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【謎の世紀】古墳時代についてマタ〜リと語ろう 2
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0012日本@名無史さん
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2014/08/09(土) 08:02:19.71
弥生期の方形墳丘墓で40m四方程度が上限

これが
古墳時代の100m超の古墳になるときの
途中の移行期に当たる古墳とか
比定されていないのかな?

50m級とか70m級で、いわゆる纏向型のプレ形式を
持ってるとされているものがあるのかな?
0015日本@名無史さん
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2014/08/09(土) 13:18:38.99
>>11
そうだな。
平安時代の人物なのに5世紀に築造されて平城京建設の際に前方部が取り壊された古墳が陵墓になってる平城天皇も今の皇室とは関係がないな!
0017日本@名無史さん
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2014/08/11(月) 13:32:16.71
>>11
天武vs天智みたいな争いは各年代で繰り返されてきたんではないかな
つまり、その時々の政権にとっての仇はその都度抹殺される
生き延びた血統はさらに骨肉相食んで潰し合う…
つまり、広義の血脈は受け継がれてるが、政権血統そのものは100年前の祖先に義理立てするようなものではない…
とか
0018日本@名無史さん
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2014/08/11(月) 13:33:12.62
>>12
それがホケノ山古墳ではないのかな
違ったら失礼
いわゆるホタテ貝型で不恰好な前方後円墳だが
0019日本@名無史さん
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2014/08/11(月) 13:49:06.85
>>17
伝統に則って祭祀を主宰するというのは、伝統的な権力の正統性の根幹じゃないか。

カンボジアポルポト政権や、中国文化大革命のように直近の伝統を
丸ごと否定し忘却してしまうのが古墳時代の日本の権力では当たり前だったということ?
0020日本@名無史さん
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2014/08/11(月) 15:32:26.49
>>19
その2種の事例をなぜ同列に扱うのか意味不明だし、論調が極論で乱暴すぎる。

天皇家でも南朝・北朝の分裂期に相手の祭祀に関しては無視しただろうし、
(こちらは幸いにも60年程度でちおう再合一ということになったけど)
もちろん1百年では短いだろうけど、2〜3百年も廃れていたのなら
比較的簡単に忘れ去られてしまい、伝承のみが残るようになると思う。
0021日本@名無史さん
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2014/08/11(月) 16:48:11.90
南北朝は祭祀の破壊とは正反対の事例だよ。
ひとつの祭祀をめぐってどちらが祭祀の主宰として正統なのかという争いだ。

河内古墳群の規模の大きさからして、当時の余剰経済力のありったけをあの稜に
注ぎこんだのは間違いなく、当時の国家の政の根幹を成していた可能性が高い。
なのに、100年後の仏教伝来時の論争にはこれらの古墳群についてまともな言及がない。

古墳の墓守が間違えたとかいうくだらん問題じゃないんだよ。
0022日本@名無史さん
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2014/08/11(月) 17:09:32.87
>>21
文書の類いが見つからないとこを見ると口伝だった蓋然性が高い
口伝者が死んだらどうなるだろうか
致死率の高い時代だ。何もかも弟子に伝えて死んでくれただろうか
古代人が伝承を死ぬより大事にしていた、という前提も、我々現代人の誤解かも知れんよ
人間、大事なのはまず自分だからねぇ
0023日本@名無史さん
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2014/08/11(月) 17:17:04.16
>>20
祭祀つったって平安時代の陰陽道重視の祭祀はそれ以前のものと大分異なってるしね
この点は吉野裕子の研究が面白かった

いろいろと事情はあるが、我々がアメリカ化を意識しないのと同様、中国化(唐)を無邪気に進めた時代もあったというわけだ
人間はその時代の空気の中にしか存在しない。無邪気に流行を追うだけだ

江上波夫のように、ここで埴輪が変わってる、馬に乗り始めてる、服装が遊牧民風になってるだとかで、
わざわざ民族移動を想定する方が異常だった
0024日本@名無史さん
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2014/08/11(月) 23:00:23.79
中央の人達にとっては文書化していたかも知れないけど
現地レベルで墓守する一般住民?にとっては又聞きの口伝レベルなのはありそう。
中央とて、火災などで焼失したり、没落が長引けば散逸するのは普通にあるきがする。


ややスレチだけど、無邪気というか、より高い文明・文化に触れたらそれは積極的に
取り込みたいのは世の常、人の常だも知れない。
0025日本@名無史さん
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2014/08/12(火) 00:33:44.27
>>11
つーか>>15もいうように平安時代の平城天皇陵ですら取り違えてるのに
古墳時代の天皇陵がすべて正確なわけないじゃんって前スレで突っ込まれてたろが
そんなことも忘れるぐらい頭が悪いのか?
0026日本@名無史さん
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2014/08/12(火) 12:56:27.36
>>25
頭が糞悪いやつだな。

平安時代は、稜は政の中核でもなんでもない。ただのお墓なんだよ。
0027日本@名無史さん
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2014/08/12(火) 13:58:40.27
相手が先にしてきたから自分もやり返すとか、
同レベルでしか争いは起こらない説は確かに正しいかもしれんw
0028日本@名無史さん
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2014/08/12(火) 15:05:12.62
>>25
その祭祀のしきたりも、稜の主もわずか100年後には、何もかもわからなくなってしまう

この前提がすでに間違いなんでは?
当時はきちんとわかっていたの
ただその後長い月日を経てわからなくなったというのが真相
記紀編纂時はきちんとわかっていた。わかる?
0029日本@名無史さん
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2014/08/12(火) 15:41:52.15
>>28
頭が腐ってるんか?

大古墳時代、何が行われていたか、記紀にまっとうな記載があったら、
5世紀は謎の世紀でも何でもない。

スレッドタイトル自体にケチつけてるようなもんだw
0030日本@名無史さん
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2014/08/12(火) 16:05:36.82
ん?
ちゃんとこの天皇はどこそこに埋葬されたって書いてあるじゃん?
ちゃんと読んだ?
0031日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/12(火) 16:20:18.96
記紀に書かれている地域に、
10や20の古墳があることも
ざらだけどな。
0032日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/12(火) 18:00:10.61
仲津山古墳こそが仲哀天皇陵だと思うんだけど、どう?
他に候補ある?
0033日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/12(火) 18:13:07.54
>>29
> 大古墳時代、何が行われていたか、記紀にまっとうな記載があったら、
> 5世紀は謎の世紀でも何でもない。
>

正論だね
0034日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/12(火) 18:16:20.62
>>31
天皇家陵以外の陪墳の説明なんかもキッチリ書き記してあると良かったろうが、無い物ねだりだろうなぁ
0035日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/12(火) 21:38:12.77
>>29
は?これはひどいジョークだね
記紀には5世紀のことについてちゃんと書かれてる

はい論破
0037日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/13(水) 21:17:06.08
五島にも古墳があるんだね。
「此の嶋の白水郎は、容貌、隼人に似て、 恆に騎射(つねにうまゆみ)を好み、其の言語は俗人(くにひと)に異なり。」
とか風土記に書かれてるのに。
0038日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/13(水) 21:52:29.65
見てるだろうが、参考までに。

蘇我馬子の父、稲目の墓?都塚古墳、国内初の構造も(14/08/13)
http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000032580.html
https://www.youtube.com/watch?v=W-5rcQr_8Q0
https://i.ytimg.com/vi/W-5rcQr_8Q0/hqdefault.jpg
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140813/K10037848311_1408131933_1408131944_01.jpg

都塚古墳は“ピラミッド型”か
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140813/k10013784831000.html


蘇我稲目より前の蘇我氏は出自が不明。記紀の武内宿禰の子孫云々は
史実とみなされていない。
記紀によれば、稲目の父の名は蘇我高麗、祖父の名は蘇我韓子。
墓のつくりは高句麗のそれそっくりで、もはや古墳とは呼べないような代物だ。
0039日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/14(木) 00:04:39.16
ちなみに記紀には、蘇我高麗はでてこない。
結構、知識が試される部分である。
0040日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/14(木) 00:56:35.17
>>38
高句麗人を妻にしてたとか知らんかったな
日本書紀は読んだんだけど

やはり渡来系なのか?しかし葛城系なんだろ?
0041日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/14(木) 01:05:53.78
>>39
おっしゃるとおり。記紀と書いたのは間違い。

>>40
稲目以前の蘇我氏の出自については、通説すらない状態。
葛城系というのも、秀吉が平氏だったレベルの話。
0042日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/14(木) 03:24:54.50
蘇我氏
具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで、
それ以前に関しては以下の諸説がありよく分かっていない。

河内の石川 (現在の大阪府の石川流域、詳細に南河内郡河南町
一須賀あたりと特定される説もある)の土着豪族という説

葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)の土着豪族という説
0043日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/14(木) 03:27:26.39
蘇我氏渡来人説

門脇禎二が1971年に提唱した[1]が、現在は否定されている。門脇が提唱したのは応神天皇の代に渡来した、
百済の高官、木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が同一人物とする説で、鈴木靖民や山尾幸久らの支持[2]を得た一方、
加藤謙吉や坂本義種らが批判[3]したように、史料上の問題点が多い。根拠が不十分であり、現在では支持する研究者はいない[4]。

問題点は整理すると以下の通りであり、木満致と蘇我満智を同一人物であると実証することは不可能である[5]。

「木満致」の名が見える『日本書紀』の応神天皇25年(西暦294年、史料解釈上は414年)と
「木満致」の名が見える『三国史記』百済本紀の蓋鹵王21年(西暦475年)とでは時代が異なる
百済の名門氏族である木満致が、自らの姓を捨て蘇我氏を名乗ったことの不自然さ
渡来系豪族が自らの出自を改変するのは8世紀以降であること
木満致が「南行」したとの『三国史記』の記述がそのまま倭国へ渡来したことを意味しないこと
百済の名門氏族出身でありながら、孫の名前が高句麗を意味する高麗であること

満智の子は韓子(からこ)で、その子(稲目の父にあたる)は高麗(こま)という異国風の名前であることも渡来人説を生み出す要因となっているが、
水谷千秋は「蘇我氏渡来人説」が広く受け入れられた背景を蘇我氏を逆賊とする史観と適合していたからではないかと述べている[6]。
また、韓子は『日本書紀』継体天皇24年秋9月の条の注に「大日本人娶蕃女所生為韓子也」(大日本人、蕃女(となりのくにのめ)
を娶りて生めるを韓子とす)[7]とされているように、外国人との混血児の通称であり、実在の人物名としては考えがたいとする[8]。
0044日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/14(木) 03:29:25.14
蘇我高麗

蘇我 高麗(そが の こま)は古墳時代の豪族。蘇我韓子の子。
蘇我稲目の父[1]。本名は蘇我 馬背。母は、高麗毘賣(こまひめ)[2]。
母が高麗(高句麗)人だったので、高麗と呼ばれたとする説がある。
業績はいっさい不明で『古事記』『日本書紀』にも登場しない。
0045日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/14(木) 07:55:55.73
大伴狭手彦が高句麗を攻めたときの戦利品として、高句麗の姫を欽明天皇に献上した。
高麗毘賣は大臣の蘇我稲目に下賜されて、妻となった。
というのが日本書紀のストーリー。
0046日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/14(木) 08:10:53.02
高麗という名前が初めて出てくるのは、紀氏家牒で、
蘇我高麗ではなく、「蘇我馬背宿祢、亦曰二高麗宿祢一」という形で出てくる。

同資料に「物部守屋大連亦曰二弓削大連一」とあるから、
本名は馬背であり、高麗というのは母方に由来するのだろうといわれる。
0047日本@名無史さん
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2014/08/14(木) 09:30:29.17
>>42
雄略に滅ぼされた葛城氏が『我は蘇る』と名乗った…という合理化は一応できるね
0049日本@名無史さん
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2014/08/14(木) 11:48:46.51
蘇我氏の系図で怪しいと言われる理由の一つに他の武内宿祢の子孫と違い石川から高麗まで分家が全く出てない点がある
蘇我氏は武内宿祢の直系の子孫ではなくて葛城氏か平群氏の分家だったのかもしれない
0050日本@名無史さん
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2014/08/14(木) 11:53:16.30
なぜか紀氏家牒に系譜が出てくるから紀氏の分家じゃないの?
0052日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/14(木) 13:12:28.10
そういえば奈良の都塚古墳が
基壇を整えてその上に階段状に積み上げられていた方墳?だったと
発掘でわかったとかいう記事がでていたね。

実際に稲目なのかどうかはわからんらしいけど。
0053日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/14(木) 17:00:56.72
武内宿禰関連の子孫云々の記述は他の豪族も全部あてにならんだろう。

何百年も生きたという人間の子孫がどうのという記述を素で受け取るやつは
頭がおかしいとしか思えない。

武内宿禰について書いてたやつは、漢文は下手くそとは言え、当時の朝廷内での
知性は卓越していたろう。当然そんな記述の非現実性については重々承知。

そんな非現実的なことを書いた理由は、当時のいくつかの豪族の格付けを同格と
位置づける手段が、血筋しかなかったからだ。
伝承上の人物の年齢を何百歳と書こうと誰も困らんが、
朝廷権力の担い手同士の諍いは非常にまずい。

書いた当人も、よもや千数百年後の人間が、その記述を素で受け取るほど
頭が悪いとは思っていなかったろうさ。

とはいえ、蘇我以外の名前が挙がる豪族は歴史的に実在した可能性が高い。
蘇我については、そもそも豪族だったのか?というのが問題の出発点だ。

蘇我のように自身の祖神を持たない「豪族」というのは一種の形容矛盾だろ。
0054日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/14(木) 17:31:49.67
寿命の長さがありえないことが
武内宿禰の実在性や子孫の系図を否定する根拠にはならない
0055日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/14(木) 18:24:33.73
なんていうか「古代史のなぞ」的な本読んでそれで古代史語ってる感がすごい
武内宿祢の年齢を理由に非実在とすれば多くの学者が実在と認める120歳の崇神・110歳の応神・124歳の雄略ですら非実在になるんだが
0056日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/14(木) 18:28:31.90
第一すでに没落した葛城・平群と中堅豪族の紀、大臣を出し続けた蘇我をどうしたら同ランクに見えるんだw
0057日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/16(土) 22:32:05.62
都塚古墳関連で、稲目が高句麗の女を娶った話は信じられている割に、
狭手彦が高句麗の姫を奪って来た話が信じられていないのは何で?
0058日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/17(日) 03:38:34.07
武内宿禰って武内が姓じゃないの?
宿禰が姓なの?
この人の身内ってナントカの宿禰ばっかりだよね。
五月みどり、小松みどり姉妹みたいなもん?
0059日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/17(日) 09:58:09.73
質問に答えるよスレがあるんだからそちらでどうぞ。
単発Q&Aなモノを書いてもスレチでしかない
0060日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/17(日) 11:14:17.38
サデヒコは批判しかできない学者が重箱の隅をつついて
この話は信用できませんねえとか言ったんじゃないの

武内宿禰の時代は姓は未発達だし、そもそも皇族なので姓はない
宿禰はこの時代の豪族の尊称の一つで豪族なら貴賤に関わらず使われた
0061日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/17(日) 14:31:38.53
「宿禰」で興味深いのは、日本書紀における6世紀代の実例が、蘇我稲目・蘇我馬子・紀男麻呂の3名に限られること、
紀男麻呂が皇別の紀氏出身なら「紀臣男麻呂」あるいは「紀男麻呂臣」とでも書かれていて良さそうなのに(神別の紀氏なら紀直)、
欽明朝〜崇峻朝まで一貫して「紀男麻呂宿禰」という記載であること、
そして、蘇我馬子についても「宿禰」の称が付されるのは基本的に崇峻朝までであり、その後は回顧的記事での使用を除けば、
天武朝の八色の姓の「宿禰」(むろんそれまでの宿禰とは意味が違う)まで、上記の称号としての「宿禰」の用例は見当たらないこと、
などが挙げられる。
0062日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/17(日) 14:32:26.60
>>58
スクネは役職というか身分みたいなもんで子孫に継承されるんだな
スクネの子もスクネ
0063日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/17(日) 14:33:46.36
>>61
稲荷山鉄剣の【足尼】がスクネだとする見解もあるがどうなのかねぇ
デキスギのような気もするが
0064日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/17(日) 14:55:37.40
>>63
たしか続日本紀に、「足尼」は「宿禰」とするように、とかいう記事があったと思う。
その他、古文献で「足尼」と「宿禰」が対応するようだから(例えば平群の都久宿禰と都久足尼)、
まず間違いないと思う。
0066日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/17(日) 16:28:11.19
蘇我稲目も上宮聖徳法王定説・天寿国繍帳で足尼って書かれてるな
0068日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/17(日) 17:11:57.30
刀禰は、戸主 > toushi > toshi > toji > 刀自のように、戸の兄(tonoe)からきている気がするけど、
宿禰ってどういう意味なんだろうか?
0070日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/17(日) 17:40:13.47
あるいは
オホアニ(ネ)→オホネ〔大尼・大禰〕
スクナアニ(ネ)→スクネ〔足尼・宿禰〕
0071日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/17(日) 18:32:10.06
大碓命 オホウス
小碓命 ヲウス
のようにオホエとヲエになるんやないかという疑問はあるけど、
ありえそう
0072日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/17(日) 18:56:04.15
孝元天皇の子には、大毘古命(大彦命)と少名日子建猪心命(少彦男心命)という例があるね
0073日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/17(日) 20:55:40.39
三国史記の将軍「于道朱君(ウチシュクン)」が武内宿禰で葛那古は葛城襲津彦

倭国の使臣、葛那古が来朝して客館に滞在していた。
于老はその接待の役に任ぜられた。彼は倭の使臣に戯れて
「近いうちに汝の王を塩作りの奴隷にし、王妃を炊事婦にする」といった。
倭王はこれを聞いて怒り、将軍、于道朱君を派遣して、
わが国に攻めて来たので、大王はこれを防ごうと柚村に出て居た。
于老は大王の所に行って「こんどのこの患は、私が言葉を慎まなかったのが原因でありますので、
私がその責に当ります」といって、ついに倭軍の所に行って
「前日の言は、ただ冗談に言っただけである。どうしてそのような言を信じて、
軍を起こしてこのように攻めてくるのか」といった。
倭人はこれには答えないで、彼を捕まえて、積み柴の上において焼き殺してから去って行った。
0074日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/17(日) 21:08:40.60
>>73
三国史記は時代的には日本書紀を参照可能なんだが、こんな屈辱的な話が朝鮮の記録に独自に存在したんだろうか
0075日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/17(日) 21:10:30.30
"大兄"去来穂別(履中)と雄朝津間稚子"宿禰"(允恭)ってのも似たような範疇かも。
0076日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/17(日) 21:10:36.76
>>70
興味深いけど、これだと音読み訓読みごっちゃになるよね
その辺掘り下げてみたい
0078日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/17(日) 21:31:10.80
>>76
大尼・大禰のことでしょうか。
これは「先代旧事本紀」に出てくる、物部氏の役職や一種のカバネ的名称です。
実際にあったかどうかは分かりませんが、伝えられてきたのだとすれば無論後世の当て字と思われます。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/17(日) 21:38:38.07
つか奴らが資料使うときって、チェリーピッキングしてる所しか見たことが無いんだがwww

対馬は昔朝鮮領だった〜とか實聖尼師今七年の記事(倭国が対馬に軍営を置いて兵糧を蓄え、我が国に侵攻しようとしている!)知ってたら絶対言えんわな。
瓠公とか絶対知らんだろうし。
0080日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/17(日) 21:54:43.02
>>75
確かに天皇なのにスクネっているんだよね
となると、役職やカバネだと説明つかなくないか?!
0082日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/17(日) 21:57:35.12
>>79
日本人を絶対的劣等民族と言っときながら、片方で古代朝鮮人の子孫だと言うからな
0083日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/17(日) 22:12:59.55
>>80
カバネというよりカバネ的「名称」かな。
○○ワケ天皇(皇子)、なんてのも相当するかも。
時代は違うけど、○○大兄皇子とかもね
0084日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/18(月) 07:29:46.90
武内宿禰って武内が名字じゃないの?
なんか身内の名前がナントカの宿禰ばっかりなんだけど。
宿禰が姓なの?
五月みどり、小松みどり姉妹みたいなもん?
0085日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/18(月) 07:37:08.62
ごめんなさい>>84=>>58です。
うちのケータイが>>56で止まってたんで
二度質問してしまいました。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/18(月) 08:24:51.24
>>83
となると、>>70が真実味を帯びてくる
単なる大小を指す言葉なのか

ところで、仁徳天皇紀にスクナという怪物が出てくるが無関係なのか
0087日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/18(月) 20:22:33.18
もしかしたら邪馬台国の時代から蘇我入鹿まで二重統治制だった?

邪馬台国時代は聖権の卑弥呼と俗権の男弟とによる祭政二重統治制
崇神天皇〜蘇我入鹿は聖権の大兄(オホネ)系の天皇家と俗権の少兄・(スクネ)系の宿禰の祭政二重統治制
0088日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/18(月) 20:59:03.31
二重統治じゃなくて多元統治だろ
王族含め諸豪族がそれぞれ土地と人民をもつ小首長
大王はそれらの最終的なまとめ役
7世紀はそこから天皇を頂点とする公地公民・中央集権・官僚体制への移行の歴史
0089日本@名無史さん
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2014/08/25(月) 13:32:59.55
武内宿禰の話が嘘っぱちとは思わないね。
成務天皇と同日生まれで、5代の天皇に仕えた。
日本書紀の120歳とかを信じるとうそっぱちかもしれないけど。

有栖川宮幟仁親王は73歳まで生き、4代の天皇に仕えた。
亡くなった時大正天皇は生まれていたから、5代ともいえないことはない。
どんな庶民でも、祖父、父、自分、子、孫の5代を知ることは難しくはない。
特別長寿と書かれているんだから、80歳に近かったのかもしれないが。
活躍したのが、30代〜50代に相当する働き盛りの期間だと考えられる。
でっち上げる必然性はない。
0090日本@名無史さん
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2014/08/29(金) 21:03:40.09
>>87
ありえるかも

『隋書』「東夷傳俀國傳」より
俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟
(訳)
倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺(かふ)して座す。
日出ずれば、便(すなわ)ち理務を停め、いう、我が弟に委ねんと

兄 大兄 オオエ 天皇 祭 聖 
弟 少兄 スクネ 宿禰 政 俗(軍)
0091日本@名無史さん
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2014/08/30(土) 06:35:53.72
二頭政治という指摘は今までにもあったと思うけど、
それを大兄、宿禰という名前と結びつけたのは画期的かも。

乙巳の変によって「宿禰」の意味が分からなくなって、
記紀ではその扱いがぞんざいになった可能性もある。

また、大王が亡くなって次の大王が決まるまでの間、宿禰が大王になる、
あるいは兼任するということもあったのかもしれないが、
そういったことが乙巳の変によって失われてしまったということも考えられる。

そう、考えると、兄弟統治(実際の兄弟である必要はないが)ということで、
一つの名前で記されてたとすると、
一人の天皇が100年以上も生きたという事も説明がつくかも。
0092日本@名無史さん
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2014/08/30(土) 17:06:31.01
二王制ってスパルタかよ

新羅の王家が三系統あるってのも意味わからん
0093日本@名無史さん
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2014/08/30(土) 20:30:34.43
日本書紀は年齢を盛ってるね。
だけど、古事記には年齢はなくて没年の干支がある。
崇神没年318年説を取れば、武内宿禰の年も荒唐無稽ではないかな。
0094日本@名無史さん
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2014/09/01(月) 23:41:33.07
継体の晩年になって、それこそどこの馬の骨ともわからん蘇我がいきなり登場し、
以降他の豪族を押しのけ、継体後の歴代天皇の外戚となる。
まあ、そもそも継体自身もどこの馬の骨ともわからんやつだが。

仏教導入時にも、他の豪族の「んなよその宗教入れて、祖神はどうすんだよ!」という
猛反対にもかかわらず、蘇我と天皇は、受け入れ強行。
「もうでかい古墳なんてつくるんじゃねーぞ」と禁止令まで出す。

異文化の二人組み押し込み強盗にのっとられたんだよ、畿内は。
0095日本@名無史さん
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2014/09/02(火) 04:04:47.88
>>94
継体天皇の皇子が続々即位しちゃって王権が乱立したってのも結構リアルだよね
0096日本@名無史さん
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2014/09/06(土) 18:59:51.44
>>90
欽明天皇→蘇我稲目
用命天皇→蘇我馬子
聖徳太子→蘇我蝦夷
山背大→蘇我入鹿
生没年から検証しました。
0097日本@名無史さん
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2014/09/06(土) 22:41:23.22
>>94
傍流が何かの拍子で王統を継いだ場合権威づけに外来の思想や宗教持ってくる
ってホントどこにでもある話だな
0098日本@名無史さん
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2014/09/06(土) 23:48:13.90
>>91
ヤマトタケル(明治以前の読みはヤマトタケ)=「武」内宿禰(弟は「甘美」内宿禰)
景行天皇=武雄心説があるみたいだね

ヤマトタケルは武内宿禰(たけうちのすくね)の若き姿
http://www.geocities.jp/shoki_otoku/

この幻の皇統系譜説を参考にするとこんな感じかな

  皇統    スクネの系譜
開化天皇   大彦
崇神天皇   彦太忍信命
垂仁天皇   景行天皇=武雄心
仲哀天皇   成務天皇=日本武=武内宿禰
麛坂皇子   応神天皇
仁徳天皇   宇治稚彦皇子(武・内宿禰の内は宇治に通ずる>>77)   
履中反正   允恭天皇(雄朝津間稚子宿禰)宿禰から異例の即位 倭の五王済は前王との関係不明
0099日本@名無史さん
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2014/09/07(日) 00:46:11.14
>>96
ちなみにこれは天智天皇が山背王=蘇我入鹿暗殺して、日本書記を編集したという意味です。武内宿禰以降の子孫は歴代の天皇ということになります
0103日本@名無史さん
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2014/09/09(火) 18:26:48.86
古墳時代前期〜中期の天皇(大王)実年代化(古事記の没年情報+中国皇帝への朝貢記録+同時代人)チラ裏

★三輪(佐紀)朝=【列島統一→半島派兵(高句麗・新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源を獲得)】
10祟神(〜318年)…纏向に東遷280年頃(西晋滅亡前夜)?四道将軍派遣290年頃?大田田根子
11垂仁(情報なし)…330年頃没、新羅王子「天之日矛」帰化、田道間守 、野見宿禰vs当麻蹴速
12景行(情報なし)…343年頃没、日本武尊の熊襲討伐・東征340年頃、大臣・武内宿禰(〜応神)
13成務(〜355年)…国造/県主設置  
14仲哀(〜362年)…新羅派兵に反対し、神罰により崩御(暗殺か)
神功(※〜389年)…「旨」三韓征伐(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→「神功52年」372年百済・近肖古王より贈呈)
★河内朝=【半島派兵(高句麗との戦い&百済支援)本格化】
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)
18反正(〜437年)…「珍」(438年)
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)←「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)23顕宗(情報なし)24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)

※神功皇后…日本書紀による没年情報
0104日本@名無史さん
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2014/09/09(火) 18:31:34.80
「倭の五王」の正体判明!「倭の七王」だった!〜隠れていた2人の倭王(17代履中と25代武烈)〜

413年/421年/425年「賛/讃」…仁徳
430年★「倭国王」…履中
438年「珍」…反正
443年/451年「済」…允恭
460年/462年「倭国/興」…安康
477年/478年「武」@…雄略
502年※「武」A…武烈

★430年の「倭国王」が履中 → 438年「讃の弟珍立つ」の真相
430年に中国の南朝(宋)に朝貢した「倭国王」が「讃」ではなく、「讃の子」で、
その8年後の438年に「珍」が朝貢した時に、倭国の使臣が「先代の弟」と説明したとすると、
台与以来約150年ぶりに朝貢してきた倭王=「讃」のイメージが強烈だった宋側にしてみれば、
名前不明で影の薄い先代「倭国王」の弟ではなく、先々代「讃」の弟と錯誤した可能性がある。
もし【父「讃」→「倭国王」/「珍」兄弟】ならば【父(仁徳)→(履中/反正)兄弟】となり、
記紀(大和朝廷)の天皇系譜と合致する。

※倭王「武」は2人いた。
502年、南朝(梁)の「武」帝が征東大将軍に進号した倭王「武」が、477年/478年の倭王「武」(興の弟)とは別人で、
雄略(幼武)の孫の武烈とすれば、雄略の没年489年や、雄略没後の大混乱(24年間の朝貢中断)とも整合する。

∴@讃(仁徳)→A倭国王(履中)→B珍(反正)→C済(允恭)→D興(安康)→E武1(雄略)→F武2(武烈)
「倭の七王」となる。
0105日本@名無史さん
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2014/09/13(土) 19:28:19.23
古墳時代の倭王や豪族って、早い話が華僑でしょ。
0106日本@名無史さん
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2014/09/13(土) 21:52:33.81
そういう推測は倭王の名前からできるが、中国は勝手に外人の姓名を漢字に直すんだよね

クシャーナ朝のヴァースデーヴァは波調だし
0107日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/19(金) 21:42:24.95
自然科学分野では光の速さは一定だなんてありえない!なんて言う馬鹿はいないのに
人文科学分野では105みたいな知ったかが湧くのってなんでだろう
0108日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/20(土) 18:35:20.99
泰氏が漢族はどうかはわからんが、漢文明圏からの移民であるというのは通説だろ。
他の連中にも同類がいても何の不思議もない。
記紀にある各豪族の勢力圏なんてのは、後世の記述だからそれ自体は何の根拠にもならない。
オーストラリアは昔からイギリスの領地でした、というレベルの話。
0110日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/21(日) 14:27:29.58
単純に機織りが秦で、事務係が文部アヤベだっただけの気がする
あるいは辰韓(秦韓)の移民という内容が含まれるのか
後で始皇帝の子孫とか言い出したから秦の字が着いてるだけじゃないのか
日本人はシャレの表記を楽しむ風情があるからね
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