江戸時代の譜代大名について語ろう
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, ‐ ´ └―'´ ` 若年寄の後、大坂城代、所司代を経て老中に上がった
人もそれなりにいたように思うけど。 幕末に酒井が大老に就いたのも、誰もが幕府の要職に就きたがらない状態で
大名の役職に旗本が就くようになった挙句の貧乏くだしな 江戸中期から後期にかけて、大老は井伊家の独占状態で、
井伊家当主の名誉職って感じだったのに、
幕末に突然、酒井から大老が出たのは唐突な印象を受ける。 井伊直孝、直弼、酒井忠清を除いては、権威はあるが、実権を伴わない大老で、衆議院議長みたいな感じだった 井伊家は直弼暗殺で権威も丸潰れで幕府との間に溝も出来た。
そうなると酒井家くらいしか残ってなかったんだよ。
それに幕末は各種の役職の秩序もめちゃくちゃになってたし。 直弼が死んだ後の大老なんて、大きめの藩が離反しないようにとはめた枷でしかないだろ。
長州どころか広島岡山鳥取でさえ離反した状況で、姫路と備中松山は大老だ老中だと枷を
はめられて、征伐対象になっちゃいましたとさ。 幕初の権力者ってこんな感じかな?
本多正信・正純→土井利勝→松平信綱→保科正之→酒井忠清→柳沢吉保→間部詮房 こんな感じ
(大久保忠隣)・本多正信・正純→土井利勝→松平信綱→保科正之→酒井忠清→堀田正俊→牧野成貞→柳沢吉保→間部詮房 酒井雅楽頭家は譜代の名門だけど、幕末にいきなり大老に任命されたときの唐突感はイナメナイ。 酒井の嫡流は左衛門尉家だし、雅樂頭家は忠清でトチってるからな。
まあそんだけ成り手がいなかったってこって。 厩橋藩は山だらけで収入がパッとせず、しかも城廓が年々、利根川の侵食でダメになってきて、
酒井忠相はまず山城淀や摂津尼崎への転封を画策したが巧く行かず、酒井忠恭は、ついに播磨姫路への転封を画策した >>75
石高は少し足らないけど
土井利位は江戸城火災がなかったら
土井家では利勝以来の大老に成れたかも 無理じゃね?
江戸時代の中期以後大老職は井伊家独占状態だったからね。
常溜の井伊と土井じゃ家格が違い過ぎる。 大老を出した各家を見ると、井伊家は溜間、姫路酒井家は交互に溜間・帝鑑間、若狭酒井家は雁間(酒井忠進以降帝鑑間)堀田家は雁間(堀田正仲以降帝鑑間)、土井家は雁間 土井利位よりも、堀田正睦の大老起用可能性が高かったと思います。
朝廷と外国をも説得する必要性があり、老中堀田正睦を大老に据えることで、沿岸警備、市中見回りを厳にし、外国船は打ち払うべきだとする御三家指導者水戸斉昭を中心とする攘夷派を抑えることが出来るのではないかと 土井利位って、大塩平八郎の乱のときに大坂城代だった奴だろ。
その後、老中になるのでさえ下に追い抜かれてるし、天保の改革で水野忠邦と衝突したりで
出世しそうにないと思うんだけど 土井利位は選りすぐりの旗本を選抜し、をにさせるなど、非常の決断の出来る人です 堀田って綱吉の時代に一人大老出しただけで、恒常的に大老出してたわけじゃないし、
酒井みたいな譜代の名門でもないし、井伊、酒井と同列に扱われるのは違和感がある。
それについては土井も同じ。結局のところ、幕初の利勝しか大老出してないし。 幕府の序列は詰め間ではっきりしてるからな。
本来の意味の大老を輩出する別格の家って常溜の井伊家だけでしょ。
幕府初期はいろいろ流動的な時代だったので家格ではなく実力で大老になる人間が大半だったと。
土井、酒井雅樂、堀田、大老格の柳澤なんか全部そうだ。
大老四家って言い方はおかしいと思うね。 同感。特に老中から昇格した土井、堀田と、出づればいきなり大老の井伊は分けて考えるべき 大政参与って現代の学者用語であって、当時の名称じゃないよね。
江戸時代って、基本的に「年寄とか「奉行」みたいな泥臭い用語使ってたんだから。
大政参与って、あくまでそういう幕府の重鎮的ポジションにあった人物に対して、
現代の学者が便宜的に付与した研究上での用語でしょ? 大政参与 執事(後見人、将軍の代理)
大老 元老(政務総覧、老中の上役)
松平忠明(1632年 -???)
井伊直孝(1632年 -???)
堀田正盛(1638年 - 1651年)
保科正之(1651年 - 1669年)
榊原忠次(1663年 - 1665年)
井伊直澄(1668年 - 1676年)
稲葉正則(1680年 - 1681年) 大政参与とか元老なんて、いかにも後付の学者用語っぽいな。
あの時代にそんな言葉が使われてたとは思えない。 >>102を訂正
× 江戸時代って、基本的に「年寄とか「奉行」みたいな泥臭い用語使ってたんだから。
○ 江戸時代って、基本的に「年寄」とか「奉行」みたいな泥臭い用語使ってたんだから。 > 本来の意味の大老を輩出する別格の家って常溜の井伊家だけでしょ。
> 幕府初期はいろいろ流動的な時代だったので家格ではなく実力で大老になる人間が大半だったと。
逆じゃないかな。
流動的な時代に権力を確保したから別格になったわけで、最初から井伊家が
抜きんでていたというわけでもない。 その指摘は示唆的である。
じじつ正俊が遭難してからの堀田氏は格式は10万石ながら内高は5万石という僻地の陸奥福島、出羽山形に転封させられ、大老も2度と出せなかった。
したがって仮に江戸幕府が滅亡しなかったとしたら、井伊家は京師禁裏警守の立場を喪失し、大老を出せる家柄ではなくなり、その立場は会津の松平や、荘内の酒井に取って代わられたであろう。 江戸幕府が永続したら、まず彦根藩井伊家は懲罰的に転封を命じられた可能性が高い。
普代旗頭(譜代筆頭)は荘内藩酒井家になったことは異論の余地がない。 土井とか堀田って、大老輩出したことがあるから、結果論的に現代の学者が大老の家と言ってるだけで、
江戸時代は大老の家でも何でもなかったんだろ?
それが証拠に土井利位も堀田正睦も大老になってないし。 真に徳川家の執権と云い得る家柄は姫路の酒井と彦根の井伊だけ
両家ともお洒落な城持っているエ〜 違う。酒井氏嫡流は徳川家重臣の中で最初に城主(西尾城)になった酒井雅楽助正親であり、その血筋を引く酒井雅楽家 堀や本多ってかなり大名家があるけど、宗家ってあるの? 江戸以前の本来の家柄で、もっとも毛並みのいい譜代大名ってどこなんだろう?
やはり小倉小笠原家か。 血統が怪しいけど三浦家とか譜代か怪しいけど諏訪家とか 喜連川、細川、一色、土岐、京極、畠山、吉良、今川、武田、上杉、小笠原、有馬(赤松支線) 外様や大名じゃないのは除けよ。
あと鎌倉御家人じゃないのも。
そしたら土岐、小笠原、諏訪、こんなとこだろ。あと井伊くらいか。 有馬の分家が吉宗の側近として大名に取り立てられてる。 有馬ってそもそも悪党上がりで御家人じゃないでしょ。 赤松円心以前は未だにアヤフヤだからな。
やっぱり譜代だと諏訪じゃないの
小笠原・土岐・三浦ら源氏や平氏の血を引く大名はゴロゴロ居るんで、あんまり希少価値感じない 諏訪は地味だけど源氏、平氏、藤原氏以外の名門としてはなかなかの存在だからな。
神様の子孫だし、鎌倉幕府では御家人兼御内人として権力の中枢に居たし、徳川譜代に潜り込んで徳川幕府でも中枢に入る事に成功。
ライバルの武田より結局長持ちしたよね。 武田に一回滅ぼされた諏訪・小笠原が大名として復活して武田が滅びるなんて
信玄も予測してなかっただろうな。 禍福は糾える縄の如しだよね。
諏訪と小笠原は滅びたからこそ徳川譜代に潜りこめたんで。 しかし、いまの諏訪大社の宮司は諏訪家と縁もゆかりもない一般人なんだろ。 徳川家が関東に移転した数年間だけ、徳川に臣従していた諏訪氏も下総に配されたが、関ヶ原勝利後、日根野備中をして下野に移転せしめ、諏訪因幡を再び信州高島に戻してくれたのである。 >禍福は糾える縄の如しだよね。
天正壬午の乱の時点で家康が将来天下取るとは信濃国人の誰も想像も出来なかっただろうしね。 >>132
諏訪宮司家は江戸時代の終わり頃に跡継ぎがいなくて京極だかから養子が来てる。 >>132
現在の諏訪大社の宮司は世襲ではない
明治以降、神社本庁から神主が選ばれるようになった
今の諏訪大社宮司は北島さんという人だけど
その前は平林さんという人だった /)
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/ i f ,.r='"-‐'つ____こまけぇこたぁいいんだよ!!
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/ iトヾヽ_/ィ"\ `ー'´ / 明治になって社家制度が廃止されたのは知ってるが、
いまでも旧社家が世襲してるところと、非世襲になったところがあるのは、
どういうことなんだろう? >>138
神社本庁自体の設立は昭和21年
明治時代には神祇庁が管理をしていた
(昭和15年、神祇庁は神祇院となり、戦後廃止された)
諏訪大社は明治5年、世襲が廃止され
中央(神祇庁・神祇院・神社本庁)が宮司を任命する形態になった
尚、諏訪氏大祝家は「諏方」を名乗り、幕末に京都の公家・鳥居家から養子を迎えた
その孫に当たる方が2002年に亡くなった際に諏方家は完全に断絶している 神祇官→神祇省→教部省→内務省社寺局→内務省神社局→内務省神祇院→神社本庁
ちなみに、ここ最近の靖国神社の宮司は松平、南部、京極と、やたらと大名の子孫が多い。 華族制がなくなったから、旧大名家の対面保つ仕事としたら大きな神社の宮司はもってこいなんだろうな。 >>146
行政の神祇院と宗教法人の神社本庁には組織的な連続性はない >>146
靖国神社は特殊
南部や京極はサラリーマン経験のみで神職経験が全くないのに
いきなり靖国神社のトップである宮司になっている
そして現在の靖国神社宮司は徳川 戦後の靖国神社宮司の出自
旧皇族 筑波藤麿 : 1946年(昭和21年)1月25日 - 1978年(昭和53年)3月20日(在職中に死去)
旧大名 松平永芳 : 1978年(昭和53年)7月1日 - 1992年(平成4年)3月31日
(2代略)
旧大名 南部利昭 : 2004年(平成16年)9月11日 - 2009年(平成21年)1月7日(在職中に死去)
旧大名 京極高晴 : 2009年(平成21年)6月15日 - 2013年(平成25年)1月19日
将軍家 徳川康久(徳川誠の孫) : 2013年(平成25年)1月19日 - 譜代大名の家系で、有名神社の宮司やってる人はいないのか?
外様なら、薩摩島津家の現当主が照国神社などの宮司を兼ねてるのは知ってるが。 富士山の神宮司・富士信忠の子孫が米津田政で、これが竜ヶ崎藩 明治になってから藩祖を祀った神社が公認されてからは
その子孫が宮司を務めるようになる 別に吉田茂の男系子孫ってわけじゃないだろ。しかも、相馬は外様だし。 お前ら今何時代だとおもってんだ高齢引きこもりニートども お前ら今何時代だとおもってんだ高齢引きこもりニートども 相馬家で
麻生の会社の取締役やってる人いるね(麻生の息子が社長の会社だったかな?) もし島津や毛利が願譜代を申し出たら、どうなったんだろう? 譜代になる要件を満たしてないというか、将軍様のお客様扱いの大広間詰の名誉ポストから、将軍様の下僕の譜代になんかなろうとも思わないだろう 譜代になったからと云って全て役職につけるとは限らない。
それに譜代にもお客様扱いの譜代と下僕扱いの譜代の二種ある。 願譜代できたのって大老を出す有力譜代か有力松平一門から養子をとった場合のみだよな
真田は7代目が大老井伊直政の子で、8代目が老中首座松平定信の子(将軍徳川吉宗の曽孫)
だったために願譜代になった
脇坂は3代目で老中堀田正盛の子を養子にしたため(母は大老酒井忠勝女)願譜代になった
島津や毛利は一応家系が絶えてないだろ 仙石家みたいに譜代から外様へ扱いを変えられた大名も、なぜかいる 仙石なんて秀吉の最古参部類に属する直属の部下で
思いっきり豊臣恩顧の外様大名なのにな
なんで仙石が最初譜代並みの帝鑑間を与えられていたのかわからん
関ヶ原の秀忠失態を家康にとりなすなど将軍秀忠のお気に入りで
何度も秀忠自身が仙石邸を訪れるなどしてたことからの特別待遇? 譜代が外様の有力大名から養子を取るのは、問題なかったようだが、
浅野長政や伊達政宗の男系子孫が幕閣になってるのは違和感を禁じ得ない。 幕末、館林藩秋元家は毛利家から貰っていたが、タイミング的に最悪だった 浅野→阿部→酒井(貴院副議長)
丹羽→稲葉
毛利→秋元
伊達→堀田
伊達→太田
水戸→越智→戸田
水戸→本多
柳沢→真田
島津→奥平
島津→久松 毛利家からだと
家綱母の実家増山家や
譜代の本多、稲葉、水野にも養子送り込んでるな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています