、次期老中の推挙を働きかけたが、御三家からは、秋元摂津守永朝の名しか出てこなかった。
民部卿は、秋元では話にならぬとし、御三家の同意のもとに、松平越中守定信、酒井若狭守忠貫、戸田采女正氏教を推挙し、
あわせて、就任させてはならないものとして、阿部伊予守正右を挙げた。
ところが、出羽守忠友らは、定信らの老中就任を拒み、逆に、非推薦リストにあった阿部正右が老中にされてしまう。 >>562
もともとは将軍家光が任命した臨時職で
形式上は将軍が必要だと判断した際に置くものだった
ただし後のほうになると政務を取らない将軍も続いたしグダグダ
井伊直幸は田沼意次に賄賂を積んで大老になったと噂になってたし 譜代大名って、江戸での役職はどんなのがあったの?大名火消しとかもしてたの? 幕末の庄内藩のように、幕府から江戸市中警守を頼まれることがある。 江戸在府で、という意味かな
譜代大名の定義にもよるが
大老
老中・老中格
御側御用人
若年寄・若年寄格
御奏者番・寺社奉行
大御番頭(旗本役)
江戸在府に限らなければ
京都所司代
大坂御城代
大坂御定番
伏見奉行(旗本役)
幕初だと
大御留守居
幕末だと
学問所奉行
二条御定番
甲府御城代
山田奉行(旗本役)
山陵奉行
禁裏附頭取
京都見廻役
ちなみに無城がこれらの御役に就くと一代城主格とされる 駿府城代に大名が就いたのは幕初の2人くらい
長崎奉行も同様で1人くらいしかいない >>567
そうです。江戸在府で、という意味です。
譜代大名は火消しの職を仰せつかる所もあったのでしょうか? 大名火消は譜代に限らない
また大名火消は江戸城の門番と同じで役職扱いではない >>571
ということは、大名火消しをやりつつ、他の役職も兼ねなければならなかったって事ですか?
(つまり、大名火消しは江戸に参勤してきた 譜代を含むほとんどの大名がしなくてはならなくて
それをした上で、譜代は他の役職もしなければならなかったってこと?) >>572
役職者は当然免除
役に就いてない大名のノルマみたいなもので交代制
他に役職扱いでないものに大坂加番などがある >>573
交代制ってことは、江戸参勤中はずっとってことではなく、
例えば1ヶ月おきに当番になったりならなかったりとか、そういう感じ? >>574
そこまでいくとよく知らないが担当地域を他の家と10日ごとに交代とかそんな感じだったかな
門番だと二交代のようだがこちらは期間まではちょっとわからない
参覲交代のたびにコロコロ変わって門番役をやったり火消役をやったりという感じだろう
ただ門番役は家来がやればいいが火消役は大名本人が出張らなければならない
他に大名に対する課役には普請役(いわゆるお手伝い普請)、勅使などの饗応役などがある
これらは持ち出しで給料は出ない
大坂加番だけ例外で給料を貰える 譜代関係で、一番高位に昇ったのは何気に、榊原康政の甥の照久(従二位、久能山東照宮祭主)なんだよな。
水戸徳川家よりも上位とは、すごい。一代限りではあったけど。 非参議だから従四位下の参議より下座
もう少し官位について勉強しましょう 俺の大伯父は従三位を追贈されてたから
譜代大名以上クラスだったんだな。 >>578
官位の序列について勘違いして論じてメチャクチャになってる奴っているよな
質問サイトで「位階が序列を表すので従三位中納言より正三位参議の方が上ですキリッ」とか知ったかぶってるバカは可愛い方で
昔の論文見てたら豊臣政権〜江戸初期の武家の官位による序列とその変遷を論ずるのに位階の上下だけを問題にして揚げ句に公家成大名と諸大夫を区別せずに論じててぶったまげた 駿河忠長に付けられた朝倉って
もし独立してたら譜代大名扱いだったのか? 左近将監乗邑は1万石没収のうえ老中を免職になったが、子息和泉守乗祐は帝鑑間席筆頭にあげられた >>582
西尾の大給松平家は尼崎の桜井松平家と共に代々帝鑑間取締
一万石没収も在職中の加増分を削られただけで家格に変更がなかったということでしかない
尚帝鑑間取締は同席の諸大夫の取締であり四品以上には監督権が及ばない
また両家の当主が四品以上の場合はその嫡子が取締になる 昨日観た水戸黄門の映画で
何か凄い人出てるなと思ったら三船敏郎だった >>584
そもそも質問サイトは質問する方も回答する方も馬鹿 安倍晋三は李氏朝鮮の王族の3世であることが明らかになっています。
安倍晋三は李氏朝鮮最後の皇太子で李垠の第一子
李晋の3世。李晋の晋と三世の三から、おそらく晋三とつけたのですね。
そして北朝鮮拉致被害者家族の横田早紀江は、安倍晋三の叔母で
あることが発覚しました。
横田めぐみは、金正恩の母親であり、安倍晋三の従妹でした。
以下のブログを読めば、
世の中がどれほどの嘘と悪で満ち溢れているか
そして我々が悪人のカモにずっとされてきた事に
気づくでしょう。
Kawataのブログ検索
http://kawata2018.com/
【北朝鮮拉致問題は嘘だった!!】横田早紀江と拉致被害者家族のドス黒い闇
http://kawata2018.com/2019-11-09/
RAPTブログ検索
http://rapt-neo.com/?page_id=21576 稲葉家も堀田家も本来は外様なのに、春日局の親戚だから譜代扱いとなったチーター譜代 >>538
でも老中や奉行って現代の労働法だと一発アウトの超激務だったらしいな。
とても材木商と吉原で黄金餅貰って遊ぶ余裕は無くて仕事仕事仕事…ちょっと休み!みたいなもんだったとか。
でもみんなやりたがるわけで、デキる男のポジションだったんだろうな。 最後の大老、姫路酒井の末裔は生活保護まで受けるに至る 世良田次郎三郎は願人坊主の江川徳阿弥だろ
三河に流れてきて土豪の賀茂松平を乗っ取った >>595
今の日本の税制って稼ぐ能力がないアホが2代続くと
どんな名族富豪でも一般人以下になるようできているからな 安倍のじいさん「おいは熊毛の田布施からきた朝鮮人たい」 井伊直弼を大老に起用したのは、形式的には将軍だが、実質は、南紀派、その主たる構成は、大奥、松平忠固、水野忠央、薬師寺元真
水野は、妹が家慶の側室だったのでそのつてを利用した 安城松平の通字が忠だからだろ
親忠、長忠、信忠、広忠、秀忠 藩主鳥居忠政は左京亮を名乗ったが、一度藩がつぶれて名跡復活されてからは左京亮を官名に名乗っている人物は見当たらない。 外様大名についてですが、
福岡藩は当初52万石で、支藩分を差し引いて表高47万石扱い
熊本藩は当初54万石で、支藩分を差し引かず表高54万石扱いだったのはなぜですか?
(新田藩ではなく、支藩分を差し引くor差し引かないの違い) 本藩から分知される場合と幕府から新規に与えられる場合がある >>611
それなら福岡藩の表高が
外様 52万3千余石→43万3千余石(秋月藩・直方藩へ分地)→47万3千余石(直方藩廃藩につき還付)
っていうのはおかしいでしょ。 あくまでも一般論であるが、独立性の強い順でいうと以下のようになる。
本藩と支藩それぞれに対し、別々に朱印状が発給される場合(宇和島藩や讃岐高松藩の例)
本藩宛ての朱印状に支藩が併記される形式であって、本藩分の石高と支藩分の石高が別建てで記載されている場合(「本藩○○石、支藩○○石」…この場合、本藩知行(朱印高)は本来領知を認められて朱印状に記載された分(拝領高)から支藩分(内分高)だけ減少する)
本藩宛ての朱印状に支藩が併記される形式であって、本藩分の石高に含まれる形で支藩分の石高が記載されている場合(「本藩○○石そのうち支藩○○石」…この場合、本藩知行は実質では支藩分だけ減少するものの、朱印高は維持された)
本藩宛ての朱印状に支藩が併記されず、支藩宛ての朱印状も発給されない場合(○○新田藩に多い…新田開発分は幕府が検地などで公認したものでないため拝領高とは看做されなかったため) 萩(長州)藩は支藩の石高を含む
これは桃山時代からの踏襲
毛利112万石には秀元の山口12万石も広家の富田14万石も
隆景の三原5万石も含む
筑前の秀秋と伊予の安国寺は別家の扱いで石高は別 毛利家から譜代秋元家に養子が入ったり、島津や藤堂から御家門伊予松平家に養子が入ったりなど、色々あって興味深い >>613-614
遅くなりましたが、ご教示いただき誠にありがとうございました。
>>615
以前は毛利家120万5千石(上杉家120万石より5千石多い)との記載が多かったように思いますが、
最近112万石に修正されているのはなにか解釈が変わったのでしょうか?
当時も毛利家は第3位に転落したという認識だったのでしょうか。 江戸時代に幕府から大名に何か動物贈った逸話があったと思うんだが何だったっけ?
確か世話が大変な割に役には立たなくて、幕府から贈られたものだから死なすわけにはいかず…って大名の負担になったものだったはずなんだが >>615
毛利公爵家に現存の秀吉から輝元宛の朱印状があり
同様に前田家に残る江戸幕府からの朱印状も119万石と記される
(教科書などに書かれてる前田利長・利常の石高を120万石というのは四捨五入すれば間違いとは言い切れない)
また土佐藩も俗に言われてる24万石は誤りとされる
山内家に現存する朱印状は20万石余で
24万石を認めた公式文書はない 毛利公爵家に現存の秀吉から輝元宛の朱印状があり
「百拾弐萬石」となっている。 >>620 >>622
ありがとうございました。
Wiki には毛利輝元への在京領 8万3千石との記述があるようですが、
これは含まれているのでしょうか?
上杉家の石高に関してはWikiでは、朱印状は発行されておらず通説としてとあるようですね。
しかし、転封前が
>越後、佐渡二国に信濃川中島四郡、出羽庄内三郡、併せて91万石余の支配領域が確定した。
>この他に上方に台所入(軍役外)の在京領(10万石[11]余)があった。
が事実であれば、101万石→120万石は妥当に思えます。 そんなに細かく知りたいなら
Wikiなんか見てないで自分で根拠資料あたりなよ
「Wikiでは」で草生えた 萩や米沢や金沢の図書館や歴史民俗資料館などで充分だよ
現物は国宝とかで閲覧できないけど
写しなら旧城下町なら大抵は藩の文書がどの市にある
譜代(親藩だけど幕末には譜代みたいに活動)大名だと
福井の越前松平なんか
「結城秀康様の知行宛状には75万石と書いてるが
松平忠直公の朱印状には67万石になってる
残りの8万石はいったい何処にいったのだろう?」
などと役人(減封され32万石になった福井侍従の頃)が不思議がって藩の記録に書いてある部分があったりする。
(下総の結城および結城の家督を結城家に譲り松平に改姓したときの件) 譜代大名は要地に置かれ、外様大名の謀反に備えられたが、機能したのは庄内の酒井くらいか?小倉は丸焼けになって逃げてしまったし、浜田も磐城平も白河も、落城。
加賀の前田を牽制するつもりで福井と高田に家康の公子を配したが、先に自滅してしまっている >>624
なにも情報を書くことすらなく汚い言葉しか書けないお前が一番不要 譜代大名の筆頭格は近江井伊家として、トップ10は皆さんどのようにお考えですか? 同時代的に譜代大名というのは帝鑑間席の大名のこと
柳沢は帝鑑間席 譜代大名 井伊家35万石 姫路酒井家15万石 庄内酒井家14万石 榊原家15万石 柳沢家15万石、小笠原家15万石、福山阿部家11万石 堀田家11万石 白河阿部家10万石、土屋家9万石 など
本多家は5万石、鳥居家は3万石にまで落ちてしまっている 井伊は35万石で城主なのに
柳沢は15万石で国もちとかいちびりくさって 両阿部家や堀田など老中や所司代に仰せ付けられることでやっと侍從となる家に比して
家格として侍從以上に昇進する家が優格であることは論ずるまでもない
領知 高 名前 極官 歷代官位敍任
◆定溜
@近江國彦根 高三十五萬石 井伊掃部頭 正四位上中將 侍從16少將13中將9
※陸奧國會津 高二十八萬石 松平(保科)肥後守 正四位下中將 侍從13少將7中將5
※讚岐國高松 高十二萬石 松平讚岐守 從四位上中將 侍從13少將10中將6
◆飛溜
A播磨國姫路 高十五萬石 酒井雅樂頭 從四位下少將 侍從13少將7
B伊豫國松山 高十五萬石 松平(久松)隱岐守 從四位下少將 侍從9少將5
C伊勢國桑名 高十一萬石 松平(久松)越中守 從四位下少將 侍從5少將4中將1
D武藏國忍 高十萬石 松平(奧平)下總守 從四位下少將 侍從11少將3
◆その他の御譜代侍從の家等
E豐前國小倉 高十五萬石 小笠原右近將監 從四位下侍從 侍從8少將1
F越後國高田 高十五萬石 榊原式部大輔 從四位下侍從 侍從6
G出羽國庄内 高十七萬石格 酒井左衞門尉 從四位下侍從 侍從5少將1
H大和國郡山 高十五萬千二百石餘 松平(柳澤)甲斐守 從四位下侍從 侍從4少將1
I豐前國中津 高十萬石 奧平大膳大夫 從四位下 侍從1
奧平大膳大夫は侍從に昇進した例が少ないが家格として四品に昇進する家と見なせるので侍從以上に昇進する家に准ずる 大老の堀田正俊は瀕死の重傷を負い、普通なら城内で治療すべきなのに、あの体で屋敷に帰したと。しかも不浄門から出したという。ひどい 何が「ひどい」んだか
記録では医師による治療は行ったとある
むしろこのパターンは既に殿中で絶命していて
体裁を取り繕う為に屋敷で死んだことにしたものだろう
後年細川家当主が殺害されたときと同じ 松平定信の子が外様の真田家を継いだ経緯を教えてください まずスレを読み返して真田が外様であるという前提から考え直した方がいい あきらかに外様じゃん
10万石もある、幕閣も輩出してない 10万石級の譜代も幕閣を輩出していない譜代も珍しくはないし真田は老中を輩出している
学界では今や江戸幕府制度の実態に無知な明治期の学者の恣意的な分類を使い続ける馬鹿丸出しなことはやめましょうという流れになっている
少しは勉強しようよ >>272
こう見ると幕末は幕府vs親藩のお家騒動なんだなと思う 雁間は新興譜代の着席となり、秋元但馬守、板倉周防守、阿部豊後守、阿部伊勢守、堀田備中守、安藤対馬守、久世大和守、松平伊豆守、松平伯耆守、松平右京亮、土屋相模守、水野越前守、三浦志摩守、太田備後守、牧野越中守、間部下総守 坂下門外の変での逃亡を糾弾され、安藤対馬守信睦は失脚 >>652
そう尊皇だの攘夷は建前。本音は内紛に過ぎない しかも孝明天皇は長州嫌いの鎖国主義者で幕府より幕府的だとういう 天皇を過剰に崇拝してる奴等ほど天皇とは真逆の主張をするというのは今も昔も変わらないんだなw
昭和天皇も対米開戦には乗り気じゃなかったみたいだが強引に押し切られた 1944年末には敗色濃厚で翌45年2月には近衛の降伏上奏文が出されたが、昭和天皇の判断で戦争継続することになった。
もしこの時に降伏していたら、ソ連参戦はなく南樺太も千島列島も失うことは無かったろう。
敗戦が不可避となっても天皇は降伏を引き延ばし、自らの延命のためだけに多くの人々を死に追いやった。45年2月には元首相・近衛文麿が天皇への上奏文で「敗戦はもはや必至」と述べ、「国体護持」すなわち天皇・皇室の維持のためには今すぐ連合国に降伏するのが得策だと提言した。ところが天皇は、「(国体護持のためには)もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しい」とこれを却下し、さらに半年も戦争を継続した。この天皇の悪あがきのために沖縄は「捨て石」にされ、日本中が空襲で焼け野原にされ、膨大な数の兵士や一般市民が命を落とし、ついには広島・長崎への原爆投下にまで至った。 太平洋戦争の敗戦から少し経った後、昭和天皇がマッカーサー司令官の執務室を訪ねた。マッカーサーは、たばこを勧めた。天皇の手は震えていた。「真珠湾攻撃は、東條が私をだましてやったこと」と言った。天皇の主張を、マッカーサーは受け入れた。日本の統治に天皇の協力が必要だったからだ。戦犯の「線引き」が始まった。国民をだまして日本を戦争に追いやった指導者だけを断罪することになった。もちろん、頂点には天皇がいた。しかし「東條にだまされた」という一言で、天皇は「だまされた者」に化けた。歴史的な喜劇だ。
処刑されるのを恐れ、国民統合の象徴として恥ずかしい保身に走ってしまった。
あれでは国のため、陛下のために命を犠牲にした英霊たちが浮かばれない。
国家元首として戦争責任をとるために、潔く退位すべきだった。
結果的に戦争責任を曖昧にするために「一億総懺悔」なる言葉が生まれた。何で戦争の犠牲になった国民が懺悔するんだよって話し。 戦争を煽りまくった朝日新聞は戦争責任取ったのか?
沖縄のサンゴを傷つけた朝日新聞は戦争責任取ったのか? >>657-658
孝明天皇は暗殺された説もあるからな
薩長が天皇崇拝なんて嘘にすぎないかもしれない 実は自己保身のために天皇を利用してるに過ぎない天皇原理主義者にはろくなやつがいねえ 日本を開国させた老中 松平忠優(1812〜1859)は、寺社奉行時代に鳥居甲斐の陰謀により、一時失脚したが、水野、鳥居の失脚後は、寺社奉行に再任し、
更に、大坂城代をへて、老中に昇格
阿部伊勢や堀田備中を >>655
田沼みたいに他の親藩の家老格の譜代大名登用はもっとあっても良かったのかなと思う
紀州が好き勝手やりまくって尾張水戸福井の不満が爆発した 溜之間
井伊掃部頭、松平肥後守、松平讃岐守、松平伊予守、松平下総守、酒井雅楽頭、
溜之間格
本多中務大輔、榊原式部大輔、小笠原大膳大夫
帝鑑間
松平和泉守、松平主殿頭、松平豊前守、松平日向守、 松平周防守、松平能登守、松平信濃守、本多伊勢守松平越中守
酒井修理大夫、有馬遠江守、脇坂重蔵、秋田山城守、相馬長門守、鳥居丹波守、大久保加賀守、牧野備前守諏訪安芸守
大久保山城守、松平伊賀守、堀田豊前守、堀田相模守、阿部伊予守、戸田日向守、戸田采女正、松平権八郎、松平十郎、松平甲斐守
雁之間
秋元但馬守、水野和泉守、井上河内守、太田摂津守、阿部播磨守、久世長門守、安藤対馬守、板倉内膳正、板倉阿波守、板倉佐渡守、牧野備後守、三浦志摩守、松平右京亮、松平伊豆守、松平伯耆守、 >>669
正確には「溜詰格(たまりづめかく)」であって「溜之間格」とは言わない。
中堅以下で無役の大名の場合、殿中席の呼称が肩書となるが、この辺りを間違える人がいるので以下に詳述しておく。
特に「席」と「詰」を混同する人が多いが、「席」と称するのは表大名で「詰」と称するのは半役人のような立場(前者が候する部屋を控之間、後者が候する部屋を詰之間と呼び分けることも)。
大廊下席(おおろうかせき) ×大廊下詰
大広間席の上位互換。御三家、加賀、吉井の席。
後に将軍家との縁組で親戚となった越前、津山、因幡、阿波、前橋、明石などの諸家が加わった。
嫡子も同席。官位は最高で従一位大納言、最低で吉井の嫡子の四品。
溜詰(たまりづめ) ×溜之間詰・溜之間席
帝鑑間席の上位互換。公方様の顧問の立場であり、地位は老中より高く、老中を監督する役割がある。溜詰は必ず侍従以上で、溜詰格は侍従又は四品。
代々溜詰(部屋住嫡子でも初官侍従の為)となる彦根、会津、高松が定溜(じょうだまり)。
諸大夫まで帝鑑間席、四品昇進で溜詰格、侍従昇進で溜詰となる姫路、松山、忍、桑名が飛溜(とびだまり)と呼ばれる。官位によって席が違うので父子で席が別になることが多い。
余談だが溜詰の松平越中守定敬が所司代になったときは溜詰の方が所司代より上なので所司代が兼官のような形で発令されている。
その他老中・所司代の前官礼遇や御譜代大名中の門閥から名誉職として溜詰格(官位は侍従)となることがある。
大広間席(おおびろませき) ×大広間詰
大廊下席の下位互換、柳間席の完全上位互換、四品以上の一門・外様(御三家の厄介・連枝、越前家一統、国持大名など)。
諸大夫から四品に昇進する家では諸大夫のうちは柳間席で四品昇進で大広間席に異動となるので父子で席が別になる場合がある。 帝鑑間席(ていかんのませき)=御譜代大名 ×帝鑑間詰
御譜代大名という称呼は本来帝鑑間席に候する大名を言う。
御三家の厄介や連枝でも末子は帝鑑間御譜代大名。
官位は少将もいれば諸大夫もいる。城主も無城も交代寄合の一部もいる。父子同席。
柳間席(やなぎのませき)=中大名 ×柳間詰
大広間席の完全下位互換。五位の外様大名。交代寄合、表高家、寄合などの席でもある。基本的に父子同席だが四品に昇進すると大広間に異動となる。城主も無城もいる。
雁間詰(がんのまづめ)=詰衆 ×雁間席
雁間には高家と詰衆が詰める。高家が(隠居しないまでも)役から引退すると雁間末席という前官礼遇の立場になる。
大名としては概ね帝鑑間席の下位互換。菊間櫞頰詰の完全上位互換。城主・城主格のみ。たまに四品や侍従がいるが概ね諸大夫。
嫡子は菊間(三番頭の席)に席がある。
菊間櫞頰詰(きくのまえんがわづめ)=詰衆並 ×菊間詰・菊間席・菊間櫞頰席
菊間とは別の隣の付属の部屋なので呼称の混同は避けたい。櫞頰が菊間の付属だからといって菊間席>菊間櫞頰詰というわけではない。
「櫞頰」が読めずに漢和辞典で調べて「えんきょう」などと誤読してしまう人が多い。「広縁」という言い方もあるが、部屋の呼称としてはアリだが肩書としては使われない。
雁間詰の完全下位互換。無城のみ。諸大夫のみ。父子同席。
若年寄・奏者番などの役職者は一代に限り城主格となるので役職を辞した後は雁間詰衆となる。旗本の御側衆(就中、御用御取次)が役を辞すると前官礼遇として菊間櫞頰詰となる。
※菊間(きくのま)
詰衆の嫡子と番頭の席(他の番方役職も菊間のその他の付属部屋に候する物が多い)。ただし肩書は「何之誰嫡子〜」や「大御番頭〜」などとなるので「菊間席」「菊間詰」の類いは肩書として使われない。 溜間詰とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E6%BA%9C%E9%96%93%E8%A9%B0-2060602
>「溜間詰(タマリノマヅメ)略して溜詰と称するは、〈略〉政治に参与する最高機関である」
これ間違ってんのか? ソース云々なら江戸時代の出すだろ
国語辞典といっても担当者はその道の専門家を呼ぶだろうから
食い違ってんのはどういうことだってこと 寛政譜や徳川実紀のような幕府公式編纂物では「溜詰」としか出てこないな >>672を見ると典拠は1923年の歴史読み物として著名な「江戸から東京へ」
そもそも国語辞典の編纂は言葉の専門家ではあるが歴史の専門家ではない
大正当時の言葉の用例の収集としては意味があるがそれを江戸時代の歴史上の用語法と同一視または比較するのは馬鹿げている 大老家という言葉で何を意味しているつもりなんだろう
土井は無嗣絶家して後に再興するが明らかに家格は低下して大老の輩出など望むべくもないし
堀田も大老輩出は一人だけで官位・家格としては並みの十万石級大名と変わらない
いずれも彦根井伊や姫路酒井とは明らかに格差がある
俗に「大老四家」などとも言うがこの語を用いたところで何ら学問的認識に寄与しない
いい加減にこうした旧時代の粗雑な認識枠組みから脱してもらいたいものだ 仙台伊達家の内分大名の一ノ関田村家も帝鑑間だっけ? 溜詰の中でも常溜の彦根、会津、高松三家は別格意識がつよく、忍藩松平忠国のミスを糾弾し、姫路藩酒井忠宝の昇格を妨害した やっぱり井伊家は徳川の側近中の側近感はあるな
他の譜代格とは明らかに別格
関ヶ原以前は小大名で格下感のある姫路酒井家を煙たがるのはわからなくもない 酒井家は家康の父の代から松平家に仕え
酒井忠次は家康の叔母と結婚し家康の筆頭家老を勤めた
井伊家こそ譜代の中では家康に仕えだした時期が相当遅い
井伊直政は新参者と馬鹿にされたため武功を挙げて家康に報いるしかなかった だから関ヶ原で無理をして島津に銃撃されて早死にしたし、直政付の配下らの中には、直政が厳しすぎるから直参に戻してくれと願う人がいた >>685
酒井が家康の父の代からとか
よりによって譜代スレでこんな低レベルな事実誤認を目にするとは >>686
戦だけじゃなく政治面でも相当頑張ってたもんな
岡崎譜代は井伊以外でも歴史上で名前出てくるイメージ 井伊家に附属された者が直参への復帰を望んだのは第一に陪臣の身分が嫌だったからだよ
御三家などの附属でも同様の騒動が起きている 御三家の附家老なんて、譜代大名と遜色ない禄と功績持ってるのに、たまたま御守役なんてやったがために陪臣扱いだからね。
そりゃ揉めるわとしか。 >>690
江戸定府の水戸はともかく、尾張と紀州は附家老が居なかったら改易もあり得たと思う。 田沼意次とか渡辺吉綱が旗本から大名になってるしな、附家老衆が不満を持つのは分かる 大岡なんて二家も大名になってる
ある意味すげーよな 岩槻は江戸に一番近いんじゃないかな。参勤交代はラクかも >>698
川越と岩槻が一番近い城だね
泊まり無しで江戸に行ける
なんとか1日で行けるのは、あとは関宿、忍、佐倉、小田原かな 大名になった安藤は紀伊附の安藤帯刀家の分家
大名になった渡辺は尾張附の渡辺半蔵家の分家 ちょっと待てよ
個人の才覚で大名になれるなんて夢があるだろ
門閥ですべての地位が決まることの方が不平等だろうが >>701
大岡忠光、田沼意次なんて個人の才覚で大名(城主)になった典型だね 本人の実力やタイミングもあるんだろうけど微禄の旗本とか新参の御三家陪臣なんかは出世しやすかったんだろうな
地域的なものかもしれんけど武田や今川の家臣出身者が多いな 小姓上がりでもない大岡忠相はすごいな
やはり新田開発の功なのだろうか 旧事諮問録だったかで「公方様は一代に一人ずつ万石以上を拵える」みたいな記述があったのを思い出したので調べてみた(徳川一門を除く)
吉宗
ェ延元年 大岡越前守忠相
家督寄合千九百二十石→御書院番→御徒頭→御使番→御目付→山田奉行→御普請奉行→町奉行→三千九百二十石→寺社奉行五千九百二十石(+足高四千八十石)→ェ延元年三河國西大平一萬石
家重
寶曆元年 大岡出雲守忠光
御小姓三百俵→八百石→御側衆二千石→五千石→上總國勝浦一萬石→若年寄一萬五千石→御側御用人武藏國岩槻二萬石
寶曆八年 田沼主殿頭意次
御小姓→家督六百石→二千石→御側衆→五千石→遠江國相良一萬石→一萬五千石→御側御用人二萬石→二萬五千石→御老中三萬石→三萬七千石→四萬七千石→五萬七千石→雁間詰三萬七千石
家齊
文政八年 林肥後守忠英
御小納戸→御小姓→家督三千石→御側衆→四千石→七千石→若年寄上總國貝淵一萬石→一萬三千石→一萬八千石→一萬石
家定
安政四年 本郷丹波守泰固
家督二千石→御側衆→三千石→五千石→七千石→若年寄駿河國川成島一萬石→五千石
家茂
元治元年 平岡丹波守道弘
御書院番→家督五百石→御側衆二千石→四千石→若年寄五千石(+足高五千石)→安房國船形一萬石→京都見廻役
慶應二年 戸田大和守忠至
山陵奉行→下野國高コ一萬石→若年寄 大岡忠光が吉宗に御目見したのも、家重の小姓になれたのも、親戚の忠相の猟官運動の結果ですか? 家重に真剣に向き合ったからこそ言葉が理解できたのだ。出雲守忠光が亡くなったら生きる張りを失ったのか、家重も逝去してしまっている 家重「ただみちゅはおるか?ただみちゅはおるか?」
家重「るうすけ(田沼龍助)はおるか?るうすけをよべ」 生まれながらの大名とは違い、自身一代で旗本から万石以上になった大岡とか田沼のプレッシャーは半端なかったと思う 小大名同士って仲悪いエピソード多いよな
平士上がりなら尚更いびられるわな >>707
ほとんどが小姓・側衆といった奥勤めばかりだな 他だと安藤、渡辺みたいな親類に幕府関係者の強力なコネがあるパターンか 徒頭 使番、目付という幕府官僚の本筋コースを経て町奉行を長年勤めてから大名になった大岡越前
町奉行は在職中に死ぬことも珍しくない激務
正直あまり羨ましくないね 大岡も万石以上を望んだとは思えんな
まあ、一万石で定府だしなんとかなったってところか >>722
茶坊主とか同胞衆から大名になったのはさすがにいないよな? 井伊家は軍師、政治家として優秀だったから30万石の大名として出世出来た訳で 直政が美男子で家康に気に入られていたからだろ
ケツ穴を差しだしたから出世したと陰口叩かれたくらいだ 礼儀三百威儀三千、殿中の決まりごと複雑怪奇にて、大身譜代も御坊主への付け届けは欠かさなかったそうな 幕府の茶坊主といえば河内山宗春くらいしか思いつかないわ >>727
UESMとTDSKの関係も殿中でのフェラチオとかホモセックスでの絆でしょ しかもTDSKは度重なるUESMの求めに応じ、ついには痔が悪化して馬にも乗れなくなってしまった 男色をたしなみのはもちろんいただろうけど、ガチホモの譜代大名っていたのか? 六人衆堀田加賀守正盛。春日局のヒキで昇格したが、実父は自殺、本人は家光に殉死、長男正信は配流先阿波徳島で、はさみで喉を突いて自殺、
三男正俊は又従兄弟の石見守正休に刺殺さる。 豊前小倉小笠原家は譜代では破格の15万石の大封ながら要職にはつけなかった
水野忠邦が唐津から浜松へ自ら画策して移封したのも老中への野心の為だと言うが、九州の譜代大名は九州から出ないと出世はダメなんだね >>738
一応長崎の窓口と九州諸侯の監視と言う重要な役割があるからな。
譜代的に花形藩は東海道筋と関東近辺辺りだと思われ、大垣藩は何故か老中出さなかったけど。 小倉の場合、老中への足掛かりとして帝鑑席への昇進運動したけど上手くいかなかった
譜代とは言っても統治が長すぎて転封も厳しいだろうし 小倉って財政はかなり安定してたんだな、隣の黒田なんて常に自転車操業状態なのに。 黒田は初代長政入封時、隣国豊前の細川忠興への対抗意識から大幅な水増し報告をしたのが悪さしたと聞いたぞ よくそれで改易されずに明治維新まで続いたなと思う。隣の柳川藩が名君だけに尚更。 >>741
超不安定だったはず
藩主の老中への野心のために借金は増大
領民は逃散、離散するものも出て、家中は争い騒動も起き処刑されるものも出た
藩主は閉門蟄居になった >>738
10万石以上レベルだといわば独立軍団長だから家格が高すぎて老中では役不足
例外は酒井雅楽頭家だがこの家は元々執事の家と称される家筋だし
老中就任当初から首座、場合により大老になるから別格
>>740
小倉の小笠原は当初から帝鑑間席だがどこから出たデマだ?
溜詰への異動を運動したのと勘違いしてないか? >>744>>745
雅楽頭家と言えば別家の藩が庶流の旗本とお家騒動やってたな、幕府執行部に行ける事って上昇志向が強い大名には魅力的なんだろうな。 九州の譜代大名で十万石以上って小倉小笠原と中津奥平だけだな
幕末の中津奥平があまり目立たないのは島津からの養子だったからかなぁ? 幕末の奥平藩は福沢諭吉くらいしか思いつかないね。小倉の小笠原が15万石もの大封を得たのは死をもってした大坂夏の陣の戦いと家康の外孫の家系だからか >>748
あと、細川に負けないくらいの名門ってことで九州に封ぜらたんだろうね
当初は豊前小倉、中津、豊後杵築の城主は小笠原氏で占められた 小倉藩は家老の宮本伊織4000石とかいるし、家康の孫で譜代大名でも少し外様っぽい雰囲気 譜代大名の重臣は大体一八松平系の家系で固めてるイメージ 小倉の小笠原は15万石で大身すぎるし、過去に老中も出してないのに、なんでまた幕政に参加したいなんて考えたのやら 筑前名島は35万石だったのを検地の高直して゛福岡52万石を叩き出した
かなり無理をした数字 忍藩十万石の奥平家には地味に有名な鳥居強右衞門が重臣としている 忍と小田原は軍事的なお役ばかりで幕閣出ないイメージ 久世大和守とか太田備中守ってなんだかカッコ良くね?
とくに久世大和守 関宿の久世宗家の、大和守以外の名乗りを調べたところ、隠岐守、出雲守、長門守と、なぜか山陰地方が多い。 久世大和守って時代劇とか時代小説で清貧でまともな人物として扱われる事が多いからイメージ良いのはわかるわ
「樅の木は残った」でも原田甲斐、伊達安芸らの最後を看取ったり そういえば譜代大名で陸奥守とか越後守とかってあまり聞かないね >>759
陸奥は伊達氏(仙台藩主、宇和島藩主、紀州藩士)のルーツ、越後は親王任国だからじゃね? 堀田家は大老正俊が筑前守を名乗っていたが、殺害され、縁起が悪いと思ったのか、以後は使わなくなった 陸奥守は仙台の独占
越後守は津山の独占
使われないのが当たり前 三河守、越後守は作州松平家独占
薩摩守は島津家独占
武蔵守は徳川家を慮って誰も使わない
尾張守は演技が悪いから誰も使わない 若狭守もあまり聞かない気がする
と思ったら喜多見若狭守っていたな 御三家の家のところは通称が地名+大(中)納言だしな。 尾張守 陶隆房
謀反人のイメージ
尾張徳川でさえ使用せず
水戸が常陸介を使えないのは
一国領有でないのと紀伊徳川が独占 世田谷喜多見にあった譜代大名喜多見藩
一代で改易ってかわいそうだな 気分次第で抜擢したり処分したりする綱吉は、危険な人物と云わざるを得ず、
酒井侯が危惧したごとく「天下を治めさせ給ふへき御器量なし」は、現実となり、
本庄伯耆守や牧野備後守、松平美濃守、松平右京大夫などを大身にするなどの情実人事が横行した 譜代は幕政と藩政両方こなさなきゃいけないから大変だわな。どっちかで下手打ったら改易か左遷が待ってるし。特別扱いなのは井伊久松酒井くらい。 柳沢、米倉、土屋とかの甲州系の譜代大名もあなどれん 美濃源氏の譜代大名土岐家もなかなかやる
老中も出てるし 間部詮房は改易のうえ腹を切らせろ、というのが老中らの吉宗への注文だったが、吉宗もさすがにそこまでは踏み切らなかった 上総介や上野介は聞くが、下総守や下野守は聞かないのはなぜ? >>779
間部下総守っていた気がする
旗本だけど稲生下総守も 下野守といえば篠山の青山家は代々名乗っている。
下総守は堀田正仲(正俊の子)がある。 靫負は衛門府の別称
だから本来は口宣案などでは左衛門佐などと書かれるべきところだが恐らく例の武家のゴリ押しで靫負佐と書かされたと思われる
※ゴリ押しとは武家から左衛門尉をリクエストされて「大尉と少尉のどっち?」と問い合わせたら「左衛門尉は左衛門尉だ!」と言われたので仕方なく「左衛門尉」と書いたなどの例
本来は靫負だが同時代的にも靭負と誤って書かれることが多い
靭帯の靭だから矢を入れる道具の靫とは全く別の字 そういえば譜代大名で久留里の黒田家ってあったな
目立たないけど 千葉市花見川区や幕張を領有していた1万石の譜代大名 内田肥後守 千葉県域の大名って佐倉・関宿以外はぱっとしないね
生実の森川なんて忘れてたし 久留里の黒田家は、エチオピア皇室との縁談の件があったから、目立っている方だと思う。 刃傷事件(松の廊下(一回目の浅野)と織田秀親斬殺)に
二回も遭遇した畠山義寧(上杉綱憲のはとこ)が下総守 >>780
堀田の殿様が苛政を敷いたという話を小学校の国語の教科書で読んだ覚えがある。 江戸城の支城的な川越、岩槻、忍、佐倉の城主は譜代大名の中でもエリートなんかな? >>796
本当のエリートは東海道沿い(兵庫〜東京)だろう
特に徳川発祥の地の愛知静岡辺り。
次に武田旧臣の中山道沿い、関東近辺て感じじゃないかな。その理論で行くと外様とは言え真田、藤堂、仙石は家康お気に入り。 エリートっていうか別格
特に川越城と岩槻城はその日のうちに江戸に行けるから >>797
仙石は結局は但馬じゃん?
藤堂なんて桑名、紀州と尾張に挟まれてなにもできないし真田はアウトオブ眼中だったのでは? >>799
真田は外様とは言え武田旧臣の中では一応重要な役割をしてた訳だし、他の武田旧臣達を納得させるためにわざと動かさなかったのかなとは思ったんだけどね。 中途半端な譜代より薩摩や加賀みたいな巨大外様藩のが殿様気分だろ >>801
薩摩は徳川家とは強い結びつきというか江戸代々縁戚関係にあったしね 松乃廊下
二回目は毛利が乱心した水野に斬られた
この為、毛利家は藩邸にあった赤穂義士切腹跡の顕彰碑を破壊(現在も撤去)
泉岳寺とも絶縁した 水野監物の岡崎水野家とはまた別な松本水野家なのにな 武田旧臣系の譜代大名だと柳沢、土屋、米倉、保科とか? 将軍の生母の実家や、将軍の側近ら(側用人、御用取次など)が大名に取り立てられる例がある。
伊勢長島の増山はお樂の方の関係者だが、松平姓は与えられなかったな >>808
側用人、御用取次上がりは柳沢、喜多見、間部、有馬、加納、大岡(忠光)、田沼あたり? 柳沢→大和郡山に15万石の大封を得てその地に定着、幕政に参画する格ではなくなる。
喜多見→改易
間部→左遷されて小大名で代を重ねたが幕末に各要職に就き最終的に老中抜擢
有馬、加納、大岡→小大名で定着特にこれといった事象なし
田沼→失脚後再興したが若年寄までで老中には届かず 有馬、加納、大岡両家のその後は大番頭や大坂加番あたりだな。主膳正忠固みたいに、たまに若年寄が出ることもあるが 山村甚兵衛は松平定信の時に幕臣登用されてれば大名昇格あったかも 大岡(忠光)な家は8代も岩槻城主として幕末まで続いてすげーな 山村甚兵衛と千村平右衛門は公儀と尾張家の両属のような立場
公儀では表交代寄合並という格式 譜代大名で一番の名門って鎌倉以来の守護である小笠原家? 名門の基準が不明確だし
小笠原氏は鎌倉時代は守護じゃないし 小笠原長時「我が家は代々、小笠原諸島を治めてきたでおじゃる
家康「ほうかね」 まあ室町の守護系統でも譜代大名では小笠原くらいしかないかな
同じ譜代大名の諏訪なんて古族ではあるが、小笠原に比べたら格下すぎるけど所詮は徳川な家来なのだからあまり意味ないな 徳川譜代なんて殆どが三河の土豪なんだし今川の重臣だった井伊家を重用するのも分かるな
政治交渉するならある程度の格式の家柄が必要だからね、武将としても有能だったのもあるけど >>822
皮職人系が多い地域は職人の請負先の主人の苗字から取ってる事が多いとかかな?
江戸時代の海外から定住した系だと脇田とかがあった気がする。 >>823
それは確かにあるかもな
話題は変わるが
福山ってなんであんなところに譜代大名なんだろ? >>824
毛利、浅野、池田の監視。大藩の間に不自然に挟まってる藩は大体それ目的。
酒田藩も東北の外様諸藩の監視だし、監視目的で置いてる藩は10万〜15万位で置いてるのかと。これが親藩の監視目的だと規模が下がったりするけどね。 >>825
まあそうなんだろうね
参勤も周辺の外様が江戸在府中は在国って感じだったんだろうね 石見浜田に松井松平、石見松江に越前系松平、小倉に小笠原、と配したが、毛利軍に大敗 小田原と忍以外で10万石以上の譜代大名は外様や朝廷の抑えだろうな >>829
君は基本情報くらい押さえてから発言した方がいい 福山藩って言っても阿部家なんてほとんど定府なんだろうな >>810
大和郡山藩の柳沢を初代吉保以外は幕閣にせずに冷遇してきたのが、
幕末になって幕府に厳しく跳ね返ってきた感がある
京都大坂両方に隣接する畿内の譜代大名で15万石クラスの譜代大名なんて、
柳沢と姫路藩酒井家ぐらいなものだ
だけど柳沢を用いることができず、
本来は東北外様大名の監視役であるはずの会津藩を京都へ引っ張り出すことになった >>834
登用された経緯的に本来なら南紀派の立場なのに、幕政からハブられた恨みで一橋派についたと言うのも皮肉だな。 京都周辺の10万石以上クラスの大口譜代だと、姫路の酒井、淀の稲葉、小浜の酒井が登場した よく信長が、個人の能力重視で、織田家累代の家臣でない「よそ者」の秀吉や光秀を、重臣にまで抜擢した人材登用策が評価されている
でも結果として信長は光秀に裏切られ、織田家の天下は秀吉に簒奪された
家康は、松平家累代の三河の家臣を重臣として重く用いており、よそ者の重臣は井伊直政以外はなかった
信長の人材登用策と比べると地味だが、結果として一向一揆以後は重臣の謀反や簒奪はほぼなかったから面白い >>837
そして身内が出奔した家系は安城譜代だろうと連座してペナルティを課すと言う徹底ぶり なんでいちいち比較した上でこう徳川を美化せにゃならんのだろうか
しかも必ずブーメランが突き刺さるのがもうね… 今日たまたま彦根に行ったんだけど、彦根城はスゲーな
確かに譜代中でも別格って感じの城だわ
なんの役にもたたなかったとは言え、普段見てる同じ近江の城でも水口とか膳所なんて比較すらできないわ 熊本城見たら腰抜かしそうだな
「え、あれ櫓?天守じゃないの?」みたいな 彦根は藩主の墓碑も立派
直弼の墓碑は大河ヲタの聖地になってるしな >>843
熊本城は見たことあるよ
譜代大名の居城としての話 >>842
ただどういうわけか、彦根城は1992年以来30年間、世界文化遺産登録を申請しても実現に至らず 彦根城は天下普請だからそりゃ違うよな
近畿地方の入口にふさわしい城だね
ちなみに東海道の近畿への入口にある水口城の加藤家も譜代格外様なんだな
石高も城もショボいけど 鎌倉と彦根城は何十年も世界遺産に申請しても通らないね
奥州平泉や北九州・宗像大社ですら世界遺産になったというに ひこにゃんって井伊の赤備えと豪徳寺の招き猫伝説から来てるんだよな?
豪徳寺のすく近くに松陰神社があるのは奇妙な縁だね ひこにゃんはグリム童話の「物知り博士」と同じだな
インチキ博士が王さまを手招きしたら(実際は虻にあっち行けと払った)
王さまがいた場所に雷が落ち黒焦げになった
感激した王さまがぜひ城で暮らしてくれと言うと
恩人だ先生だといっても言葉のあやで家来には変わりはなく宮仕えは嫌だと断ると
なら国の半分をやる、これなら余と先生は同格であると言われる話 江戸近郊の世田谷で2000石って井伊は優遇されすぎだな 藩祖が戦で先陣切って遠い場所の藩の交渉もしにいって文字通り死ぬほど頑張ったからな
この厚遇も納得の実績 江戸のすぐ近くの世田谷に2000石って単なる石高以上のメリットが相当あるよな
給米35石で雇った代官に丸任せで桜田門から徒歩で二、三時間だし人馬の調達も有利だよな 世田谷くらいなら大丈夫だけど江戸定府は危険なのは水戸が証明してるからなあ、藩主と家老が江戸詰で知行知放置はヤバいよ 狛江の一部も彦根藩
有力大名の数家が江戸定府として幕閣のお目付け役になることで、
幕閣が幼少や愚鈍な将軍を無視して政務を壟断することを予防しやすい 彦根は江戸詰何度もやってるけどその割に一揆とか藩内トラブル少ないよな、忠邦系水野とか炎上しまくってんのに
多分家臣団が有能だったんだろうな 今、手元にある江戸時代制度の研究(松平太郎著)を見ると、新田藩・内分分知を除く定府は近江山上稻垣家、美濃高富本荘家、越後椎谷掘家、上総貝淵林家、播磨三草丹羽家、近江宮川堀田家、三河西大平大岡家、上総一宮加納家、河内丹南高木家、遠江相良田沼家、大和新床永井家、大和柳生柳生家、上総小池山内家、越後黒川柳沢家、越後三日市柳沢家、伊勢長島増山家、出雲森松平家、奥州守山松平家、越後糸魚川松平家、上野矢田松平家、近江三上遠藤家 >>860
一揆とか定府とかあまり関係無い気がする 各大名の統治能力の比較みたいなのどっか研究してないかな、そう言うの指標が凄い興味ある。 彦根って五月参府
ほとんどの大名は四月か六月参府だが、五月参府なのは彦根以外では忍の奥平、佐倉の堀田、姫路の酒井、出羽鶴岡の酒井、伊予松山の松平、讃岐高松の松平、桑名の松平くらいだ
やっぱ別格なのかな >>864
ほとんどが溜詰のメンバーだな
井伊家は初期の溜詰メンバー(井伊、会津、讃岐)だから、準一門扱いの家柄と言っても良いかと。 武蔵岡部の安部って転封なく続いたんだな
まあ、陣屋は岡部だけど所領は三河、摂津に分散していて大変だったみたいだけど >>860
初代彦根藩主・井伊直政の死後に紛争が起きて、井伊家臣団は分裂
徳川家康の裁定で、彦根藩主になっていた井伊直勝は上野安中藩主に移り、彦根藩主にあったことはさかのぼって取り消し
彦根藩主の座は弟の直孝が二代彦根藩主として継いだ
代々の井伊家家臣は多く安中に移り、旧武田家臣が彦根に残った >>868
家康としては、大坂の豊臣家を牽制するはずの彦根藩で内紛が起きるままなのを見過ごせなかった
彦根に残った旧武田家臣らは、安中に移った連中が彦根に戻らないよう、失政がないように統治に勤めたのだろう 井伊直弼の裃姿の肖像画描いたのは与板井伊家に養子に行った直弼の子供なんだよな
墓も豪徳寺にある なんか武田旧臣って井伊家に限らずどこにでもうようよいるよね
広瀬とか三科みたいな山県三郎兵衛配下系は井伊が多いんだろうけど
幕府やご三家、越前、会津はもちろんだけど譜代だと本多とか小笠原、奥平にもかなりいる
引く手あまただったんだろうな 武田の旧臣は主家が滅亡した時期が良かった
未だ定まらぬ世の中で徳川北条といった勢いがあった大大名が拾ってくれたからな
自立した真田もいるが、後に高級旗本になった者はうじゃうじゃいるし、土屋、米倉、柳沢、保科、依田のように大名になったのもいるくらい恵まれてる
譜代大名に仕官したのも多かったから、全国に散ったな
小倉の小笠原なんて北条、武田、成田、宇都宮、佐竹の旧臣だらけ >>869
介入といえば聞こえはいいけど、体の良い乗っ取りと言えなくもないよね。 >>874
だれも乗っ取ってないからそれは当たらない 乗っ取りってのは酒井長門守一件みたいな事を言う。未遂に終わったけど。 本多家九六騒動みたいに兄の子に嗣がせるのが惜しくなって藩主が養子を毒殺した事件もあったげな 板倉内膳正重種は突如老中職を罷免され、1万石減封、要地の岩槻から信濃坂城に輾封され、
藩財政が窮迫したため、藩土返上を願ったが、3万石と2万石に分地し、上総高滝に移された しょっちゅう転封、加増・減封する譜代大名の家来って大変そうだな 井伊とか一部の客分格の譜代を除いて他はサラリーマン大名だからな、何かやらかしたら即左遷改易よ そう。帝艦間や溜間は、お客さま。しかして、雁間は、使用人。チッチッチッ、わからんのか、秀忠。 加増されたら家臣も増やして、減封されたら余剰な家臣にお暇を出すんだろ?
磐城から日向延岡に転封ともなれば移動もさることながら屋敷の引渡し、家財の処分、人間関係の整理とかなり大変だろうな >>883
転封すると地元の大地主や豪商と揉めるリスクあるしな
連中なんて帰農した元武将も混じってるから怒らせた時がやべえ >>885
延岡の牧野が笠間に転封になった時、前任の井上家に領内の刀後免の百姓の数についても問い合わせてる
磐城平から延岡に飛ばされた内藤の家臣は借金も平に残していたらしく、延岡と平、笠間の間で相互の返済のやり取りがしばらく続いたらしい >>886
やっぱ引き継ぎの時にその辺調べるんだな 城の受け渡し引渡しそれぞれに幕府の上使がくるからその辺は厳格だったろうな 新領主がくると領内は大騒ぎだったらしいな
没落した豪農とか主流から外れた穢多の旧家が正当性を主張して権益獲得を願い出たりで 内藤家が磐城平から日向延岡に転封された時、郷士的な身分の豪農は、当主が随行を願い出て許可された場合、百姓としての跡を息子らに継がせて晴れて正規の家臣として単身延岡に行ったとか
家族とは二度と会えなかっただろうね 転封前の領地の明治の大地主、豪商に家臣団名簿の同姓がいるのはそう言うからくりか 加増転封の場合はそれまで年季です雇ってた農家の次男三男を足軽に取り立て新任地に入部した利したしな
領内の戸数を減らしたら当然ダメだから 家の数もちゃんと規定されてるのか
それは知らんかったわ 租税収入源を減らしてしまうんだから当たり前
百姓が夜逃げしても犯罪 磐城平→日向延岡
これひでえな
転封では最長距離らしいけど、転封後百年以上も文化も言葉も違う延岡のまま廃藩知県とは・・・ 領民の襲撃事件あったからな、よりによって島津の近くとか罰ゲームでしか無い >>894
城付きの武具やお城米の数にも誤りがあってはならないので大変
何よりも家中の女性の通行手形の手配が大変だったらしいが 内藤家の転封は減封ではないけど実高で減収確定
家中の引っ越し代は階層別に一応は支給されたが、それで足りない場合は藩としては貸さないし無理なら永のお暇を申し渡した
身分が「軽キ者」も積極的に永のお暇にした
平に100年以上いたのだから内藤の家臣はお墓とかどうしたんだろうね? 三方領地替えって棚倉とか唐津が絡んでることが多い
ババ引いた大名は悲惨だな 譜代とは直接関係無いけど旗本は島津やら浅野やらの外様の庶家がゴロゴロ居るな 加賀藩家老の横山も庶家が旗本になってるけどどう言うカラクリなんだろうか
外様出身でも旗本分家によってある程度は幕政に参加出来たのかね。
仙石は火消しの兵庫が有名だな 蜂須賀庶流で大名旗本→雁間詰大名になった富田蜂須賀家(絶家)
有馬庶流で紀伊家陪臣→旗本→菊間櫞頬詰大名になった吹上有馬家
津軽庶流で旗本だったが自前の四千石に本家から内分七千石を補助されて柳間席大名となった黒石津軽家 旗本鍋島は佐賀の本家と喧嘩して肥前の領地を捨て旗本になった 火消しの仙石は幕府から叱責されたり
他の大名から「無知蒙昧で身を弁えぬ大愚物なり」と散々な評判 >>911
そもそも仙石家は本家も初代から破天荒だからな 火消しの仙石は忠臣蔵に出てきた仙石の甥なのか
大目付ってかなりの出世だよなあ 加賀爪上杉と深谷上杉も
大目付や江戸町奉行になってるが譜代の扱いなのか 旧豊臣譜代の石河とか浅野も大目付になってるしこの辺が譜代と言われると違和感があるな。 柳川の立花って書院番頭から棚倉→筑後柳川だけど外様なんだよな
どうして譜代ではないんだろう >>917
そもそも立花は元西軍
譜代の定義は武田滅亡以前に従った武将+旗本の昇格だからね 定義とか
例外が多すぎるから議論されてるのに
まともに検証されていない俗説を鵜呑みにし続けて知識をアップデートできない低学歴は発言しないでほしいな 反社会的勢力の定義も「定義できない」と自己都合で閣議決定する内閣もあるくらいだから
https://youtu.be/DesHoNuTfYU 立花は1度浪人になってから五千石の旗本として召し出されてから棚倉で大名への復活を経て柳川十万石だから旗本昇進に当たるのでは? 柳川の別家で三池藩の立花家も旗本から万石以上になって奏者番や若年寄も勤めてるけど外様? 親藩譜代外様とか現在の一般的な分類は明治の学者が適当に分けただけであって同時代の分け方とはズレてるからな
譜代や外様という用語は当然あったがそれを指す対象が同時代とは異なる(親藩に至ってはそんな用語は同時代にはない)
柳営の実情と同時代の学者の分け方が必ずしも一致しているわけでもない
要は学問的に厳密な定義を欠いた取り敢えずの分類方法を現在でも無批判に使用してるだけのこと
しまいには定義がガバガバなのに準親藩だの準譜代だのという語まで出来る始末
旗本について言えば譜代と外様という分類自体がないわけだから大名についてもそもそもその区別を重要視しなくてもいいという研究者もいる 譜代と外様の線引きが難しくなっているとはいえ、全く区別がないとは違う
武士と農民の線引きにも言えるが
秀吉が死んだ後に、外様の大大名の家康が天下を簒奪した
徳川幕府は自分が同じ目に遭わないように、外様の大大名を幕閣に用いなかった 外様の大大名ばかりをイメージして外様一般を語ろうとしているから認識が粗雑になる
いわゆる外様で奏者番大坂定番大番頭伏見奉行などに就いてる例はさほど珍しいものではない むしろ松平姓を下賜されてるような大大名が例外的存在
外様小藩ならさほど縛りもなさそう 園部小出家
第4代藩主・小出英貞は奏者番、寺社奉行、若年寄を歴任し、次男の小出英治に1000石を分与している。第5代藩主・小出英持も英貞と同じくその三職を歴任し、第6代藩主・小出英常は奏者番になるなど、幕府の要職を歴任している。 大封を任されている大大名がその責を疎かにして徳川家の家政を見るわけにはいかないし
譜代大名でも長崎警備とかの重大任務があれば幕閣などへ入ることは出来ないのは当たり前だよな >>930
幕末になると批判が噴出し、
広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシというような公議政体論が台頭した
つまり会議で諸藩の合意を得て天皇の許しが得て公論が決したとみなすというもの 関ヶ原の発端となり一番最後に降伏した上杉でさえ
幕末には京都警備を幕府から命じられ京都屋敷に駐屯している
(会津松平の前に京都守護を打診されたというのは俗説) >>934
お前の主観的かつ根拠を欠いた意見はいらない 日本史板で学歴って何いってんだ
週刊少年漫画板と同レベルの知性で、邪馬台国の終わりなき論争をメインにしている日本史板だぞ
真面目な話、高学歴の研究者だけで話したいならFacebookにいったほうがよい 外様でも十万石以下なら詰衆になって奏者番や寺社奉行を兼ねることも普通だったんだろうよ 室町時代は大守護大名は在京してた
豊臣政権の五大老制度は言うに及ばず
>>926
外様の小大名がお役目貰ってるから
江戸幕府は譜代大名偏重じゃないとは言えないのでは
他に例えるなら「明治政府は薩長藩閥の有司専制じゃない、勝海舟や榎本武揚、今話題の渋沢栄一ら旧幕臣も明治政府で重く用いられているから、薩長藩閥政治じゃない」と言うようなもの >>940
詰衆=雁之間詰
外様大名=柳之間席
御奏者番=芙蓉之間席
柳之間から雁之間に移った事例はあまり見当たらないし
それと席の移動が連動してるわけでもないし
そもそも役職に就いたら元の席から離れる >>942
譜代偏重じゃないとは一言も主張してないよ
今ここで問題になってるのは譜代と外様の線引きでしょ
役を貰ってるからと言って外様じゃないとは限らないし外様だから役を貰えないと言うのも違う
また譜代であっても15万石級の大名が役にありつけなかったのは外様大大名が幕政に関わらなかったのとパラレルに考えていい
すると譜代と外様の線引きはどういう意義があるのか
線引きを見直すことも必要 願い譜代で譜代外様の線引きが難しくなっても
外様雄藩が大老や老中になれなかったのも事実
徳川幕府が乗っ取られないように、外様雄藩や徳川御三家を幕政の枢機に参加させないようにしたのだろう
足利一族の大大名である細川政元が、明応の政変で足利幕府を乗っ取った歴史もある 15万石前後の譜代大名、庄内藩酒井、姫路藩酒井、小倉藩小笠原、高田藩榊原は最終的に溜間詰めになっている
大老や老中でなくとも、幕政の枢機に参加できていた 幕末の「国難」に際して、外様雄藩や朝廷を国政から除外して、譜代大名中心に大老や老中になって国政を決めていく従来の幕藩体制は「公議」の政治とはいえないという批判が起きた
ところがそんな幕藩体制を倒した明治政府も、薩長藩閥の有司専制政治だった
薩長藩閥を打破するために国会開設を求める民権運動が起こり、玉虫色ながら議会政治と政党内閣が誕生して、薩長藩閥色は徐々に薄まっていくこととなる >>947
君の解釈が全部完全無欠に正しい訳じゃないってこと
理解できないなら帰れ 庄内藩の酒井が溜間になったのは、日光東照宮修復費用6万両を献上したからだと聞いた。裕福な藩よな >>950
表石14万なのに実石は23万もあるからね
クッソ金持ち 外様で幕府の要職に就くのは一万石〜三万石クラスの小藩限定だな
最大でも平戸の松浦な六万石かな >>949
せめて相手の解釈をまともに理解する能力を身に付けてから寝言はほざこうね >>953
せめて君は相手の解釈をまともに理解する能力を身に付けてから寝言はほざこうね
こっちの方がピッタリ >>952
うむ
家康の信任が厚かった藤堂氏からでさえも老中は出ず >>954
教科書的な平板な理解に終始してる低能が言う台詞じゃないねw 水野忠邦が長崎警固の任にある唐津から浜松への転封を画策したのも要職への欲求から >>956
自分の歴史的理解以外は認めない偏執的理解に終始してる低能が言う台詞じゃないねw
タイムマシンがあれば邪馬台国の場所は分かる
でも権門体制論争のような歴史的理解・解釈に正解はない >>957
その通りだが小笠原長行は唐津藩世子から老中になっていたり >>946
姫路酒井、松山松平、忍松平、桑名松山は飛溜に昇格してる
庄内酒井は忠器が溜詰格から溜詰、忠篤が溜詰
中津奥平は昌高のみが文化十四年に溜詰格、同年溜詰
小倉小笠原は忠固のみが溜詰格
高田榊原は政敬のみが溜詰格
以前調べたところ(裏は取ってない)だと前老中、前所司代以外で溜詰(格)になったのは以上だがいずれも代々と言うわけではない
家格化する前に維新になったというのもあって果たして飛溜に准ずる家格になったと言えるかどうか不透明
奥平昌高は御台所の縁戚の故であろうと思われる >>961
関係ないは言い過ぎ
隠居や世継ぎや藩主の実父が藩を代表することはあるある 養子(長行)のほうが養父より年上になっていたんだってな あの時期は長州藩や芸州藩でも世子が中央で政治活動しとるね
世子のままで新政府の議定にもなっとる >>960
豊前小倉城主、小笠原忠固は溜詰格になるために藩財政や領内、家中をめちゃくちゃにして結局は蟄居閉門になってるね そういえば新田藩から幕府要職っていない気がする、と思ったら、小倉新田藩から奏者番と西ノ丸若年寄出てるんだな 小倉の小笠原大膳大夫忠固は、老中を目指して膨大な金銀を猟官運動に費やし家中の棒禄を半知にして騒動を起こした
隣国秋月藩は小笠原家の小倉除封・公收を予想して城受け取りの準備までしたが、先祖の大阪の陣での勳功によって除封、領地公收は間逃れた
小倉領は荒れ、百姓の逃散が記録的に頻発し、その穴埋めに新百姓の取り立てで維持しようと努めた
その結果、今も多くの被差別部落がある やっぱり小倉小笠原家みたいな15万石以上の大名には幕府の要職は現実的に無理なんだな 九州の玄関口小倉は任せられない、ということで、他国へ転封されてもおかしくないが、座りに成功した 分家の世子の指揮下で単独で戦わされた挙げ句に城を焼いた小倉藩 九州の譜代大名って小倉、中津、杵築、府内、唐津、延岡くらい?
豊前豊後に集中してんな 長崎に近いからね
幕府は長崎貿易を重要視してたから >>973
長崎に近いのは島原藩と唐津藩
長崎警備は福岡藩と佐賀藩 譜代とは関係ないけど、岡藩の中川久清の顔ってスゴすぎないか?
江戸城で笑われたりしなかったんかな? 島原藩の松平・鳥居の往復転封も悲惨だな
イジメか?
それとも幼少の藩主では幕府として苦い思いがある肥前島原は任せられないという判断か? 島原藩主、高力左近大夫はなぜ、再び島原に一揆を起こしてしまったのか >>971
小倉藩15万石って宮本武蔵の養子の伊織を4千石の家老として召し抱えたんだろ
よく言えば太っ腹だが
小笠原家に代々仕えてきた古参の重臣らがよく承諾したなと思うわ >>984
一応、島原の乱での軍功で4000石に加増 >>967
幕府の改易がだんだん及び腰になったから
1758年に美濃郡上藩金森家3万8千石を徳川家重が改易にしたことを最後に、以後の江戸幕府の改易は1万石の小大名のみ
フェートン号事件なんて佐賀藩37万石を改易にしてもおかしくなかった 小倉の小笠原は信濃以来の旧臣がメインだげ、譜代大名には珍しく他藩の武辺者や在地有力者を高禄で召し抱えている そりゃ改易とか無茶苦茶だからな
犯罪予備軍を大量に野に放つようなもんで結局警察機構に負担がかかる
藩の上層部を厳しく叱りつけて自分で取り締まらせるほうが楽ちん >>986
本人の隠居と減封くらいの処置があってもよかったと思うが無理だったんだろうね
藩士が無断で何百人も他国領に籠るなんて大騒動起こしたのに >>988
水戸とか荒れ放題だったけど仮に改易したら天狗党事件より酷いことになってそうだ しかし破格の加増での転封ならまだしも、しょっちゅう転封させられた譜代大名の家臣家族は大変だったろうな
俺も関東から始まり、九州、関西と転勤が続き来月からまた名古屋への転勤が決まった・・・ 松平乗邑は志摩鳥羽、伊勢亀山、山城淀、下総佐倉、隠居とほぼ同時に山形って、一代で国替えがおおすぎ >>992
最初は肥前唐津だもんな
家臣は先祖代々のお墓の改葬が大変そう 転封による家臣の女子供までの大移動はさぞかし大変だったろうな
家財はどうやって運んだんだろ? 今と違って銀行口座もないから千両箱を抱えての大移動だから大変だ 関係ないけど
今日国会図書館デジコレで閲覧した明治初年の西洋の文物を紹介する文献に借蔵というものが載ってて
そのときはスルーしたのだが今考えると銀行のことだな 皆で一斉に、人気スポット 肥前唐津、播磨姫路を、狙うべし このスレッドは1000を超えました。
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