江戸時代の譜代大名について語ろう
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, ‐ ´ └―'´ ` 井伊家の当主を大老にするかどうかは実質的にだれが決めてたの?
形式的には将軍さまでしょうが 家治危篤から松平定信政権掌握までは、江戸時代屈指の暗闘が繰り広げられた。
近従が主殿頭を刺し殺すべしとまで反感を抱いていることを、出羽守忠友から知らされた意次は、しばらく病と称して登城を控えていたが、
既に出羽守は民部卿に寝返っており、家治の下命として老中免官、58000石のうち、2万石を収公された。
また、民部卿は、御三家に対し、次期老中の推挙を働きかけたが、御三家からは、秋元摂津守永朝の名しか出てこなかった。
民部卿は、秋元では話にならぬとし、御三家の同意のもとに、松平越中守定信、酒井若狭守忠貫、戸田采女正氏教を推挙し、
あわせて、就任させてはならないものとして、阿部伊予守正右を挙げた。
ところが、出羽守忠友らは、定信らの老中就任を拒み、逆に、非推薦リストにあった阿部正右が老中にされてしまう。 >>562
もともとは将軍家光が任命した臨時職で
形式上は将軍が必要だと判断した際に置くものだった
ただし後のほうになると政務を取らない将軍も続いたしグダグダ
井伊直幸は田沼意次に賄賂を積んで大老になったと噂になってたし 譜代大名って、江戸での役職はどんなのがあったの?大名火消しとかもしてたの? 幕末の庄内藩のように、幕府から江戸市中警守を頼まれることがある。 江戸在府で、という意味かな
譜代大名の定義にもよるが
大老
老中・老中格
御側御用人
若年寄・若年寄格
御奏者番・寺社奉行
大御番頭(旗本役)
江戸在府に限らなければ
京都所司代
大坂御城代
大坂御定番
伏見奉行(旗本役)
幕初だと
大御留守居
幕末だと
学問所奉行
二条御定番
甲府御城代
山田奉行(旗本役)
山陵奉行
禁裏附頭取
京都見廻役
ちなみに無城がこれらの御役に就くと一代城主格とされる 駿府城代に大名が就いたのは幕初の2人くらい
長崎奉行も同様で1人くらいしかいない >>567
そうです。江戸在府で、という意味です。
譜代大名は火消しの職を仰せつかる所もあったのでしょうか? 大名火消は譜代に限らない
また大名火消は江戸城の門番と同じで役職扱いではない >>571
ということは、大名火消しをやりつつ、他の役職も兼ねなければならなかったって事ですか?
(つまり、大名火消しは江戸に参勤してきた 譜代を含むほとんどの大名がしなくてはならなくて
それをした上で、譜代は他の役職もしなければならなかったってこと?) >>572
役職者は当然免除
役に就いてない大名のノルマみたいなもので交代制
他に役職扱いでないものに大坂加番などがある >>573
交代制ってことは、江戸参勤中はずっとってことではなく、
例えば1ヶ月おきに当番になったりならなかったりとか、そういう感じ? >>574
そこまでいくとよく知らないが担当地域を他の家と10日ごとに交代とかそんな感じだったかな
門番だと二交代のようだがこちらは期間まではちょっとわからない
参覲交代のたびにコロコロ変わって門番役をやったり火消役をやったりという感じだろう
ただ門番役は家来がやればいいが火消役は大名本人が出張らなければならない
他に大名に対する課役には普請役(いわゆるお手伝い普請)、勅使などの饗応役などがある
これらは持ち出しで給料は出ない
大坂加番だけ例外で給料を貰える 譜代関係で、一番高位に昇ったのは何気に、榊原康政の甥の照久(従二位、久能山東照宮祭主)なんだよな。
水戸徳川家よりも上位とは、すごい。一代限りではあったけど。 非参議だから従四位下の参議より下座
もう少し官位について勉強しましょう 俺の大伯父は従三位を追贈されてたから
譜代大名以上クラスだったんだな。 >>578
官位の序列について勘違いして論じてメチャクチャになってる奴っているよな
質問サイトで「位階が序列を表すので従三位中納言より正三位参議の方が上ですキリッ」とか知ったかぶってるバカは可愛い方で
昔の論文見てたら豊臣政権〜江戸初期の武家の官位による序列とその変遷を論ずるのに位階の上下だけを問題にして揚げ句に公家成大名と諸大夫を区別せずに論じててぶったまげた 駿河忠長に付けられた朝倉って
もし独立してたら譜代大名扱いだったのか? 左近将監乗邑は1万石没収のうえ老中を免職になったが、子息和泉守乗祐は帝鑑間席筆頭にあげられた >>582
西尾の大給松平家は尼崎の桜井松平家と共に代々帝鑑間取締
一万石没収も在職中の加増分を削られただけで家格に変更がなかったということでしかない
尚帝鑑間取締は同席の諸大夫の取締であり四品以上には監督権が及ばない
また両家の当主が四品以上の場合はその嫡子が取締になる 昨日観た水戸黄門の映画で
何か凄い人出てるなと思ったら三船敏郎だった >>584
そもそも質問サイトは質問する方も回答する方も馬鹿 安倍晋三は李氏朝鮮の王族の3世であることが明らかになっています。
安倍晋三は李氏朝鮮最後の皇太子で李垠の第一子
李晋の3世。李晋の晋と三世の三から、おそらく晋三とつけたのですね。
そして北朝鮮拉致被害者家族の横田早紀江は、安倍晋三の叔母で
あることが発覚しました。
横田めぐみは、金正恩の母親であり、安倍晋三の従妹でした。
以下のブログを読めば、
世の中がどれほどの嘘と悪で満ち溢れているか
そして我々が悪人のカモにずっとされてきた事に
気づくでしょう。
Kawataのブログ検索
http://kawata2018.com/
【北朝鮮拉致問題は嘘だった!!】横田早紀江と拉致被害者家族のドス黒い闇
http://kawata2018.com/2019-11-09/
RAPTブログ検索
http://rapt-neo.com/?page_id=21576 稲葉家も堀田家も本来は外様なのに、春日局の親戚だから譜代扱いとなったチーター譜代 >>538
でも老中や奉行って現代の労働法だと一発アウトの超激務だったらしいな。
とても材木商と吉原で黄金餅貰って遊ぶ余裕は無くて仕事仕事仕事…ちょっと休み!みたいなもんだったとか。
でもみんなやりたがるわけで、デキる男のポジションだったんだろうな。 最後の大老、姫路酒井の末裔は生活保護まで受けるに至る 世良田次郎三郎は願人坊主の江川徳阿弥だろ
三河に流れてきて土豪の賀茂松平を乗っ取った >>595
今の日本の税制って稼ぐ能力がないアホが2代続くと
どんな名族富豪でも一般人以下になるようできているからな 安倍のじいさん「おいは熊毛の田布施からきた朝鮮人たい」 井伊直弼を大老に起用したのは、形式的には将軍だが、実質は、南紀派、その主たる構成は、大奥、松平忠固、水野忠央、薬師寺元真
水野は、妹が家慶の側室だったのでそのつてを利用した 安城松平の通字が忠だからだろ
親忠、長忠、信忠、広忠、秀忠 藩主鳥居忠政は左京亮を名乗ったが、一度藩がつぶれて名跡復活されてからは左京亮を官名に名乗っている人物は見当たらない。 外様大名についてですが、
福岡藩は当初52万石で、支藩分を差し引いて表高47万石扱い
熊本藩は当初54万石で、支藩分を差し引かず表高54万石扱いだったのはなぜですか?
(新田藩ではなく、支藩分を差し引くor差し引かないの違い) 本藩から分知される場合と幕府から新規に与えられる場合がある >>611
それなら福岡藩の表高が
外様 52万3千余石→43万3千余石(秋月藩・直方藩へ分地)→47万3千余石(直方藩廃藩につき還付)
っていうのはおかしいでしょ。 あくまでも一般論であるが、独立性の強い順でいうと以下のようになる。
本藩と支藩それぞれに対し、別々に朱印状が発給される場合(宇和島藩や讃岐高松藩の例)
本藩宛ての朱印状に支藩が併記される形式であって、本藩分の石高と支藩分の石高が別建てで記載されている場合(「本藩○○石、支藩○○石」…この場合、本藩知行(朱印高)は本来領知を認められて朱印状に記載された分(拝領高)から支藩分(内分高)だけ減少する)
本藩宛ての朱印状に支藩が併記される形式であって、本藩分の石高に含まれる形で支藩分の石高が記載されている場合(「本藩○○石そのうち支藩○○石」…この場合、本藩知行は実質では支藩分だけ減少するものの、朱印高は維持された)
本藩宛ての朱印状に支藩が併記されず、支藩宛ての朱印状も発給されない場合(○○新田藩に多い…新田開発分は幕府が検地などで公認したものでないため拝領高とは看做されなかったため) 萩(長州)藩は支藩の石高を含む
これは桃山時代からの踏襲
毛利112万石には秀元の山口12万石も広家の富田14万石も
隆景の三原5万石も含む
筑前の秀秋と伊予の安国寺は別家の扱いで石高は別 毛利家から譜代秋元家に養子が入ったり、島津や藤堂から御家門伊予松平家に養子が入ったりなど、色々あって興味深い >>613-614
遅くなりましたが、ご教示いただき誠にありがとうございました。
>>615
以前は毛利家120万5千石(上杉家120万石より5千石多い)との記載が多かったように思いますが、
最近112万石に修正されているのはなにか解釈が変わったのでしょうか?
当時も毛利家は第3位に転落したという認識だったのでしょうか。 江戸時代に幕府から大名に何か動物贈った逸話があったと思うんだが何だったっけ?
確か世話が大変な割に役には立たなくて、幕府から贈られたものだから死なすわけにはいかず…って大名の負担になったものだったはずなんだが >>615
毛利公爵家に現存の秀吉から輝元宛の朱印状があり
同様に前田家に残る江戸幕府からの朱印状も119万石と記される
(教科書などに書かれてる前田利長・利常の石高を120万石というのは四捨五入すれば間違いとは言い切れない)
また土佐藩も俗に言われてる24万石は誤りとされる
山内家に現存する朱印状は20万石余で
24万石を認めた公式文書はない 毛利公爵家に現存の秀吉から輝元宛の朱印状があり
「百拾弐萬石」となっている。 >>620 >>622
ありがとうございました。
Wiki には毛利輝元への在京領 8万3千石との記述があるようですが、
これは含まれているのでしょうか?
上杉家の石高に関してはWikiでは、朱印状は発行されておらず通説としてとあるようですね。
しかし、転封前が
>越後、佐渡二国に信濃川中島四郡、出羽庄内三郡、併せて91万石余の支配領域が確定した。
>この他に上方に台所入(軍役外)の在京領(10万石[11]余)があった。
が事実であれば、101万石→120万石は妥当に思えます。 そんなに細かく知りたいなら
Wikiなんか見てないで自分で根拠資料あたりなよ
「Wikiでは」で草生えた 萩や米沢や金沢の図書館や歴史民俗資料館などで充分だよ
現物は国宝とかで閲覧できないけど
写しなら旧城下町なら大抵は藩の文書がどの市にある
譜代(親藩だけど幕末には譜代みたいに活動)大名だと
福井の越前松平なんか
「結城秀康様の知行宛状には75万石と書いてるが
松平忠直公の朱印状には67万石になってる
残りの8万石はいったい何処にいったのだろう?」
などと役人(減封され32万石になった福井侍従の頃)が不思議がって藩の記録に書いてある部分があったりする。
(下総の結城および結城の家督を結城家に譲り松平に改姓したときの件) 譜代大名は要地に置かれ、外様大名の謀反に備えられたが、機能したのは庄内の酒井くらいか?小倉は丸焼けになって逃げてしまったし、浜田も磐城平も白河も、落城。
加賀の前田を牽制するつもりで福井と高田に家康の公子を配したが、先に自滅してしまっている >>624
なにも情報を書くことすらなく汚い言葉しか書けないお前が一番不要 譜代大名の筆頭格は近江井伊家として、トップ10は皆さんどのようにお考えですか? 同時代的に譜代大名というのは帝鑑間席の大名のこと
柳沢は帝鑑間席 譜代大名 井伊家35万石 姫路酒井家15万石 庄内酒井家14万石 榊原家15万石 柳沢家15万石、小笠原家15万石、福山阿部家11万石 堀田家11万石 白河阿部家10万石、土屋家9万石 など
本多家は5万石、鳥居家は3万石にまで落ちてしまっている 井伊は35万石で城主なのに
柳沢は15万石で国もちとかいちびりくさって 両阿部家や堀田など老中や所司代に仰せ付けられることでやっと侍從となる家に比して
家格として侍從以上に昇進する家が優格であることは論ずるまでもない
領知 高 名前 極官 歷代官位敍任
◆定溜
@近江國彦根 高三十五萬石 井伊掃部頭 正四位上中將 侍從16少將13中將9
※陸奧國會津 高二十八萬石 松平(保科)肥後守 正四位下中將 侍從13少將7中將5
※讚岐國高松 高十二萬石 松平讚岐守 從四位上中將 侍從13少將10中將6
◆飛溜
A播磨國姫路 高十五萬石 酒井雅樂頭 從四位下少將 侍從13少將7
B伊豫國松山 高十五萬石 松平(久松)隱岐守 從四位下少將 侍從9少將5
C伊勢國桑名 高十一萬石 松平(久松)越中守 從四位下少將 侍從5少將4中將1
D武藏國忍 高十萬石 松平(奧平)下總守 從四位下少將 侍從11少將3
◆その他の御譜代侍從の家等
E豐前國小倉 高十五萬石 小笠原右近將監 從四位下侍從 侍從8少將1
F越後國高田 高十五萬石 榊原式部大輔 從四位下侍從 侍從6
G出羽國庄内 高十七萬石格 酒井左衞門尉 從四位下侍從 侍從5少將1
H大和國郡山 高十五萬千二百石餘 松平(柳澤)甲斐守 從四位下侍從 侍從4少將1
I豐前國中津 高十萬石 奧平大膳大夫 從四位下 侍從1
奧平大膳大夫は侍從に昇進した例が少ないが家格として四品に昇進する家と見なせるので侍從以上に昇進する家に准ずる 大老の堀田正俊は瀕死の重傷を負い、普通なら城内で治療すべきなのに、あの体で屋敷に帰したと。しかも不浄門から出したという。ひどい 何が「ひどい」んだか
記録では医師による治療は行ったとある
むしろこのパターンは既に殿中で絶命していて
体裁を取り繕う為に屋敷で死んだことにしたものだろう
後年細川家当主が殺害されたときと同じ 松平定信の子が外様の真田家を継いだ経緯を教えてください まずスレを読み返して真田が外様であるという前提から考え直した方がいい あきらかに外様じゃん
10万石もある、幕閣も輩出してない 10万石級の譜代も幕閣を輩出していない譜代も珍しくはないし真田は老中を輩出している
学界では今や江戸幕府制度の実態に無知な明治期の学者の恣意的な分類を使い続ける馬鹿丸出しなことはやめましょうという流れになっている
少しは勉強しようよ >>272
こう見ると幕末は幕府vs親藩のお家騒動なんだなと思う 雁間は新興譜代の着席となり、秋元但馬守、板倉周防守、阿部豊後守、阿部伊勢守、堀田備中守、安藤対馬守、久世大和守、松平伊豆守、松平伯耆守、松平右京亮、土屋相模守、水野越前守、三浦志摩守、太田備後守、牧野越中守、間部下総守 坂下門外の変での逃亡を糾弾され、安藤対馬守信睦は失脚 >>652
そう尊皇だの攘夷は建前。本音は内紛に過ぎない しかも孝明天皇は長州嫌いの鎖国主義者で幕府より幕府的だとういう 天皇を過剰に崇拝してる奴等ほど天皇とは真逆の主張をするというのは今も昔も変わらないんだなw
昭和天皇も対米開戦には乗り気じゃなかったみたいだが強引に押し切られた 1944年末には敗色濃厚で翌45年2月には近衛の降伏上奏文が出されたが、昭和天皇の判断で戦争継続することになった。
もしこの時に降伏していたら、ソ連参戦はなく南樺太も千島列島も失うことは無かったろう。
敗戦が不可避となっても天皇は降伏を引き延ばし、自らの延命のためだけに多くの人々を死に追いやった。45年2月には元首相・近衛文麿が天皇への上奏文で「敗戦はもはや必至」と述べ、「国体護持」すなわち天皇・皇室の維持のためには今すぐ連合国に降伏するのが得策だと提言した。ところが天皇は、「(国体護持のためには)もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しい」とこれを却下し、さらに半年も戦争を継続した。この天皇の悪あがきのために沖縄は「捨て石」にされ、日本中が空襲で焼け野原にされ、膨大な数の兵士や一般市民が命を落とし、ついには広島・長崎への原爆投下にまで至った。 太平洋戦争の敗戦から少し経った後、昭和天皇がマッカーサー司令官の執務室を訪ねた。マッカーサーは、たばこを勧めた。天皇の手は震えていた。「真珠湾攻撃は、東條が私をだましてやったこと」と言った。天皇の主張を、マッカーサーは受け入れた。日本の統治に天皇の協力が必要だったからだ。戦犯の「線引き」が始まった。国民をだまして日本を戦争に追いやった指導者だけを断罪することになった。もちろん、頂点には天皇がいた。しかし「東條にだまされた」という一言で、天皇は「だまされた者」に化けた。歴史的な喜劇だ。
処刑されるのを恐れ、国民統合の象徴として恥ずかしい保身に走ってしまった。
あれでは国のため、陛下のために命を犠牲にした英霊たちが浮かばれない。
国家元首として戦争責任をとるために、潔く退位すべきだった。
結果的に戦争責任を曖昧にするために「一億総懺悔」なる言葉が生まれた。何で戦争の犠牲になった国民が懺悔するんだよって話し。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています