なぜ桶狭間の戦いの後、信長の快進撃が続いたのか?
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たしかに全国から見ても番狂わせの戦いだったけど、一大名が天下を取るまで
のし上がるまでの出来事とは思えない なにが他の大名と違ったんだろ? なんか本能寺の変の動機と関係がありそうな資料が発見されましたね 大河でパワハラ、板挟み、朝廷の陰謀の三重苦の光秀が見たいw 明智光秀主役だと平清盛みたいに視聴率振るわなそうw だから娘のガラシャとセットで主役扱いの誘致活動なんだろ 30代後半で漫画家になろうとしている童貞ひきこもりなバカを発見
2chねらーに荒らされている。足立区に住んでいるそうだ。
http://inumenken.blog.jp/archives/7002197.html むしろちんたらしすぎだろ
関西平定してから10年以上無為に過ごしてる 桶狭間で義元を討ち取り、今川軍は駿河に総退却したが
その信長の奇襲計の武功は当時、東海道の小大名であった
ため天下に知れ渡るとは思わないが。三国志演義の玄徳と
似たエピソードだ。むしろ信長の台頭は 斉藤義竜を倒し
浅井長政と同盟を結んで足利義昭を迎えいれてからだろう。 いやいや駿遠三の主がやられたんだぜ
甲子園ベスト8ぐらいのインパクトはあるだろう ベスト8は言い過ぎとしてもベスト16以上は確実だな。
「初出場校、出場回数20回優勝3回の強豪校をサヨナラで破る」
当時の今川勢力圏と駿府って今の愛知県と名古屋ぐらい影響力ありそうだし。 うん。
天下に知れ渡るとまでは行かんとしても、「知らんヤツは情弱www」と言われるぐらいの事件だよな、当時としては。 >>101
そりゃそうだが、まだ武田信玄も成長途上の小国だった頃だし、上杉謙信もさほど強大じゃなかった時代だ。
今川は全国有数の大大名ではあっただろ 史実ってここ三戦じゃないんだからそもそも史実を語る板じゃないの? 結局、北条、武田とは同盟しているが均衡状態(同盟)
なので支配下は松平元信など。家康や信長などの若い新鋭
大名を突っついてた感じだな。もし尾張を抜けたら上洛
ルートは美濃か伊勢どちらを通るつもりだったのか。
北畠か斎藤か。 >>104
上洛じゃなく領土拡大だろ
伊勢にはほぼ確実に手を出すはず
美濃には手を出すかどうか不明だが、全く無視ってことはないだろう
おおかた、武田と分け合って美濃分割にでもしたんじゃなかろうか。 今川は北条を倒し関東菅領になるべきだった。尾張は実は伊勢からの徴兵もあったはずだ。関西の
兵は富貴な作物が実り石高が高いので、東海道の広さだけ
の兵(もののふ)は弱かったと考えられる。理由は武田の
騎馬軍団。馬がなければ弱い。 >>106
もともと、今川と北条は仲が良かった、今川が武田と同盟するまでは長く蜜月が続いてた
だから、北条を倒す選択肢はない 北条家は前に今川を付けてもいいね。
今川北条家と言ってもいいね。
北条家の方がはるかに筋が通っています。
最後の最後まで今川氏真にお味方したのは北条家。
それに比べれば今川義元はだらしないよ。一時
今川義元は甲斐と結び北条氏綱をカンカンに
怒らせているからね。
北条早雲以来、義理堅いのが北条家が300万石にまで
昇りつめた秘訣なのです。
なんでも鑑定団 愛のエメラルド 義元が甲相駿三国同盟を目指した際、北条家は武田との遺恨を捨てられずに反発した
しかし、あくまでも三国同盟の確立にこだわった義元が、一時的に北条と争ってでも三国同盟の確立を、という姿勢をとったのが、氏綱を怒らせた原因。
この三国同盟によって武田との関係改善に成功したことは、北条家の勇躍に大きな効用をもたらした。
三国同盟なしには北条家が関東に覇権を確立できなかったかもしれないよ 桶狭間の後は美濃攻略で足踏みしてんだけど…
快進撃は大国の尾張伊勢美濃を抑えてからだよ 一般的な認識だと桶狭間から飛躍したって思っている人が多そうだな
たしかにインパクトは大きかったかもしれないけど 美濃攻めも後半に入ってからは、将来の伊勢攻めを見越した準備も始めてるし、
畿内の大名たちの中に味方を作るべく外交交渉もかなり進めてるよな
美濃制圧が佳境を迎える前から松永との同盟がすでに成立してるほどだ。
おそらく浅井との同盟は美濃攻めをはじめる前から交渉を進めてたんじゃないか。
で、美濃攻めを始めてからかなり早い段階で同盟は成立してたんじゃないかと思う。
どう考えても、武田との同盟より先に締結されてるよな。 若い元信(家康)を人質にし当時の信長しか攻撃出来な
かったんでしょう。 同盟なんて戦国時代にはナンセンス。単に
勝てないだけ。もし尾張を通過しても、斎藤道三の美濃を
越えるのも難しく上洛は仕方なくのセレモニー に 近い。 三国同盟を先導した頃の今川の勢力は、武田より上だったんだが。
武田領が甲斐一国と信濃のごく一部だけだった頃に今川は三河の制圧をほぼ終了している。
元康はすでに家臣団に組み込まれてる段階だしな でも駿遠三3か国で尾張一国程度の国力しかないよな
尾張統一した織田にとって今川は本当に脅威だったの? >>115
桶狭間の当時は尾張の1/3ぐらいは今川領だろ 尾張に侵攻する際に、義元は伊勢の北畠と緊密に連携取ってるんだよね
伊勢湾の制海権を掌握して、信長を窒息させようというのが狙い
実際、信長は津島や熱田の現金収入に頼ってたわけだし
こうやって考えると、信長にとっては出撃するしか選択肢なかったんだろうな
籠城してもその間に津島や熱田が敵の手に落ちれば負け確定なわけだし 上洛の通過点である。当時戦国大名でファーム的存在の
尾張の信長の 湯漬け に 負けた。それだけじゃで。しかし
足利家のお気にである今川義元を討った信長に足利義昭は
良く上洛を依頼したんだな。 鉄砲買ったり、城を次々改修したり、作ったり、金の使い方が半端無い
それだけ金を集める手腕があったからだろう 地理や経済面で考察するのも面白けど、人材で抜きん出てたってこともあるのかな?
そのへんに興味があって >>113
桶狭間の頃は道三じゃなくて龍興だと思う。
当主は若年ボンクラでも、美濃勢自体は強いから、簡単には通れないのは確かだろうけど。 結局、龍興でも美濃通過しても近江浅井、京都には松永久秀
大和には六角。上洛を果たすには五年かかるはずだ。
全軍四万五千の兵の兵糧などについても疑問だし。駿河や
遠江については武田、北条の三同盟を解消され後ろから
こられたら今川は一溜まりもない。つまり上洛は四すくみ
状態での出陣だろ。 結局数年後氏真で
滅んだが。 そもそも今川は上洛のために桶狭間へ赴いたのではない。領土拡大のためで、
長年にわたって争い続けてきた信長にできるだけ大きなダメージを与えて尾張における領土を一気に拡大しようとしたわけ
そっから先の近隣国は将来の課題。
その紛争に際し、いくつかの勢力とは同盟しつつ別勢力と戦うって点は信長と同じだが、
同盟相手は信長の場合とは異なるはずで、戦争相手の構成は全く異なったものになる。
ところで松永の拠点は京都じゃなく大和だし六角は大和じゃなく近江なんだが。 ふむ。確かに六角は近江で、松永は大和だ。訂正しよう。
しかし考えたら上洛は破竹の勢いなら一年もかからず成し
得ただろう。
信長は1550年代尾張を統一するのに拱いていたからな。
圧倒的な兵力の差やキャリアの違いがあるのにも関わらず
奇襲でやられた。信長の名は武田、北条、足利家を震撼
させたに違いない。 尾張の おおうつけ が 日本の三分の一を統一するのは
並々ならぬものだった。 織田は早くから浅井や松永と同盟していたから六角や三好と戦いながら上洛した
今川は、同盟相手が異なっている可能性が高い。
六角や三好と同盟して浅井や松永と戦いながら上洛だったかもしれん。 >>117
当時、市が定期的に立っていた町は
駿河:駿府、沼津
遠江:浜松、島田
三河:吉田、岡崎、刈谷
尾張:清洲、熱田、津島、岩倉、尾張一宮、犬山、国府宮、半田、起
伊勢:桑名、四日市、伊勢神戸、安濃津、松阪、宇治山田、亀山
美濃:加納、大垣、関、美濃加茂、鵜沼、羽島(大須)
静岡寄りの地域より名古屋寄りの地域のほうが商業が盛んで、
しかも尾張の場合、主だった集落や市は極端に西に寄っている。
もともと西尾張は水害が多く、たびたび戦乱も発生したが、
それでもこういう分布になったのは美濃や伊勢との繋がりが大きかった証左。 もともと信長は天下取りを夢見ていたか疑問だが、当初は
那古屋を併合するだけでも精一杯。
なのに尾張に侵攻してきた今川をくだしてからの勢いで
美濃を攻略し浅井長政に近江南部を通過させてもらい
上洛。義昭を御輿にし堺の鉄砲軍団、雑賀衆を屈服させ
近畿を制覇してしまった。さらに室町幕府を潰した。センセーショナルな一戦だぎゃ。 信長が天下取りというものを意識しはじめたのは美濃攻めの後半に入ってからでしょ、
遅くとも美濃攻めが終わるまでには、天下を意識して、諸方面に同盟工作をしてる。
ただし、その時点での天下は、京都を支配するという意味でしかないが。
いわゆる天下統一、日本全域を束ねようという意識を持ち始めたのは、おそらく晩年に入ってから。
最大限に早く見積もっても義昭追放の前後が上限だろう 義昭を京都から追放してから、信長は室町幕府を滅ぼした
が、いわゆる安土城 に楽市楽座を設け安土桃山時代を確立
した訳だが。浅井長政を倒し近江の国を光秀と秀吉に二分
させて、朝倉を姉川の闘いで滅ぼしたが その時1573年前後
甲府の武田信玄が亡くなった。確かに
義昭を追放してからの領土拡大につき
後年秀吉のような小田原攻めや島津攻略とまではいかず
毛利水軍と対峙応援に駆けつける本能寺で、チャビンの
光秀に討たれた 家来に恵まれたってのもでかいと思うけどね それを活かす信長も流石だが >>33
>また甲州の治水技術は関東開発に役に立ったが織田は治水をやらないために後世に残る織田治水などは一切残らなかった。
ルイス・フロイスが秀吉の水攻めの采配を見てその治水技術に随分と感心しているけど
じゃあこれは一体どこで身につけたの? 京都から追放しただけで幕府を滅ぼしてない
京都追放後も安芸で幕府は存続し権威を持ち続けている
当時の感覚では大内や三好のように
信長も一時的に京都を占領した奴の1人に過ぎない 幕政を動かしていた官僚たちの大半は義昭に同行せず京都残留、信長に従っていた
室町将軍15代に含まれない堺幕府が幕府の官僚の少なからぬ部分を引き入れていたのと違い、鞆幕府(公方)としての義昭は幕府の名に値しない亡命政権。
将軍職を保持しているだけで政治的な実態はすでに失っている。
この時点で信長は、簒奪者・成り上がり扱いながらも、すでに天下人であり、室町幕府に代わる新政権として広く認められている。
それゆえに、室町幕府滅亡とみなされるわけ。 快進撃は美濃穫ってからでしょ。結構な年数かけてるよね美濃に >>135
信長はまだ尾張統一してなかったし
今川は北畠と組んで海上封鎖してる
当時の信長はジリ貧状態 実際の兵力は
今川1万7400(69万6千石)
織田1万4300(57万2千石)
ただし桶狭間に布陣した今川本隊はわずかに兵3500のみ
織田勢は兵力で圧倒していたにも関わらず奇襲戦法を採用
卑劣さの隠蔽工作の成果が広く世に知られる「桶狭間の奇跡」
・・・ってことでOK? 北部や西部の一部が織田領じゃなかったり、南部や東部を中心にかなり今川領になっていたりするからな
尾張の半分ぐらいは信長の領地じゃない
信長が動員した兵力は5000以上はいるとは言え、万には遠く届かないだろ
それに、桶狭間での衝突より以前の前哨戦の段階で、1500以上の兵が敗走ないし壊走して失われてるしな
主要な城の残留部隊を差し引いたら、2千数百ぐらいしか桶狭間の現場には行ってないんじゃないの。 京周辺を、最大瞬間風速的に制圧しただけでしょ。
木曽義仲より少し上のレベル。 石高の割に桶狭間で用意できた兵って3千程度だったんだな 異常に少なすぎない? 弓、槍、斬馬刀持っていたのはそんな程度じゃね?
鉄生産量が江戸時代より多いとも思えんし
大半、投石部隊や棍棒部隊の方が多かったりしても不思議じゃない 国府を落として尾張一円支配できたのが桶狭間の直前だし。
雑兵でよければもっと集められるけど募兵は計画的にやるもので
攻められたから募兵するんでは間に合わない。 国を奪われるかもしれん大ピンチに3千弱ぐらいしか集められなかったってのがな…
時間があれば8千ぐらいは集められたんだろうか?石高に関しては他国より
だいぶ恵まれていたようだけど 今までもさんざん言われてるように、尾張の半分くらいは信長の支配下じゃなかった上に
それ以外にも信長に懐疑的な連中は少なからずいたから
例えば柴田勝家なんかも、桶狭間で活躍したことを示す資料は残ってないし >>145
国府って清洲じゃなかったの?
岩倉とか犬山あたりには斉藤と連携してたんじゃなかろうかって感じの親族やら守護代がいたが。
それより、南部を含め広範囲に今川領が散在してたことを考えれば、
尾張のうち信長の支配下に合った範囲が限られてるだろ。半分よりは広かっただろうが、尾張一円とは言えないはず 何やかんやで 室町幕府や朝廷にコネがあったのが 幸いした >>1
桶狭間→織徳同盟で遠江甲斐の緩衝地帯を設け
美濃攻めに集中し、次に京都へ洛上
あの時代天下取りを本気で考えていたのは信長だけ 足利義昭がいなかったら上洛もへったくれもなかったんだが >>134
ただその後織田信長が本能寺で討たれたからもう少しで室町幕府の再興はあった
明智光秀は殷の紂王みたいな暴君信長を討ち取るという大義を掲げて朝廷と幕府に忠義の士になれる可能性はあった
信長絶対史観の本能寺の変より山崎の合戦がその後の日本の命運を分けたと思うね
織田信長は過大評価されてて遅かれ早かれ謀叛を起こされた可能性は高いし 褒美をくれるわけでもない朝廷や幕府に、当時の武士が忠誠を示すって
ちょっと考えにくいんだけどな
お飾りとしては利用するけど、それ以上の利用価値は認めてないってのが
基本的なスタンスじゃないの? 信長が全国統一を果たしていたら京都の旧勢力が駆逐されていたと思う
帝号を僭称することになっていたかも >>155
ならねぇよ
信長の経歴見ればすぐわかるだろ
信長が天皇を廃するとか馬鹿な作家や脚本家の妄言 >>154
そこまで軽視されてはいない
よく効くジンクス、程度には効用を認められてるから、ゲンかつぎ・縁起担ぎ程度ではあっても、それなりに尊重していた
うっかり変なことして戦争でトラブル起こるとイヤだからな。
とてもそんなこと聞けん、みたいな受諾しがたい命令は全部無視だ。
不利になる命令だけじゃなく、負担が大きすぎると思ったら断るのが普通。まあ、いろいろと口実を作って丁寧に断るんだがな。 >>154
だから神輿を担ぐんだよ
実権は本能寺の変後だったら秀吉で山崎の合戦の結果が違ってたら光秀主導の勝ってたら室町幕府再興でそもそもその前なら信長なんだから
ただ信長の場合は絶対君主制的なものを目指してたから幕府のみならず天皇を引きずり下ろしてた可能性は高い
そしたら日本は大混乱するから野望の大陸進出どころではない
日本のその後の展開を見ると光秀の理想である室町幕府再興でも行けた可能性も高い
それが良いところは徳川の江戸幕府よりも地方の自主が強いところで江戸幕府以上に海外にも目を向けられたかも知れない
つまりは明治維新後の国民国家がもう少し早く誕生した可能性もある
江戸幕府でもフランスのナポレオン >>158
訂正
×光秀主導の勝ってたら室町幕府再興
○光秀主導で実権を握る室町幕府再興
江戸幕府でもフランスのナポレオンの国民国家の強さの情報は海外の情報を規制してたのに入ってたみたいだしね
というよりそもそも信長の野望である明征服の為の大陸進出は秀吉の朝鮮出兵である程度は試された結果から分かるのは
あの時代に大陸進出しても朝鮮統治が精一杯でもう少し南蛮貿易に目を向けた方が日本の飛躍に繋がったかも知れないということ
一般的には南蛮貿易による日本の海外雄飛の可能性を信長に託してるけど信長には無理だと思う
その後の徳川は幕府の権力が強くて海外貿易は長崎のみに規制されてその可能性が大幅に閉ざされた結果から信長に託してるだけ >>156
信長が天下統一したら天皇は廃帝でしょ
信長は利用出来るものは利用するけど天下統一後に天皇の利用価値があるとは思えない
かと言って伝統を重んじる男でもないし信長が生きていたら天皇を超える権威を手に入れようとするはず ぶっちゃけ信長様の政権自体 室町幕府のパクりだしな
天皇をドウコウしたかな〜
南蛮貿易も 足利将軍家と「てゆーか,義昭」縁切りしちまって 明との貿易出来なくなったから 仕方なく始めたようなもんだし 信長しか京都に進んで天下を取る事を考えていなかった 信長って何も斬新なことしてないよ
やったのは秀吉
信長の朝廷対応も経済政策も
過去の武家政権や他の戦国大名と大差ない
信長が天皇廃するとかあり得ない 信長は古い秩序や権威を蔑ろにしている
少なくとも将軍家を追放したんだからあり得なくはない
それに天下統一後に何をするか分からんと当時の朝廷に思われてもおかしくはない >>164信長は追放した足利義昭に帰洛要請の手紙を何枚も書いてる
何れも直筆で 1560年前後、信長軍は五千騎しかいなかった。斎藤道三と
同盟していたが、他大名に攻めるも
守るも出来ず尾張統一の地方戦をしていた。過ぎない。
それが今川に勝ってから兵力は八千ぐらいに増えている。
しかし斎藤義竜も二万ほどの兵がいたのに墨俣城などの
計略で美濃を攻略。 1568年には三万の兵を持つ大名として
、足利義昭に利用されたが最終的には200年続いた室町幕府
を崩壊させた。まさに奇謀妙計のうつけものが海道一の弓
取りと言われるなどとは…。 >>167
は?
五千騎って騎兵で五千?
その時期、どこの大名がそんな大軍を動員できたんだよ
今川とか北条でも、あと少し足りないぐらいだろ。
と、表現ミスにうるさいツッコミをば 多分、信長の馬廻りって二百くらいだったんじゃないかな >>168
騎兵の数じゃねえよ。
一騎当千という言葉の千も千騎だと思っているのかね。 清洲同盟がでかい
家康と同盟を結んで国境を決めることで小勢力が日和見できなくなってしまった
清洲同盟で信長は尾張の完全掌握を成し遂げたのさ 勝幡城を拠点としていた織田弾正忠家は中島郡と海部郡の二郡を基盤としていた。
次いで愛知郡という流れ。 旧日本軍が軍記物を鵜呑みにして迂回奇襲説を正しいと誤認したのが
桶狭間の真実をわかりにくくしてるんだよな
それプラス軍部が迂回奇襲説を信じ込んじまったもんだから
インパール作戦みたいな無謀な計画がそのまま実行されたという側面もあるわけで 迂回奇襲は否定されてるけど、後年の行動見てると信長が何も考えずに出撃したとも考えにくいんだよね。
不利なら不利なりに目的を持って行動するタイプだと思う。
戦力比が大幅に違うのに野戦を挑んだってことはやっぱり本隊狙い、あるいは奇襲狙いだったとは思う。 でも善照寺砦の戦いでは、佐々隼人正と千秋季忠指揮下の三百人の部隊も奇襲に失敗してる
動き読まれたのに奇襲成り立つかな やっぱ暗殺
戦のドサクサに紛れて暗殺したんだな
だって今川の城を囲んだ信長が仕掛けた戦だぜ
勝つための算段をしてたはず 今って桶狭間の奇襲説とそうじゃない説、どっちが主流なんだろうね?
個人的には奇襲であってほしいがw >>181
奇襲じゃなくて
降伏したと見せかけての騙し打ちだよ 藤本正行だったかなあ?
この人の書いた本では否定されてた。
たしかテレビではもう奇襲説は否定されてたぞ 駿河欲しさに武田の間者が動いて信長を助けた説を唱えていた人いなかったっけ?
駿河といえば本来は武田の任国だからな 西本願寺高速偈
http://www1.axfc.net/u/3347922
信長の本願寺侵攻にそなえ
手早くお勤めを済ませてしまおうと
このような猛スピードの経読になったのが
今日まで受け継がれてきた由
これもある意味では信長の遺産か >>185どうかな?今川主導とはいえせっかく三国同盟結んだのに今川義元が死んだら水の泡やん
まあ信長との同盟もあっさり破る信玄公だから不思議ではないけど >>189迂回奇襲攻撃説の場合 桶狭間にせっかく雹が降ったのにわざわざ晴れてから攻撃とか「今まで信長は電撃作戦の際には雷雨など雨天時を選んでるのに」おかしな記述がある
逆に手紙を使った騙し討ちなら信長は
斎藤や義昭そして今川に頻繁に使ってる
まあ騙し討ち説の根拠はこんな感じ >>190
なるほど、特に記述はないけど可能性としてありそうってことね
まあ、信長ならどんな手を使ってでも打ち取りそうだけど
でも、そうすると居場所の情報提供に1番の手柄と矛盾するんじゃない?
騙し討ちなら場所の特定の必要もないし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています