【謎の世紀】古墳時代についてマタ〜リと語ろう 2
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>>574
>神社は神社で墓ではないぞ
神社が今に引き継がれているように文化や伝統の継承というのは普通に可能ということだ
ということは“そこまでのレベルの継承”とはいわないまでも「先祖の墓がどこにあるか」ぐらいの継承は充分可能だ
いい加減この点について見解を聞かせてくれないか?その手前の例え話の時点でずっと足踏みしてる状態だ
いいか?「神社が継承可能なら古墳でも同じレベルの継承ができたはずだ」という部分が勘所じゃないんだ
だから「神社は神社で墓ではない」という反論で勝ち誇る話じゃないんだこれは
重要なのは神社は現代に残ってる←これはつまり語り継ぐことはできるということの何よりもの証明だ
同じように万世一系が事実であるならその子孫は祭祀が廃れようとマツリ事が廃れようと「じっちゃんの墓は○○だ」と子々孫々に語り継ぐことはできるわけだ
語り継ぐだけだ、俺が言ってる条件は
神社レベルの建物だの儀式奉納御璽行事を後世に伝えろなんて言わない
古墳が放置され盗掘され放ったらかしになろうが構わない(先祖を敬わない土人一族らしいから仕方ない)
ただただただ語り継ぐことは可能だろ?と言ってる
万世一系がほんとうなら自分の先祖の墓の場所を記憶することはできるはずだ
記憶する脳みそが小さくても自分の親の分は覚えられるはずだ、そしたらそれを子供に伝えて子供も自分の親の墓だけ覚える
せめて古墳時代や飛鳥、奈良時代まで天皇家が一本線でつながっているならこうして墓と先祖の一致なんてできたはずだ 墓にたいして執着がなかったんじゃねーかな
ニライカナイや黄泉比良坂があの世だったわけで >>576
確たる証拠がないのだから思い込みは当然だ
その上で>>577みたいに回答してほしいから聞いてる
なぜ○○なのか?について「思い込みじゃねーか」では話が進まない
思い込みかどうかなんてどうでもいいそこに拘っていない(だから思い込みということにしたいなら思い込みとしたらいい)
聞きたいのはその先だ
なぜ語り継ぐことさえしなかったのか?についての>>576の意見を書き込んでほしい
2ちゃんはここで止まるから議論ができない(必ず個人攻撃やどうでもいい言葉の一部分に噛み付くだけで終始してしまう)
思い込みだというのなら思い込みで結構、その上でどう思うかを書いてほしい
「戦国時代のようではなかった万世一系として先祖代々皇統が途切れることなく続いてきた」
それなら古墳の文化が廃れたとしてなぜ子孫たちが先祖の墓について語り継ぐことさえしなかったのか
あんな巨大な公共事業を要する古墳を作っておいて墓に執着がないというのは無理がある >>578
いや、執着がないのには無理がないよ
子孫が墓に構ったって自分の生きていくことに利益が無くなったんだな
もし利益があったんなら構っただろうね お前は「墓を大事にしてるはずだ」って勝手に決めつけて、
あとはその思い込みに沿ったことしか主張してないじゃんか
古墳時代は墓を大事にしていないと指摘されても、そんなはずはない、と思い込みで否定するだけ
否定するなら否定するだけの事実に基づいた根拠をあげろよ 地元に限って言えば、「アユ」「アイ」に相当する地名の所に古墳がある。
同時に同じ人物を神として祀った神社もある。
この辺りから推測するに、古代は山岳信仰と故人の祭祀は同一視されていて、
人工の山=古墳に「会いに」行く文化があったと思われる。
おそらく生活の主体である山に再生と集落の守護の想いを託したものであろう。
出雲大社や大山祇神社、熊野神社など、各地のもと土着信仰が山岳信仰であり、
その後大和式の神道に組み込まれたものは数多く見られる。
これは先祖への信仰を守る人々を懐柔しつつ、
古墳式地方支配から大和式中央集権に民衆を組み込んで行く政策の結果だろう。
これは神式の葬儀からさらに仏式の葬儀に置き換わっている現在からも類推される。
つまり古代人は墓=古墳への信仰を捨てた訳ではなく、
政治的に古墳が神社へとすり替えられ、さらに神仏習合される過程で習俗としての古墳祭祀が失われたものと考えられる。 >>575
思い込んでるやつに何を言っても無意味かも知れんがw
1,万世一系を取り立てて主張したのは、江戸時代の勤王思想やその流れをくんだ戦前の国体思想
2,少なくとも、記紀が出来た頃にはどこにあるか知っていた。だから書いている。
3,現在は、書かれた場所が正確には「どこ」だか不明ってことだ。
4.某国の王墓のように一箇所に固まって作ってあれば維持できたであろうが、古墳は
各地に散らばっている。
5.先祖の祭祀は、墓ではなく神社が主流だったと思われる。だから出雲大社や伊勢神宮が残っており、
現在まで引き継がれている。江戸仏教だけが先祖の祭祀だと思い込むのは間違い。
記紀によれば、崇神の時に大神神社を作り、その他各地にたくさんの神社を作らせた。
6,埋め墓こそが最も重要という思想は日本にはなかった
以上 もしかして、現在の「墓石の下に骨壷がある」墓が伝統の墓だと思いこんでるやつなのかな?
あんなのは新しいよ。 そういや弥生時代には甕棺だったか。
古墳時代は古墳に入れない人はどうしたんだろう。 >>587
野ざらしとか行き倒れだけだろ
土葬とか埋葬はされてるよ。 >>588
野晒しがあったかどうかは、遺構も遺物も残らないので、確認しようがない
しかし、平安時代では都の周辺に死体が転がっていた、という話はよくされるな >>580
墓を大事にしてないかどうかは重要じゃない
現実に古墳は存在してるということは誰かの古墳だったわけだ
そして万世一系が2700年前から続いているのなら子孫は古墳を大事にしようがしまいが墓の場所と主の情報は語り継ぐことができるわけだ
しかし実際はそうなっていない「なぜそうなっていないのか?」と問うてる
この部分の話をいい加減したらどうだ?何が不都合なんだ?これこそ思い込みじゃなく現実の現象についての疑問だぞ?
語り継ぐことは可能なのになぜ語り継がれてこなかったのか?これは思い込みじゃない(思い込みと思いたければ思えばいいが)
この現実に対してどう思うか聞いてるだけだ興奮するな冷静に会話をしろ >>580
>古墳時代は墓を大事にしていない
古墳は権力者の墓であり一大公共事業だった
そして祭祀もおこなわれている
それなのに「墓を大事にしていない」というのは暴論
それこそ証拠を出してみろ お前は300年前の先祖の墓の位置を知っているのか? >>592
大事にされてると主張してる方こそ証拠を出せよ >>592
埴輪の交換などのメンテナンスが行われていない
堀の堆積物に分析により、すぐに草木が繁茂していたことが指摘されている
継続的な祭祀の痕跡が見つからない >>595
日本書紀、古事記に墓参りの記事がないことも追加で >>582
>現在は、書かれた場所が正確には「どこ」だか不明ってことだ。
だからなぜそんなことが起こり得るかと聞いてる
万世一系なら先祖の墓を語り継ぐなんて当然のことだ
墓という概念が現在と違っていてもモニュメントとしての受け取り方はしているはずだ(あれだけの巨大な構造物ならな)
それであるとしたら自分の親の墓については一般的な教養として子に伝えるしその子もその下の代に語り継ぐことはするはず
なぜそれをやらなかったと聞いてる
これは思い込みでもなんでもない現実として墓と持ち主が一致しなくなってるなんてカルトな状況になってる
それはなぜか?と聞いてる
万世一系、皇統、そしてやんごとなき身分の人間は教育レベルも当然その時代時代で高いはず
それならなぜ自分の近い先祖の墓(繰り返す。墓じゃなくてもモニュメントとしての興味でいい)がデカデカと存在するなら
それについての関心や好奇心もあるだろうしそれを知識として得て自分の子孫へ伝えるのは容易なはず
なぜそれをやらなかったのか?を聞いてる 日本書紀にも延喜式にも陵墓の位置は記載されているのに
何をもって「実際はそうなっていない」というのか?
陵墓以外の豪族の古墳なんて、ごく一部を除いてまったく伝承されてないのに >>594
あれだけの巨大な構造物を大勢の人間で作っておいて大事にしなかったは無理がある
それなら盗掘で済むどころか古墳そのものが現在まで残ってない
さすがに古墳は大事にされてなかったは為にする無意味な暴論だぞ >万世一系なら先祖の墓を語り継ぐなんて当然のことだ
決めつけ
>墓という概念が現在と違っていてもモニュメントとしての受け取り方はしているはずだ
決めつけ
>それであるとしたら自分の親の墓については一般的な教養として子に伝えるしその子もその下の代に語り継ぐことはするはず
決めつけ >あれだけの巨大な構造物を大勢の人間で作っておいて大事にしなかったは無理がある
決めつけ
>それなら盗掘で済むどころか古墳そのものが現在まで残ってない
決めつけ 日本書紀にも延喜式にも誰の陵墓がどこにあるかは記載されている >>595
大事にする=メンテナンスというのは違う
それは自分に都合よくするための牽強付会にすぎない
先祖の霊を敬って墓の内部や周辺は禁忌として近寄らず日常的に遠くから祈りを捧げることだって「大事にしていた」ことになる 大事にしてたはず、ってのこそ
「自分に都合よくする」ための牽強付会にすぎない >>604
正確な情報として後世に伝わっていない
万世一系がほんとうなら日本書紀を編纂した動機でもある天皇と日本の権威付けのために正確な先祖の墓の位置は重要になるから
子孫はそれを調査して後世に記録として残しておくはず
明治政府がやったように国や集合体の権威付けのためには歴史を再確認し内面化する必要がある
それをやらなかったのはなぜか? 563日本@名無史さん2017/11/18(土) 14:59:09.56>>571
勝手に無検証の前提条件を決め付けて
それへの適否を論拠にして自説を展開するのは
トンデモ電波ガイキチさんによく見られる >>608
だから延喜式の時代まではやってたんだよ >>606
おまえこそ大事にされてない証拠を上げたらどうだ
古墳は現在に残ってるこれが何よりの証拠
上のほうでそのこをを誇ってた奴もいただろう
今になって墓なんて大事にされてなかったはないだろ牽強付会くん >>610
それは今の時代の人間には正確なことはわからないな
そもそも記紀だって天武や持統にとって都合よく書かれている可能性もさんざん指摘されてる
延喜式に書かれたことが絶対正しい真実だ!なんてのはロマンがあって微笑ましい思考だとは思うよ >>612
古墳が現在に残ってる=これが証拠
はい次おまえの番
大事にされてなかった証拠は?これはすごいな学会もびっくりな新説だ >>611
>墳は現在に残ってるこれが何よりの証拠
小さい古墳でも掘り崩すのはかなりの労力が必要
そんなところに労力を投下するのは無駄 さぁ議論できない日本人の悪い部分が出てきたぞ(笑) 実際、機械が導入された戦後になってからあまたの古墳が消滅してるな >>615
だったら古墳を作ることこそ最大の労力の無駄だろ
ほんとに古墳を大事にする文化がないならあんなにボコボコ古墳は作られることはなかった
大事されない=権威付けにならない、となれば当然古墳なんて作られない
はい次お前の番
逃げずに大事されてない証拠を出せ >>614
>これはすごいな学会もびっくりな新説だ
大事にしてたって主張してる学者をあげてみろよ >>619
>だったら古墳を作ることこそ最大の労力の無駄だろ
お前は古墳時代の人間の思想が読み取れるのかよ
学界もびっくりだなw >>619
>大事されない=権威付けにならない
決めつけ
作ることに意義を見いだしていた時代だと評価されているがな 古墳築造はエジプトのピラミッドのように働く代わりに食事を支給する公共事業だったのかも >>618
それ以前から朝廷の陵墓管理は崩壊してるぞ
つまり、答えは死穢のせい 自分の無知を認められないばかりに恥を上塗り
462日本@名無史さん2017/09/11(月) 15:51:05.23
誰か教えてほしんだけど
確か日本書紀を編纂する頃にはもう「どこどこの古墳が誰の墓で〜」とかわからなくなってたんだよね?
でも天皇の墓だけならわかるんじゃないの?先祖の墓なわけでしょ?
仮に文献を残す習慣がなかったとかしても自分の親と祖父の墓ぐらいは知ってるはずだよね?
そしたらそれぞれ下の世代にそれを伝えていけばその知識が蓄積されて結果自然と歴代天皇の墓は遡れるようになってるわけで
なんでそれが途中でわからなくなるわけ?万世一系なんでしょ?先祖の墓でしょ?
463日本@名無史さん2017/09/11(月) 16:09:10.84
>>462
歴代天皇の陵墓は日本書紀に網羅されてますよ。 その後の展開を考えると、無知ではなく結論ありきの思想による行動かと 3世紀から古墳が作られだして、石碑も文書もなく
似たような古墳が畿内周辺に何百と作られてたら
子や孫までの代ならともかく、それ以降は誰の墓かわからなくなっても別に不思議じゃない
古墳製造からすでに何百年何十年たった記紀や延喜式の記述は
正確な部分もあるだろうが、誤記もかなり含まれていると考えるのが妥当 祖霊信仰の強い日本に於いて皇室の先祖達が葬られている古墳が不明になるのは異常なこと
きっと現皇室とは関係のない人たちが埋葬されているのだと思う >>617
ちょっと失礼。
古墳=禁止足地の御神体としてその前段に社殿が造営された神社は意外と(特に田舎には)多く残っています。
例えば、但馬一宮の粟鹿神社(朝来市山東町粟鹿)や、
大阪府富田林の朝日ヶ丘に鎮座の崇神天皇の民の反乱=大蛇の神話と深く係わる、
美具久留御魂神社(祭神は崇神天皇自ら創建に関わり神号をも奉呈した美具久留御魂大神/出雲大神荒魂=大国主神。三輪山のほぼ真西にあり、二上山を挟んで対峙するような形式)
淡路一宮のイザナギ神宮等は、元来粟鹿神社と全く同様な円墳の前段に社殿(本殿)を営んだ形だったのを明治政府があな恐れ多くも古墳を破壊更地にして大神さま方の石室を露にして周りに人工基段を造りその上に本殿を造営(クサイものに蓋をした )
因みにイザナギ神宮は飛鳥の宮を中心にして同じ緯度に東には伊勢神宮(内宮)とほぼ同じ距離、経度の1度で配置されています。 >>623
>そんなところに労力を投下するのは無駄
おまえこそ古墳時代の支配者の気持ちわかるのか?思い込みが激しいな(笑) >>624
>作ることに意義を見いだしていた時代だと評価されているがな
どの学派や学者がどのぐらいの割合で評価してるのかソースを出せ
お前のご都合主義の決めつけの相手してると時間が無駄 >>631
つまり万世一系があったと言いたいのか?結論を書けよ >>633
そういう正論を書くと愛国者()くんが必死に噛み付いてきて議論にならないんだ(困ったものだ) >>623
>古墳時代は墓を大事にしていない
早くこの根拠と証拠を出してくれ
必死にアンカーつけて顔真っ赤なのはお前だけだぞ
大事にされてないのになぜ権力者たちはあんなにも古墳をボコボコ作ったんだ?
誰も大事にしないなら権威付けにもならないし先祖の供養にもならない
それなのになぜ古墳はあれだけ作られて尚且つ今も残ってるんだ?
これは決めつけや思い込みじゃなく現実の話だ
さぁ言葉尻を捉えて逃げるんじゃなく俺の質問にしっかり答えてみろ
怯えなくていいから冷静に大人の対応でレスを返してくれよ? >>640
>>615
>小さい古墳でも掘り崩すのはかなりの労力が必要
>そんなところに労力を投下するのは無駄
というのに対して、
>>619
>だったら古墳を作ることこそ最大の労力の無駄だろ
ってのは言いがかりでしかない
言葉尻をとらえて子供っぽい反論をしたって
誰も感心しないよ 記紀執筆当時の人間が歴史だとみなしていたのは雄略記以降で
それ以前の記は日本列島内外の時代も定かでないさまざまな逸話を
フィクションの糊でつなげた後から追加されたお話なんだよ
だから記紀は「仁徳」の古墳の認定を「間違えた」んじゃない
お話をこさえた後で適当に嵌め込んだだけのこと 平安時代延喜式どころか
陵墓祭祀が南北朝時代まで行われていたことも知らないバカがいるのか おまえら、新しいスレがニュー速プラスに立ったぞ 全員集合!
【歴史】陵墓に眠るのは誰なのか 宮内庁と学者の見立てに相違
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1511726842/
1 名前:紅あずま ★ [ageteoff] 投稿日:2017/11/27(月) 05:07:22.41 ID:CAP_USER9
陵墓に眠るのは誰なのか 宮内庁と学者の見立てに相違
朝日新聞:2017年11月27日03時02分
http://www.asahi.com/articles/ASKCL5R38KCLPTFC00F.html
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20171121004799_comm.jpg
陵墓に眠るのは誰?
大阪府の百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群が世界文化遺産の国内候補になったことで、「仁徳天皇陵」や「応神天皇陵」などの陵墓が注目されている。
だが、宮内庁が被葬者としている天皇や皇族には、学術的には疑問も少なくない。
陵墓とは、歴代の天皇・皇后の墓である「陵」と、皇族が葬られた「墓」の総称だ。
宮内庁のホームページによると、同庁は現在、188の陵と555の墓、46の陵墓参考地(陵墓の候補地)など、計899件を管理している。
堺市の百舌鳥古墳群と、大阪府羽曳野市・藤井寺市の古市古墳群は、古墳が最も巨大化した5世紀を中心に築かれた、計88基の古墳からなる。
このうち、宮内庁が陵墓として管理しているのは46基。
全長486メートルと日本最大の大山(だいせん)古墳(仁徳陵古墳)、同425メートルで第2位の誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(応神陵古墳)をはじめ、全長200メートル以上の前方後円墳10基は、すべて宮内庁管理の陵墓古墳だ。
宮内庁は一般の人の陵墓古墳への立ち入りを禁止している。
百舌鳥・古市古墳群が世界遺産候補となった際にも「引き続き皇室の祖先のお墓として、地域と協力をしながら適切な管理を行っていく」としており、登録が実現しても一般公開などは難しそうだ。 いくら近畿地方の府県で世界遺産が無いのが大阪府だけとは言え、
わざわざ古墳を世界遺産にせんでも…って思う ちゃんと先祖祀って管理してたんなら、なんであんな草木ボーボー生えるに任せたままにしたんだろう?
それとも元からそういう思想のものだったんだろか? >>647
完成後管理するという発想が無かったとか?
近所にでっかい丘ができた、くらいの認識だったのかも >>478の続き。
興が雄略である証拠→日本書紀で雄略5年に武寧王が誕生とあるが、
武寧王の陵墓誌より、これは462年と判明しており、倭王興の時代である。
武が清寧である証拠→上表文には、にわかに父兄を失うとあるが、雄略の
死後すぐに、清寧の兄の星川皇子が亡くなっており、記述と完全に一致。
逆に雄略はにわかに父兄を失ってなどいない。 その「証拠」なんだけどね
日本書紀執筆当時雄略からの代々の大王についてはいちおうの口承やそれを
まとめたできの悪い漢文があったと推測されるけど
大王間の血統関係については不明もしくは相互に矛盾した伝承があったと
日本書紀自らが言明している
史料が限られているなかで何らかの判断・解釈でもって不明点・矛盾点を片付けないと
執筆ができない
日本書紀の執筆者は中国の既存の史書を一通り読んでいるから
それらの史書の記述はきわめて有力な判断材料となる
だから中国の史書と日本書紀の記述が合致しているときわかるのは
当時の執筆者が「これで行こう!」と決めたという事実であって
史実だとは必ずしも言えない
逆に読んでいるはずの中国の史書の記述と食い違っていてかつ政治的配慮と
無関係な記述であれば中国の史書のそれより信憑性の高い執筆者が
有力だとみなした文書or口承の伝承記録を持っていたと判断できる 前方後円墳は最初からあの形をを作ろうとしたのではなく、
方墳文化の国と円墳文化の国の合併の象徴ではないか。
合体墳墓を作っている内に女性の性器にデフォルメされて、
生まれてきた穴に埋葬することで再生を願ったのだろう。 古墳墓制は仏教神道以前の道教的不死の思想が背景にある。
伊弉諾が死後の伊弉冉に会いに行った逸話に通じる。
死者が再び出てきてもらっても困るので、死後の世界での充実を願い
鏡や宝物、剣を副葬し、塚を盛り、服喪や殉死者をも送る。
仏教的成仏の思想には遠く、死は所詮汚れであれば
死者が忘れ去られた時、そこに詣でることもなく草木が茂に任すのが吉。
後に成立する神道的には氏神の一人として祀り祖霊となる。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
SOX3C 「卑弥呼の墓では」巨大な前方後円墳?謎の丘陵 日本最大に迫る全長450メートル [福岡県]|西日本新聞
ttps://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_chikuhou/article/402402/ >>650
雄略は、父を亡くした後、2年も経たないうちに兄を亡くしている。 古墳のおもしろいところは、古墳を墓として使っているのがあることw
一見意味がわからんやつもいるかもしれん。
要するに、古代の古墳を後代の人々が墓地に利用したわけだ。
うまい再利用というか、まさしく正しく使っていると言うべきか。
大きさからすると、その一帯で一二を争うくらい大きな古墳で、かなりの有力者のものと
みられるやつもある。子孫たちの墓になってるのか無関係なのか。 >>648
騎馬に関する記述もない。
古墳も騎馬も半島由来だから死んでも記紀には書けなかった なんか半島絡みでおかしな書き込みをするやつがいるな とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
YSY >>661
当時、本当に半島が先進地域で、天皇家の先祖がそこから来たのなら、胸を張って
そのことを書くだろうな。
あ、古墳は半島起源じゃないよ。
騎馬も違う。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 「中国」という表現がおかしいね
漢族ではない周辺地域からの移動があったかどうかなんだから
漢族の文明がどうすすんでいようと直接の関係はない
ちなみに中国人学者が好きな説は山東半島居住の水稲栽培族が
朝鮮半島および日本列島に広がったというもの
人骨は近いだのなんだの言っている >>667
何らの考古立証もできません。
人種も民族も5流なら、学者も5流のようで(嘲笑 痴呆老人ウヨってまだ生きてるのか
これ以上日本に害悪を及ぼす前にさっさと死んでくれよ
水稲栽培が元々長江周辺の非漢族のものであることは確定事項
これが遠方の朝鮮半島・日本列島まで波及するためには何らかの人の移動が必要
今の我々のほとんどが水稲の種籾と簡易な農具をいきなりもらったところで
収穫は0になってしまうのと同様
水稲栽培以前の人間が種籾を取得したところでやっぱり収穫は0 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 梁書には、倭国の東北七千里に文身国があったといわれるが、実態が気になる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています