♪邪馬台国ドンと来い!♪126
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いいか、悪いか、判断できないところが問題なんだよな。 ま、仮にいいとして、 久々知城の出自は新羅系、基肄城は百済系ってところだろ。 これが「卑弥呼と卑弥狗呼、素より不和・・・」の原因だろうな。 国としては未成立だったかもしれないが、 前もって、その母体となる種族の一定の広がりがあってこそ国・王朝は成立する。 曰く、「ローマは一日にして成らず」 また根拠のない年代の前倒しか。 本当にクズだな。 残念ながら、百済は扶余が侵入して成立したので、母体となる年代を想定する必要はないんだよ。 残念ながら、不耐城に亡命してきた扶余の王族には百済に侵入できるようなパワーは無いよ 百済成立は卑弥呼の100年も後だからね。 第二次世界大戦後の政治状況の母体がペリーの来航以前に成立していたと言っているのと変わらない。 はっきり言ってアホだろ。 畿内説そのものが同じようなくだらないレトリックの積み重ねにすぎない。 前後・上下関係の良くわからん理屈と文章がはびこってるな アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p= 長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search ;_ylt=A2Rivcaei8JbT38AGR4dOfx7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>621 九州説は時系列を理解するのが苦手なんだよww 時系列をかき混ぜるのは、畿内説の得意とするところだろう。 >>625 >時系列をかき混ぜるのは、畿内説の得意とするところだろう。 だから具体性のない、文句が書きたいだけの書き込みは意味がないと何度言えば まあ、九州説なんていいまだに支持しているくらいだから、論理性皆無で 意味のある具体的な指摘はできないんだろうけれど 時系列を具体的事例で示すことができない、といば伊都クズだな 三種の神器の話をするのに古墳時代の話を持ち出すアホですから。 伊都国を佐賀川上に比定すると、東行百里の不彌国は佐賀神崎になる。 このことは、すでに述べた。 そしてここから南至投馬国は、南南東に直線で約180qの宮崎県西都市(都万)になる。 同じく、南至の邪馬台国であるが、まず神崎市から南へ数kmで千代田町渡瀬に至る。 ここはかって蛇行した筑後川の河畔であった。 又このあたりは、潮の満ち引きを受けて、河水が上流へ逆流する地帯{いわゆる感潮域}である。 頃合いを見計らって漕ぎ出せば、大筑後川も労せずして対岸の城島へ渡れたであろう。 古代人は侮れぬ。うまいところに目を付けたものだ。(現在は「六五郎橋」になっている) そして城島からは、微高地伝いに、東南の八女市福島へ向かう。 ここにも、もう一つの理由があった(続)。 7世紀の記紀に書かれた内容で弥生時代を語るバカがいるらしいぞw 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>630 歴史の意味がわからん考古バカは板違いだよ なんで生きてんの? 記紀の神代の巻は弥生時代の歴史を記した記録だろうなあ。 歴史学の方法がわからん妄想バカは板違いだよ なんで生き恥晒してんの? 七世紀の記紀・本記・風土記に書いてあるから、三世紀にもそうだった、と断言する者あり また、七世紀の記紀・本記・風土記に書いてあっても、弥生時代にそんなことはなかったこのバカ、という者あり この板は、左右とりどりだ。 纒向フォーラム(読売奈良支局 2018・10・15) >渡辺義浩・早大教授(中国古代史)は、魏の文帝が「寿陵は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」などと定めたことを紹介し、 「魏の使者は、卑弥呼の墓を見て中国の墓制にのっとった墓だと思っただろう」などと話した。 >また「倭人伝」の記述が「卑弥呼、以すでに死し、大いに冢を作る」なら、死んでしばらくしてから墓を造ったという意味になり、 渡辺教授は「死んだために墓を造ったという意味の『死するを以もって』と読むべきだ」と指摘した。 >その後、センターの寺沢薫所長の司会で4人が討論。箸墓古墳が卑弥呼の墓だとする見方に対し、寺沢所長は、桜井市のホケノ山古墳など箸墓以前に築造された古墳のいずれかだと主張した。 寺沢センセも、ついに箸墓撤退を明らかにしたのか・・・。 歴史学の方法に乗っ取ってると思い込んで 他人を中傷するのは人格に問題があるね。 脳に障害があるから病院行けば?死ななきゃ治らんと思うけど。 その分野の方法論を無視した世迷い言を それが真実だと連呼してる方が頭に問題あるだろ >>639 そうよ?自分のことよくわかってるじゃない。 異なる方法論であれば、それは別の学問だなw 板違いだよw >>641 現行の方法論が正しくないとするのであれば、 正しいと思う方法論を引っ提げて、 学界に殴り込めばいい こんな掲示板でウダウダ書き込んでいるのは 才能と時間の損失だとは思わないのか? そうだな方法論ぶって排中律もわからないキナイコシは学会に殴り込みに行くべきだな。一つも査読は通らないだろうけど。 >>644 >排中律 そのときの議論見てたけど、排中律が分かってないのは伊都くずの方だったぞww あれはキナイコシだと思ってたがいとくずという人だったのか 自作自演でご苦労なこった。 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 佐賀県・神崎/吉野ヶ里の不彌国からは、南へ下って筑後川を渡り、対岸の城島へ至る。 ここからは陸行して10q余の八女市街(福島)へ向かうのだが、これは、南でなくて、東南へ行くことになる。 これには、よんどころない事情があった。実は次なる難所・矢部川を渡るためであった。 八女市街(福島)から南へ2qには柳瀬という集落があり、このあたりの矢部川には岩礁地帯が連なっている。 このおかげで、通常水位なら、飛び石伝い・丸木橋伝いに難所を渡れたのである。 ここを越えれば、あとは県道4号線沿いに熊本平野目指して南下する。 この上流の津江という集落の矢部川にも岩礁地帯があり、ここも同様にして渡れた。 この場合は、国道3号線伝いに南下する。 どちらも、30q足らずで邪馬嘉国の臺であった菊池市七城町臺に到る。ここに三世紀・邪馬台国の臺城があった。 >>648 >これは、南でなくて、東南へ行くことになる。 >これには、よんどころない事情があった。実は次なる難所・矢部川を渡るためであった。 よんどころない理由があれば、魏志倭人伝の記述を無視していいなら よんどころない理由で南は東だから、畿内でOKだな >>649 うん、そうかもしれぬ。 ただし、ここは全行程約100q(千数百里)のうちの約10qほどだ。 畿内説にあっても、行程理由が明らかなら、10qくらい北東に進むのは差し支えないであろうもんな。 >>650 >ここは全行程約100q(千数百里) これ、100キロじゃきかないよ? まさか短里があるなんて言わないよね? >>652 は>>650 と同じ人? 魏代の1里は約435メートル 千数百里なら550キロ以上になるよ >>653 ほう、1里約435メートル。それが短里というものさしか。 ほい、わかったぞ。 278mの前方後円墳の円墳部分だけをみて径百余歩(約150m)などとは実に馬鹿馬鹿しい。 ヒミコの墓は大和にあるはずだ、そして探したらこの部分しかなかった。 だから強引に結びつけただけ。 そして放射性炭素測定で箸墓をAD240〜260年というトンデモないミスリードをしようとしている。 放射性炭素測定で20年幅なんて分るわけがない。 また箸墓をヒミコの墓だという論者は箸墓の瀬戸内の強い要素など全く説明できない、 せいぜい卑弥呼共立に瀬戸内勢力が中心となったなどの屁理屈で逃げる。 彼らは基本、神話というものを小バカにしている。 彼らは神話に耳を貸さない。 そういう自分が知的だと自惚れてさえいる。 江戸時代まで普通に高天原だと認識されていた場所に卑弥呼の墓はある。 何も難しくない、日本の原点かつ聖地に径百余歩の塚があり、 魏志倭人伝の記述通り奴婢も埋葬されている。 奴婢とは土蜘蛛であり、ヒミコの時代に土蜘蛛を征したのは日向から来た男・神武である。 https://goo.gl/maps/DocFtPTq6VJ2 1里約435メートルは、短くない短里なのか。 まあいいや、それでいこう。 >>656 >江戸時代まで普通に高天原だと認識されていた場所に卑弥呼の墓はある。 これの根拠は? >>657 短里があると言わないよな?というのは、 短里を前提にした立論じゃないよな?という確認 1里=435メートルは短里じゃないよ 倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。 皆、徒跣。屋室有り。 父母、兄弟は異所に臥息す。 朱丹を以ってその身体に塗る。 中国の紛を用いるが如し。 魏志倭人伝 普平陽侯相 陳寿撰 >>659 なんじゃと、 まさか短里というから、短里とは何かと聞いたら、1里=435メートルと答えたのはオマイじゃないか。 はっきりしろ。短里とは何なのか???? 倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。 皆、徒跣。屋室有り。 父母、兄弟は異所に臥息す。 朱丹を以ってその身体に塗る。 中国の紛を用いるが如し。 女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。 常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。 王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が 倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。 文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。 魏志倭人伝 普平陽侯相 陳寿撰 短里ってのは九州説を信じている連中の妄想上の架空の単位 捏造ともいう 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 それは倭国の朝貢を萬里の修交にするための数合わせ それと渡海で1日で漕ぎ渡れる距離を一律千里にしているから 対馬海峡を渡るのに千里×3で三千里 これを一万里から引いたものが狗邪韓国まで七千里の内容 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . >>667 >そう思うしかないよね >畿内説の立場ではね そういうしかないよね? 九州説の立場ではww 周牌算経も短里の証拠にならないことも示されちゃったし 「魏志倭人伝は短里で書かれている、証拠は魏志倭人伝」と いう循環論法を虚しく繰り返すしか九州説はやることがないw 魏志倭人伝を無視していたら、邪馬台国論争なんて成り立たなくなる 畿内説はおかしい >>672 >魏志倭人伝を無視していたら、邪馬台国論争なんて成り立たなくなる そうだね! 魏志倭人伝に明記されている、水行20日+10日陸行1月を 九州説の人が無視するから、論争が成り立たないんだよね! >畿内説はおかしい おかしいのは九州説一択 魏志倭人伝の記述は短里 むしろ北部九州説の方が短里だと記述と全然合わない。短里で記述通り(現在の有力説ではない)に比定すれば大和と阿波は問題ないと言える。 豊前も12000里がどこ起点かによってはありうる。 筑紫や筑後は、倭人の言う事をそのまま書いた、あるいは報告者なり陳寿が嘘を書いたなら成り立つ。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか 経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、 佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、 日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、 朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。 このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。 この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で 比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。 ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。 日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >魏志倭人伝の記述は短里 短里なんてないんだって 区間によって1里にあたる距離がバラバラ 記述される際に、倭国本土到達まで一萬里、女王国まで萬二千里って先に決められていて この誇張された距離に合うように数字を作ってあるだけ >>676 1里≒77mで全部辻褄合うよ 想定してる比定地がおかしいだけ でも>>677 のいう比定地には時代の合う遺跡がないんだぜ >>678 正しい比定地を教えてやろう そりゃな、ヤマトのホケノで全部つじつまが合う >>676 弥生時代なんだから、少しくらいの測定誤差は大目に見ろよ。 >>680 宗像、田川、行橋は弥生遺跡多いよ 豊前、畿内は言うまでもない >>682 >弥生時代なんだから、少しくらいの測定誤差は大目に見ろよ。 ちょっとじゃないんだよ 区間によって1里の長さが4倍違う 末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里 伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里 >>684 おお、大きな誤差を良く見つけたねえ。死ぬまで大事にしておけよ。 ま、誰も相手にゃせんけどな。 >>684 福岡市といっても広いからな。 早良区あたりだともっと短いから、誤差は小さくなるよ。 >>684 誤差は対馬〜壱岐を千里とした場合の 2箇所間の里程に対してであって、 その頓珍漢の2箇所の里程は誤差じゃなくて 場所が間違いって、考えるもんだぞw だから奴国が間違っているんだよ。 福岡市のどこで測っているんだよ。 ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . >>690 >そもそも末盧国の場所がおかしい 末盧国は福津(万津浦)辺り。 @阿波 >>692 >そもそも伊都国の場所が可笑しい 伊都国は(直方辺り。 @阿波 >>695 >そもそも三雲が可笑しい 三雲は関係なし。 @阿波 >>691 そうですね。上陸地点神湊説はたまに居るけどすぐ隣の福津市勝浦ですわな。 でも伊都国が直方じゃ近すぎるのと当時は大部分が古遠賀湾なので田川郡でしょ。 鉄器・青銅器の生産基地だったし。んで、行橋から船で沖に出て南の方へ… そっから先の邪馬台国が畿内か阿波かはどっちでもいい。 伊都国を糸島にすると南へ水行に無理が出る。 100里で奴国なら早良区のどこかあたりで不弥国は海も川も北向きの地域になりますよ。 田川なら位登、伊田、糸田とか糸飛とか音が近い地名あるし東に抜ければ瀬戸内海。 糸島の方は筑後と同じ文化圏だから狗奴国と考えた方が自然です。東西の文化の違いは三郡山地が大体の境目。 卑弥呼も肥国出身であったというだけ。 倭の王都は伊都(糸島)で良いよ。 ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . >>700 魏志倭人伝の距離・方位等の記述はデタラメである。なら伊都国=糸島は問題無い。 >>703 >南に水行の起点は帯方郡。 最近それを言い出す九州説がチョロチョロいるけど、 それで投馬国はどこへ行くんだ? それと南へ行くだけで邪馬台国に着いちゃうけど、それだと冒頭の帯方「東南」大海之中と矛盾するし 帯方郡から南に行くと東シナ海しかないよね? 概ね南だけれど、細かい里程を記載すると朝鮮半島の西岸を南下してから南岸を少し東に移動して、対馬海峡を南下した。 >>705 >概ね南だけれど、細かい里程を記載すると朝鮮半島の西岸を南下してから南岸を少し東に移動して、対馬海峡を南下した。 それなら既に書いてあるんだから、東南水行と書けばいいだろう 後付の無理な言い訳はみっともないぞww アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p= 長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search ;_ylt=A2RCL6WAQsxbu3kAXBGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>707 >何が不満なんだ? 順次式に書いてきた旅程が何のことわりもなく 起点を帯方郡に戻すような読み方はおかしいってこと 九州説でも伊都国、奴国までは順次式で問題なく読めるんだろ? そこまで来てどうして急に起点を帯方郡まで戻すんだ? 史書は判じ物でも暗号書でもないんだから、普通に読んで読めるとおりに読めばいいんだよ 「解読」したっていうものは、全部インチキだと思っていい 品川駅から名古屋駅まで何キロ、名古屋駅から新大阪駅まで何キロ 東京から大阪まではおよそ何時間かかります 現代でも普通の表現ですね >>711 >品川駅から名古屋駅まで何キロ、名古屋駅から新大阪駅まで何キロ >東京から大阪まではおよそ何時間かかります > >現代でも普通の表現ですね 品川駅から名古屋駅まで何キロ、名古屋駅から新大阪駅まで何キロ 東京から大阪までおよそ何キロです。 とは言わないな。 駅から東に800メートル行くとコンビニがあって、 右に曲がって東に3分くらい歩くと図書館に着くよ と書いてあるときに、 3分が駅から図書館に行くのにかかる時間で、 コンビニの位置に図書館がある と主張しているのが九州説 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる