なぜ桶狭間の戦いの後、信長の快進撃が続いたのか?
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たしかに全国から見ても番狂わせの戦いだったけど、一大名が天下を取るまで
のし上がるまでの出来事とは思えない なにが他の大名と違ったんだろ? 桶狭間で今川義元の首を獲ったことで、それまで信長に懐疑的だった連中が
信長を信頼するようになったってのは大きいだろうね
そうなれば元々の生産力は全国屈指の尾張
勢力を拡大させるのはそれほど難しくない その当時、信長に対抗できるだけの石高っていったら数は限られる? あくまでも目安の一つでしかないけど、慶長期の国別石高ベスト5
1位 陸奥 1,672,358石
2位 近江 775,359
3位 武蔵 667,126
4位 尾張 571,737
5位 伊勢 567,105 織田信長は尾張と美濃の二カ国を平定した時点で
石高130万石だから。
伊勢や近江を抑えて、あっというまに200万石を突破した。
武田信玄なんて、広範囲の5か国を平定しても、山ばかりの地域だから
ギリギリ100万石だろう?
小田原の北条も関東の大半を抑えて、やっと200万石
毛利元就も晩年、九州や四国にも手を広げても170万石ぐらい。 >>61
それ表高で実高250万石くらいある。家臣団も多いから相殺されるけど。 斯波氏が尾張守護に着く前は武田氏が守護やってて斯波氏が下向するときに
鎮守府将軍、藤原利仁の一族のやつが着いてきたんだと
根っからの下克上のやつなんて秀吉以外いないな
みてりゃどいつも名門だわ 当時は美濃あたりのほうが、東北や越後の石高より高かったってこと?
地形に恵まれていたんだな、信長は 太閤検地といえどどのくらい正確かは正直よくわからない部分はあるけど
当時の稲作技術だと東北や越後といった寒冷地よりも尾張や美濃の方が
安定して米作りができたのは確かだろうね >>69
正条植えの技術が上方から関東地方に伝わったのは
天保年間だというから、関東の生産性はとても低かった 70
そりゃそうだろ
関東ローム層とか火山灰の影響で何回、開墾し直していると思ってるんだよ 新潟なんか米の生産は戦国以前なんか40万石だったものが
江戸時代は600万石だぞw 新潟だけで600万じゃ豊作が続くと米が余り過ぎるw
江戸の町民て、おかず無しで米ばっか食ってたらしいけど… 英雄たちの選択文
【放送局】
NHK BSプレミアム
【放送日時】
2014年6月12日(木)20:00〜21:00
【番組概要】
「シリーズ・戦国合戦の謎(2)桶狭間の戦い・信長を天才にした逆境」
初公開!!信長の手紙▽桶狭間の戦いの内実▽降伏さえあり得た!?▽信長を天才にした逆境 尾張で50万石強
今川の本領駿河でせいぜい20万石程度じゃないのかな
はっきり言って最初から今川は劣勢だった
織田の朝廷への献金額が他国を圧倒している
明智も将軍家もそれは前々からわかっていた
織田が滅びるわけがなかった
戦国の番狂わせは美談だ
結局、今川が負ける あれは順当な歴史 信長は美濃の大垣城や刈谷の水野領分15万石もあるので
合計70万石以上は確実にある。
普通なら信長から三河に侵攻できてもおかしくないくらいだろう。 貧乏大名今川義元が上洛して天下に号令するって話がそもそもあり得ない
絶対に無理な話だった
金満信長にあっけなく討ち取られて当たり前 実は越後にも天下取りには有望な地の利があった
でも残念ながら謙信には野心がなかった >>74
これをみると今川の駿河、遠江、三河の総石高は100万石ほどだったとあるけど 100万石って、現代の資本金に換算すると
いくらぐらいなわけ? >>79
今川本国である駿河で15万石
遠江で25.5万石
三河で29.1万石
一方で尾張で57.2万石
(慶長三年の検知高を基準とした)
徳川の動向が織田・今川の雌雄を決していた
徳川が今川を離反して時点で今川の敗北は必至
恐らくは家康は人質ではなかった
横柄な態度を取り、でかい面をして一時的に今川についていたのであろう 当時の書簡などで今川氏真殿に仇討の気持ちが
あった事は、ハッキリ分っているんだが
岡崎の御曹司徳川家康が駄々捏ねて従わないどころか三河を切り崩そうとまで
するのだから始末に負えない。
遠江も独立しようとする動きも出て
さすがの氏真公も家臣団を纏まり切れず地団駄を踏んだようです。
氏真に桶狭間の敗戦の復讐戦の気持ちは
ハッキリとありました。
だけど、本領駿河15万石だけではどうにもなるまい。 本領がたった15万石なのに
25.5万石の遠江を従えて、29.1万石の三河を丸めこんで
100万石の武田、300万石の北条と三国同盟を結んでいたなんて、
義元ってすごい奴だったんじゃね?
雪斎の知略だったのかもしれないけど >>83
それに加えて信玄も三国同盟を破棄してるんだよね
これじゃー、氏真が気の毒すぎる >>84
さながら
雪斎は孔明
義元は劉備
といったところだろう
いや、桶狭間前のこの二人はそれ以上の離れ業をやっている >>1
快進撃なってねーよ。
信長関連だとコレと武田滅亡の流れよく誤解されてるから別にいいけど。 快進撃っていうより、どうやって台頭していったかのほうがしっくりくる 美濃平定のあと快進撃だろ
美濃攻略は7年くらい掛かってない? 名古屋から米原か京都まで新幹線で一往復すれば岐阜の地勢が天下取りにどれだけ寄与したか解る
京側には開けた通商路が在り北側は飛騨山系が障壁と立ち東側には木曽三川が江戸期以降とは比べ物にならない暴れ川状態で天然の水濠を為し大阪城スケールで見れば巨大な水城だった
守るも攻めるも思いのままで税金も取り放題だったが露天商の出店税は免じたらしい なんか本能寺の変の動機と関係がありそうな資料が発見されましたね 大河でパワハラ、板挟み、朝廷の陰謀の三重苦の光秀が見たいw 明智光秀主役だと平清盛みたいに視聴率振るわなそうw だから娘のガラシャとセットで主役扱いの誘致活動なんだろ 30代後半で漫画家になろうとしている童貞ひきこもりなバカを発見
2chねらーに荒らされている。足立区に住んでいるそうだ。
http://inumenken.blog.jp/archives/7002197.html むしろちんたらしすぎだろ
関西平定してから10年以上無為に過ごしてる 桶狭間で義元を討ち取り、今川軍は駿河に総退却したが
その信長の奇襲計の武功は当時、東海道の小大名であった
ため天下に知れ渡るとは思わないが。三国志演義の玄徳と
似たエピソードだ。むしろ信長の台頭は 斉藤義竜を倒し
浅井長政と同盟を結んで足利義昭を迎えいれてからだろう。 いやいや駿遠三の主がやられたんだぜ
甲子園ベスト8ぐらいのインパクトはあるだろう ベスト8は言い過ぎとしてもベスト16以上は確実だな。
「初出場校、出場回数20回優勝3回の強豪校をサヨナラで破る」
当時の今川勢力圏と駿府って今の愛知県と名古屋ぐらい影響力ありそうだし。 うん。
天下に知れ渡るとまでは行かんとしても、「知らんヤツは情弱www」と言われるぐらいの事件だよな、当時としては。 >>101
そりゃそうだが、まだ武田信玄も成長途上の小国だった頃だし、上杉謙信もさほど強大じゃなかった時代だ。
今川は全国有数の大大名ではあっただろ 史実ってここ三戦じゃないんだからそもそも史実を語る板じゃないの? 結局、北条、武田とは同盟しているが均衡状態(同盟)
なので支配下は松平元信など。家康や信長などの若い新鋭
大名を突っついてた感じだな。もし尾張を抜けたら上洛
ルートは美濃か伊勢どちらを通るつもりだったのか。
北畠か斎藤か。 >>104
上洛じゃなく領土拡大だろ
伊勢にはほぼ確実に手を出すはず
美濃には手を出すかどうか不明だが、全く無視ってことはないだろう
おおかた、武田と分け合って美濃分割にでもしたんじゃなかろうか。 今川は北条を倒し関東菅領になるべきだった。尾張は実は伊勢からの徴兵もあったはずだ。関西の
兵は富貴な作物が実り石高が高いので、東海道の広さだけ
の兵(もののふ)は弱かったと考えられる。理由は武田の
騎馬軍団。馬がなければ弱い。 >>106
もともと、今川と北条は仲が良かった、今川が武田と同盟するまでは長く蜜月が続いてた
だから、北条を倒す選択肢はない 北条家は前に今川を付けてもいいね。
今川北条家と言ってもいいね。
北条家の方がはるかに筋が通っています。
最後の最後まで今川氏真にお味方したのは北条家。
それに比べれば今川義元はだらしないよ。一時
今川義元は甲斐と結び北条氏綱をカンカンに
怒らせているからね。
北条早雲以来、義理堅いのが北条家が300万石にまで
昇りつめた秘訣なのです。
なんでも鑑定団 愛のエメラルド 義元が甲相駿三国同盟を目指した際、北条家は武田との遺恨を捨てられずに反発した
しかし、あくまでも三国同盟の確立にこだわった義元が、一時的に北条と争ってでも三国同盟の確立を、という姿勢をとったのが、氏綱を怒らせた原因。
この三国同盟によって武田との関係改善に成功したことは、北条家の勇躍に大きな効用をもたらした。
三国同盟なしには北条家が関東に覇権を確立できなかったかもしれないよ 桶狭間の後は美濃攻略で足踏みしてんだけど…
快進撃は大国の尾張伊勢美濃を抑えてからだよ 一般的な認識だと桶狭間から飛躍したって思っている人が多そうだな
たしかにインパクトは大きかったかもしれないけど 美濃攻めも後半に入ってからは、将来の伊勢攻めを見越した準備も始めてるし、
畿内の大名たちの中に味方を作るべく外交交渉もかなり進めてるよな
美濃制圧が佳境を迎える前から松永との同盟がすでに成立してるほどだ。
おそらく浅井との同盟は美濃攻めをはじめる前から交渉を進めてたんじゃないか。
で、美濃攻めを始めてからかなり早い段階で同盟は成立してたんじゃないかと思う。
どう考えても、武田との同盟より先に締結されてるよな。 若い元信(家康)を人質にし当時の信長しか攻撃出来な
かったんでしょう。 同盟なんて戦国時代にはナンセンス。単に
勝てないだけ。もし尾張を通過しても、斎藤道三の美濃を
越えるのも難しく上洛は仕方なくのセレモニー に 近い。 三国同盟を先導した頃の今川の勢力は、武田より上だったんだが。
武田領が甲斐一国と信濃のごく一部だけだった頃に今川は三河の制圧をほぼ終了している。
元康はすでに家臣団に組み込まれてる段階だしな でも駿遠三3か国で尾張一国程度の国力しかないよな
尾張統一した織田にとって今川は本当に脅威だったの? >>115
桶狭間の当時は尾張の1/3ぐらいは今川領だろ 尾張に侵攻する際に、義元は伊勢の北畠と緊密に連携取ってるんだよね
伊勢湾の制海権を掌握して、信長を窒息させようというのが狙い
実際、信長は津島や熱田の現金収入に頼ってたわけだし
こうやって考えると、信長にとっては出撃するしか選択肢なかったんだろうな
籠城してもその間に津島や熱田が敵の手に落ちれば負け確定なわけだし 上洛の通過点である。当時戦国大名でファーム的存在の
尾張の信長の 湯漬け に 負けた。それだけじゃで。しかし
足利家のお気にである今川義元を討った信長に足利義昭は
良く上洛を依頼したんだな。 鉄砲買ったり、城を次々改修したり、作ったり、金の使い方が半端無い
それだけ金を集める手腕があったからだろう 地理や経済面で考察するのも面白けど、人材で抜きん出てたってこともあるのかな?
そのへんに興味があって >>113
桶狭間の頃は道三じゃなくて龍興だと思う。
当主は若年ボンクラでも、美濃勢自体は強いから、簡単には通れないのは確かだろうけど。 結局、龍興でも美濃通過しても近江浅井、京都には松永久秀
大和には六角。上洛を果たすには五年かかるはずだ。
全軍四万五千の兵の兵糧などについても疑問だし。駿河や
遠江については武田、北条の三同盟を解消され後ろから
こられたら今川は一溜まりもない。つまり上洛は四すくみ
状態での出陣だろ。 結局数年後氏真で
滅んだが。 そもそも今川は上洛のために桶狭間へ赴いたのではない。領土拡大のためで、
長年にわたって争い続けてきた信長にできるだけ大きなダメージを与えて尾張における領土を一気に拡大しようとしたわけ
そっから先の近隣国は将来の課題。
その紛争に際し、いくつかの勢力とは同盟しつつ別勢力と戦うって点は信長と同じだが、
同盟相手は信長の場合とは異なるはずで、戦争相手の構成は全く異なったものになる。
ところで松永の拠点は京都じゃなく大和だし六角は大和じゃなく近江なんだが。 ふむ。確かに六角は近江で、松永は大和だ。訂正しよう。
しかし考えたら上洛は破竹の勢いなら一年もかからず成し
得ただろう。
信長は1550年代尾張を統一するのに拱いていたからな。
圧倒的な兵力の差やキャリアの違いがあるのにも関わらず
奇襲でやられた。信長の名は武田、北条、足利家を震撼
させたに違いない。 尾張の おおうつけ が 日本の三分の一を統一するのは
並々ならぬものだった。 織田は早くから浅井や松永と同盟していたから六角や三好と戦いながら上洛した
今川は、同盟相手が異なっている可能性が高い。
六角や三好と同盟して浅井や松永と戦いながら上洛だったかもしれん。 >>117
当時、市が定期的に立っていた町は
駿河:駿府、沼津
遠江:浜松、島田
三河:吉田、岡崎、刈谷
尾張:清洲、熱田、津島、岩倉、尾張一宮、犬山、国府宮、半田、起
伊勢:桑名、四日市、伊勢神戸、安濃津、松阪、宇治山田、亀山
美濃:加納、大垣、関、美濃加茂、鵜沼、羽島(大須)
静岡寄りの地域より名古屋寄りの地域のほうが商業が盛んで、
しかも尾張の場合、主だった集落や市は極端に西に寄っている。
もともと西尾張は水害が多く、たびたび戦乱も発生したが、
それでもこういう分布になったのは美濃や伊勢との繋がりが大きかった証左。 もともと信長は天下取りを夢見ていたか疑問だが、当初は
那古屋を併合するだけでも精一杯。
なのに尾張に侵攻してきた今川をくだしてからの勢いで
美濃を攻略し浅井長政に近江南部を通過させてもらい
上洛。義昭を御輿にし堺の鉄砲軍団、雑賀衆を屈服させ
近畿を制覇してしまった。さらに室町幕府を潰した。センセーショナルな一戦だぎゃ。 信長が天下取りというものを意識しはじめたのは美濃攻めの後半に入ってからでしょ、
遅くとも美濃攻めが終わるまでには、天下を意識して、諸方面に同盟工作をしてる。
ただし、その時点での天下は、京都を支配するという意味でしかないが。
いわゆる天下統一、日本全域を束ねようという意識を持ち始めたのは、おそらく晩年に入ってから。
最大限に早く見積もっても義昭追放の前後が上限だろう 義昭を京都から追放してから、信長は室町幕府を滅ぼした
が、いわゆる安土城 に楽市楽座を設け安土桃山時代を確立
した訳だが。浅井長政を倒し近江の国を光秀と秀吉に二分
させて、朝倉を姉川の闘いで滅ぼしたが その時1573年前後
甲府の武田信玄が亡くなった。確かに
義昭を追放してからの領土拡大につき
後年秀吉のような小田原攻めや島津攻略とまではいかず
毛利水軍と対峙応援に駆けつける本能寺で、チャビンの
光秀に討たれた 家来に恵まれたってのもでかいと思うけどね それを活かす信長も流石だが >>33
>また甲州の治水技術は関東開発に役に立ったが織田は治水をやらないために後世に残る織田治水などは一切残らなかった。
ルイス・フロイスが秀吉の水攻めの采配を見てその治水技術に随分と感心しているけど
じゃあこれは一体どこで身につけたの? 京都から追放しただけで幕府を滅ぼしてない
京都追放後も安芸で幕府は存続し権威を持ち続けている
当時の感覚では大内や三好のように
信長も一時的に京都を占領した奴の1人に過ぎない 幕政を動かしていた官僚たちの大半は義昭に同行せず京都残留、信長に従っていた
室町将軍15代に含まれない堺幕府が幕府の官僚の少なからぬ部分を引き入れていたのと違い、鞆幕府(公方)としての義昭は幕府の名に値しない亡命政権。
将軍職を保持しているだけで政治的な実態はすでに失っている。
この時点で信長は、簒奪者・成り上がり扱いながらも、すでに天下人であり、室町幕府に代わる新政権として広く認められている。
それゆえに、室町幕府滅亡とみなされるわけ。 快進撃は美濃穫ってからでしょ。結構な年数かけてるよね美濃に >>135
信長はまだ尾張統一してなかったし
今川は北畠と組んで海上封鎖してる
当時の信長はジリ貧状態 実際の兵力は
今川1万7400(69万6千石)
織田1万4300(57万2千石)
ただし桶狭間に布陣した今川本隊はわずかに兵3500のみ
織田勢は兵力で圧倒していたにも関わらず奇襲戦法を採用
卑劣さの隠蔽工作の成果が広く世に知られる「桶狭間の奇跡」
・・・ってことでOK? 北部や西部の一部が織田領じゃなかったり、南部や東部を中心にかなり今川領になっていたりするからな
尾張の半分ぐらいは信長の領地じゃない
信長が動員した兵力は5000以上はいるとは言え、万には遠く届かないだろ
それに、桶狭間での衝突より以前の前哨戦の段階で、1500以上の兵が敗走ないし壊走して失われてるしな
主要な城の残留部隊を差し引いたら、2千数百ぐらいしか桶狭間の現場には行ってないんじゃないの。 京周辺を、最大瞬間風速的に制圧しただけでしょ。
木曽義仲より少し上のレベル。 石高の割に桶狭間で用意できた兵って3千程度だったんだな 異常に少なすぎない? 弓、槍、斬馬刀持っていたのはそんな程度じゃね?
鉄生産量が江戸時代より多いとも思えんし
大半、投石部隊や棍棒部隊の方が多かったりしても不思議じゃない 国府を落として尾張一円支配できたのが桶狭間の直前だし。
雑兵でよければもっと集められるけど募兵は計画的にやるもので
攻められたから募兵するんでは間に合わない。 国を奪われるかもしれん大ピンチに3千弱ぐらいしか集められなかったってのがな…
時間があれば8千ぐらいは集められたんだろうか?石高に関しては他国より
だいぶ恵まれていたようだけど 今までもさんざん言われてるように、尾張の半分くらいは信長の支配下じゃなかった上に
それ以外にも信長に懐疑的な連中は少なからずいたから
例えば柴田勝家なんかも、桶狭間で活躍したことを示す資料は残ってないし >>145
国府って清洲じゃなかったの?
岩倉とか犬山あたりには斉藤と連携してたんじゃなかろうかって感じの親族やら守護代がいたが。
それより、南部を含め広範囲に今川領が散在してたことを考えれば、
尾張のうち信長の支配下に合った範囲が限られてるだろ。半分よりは広かっただろうが、尾張一円とは言えないはず 何やかんやで 室町幕府や朝廷にコネがあったのが 幸いした >>1
桶狭間→織徳同盟で遠江甲斐の緩衝地帯を設け
美濃攻めに集中し、次に京都へ洛上
あの時代天下取りを本気で考えていたのは信長だけ 足利義昭がいなかったら上洛もへったくれもなかったんだが >>134
ただその後織田信長が本能寺で討たれたからもう少しで室町幕府の再興はあった
明智光秀は殷の紂王みたいな暴君信長を討ち取るという大義を掲げて朝廷と幕府に忠義の士になれる可能性はあった
信長絶対史観の本能寺の変より山崎の合戦がその後の日本の命運を分けたと思うね
織田信長は過大評価されてて遅かれ早かれ謀叛を起こされた可能性は高いし 褒美をくれるわけでもない朝廷や幕府に、当時の武士が忠誠を示すって
ちょっと考えにくいんだけどな
お飾りとしては利用するけど、それ以上の利用価値は認めてないってのが
基本的なスタンスじゃないの? 信長が全国統一を果たしていたら京都の旧勢力が駆逐されていたと思う
帝号を僭称することになっていたかも >>155
ならねぇよ
信長の経歴見ればすぐわかるだろ
信長が天皇を廃するとか馬鹿な作家や脚本家の妄言 >>154
そこまで軽視されてはいない
よく効くジンクス、程度には効用を認められてるから、ゲンかつぎ・縁起担ぎ程度ではあっても、それなりに尊重していた
うっかり変なことして戦争でトラブル起こるとイヤだからな。
とてもそんなこと聞けん、みたいな受諾しがたい命令は全部無視だ。
不利になる命令だけじゃなく、負担が大きすぎると思ったら断るのが普通。まあ、いろいろと口実を作って丁寧に断るんだがな。 >>154
だから神輿を担ぐんだよ
実権は本能寺の変後だったら秀吉で山崎の合戦の結果が違ってたら光秀主導の勝ってたら室町幕府再興でそもそもその前なら信長なんだから
ただ信長の場合は絶対君主制的なものを目指してたから幕府のみならず天皇を引きずり下ろしてた可能性は高い
そしたら日本は大混乱するから野望の大陸進出どころではない
日本のその後の展開を見ると光秀の理想である室町幕府再興でも行けた可能性も高い
それが良いところは徳川の江戸幕府よりも地方の自主が強いところで江戸幕府以上に海外にも目を向けられたかも知れない
つまりは明治維新後の国民国家がもう少し早く誕生した可能性もある
江戸幕府でもフランスのナポレオン ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています