【謎の世紀】古墳時代についてマタ〜リと語ろう 2
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0085日本@名無史さん
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2014/08/18(月) 07:37:08.62
ごめんなさい>>84=>>58です。
うちのケータイが>>56で止まってたんで
二度質問してしまいました。
0086日本@名無史さん
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2014/08/18(月) 08:24:51.24
>>83
となると、>>70が真実味を帯びてくる
単なる大小を指す言葉なのか

ところで、仁徳天皇紀にスクナという怪物が出てくるが無関係なのか
0087日本@名無史さん
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2014/08/18(月) 20:22:33.18
もしかしたら邪馬台国の時代から蘇我入鹿まで二重統治制だった?

邪馬台国時代は聖権の卑弥呼と俗権の男弟とによる祭政二重統治制
崇神天皇〜蘇我入鹿は聖権の大兄(オホネ)系の天皇家と俗権の少兄・(スクネ)系の宿禰の祭政二重統治制
0088日本@名無史さん
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2014/08/18(月) 20:59:03.31
二重統治じゃなくて多元統治だろ
王族含め諸豪族がそれぞれ土地と人民をもつ小首長
大王はそれらの最終的なまとめ役
7世紀はそこから天皇を頂点とする公地公民・中央集権・官僚体制への移行の歴史
0089日本@名無史さん
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2014/08/25(月) 13:32:59.55
武内宿禰の話が嘘っぱちとは思わないね。
成務天皇と同日生まれで、5代の天皇に仕えた。
日本書紀の120歳とかを信じるとうそっぱちかもしれないけど。

有栖川宮幟仁親王は73歳まで生き、4代の天皇に仕えた。
亡くなった時大正天皇は生まれていたから、5代ともいえないことはない。
どんな庶民でも、祖父、父、自分、子、孫の5代を知ることは難しくはない。
特別長寿と書かれているんだから、80歳に近かったのかもしれないが。
活躍したのが、30代〜50代に相当する働き盛りの期間だと考えられる。
でっち上げる必然性はない。
0090日本@名無史さん
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2014/08/29(金) 21:03:40.09
>>87
ありえるかも

『隋書』「東夷傳俀國傳」より
俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟
(訳)
倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺(かふ)して座す。
日出ずれば、便(すなわ)ち理務を停め、いう、我が弟に委ねんと

兄 大兄 オオエ 天皇 祭 聖 
弟 少兄 スクネ 宿禰 政 俗(軍)
0091日本@名無史さん
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2014/08/30(土) 06:35:53.72
二頭政治という指摘は今までにもあったと思うけど、
それを大兄、宿禰という名前と結びつけたのは画期的かも。

乙巳の変によって「宿禰」の意味が分からなくなって、
記紀ではその扱いがぞんざいになった可能性もある。

また、大王が亡くなって次の大王が決まるまでの間、宿禰が大王になる、
あるいは兼任するということもあったのかもしれないが、
そういったことが乙巳の変によって失われてしまったということも考えられる。

そう、考えると、兄弟統治(実際の兄弟である必要はないが)ということで、
一つの名前で記されてたとすると、
一人の天皇が100年以上も生きたという事も説明がつくかも。
0092日本@名無史さん
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2014/08/30(土) 17:06:31.01
二王制ってスパルタかよ

新羅の王家が三系統あるってのも意味わからん
0093日本@名無史さん
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2014/08/30(土) 20:30:34.43
日本書紀は年齢を盛ってるね。
だけど、古事記には年齢はなくて没年の干支がある。
崇神没年318年説を取れば、武内宿禰の年も荒唐無稽ではないかな。
0094日本@名無史さん
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2014/09/01(月) 23:41:33.07
継体の晩年になって、それこそどこの馬の骨ともわからん蘇我がいきなり登場し、
以降他の豪族を押しのけ、継体後の歴代天皇の外戚となる。
まあ、そもそも継体自身もどこの馬の骨ともわからんやつだが。

仏教導入時にも、他の豪族の「んなよその宗教入れて、祖神はどうすんだよ!」という
猛反対にもかかわらず、蘇我と天皇は、受け入れ強行。
「もうでかい古墳なんてつくるんじゃねーぞ」と禁止令まで出す。

異文化の二人組み押し込み強盗にのっとられたんだよ、畿内は。
0095日本@名無史さん
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2014/09/02(火) 04:04:47.88
>>94
継体天皇の皇子が続々即位しちゃって王権が乱立したってのも結構リアルだよね
0096日本@名無史さん
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2014/09/06(土) 18:59:51.44
>>90
欽明天皇→蘇我稲目
用命天皇→蘇我馬子
聖徳太子→蘇我蝦夷
山背大→蘇我入鹿
生没年から検証しました。
0097日本@名無史さん
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2014/09/06(土) 22:41:23.22
>>94
傍流が何かの拍子で王統を継いだ場合権威づけに外来の思想や宗教持ってくる
ってホントどこにでもある話だな
0098日本@名無史さん
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2014/09/06(土) 23:48:13.90
>>91
ヤマトタケル(明治以前の読みはヤマトタケ)=「武」内宿禰(弟は「甘美」内宿禰)
景行天皇=武雄心説があるみたいだね

ヤマトタケルは武内宿禰(たけうちのすくね)の若き姿
http://www.geocities.jp/shoki_otoku/

この幻の皇統系譜説を参考にするとこんな感じかな

  皇統    スクネの系譜
開化天皇   大彦
崇神天皇   彦太忍信命
垂仁天皇   景行天皇=武雄心
仲哀天皇   成務天皇=日本武=武内宿禰
麛坂皇子   応神天皇
仁徳天皇   宇治稚彦皇子(武・内宿禰の内は宇治に通ずる>>77)   
履中反正   允恭天皇(雄朝津間稚子宿禰)宿禰から異例の即位 倭の五王済は前王との関係不明
0099日本@名無史さん
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2014/09/07(日) 00:46:11.14
>>96
ちなみにこれは天智天皇が山背王=蘇我入鹿暗殺して、日本書記を編集したという意味です。武内宿禰以降の子孫は歴代の天皇ということになります
0103日本@名無史さん
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2014/09/09(火) 18:26:48.86
古墳時代前期〜中期の天皇(大王)実年代化(古事記の没年情報+中国皇帝への朝貢記録+同時代人)チラ裏

★三輪(佐紀)朝=【列島統一→半島派兵(高句麗・新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源を獲得)】
10祟神(〜318年)…纏向に東遷280年頃(西晋滅亡前夜)?四道将軍派遣290年頃?大田田根子
11垂仁(情報なし)…330年頃没、新羅王子「天之日矛」帰化、田道間守 、野見宿禰vs当麻蹴速
12景行(情報なし)…343年頃没、日本武尊の熊襲討伐・東征340年頃、大臣・武内宿禰(〜応神)
13成務(〜355年)…国造/県主設置  
14仲哀(〜362年)…新羅派兵に反対し、神罰により崩御(暗殺か)
神功(※〜389年)…「旨」三韓征伐(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→「神功52年」372年百済・近肖古王より贈呈)
★河内朝=【半島派兵(高句麗との戦い&百済支援)本格化】
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)
18反正(〜437年)…「珍」(438年)
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)←「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)23顕宗(情報なし)24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)

※神功皇后…日本書紀による没年情報
0104日本@名無史さん
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2014/09/09(火) 18:31:34.80
「倭の五王」の正体判明!「倭の七王」だった!〜隠れていた2人の倭王(17代履中と25代武烈)〜

413年/421年/425年「賛/讃」…仁徳
430年★「倭国王」…履中
438年「珍」…反正
443年/451年「済」…允恭
460年/462年「倭国/興」…安康
477年/478年「武」@…雄略
502年※「武」A…武烈

★430年の「倭国王」が履中 → 438年「讃の弟珍立つ」の真相
430年に中国の南朝(宋)に朝貢した「倭国王」が「讃」ではなく、「讃の子」で、
その8年後の438年に「珍」が朝貢した時に、倭国の使臣が「先代の弟」と説明したとすると、
台与以来約150年ぶりに朝貢してきた倭王=「讃」のイメージが強烈だった宋側にしてみれば、
名前不明で影の薄い先代「倭国王」の弟ではなく、先々代「讃」の弟と錯誤した可能性がある。
もし【父「讃」→「倭国王」/「珍」兄弟】ならば【父(仁徳)→(履中/反正)兄弟】となり、
記紀(大和朝廷)の天皇系譜と合致する。

※倭王「武」は2人いた。
502年、南朝(梁)の「武」帝が征東大将軍に進号した倭王「武」が、477年/478年の倭王「武」(興の弟)とは別人で、
雄略(幼武)の孫の武烈とすれば、雄略の没年489年や、雄略没後の大混乱(24年間の朝貢中断)とも整合する。

∴@讃(仁徳)→A倭国王(履中)→B珍(反正)→C済(允恭)→D興(安康)→E武1(雄略)→F武2(武烈)
「倭の七王」となる。
0105日本@名無史さん
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2014/09/13(土) 19:28:19.23
古墳時代の倭王や豪族って、早い話が華僑でしょ。
0106日本@名無史さん
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2014/09/13(土) 21:52:33.81
そういう推測は倭王の名前からできるが、中国は勝手に外人の姓名を漢字に直すんだよね

クシャーナ朝のヴァースデーヴァは波調だし
0107日本@名無史さん
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2014/09/19(金) 21:42:24.95
自然科学分野では光の速さは一定だなんてありえない!なんて言う馬鹿はいないのに
人文科学分野では105みたいな知ったかが湧くのってなんでだろう
0108日本@名無史さん
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2014/09/20(土) 18:35:20.99
泰氏が漢族はどうかはわからんが、漢文明圏からの移民であるというのは通説だろ。
他の連中にも同類がいても何の不思議もない。
記紀にある各豪族の勢力圏なんてのは、後世の記述だからそれ自体は何の根拠にもならない。
オーストラリアは昔からイギリスの領地でした、というレベルの話。
0110日本@名無史さん
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2014/09/21(日) 14:27:29.58
単純に機織りが秦で、事務係が文部アヤベだっただけの気がする
あるいは辰韓(秦韓)の移民という内容が含まれるのか
後で始皇帝の子孫とか言い出したから秦の字が着いてるだけじゃないのか
日本人はシャレの表記を楽しむ風情があるからね
0116日本@名無史さん
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2014/10/05(日) 13:30:18.15
当時は子供で死ななきゃ50歳ぐらいが平均寿命?
0117日本@名無史さん
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2014/10/05(日) 20:51:25.50
仲哀天皇は302年崩御
応神天皇は394年崩御
神功皇后の胎中にて即位したとされる応神天皇と
394年崩御の応神天皇とが同体であるということは
天皇位の継承が名跡継承方式であったことを物語る。
胎中天皇が仲哀天皇の実の子であれば、
却って天皇位継承権がなかったのではないか。
神功皇后が出産遅延の努力をしたのはこのためである。
0118日本@名無史さん
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2014/10/09(木) 18:34:15.36
>>117
景行朝から仁徳朝まで仕えた武内宿禰がいるのだから、応神天皇がそんな長生きだったとは考えられずむしろ短命だったのでは。
那珂道世博士は仲哀天皇崩御年を362年としていてこちらの方が正しいと思われる。
また血統を重んじていたことは顕宗天皇・継体天皇の例を見ても明らか
0119日本@名無史さん
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2014/10/09(木) 19:01:26.76
>>116
年代が比較的明らかな時代の安閑天皇以降でみると
安閑天皇70歳
宣化天皇73歳
欽明天皇63歳
敏達天皇48歳
用明天皇48歳
崇峻天皇40歳
推古天皇75歳
聖徳太子47歳
舒明天皇49歳
皇極天皇67歳
弑逆された崇峻天皇を除くと平均60歳
0120日本@名無史さん
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2014/10/09(木) 21:08:02.45
>>104
502年は中国側の王朝交代により進号で高句麗や百済にも同時に進号させているのでその時代に倭王武(もしくはそれの後継者)が朝貢したわけではないと思われ
0121日本@名無史さん
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2014/10/12(日) 14:27:32.24
古墳の周濠、あれって、大阪人ならボートレースをしてたと思うよな。
10人漕ぎの大型軽野(カヌー)が一団となってコーナーを抜けるには、
仁徳天皇陵のような大型レース場が要る。
古墳時代の土豪というには、住民から税金を取っていたわけではない。
寺銭が主な収入源だし、大きなボートレース場を持つことが大王の条件。

江戸時代には、地外法権で規制の緩い寺の境内が賭博場として使われ、
寺に寄進した場所代が寺銭と呼ばれた。
0122日本@名無史さん
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2014/10/12(日) 14:40:13.63
今、地方に行って立派な建物と言えば、役所などの公共施設とパチンコ屋。
3〜7世紀に次々と造られた前方後円墳はあまりにも豪華すぎる。
なぜそんなものが必要だったのか?誰が金を出したのか?
日本人は昔から賭け事が大好きで、大王は賭博王だったと言うのは頷ける。
大型古墳は、ボートレース、競馬、相撲などの複合賭博場だったのだ。
賭博で負けて土地を失った農民を人夫として働かせ、大型古墳の賭博場を全国に展開した。
運だけで大王になれた時代、いや、運が悪いと奴卑、すごい時代だった。
0123日本@名無史さん
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2014/10/12(日) 16:04:33.49
古代住之江ボートの元締めが住吉大神様であった、ということですか?
初めて知りました。納得です。ありがとうございます。
0124日本@名無史さん
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2014/10/12(日) 16:11:39.82
お前らって例に出したものの起源が無茶苦茶だな
0126日本@名無史さん
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2014/10/12(日) 19:24:21.49
>>43
50年差で同じ名前の人物が登場するのに別人とはそちらの方が不自然
どちらかの記事が時代を誤って書かれているとみるべき
0128日本@名無史さん
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2014/10/12(日) 23:07:39.37
古事記にしても日本書紀にしても編纂者は本当に愚かなことをしてくれたよな?
天皇制の権威づけのために系統や歴史を盛りすぎたせいで
実在したであろう君主や巫女の記述があいまいになり
あげく「架空の人物」に近い扱いで教科書にすら取り上げられない
何やってるんだか全く
0130日本@名無史さん
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2014/10/13(月) 00:45:14.83
121から123までの自演臭がひどいな
0131日本@名無史さん
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2014/10/13(月) 12:48:28.44
古代住之江ボートでツケマイというテクニカルは
あったのでしょうか?
0132日本@名無史さん
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2014/10/13(月) 14:39:13.83
蘇我氏渡来人説とか寝言は寝て言えって感じだな
百済と高句麗の区別もつかない奴が学者できるってのもすごいが
0133日本@名無史さん
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2014/10/13(月) 16:21:43.90
>>127
仮に同一人物でないにしても
氏族名+官名
で両者が一致した、つまり親族の可能性が高いわけで
0134日本@名無史さん
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2014/10/14(火) 18:41:37.95
どうしても渡来人にしたいやつがいるんだね。
心配しなくても渡来系といえば、みんなアフリカからの渡来人だよw

記紀の時代、どの氏族が渡来人かの記録があるのに、わざわざ詐称する必要は
ないだろ。
0135日本@名無史さん
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2014/10/16(木) 06:41:54.54
>>133
色々ツッコミたいけど、
あなたのいう一致している「氏族名」と「官名」って何?
0136日本@名無史さん
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2014/10/16(木) 21:22:59.89
>>128
神武天皇や決死八代はともかくそれ以降は全員実在して
事績も誇張はあるにせよ記紀の通りだと考える学者は最近多いよ
0137日本@名無史さん
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2014/10/17(金) 18:44:50.80
欠史八代とか王朝交替説とか訳の分からん説よりも、記紀のほうが考古学と
整合性があるんだよな。なんという皮肉
0138日本@名無史さん
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2014/10/17(金) 19:04:44.49
箸墓、西殿塚古墳、西山古墳、メスリ山古墳、桜井茶臼山古墳、このあたり誰なんだろ。
開化陵ってどんな評価なんだろ。見たことないからなあ。
改修されて元の形が不明で発掘もしてないから評価の仕様がないのかなあ。
0139日本@名無史さん
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2014/10/17(金) 21:16:40.02
どっかのサイトの受け売りだが、
主神でアマテラスを祀ってるのが1200,
副で祀ってるのが5000だとか
0141日本@名無史さん
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2014/10/17(金) 21:52:55.89
>>138
崇神天皇陵より古いとなると、それこそモモソヒメ命やいわゆる四道将軍のだれかくらいかなあ
吉備津彦兄弟や丹波道主王は地方に下ったみたいだけど彦坐王や大彦命は崇神天皇より年上だろうし、本人が地方に下ったわけでもないみたいだし可能性は大きいと思う
0142日本@名無史さん
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2014/10/18(土) 09:32:29.14
>>141
初期の大きめの古墳がヤマトに多すぎるんだよな。
天皇だけだと余ってしまう。卑弥呼とトヨを入れても余る。
なんというか、有力者がヤマトに集住し、そこで古墳をつくったかのような。
0143日本@名無史さん
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2014/10/18(土) 16:52:24.26
天皇陵だけじゃなくて皇后陵も考えればいいんじゃない?
御間城姫命は父が大彦命、兄が武渟川別命だし全員皇族だからみんなあのあたりに埋葬されててもおかしくないし
0144日本@名無史さん
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2014/10/18(土) 18:28:33.36
箸墓:モモソヒメ命
西殿塚:孝元天皇
西山:伊香色謎命か欝色謎命
櫻井茶臼山:大彦命
スメリ山:彦坐王
まあこんなところか?
でも延喜式に見える孝元天皇陵が小さい古墳だというのはむしろ誇張等をしておらず正確な気がするから分からんなあ…
0145日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/19(日) 00:54:29.21
>>15応神(〜394年)…「禰(でい)」
>>16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)

仁徳の弟らが、倭珍、倭済であり
後期九州王朝へ分岐している。
軍事指導専従の統合参謀本部として
かつての「倭国」の名義を再興したわけだ。
0146日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/19(日) 11:58:54.42
>>141
大彦は中央の安倍氏の祖先だから中央にいた可能性あるが
彦坐王は但馬に下ってんじゃないの?
0147日本@名無史さん
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2014/10/20(月) 08:21:18.13
>>146
そこに住む一族の初代が磐余彦・吉備津彦みたいな称号を名乗るケースが多いみたいだから
丹波道主王こそ初代で彦坐王は下ってないと思ったんだけどどうだろう
と思っていろいろ調べてみたら彦坐王墓って岐阜なのか…
0148日本@名無史さん
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2014/10/22(水) 14:31:01.43
彦坐王ってなんか岐阜と関係あるっけ?
なんで岐阜ってのを宮内省も認めたんだ?
0149日本@名無史さん
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2014/10/24(金) 17:38:44.96
彦坐王は近江・山城・春日じゃないのか。
椿井大塚山古墳あたりはどうだろ
0150日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/24(金) 21:05:52.81
確かに椿井大塚山古墳の方が大きさ的にもいいとは思うんだけどね…
たしか群馬のある古墳が毛野氏の祖先の皇族の陵墓にしてはどうかと働きかけがあったとき
「それなりの証拠がないと比定出来ない」と言われたという話を聞いたことがあるんだが
あんな小さな古墳のどこを見て皇族の陵墓と認めたんだろうか
0151日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/25(土) 19:35:12.67
>>146
但馬は当時は丹波だし、古墳から見ても丹波一族がいたんじゃないかなあ。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/25(土) 21:57:58.70
トヨと崇神の関係が気になるなあ。
トヨは248年頃に13歳で、266年に朝貢しているっぽい。
崇神の一世代上くらいじゃないかと思うけど、記紀に出てくる誰かであっても
おかしくないね。
0153日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/25(土) 23:13:53.39
応神天皇の崩年が甲午で394年で、
仲哀天皇の崩年が壬戌で363年
成務天皇の崩年が乙卯で355年
崇神天皇の崩年が戌寅で318年か258年とされるが、
垂仁・景行・成務三天皇は直系で相続しているので崇神崩318年は無理があるから
むしろトヨは崇神の一世代後で豊城入姫命こそ正しいと思う
その場合卑弥呼はモモソヒメ命だろう
0154日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/26(日) 10:11:17.72
応神天皇の崩年が甲午で394年 → 正解 
仲哀天皇の崩年が壬戌で363年 → 303年
成務天皇の崩年が乙卯で355年 → 295年

ですっきりするでしょう。
303年〜394年が、半島から実力者が次々にやって来た時代で、
万世一系の建前が成立しないので、記紀が書けなかった。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/26(日) 10:20:56.57
おいおいw
またチョンコロが喜びそうな説に持っていってるなw
0156日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/26(日) 12:06:37.62
154
それだと崇神天皇の崩御年は198年になるんだが
つーか当時の朝鮮人自身が朝鮮人に渡海侵攻能力はないって言ってるから
0157日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/26(日) 12:25:45.67
分かってるよwww
邪馬台国だの魏志倭人伝だの突然、話が湧き上がってきたのは
日本国内からだからな
チョンコロが後世になって日本国内に住み着いて威張りだしたか
あるいは当時の宗教関係などから利用するように生まれたのか?

どっちにしろロクなもんじゃあないんだよ

遡及方を適用するなら朝廷関連やら徳川だの過去の日本国内の
戦犯には償ってもらわなきゃな
0158日本@名無史さん
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2014/10/26(日) 12:30:33.10
歴史では美化されてるけど実際の性格なども違うようにも描かれてもいるんだよなw

これはマスゴミの犯罪な、小説家やら思い入れで評価は変わるからなw
どうやって手段絡みに持っていったんだ?お前らな
0160日本@名無史さん
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2014/10/26(日) 19:15:17.08
>>68
俺の妄想説では宿祢の「スク」は 佐、介、助 つまり次官のことだと思う
たとえば信長の称した上総介は上総守が上総国長官で、その次官になる。
大国主命の国造りを助けた神が「スクナヒコナ」。少彦名と書かれるが
助ける彦 と云うのが元の意味だったのではないか

武内宿禰、蘇我稲目宿祢と書かれるのは彼らが大王を助けて政務を執る立場
大臣だったから。そういえば武内宿禰の後継氏族から大臣でている
0161日本@名無史さん
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2014/10/26(日) 22:17:16.62
>>152
卑弥呼 垂仁の異母兄姉弟の豊鍬入姫
台与   景行の同母兄妹の倭姫命

21 :日本@名無史さん:2014/09/09(火) 17:42:31.06
神武天皇を1世とした時の世代数
25世. (38代)  天智天皇.  626-672
42世. (77代)後白河天皇 1127-1192
72世(125代)  今上天皇 1933-
古代〜中世 1世代平均29.47年 25世   天智天皇(生年. 626)から42世 後白河天皇(生年1127)まで
中世〜現代 1世代平均26.87年 42世 後白河天皇(生年1127)から72世   今上天皇(生年1933)まで
古代〜現代 1世代平均27.81年 25世   天智天皇(生年. 626)から72世   今上天皇(生年1933)まで

時代が古くなるほど1世代あたりの年数は長くなる
生年が確定している天智を起点に父の父の父の・・・と1世代29.47年で遡ると・・・
626 25天智 626-672
596 24舒明 593-641
567 23押坂彦人大兄皇子
537 22敏達 538.?-585.?
508 21欽明 509.?-571.?
478 20継体               (武烈)
449 19彦主人王     (清寧)(仁賢)
419 18乎非王       (雄略)(市辺押磐皇子)
390 17意富富等王   (允恭)(履中)
360 16若野毛二俣王 (仁徳)
331 15応神
301 14仲哀
272 13日本武尊
242 12景行
213 11垂仁  田道間守(たぢまもり)=難升米(タヂマ)
183 10崇神  四道将軍=倭国大乱
0162日本@名無史さん
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2014/10/26(日) 23:04:23.69
なるほど
一応崩御年も妥当な範囲にあるな
0163日本@名無史さん
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2014/10/27(月) 19:26:32.30
磯城県主って三輪氏と同族で、磯城県主家が絶えて大物主神の祀り方がわからなくなったから大田田根子が呼ばれたんじゃね?
って思ってたら太田亮の姓氏家系大辞典に俺の説がそのまま乗っててわ
戦前の学者ってすごいな
0164日本@名無史さん
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2014/10/27(月) 21:03:10.80
>>161
天智天皇〜孝明天皇までにした方がいいと思う。明治以降は条件が違いすぎるから
だいたい1世代27年だった。

古代史は史料が少なすぎて所詮、水掛け論になってしまうのだが、継体以前の
大王位は血縁による世襲ではなかったと云う説も有力になってる。
0165日本@名無史さん
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2014/10/27(月) 21:07:49.96
164
だが系図を見れば血縁で結んであるけどな
つうか系図の見方を変えた方がいいって話なのかな
0166日本@名無史さん
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2014/10/27(月) 21:50:09.66
>>164
学者の言う「世襲王権が確立した」を曲解した奴が言ってるだけだ。
それ以前は即位には豪族による推挙の過程があったのが欽明朝以後なくなったってだけだろJK

第一倭の五王は中国側に姓が倭だと名乗り出てるんだぞ、血統の概念はあったに決まっている
0167日本@名無史さん
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2014/10/27(月) 21:55:27.71
あと、古代は職掌は伴造、国造、県主みたいな一般官吏だけでなく大臣や大連のような要職に至るまで世襲だったからな
だったら大王も世襲と考えるのが当たり前だろ
なのに王朝が一つでなかったなどというのは万世一系を否定したいだけのただの妄言と言わざるを得ない
0168日本@名無史さん
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2014/10/27(月) 22:09:40.66
>>164
天智天皇〜孝明天皇は1世代平均28.02年

だいたい28年
0169日本@名無史さん
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2014/10/27(月) 22:16:13.63
>>165
記紀以前の聖徳太子関係だったと思うが、継体天皇から後は、大王位はその血統より外に出た
ことがない書かれている史料があった。それ以前は一系で世襲されていなかったということだろう。

倭の5王の讃、珍、が兄弟で後、済=允恭、興=安康、武=雄略と世襲されるのだが
珍と済=允恭の続柄が中国側史料に書かれていない。允恭は雄朝津間稚子宿禰尊と書紀に
書かれているのだが、宿禰という姓は王族らしくない。
記紀は天皇家が日本を統治する正統性を述べるものであるから、本来一系でなかった王統を
一系に作り変えたのだと思う。
0170日本@名無史さん
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2014/10/27(月) 22:22:34.95
>>168
>古代〜現代 1世代平均27.81年 25世   天智天皇(生年. 626)から72世   今上天皇(生年1933)まで
>天智天皇〜孝明天皇は1世代平均28.02年

矛盾してないか
0171日本@名無史さん
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2014/10/27(月) 22:28:47.54
矛盾してない
0172日本@名無史さん
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2014/10/27(月) 22:46:00.15
>>167
大王にふさわしい人物が倭国を構成する有力氏族によって大王に推戴されていたのだと思う

遥か後の時代である飛鳥時代でも、即位儀礼として形式的になってはいたが
臣(まえつぎみ)が新大王を推戴する形をとっていた。
0173日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/27(月) 23:03:30.73
>>169
以前読んだ本にあったのがソースかよ
それこそ左翼学者の脳内妄想だろ
それに天武天皇は諡に真人が入るから血統が変わったてか?
幾つも王等があったってじゃあ残りの王統は何処に消えてなんでわざわざ越前から継体天皇が来たんだか説明ができない。
記紀通りの系譜であったほうが自然
0174日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/27(月) 23:06:06.01
あと允恭天皇の宿禰は履中天皇の大兄に対応すると思われ
0175日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/28(火) 00:42:33.12
>>169
宿禰が允恭天皇の姓? 名前の後ろについてるのに?w
あと五王の倭王済は「倭済」って書いてあるの知らんの?
姓が倭氏なら倭讃と同姓だから男系で同族だっていう表現だろ。通説だがねw
0176日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/28(火) 08:55:16.78
その時代、姓はまだ無かった
俺の妄想説では宿祢は大王を助ける地位にあった人物
だから、珍の死後、珍の大臣にあたる地位から大王位に就いた
0177日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/28(火) 08:59:15.12
妄想乙
0178日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/28(火) 09:37:42.43
妄想だ、ええ妄想なんだよ
撮り鉄、乗り鉄、車両鉄 皆、鉄道会社の社員でもない素人が鉄道で楽しんでいる
古代史なんて史料が少なすぎて最後は水掛け論に終わるんだから
歴史の探求はプロであるその道の専門家に任せて、素人は自説を妄想することを楽しんだらいい
0179日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/28(火) 09:51:05.37
最高にアホだな、コイツ
0180日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/28(火) 11:23:54.84
「僕は専門家じゃないから妄想を垂れ流してもいいんだ」って考え方、最低だな
チラシの裏にでも書いてろ
人としての礼儀を考えろよ
0181日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/28(火) 18:01:20.50
基本となるのが、崇神の崩年干支を318年と定めるかどうか。
ほぼ文献的、考古学的にほぼそれが定説になっていて、
他の説だと牽強付会の感をまぬがれない。
318年から考察していくと、流れがだいたい見えてくる。
初代、神武からはじまじって、十代崇神でヤマトの王から、
日本(大八洲)の統治者になっていく流れが。
0182日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/28(火) 18:13:19.98
鉄器を作り始めたのが7世紀ころってのはハッキリしてんだろ
伊賀甲賀は忍びの里、近江商人は武器商人
まあ畿内で始まってるわな
0183日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/28(火) 18:13:24.79
鉄器を作り始めたのが7世紀ころってのはハッキリしてんだろ
伊賀甲賀は忍びの里、近江商人は武器商人
まあ畿内で始まってるわな
0184日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/29(水) 12:13:23.22
>>172
そうだよ、だから別々の氏族に押される皇族同士で皇位争いがあったんだろ
そこまでは記紀の伝承と矛盾しないじゃん。
万世一系を否定する根拠にならんよ。
モンゴルのクリルタイも父系血統の範囲内でしか候補は選ばれない。
群臣が推戴する形があったからといって
血筋まったく無関係に王が選ばれた証拠にはならない。
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