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【謎の世紀】古墳時代についてマタ〜リと語ろう 2
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0002日本@名無史さん
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2014/08/06(水) 10:29:50.21
 古墳時代は、日本列島において古墳、特に前方後円墳の築造が卓越した時代を意味する、考古学上の時期区分である。
 古墳の成立とその衰滅をいかに捉えるかによって、古墳時代の時期区分にも僅かな差異が生じる。
 現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。
 中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれることもある。
0003日本@名無史さん
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2014/08/06(水) 10:31:48.46
○時代区分
 3世紀後半から、4世紀初め頃が古墳時代前期、4世紀末から古墳時代中期、4世紀初めから7世紀の半ば頃までを古墳時代後期としている。
 実際の古墳の築造は、畿内・西日本では7世紀前半頃、関東では8世紀の初め頃、東北地方では8世紀の末頃でほぼ終わる。
0004日本@名無史さん
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2014/08/06(水) 10:36:12.28
●古墳時代前期
 3世紀の後半には、西日本各地に特殊な壺形土器、器台形土器を伴った墳丘墓(首長墓)が現れる。
 その後、前方後円墳のさきがけと位置付けられる円墳、出雲文化圏特有の四隅突出型墳から変化した大型方墳が代表的である。
 最古のものは島根県安来市の大成古墳と位置付けられ、前期には珍しい素環頭大刀が出土している。それから少し経ち、奈良盆地に大王陵クラスの大型前方後円墳の建設が集中した。
 埋葬施設は竪穴式石室で、副葬品は呪術的な鏡・玉・剣・石製品のほか鉄製農耕具が見られる。
 この頃、円筒埴輪が盛行。土師器が畿内で作られ、各地に普及すると、その後、器財埴輪・家形埴輪が現れた。

●古墳時代中期
 5世紀の初頭、王墓クラスの大型前方後円墳が奈良盆地から河内平野に移り、さらに巨大化した人物埴輪が現れた。
 5世紀半ばになり、畿内の大型古墳の竪穴式石室が狭長なものから幅広なものになり、長持ち型石棺を納めるようになった。各地に巨大古墳が出現するようになり、副葬品に、馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなった。
 5世紀後半には、北部九州と畿内の古墳に横穴式石室が採用されるものが増えてきた。北部九州の大型古墳には、石人・石馬が建てられるものもあった。またこの頃大阪南部で、須恵器の生産が始まり、曲刃鎌やU字形鋤先・鍬先が現れた。
 5世紀の終わりには、畿内の一部に先進的な群集墳が現れ、大型古墳に家型石棺が取り入れられるようになった。南東九州地方や北部九州に地下式横穴墓が造られ始め、また、装飾古墳が出現し出した。

●古墳時代後期
 6世紀の前半には、西日本の古墳に横穴式石室が盛んに造られるようになった。関東地方にも横穴石室を持つ古墳が現れ、北部九州では石人・石馬が急速に衰退した。
 6世紀後半になり、北部九州で装飾古墳が盛行。埴輪が畿内で衰退したことで、関東で盛行するようになった。
 西日本で群集墳が盛んに造られた。

●古墳時代終末期
 全国的に6世紀の末までに前方後円墳が造られなくなり、畿内でも方墳や円墳がしばらくの間築造されていた時期を古墳時代の終末期と呼んでいる。
0005初期ヤマト王権
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2014/08/06(水) 10:38:53.53
 弥生時代末期には、発掘調査の結果から北部九州を中心とする政治勢力と奈良盆地東南部を中心とする政治勢力が存在していたことが判っている。
 3世紀前半に活躍した倭国王(親魏倭王)卑弥呼の所在地邪馬台国が北部九州、畿内のどちらにあったのかについては未だ学説が分かれている。
 いずれにせよ、この両地域の勢力が母体となって古墳時代のいずれかの時期に、畿内を本拠地とするヤマト王権が成立したと考えられている。

 成立の過程ははっきりしないが、考古学の成果は、奈良盆地勢力が吉備政権など列島各地の勢力と連合してヤマト王権へ成長してゆき、この過程で北部九州が衰退したことを示唆している。
 北部九州勢力が奈良盆地へ東遷の後、奈良盆地勢力を制圧してヤマト王権となったとする見解もあるが、この説は科学的に証明出来ていない。

 成立期には、従前のものより格段に大規模な墓(前方後円墳)が奈良盆地を中心に登場している。
 弥生末期には畿内、吉備、出雲、筑紫などの各地域ごとに特色ある墓制が展開していた。
 前方後円墳には、それら各地域の特色が融合された様子が見られるため、ヤマト王権は列島各地域の政治勢力が連合したことによって成立したとされる。

 ヤマト地方(畿内)を本拠として本州中部から九州北部までを支配したと考えられている。
 倭国を代表する政治勢力へと成長する過程では大小の勢力や種族との衝突があったと考えられる。『日本書紀』などにはそれを窺わせる記述(ヤマトタケル説話など)が残されているが、詳細な過程は不明である。
0006倭の五王の時代
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2014/08/06(水) 10:40:18.29
 中国の史書に266年から倭国の関係記事は皆無である。次に出てくるのは約1世紀半後の5世紀の初め、413年(東晋・義熙9年)に倭国が貢ぎ物を献じたことが『晋書』安帝紀の記述である。
 421年(宋・永初2年)に『宋書』倭国伝に「倭王の讃」の記事があり、これ以後、倭王に関する記事が中国史書に散見されるようになり、讃以下、珍・済・興・武と続いている。
 これが「倭の五王」である。倭の五王は、『日本書紀』に見える天皇との比定が試みられた。必ずしも比定は定まっていないが、例えば倭王武は雄略天皇ではないかと見られている。
 武については、中国皇帝に上表した文書には、先祖代々から苦労して倭の国土を統一した事績が記されている。

 5世紀末時点ではまだ「部(べ)」の制度が5世紀末には成立していないとされている。埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣銘や熊本県玉名市江田船山古墳から出土した大刀銘の「杖刀人(じょうとうじん)」「典曹人(てんそうじん)」から推測されている。
 一方島根県松江市岡田山古墳から出土の鉄刀銘「額田部臣(ぬかたべのおみ)」の銘から、6世紀中頃までには部民制の施行がうかがい知れる。
 また、大臣・大連の制度ができ、大臣には平群氏、大連には大伴氏・物部氏が選ばれた。氏と姓の制度がある程度成立していたとされている。

 4世紀後半から5世紀にかけて、倭軍が朝鮮半島の百済・新羅や高句麗と戦ったことが「高句麗広開土王碑(こうかいどおうひ)」文にみえる。
 この時、筑紫の国造磐井が新羅と通じ、周辺諸国を動員して倭軍の侵攻を阻もうとしたと『日本書紀』に記述があり、これを磐井の乱(527年)として扱われている。
 これは、度重なる朝鮮半島への出兵の軍事的・経済的負担が北部九州に重く、乱となったと考えられるが、この時代はまだ北部九州勢力がヤマト王権の完全支配下にはなかったことも示唆している。
0007古代国家の成立
垢版 |
2014/08/06(水) 10:45:07.40
 安閑(531年 - 535年)・宣化(535年 - 539年)・欽明(539年 - 571年)の各王朝を通じて、地域国家から脱して初期国家を形成していった。
 王権のもとには、ウジを持つ物部氏・大伴氏・蘇我氏などがいて、臣・連・国造・郡司などの職掌があった。
 地方では、吉備氏系氏族がウジ・臣を作るなど、各地の豪族が部などを作り、勢力を張っていた。

 宣化朝に蘇我氏が大臣になり勢いを増した。
 後の崇峻期(587年 - 592年)を経て稲目・馬子・蝦夷・入鹿と蘇我氏が政治上重要な地位を占めることになる。この権力の掌握はは645年(皇極天皇4年)の『乙巳の変』までの約半世紀間続いた。

 欽明朝では、戸籍が造られ、国造・郡司の前身的な国家機構が整備された。
 また、この欽明朝では仏教の伝来があった。538年に百済から伝来した。『日本書紀』は、552年に伝わったと書いているが、他の史料から編者の改変である事が分かっている。
 仏教伝来については、蘇我氏と物部氏とが争い、蘇我氏の勝利に終わっている。
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