蘇我氏渡来人説

門脇禎二が1971年に提唱した[1]が、現在は否定されている。門脇が提唱したのは応神天皇の代に渡来した、
百済の高官、木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が同一人物とする説で、鈴木靖民や山尾幸久らの支持[2]を得た一方、
加藤謙吉や坂本義種らが批判[3]したように、史料上の問題点が多い。根拠が不十分であり、現在では支持する研究者はいない[4]。

問題点は整理すると以下の通りであり、木満致と蘇我満智を同一人物であると実証することは不可能である[5]。

「木満致」の名が見える『日本書紀』の応神天皇25年(西暦294年、史料解釈上は414年)と
「木満致」の名が見える『三国史記』百済本紀の蓋鹵王21年(西暦475年)とでは時代が異なる
百済の名門氏族である木満致が、自らの姓を捨て蘇我氏を名乗ったことの不自然さ
渡来系豪族が自らの出自を改変するのは8世紀以降であること
木満致が「南行」したとの『三国史記』の記述がそのまま倭国へ渡来したことを意味しないこと
百済の名門氏族出身でありながら、孫の名前が高句麗を意味する高麗であること

満智の子は韓子(からこ)で、その子(稲目の父にあたる)は高麗(こま)という異国風の名前であることも渡来人説を生み出す要因となっているが、
水谷千秋は「蘇我氏渡来人説」が広く受け入れられた背景を蘇我氏を逆賊とする史観と適合していたからではないかと述べている[6]。
また、韓子は『日本書紀』継体天皇24年秋9月の条の注に「大日本人娶蕃女所生為韓子也」(大日本人、蕃女(となりのくにのめ)
を娶りて生めるを韓子とす)[7]とされているように、外国人との混血児の通称であり、実在の人物名としては考えがたいとする[8]。