江戸時代の譜代大名について語ろう
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, ‐ ´ └―'´ ` 水野忠邦が男系で芸州浅野家の子孫だったのには驚いた。 >>4-5
幕府の基準として家系が譜代大名なら血筋は外様大名でも幕府政治への参加にOKなんかね。
浅野長政ー長晟─光晟─綱晟─綱長ー吉長─宗恒ー水野忠鼎─忠光─忠邦
伊達政宗─忠宗─宗房─吉村─宗村┬土井利徳─利位
└堀田正敦 伊達政宗-忠宗-宗房-吉村-宗村-土井利徳
伊達政宗-忠宗-宗房-吉村-宗村-堀田正敦 堀田や稲葉は元は小早川秀秋の家臣で最初は外様だった 蜂須賀は家は外様だけど家斉の息子を養子にして血筋は親藩。 堀田みたいな、武功ではなく縁で出世した
ぽっと出の家が井伊や酒井らと並ぶ幕府での最高の地位に尽いて
三河以来の譜代家臣とかから不満なかったのかな? 快く思われていなかったからこそ堀田正盛は
家光が死んだときに殉死せざるを得なかったんだろう。
家光との男色関係だけで出世したようなものだからな。 徳川に対する堀田一族の奉公ぶりは、殉死した加賀守正盛も、鋏で喉を突いて自殺した上野介正信にしても、又従兄弟に刺された筑前守正俊にしても、
なにやら、血塗られ狂気じみた得体の知れないものを感じる。 功績以上の分不相応な地位を得てしまった以上、
忠誠心を見せないと周囲からやっかみを受けるからな。 堀田正信の失心による信州松本の封地没収さえなければ、堀田加賀本家と堀田備中別家、
交互に老職を出すような途方も無い繁栄ぶりになったかもしれませぬな 柳澤家は15万石もの家なのに一度も幕閣を出さなかったな。
まあ吉保は幕閣以上の存在だったが。 井伊家が譜代筆頭の家になったのはちょっと謎だよね。
本来は譜代筆頭の酒井家の嫡流の左衛門尉家は大老を一度も出してないし老中すら数少ないのと対照的。 >>19
井伊家は溜間だから他の譜代とはちょっと意味合いが違うのかも知れんな。 つうか井伊家が松平と同格なわけねえだろ
井伊家 は武家だが松平はただの山中の金持ち風情だろが 元来外様の小笠原も溜間詰めだったな。
外様の名家で直政、直孝と幕府草創期に大功があったから筆頭格になったんだろうな。 松平が鴨氏とか寝言いってるバカはなんなん?徳川事態が源氏を仮某してんのに
お前らみたいな雑魚が鴨だといいはっても話に成らないんだが? 25
間違っちゃいないぞ
松平氏が最初に称していたのは加茂氏
徳川姓藤原氏を称してその後が源氏に
結びつけたんだからな 名乗ったもんがちだわな
弾家も藤原北家をしょうし、勝かいしゅうにもそれをみとめられてるからな
鴨だからなんやねん 本多家も幕初はいい線いっていた。本地15万石に千姫の化粧料と称して10万石を付され、
都合25万石。西国の要地姫路に封じられた。
ところが、忠刻が夭折し、しかもお家騒動などもあり、気が付いたら岡崎5万石にまで減っていた 今川配下になった時期の松平家は、
> ただの山中の金持ち風情
ではないな。
後、
> 松平氏が最初に称していたのは加茂氏
というのは、確証となるようなものがあったっけ?単なる推測の一つ
じゃないのかな。いずれにせよ、清康の時点ですでに源氏である
世良田を称しているし、家康にしても藤姓徳川氏なるものは単なる
方便で、「新田支流」としてふるまっていたな。 鳥居家も減封される前は井伊家に次ぐ譜代大藩で
鳥居元忠は徳川四天王に匹敵する功績があった
減封のせいで元忠の影が薄くなってしまったが 源氏に結びつくのは婿養子になった親氏が源氏の血を引いてるんじゃないかと
いう説からで松平氏自体は加茂氏 だから親氏以前の松平家が鴨だとしょうしたソースだせや 徳川四天王の家はその後は優遇こそされてるけど、幕閣にはほとんど顔出してないよな。
井伊家は大老としてたびたび顔出すけど、あれは名誉職だしな。
四天王に次ぐ功績の鳥居家も>>35のような有様だし。
老中とかはある程度格上の家になったらつかないみたいな感じなんだろうか。 徳川四天王や鳥居、大久保らは基本的に軍務で奉公する家柄だからな(帝鑑間席が多い)
で、かわりに子飼いの官僚を実務に配した。それが、阿部、稲葉、板倉、堀田ら(雁間席が多い) その方針に従って長州藩討伐に駆り出された井伊や榊原だが、これがあっさり負けちまった。 だってほとんどの東国含む戦国時代いらいの武士たちは滅んじゃってるもん そっか。
四天王や改易前の鳥居、大久保なんかはみんな10万石以上だからな。
3000人以上は動員できる家で軍事の場合の核になる家柄。
平時の雑務は実務を司る1つ格下の家が行うってわけか。
納得納得。 万の兵を指揮しようと思えば途端に崩壊しますがね
戦国時代なんて食料なんかも自足だよ
大将格が出してくれるわけじゃないからな 本多、鳥居は自滅しちまったからなんだが、四天王のうち、彦根の井伊は京都警守、高田の榊原は対前田の抑え(懲罰の意味もある)、
小田原の大久保は江戸の最後の砦になる箱根を抑え、そして荘内の酒井は対佐竹の抑え…と軍事的な要地に配されて働きが期待されたわけだが、
荘内はその後蝦夷地警守まで担当させられ、対ロシアに備え極寒の蝦夷を黙々と警備していた。
南部、津軽、佐竹らと。
荘内藩内では当然、誰もいきたがらず、失脚した奴や身分の低い奴が優先的に北方配備されたようだ 大久保氏なんかは
大久保忠隣が旗本や諸大名からも人望あつく
それで家康や本多親子から警戒され一回潰されたしな。
この事件が無かったら
格的にも大老に申し分ない 忠隣は秀忠の筆頭重臣だもんな。
大久保宗家は一度潰れなかったら大老出す家になってたろうな。 警戒されたんじゃなく、そもそも大久保のコンプレックスが問題だろ 植村家が「家」を通し字に出来たのは、神君家康の御免状でもあったから? 大久保彦左衛門なんかコンプレックス不満タラタラだもんな。
我が家より武功がない新参者が幕政で重宝されて 盆地で冬寒く夏暑いうえ、表高を10万石とすると6万石くらいしか取れなかったとか
棚倉をめぐる越智松平、小笠原、井上、松井松平の悲喜こもごもは、なかなか興味深い話しである。 >>49
大久保宗家は忠世の父・忠員の兄・忠俊の家系をさす 幕府としては徳川四天王、並びに奥平、大久保、鳥居への処遇は概ね20万石格と見ていたと解される
本多は15万石に千姫化粧料10万石で合計25万石
井伊は彦根25万石(のち、預かり支配という名目で10万石加増され35万石)
榊原は水戸25万石にしようとしたが、康政が堅く固辞した
鳥居は山形23万石、さらに周辺大名を与力として付されている 20万石だと300人動員で6000人。
四天王に奥平、大久保、鳥居が6000人動員したらこれだけで4万2000人。
先手衆として強烈だな。
まあでも計算通りにいかんというか、大坂の陣でははやくもこの先手衆もかっての強さが失われてんだよな。
期待通りに戦ったのは井伊くらいのもんで。
だからこそ井伊家は途中加入の家なのに筆頭格になったんだろうな。 本多家は大名自ら推定相続人に毒を飲ませて暗殺し、家督騒動を発生させていたが、よく切腹させられなかったものだ。 なんで過疎ってるんだよこのスレ。論点はいろいろあるのに 譜代の定義って原則は関東移封のときに関東に所領をもらった大名と
旗本から累進した大名って把握でOK? 立花や朽木は一旦改易されたが、大名復帰後、譜代大名にはならなかった。 朽木氏は関ヶ原での裏切り改易が転機となって逆に一族繁栄するんだから
世の中判らんもんだ 譜代大名の出世ルートは
奏者番→奏者番兼寺社奉行のあと、
大坂城代→京都所司代→老中
であるが、上野高崎藩主・松平右京大夫輝延は、早くも大坂城代時代に藩庫の底が尽き、病気を理由に辞任、江戸に帰って溜間詰次席になった。
この人もこれで終わりの筈なんだが、なんと老中に起用された
これは水野出羽守があまりにもが過ぎる為! >>68
老中になれる家柄と若年寄になれる家柄って基本的に違うからね。
幕府草創期はまだその辺が流動的だったので、
家光の側近がまず若年寄に昇進し、その次に老中に昇進ってパターンがあったが、
安定期に入ると結構はっきり家格がわかれたので、滅多に若年寄→老中とはならなくなった。 >>68
若年寄ってのは、大坂表で言えば大坂城代の下の大坂定番に就いた人間とかが
出世で行き着くゴール。基本的には別枠じゃねーの。
それこそ軽格の大抜擢という形だろう。 若年寄になったのは食禄が2万石に満たない小身の大名ばっかりですし 若年寄から老中への起用というのは例外的な抜擢人事だということがわかる。
なんとなれば、幕初幕末を除くと、堀田正俊、久世重之、水野忠之、水野忠成、植村家長といった、
政策の当否はともかく、幕政に影響を及ぼした著名な人物が多いからである。 よく大老の家柄として、井伊、酒井、土井、堀田の4家があげられるが、
酒井はともかく、土井や堀田なんて江戸前期に1人しか出てないのに、
井伊や酒井と同列に扱われるのは納得いかない。 若年寄の後、大坂城代、所司代を経て老中に上がった
人もそれなりにいたように思うけど。 幕末に酒井が大老に就いたのも、誰もが幕府の要職に就きたがらない状態で
大名の役職に旗本が就くようになった挙句の貧乏くだしな 江戸中期から後期にかけて、大老は井伊家の独占状態で、
井伊家当主の名誉職って感じだったのに、
幕末に突然、酒井から大老が出たのは唐突な印象を受ける。 井伊直孝、直弼、酒井忠清を除いては、権威はあるが、実権を伴わない大老で、衆議院議長みたいな感じだった 井伊家は直弼暗殺で権威も丸潰れで幕府との間に溝も出来た。
そうなると酒井家くらいしか残ってなかったんだよ。
それに幕末は各種の役職の秩序もめちゃくちゃになってたし。 直弼が死んだ後の大老なんて、大きめの藩が離反しないようにとはめた枷でしかないだろ。
長州どころか広島岡山鳥取でさえ離反した状況で、姫路と備中松山は大老だ老中だと枷を
はめられて、征伐対象になっちゃいましたとさ。 幕初の権力者ってこんな感じかな?
本多正信・正純→土井利勝→松平信綱→保科正之→酒井忠清→柳沢吉保→間部詮房 こんな感じ
(大久保忠隣)・本多正信・正純→土井利勝→松平信綱→保科正之→酒井忠清→堀田正俊→牧野成貞→柳沢吉保→間部詮房 酒井雅楽頭家は譜代の名門だけど、幕末にいきなり大老に任命されたときの唐突感はイナメナイ。 酒井の嫡流は左衛門尉家だし、雅樂頭家は忠清でトチってるからな。
まあそんだけ成り手がいなかったってこって。 厩橋藩は山だらけで収入がパッとせず、しかも城廓が年々、利根川の侵食でダメになってきて、
酒井忠相はまず山城淀や摂津尼崎への転封を画策したが巧く行かず、酒井忠恭は、ついに播磨姫路への転封を画策した >>75
石高は少し足らないけど
土井利位は江戸城火災がなかったら
土井家では利勝以来の大老に成れたかも 無理じゃね?
江戸時代の中期以後大老職は井伊家独占状態だったからね。
常溜の井伊と土井じゃ家格が違い過ぎる。 大老を出した各家を見ると、井伊家は溜間、姫路酒井家は交互に溜間・帝鑑間、若狭酒井家は雁間(酒井忠進以降帝鑑間)堀田家は雁間(堀田正仲以降帝鑑間)、土井家は雁間 土井利位よりも、堀田正睦の大老起用可能性が高かったと思います。
朝廷と外国をも説得する必要性があり、老中堀田正睦を大老に据えることで、沿岸警備、市中見回りを厳にし、外国船は打ち払うべきだとする御三家指導者水戸斉昭を中心とする攘夷派を抑えることが出来るのではないかと 土井利位って、大塩平八郎の乱のときに大坂城代だった奴だろ。
その後、老中になるのでさえ下に追い抜かれてるし、天保の改革で水野忠邦と衝突したりで
出世しそうにないと思うんだけど 土井利位は選りすぐりの旗本を選抜し、をにさせるなど、非常の決断の出来る人です 堀田って綱吉の時代に一人大老出しただけで、恒常的に大老出してたわけじゃないし、
酒井みたいな譜代の名門でもないし、井伊、酒井と同列に扱われるのは違和感がある。
それについては土井も同じ。結局のところ、幕初の利勝しか大老出してないし。 幕府の序列は詰め間ではっきりしてるからな。
本来の意味の大老を輩出する別格の家って常溜の井伊家だけでしょ。
幕府初期はいろいろ流動的な時代だったので家格ではなく実力で大老になる人間が大半だったと。
土井、酒井雅樂、堀田、大老格の柳澤なんか全部そうだ。
大老四家って言い方はおかしいと思うね。 同感。特に老中から昇格した土井、堀田と、出づればいきなり大老の井伊は分けて考えるべき 大政参与って現代の学者用語であって、当時の名称じゃないよね。
江戸時代って、基本的に「年寄とか「奉行」みたいな泥臭い用語使ってたんだから。
大政参与って、あくまでそういう幕府の重鎮的ポジションにあった人物に対して、
現代の学者が便宜的に付与した研究上での用語でしょ? 大政参与 執事(後見人、将軍の代理)
大老 元老(政務総覧、老中の上役)
松平忠明(1632年 -???)
井伊直孝(1632年 -???)
堀田正盛(1638年 - 1651年)
保科正之(1651年 - 1669年)
榊原忠次(1663年 - 1665年)
井伊直澄(1668年 - 1676年)
稲葉正則(1680年 - 1681年) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています