江戸時代の譜代大名について語ろう
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, ‐ ´ └―'´ ` 寄騎はあくまでも寄親の部下であって主君の直臣としては同格というのは決まり文句のようなものだが(それはある意味で真実ではあるのだが)
実際には家臣団の身分秩序の中で同格というのはあり得ないことで
身分格差があるから寄親寄騎関係が成立するのだから
その同格という言葉に惑わされないようにするべき
徳川は井伊酒井榊原本多などを有力な独立軍団として育て上げる過程で多くの直臣をそれらの与力として附属させているが
幕藩体制が制度的に安定していく中で与力衆は完全に井伊らの家来、即ち徳川の陪臣として扱われるようになっており
与力衆による直臣復帰の試みは数々の運動や騒動(嘆願や出奔)にも拘わらずいずれも果たされず
公儀は「おまえらの主人は附属先の家」という態度を崩さなかった
例えば有名な長坂血槍九郎の本家なども結局本多の家来に成り下がっている(旗本の長坂家は分家)
徳川にとっての与力というのは容易に(ではないかも知れないが)家来に転換するようなものだったかも知れない それはあくまで徳川家中の問題
昌幸が家康の与力になったには、真田側から頼み込んだ話しではなく
あくまで秀吉の指示によるもの
家康と昌幸の間に緩やかでも主従の関係があったかなかったかと言えば
主従関係はなかったと見るのが妥当
主従の関係があったのであれば、家康の関東移封の際に
他の徳川家中と共に関東に移っているはずだが、それもない
それどころか、家康に関東移封の命を下した秀吉自身が
関八州の一部である沼田領を家康にではなく、改めて昌幸に与えている
つまり徳川与力になる事を命じた秀吉自身が明確に否定している
少なくとも昌幸自身は上田での戦に勝った自分が
何で徳川ごときに頭下げなきゃいけないんだというのは終生あったはずで
あったからこそ、関ヶ原での決断に繋がっている
家康の娘婿だった信之個人はともかく
真田家としては関ヶ原前に徳川家中に加わった事はなく
外様大名からスタートと見るのが自然だと思う 戦中ならともかく、秀吉が家康に真田を付けてやるメリットがない
家康は武田旧臣や北条旧臣を独自に取り込んでいる >>502
君は話を少し整理した方がいい
こちらは豊臣時代に徳川家康と真田昌幸の間に主従関係があったなどと言いたいわけではない(信之は主従に近いと見ていいと思うが)
従って強いて主従関係を否定するほどに論点がズレる
そもそも与力大名であることまで否定することは荒唐無稽
豊臣時代から幕初まで与力大名というのは地域ごとのまとまりで編成されているのだから
沼田という隣接地に所領を得たことこそがその証左となりうる(立場としては結城秀康と同じ)
それが何故「秀吉自身が明確に否定」したことになるのか理解に苦しむ
そもそもの論点は江戸期の徳川が真田をどのように見ていたか
幕初について言えば徳川が与力という立場をどのように見ておりそれがその後に真田の立場にどのように影響を与えたかというそれこそ徳川家中の問題以外の何物でもない
(信之に関して言えば家来同然に行動を共にしており主従と見られて差し支えないはず)
繰り返すが「譜代だから」(又は「外様なのに」)帝鑑間に班しているという認識は倒錯であって
逆に帝鑑間席だから「御譜代大名」と呼ばれると考えるべきもの
そしてそれは徳川がそれら大名をどのように見ていたかの問題 寛政譜を見返してみたが真田歴代の記事で席についての記述はほとんどなかった
尤も寛政譜の通例として収録されているうちの最後の当主の記事にはその家の領知・居城・伺候席などについての記述が含まれるが
真田家の場合はそれが幸専でそこには「代々帝鑑間に候す」と記されている
真田が帝鑑間に移動したというのなら移動前の席もわかる筈だが管見の限りではそういう記述を目にしたことがない
柳間なのか?雁間なのか?
(信之の時代から帝鑑間という記述を見たことはあるがこれはちょっと真偽不明)
>>500の言う「実質譜代扱いとな」ったり「現状を追認してもらった」ということがどこから推論できるのか教えてほしい 堀田備中、松平伊賀に代わり、太田備後守、間部下総守、松平和泉守を、新たなる老中に迎えた。 堀田正盛は家光に殉死、長男正信は鋏で喉を突いて自殺、三男正俊は城の中で又従兄弟に殺害される
因みに肥後藩細川宗孝を城の中で殺害した旗本板倉勝該には堀田正信の血が流れているだと。 文政期に越前松平斉善が彦根との交代転封を画策した話と、慶応期に、井伊家の駿府転封計画があがっていた話は興味深い 1623年(元和8年)の東国の一斉転封は、譜代大名中心の、かつ秀忠期としては大規模で注目に値する。
最上家57万石除封にともない、鳥居忠政、酒井忠勝、戸沢政盛、松平重忠、六郷政乗、内藤政親、真田信之、仙石忠政を移転さすものだったからである 酒井忠勝という同姓同名が同時代にいたのも不思議だな 大名家とか大身旗本家の正室の名前に
「の方」と付けるのは、
側室っぽいから不適当? 方ってまさに「〜の方(ほう)にお住まいの人」って語源じゃないの?
別に属性を表しているわけじゃない
貴人を直接固有名詞で呼ばずに居住地で呼ぶのは武士以前からあるし
ただ慣例として北の方に御台所が多く済む住居形態が多くなったから
そうなっていったという気がする素人 サンクス。
側室がいない家なら
あながち不自然ではない? 維持費がバカにならないとは思うが、高取の植村って譜代大名、2万500石にしては立派な近世城郭もってたんだな
のち、嫡男が遊女と相対死にしてしまい、隠して家督をついだのが庶子の植村家長。4500石加増 高禄旗本の奥向きの方が
譜代大名の奥向きよりも贅沢なんだろうか。 井伊直弼は桜田門外の変のあと幕府に隠され、胴体と首は水戸藩の医師によって縫い合わされた 水戸浪人は首を抱えて若年寄遠藤但馬の邸に自首、
井伊家が、首を返してくださいととりにきたけど、遠藤は遠藤で、幕府の許可がおりないから待ってくれの一点張りで、
胴体は雪道に放置だから見た人の口伝てで死んだことはバレバレ。
しかしながら公方からは医者の派遣と朝鮮人参の恩賜、
水戸藩家老は身のすくむ思いで彦根藩邸に見舞いに訪問 江戸時代、特に幕末はカオスだったな。
ちょんまげかと思えばヒゲはやしてハットかぶってた人がいた。 譜代大名の正室を暗殺とか、
町方の人間には至難の業? 池波正太郎先生の
忘れ形見、うめやす君も
大身旗本奥方の暗殺に
悩んでいたな
遊び好きの奥方なら
仕留めやすいかも >>519
会津藩主松平容保が大老襲撃は水戸脱藩浪人の個人的責任であり、
水戸藩及び藩主に罪なしと主張して、水戸征伐の声が上がっていた幕閣をなだめた
おかげで桜田門外の変を引き金とする内戦の発生を防げた 調停したのは安藤信正でしょ
その頃の松平容保にそんな政治力はとても無い 寧ろ安藤・久世あたりは他の御三家と雄藩使って抑えるつもりだったと
そこに否と答えて当初は無視されたが後日将軍に呼ばれて話を聞き対処した・・・と
「元会津家臣」の話ではそうなってるw 老中を出した真田とか
将軍の子や一橋家の子がが継いだ蜂須賀とか黒田は外様なのか? 名君、名政治家を多数輩出した岸和田藩。今は学力も所得も低いヤンキーの町。殿様たちが泣いている。 同時代で「御譜代大名」と呼ばれていたのは帝鑑間席の大名のこと
黒書院溜間詰なら「溜詰」、雁間詰なら「詰衆」、菊間櫞頰詰なら「詰衆並」と呼ばれて区別される
真田家はほぼ幕初から一貫して帝鑑間席だから正真正銘の「御譜代大名」
大広間席の蜂須賀や黒田は当然「御譜代大名」ではない
(但し本来大広間席の大名でも越前、薩摩、因幡、阿波、津山、前橋、明石などは公儀との縁組によって幕末までには大廊下席に移動している) >>528
真田は松平定信の長男が養子に来て老中になった
実父が老中首座を勤めた松平定信ということで席も譜代席が与えられていた メクラにレスしてもあなたのレスを読んでもらえないので無意味 寛政譜にも真田は「代々帝鑑間に候し云々」と書かれてるからね 譜代とか外様とかは明治時代の学者が適当に分類したのを踏襲してるだけだからな
真田がいつから徳川に臣従したのか確定しにくいが(与力大名の立場から徐々にズブズブになっていったのだろう)
かなり初期から帝鑑間大名だったようで
相馬や戸沢のように殿中席の移動を伴う「御願い御譜代」ではなかったことは確か 定信の実子を迎えるまで老中が出てないのも不思議だな、真田さん
10万石では大きすぎたか 10万石級の帝鑑間譜代大名では美濃大垣の戸田家も老中就任がない
他には相模小田原の大久保は幕初から老中
備後福山や陸奥白河の両阿部や若狭小浜の酒井は老中の常連だが雁間から功績によって帝鑑間に移動してる
十五万石級だと播磨姫路の酒井くらいしかいないがこれは大老にもなる家 老中に就任するメリットって、大名個人の名誉欲を満たすだけ?
要路筋に貢ぎまくって老中を務めても大した加増もないみたいだし。
逆に水野忠邦のように内分の豊かな領地からそうでもない領地への転封とか。
財政的なメリットは、付け届けくらい?
家格も四位侍従になれるのは老中になった一代のみで、次代はまた五位の朝散太夫だし。 >>538
だって老中になれば、幕府政治を主導できるじゃん
野心ある政治家にとってはたまらないだろう 収入が同じなら楽な仕事のほうがいいよな
失敗すれば処分されるしさ 譜代大名の楽なお役目bPは、役料が石高の100%の大阪加番? >>538
一応老中や所司代の次代は60歳で四品に昇れる 仙石が帝鑑間席というのも奇妙だ。のちに柳間席に移動され、外様だと正式に扱われたわけだが 諏訪って地味に老中出してるんだな
松平定信の外孫だからという理由で 江戸時代の大名は養子だらけ
はじまりが外様の家でも
どんどん徳川や松平の血筋の養子に
置き換えられて行っている >>546
ミスリーディングな書き方だな
逆に奥平は島津の血統になってるが >>548
入り婿だろ
もともと奥平の男系は松平ではないし
女子に入り婿を繰り返している
昌高は先代の血を受け継ぐ正室に子がなかったため
結果的に別の血筋になってしまっただけで
本来は女系継承するはずだった >>547
地味にかの有名な上杉鷹山を輩出している。 上杉は譜代なのか?
としつこいageバカに聞いても無駄か スレの流れ → スレ違いもわからないバカ>>553 阿部一族は2系統で老中を出しまくってるが
優秀な血統だったのかな 竜田神社は、房丸所蔵の宝剣とされる名刀「竜田丸」を御神体として、寛文二年(1662)に建立されたと社伝がのこる。 岡崎譜代や浜松譜代ならぬ江戸譜代がいるとしたら、北条旧臣とかになるの?
中山信吉は水戸徳川家の付家老だから万石以上でも大名ではないね 井伊家の当主を大老にするかどうかは実質的にだれが決めてたの?
形式的には将軍さまでしょうが 家治危篤から松平定信政権掌握までは、江戸時代屈指の暗闘が繰り広げられた。
近従が主殿頭を刺し殺すべしとまで反感を抱いていることを、出羽守忠友から知らされた意次は、しばらく病と称して登城を控えていたが、
既に出羽守は民部卿に寝返っており、家治の下命として老中免官、58000石のうち、2万石を収公された。
また、民部卿は、御三家に対し、次期老中の推挙を働きかけたが、御三家からは、秋元摂津守永朝の名しか出てこなかった。
民部卿は、秋元では話にならぬとし、御三家の同意のもとに、松平越中守定信、酒井若狭守忠貫、戸田采女正氏教を推挙し、
あわせて、就任させてはならないものとして、阿部伊予守正右を挙げた。
ところが、出羽守忠友らは、定信らの老中就任を拒み、逆に、非推薦リストにあった阿部正右が老中にされてしまう。 >>562
もともとは将軍家光が任命した臨時職で
形式上は将軍が必要だと判断した際に置くものだった
ただし後のほうになると政務を取らない将軍も続いたしグダグダ
井伊直幸は田沼意次に賄賂を積んで大老になったと噂になってたし 譜代大名って、江戸での役職はどんなのがあったの?大名火消しとかもしてたの? 幕末の庄内藩のように、幕府から江戸市中警守を頼まれることがある。 江戸在府で、という意味かな
譜代大名の定義にもよるが
大老
老中・老中格
御側御用人
若年寄・若年寄格
御奏者番・寺社奉行
大御番頭(旗本役)
江戸在府に限らなければ
京都所司代
大坂御城代
大坂御定番
伏見奉行(旗本役)
幕初だと
大御留守居
幕末だと
学問所奉行
二条御定番
甲府御城代
山田奉行(旗本役)
山陵奉行
禁裏附頭取
京都見廻役
ちなみに無城がこれらの御役に就くと一代城主格とされる 駿府城代に大名が就いたのは幕初の2人くらい
長崎奉行も同様で1人くらいしかいない >>567
そうです。江戸在府で、という意味です。
譜代大名は火消しの職を仰せつかる所もあったのでしょうか? 大名火消は譜代に限らない
また大名火消は江戸城の門番と同じで役職扱いではない >>571
ということは、大名火消しをやりつつ、他の役職も兼ねなければならなかったって事ですか?
(つまり、大名火消しは江戸に参勤してきた 譜代を含むほとんどの大名がしなくてはならなくて
それをした上で、譜代は他の役職もしなければならなかったってこと?) >>572
役職者は当然免除
役に就いてない大名のノルマみたいなもので交代制
他に役職扱いでないものに大坂加番などがある >>573
交代制ってことは、江戸参勤中はずっとってことではなく、
例えば1ヶ月おきに当番になったりならなかったりとか、そういう感じ? >>574
そこまでいくとよく知らないが担当地域を他の家と10日ごとに交代とかそんな感じだったかな
門番だと二交代のようだがこちらは期間まではちょっとわからない
参覲交代のたびにコロコロ変わって門番役をやったり火消役をやったりという感じだろう
ただ門番役は家来がやればいいが火消役は大名本人が出張らなければならない
他に大名に対する課役には普請役(いわゆるお手伝い普請)、勅使などの饗応役などがある
これらは持ち出しで給料は出ない
大坂加番だけ例外で給料を貰える 譜代関係で、一番高位に昇ったのは何気に、榊原康政の甥の照久(従二位、久能山東照宮祭主)なんだよな。
水戸徳川家よりも上位とは、すごい。一代限りではあったけど。 非参議だから従四位下の参議より下座
もう少し官位について勉強しましょう 俺の大伯父は従三位を追贈されてたから
譜代大名以上クラスだったんだな。 >>578
官位の序列について勘違いして論じてメチャクチャになってる奴っているよな
質問サイトで「位階が序列を表すので従三位中納言より正三位参議の方が上ですキリッ」とか知ったかぶってるバカは可愛い方で
昔の論文見てたら豊臣政権〜江戸初期の武家の官位による序列とその変遷を論ずるのに位階の上下だけを問題にして揚げ句に公家成大名と諸大夫を区別せずに論じててぶったまげた 駿河忠長に付けられた朝倉って
もし独立してたら譜代大名扱いだったのか? 左近将監乗邑は1万石没収のうえ老中を免職になったが、子息和泉守乗祐は帝鑑間席筆頭にあげられた >>582
西尾の大給松平家は尼崎の桜井松平家と共に代々帝鑑間取締
一万石没収も在職中の加増分を削られただけで家格に変更がなかったということでしかない
尚帝鑑間取締は同席の諸大夫の取締であり四品以上には監督権が及ばない
また両家の当主が四品以上の場合はその嫡子が取締になる 昨日観た水戸黄門の映画で
何か凄い人出てるなと思ったら三船敏郎だった >>584
そもそも質問サイトは質問する方も回答する方も馬鹿 安倍晋三は李氏朝鮮の王族の3世であることが明らかになっています。
安倍晋三は李氏朝鮮最後の皇太子で李垠の第一子
李晋の3世。李晋の晋と三世の三から、おそらく晋三とつけたのですね。
そして北朝鮮拉致被害者家族の横田早紀江は、安倍晋三の叔母で
あることが発覚しました。
横田めぐみは、金正恩の母親であり、安倍晋三の従妹でした。
以下のブログを読めば、
世の中がどれほどの嘘と悪で満ち溢れているか
そして我々が悪人のカモにずっとされてきた事に
気づくでしょう。
Kawataのブログ検索
http://kawata2018.com/
【北朝鮮拉致問題は嘘だった!!】横田早紀江と拉致被害者家族のドス黒い闇
http://kawata2018.com/2019-11-09/
RAPTブログ検索
http://rapt-neo.com/?page_id=21576 稲葉家も堀田家も本来は外様なのに、春日局の親戚だから譜代扱いとなったチーター譜代 >>538
でも老中や奉行って現代の労働法だと一発アウトの超激務だったらしいな。
とても材木商と吉原で黄金餅貰って遊ぶ余裕は無くて仕事仕事仕事…ちょっと休み!みたいなもんだったとか。
でもみんなやりたがるわけで、デキる男のポジションだったんだろうな。 最後の大老、姫路酒井の末裔は生活保護まで受けるに至る 世良田次郎三郎は願人坊主の江川徳阿弥だろ
三河に流れてきて土豪の賀茂松平を乗っ取った >>595
今の日本の税制って稼ぐ能力がないアホが2代続くと
どんな名族富豪でも一般人以下になるようできているからな 安倍のじいさん「おいは熊毛の田布施からきた朝鮮人たい」 井伊直弼を大老に起用したのは、形式的には将軍だが、実質は、南紀派、その主たる構成は、大奥、松平忠固、水野忠央、薬師寺元真
水野は、妹が家慶の側室だったのでそのつてを利用した ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています