九州王朝ってどこまで信じれるの?
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
wikとか見たらすごい面白そうなんだけど
トンデモ説の域はでてないのかな? 記紀は捏造だとか言いつつ自分で歴史を捏造しちゃったやつ 世界史的には間違いなく存在したが日本史ではまるで無かったことになってる九州王朝は実在する。
征西大将軍こと後醍醐天皇の皇子、兼良親王の北九州に成立させた王朝。
少なくとも、世界史的には実在する。 どこまで信じれるか、だと?
何一つ信じられませんが、何かw やっぱり記録に残ってないから信じられないのかな?
天智天皇と天武天皇あたりってかなり怪しいと思うんだがどうなんだろ? 記録に残ってないのは、そもそも九州王朝なんて無かったから。
私は天智・天武あたりが別に怪しいとは思わない。以上 倭国と日本は別物
日本の国号を奪った。
唐書に記録があるし。天武が革命っぽい事を言ってた記録とかもあったんじゃなかったっけ? >>8
もういっぺん良く読んどけ
442 :日本@名無史さん:2014/08/27(水) 23:59:56.49
>>438
倭国も日本国も「やまとのくに」で基本は同じです。
中国では国名が変わると王朝の交替を表わすので、
中国側がこの国名変更に色々思い悩んでいる様子が看て取れます。
唐書よりも古い本の「通典」や「唐会要」と比較してみると、何となく事情が見えてくるのではないでしょうか。
「明史日本伝」などを読むと分かりますが、中国の史書は結構いい加減(説明不十分)なところがあります。
中国の史書を「文字通り」読むだけではいけないことを知っておくべきでしょう。
まあ、中国にとって日本は、東海の辺鄙なところにある島国に過ぎませんから仕方ありませんが。
王朝が変わるというような意味でのリセットはまず無いですね。飛鳥京域からは斉明朝以降の木簡が見つかりますが、
極端な断絶を示すようなものはありません。それに、記紀が書かれたのは西暦710年代つまり
今からちょうど1300年前のことで、壬申の乱は672年ですから、1972年の日本を知る人が今でも大勢いるように、
672年の飛鳥を知る人も当時まだゴロゴロいたはずで(現に天智・天武の子女たちが何人も存命ですから)、
そのような中で国の大枠やトップに関わる事項が史書で根本から改変されるなどということは、考えづらいと思われます。 >>6
記録に無いものを勝手に妄想するのは「歴史」じゃないの。
日本史板じゃなくてオカ板とか創作文芸に行ってください。 >>9
それは一例で。
天智天皇が紂王で天武天皇が武王
みたいな説とか。天武の方が年上とか。
さらにその前の聖徳太子非実在説と日本書記の信用度
日本書記の編纂を命じた天武天皇。 >>13
結論は出てるよ
九州王朝なんてものはフィクション 磐井王朝の話だったら可能性があるだろ
本質にせまらないで皇統だのなんだの誤魔化して
いるから答えがでないっていってるんだが?
やれ朝鮮がどうだの変なことばっかり言ってるもんな
ほんとに死ぬかお前ら >>12
逆にそういう「説」を疑ってみることも必要だよ。
あと、君は日本書紀とか信用できないとかいって
九州王朝に期待を寄せているようだけど、
九州王朝説は日本書紀以上に信用できない、といっても過言ではない。 阿毎多利思比孤だの話は九州の可能性が高いんだろ
捏造されてるのは分かっているんだよ >阿毎多利思比孤だの話は九州の可能性が高いんだろ
↑これが捏造 倭奴国該当は九州です
昔の日本史の常識ではな
九州は橘氏系の氏族の拠点でもある
橘氏関係から調べていくのが正解 >>15
そこいらのオッサンの与太話より記紀を信じるね そもそも、もう4世紀には漢字は流入してたから、当時の記録は伝聞として200年くらいは残ってたはずなんだよね。
したがって、九州王朝なんて存在しえないんだよね。 似たようなので王朝交代説ってのもあるけどそっちの
信用度はどんなもん? 議論は停滞気味だね
継体天皇新王朝論もあくまで俺の私見だけど積極的に
新王朝だ!簒奪だ!という人は最近はあまりいないような気がする >>23
王朝交代説ってのは三王朝のが有名だけど、
今は政権持ち回り説なんてのもあって、
ヤマト王朝とか王権というより、ヤマト政権とか言ったりする。
それに地方の豪族とかも独自の勢力持ってたから、
ヤマトも有力な「一地方政権」的な見方もある。
中央集権国家としての日本国が出来た8世紀頃〜が王朝というにふさわしい。 九州に王朝なんかないない。
鹿児島住みだけれど
こんな田舎にまず人が居た訳がない。
熊襲とかの野蛮人位のもんでしょ。
上野原遺跡も嘘臭いから、
遺跡周辺は工場地帯だけど、
建設前の事前調査も無視してガンガン
建物建ててるよ。 未開の原住民に王も何もなかろう。
九州の大酋長なら居たかもしれない。
現在のサモアの元首:オ・レ・アオ・オ・レ・マーロー。
俺、というのは酋長の自称。
麻呂こそ酋長のことだ。
納得しただろう? けど出雲地方は古代では大都会だったわけでしょ。
今、九州が田舎だからといって当時も田舎だったとは限らない。 桜島大噴火、 桜島は、かつては文字通り島であったが1914年(大正3年)の噴火により大隅半島と陸続きとなったというから、
桜島周辺を掘れば、ポンペイ遺跡が出てくるだろうね。 >>28
出雲が都会だったというより、今の京都のあたりも出雲だった。だから、京都には出雲のつく地名が多い。
鴨族じたいが出雲族だし。
出雲は大和(日本)を譲る代わりに、出雲に神殿を建ててもらったもの。 倭王武の上奏文や稲荷山鉄剣銘文から考えるに、
少なくとも雄略天皇の時代は王朝といっても差支えないと思う 埼玉の古墳から長い文章が書かれた剣がみつかるぐらいなんだから。
他の古墳も調べれば古代史の事が解るような史料が見つかるのかな。
宮内庁が許可出す事ってあるのかなあ? 宮内庁にとって不都合な事実を公表する予定はございません。 記紀なんての自体が全部作り話っていうのが当たり前の事実だろうけど。
何故そう言い切れるか?今に残ってるから。今に続く権力に都合がいいから残されたのです。 >>34
ハァ、じゃあなんで邪馬台国論争に参加されてるんで?
魏志倭人伝も信じないんでしょ? そういう次元の話じゃ無い。
北九州に王朝のようなものがあったであろう事は想像する事が容易い。
なのに記紀には磐井の乱程度の事しか大きな話題が無い。そんなわけないだろう?
吉野ケ里然り、多くの大規模な遺跡が見つかっているのにこれらをいちいち邪馬台国に結びつける必要性は無い。
本来、魏書に僅かに残る邪馬台国の記述をを古代日本の統一王朝のように捉える意味もないのだ。
裏返せばこれらの歴史の流れという定説が全て後付け設定なんです。
アカデミズムってのの現場で当たり前のようにそれが何の疑問も持たれない。気持ちの悪い話だ。聖書物語に近いね。 邪馬台国の規模からして、どう考えても九州の国とは思えないんだが。
邪馬台国=大和朝廷だろ
記紀で九州の国は小国扱いだし >>36
アカデミズムにも受け容れられない与太話は聖書偽典以下だね。 北部九州は7世紀くらいまで、
相変わらずのマイペースで、
墳墓も前方後円墳を作ったかと思えば、
でっかい円墳も作る。
まったく統一感がなく、広域支配された形跡もない。
ある程度の連合はあったのかもしれないが、
実態は小国の集合体で、なにかあればすぐ
ばらばらになる。
倭人伝に書かれたままの状態。 ついでに小国の各国が鉄や鏡、玉などを、
生産して使用していたので、
環濠集落ごとに鍛冶の痕跡があったり、
玉の加工痕跡があったりする。
小国なので規模は小さいが、
それぞれがワンセット持ってたようである。 九州王朝なんて今も昔も存在しないし、邪馬台国も九州にはなかった。 九州王朝は太宰府の前身だな。
太宰府周辺を発掘すると、
昔からいろいろと工事が行なわれていたらしく、
弥生土器から須恵器までごちゃまぜに出てくるそうな。
つまりそれだけ長期間集落だったということだが、
それで九州では弥生時代から須恵器があったなんて、
無茶書いてるサイトがあったな。
さすがにそれには賛同できないが。 天智は金春秋の庶子王子で金ヒエイ。
新羅国の人質として太宰府に着たが、
倭国王からは疎外され面通しも無かった。
660年の百済戦争に志願し出兵。
亡国百済の庶子王子一行を太宰府に護送する任務を与えられるが
途中で彼らを殺し、自らがそれに成りすます。
それで太宰府から難波宮に倭国王の特使としてやって来た。
そこで半島出兵命令を偽って発行し、
驚いて抗弁するイルカの頸を鎌足仕込みの朝鮮刀法で斬り飛ばした。
天王寺に急行してイルカの衛兵共を皆殺し、住吉に着至。
住吉大神の神託として軍権を掌握した。
飛鳥に攻め込みエミ氏を焼殺、馬子の墓を暴く。
近畿の大軍を率いて太宰府に戻り、
倭国王を力で退位させ、その後に暗殺。
白浜に手勢をまわして捕獲していた斉明天皇を公開処刑した。
すぐさま半島出兵し、新羅軍の誘導に従って、百済故都に進軍した。 王朝と言うより各地に固まって各々の
暮らしをしていたんでしょう 九州王朝が成立するのは、
6世紀の前半からだね。
それ以前のどの段階で、
ある程度まとまるようになったのかは
分からないが。 九州王朝など存在しない。
九州王朝説は、異端である!
抹殺しろ! 九州王朝が存在したらしたらでよいではないか。
どのみち、大和天皇家とは接続がないのだから。
神武東征があったのは卑弥呼金印仮授以前である。 >>54
九州王朝説は本家の古田とは別に取り巻きが妄想膨らまして
各自勝手な説を唱えてどんどん増殖しちゃったからなぁ
九州王朝が畿内勢力を併合して統一政権になったとか
九州王朝と畿内王朝が合体したとかのバリエーションもある このまま収拾のつかないトンデモ群として消滅していくんだろうなぁ 1)天皇家には姓が無い。
2)阿蘇山のある倭国の王「阿毎」多利思比孤だった。
3)故に天皇家とは異なる倭国が阿蘇山の付近にあった。
3段論法によって九州王朝が存在した事が証明できる。 なるほど、お話になってないね。
このまま収拾のつかないトンデモ群として消滅していくんだろうなぁ 集住集落があった程度でしょうね。
古い所でも↓国分の上野原みたいな9500年前とか大した物は出ないし。
http://www.jomon-no-mori.jp/uenointr.htm 九州王朝説がまったく信じられないことが、よくわかった ビッグコミック立ち読みしたら天智と天武で中大兄皇子と大海人皇子が唐に捕まってけど筑紫君=大王説を取ったのかな 天智は、武則天の寵愛を受け、高句麗征伐軍の先遣隊長を務めた。
この集団が土着し自立したのがマッカツであり、モンゴル宗家に発展した。 日本、倭、百済残部、高句麗、これらすべてを
一人で破壊し尽したのだから、天智はスゴイ。
695年に、藤原京開基を祝賀する新羅国外交団として
フヒトや小角ら一騎当千の部下を連れて入京した天智は
すぐ姿をくらまし、近江多賀方面で三日で二万の兵力を醸成。
蒲生、甲賀を抜けてサボ山に伏兵し朝駆けにて藤原京を急襲、
それを完全封鎖した。
文武王の妾であった天智の妹が天皇となりその孫が日嗣となった。
新羅王の傍系が天皇家を乗っ取ったわけである。
このときの俄か兵力の成れの果てが比叡山僧兵やら興福寺僧兵やらである。 >>継体天皇新王朝論
ある意味では正しいでしょう。
まともな実力者で天皇になりたがる人物が
全く出てこなくなったので
九州主導で継体が押し出された。
引き受ける代わりに生命保証してほしいと願ったので
その目的のため倭国副王が難波宮に設置された。
天皇家を強く太くするため編み出された
万世一系法の弊害が極みに到達した時代なのだ。 >>55
古墳時代スレに「倭の五王=仁徳の弟から九州王朝に分岐した」といってるやつがいた
もうどんどん収拾つかなくなってるな きうしう王朝説は元々が、野史ですから
収拾つかないのが当たり前ですよ。 >>66
越と近江って明記されてるのにわざわざ九州に持っていく理由を知りたいね >>72
古来の史実書物なんて客観的立場で書いてない限り
捏造だらけだからよほど信頼に足らないと眉唾ものだね
しかも越と近江って邪馬台国時代の文化的遺跡なんて皆無でしょw
前から思ってんだけど継体関連なんて
無理に整合性を持たせようとするところなんてかなり眉唾ものだよ >>73
5世紀末から6世紀の人物である継体帝と3世紀の邪馬台国とが関連しないからって何だってんだ 旧肥前国、肥後国が女王国。
そのうち肥後国が邪馬台国
漢委奴国王の帥升は奴国=筑前国
筑後川沿いの筑後は広大な土地であったが、
筑後川が暴れ川であることと、広大な低湿地地域であることから、
あまり使える土地ではなかった。
しかし、灌漑土木技術が進むに連れ、広大な良田となる。
有明海湾岸を支配する肥国と筑後川沿いを確保しようとする
筑前奴国で抗争が勃発。
その境界である吉野ケ里、安永田や、瀬高、大牟田、玉名では、
大量の武器と戦死の痕跡が残る。
ついには筑前が久留米高良山を取り、戦争は終了、
合併はしていないようだが、不戦協定が結ばれる。
景行天皇が残る熊襲退治を行い、九州は統一される。
帰りに肥後地域を通るが、ここでは戦争になっていない。
九州王朝設立。 >>77
相変わらず、どこが馬鹿なのかを
指摘する知能はなさそうだね。 どこが馬鹿か言われないと分からないのも深刻な知能不足 >>76
熊襲勢力が大分鹿児島
邪馬台国が肥前肥後
大和朝廷が筑前
こんな感じだね 大分とか宮崎の沿岸部は北部九州と同じタイプの人骨がでてる
熊襲は球磨とか曽於のあたりでしょ 景行天皇の九州巡幸では
豊後国(大分)で土蜘蛛を倒し
日向国(宮崎)に入り熊襲を倒した
よって宮崎鹿児島が熊襲だ 845 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2014/12/06(土) 20:52:49.74
南九州の山間部古墳人は,「低・広顔」傾向を示し,宮崎平野の古墳人は「狭・高顔」傾向が強い。
眼窩および鼻部の形態も,顔面全体の形にそれぞれ相応している。
ここにおいても宮崎平野の柿木原古墳人は顔面全体の形は他の平野部古墳人に似ているが,
眼窩および鼻部の形態は山間部古墳人に類似している。
南九州の山間部古墳人の顔面頭蓋は,西北九州,大友両弥生人および縄文人に近いが,
これらよりもより強い低顔性が認められ,大きな特徴に数えられる。
宮崎平野の古墳人は北部九州の弥生人に近似しているが,柿木原古墳人の眼窩および鼻部はむしろ西北九州弥生人に近い。
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/29416/1/ishi_i1044ronbun.pdf 柿木原古墳人は、面長なのに彫りが深いということだけど何者なんだろうな。 >>43
>九州王朝は太宰府の前身だな。
1月17日に九州国立博物館の「百済展」に関連するシンポジュウムがありました。
そのとき太宰府の水城や大野城の配置はは百済の古都の公州に似ているというお話がありました。
赤司善彦氏のお話です。
KAKEN - 赤司 善彦(00446882)
https://kaken.nii.ac.jp/d/r/00446882.ja.html >>6
>天智天皇と天武天皇あたりってかなり怪しいと思うんだがどうなんだろ?
倭京は大宰府の前身か? 天智天皇は水城の修復なんかもしてるから、
九州王朝系の話がはめ込まれてると思ってる。
天武天皇が畿内王権系で、白村江の敗北で
疎開してきた天智天皇を殺ったのでは。
まあ、まだ妄想段階だけどね。 桓武天皇で皇統が天智系に移ってる時点で永久に妄想確定です 畿内以外に、日本の歴史も文化もあるわけないだろ
九州王朝とかいうトンデモ妄想は、日本史や日本文化に対する侮辱行為で反日行為と言える
熊襲土人は畿内や京都の歴史を勉強しろ そもそも中国の王朝に遣いを送れるのは中国に近い地域を支配してた王のみ。
関西や関東の王様では道中よその國からの妨害に遭うものな。 >>90
九州が他の地域に隷属していたかもしれないことは想像しないらしい。
よその国は必ず妨害するものらしい。
倭と中国の間には朝鮮があったわけだがね。 北部九州の遺跡数はそうとう多いからね。
ほかのどこがここを支配できるというんだ? >>92
いつの時代の話をしてる?
百済はなぜ倭の遣使を妨害しなかった? 紆余曲折あったことは想像に難くないが
白村江までは救援に行ったところから見ても
百済と倭は仲いいだろ。
白村江後は南路で朝鮮を通らないようになる。 >>94
>百済と倭は仲いいだろ。
倭って畿内のこと?九州のこと?
>>90の言うように畿内王権が中国への遣使したくても妨害されていたような状況なら、
白村江以前に中国正史へ記録された倭とは九州王朝ということになる。
つまり百済は九州王朝と仲が良かったということになる。
ところで、畿内王権は九州王朝と敵対していて滅亡させている。
どうして畿内王権は、敵だった九州王朝と仲が良かった百済の、
再興を援助したり、滅亡した後に残党の面倒を見てやったりしたのか。 >>26
何を持って田舎だとして人がいないと断定したのかは知らないけど、南方のポリネシア系の人が日本に流入するときに真っ先に上陸するであろうところは地理的にお前のとこと沖縄だよ >>95
別に妨害はされてないと思うけど、距離も遠いし、
一応九州王朝という日本地域の代表がいたというだけで、
特に敵対してたかどうか。
旧唐書の、「日本はもとは小国で倭の地を合わせたり」
という状況だから小国の間は遺使する必要はあまりなかったんじゃないかな。
もちろん、白村江のあとに、九州王朝崩壊の残党が流れて来たら、
いくらか使える連中を採用して、日本として日本地域の代表者になった、
だから、百済との関係も悪くはないが、
百済そのものは白村江でなくなっちゃった。
記紀の名残としては、九州王朝が天智天皇系、畿内王権が天武天皇系、
九州王朝の残党が畿内に逃げ込んだけど、優秀な官僚だけ取り込んで
天智天皇は殺された、というネタはわりかしよく見るネタですね。
畿内王権が畿内でうまくやっていたなら、よそからの権威者なんて
邪魔ですからね。 >>98
>特に敵対してたかどうか。
敵対していなかったら、なぜ九州王朝を滅ぼして、記録を抹消したの?
>旧唐書の、
旧唐書には複数の説があるので、なんともいえない。
>九州王朝崩壊の残党が流れて来たら、いくらか使える連中を採用して、
具体的に誰?
>記紀の名残としては、九州王朝が天智天皇系、畿内王権が天武天皇系、
根拠不明。
>畿内王権が畿内でうまくやっていたなら、よそからの権威者なんて邪魔ですからね。
なんで百済王族は殺されなかったのか、整合性が無い。 >敵対していなかったら、なぜ九州王朝を滅ぼして、記録を抹消したの?
九州王朝とは別に畿内王権もそれなりには発展していて、
互いにほぼ独立していたと考えています。
その状態で白村江で壊滅して疎開してきたとしても、
はいどうぞと九州王朝を受け入れて、支配権を渡すことはないでしょう。
弱体化していれば、分断して吸収利用するのが賢いやり方だといえます。
ただし、権威の象徴である九州王朝の王は、消されたか適当な場所に流して
飼い殺しにされた可能性が高いでしょう。
白村江以降から急速に大和王権は政治体制の整備を充実させ、
大宝律令に先行する飛鳥浄御原令
条坊都市である藤原京の築造整備、
701年以降には大宝律令、年号制定、記紀などの国史、風土記の編纂
などが実行されています。 >>99
白村江以前に九州と畿内が対立していなかったとする根拠も説明も無いし、
他の質問にも答えてないところが多いけど。
>九州王朝とは別に畿内王権もそれなりには発展していて、
「もとは小国」っていつごろのことを言ってるの?
>白村江で壊滅して疎開してきた
九州王朝は白村江で滅びたの?
唐が九州に攻めてきたわけでもなく、
王家の存続もさせてもらえないような他国へ、なぜ疎開したの?
九州の王が酷い扱いを受けたのに、
九州の旧臣は叛乱もせず、唯々諾々と畿内王に従ったの?腰抜けじゃん。
てか、白村江の後、大宝律令に先行する近江令を制定したのは、
九州系認定されてる天智なんだけど?
辻褄あってなさすぎとちゃいまっか? >白村江以前に九州と畿内が対立していなかったとする根拠も説明も無いし、
対立していたという根拠もない以上、普通の穏やかな関係でしょう。
遠いので、領土を獲る獲らないの関係もないでしょうし。
> 唐が九州に攻めてきたわけでもなく、
天智天皇が唐や朝鮮と戦後処理について、様々な交渉をしていますね。
天智時代の終わりのころには唐から2000人が訪れます。
進駐と解釈する人も多くいるようです。
そのころに近江京が作られますが、ここが九州王朝の疎開先で、
さまざまな政策が始まります。
http://www9.plala.or.jp/kinomuku/dazaifu/dazai-nenpyo.html
しかし、近江に移ってから、4年後には崩御されました。 >白村江以前に九州と畿内が対立していなかったとする根拠も説明も無いし、
対立していたという根拠もない以上、普通の穏やかな関係でしょう。
遠いので、領土を獲る獲らないの関係もないでしょうし。
> 唐が九州に攻めてきたわけでもなく、
天智天皇が唐や朝鮮と戦後処理について、様々な交渉をしていますね。
天智時代の終わりのころには唐から2000人が訪れます。
進駐と解釈する人も多くいるようです。
そのころに近江京が作られますが、ここが九州王朝の疎開先で、
さまざまな政策が始まります。
http://www9.plala.or.jp/kinomuku/dazaifu/dazai-nenpyo.html
しかし、近江に移ってから、4年後には崩御されました。 >>101
>普通の穏やかな関係
だったのに、近江に疎開させてあげたのに、最終的には抹殺するの?
九州旧臣はなーんにも抵抗せず服従したの?
ま、好きに話を作ってればいいさ。
>進駐と解釈する人も多くいるようです。
九州王朝を近江に追い出したのに何もしないで帰っちゃったのはなぜ?
>近江京が作られますが、ここが九州王朝の疎開先で、
天智朝の臣下はみな九州王朝からの転属ということでいいのか? >九州旧臣はなーんにも抵抗せず服従したの?
>「壬申の乱」起こる
> 筑紫太宰・栗隈王、近江朝廷の軍兵拠出の命を「筑紫国は辺境を外敵から守るためにある」
>としてこれを拒絶する。日本書紀天武一年六月
九州に天武天皇系の栗隈王が配置されたり、いろいろ権謀術策がからんでいるようですね。
壬申の乱は様々な資料がありますので、いろいろな混乱や陰謀はそちらをどうぞ。 >>104
>進駐と解釈する人も多くいるようです。
九州王朝を近江に追い出したのに何もしないで帰っちゃったのはなぜ?
>近江京が作られますが、ここが九州王朝の疎開先で、
天智朝の臣下はみな九州王朝からの転属ということでいいのか? >九州王朝を近江に追い出したのに何もしないで帰っちゃったのはなぜ?
二千人の軍を率いているわけですから、なにか目的はあったんでしょうけど、
記録が残っていないので、なにかしたのか、してないのかはわかりませんね。
>天智朝の臣下はみな九州王朝からの転属ということでいいのか?
九州からの人間が多かったとは思いますが、全部とは言い切れないでしょう。
実際、天武系の人間もいるわけですから。 >関西や関東の王様では道中よその國からの妨害に遭うものな。
90だけど、↑の『よその國』とは日本列島内のライバル豪族のことね。
戦国時代を考えればわかりやすい。陸路では必ずどこかから妨害に遭って博多湾までたどり着けない。 >>106
じゃあ進駐とは言えないね。
要するに、誰が九州から畿内に転属したのか、何も分からないのか。
>>107
列島も半島も現代のような国境線があったわけでもないのに、
列島内に限定するのは恣意的でしかないわな。
列島の勢力は妨害するけど、半島の勢力は妨害しない。
陸路は妨害されるけど、海路は妨害されない。
御都合主義のかたまりや。 だいたい、天智が九州で、天武が畿内?
そんな与太話があったとして、天智系の光仁がなぜ立てられたんだ?
天武系の皇族などいくらも居て、壬申で天智と九州は滅亡したんだろ?
光仁が立ったら、九州系の復権と、畿内系への報復くらいあってしかるべきだろうに。 >>108
>列島内に限定するのは恣意的でしかないわな
???
日本列島内の話してるんだもん。
埼玉や東北の勢力が中国に行くには独自に海路を開拓する必要があったと思う。
>海路は妨害されない
妨害できないよ。
今みたいにレーダーで見張ってて領海侵犯船が現れればスクランブル発進できる時代ではないので。 陸路で使者を送り込むには使者に行商人か旅芸人の格好でもさせて敵対勢力を欺かないと無理だな。
裸足が当たり前の時代にそんな遠距離を渡り歩く職業の人がいたかは不明だが。 >>110
朝鮮海峡以外沿岸航行なのに、何を言ってるんだ? >>92への>>93について、
>>94が二行目にだけ触れたが、
一行目については、そもそもいつの時代を想定して言ってるんだか。 >>109
>そんな与太話があったとして、天智系の光仁がなぜ立てられたんだ?
日本書記でもその辺は有名どころのエピソードですね
http://history.kaisetsuvoice.com/Kounin.html あほか
日本書紀になぜ光仁天皇即位の話があるんだよw >>114
九州王朝説の補強にならないリンク貼って何がしたいの?
>>115
話の分からない人は無理に書き込まなくていいよ。 裸足という点が重要なんだよ。倭人とは船を足とする海洋民族であることが分かる。
梁職貢図で描かれてる出で立ちはまさに漁師さんそのもの。
倭猿は裸足の未開民族
http://www.mt.co.kr/view/mtview.php?type=1&no=2013020617374577589 >>117
真に受けてるのは韓国の学者だけ。
上田正昭も王仲殊も知らないか。 >>119
韓国の反論など取るに足らんのがよくわかるわw 高句麗はともかく渤海事情は朝鮮史には含まれないだろう。
これまで含むなら倭国事情まで朝鮮史になってしまう。 >>121
そういうことは2chくんだりで書いてないで
ハングルに訳して半島の掲示板に書いてくれやw まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった しかし倭王の子孫?で現在12億借金王の松野頼久って幼稚舎から入った慶應大を8年かかって卒業してるの?
一族皆頭わりーから白村江で負けたのかね? 敗因は水軍がバラバラで統一指揮下になかったからでしょ 船も作れないエヴェンキ民族にやられたのは頭悪い以外のなにものでもない。 >>128
釣られてやるか。エヴェンキって新羅?
高句麗が百済はこの時倭国の側だから新羅だよな?
新羅が船つくれなかったとかおまえはアホなの? >>130
雑兵に負けたとはいわないわな。新羅に負けたならともかく。 え便器にやられたジャップざまあああああああああああ
ホルホルホル〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ↑煽り方が下手糞だなぁ。そんなだから過疎板になっちゃったんだよ… 宮地嶽神社には、約三百年位前に出土した、日本一の大きさを誇る横穴式石室を有する巨石古墳が
有ります。この古墳は6世紀末頃の建立と推定されています。
その石室は、全長23メートル、高さ幅ともに5メートルを超える、相之島の玄武岩を切り取った
巨石で積み重ねらており 特大太刀(タチ)や刀装具。馬具類、緑に輝く瑠璃壺や瑠璃玉、
そしてガラス板など、およそ300点が発見され、そのうちの20点もの品々が国宝に指定されました。
それらの中で特に目を引くのは黄金を使った品々。例えば金銅製の冠には黄金に龍や虎の透かし彫りが
施されています。
そして3.2mの特大太刀は頭椎(かぶつち)がついており、やはり金の装飾が施されています。
さらに教科書などでもお馴染みの金銅製の鐙(足置き用の馬具)は、金の七葉唐草文が貼付され、
遠くオリエントからの影響を見ることができます。
この巨大な古墳の主は、金の冠をいただき、金の刀装具や馬具で身を固めているような人物だった
のです。このことから宮地嶽古墳には、北部九州の王が祀られていたと考えられています。
http://www.miyajidake.or.jp/history/yane.html >>135
それに、ガラス製の骨壺を収めた青銅製の骨蔵器も発見されているので、
この被葬者である九州の王は、仏教に帰依していたと推定されます。
この被葬者は、胸形君徳善ではなく、「法興」の年号を持つ「法皇」と呼ばれた
九州の王ではない人物であると推定されます。
九州年号には「法興」がなく、
「法興元年」は、対隋外交担当の天子である多利思北孤が即位した年になっているのです。 だからチョンコとは関係ないからよ
い〜加減しつこいな
黒潮の流れってのは太平洋側から流れてくるんですよ 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
『新唐書』日本伝
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書) 被葬者は?
「被葬者について、さっき磐井(いわい)氏の関係と言われましたが。
一般的には宗像徳善と言いますが。」
「被葬者として、よく名前が挙げられるのが宗像徳善の君です。
しかし、年代が科学的に、100年位誤差が出ます。
もし、彼が150年位生きていたら、可能性が出て来ますが。
この宮地嶽神社の御祭神の藤氏が磐井氏の孫です。
ですから、この古墳は磐井氏の関係の者と思われます。
一般には宗像徳善の君と言われていますが、違います。」
被葬者は?
「被葬者について、さっき磐井(いわい)氏の関係と言われましたが。
一般的には宗像徳善と言いますが。」
「被葬者として、よく名前が挙げられるのが宗像徳善の君です。
しかし、年代が科学的に、100年位誤差が出ます。
もし、彼が150年位生きていたら、可能性が出て来ますが。
この宮地嶽神社の御祭神の藤氏が磐井氏の孫です。
ですから、この古墳は磐井氏の関係の者と思われます。
一般には宗像徳善の君と言われていますが、違います。」
やっぱり!宗像徳善じゃないよ!やったね。
でした。
http://lunabura.exblog.jp/14559788/ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 臓骨器については、古墳内の遺体が、
ある時期に火葬されたのではないかというのが神社の見解でした。
図の左から3枚目の所にある切り込みが龕(がん)です。
ここには左右に遺体が置かれていたというのが神社側の見解です。
被葬者については、
「決して宗像徳善ではない。現在でもここでは磐井の末裔を祭祀している」
との事です。
http://lunabura.exblog.jp/16668863/
「奈良の橿原には完全なものが出ていて、それと同等のものです。
頭椎(かぶつち)の太刀は皇位継承権のある人が持つもので、
地方豪族などは持てません。」
「棺は何で出来ていたのですか。」
「何も出ませんでした。だから、石棺ではなく、木棺だったと思われます。
木棺は国王クラス以上の人しか使っていません。加工が大変だからです。」
http://lunabura.exblog.jp/14559788/ 宮地嶽神社が磐井うんぬん言い出したのは古田以降
頭椎大刀とか木棺のはなしは嘘八百
こういう裏が取れない与太話を喜んで引っ張ってくることが
九州王朝説が学問とはかけはなれたファンタジーだということを示している >>143
>宮地嶽神社が磐井うんぬん言い出したのは古田以降
宮地嶽神社と奥の宮不動神社(宮地嶽古墳)は全くの無関係。
山斜面にあった不動尊が神社として宮地嶽神社に昭和5年に合祀されたもの。
合祀以前は今里不動尊(今里不動古墳)と同様なものである。
(今里不動古墳にも石棺がない)
棺がなく骨壷があったことは、被葬者が仏教に帰依しており火葬されたからである。
頭椎大刀の金メッキされた大きな頭椎は被葬者が大王クラスの者であることを示している。
では、被葬者はだれか?
九州の大王クラスの仏教に帰依していた人物となる。
磐井の君は行方不明又は他地方で殺され骨壷に入れる火葬された骨がない。
葛子以降の多利思北孤や薩耶麻に至る大王の墓が
宮地嶽古墳であり今里不動古墳であると考えられる。
最大の古墳である宮地嶽古墳が多利思北孤の墓として相応しい。
今里不動古墳は多利思北孤を除く大王のだれか。 今里不動古墳
石室の全長は11.2mしかないが、
後室の大きさは、幅4.1m高さ3.9m奥行き4m
前室は3m×3m
とにかく後室内が広い。宮地嶽古墳よりも広い。
後室の岩はデカ過ぎる。
>>http://www2.atpages.jp/kofuntokaare/3gouhun/page673.html
>>https://www.youtube.com/watch?v=K22lBG4FzI0
私の取った写真よりきれいに写っているのでお借りしました。 九州王朝は、あっただろ。
ただ、大和を凌駕するような規模ではなくて、経済的には小さいが、中国と古くから交易があるので文化水準が高い国。
磐井王朝=八女国=邪馬台国 邪馬台国なんてないんだよ
誰か在ったって証明したか 九州王朝=磐井王朝=(倭五王国)=(八女国・狗奴國)=女王國>邪馬壹國 久留米に都 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり >>151
女王國は、倭國成立認証(正始元年(240年))以前に、卑弥呼を共立した国々。
女王國は、奴國、不彌國、投馬國、邪馬壹國の4ヶ国(14万5千戸)で構成されている。 けっきょく向こうの文献頼りにしてるってとこでワナに掛かってるわけだあな
分かる話し >>156
魏志倭人伝以外にに参考となる文献はありません。
他の文献は参考補強材料となるだけです。 >>97
旧唐書のその部分の記述はあまり信頼できないと思います。
旧唐書の通りなら、隣国の新羅や百済が何も触れないとは奇妙です。
新羅は何度も倭国に攻められ、新羅・百済ともに人質として王子を倭に差し出し、倭の属国にまでなっております。
倭国がヤマト日本に滅ぼされ、その国土もヤマトに併呑されるなどということがあったなら、
それは新・百の生存にとって大事件のはずです。
しかるに三国史記の新羅本紀にも、百済本紀にも、倭の他にヤマト日本があるという記述はないし、
倭→日本の前後でも、単に国名が代わったと記すのみで特に変化は見られません。 では、なぜ旧唐書はそのような説を載せたのかといえば
中国では国名が変わることは易姓革命が起きたということを意味するので
倭→日本と代わったので「倭国は日本国に滅ぼされたのでは?」と考えたのではないかと思います。 >>97
天智天皇はあまり優秀じゃなくて暴力的。
天武天皇の一族が、優秀で官僚的、国際的だから、九州王朝の流れだとおもうよ。
大和王朝が、天武の時代に中国風に改革したんじゃなくて、
天武が、大和朝廷を乗っ取ろうとして、実際かなり乗っ取って制度が九州王朝風になった。
そのことを大和側がのちに「改革」といってごまかしたんだよ。 天智天皇が太宰府の水城を補修した記事があるので、
天智天皇を九州側と見てます。
編纂でいじられた可能性もありますが。 九州王朝の存在は疑いの無い事実だが
久留米みたいな便乗した馬鹿が多いのも事実。 東遷厨の頭の構造はワケわからんな
貝のように口を閉ざして
自分の主張の根拠を言わなきゃ
損をするのは自分だけなのに
どうして、そういう常識が分からないのだろうか
>>162
そんな理由で九州側とみるという理由が皆目わからん
じゃ、金田城を建てたら対馬側で
南韓に城つくったら韓国側で
東北に柵つくったら蝦夷側なのか? 細かいこと言うから、水掛け論でウヤムヤにされる。
ズバリ、近畿論者には「フーン、卑弥呼って大和朝廷の女王なの?つまり何代目の
何天皇なわけ?」と、しつこく尋ねればいい。
最後はファビョる。 >>166
卑弥呼は天皇じゃないから、で何の問題もないだろw >>166
本当に畿内論者に不用意にそんなこと言ったらコテンコテンに論破されて大恥かくぞ 古田信者自体、>>166みたいなレベルのやつばっかりだから馬鹿にされんだろw もう耄碌池沼とそれを食い物にする詐欺師しか残ってないからな >>170
それどこの集会いっても感じるな。笑い事じゃないよホント 半ボケ爺さんから虎の子巻き上げようと手ぐすね引く業者 だいたい帯方起点にしちゃったら「南」に水行と「帯方東南」が合わんわ あんな地図,地図書いた人が間違えたんだろ
本当に90度傾いて考えてたら,当時の中国人は日本海すら渡れんわ あるいは、あえて90度ずらした
そうしないと奴国が倭の極南界にならないからね >>173
「女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種」とあるから
「帯方東南」で合ってるな。 >>177
倭国が南朝鮮から北九州までなら北九州が極南界
日本列島を傾ける必要は無い >>180
奴国が極南だって話でそ
90度傾けたからこそ末盧国→伊都国→奴国が横に並んでるけど
90度傾けなかったら末盧国が極南になってまう >>181
末盧国(呼子)
伊都国(前原)
奴国(那珂川町)極南 >>182
だから何? 陳寿の頭の中の地図の話してるんだが 陳寿の頭の中の地図でも日本列島を傾ける必要は無いでしょ? >>184
あるよ
そうしないと奴国が極南にならないんだから 奴国が金印もらってるんだから当時の北九州全体が奴国だろ 司馬のライバルが西方の大月氏国と繋がってたから
勝った司馬が東方の邪馬台国を対比して書いただけ
大月氏国との対称性を出すために距離感が呉の東の海中になってる
政治的産物でしかない >>189,>>186
こんだけ説明してまだわからない? ちゃんとスレ読んでないだろ このスレに限った話ではないけど
何か、あるような気がするでしょ
『お前たちのやった事はすべて知っている 名言』 ほとんどモレ(仮)の書き込みした
ものばかり出て来るけど
2chやグーグルというのは
同じ人物が開発、経営しているのかな ・ガンダム seed?? 曲名
・何者にもなれないお前たち
・誰が、いつ結婚して、離婚したの?
・王 王子
・ぽけもそ
・C-MOON 重力
・だいとうりょう
その他 これもかな
・モレ(仮)には姉はいないよ、何かの設定?
・兄 弟(モレ) 実在する妹ならいるよ 誰が考えても、モレ(仮)の妹は、本当の女神か何かだな
5月15日生まれで… ガンダムの話ではないような
>〜の再興で何が救われるって話でもないし、
>『箱』の中身が何だろうと知ったことじゃねえ
ドラゴンボール
箱から神龍が飛び出して来るんだよ 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>195
あるよ。無いといいはるやつはよほどの白痴か盲だね >>207
糸島、太宰府など福岡が中心だが肥後大津とかにも一時的に都を置いたんじゃないかな。 都というか、当時は王族の住む宮が各地に点在していたのだろうね。 唐との戦争に負けて滅亡しました。
唐の傀儡政権として畿内ヤマトが成立し、足繁く遣唐使を送り、唐に習った律令制を導入しました。 >>212
なんで九州に傀儡政権を創らなかったのか?
なんで、遥か遠方の山奥の田舎の奈良に傀儡政権を創ったのか?
理由を述べよ 九州には唐が直轄する筑紫都督が置かれています。
その後、福岡と太宰府は筑紫地震で壊滅します。 中大兄皇子らが実権を握る近畿政権はもともと新羅と親交があり、積極的には朝鮮半島に援軍を送らず、百済と親しかった筑紫倭国を意図的に敗北に追い込んだ。
663年に白村江において行われた決戦で倭国の1000隻余りの水軍のうち400隻余りが炎上し、陸上戦でも敗北した。
記紀を編纂した近畿大和朝廷から見れば筑紫倭国の敗戦に責任はないばかりか、これこそが政権奪取の好機だったのである。
中大兄皇子が唐や新羅ともとより通じていたのであれば、敗戦処理においてむしろ唐の信任を得て勢力を拡大したことも合理的に説明できる。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留される。
筑紫には唐から郭務悰ら唐人六百人を含む2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからに他ならない。
668年、筑紫の駐留軍は撤退し敗戦処理が終わり、後を引き継いだ中大兄皇子は天智天皇として西は九州、東は東北南部までの統一政権を樹立した。この敗戦処理が中大兄皇子がなかなか天皇に即位せず大兄(おおえ、皇太子)でありつづけた理由だろう。
その翌年には筑紫都督府が置かれ、唐の皇帝が任命する官の行政府として機能した。
こうして栄華を極めていた倭国王朝は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する親唐的な畿内大和政権が継承した。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
実質的な権力移行により官僚は畿内に移動し、地震により倒壊した建物や仏教芸術を含む白鳳時代の文化財も畿内に移築され、主権を失っていた筑紫は震災からの復興もままならなず政治的には没落したと考えられる。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内には国号の変更については記録がない。 671年に天智天皇は病死し、672年にその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
天武天皇の時代に編纂された古事記と日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
ただし新たな創作をするのではなく、九州における歴史の一部を抹消し、一部の事実は組み込んで細かいつじつま合わせをして、
本来は傍流であったはずの畿内大和がおよそ三世紀頃と推定される神武の時代まで遡って列島の支配者であるかのように見せかけた。
日本書紀の編纂と並行してそれ以外の歴史書の焚書を行ったため、
8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われたと考えられる。
日本書紀は多くの書からの引用を含んでおり、編纂が行われていた頃までは邪馬壹国を含む倭国王朝の記録もあったに違いないが、倭国の名を消すために慎重に歴史の改竄を行っている。
文書上の改変だけでなく、倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物が平城京に移動される。
九州北部と畿内で多くの地名が配置も含めて一致していることが知られており、歴史や地名も含めた文化のすべての移植をはかったのである。
その一方で、天武朝のときに外交使節として筑紫館が建てられたとされており、後の鴻臚館として朝鮮半島との通商の拠点として福岡の経済的再興の礎となった。
701年の大宝律令の制定により、正式に日本が国号として用いられるようになり、行政単位が唐の評から郡に改称され、畿内大和政権は独立国として国郡制による全国支配を確立したと考えられる。
続く710年には奈良盆地に壮大な平城京が建設され、九州から畿内、関東まで勢力下に置いた中央集権国家としての畿内大和政権が誕生する。
この統一王朝の名称としては大倭(オオヤマト)が用いられ、表記が大和とあらためられた後に、
以前から筑紫倭国に対して近畿の政権を示すために用いていた呼称である日本国が列島全体の統一王朝の国号となると、大和は政権中枢の位置する畿内の地名に変化してしまった。
中国に対しては筑紫の政権から畿内の政権が連続する王朝であると主張し、近現代においては筑紫に王朝があったことすら忘れ去られようとしているのである。 筑紫王磐井の乱って古事記日本書紀にも書いてあるやん
大和政権とは別で独自に大陸と外交、交易してたんやろ? >>217
>中大兄皇子らが実権を握る近畿政権はもともと新羅と親交があり、
ド田舎の奈良の山奥にどうして近畿政権とやらが出来たんだ?
初っ端から捏造話である。
最初っから、やり直せ!! >>220
いやいや、内陸の奈良に飛鳥寺や法隆寺が建てられてるんだが
お前らは九州のどこに飛鳥寺や法隆寺があったと言ってるの? 九州王朝説=支那が日本を占領したことにしたい説
に最近は落ちてるな 阿波には飛鳥寺や法隆寺より古い寺院があったそうな。 太宰府観世音寺は聖武天皇の天平18年(746年)の完成だろ? だいぶあとだな。 >>226
天平18年(746年)以後の移築になるが? 観世音寺は7世紀後半に発願なので
完成には100年くらいかかってるんですよ。 >>228
完成後の移築ではなお時期が合わなくなるな。 まあ、出来たところから運用を始めて
費用や材料が都合のついたところから
順次整備して行ったんでしょうね。 阿波には白鳳瓦の瓦窯跡もあるそうな。いったい阿波って? 着工から完成まで約80年を要した観世音寺
観世音寺の完成は、よく知られるところの、僧正・玄ムが天平7年(745)に
観世音寺に造観世音寺別当として左遷された翌年に落慶法要が営まれて
いることから746年だとされる。仮に着工が前述の670年とすると、実に完成
まで76年をも要したこととなる。
ただし、下記の通り観世音寺には施入が行われたとの記録が残されている
ところから、伽藍全体としては建築途中ながら金堂などの中心堂宇は完成
して僧が住して日々の宗教活動は遂行されていたと考えられる。そして
養老7年(723)に僧・満誓が勅によって造観世音寺別当として派遣されている
ことから、この頃には一応の寺観は整っていたのではないかとも考えられている。
○朱鳥元年(686) 観世音寺に封200戸を施入
○大宝元年(701) 5年に限って封を停止
○大宝2年(702) 筑前国上座郡の園地49町を施入
○大宝3年(703) 筑前国上座郡把伎野他を施入
○養老7年(723) 僧・満誓を勅によって造観世音寺別当として派遣 阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字の練習をしていた。
観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財指定された。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀末頃に奈良へ遷都する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。 糞ジャップ共は全員津波に飲み込まれて死ね!!!!!!!!!!!!!!
ジャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアップwwwwwwwwwwwwwwwwww
劣等人種ジャップについて語りたい場合は
↓
http://hanabi.2ch.net/ogame/ >ド田舎の奈良の山奥にどうして近畿政権とやらが出来たんだ?
なんか勘違いしてる?
畿内王家も併行して存在してたんだよ。
継ぎはぎなのは、その権力実体<九州の傀儡政権の方が強かったと思われる。
武烈(九州派)と継体(反九州派)の争い。継体なんて酷い諡だが、勝った継体が
九州と決戦してようやく山口までと筑紫の屯倉一つ得た。なんじゃそらw
衰えたといえまだ相当の軍事力を有していた事になるね。 >144
>148
大善寺の御塚、権現塚は倭の五王の墓だ。
八女筑後は上妻、下妻の名前が残っている。投馬国だ。
邪馬台国は旧山門郡た゜4. >239
九州王朝と言っても九州には
邪馬台国の勢力、邪馬台国と倭国大乱で戦った勢力、狗奴国の勢力があったんだよ。
初期の九州王朝は邪馬台国と倭国大乱で戦った勢力だ。
糸島〜博多湾岸〜宗像を活動の拠点にしていた。筑紫(●ちくし)の勢力だ。
邪馬台国は肥国の勢力だ。有明海を拠点の中心としていた。
邪馬台国は 他油津媛が神功皇后に殺されて権力は博多湾岸勢力か゜優勢になった。
博多湾岸勢力は4世紀以降は活動の中心を倭国大乱で支配しようとした肥国に移した。
だから肥国の中心である筑紫平野は筑紫(●つくし)と呼ばれるようになり、
肥国と呼ばれるのは、肥前(佐賀県)と肥後(肥後)だけになり、筑紫平野で分断されるかたちになった。
4〜5世紀を境に筑紫(ちくし)の勢力は筑紫(つくし)の勢力と婚姻関係などをむすんだりして。
活動の中心を筑紫平野へ移して、倭の五王などが良山、大善寺で活躍した。
狗奴国は菊池を中心とする肥後の勢力であり、仲が悪くなる以前は肥国の邪馬台国の勢力だ。 最初から最後まで全部が妄想の産物である九州王朝に、信じられる部分など絶無だよ 九州には筑紫、豊、肥、熊襲の勢力があった。
筑紫と肥は長年争っており、
佐賀の神埼から鳥栖、
福岡の旧山門郡から熊本の玉名、山鹿
には戦争の痕跡が多く残っている。
4世紀には景行天皇の高良山仮宮神話の元となる
筑紫の久留米攻略に成功。
大善寺玉垂宮から上津天満宮、
高良山玉垂宮への攻略と
結構生々しい話が残っており
それにちなんだ神事も残っている。 筑紫の久留米攻略によって
筑紫平野をめぐる戦争は終結し
肥は筑紫に従属した。
肥との戦争がなくなった筑紫は
豊へ侵攻を開始する。
景行天皇、ヤマトタケルの熊襲征伐の
話の元となった戦争である。
豊前から侵攻し、豊後日向大隅へと
征伐を続け、大隅へしばらく滞在したのが
記紀の記述にある。
後には肥後を巡幸し、従属した肥後を
見回ったような記述もある。
この巡幸は浮羽を最後に終わっている。
久留米高良山か筑紫大宰府に
帰還したのだろう。 90 : 日本@名無史さん2017/03/12(日)
>>88
狗邪韓國は何人の領土?
95 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/03/12(日)
>>90
領土といいう観念に語弊があるかとは思いますが韓人の国でしょう
金官国の全身とするのが通説です
↑
この衝撃的な失言を落とすために
スレ乱立して板操作しておりますですよ なぜ音読みが呉音かと言う説明もつくよな。
九州は魏〜晋の系譜で南朝の属国。北朝の随、唐は高句麗滅亡を宿願として
おり、二重に敵となる。 九州王朝が実在したかは知らないが、長崎から鹿児島までは一つの国(熊襲?)だったと思う
というのも、成人T細胞白血病(ATL)のウイルスキャリア分布図と日本語アクセント九州二型地域がほぼ重なってる
どちらも親から子へと受け継がれていくものなので、この地域は先祖が同じ集団だったと推測できる
九州の西側の海を船で往来してたんだろうね >>250
それは肥国であり、その王家を熊襲という。
肥国王家や筑紫王家、豊国王家が連合して倭国すなわち邪馬台国連合を形成していた。
九州王朝は倭国の俗称である。 卑弥呼は肥国王家出身であったが、倭国の都である伊都で君臨した。
同じ肥国王家の肥後狗奴国とは王位をめぐって対立した。
壹與と熊襲梟師(河上梟師)も肥前河上の王である。壹與は肥前国一宮河上神社の祭神淀姫として祭られている。 私は九州王朝説を卒業します。
九州王朝説なんてアホらしくてやってられません。
古田は真正の痴呆でしょう。
彼を信じてた私も痴呆でしたが。
あんな糞野郎に騙されてたのかと思うと、チンコの皮がムケません。 別に信じちゃいない。
ただ、納得できる点も多かった。
これはおかしいという点もたくさんあった。
自分で取捨選択すればいいだけ。 大陸は古代から延々と戦乱を繰り返しているわけで
その強い影響を受けるのはやはり北九州でしょう
後にそこは防人と呼ばれる大宰府であったり、伝統的な日本の防衛拠点に位置することに
なる場所だ
平和な縄文文明から真っ先に離脱していくとしたら
大陸の戦乱地に最も近い北九州だったと思う だよな。具体的な論説を元に組み立てられた学説だから、全部賛同する
必要もないし、変な説、無理筋な説も結構ある。
ただ、如何に日本の古代史学会が空っぽかつ歪んでるかを教えてもらった
だけでも良かった。
自然科学者とのコラボが多いのもいいところかな。法隆寺の木材が九州
産とか。「九州」呼称、九州年号、郡評論争、黒曜石産地、ペルーの縄文
土器とアカホヤ噴火、実に多くの「無視・スルーされた謎」に光を当てた
功績も偉大だが、とにかく学者が卑怯なことw
何故筑紫神話なのか、天神とは何か、三種の神器は何故畿内から出ないのか、
中国文献からは九州しかイメージされない事、旧唐書の記述、交戦国なのに
唐から罰を受けない大和朝廷、そもそも唯一大和王権だけが古代から連綿と
王家だったというキチガイじみた妄想www
考古学者という誤れる唯物史観の連中には、奈良の古代像すら明らかにできて
いないじゃないかと。三輪さんとは何か、神武と欠史八代の謎、巨大古墳の
謎、纏向マキムクとうわごとのようにそればかり言ってた割にはどういう遺跡
かも明らかにできていない。物だけからは、王朝の数次にわたる断絶もわからない。
古墳編年という奇態な超絶技巧だけがよりどころというみじめさ。 >>255
そもそも水田稲作が始まり、最初に弥生時代に突入したのが九州北部の玄界灘沿岸部だよ。
最初の王権も考古学的には博多湾に成立している。 筑紫勢力 漢委奴国王(57年 後漢書)->九州王朝
肥国勢力 親魏倭王(238年 魏志)->邪馬台国->九州王朝に吸収合併
畿内勢力 元小国で倭国を併合 印綬不明(703年 旧唐書) ->大和朝廷 日本国が周辺国に国号変更を通達したのは680年、畿内政権の完全な支配権の確立は701年の大宝律令。 九州王朝も厳密には512年成立だから
それ以前は筑紫勢力というべきかな。
(二中歴より) >>260
それって何の年?
それ以前とどう違うの? >>261
九州王朝の九州年号が
二中歴によると
西暦512年から始まるんだよ。 年号建てる以前から建国している可能性はある
少なくとも年号を立てた時点で既に建国はしてあると考えるべきだな それなりの勢力が安定して
年号を建てるようになったんだから
当然年号以前からふさわしい国はあっただろうな。
どこに線を引くかだけの問題だ。 正確に言うと二中歴では
逸年号の一つとして紹介されており
九州年号と書かれているわけではない。
しかし広く使用されていたものらしく
各古文書で二千箇所ほどの使用例があり
本来大和朝廷の年号で書かれている
記紀でさえ、数カ所の使用例があるそうである。
引き写しのときに変更し忘れたのかもね。
白鳳文化の白鳳も、大和朝廷年号にはない
九州年号の年号である。 広く使用されていた逸年号であるが
大和朝廷では大化を初めて建元した年号としており
九州年号は大和朝廷年号ではないことは
確実である。
広く使われていた九州年号の時代にも
年号を発布する政権があり
それは大和朝廷とは関係がないと言うことになる。 そんなことは知っている。
しかし建国とは全然違う。
九州倭国の建国は紀元前のイザナギによる博多湾の能古島開闢から。 九州年号かどうかなんて分からない
四国年号かもしらんし 九州年号の最初は継体であり、
さらにその前の政権から
継いだような印象を受ける。
九州王朝内で大きな政権交代が
あったのではなかろうか?
また九州年号の最後は大化となっており
その後は大和朝廷の大宝へとつながる。
大化の改新は、九州年号の大化ではなかろうか?
大化の改新で九州王朝から
大和朝廷に変わったとすれば
非常に合理的に説明できるのだが。 >>271
九州年号の大化のあとには大長があるという説もある。
完全にチェンジしたわけではなく、
残党が残っていたのかもしれない。 大化の頃はまだ九州王朝の絶頂期ですよ。
政権交代なんて起きません。
やはり白村江における敗北が痛かったのです。 >>273
あ、九州年号の大化です。
695年が九州年号の大化だったと思います。 崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
やはりこの時代は女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。
これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home 隋書「度百濟,行至竹島,南望耽羅國,經都斯麻國,乃在大海中。
又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國,其人同于華夏,以爲夷洲,疑不能明也。
又經十余國,達於海岸。自竹斯國以東,皆附庸於俀」
筑紫は一支國とおなじ途中のくに。
其人同于華夏,以爲夷洲,疑不能明也は秦王國のこと。
だから清は秦王國に行った。
俀とは秦王國のこと。
だから筑紫は秦王國の属国。 秦王国は筑紫のすぐ東にあるように読めるな。
その当時は豊国、今の北九州市が倭国の盟主だったのだな。 >秦王国は筑紫のすぐ東にあるように読めるな。
その当時は豊国、今の北九州市が倭国の盟主だったのだな。
隋書「又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國」
一支國は壱岐のこと。竹斯國との間に海があるが、書かれていない。
従って竹斯國と秦王國の間に海がないとは断定できない。
秦王國が竹斯國のすぐ東にあるというのは想像に過ぎない。
最後に至が付いているのは秦王國であるから、清は秦王國までは行ったにちがいない。
そこから先は達であり、書き方が変っているので、行っていない可能性大。
こういう見方をすれば、清の目的地は秦王國で、そこが俀のこと?
「其人同于華夏,以爲夷洲,疑不能明也。」は目的地の説明である。
秦王國が九州にあれば「又經十余國,達於海岸。」海岸に達するまで10国以上あったことになるが? >>279
文書が秦王国の後でいったん切れている。
筑紫の近くにあり、そこが当時の都だった。
北九州市、遠賀川流域、筑紫の岡田宮のあったところ。
豊国の都だな。
九州北部にあった倭国連合の一員だ。 >>277
秦王国から東にも海と十余カ国あり、筑紫より東は全て倭国である。
秦と筑紫とどちらが上位かわからないけれど、どちらにしても九州北部で、本州はその属州と。 >>280
>文書が秦王国の後でいったん切れている。
そのとおり。
>筑紫の近くにあり、そこが当時の都だった。
そこが当時の都だったはその通り。
筑紫の近くにありは推測に過ぎない。>>279で筑紫から秦王国まで海がないとは言えないと例示した。
だから、筑紫の近くと断定して推論するのは早いといっている。
>>281
>秦王国から東にも海と十余カ国あり、筑紫より東は全て倭国である。
あいまいにしてはいけない。正確には、秦王国から東に十余カ国を経て海に達すると書いてある。
秦王国が九州にあれば、筑紫より東で、なおかつ10余国を経なければ海岸に達しないなど、
小さな国が密集していたことになるが。
>秦と筑紫とどちらが上位かわからないけれど、どちらにしても九州北部で、本州はその属州と。
「どちらにしても」は、秦王国が九州という前提が入っている。
秦王国が九州という結論はでていないのに、推論している。 >>282
筑紫のすぐ後に秦王国が書いてある。
海の話は少し間をおいて書いてある。
筑紫のすぐ隣が秦王国だろう。
そこまでは使節が往来しただろう。
秦王国が関西方面なら、途中の記事とか距離や日数が書かれないとおかしい。 >筑紫のすぐ後に秦王国が書いてある。
一支國と竹斯國 が隣り合っていないが「又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國」とある。
又至は距離を感じるが、それは主観だからどうでもよい。
>海の話は少し間をおいて書いてある。
>筑紫のすぐ隣が秦王国だろう。
「又經十余國,達於海岸」の基点はどこか。筑紫か秦王国か?
十余国通過しなければ海岸に到達できない。不思議に思わなければそれまで。
>秦王国が関西方面なら、途中の記事とか距離や日数が書かれないとおかしい。
「関西を想定すれば、こう書かれていなければおかしい。そうでないから、関西ではない」
という論法は関西で無いという論拠にはならない。
関西で無いことを結論付けたかったら、隋書以外を使ってでももっと強い論拠を示す必要がある。 隋書「度百濟,行至竹島,南望耽羅國,經都斯麻國,乃在大海中。又東至一支國,
又至竹斯國,又東至秦王國,」
ここに現れる国名は、秦王国以外は現在でも場所を特定できる。
秦王国もほかの国と同様れっきとした国。
秦王国を魏志倭人伝中の侮辱的な名前の一国のように考えては間違う。
秦王国が地名で無い場合、旅程と地図からでは確定できない。
清はここを訪れている。逆に、清が訪れた国が、なぜ、秦王国という大陸系の名前なのか、
なぜ、そこの人は夷でなく中国人と同じといわれたかを考えるべき。
政治史に解答がある。昔の研究者にはピーンときた人もいるでしょう。 邪馬台国がクニの共立女王であることは確定だから、当時のクニは小国も
多数存在していたことは確実。まあ実際は民主的選挙などではなく、大国が
推戴して小国に押し付けた共立だろうが。それしかないよな?現実には。
だから、核になる国はあったはずで、そこか対立する大国かが九州倭国の
前身であったのは間違いなかろう。僻遠の東方に大陸の窓口があったなどと
ほざくどっかのアホは、平和裏に女王を共立した遺構=纏向などとほざいて
いたが、そういえば最近大人しいな。何か具合が悪いのか? ww
更に考えてみると、大国同士の手打ちなのか、むしろ支配権の拡大をねらった
卑弥呼の推戴なのか。ならばその国こそ九州王家の宗家となったんだろう。
実体は、某大国による卑弥呼の背後からの操作による支配権の拡大。恐らく、
暦や観測技術に関することではないか。フィクサーは漢人かもしれない。
ウガヤ、物部ら豪族たちは、その国内の家臣なのか、それとも各国の首長
なのか。 その各国の具体的な問題だけど、大きな王家は九州北部に3つしかない。
筑紫の天孫族、豊国王家、肥国王家しかない。 肥国は火の国でもいいけれど、有明海沿岸の国。
熊本県と佐賀県、長崎県の一部、福岡県の一部。
文化的にはそこまでが北部。
これがいわゆる倭国。 佐賀長崎の肥前国と
熊本の肥後国ですね。
その間の筑後が肥国なら
邪馬台国の使者は肥国以外
通っていないことになります。
肥国が招聘したのなら当然ですね。
筑紫はもちろん九州王朝ですが
4世紀頃に邪馬台国を吸収します。 戸籍研究の題材で有名な火君(肥君)猪手が、肥後を根拠とする火君家の支流ながら筑前に拠点を置いてその地で郡司を勤めていた点を考えたら、
肥の王家は肥前肥後だけの領主ではなかったんじゃないの? 筑前の一部も含めてかなり広範囲な雰囲気 三王家の代表が倭国王として筑前において大王となったのでしょう。
卑弥呼も肥国から擁立されて倭国女王となり、都を伊都に置いたのです。
それだけに、同じ肥国から王を名乗る者が出たことで処遇に困ったことでしょう。
他の部族であれば、夷狄として倒せば良かったでしょうが、同じ王家ではそうもいかなかったでしょう。 一つの農地周辺=クニが拡大・併合していき、大国連合同士が領域を接し始めると、
戦争が起こる。北部九州レベルでは先進地域同士の争いであり、決定的な差はつかず、
泥沼化する。そこで農業技術や暦、観測などを共有化することでその祭祀を共立女王
とした。
その死後、当然前回より生産力と兵器所有、人口は増加しており、さらなる大乱は
周辺諸国を巻き込んだ。
これを治めるのは容易ではなく、卑弥呼の時とは別の何かが必要だっただろう。
それが本腰上げた東方植民地への拡大―政治的には「天下り」と自称するムーブメ
ントの開幕である。高地性集落もむなしく、九州・半島南部勢力のポテンシャルは
凄まじく、たちまち畿内、東海まで進む。 >>297
適当なカタカナで煙に巻いているところは、畿内説のスレの中二病のスレ主と似ているな。 歴史で持ち出すことはない。
具体的に説明できないから誤魔化しているだけ。 いーんじゃないか
変に細かくて結局何が言いたいの?な
畿内説学者より
そんで若者をわざと寄せ付けないw 結局何が言いたいのかわからないことに変わりはない。
無意味 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ 昨今の政界を見ていると、筑紫倭国の末期における混乱も同じようなものだったのかなと思う。
裏切り者が大きな顔をして、新政権の中枢になるようなことがあったのだろう。 竹取物語に登場する貴公子たちはほぼ実在の人物で、その官位からは舞台が西暦701年、律令制の確立された年とされる。
ただ1人の仮名の人物は藤原不比等と推定されており、かぐや姫から課された課題は筑紫の龍の玉、すなわち王権を取りに行くことであったが、これを嘘偽りで済ませようとした。
嘘偽りで政権を取ろうとする企みは昔からあった。 白村江の戦いにおいて、中大兄皇子は積極的に援軍を送らず、結果として倭国は大敗した。
唐が筑紫を占領し、筑紫都督府を置くのと並行して、中大兄皇子は天智天皇として政権を握った。
政権の成立過程には多くの疑問があり、計略により権力を掌握したのではないか。 白村江の戦いにおいて、中大兄皇子は積極的に半島系渡来人を起用し
日本国内における尊王攘夷政策への転換を遂行した。
新羅対百済の内戦で、百済の白村江に日本が意味不明の海軍を送る理由は無く、
唐に対して、対等国として喧嘩ならいつでも買うという姿勢
宣戦布告を行い、独立国姿勢を示す以外の理由は無く、疑問の余地はない。
半島利権の維持が目的なら唐の勢力外の釜山から布陣する。
半島利権の放棄で九州起源虚像の神話の皇国を確立した。 百済は天皇家の外戚で、半島の利権の回復も狙っていた。
百済王家の再興を掲げ、実際には傀儡政権の樹立を目指した。
それが唐との対立の原因となった。
筑紫倭国からの政権交代後は、遣唐使による唐への朝貢外交が盛んとなり、唐を真似た律令制の導入など、戦後の日本よろしく戦勝国への服属外交となった。 百済の成立自体がそもそも日本の傀儡国家である。
百済の朝貢によって得た、七支刀、銅鏡、五経博士、仏教などを日本に献上させた。
中国は属国朝鮮に与えても、日本に知識や技術、文明を提供していない。
昔の中国の賢人曰く、日本のように隣国に知識や技術文明を与える国は亡びる、のである。
留学生を受け入れさせるのは、服属外交とは言わない。
戦前の日本は、皇国神話に背いて日韓併合を行った。
白村江での唐との対立は半島利権に関する政治的好戦姿勢であり
大韓帝国や満州国の建国の逆と同様、外交的戦後処理によって唐に半島を委譲しただけの事である。 百済は扶余族なので、その建国は倭国とは関係ない。
倭国が半島に干渉しようとして失敗して、九州王朝が滅んだ。 >>1
>トンデモ説の域はでてないのかな?
そうだよ、トンデモだよ。 >>302
細かいところにこだわるから細かいテーマしか出せない一般の研究者と逆に
細かいところを尽く蔑ろにして成立してるのが古田説 こまけぇこたぁ
いいんだよ!!
/)
/ /)
`/// __
|イ二つ/⌒⌒\
| 二⊃ (●)(●)\
/ ノ/⌒(_人_)⌒ \
\_/| |┬| |
/ \ `ー′ / 筑紫の日向が糸島市のことだと明確にしたのは大きな功績だったよ。
それだけで古代史の様々な謎が一気に解けた。 結局、古田の言説の大半は与太話にしかならなかったんだよな 記紀と魏志倭人伝の整合性は、記紀も魏志倭人伝も都合が悪い畿内説にとっては、大変不利なことなんだろうなw 九州王朝説はトンデモらしいが、なんで日本書紀には南宋だっけ、に朝貢した記事がないんだ?少なくとも奴国と倭国は別物だよなあ 倭国が朝貢したのにその記録が日本書紀にないなら、倭国と日本は別の国。 >>319
そういう、史書に無謬性を求めたい気持ちが九州王朝説という幻想を妄信させてるんだよね
史書には間違いも多く含まれているのが普通だという現実を受け入れられないんだよ 九州王朝があったのなら、畿内の大和政権と頻繁に戦闘がありそうだが。 3世紀では畿内は政権とも呼べないくらい弱小ですよ。
神武が出かけて行って戦った記録はありますけどね。 もう九州王朝信者は過去半世紀ぐらいの考古学研究を全否定しないと成り立たないぐらいまで衰退したしな 過去二千年分の文献を全て無視しないと成り立たない畿内説には言われたくないですね。 相変わらず妄想全開の九州信者乙
文献に誤記や誤信、誤情報が含まれてるのは当たり前で、魏志倭人伝も記紀も例外ではないと言ってるだけなのに。 九州王朝説はどこまで信じられるか?
そりゃ、信じたら白痴認定されるくらいに、だよ >>328
全くの同意。
自謂太伯之後という一文でそれがよく分かる。
太伯というのはBC12Cの人物なんだが、BC12C頃はもちろん、縄文から弥生を通して、
日本には中国からの渡来定着を証明する証拠遺跡も、その生活痕たる中国系土器も
中国系農具も何もない。
全く違う人物を魏使が勘違いしただけだろう。
だいたい太伯は当時さえ1400年くらい経っていて、魏使にとっても伝説の人物。
ありえないね。 稲作が呉のあたりから誰かが稲作を持ち込んだのが紀元前10世紀くらいだから、辻褄があってしまう。 >>331
で、呉あたりから誰かが稲作を持ち込んだ事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系農具と当時の呉あたりの中粒種のイネは?
で、呉あたりから誰かが稲作を持ち込んだと言っている頭のおかしな考古学者の
氏名と所属団体は?
. まあ、野生種の稲を栽培化して水稲水田耕作をはじめた地域が長江流域以外に有り得なくなったのはたしかではあるが。
で、陸稲の栽培が水稲からの派生しか考えられなくなったこともあるが。
日本に水田を伝えたのが長江流域から直接だったかどうかは不明なままではなかったかな >>334
頭が20年以上前で終わってる棺桶に片足突っ込んでる死にかけの爺さんか?
稲作の研究はこの10年で著しい進歩があり、日本の稲作は99.9%半島から
導入されたもので決着している。
江南が出る幕なんか、もうスズメの涙ほどもないぞ。 その当時は今の朝鮮民族はまだいなかった。
北方の扶余族は稲作なんか知らないだろう。
つまり江南の民族が楽浪を経由して持ち込んだんだろう。
結局、江南の民族または江南で稲作を学んだ漢族(太伯の後w)しかありえないではないかな。 >>336
ほう。
で、そんな狂った事を供述している頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
. >>336
少なくとも山東半島南岸までは水田文化が拡大したし、山東半島は遼東半島や韓半島と水路での交流はある
遼東半島や韓半島の北半部が水田耕作の北限を越えているからと言って、そこを経由しなかったとは言えないだろ
呉太伯の末裔説は当時の一部の人が妄想して言っただけの与太話だろ
ただし、韓半島南部で水田耕作を受容していて日本列島に伝えたという人々が倭人系(縄文人系)だった可能性もある(なんせ、半島南部に縄文系の集団が住んでいたからね) >>338
朝鮮稲作は遼東半島からのパクりだと思いますね。
なぜなら中国土ねが櫛目文土器時代から朝鮮無文土器時代を通して朝鮮半島に
ないじゃないですか。
箕子朝鮮が侵入するまで、朝鮮半島の文化は総て遼東半島からのパクりだと思いますね。 >>338
うーん、偏差値43。
朝鮮稲作は遼東半島からのパクりなだけ。
なぜなら、櫛目文土器時代から朝鮮無文土器時代を通して、生活痕たる中国土器が
朝鮮半島には全く存在しない。
箕子朝鮮が侵入するまで、朝鮮半島の文化は総て遼東半島からのパクり&コピーだと
考えられる。
で、その遼東半島からのパクりを今後は九州北部の弥生人たちがパクった。
朝鮮土器が一基しか出土していないのだから、最古水田菜畑の弥生人が朝鮮半島経由の
集団であるはずがない。
半島に縄文人の定着を証明する証拠遺跡も、その生活痕たる縄文土器もない。 >>338
うーん、偏差値43。
朝鮮稲作は遼東半島からのパクりなだけ。
なぜなら、櫛目文土器時代から朝鮮無文土器時代を通して、生活痕たる中国土器が
朝鮮半島には全く存在しない。
箕子朝鮮が侵入するまで、朝鮮半島の文化は総て遼東半島からのパクり&コピーだと
考えられる。
で、その遼東半島からのパクりを今後は九州北部の弥生人たちがパクった。
朝鮮土器が一基しか出土していないのだから、最古水田菜畑の弥生人が朝鮮半島経由の
集団であるはずがない。
半島に縄文人の定着を証明する証拠遺跡も、その生活痕たる縄文土器もない。 朝鮮半島に土器も稲作もなかった頃に朝鮮半島から稲作が伝わったっていうのは、どういう理屈なのか。 >>338
>遼東半島や韓半島の北半部が水田耕作の北限を越えているからと言って、そこを経由しなかったとは言えないだろ
苦しすぎる。
江南の民(王?太伯の後?)が遼東半島の沿岸を航海して九州北部にたどり着いたら遼東半島経由だと言い張るのか?
江南から伝わったとは言わないのか? >>343
いや、江南から韓半島南部に移住した人らと半島南部の住民(このへんは半島人じゃなく縄文系が多く住んでたはずだが)が交流したあと、世代を経てそこから(江南人じゃなく半島在来系が)稲作を伝えたとか言うロジックは否定できないっていったんだよ
江南系の文化をもった住民が日本列島に来たわけじゃないなら出土物と矛盾しないってこと >>343
で、江南の民が九州北部に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系農具は?
. 稲を積んだ舟で漂着したほんの数人
あるいはたった一人であっても
現地人に受け入れられれば稲作を伝えることは可能だったろう >>344
で、江南から韓半島南部に移住した人らを証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる江南系土器と中国系農具は?
で、半島南部の住民が縄文系である事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる縄文系土器は?
. >>346
だからそれを早く証明しろよ。
その漂着して定着した証拠遺跡と、その生活痕たる中国系土器と中国系農具と
当時の江南の中粒種のイネは?
. >>24
継体は即位前の地方豪族時代からオオド王として百済から贈り物をもらってたんだよ
そして当時は「王」は王家(後の天皇家)の姓だった
(姓と同じように、父親から受け継ぐものだった)
(つまりたとえば権力者でなくても、女性でも、「王」を名乗ってた)
「オオド王」と名乗ってた時点で王家の(地方に飛ばされた分家で、かつ5世代離れてるものの)男系の人間だから、皇位継承権がある
だからこそ百済は王家本家(雄略系)の断絶を見据えて、オオド王に贈り物を贈ったわけだ
そういう意味では王朝交代はない >>348
>当時の江南の中粒種のイネは?
江南中粒種=陸稲中粒種=縄文陸稲種=BC2000東北地方出土炭化米
江南短粒種=水稲短粒種=BC1000菜畑縄水稲種 江南短粒種=水稲短粒種=BC1000菜畑縄文水稲短粒種 >>350
で、当時の江南の中粒種のイネは?
早く証拠現物を見せてみい。
. >>352
>早く証拠現物を見せてみい。
既に河姆渡遺跡等江南で中粒米短粒米が混在して発掘されている。
灌漑設備のない時代に、中粒米と短粒米を混作すると
中粒米=陸稲種米 梅雨に水が少ない年は豊作となり、梅雨に水が多い年は不作となる。
短粒米=水稲種米 梅雨に水が多い年は豊作となり、梅雨に水が少ない年は全滅となる。
なお、米の単位耕作面積あたりの収穫量は、短粒米=水稲種米>>中粒米=陸稲種米
中粒米と短粒米を混作することにより、いかなる天候でも米収穫量は確保できる。
菜畑遺跡のような扇状地では水が常に確保できるので、多量収穫の短粒米=水稲種米の栽培だけでよい。
中粒米=陸稲種米の栽培は不用。 >>353
初めて稲作するのに何で短粒種だけで良いと知ってるの?
おかしいじゃないか。
だいたい倭に稲作がないって何で分かったの?
その前に海の向こうに倭があるって何で分かったの? >>353
で、菜畑遺跡で出土した中国系耕作用農具は? それよりも
琉球王国だよ、確実にあった、実在していた 琉球は稲作を導入しやがったんじゃなかったかな。
だから弥生時代そのものがなかったはず。 >>355
>菜畑遺跡で出土した中国系耕作用農具は?
菜畑遺跡では水稲短粒種を広さ10畳程の水田で栽培していたから、
稲陸中粒種耕作用の中国系畑作用農具は使わない。
>>354
>初めて稲作するのに何で短粒種だけで良いと知ってるの?
菜畑遺跡のような扇状地の水利の良い水田で水稲短粒種を栽培すれば、
畑作の稲陸中粒種より数倍の収穫がある。 偶然、テレビから聞こえてきたんだけど、
気分が悪くなって入院にした、若島津?
むかーし島津という名前の同級生がいたような気がする、
たしか気分が悪くなって、学校の近所にある、病院に入院したの
給食を食べた後だったかな?気分が悪くなったんだよ、
給食の前の運動の時間?たしか鉄棒のようなところに頭をぶつけて・・・
ジャングルジムだったかな ただ島津という名前なだけで、
先祖が、そっちのほうから来たのか、どうかは?
もれ(仮)には、わからない >>363
じゃあ、江南では水田にどんな耕作用農具を使ったんだ?
で、初めて稲作するのに何でそれが分かるんだよ?
. 石包丁は
江南のものが九州を素通りして
唐古・鍵遺跡から出てるんだってね
不思議だねぇ。 熊本からは石包丁型の鉄包丁ってのが
出土してるな。
オリジナルの創作の萌芽期のようで
興味深い。 >>367
>江南では水田にどんな耕作用農具を使ったんだ?
江南では陸稲中粒種と水稲短粒種の混作であるから畑耕作用農具しか使わない。
水田耕作用農具は不必要。
梅雨に十分な降雨があれば水田となり水稲短粒種が育つ。
梅雨に降雨が不足すれば畑となり陸稲中粒種が育つ。
水稲短粒種か陸稲中粒種かどちらの収穫になるかは天候まかせ。
>初めて稲作するのに何でそれが分かるんだよ?
文意不明。
それ は何を指すの? >>372
で、最古水田菜畑から出土したその江南の畑耕作用農具は?
. >>372
うまいやり方だよね。
日本みたいにカレンダーと降雨の関係が安定してないならその方がいいものね。 >>372
江南の稲作は畑作じゃなく水田だぞ
農具も当然、その作付方法に合うものしか使えない
なぜ畑作用農具を使うんだよ、おかしいだろ >>372
>梅雨に十分な降雨があれば水田となり水稲短粒種が育つ。
>水稲短粒種か陸稲中粒種かどちらの収穫になるかは天候まかせ。
バカ言うな。
そんなことに生活をかけられるものか。
九州に上陸した瞬間にはすでに水田の灌漑の仕組みも上陸している。 少なくとも江南での初期水田は自然沼沢地を利用した水田で区画整理も灌漑も未発達だから丸かったりひょうたん型だったりの不定形水田だな
日本列島に渡来した時点では相当規模の区画整理や灌漑の技術を随伴してるから自然水田ではなくなってたよ
渡来当初から水田は区画化されている。
ただ、初期の水田は米穀の収穫物よりか藁などの副産物の方が目当てだった可能性さえ想定されるほどに収量が低かった模様。
そででさえヒエやアワの畑作を下回るほど低くはないが。 唐津の菜畑遺跡だと
川沿いの低湿地地帯を利用してたから
川沿いに細長くなってるね。 川から水を汲み上げるのも大変だから
川の水面に近い高さのところを
利用しているが、その分適地が少ないわけだ。
筑後川沿いの農地は水面から1〜2m高いけど
広大な平地の筑紫平野では、
もっと高い標高の水を引ける地点が遠いから
三連水車など、組み上げる工夫が必要になる。 弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水を無視してはだめですよ。
灌漑水田稲作は壊滅です。
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で大柿遺跡の棚田がみられるが、縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせるらしい。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。 @阿波 >>377
渡来してませんので。
最古水田菜畑の弥生人たちは中国土器も朝鮮土器も一つも作ってませんので。
搬入した朝鮮無文土器の壺が一基出土しただけ。
稲作は朝鮮南部からパクっただけ。
渡来したのはその50年以上前の山陰あたりだと、弥生開始土器は語る。 どこから経由したにせよ日本に渡来はした
そして、その時点では「相当規模の区画整理や灌漑の技術を随伴してるから自然水田ではなくなってたよ
渡来当初から水田は区画化されている。」
と読むことすらできないのか、どれだけ頭が堅かったらそのようなレスになるかも理解できないよ >>375
>江南の稲作は畑作じゃなく水田だぞ
>農具も当然、その作付方法に合うものしか使えない
>なぜ畑作用農具を使うんだよ、おかしいだろ
江南の稲作は、水田の水稲短粒種と畑の陸稲中粒種の混作である。
江南で出土した農具は固い地面を耕す畑作用の石鋤である。
畑を石鋤で耕し、水稲短粒種と陸稲中粒種の種を植える。
畑は多雨になれば水田となり水稲短粒種が育つ。
少雨であれば畑となり陸稲中粒種が育ち、多収穫の水稲短粒種はほぼ全滅。
水稲短粒種の原産地(発生地)は長江中流流域の湖南省と推定されている。 >>382
その場合、渡来という言葉じゃなくて、導入か取り入れたという言葉だろ。
導入当初から水田は区画化されている、なら理解できる。
九州北部の弥生人たちは頻繁に半島南部を訪れていたから、訪れるたびに技術や
ノウハウが蓄積していき、最古水田菜畑は完成しただけ。
弥生人の渡来とは全然関係がない。
弥生人の渡来はその50年以上前の山陰あたり。
九州北部の黒川式縄文土器が山陰方面から入ってきた刻目突帯文土器を持った
沿海州系の渡来人に乗っ取られて、その渡来人が半島南部から稲作をパクってきて
弥生時代は幕開けする。 >>383
違うだろ。
弥生開始と同期する江南の地面を耕す農具は石耜。
そのまんま石刃のスキの事。
石鋤は石刃で地面を引き削って除草する除草用の農具で、日本には
伝わっていない。
最古水田菜畑には両方とも伝わっていない。
出土した耕作用農具は木製のクワとエブリだけで、これらは当時の江南にはない農具。
しかも最古水田菜畑にはスキがなかったのである。
スキが伝わったのはそれから200年以上経ってからで、やはり木製であった。
江南の耕作用農具である石耜も石鋤も日本には永遠に伝わる事はなかったのである。 縄文末期〜弥生初期までの時期で長江流域の文化ってえと呉城文化(紀元前1400年? - 紀元前1000年?)あたりか?
その地域は日本列島よりひとあしふたあし早く青銅器時代に入ってて、弥生初期になる前に衰退しつつあったっぽいとこなんだよな
文明的ピーク期が日本列島の縄文中期と前後する感じ >>386
呉城文化期で正しい。
しかもBC10Cの弥生開始時と同期する江南の土器は全体の1割ほどが
既に原始磁器であり、もう土器時代ではなく、陶磁器時代に入っていたのである。
炊飯器は鼎と鬲の両方があったが、鼎の方が江南では優勢だった。
その後、越式鼎という足の長い鼎が名物になり、句呉でも使われていた。
壺には大きな双耳が付き、持ち運びに便利になっていた。
飲酒も盛んで、様々な酒器があった。
鳥形三足酒器のキ、ラッパ形酒器の尊、酒甕の罍など、見たことも聞いたこともない、
まるで宇宙人の創造物かのごとき飲食器であふれていた。
我が国の弥生時代にはそれら江南の先進文物が微塵も伝わらず、
壺も持たない全く原始的な沿海州系の土器が伝わる事で我々の弥生時代は
幕開けしたのである。 >>387
>壺も持たない全く原始的な沿海州系の土器が伝わる事で我々の弥生時代は
幕開けしたのである。
チョンのごとき嘘でたらめ書くな。
土器の伝わる方向が逆だ。
17000年の歴史を持つ縄文土器が沿海州に伝わったのである。 >>388
台湾ブタ広鼻 亜熱帯形質 ハナノアナガヨクミエル 巨大タラコ唇ピーデの
ごとき嘘デタラメ書くな。
青森の土器は16000年前だろ。
アムール川下流域あたりでも16000年前の土器が出土している。
土器技術はアムール川下流域あたりで出現したと考えるのが妥当。
沿海州でもガーシャ遺跡の土器は炭素測定で約13000年前のものという結果。
ユー、 ハノイ!wwwwwwwwwwwww
. 全ての国に王がいて、全ての王を統括するのが大王(後に天皇表記)っていう構図 >>389
日本産の黒曜石の石器がアムール川流域で発掘されてるから
土器も同様に日本→アムールだよ 17000年〜20000年前に東日本の火山地帯で発生した縄文土器が
黒曜石と同様に北海道を経由してアムール川流域沿海州に伝わった。
細石刃はアムール川流域→北海道東日本への流れ。 土器の伝播と言っても最初から縄文土器作家は居たわけで
流行が弥生式になったのは生活の変化が要因だろ。
採集の原始共産制から貯蔵や売買が可能な穀物が主食になって
それ用の鍋と釜や貯蔵具や食器が普及した。
縄文文化と言っても皮革、布、農具、黒曜石、翡翠宝飾、塩の流通は有った訳で
土器だって地域的としても商品だったはずである。
弥生文化を稲作と渡来人のセットで捉えても
稲作不適地にも弥生文化は浸透している。
関西で銅鐸祭祀、以降関東に大和朝廷、
国家形成に渡来人がどんだけ役に立ったかはしれている。
DNA解析の結果は方法論的にもまだちゃんと出ているとは言えない。
って、言うか結果ありきで作為的だろ?
ネットでミスリードのアラシやってるやつって・・・
相手スンナwww >>391
そんな詐欺を働いている考古学者はいない。
ユー、 プノンペンブラック!プノンペンブラック!wwwwwwwwwwwwwwwwww
with ブタ広鼻wwww >>393
そんな見え透いた詐欺を働いている考古学者なんか居ない。
あなたは台湾ブタ広鼻 亜熱帯形質 ブタチック半黒人wwwwwwwwwwwwwwww この辺りに住んでいるはず
『川崎区 桜本 島津』
近(遠い)親者だったのかな、
少なからず、ゆかりがあるんだと思う
島津という名前を知らないと付けられないし、
島津氏のことを知っているという意味でしょ 検索しても出ないようになっているのかな?
何度(再度読み込み)も検索すると・・・出て来た どうなっているんだろう
ここでもライオンズ?の話が出てきたり、
それとも検索結果が表示(反映)されない?
http://www.google.co.jp/search?q=%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E5%8C%BA+%E6%A1%9C%E6%9C%AC+%E5%B3%B6%E6%B4%A5&hl=ja&ei=zUM_WqvoIsOt0gSL76OACw&start=0&sa=N&biw=1093&bih=530 羽地?というのも、
いたような気がするんだけど、琉球関係?
字が違ったかな? >>397
古代の一大豪族、シマ氏族。
蘇我氏や島津氏はその末流?
島。洲。嶌。嶋。縞。
志麻。 志摩。志満。志麿、、、
司馬(シマ/シバ)。芝。柴。斯波。紫波。司波。志波 ってか1万2千年前までは、日本列島と大陸は陸続きだから
日本海は巨大な湖と考えて
日本海沿岸部は全て同一文化圏と考えた方が良いかもね Wikiみるとそれほど与太話って感じではないな。
説唱えた人も親鸞研究とかで実績ある人みたいだし。
壬申の乱が九州で起きてたってのは根拠あるのかな? >>406
これがヨタ話に見えなかったら、金星人もムー大陸も素直に信じられる 九州説の立場だが、さすがに壬申の乱が九州の中だけというのはその後の歴史と繋がらないから信頼できない。 九州王朝が白村江で大敗北して
大津近江京へ疎開。
畿内地元民がいい具合に統治してたところへ
上位の統治者とは言え、九州王朝が
負けて兵も少ない状況なのに、
入り込んできて偉そうにしてたのが
面白くないのは当然で、
大津近江京でクーデター。
しばらくは九州王朝の政治形式を引き継いできたが
九州年号大化(695〜700)に
政治形式を一新。大化の改新である。
これを期に九州王朝から大和朝廷に移行する。
年号も九州年号から大和朝廷の年号に変わり
中国の政権交代に習って、
記紀などの歴史書を編纂する。 じゃあ、蘇我氏が九州王朝?
壬申の乱が切り替えで、中大兄が九州王朝の方が無理が少なくない? 天智天皇は太宰府で水城を作ったりして
北部九州での事跡が多いからね。
ただ、壬申の乱自体は近江京で出来事で
九州ではないだろう。 >>410
>じゃあ、蘇我氏が九州王朝?
蘇我氏は、九州王朝の弟王(法皇・統治軍事外交を司る実務王)
参考 九州王朝の兄王(天皇・祭祀王)
天皇・祭祀王:卑弥呼、壹与、持統天皇、薩末比売
法皇・実務王:委奴國王、帥升、(卑弥呼の)男弟佐治國、難升米、倭王旨、讃、珍、済、
興、武、筑紫君磐井、多利思北孤、筑紫君薩夜麻、中大兄(天智)、大海人(天武) 兄弟統治はいいのだけれど、挙げられている人命の兄と弟の分類にはいろいろ疑問を感じるよ。 >>406
【壬申の乱】は
大友皇子軍の淡海の大津宮=阿波吉野川下流域北岸の鳴門市大津町木津
大海人皇子軍の吉野宮=吉野川上流域北岸の三好郡三野町加茂宮
が武天皇紀の戦闘記事である、本来の壬申の乱の舞台なのである。 @阿波
【天武天皇紀に記される地名が阿波吉野川北岸の地名にはっきり残っている】
⚫︎粟津:鳴門市里浦町粟津
⚫︎大津宮:鳴門市撫養町木津、鳴門市大津町木津野
⚫︎菟田(うだ):板野郡土成町鵜田尾(うのたお)
⚫︎鈴鹿:板野郡土成町樫原を流れる鈴川(すずかわ)
⚫︎桑名:板野郡土成町と阿波市市場町の境 九王野(山)
⚫︎安八麿(あちはま):阿波市市場町粟島(あわしま)
⚫︎大野:阿波市市場町大野
⚫︎尾張:阿波市市場町尾開(おばり)
⚫︎倭京:阿波市市場町奈良坂(若宮皇太神宮)
⚫︎不破道:阿波市市場町大門から讃岐に通じる奈良街道
⚫︎乃楽山(ならやま):阿波市市場町奈良街道沿い城王山(旧名 奈良山)
⚫︎美濃:三好郡三野町
⚫︎伊勢:阿波市阿波町伊勢
⚫︎高安城(たかやすのき):美馬市脇町の大滝山
⚫︎吉野宮:三好郡三野町加茂野宮 >>415
>兄弟統治はいいのだけれど、挙げられている人命の兄と弟の分類にはいろいろ疑問を感じるよ。
女性の兄王(天皇・祭祀王) は問題ないでしょう。
男性の弟王(法皇・統治軍事外交を司る実務王) については詰めが不足しています。
軍事外交の記録のない王である「委奴國王」、「倭王旨」等については疑問の余地があります。
蘇我氏については各個人毎に検討する必要があります。 >>418
>蘇我氏については各個人毎に検討する必要があります。
蘇我氏の本拠地:徳島県石井町の曽我氏神社古墳群
先日のNHKでは、方墳は飛鳥時代蘇我稲目の都塚古墳から突然始まると放送されていたが
蘇我氏の本拠地とされる徳島県石井町の曽我氏神社古墳群にはそれに先立ち、古墳時代前期に既に10m×12mの方墳(2号墳)が確認されている。
このことから、方墳墓は蘇我氏一族専用の墓型であった可能性が高い。
また、同じ石井町には奈良の大和朝廷に先行すると思われる白鳳寺院跡および白鳳瓦窯跡が確認されている。
他にも吉野川中流域の美馬町・川島町にも白鳳寺院跡が存在する。
これらも阿波国内で頭角を現した有力豪族、蘇我氏に由来するものであろう。 @阿波 倭の五王の中には兄弟関係も明記してあるし。
中大兄とあって弟とか言われましても。 >>420
>倭の五王の中には兄弟関係も明記してあるし。
>中大兄とあって弟とか言われましても。
「兄弟統治」である「兄王」「弟王」は肉親の兄弟関係を指すものではありません。
随書に言う「開皇二十年 俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言
俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟
高祖曰此大無義理 於是訓令改之」の
「以天為兄以日為弟」で意味する「兄」と「弟」です。
「兄王」は「天王・天皇」、「弟王」は「日王・日皇」とも言えます。
「兄弟統治」は「天日統治」とも言えます。
チョンが「天皇」のことを「日王」と言うのは、
外交をする「弟王」を外交をしない「天皇」と勘違いしているものと見做せます。
日本では現代に至るまで「兄弟統治」が切れることなく続いているのです。 「兄弟統治」「天日統治」は、二元統治体制を表す言葉です。
兄王 天王・・・・天皇
弟王 日王・・・・内閣総理大臣・征夷大将軍・関白・執権・摂政・太政大臣 ある程度、実際の兄弟関係を反映しているんじゃないか?
はじめは兄が天皇で、弟が天皇になると兄は法皇となり政治から手を引くみたいな。
そうしないとつじつまが合わない。 >>424
兄王・・天王・・天皇(神職)
弟王・・日王・・法皇(仏徒) 例:阿毎多利思北孤 持統天皇より前には生前退位の記録はないだろ
退位して法王とか妄想をたくましくしすぎだな 退位じゃないんですよ。
わかりやすく説明しているだけで。 >>426
>タリシヒコが兄王で祭祀専門だと隋書に。
随書では、多利思北孤は、隋と外交交渉をし、軍を以て隋使の歓迎をしていますから、弟王です。
兄王は夜に祭祀し、弟王は昼に外交軍事等の世俗実務政治をするとなっています。 >>426
それは弟に王位継承争いに負けた兄が負け惜しみで言っただけだからな
アマタリシヒコは王位継承の負けを認めることができず中国を味方につけようと部下を中国に派遣した
部下は仕方なく中国に行ったが、王の名前を聞かれて真実(真の王の名)を言うことも嘘(自分を派遣した人間の名)を言うこともできず、
「アマタリシヒコです」と言ってごまかしたわけだ 正確に言うと弟の娘(推古)だな
アマタリシヒコからしたら姪だよ
アマタリシヒコの正体わかっただろ? >>430
神武の息子たちは兄弟相続で弟が政治を取るし、海幸山幸、邇邇芸と饒速日など、末の弟が家督を相続することが多い。
それも兄弟の役割分担の結果なのではないか。 >>431
畿内説には相当不利だから認めたくないだろうな。 >>434
語源は同じだけれど、歴代天皇にタリシヒコという諡号は7人もいるので、それでいいと思う。 戦国時代みたいに朝廷の影響力が地方に及んでなかったって考えられない?
東北とかにも大名みたいなのがいたんじゃないかな? 『御代院』
寺院に通っていたんだよ
と言っていたり 電気(発電)を起こしていたとか、
近所の人から何々様なんて言われたりしていた
と言っていたり
何だったんだろう キュウリの葉、葱の華・・・
などの写っている写真があるでしょ、その家の話
「すがの」だと言っていたり どのスレだったか覚えていないんだけど、
このような事を言っている人がいた
本家のような家があったとか、
明治頃?名字が必要になり、
近所に住んでいる人たちは皆、同じような家名を名乗った
本家のような家があり
私の名前を名乗りなさいとか、
ということは、どこかに本家があるはず
もしかして、あの写真の家?
家なんだけど >>1
そこが面白いんじゃないか。古代はわからないことだらけだから、
自分なりに線引きして、トンデモとトンデモでないを峻別すればいい。
大まかに言えば、自己主張の強い仮説はトンデモが多い。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
M88E8 九州って平安時代田舎扱いみたいな感じなのも謎なんだよな。 史実の神武天皇を抹殺した津田“記紀罵り史学”の弟子達
──真赤な“嘘と偽造の古代史”を粉砕し、赤い古代史を粉砕しよう
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2018/02/08/133547
筑波大学名誉教授 中 川 八 洋
津田史学の継承者は全員、津田と異なって、共産党員や狂信的なコミュニストばかりで例外はゼロ
津田“記紀罵り史学”の嫡流的な直系弟子は、具に調査すると十名をはるかに超える。
後世への悪影響が大きかった者に限定すると、井上光貞、直木孝次郎、水野祐、上田正昭の四名が、その筆頭
津田史学を活用して天皇制廃止運動とカネ稼ぎに没頭した江上波夫は、津田史学の直系弟子ではなく、津田史学の便乗組。
今では一笑に付されて誰も信じない荒唐無稽な三文小説扱いになった、江上波夫の“お笑い狂説”「騎馬民族征服王朝説」をとりあげる。
「騎馬民族征服王朝説」を妄想した江上波夫の頭の中は、簡単に言えば、こうだ。津田左右吉の妄説「日本の大和朝廷は、崇神天皇でもって、突然に畿内とその周辺に誕生したのであって、
それ以前の天皇は神話にすぎず歴史上には実在しない」に従えば、崇神天皇は日本の外からやってきたことにすれば、話の筋が通るではないか。
これが、「そうだ一発、有名人になって金儲けしよう」とばかり、
「他の日本国内のミニ国家群に比すれば強大な武力を初めて保有する崇神天皇は朝鮮半島の《任那》に造営した宮城から日本に渡り九州を征服した」との荒唐無稽で耳目を引く
デッチアゲ嘘歴史を、江上が捏造した動機であった。
江上は、この嘘フィックションに続けて、第二の嘘フィックション「畿内制覇は、応神天皇がなした」を嘯き強弁する。
つまり、天皇による日本統治は、外来民族である天皇族(=天神あまつかみ族)が、九州と畿内を二段階で征服して始まったとの、“妄想も度外れの反・歴史”。
だが、ここで一つだけ喚起しておきたい事柄がある。
江上波夫は、北朝鮮の金日成に四回も直接会いに行ったように、金日成崇拝の“北朝鮮の犬”であった。 >>448-449
遣唐使とかで国際交流があった時期は僻地あつかいじゃないだろ
そのあと、異国船を追い返すようになってから僻地あつかいに変わっていく感じじゃなかったか いや、これ唱えてるやつ頭悪い
理由は中国の公孫氏や卑弥呼あたりの周辺事情を全く考えないただの戦後の「反日天皇侮辱説」としての強弁にしかなってない
理論じゃなく一個一個の主張が強弁にしかなってない
もっといえばこれを主張する連中はただのアンチで、考古学的、歴史学的思考ができない
普通に平行的な学力ないやつが主張する馬鹿を騙す強弁で、むしろ今日の考古学的検知で成立しない
論理の破綻した侮日説にしかなってない。
@主張は白村江配線までは九州王朝の歴史で、以後壬申の乱で大和王朝がいれかわったとかいう「トンデモ」説
A主張の一つ一つがあまりにも考古的検知に基づかず、むしろ日本書紀の考古的合致性がでてくるのに
「強弁否定」で証拠性を無視
B王朝塗り替え説が成立しうる科学根拠性がない。単にちょっとの思考力があれば「古い時代の小さな資料矛盾」は記録と確認の不確実でおこるむしろ世界中の当たり前
なのにその当たり前をみれば矛盾→批判→突飛理論→世間の関心で金を儲けたい心理で嘘を唱える狂人にすぎない
この主張者らは左翼、まおいすとらと同様のただの敗北主義反戦安置暴力主義者にすぎない
理論ですらない 【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。
671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。 https://gigazine.net/news/20180306-fake-news-hard-to-correct/
「フェイクニュース」によって生まれた誤った認識は認知能力が高くなければ正すことが難しい
って話が出てきたが、いまどき古田説を信仰してる人らも「誤った認識を正すことができない人」の類型のひとつだな
ちゃんとしてるヒトは古田説を見限って去っちゃってるよ。 ではなぜ唐は都督府を大和ではなく筑紫に置いたのか。
その時点で筑紫が倭の中心と見ていたからではないのか。
畿内説の主張は、史書の記事と矛盾が多い。 そもそも筑紫の都督府を置いたのが唐と決め込む根拠すら示さないで決めつけるなよ 百済、倭など敗戦国に順に置いたんだよ。
日本側が主体ならそんなことにはならない。 wiki 熊津都督府
熊津都督府(ゆうしんととくふ)は、唐が百済を滅ぼした後、現在の忠清南道に相当する百済旧域の管理を目的に設置した植民地。
唐が高句麗と百済を滅ぼした後、旧高句麗領を安東都護府、旧百済領を熊津都督府、新羅も藩属国から鶏林州都督府へ切り替え、
半島全域を羈縻州としたため、一時的に朝鮮半島から国はなくなった。
で、ほぼ同時に敗戦国である筑紫都督府も置かれたわけだけど、これでどうして日本側が設置したと思えるんだい?
そもそも都督は中国皇帝が任命する官位だし。 >これでどうして日本側が設置したと思えるんだい?
倭の五王が都督府を自称していたのだから
その頃から都督府と自称していたのだろうから。 実際には倭の五王の都督は認められず、倭の敗北後に都督が置かれたのだから、皮肉なもんだ。 >>460
実際には認められているね
五王全員が都督と叙任されているのだから
あんたの説は大崩壊 太宰率(の前身である筑紫率、筑紫大宰や筑紫総領なども?)の「唐名」として都督と呼んでる史実があるので、地方官たる太宰府のことを「唐名」筑紫都督府と呼んだことがあってもおかしくない。
唐から日本列島側に来た兵員数では桁違いに少なすぎて占領とか役所設置とかできるはずがないし、表記ゆれとしか思えないね
>日本側が主体ならそんなことにはならない。
という理屈は成立しないので、依然として「不明」のままだよ 使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王
倭はいいとして
百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
まで含まれると日本人以外のある国の人にとっては発狂もの
つまりはそういうこと
>>458 奈良時代以降は筑紫率は日本側が置いた地方官だろう。
ただ、東アジアのグローバルな状況を見れば、白村江直後の筑紫都督府は唐が置いたとしか考えられない。
そもそも都督は列島と半島の支配者として倭の五王が名乗っていたわけで、唐から見れば地方官だが極東のトップの地位になる。
それを都督は地方官などと言って矮小化するから誤解を生む。 東アジアのグローバルな状況を見れば、筑紫都督府は唐が置いたとは考えられない。
白村江の後も、高句麗やら西方やらで唐は大規模戦争の連続で、
はるか日本へ占領軍を派遣する余裕など皆無。
そして文献にも記載は皆無。
>>464
日本人じゃない人、お疲れ様です! 率と帥は同じ意味で発音も同じ。
邪馬台国時代に伊都国に置かれていた大率も、倭国の中の地方官ではなく、倭国の女王(引きこもり卑弥呼)に次ぐ実権を持っていた。
つまり大率が置かれた伊都国が倭国の中心であった。
中国から見れば、筑紫が一貫して倭の都だった。 >>465
>そして文献にも記載は皆無。
筑紫に二千人の人員が派遣されたことは文献にあるよ。 日本人じゃない詐欺師の人がんばるねーw
卑弥呼邪馬台国に始まる
筑紫の支配者を蹴落としたくて蹴落としたくて必死なんだろうねw すでに降伏した敗戦国に行政府を置くなら、二千人は十分な数だろう。
その後は唐にべったりとしてマメマメしく遣唐使を送るようになるわけだし。 >>473
降伏したという証拠は?
なんか城とか一杯作ってるんだけど?
降伏したならそんな国家事業やらないよね?
行政府の長官の名前は残っているのかな?
日本人じゃない人に聞いていいのだろうかw 思いっきり広く考えれば、後漢に朝貢した帥升、邪馬台国時代の大率、筑紫帥まで筑紫倭国の事実上のトップの称号なんだよ。
奈良時代以降は太宰帥は九州の行政官としての名称になったけれど、それは倭国が九州であった枠組みがスライドしただけ。 (唐)の「都督府」とは、(唐)の本土と外蕃の直轄地に置かれた役所で、「都督」は県知事のような もの、同時に軍の長官でもありました。
「都護府」は、外蕃の占領地に置かれた「都督府」であると同 時に、「都護」は何カ所かの外蕃の「都督府」の「都督」を統括する一段上の長官です。
(百済)・(筑 紫)・(新羅)に置かれた「都督府」は、(高句麗)の平城に置かれた「安東都護府」の「都護」の管轄下 に置かれたのです。
「都護府」は(唐)の東西南北の外蕃に置かれ、朝鮮半島に「安東都護府」が置かれたと同時 に、ベトナムに「安南都護府」、タリム盆地に「安西大都護府」、外モンゴルに「安北大都護府」が 置かれています。
西と北の都護府には、「大」の字が被せられ、西洋に通じる「西」と、北方遊牧 騎馬民族に対する「北」が重視され、規模も大きかったことが窺えます。
なお、遣唐使として(唐)に渡った阿部仲麻呂は、中国人に交じって「科挙」の試験を受けて合 格して唐の官吏になり、後年、「安南都護」に就任しています。
(高句麗)・(百済)の王と(倭の五 王)は、「都督」の称号を与えられていますから、仲麻呂は(唐)でその一段上の地位にまで昇進 したのです。 >>473
倭国がわは遠征軍が敗退しただけで防衛能力を失うほどではないよ
現に、かなりの規模で防衛体勢をととのえてる
高句麗討伐と同等以上の大規模遠征でもしないと、
つまり何十万もの大軍を送らないと占領なんて無理 >>477
高句麗遠征は列島倭国じゃないだろ?
あの時代の技術力考えると、あの規模はムリ >>480
占領するにはそれぐらいの大軍が必要だろうってこと。もちろんそんなの不可能だろうがな
つまり唐の軍事力では倭国の占領は不可能ってこと。
筑紫に都督府を設置するほどの軍事力は唐にはない 大体だなあ、「唐帝国は筑紫都督府を設置した」なる記述が、大唐帝国側の政治記録や歴史書にあるのか?
この説、もう根本がダメよな。 >>481
敗戦国が防衛も何もない
戦勝国を筑紫に受け入れただけじゃん >>483
遠征部隊が壊滅しただけで防衛部隊がないわけじゃないから抵抗は十分可能だぞ 筑紫君はちほうごうぞくにすぎず、倭王ではないから問題なく防衛できる 実際には防衛などせず、唐に尻尾を振って遣唐使を派遣したんだよ。 >>480
>高句麗遠征は列島倭国じゃないだろ?
>あの時代の技術力考えると、あの規模はムリ
高句麗遠征は半島南岸多島海地域にいた倭人が半島西岸を渡海して仕掛けた。 >>481
占領はされてないけど戦争に負けて
倭王が唐の都督になったて倭の王都が都督府になったんだろう。 >>489
>>>480
>>高句麗遠征は列島倭国じゃないだろ?
>>あの時代の技術力考えると、あの規模はムリ
>高句麗遠征は半島南岸多島海地域にいた倭人が半島西岸を渡海して仕掛けた。
その通り。
「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里有」魏志韓伝
朝鮮半島南岸多島海地域は、倭と書いてあるよね。 >>493
倭人は、対馬海峡の南北両岸に住んでいたと書いてあるのです。 >>1
そんなのが本当にありゃそもそも日本側に伝承や記録が残されるわな 書いてあるよ。
記紀の神代の都は筑紫の日向の高千穂宮だよ。 >>495
九州王朝は西暦700年に畿内王朝に滅ぼされたので、
断片的な記録しか残っておりません。
記紀では「一書」としてその存在が窺がわれるだけです。 纏向遺跡で2〜3世紀頃の桃の種がたくさん出土したことで遺跡の年代に対する疑義は終わってしまったな
古田説信者たちの言う巻向新しい説は結局は虚報だったわけだ 古い桃の種を100年寝かせてから埋めたのかもしれないだろ 腐りやすい果物の代表格である桃を保存するとか、あり得ないから って、果物部分じゃなく種を保存か
動機さえ示せたら、空想の余地があると認めなくはないな せめて、魏志倭人伝に記録されている鉄鏃とか絹とか鏡とか朱が纏向遺跡から出てこないとな。
何一つ邪馬台国らしいものがないからな。
桃の種が出ても、邪馬台国と関係ない建物があったのかな、くらいの話。 >>1000
>なんかまた政治思想的な色メガネだろ<
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、また、
なんかまた「国粋皇国史観国家」狂の、
政治宗教的な色メガネなんだろ。 絹みたいな高級品(当時)は、王墓とか豪族墓の墓室ぐらいじゃないと、まず出てこない
巻向含め畿内の主要な王墓はたいてい宮内庁が立入規制してて発掘不能だから、絹が埋まってても見つからない。
>>506
文献に書かれていることが間違ってるはずがないと決めつけなかったらお前さんのような論法は成立しないよ
間違いを含まない可能性がゼロである以上、お前さんの論が正しい可能性もゼロだ >>507
九州であちこち見つかっているものを、同時代の奈良盆地では見つからないわけだけどね。 >>507
>間違いを含まない可能性がゼロである以上、お前さんの論が正しい可能性もゼロだ
論理学を理解しないバカ 情報に間違いが含まれていることを許容してるなら、「矛盾するから間違い」という論法は使えないだろ
畿内説の人は(一部例外もいるのかもしれんけど)矛盾という言葉を用いないよ 畿内説だと...
大国主 そんな人はいません、ただの伝説です
アマテラス そんな人はいません、ただの伝説です
ニニギ そんな人はいません、ただの伝説です
木花咲耶姫 そんな人はいません、ただの伝説です
神武 そんな人はいません、畿内王権は自然発生したのであり、筑紫から流入した勢力などありません
卑弥呼 そんな人はいません、実は◯◯姫で、王宮は纒向4棟だけです
九州説だと...
大国主 筑紫の前の倭王です
ニニギ 倭国の王都を筑紫伊都に定めた倭王です
木花咲耶姫 三雲南小路遺跡にニニギとともに葬られた王妃です
神武 筑紫を出て大和に入りました
卑弥呼 筑紫の日向の伊都でクジフル山に高千穂宮の楼閣高くして千人の奴婢が使え、太陽を象徴する史上最大の「八咫鏡」を持ち、その墓は伊都国代々の王家と同じ方形周溝墓であり古代神道の成立を示す鳥居に守られていました
どっちを信じる? そりゃ九州説ですね。
本当に畿内説がそうなら?
やる気のなさに呆れてしまいます。 アマテラスを忘れてました。
アマテラス 卑弥呼がモデルです(八咫鏡つながりです) >>511-512
相変わらずお前らは誹謗と中傷しかしないんだな 市民運動で自説を押し通そうとしたり、怒濤の多連続投稿で反論を押し流そうとしたり、自分が言いたいことを押し通すために関連スレをたくさん作ったり、やりたい放題ですな。九州信者って 畿内説は誹謗中傷ばかりしてないで、自分たちの説を補強したら?
ああ、そうしたくても材料がないのか。 もともとは邪馬台国九州説は皇国史観の一部分を占める学説だったんだが、
それを焼き直した古田の説は日本の古代国家による列島統一が韓半島での統一国家出現より後になるという側面からだろうか、
韓人の支持を受けやすい側面をあわせ持ってたわけだよな
その影響で皇国史観派から攻撃されたことでもあったのかして、やたら皇国史観に対する敵愾心が強いけど、
元々の皇国史観は邪馬台国畿内説ではないからな。皇国史観は、あくまでも邪馬台国九州説だよ もともととかはどうでもいい。
現在の九州説は、魏志倭人伝の解釈と考古学的な考察によっている。
政治的に歴史を歪めようとしているのは畿内説。 + パヨク +
+ / ヽ_, ,_l ヽ +
パヨチ━━━//゚\ ll /゚\\━━━ン!!!! あれだけ九州王朝ガーで騒いだから
+ /:::::⌒(__人__)⌒:::::\ + 日本史の定説になること間違いなしwww
< ヽ \r┬ヽ、 / >
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|奇痴害陰謀論イラネ | ノ ノ _/ ツ !
\从从从人从入从,/ 。 , ━━┓┃┃
ノ (;;゚ ) ( ゚;;)\ 。 ゚ ┃ ━━━━━━━━
/ ⌒゙ ( o_o )⌒≦ , ・ '。゚ 。 ┃ ┃┃┃
\ ゝ'゚ ≦ ゚ 。 ゚ ┛
ノ ゚ ヾ'゚ ≦ 三 _ ゚
/´ 。 ≧ 三 =- 九州王朝説の方が考古学的考察に合うとか言ってたのは80年代のことで、90年代以後の考古学では九州王朝に否定的な研究ばかり出てくるからなあ 考古学的に郡評とか九州王朝説とドンピシャなんですけどね。 郡評論争って、論争が始まる前には評の存在すら知られてないし、論争開始後は二択か三択のどれをとるか程度しか予想しようがないシロモノだから、
明らかに門外漢だった古田でも偶然の一致程度の予想は可能だっただろ、たまたま当たった程度だぞ。そんなエセ「ドンピシャ」で誇ってるとか、ザコ過ぎる >>527
負け犬の遠吠えにしか聞こえない。
何も証明できてない。 お前さんが例に挙げた郡評論争で古田は論証してたかね、自力で物証を出せる手段など持ってなかった古田が。 >>527
>郡評論争って、論争が始まる前には評の存在すら知られてないし、論争開始後は二択か三択のどれをとるか程度しか予想しようがないシロモノだから、
何が悪いんだ?
言いたいことがよくわからないな。
古田を妬んでいるのか? つか、ここって九州王朝説信者が論拠を述べない間は雑談しかできないんじゃないの
結論連呼しかできなくて論拠を説明できないザコ信者では何もできないな 太宰府で発見された695年の戸籍木簡の地名では、
大和朝廷が制定した郡じゃなくて
評で書かれてたんだよね。 白村江から大宝律令までの期間こそ古代史の最大の闇かも知れないね。
筑紫にあった倭国の存在を隠し通すこと、それが歴史改竄の主軸となったのだろう。 >>534
>筑紫にあった倭国の存在を隠し通すこと、それが歴史改竄の主軸となったのだろう。
そんなアホなw
奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
徳島県国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀末頃に阿波から奈良へ遷都(持統朝)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354
http://awakouko.info/modules/webphoto/index.php/photo/203/
http://www.geocities.jp/yasuko8787/kannonzi.htm
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 長崎県壱岐市のカラカミ遺跡で、漢字の「周」の左半分が刻まれた弥生時代後期の土器片が見つかり、市教育委員会が10日までに発表した。
漢字が記された史料は福岡市の志賀島で出土した「漢委奴国王」の金印(57年)などが知られるが、土器としては国内最古級。
7世紀の竺志前國嶋評の戸籍木簡(太宰府市の国分松本遺跡出土)
大宝2年の筑前國嶋郡川邊里の戸籍(正倉院文書)
701年を境に「評」が「郡」へ、「竺志前國」が「筑前國」へ表記が変わってる
平城京跡から出土する木簡も「筑紫」となってる。 九州王朝ってどこまで信じれるの?=宇宙人やネッシーってどこまで信じれるの? >>536
つまり、壬申の乱で九州王朝が滅んだあとも何年かの間は評とか「竺志前國」とか使われてるわけだよな
>701年を境に「評」が「郡」へ、「竺志前國」
九州王朝説と合わないんじゃないか? 九州王朝説は701年の大宝律令により政権交代が完了したという説が多いね。 そうすると、701年より前に死んだ天武天皇の時代が中途半端になってしまうだろ
九州王朝を滅ぼしたあとも不思議なことに天武天皇の時代を通してずっと、
天武天皇と無関係なはずの九州王朝時代の法律を使い続けてるとか、異常だぞ 壬申の乱とか乙巳の変とか実際にあった年をずらしてるみたいですね。 信じるのも何も、そんな王朝はないんだけど
もういいから、はやく頭の病院に行け 天武が筑紫倭国と無関係だなんていう主張は初めて聞いた。 ちなみに頭の病院というのは
精神科?精神病院というところだよ >>546
すると壬申の乱は九州王朝内部の争いで、畿内とは無関係なんか
畿内は武力を用いないで九州王朝を制圧したわけか?
次々とおかしな話に化けていくな 九州王朝というのは無いと言ってるんだよ、
当時の王朝の話でしょ、無いと書いてあるはず 壬申の乱は九州王朝内部の争いで
それの一方に天武が加勢して勢力を拡大
九州倭王を畿内に呼んで乙巳の変で暗殺
日本書紀では壬申の乱と乙巳の変の順序を入れ替えてある
持統が九州倭王家からの嫁で(継体持統で「血統をよくぞ繋げてくれた」の4文字熟語)
天武と持統の子が王位を継ぐ条件で勢力したがその子が先に死亡で乙巳の変 壬申の乱という武力衝突もあったわけだが、誰が九州側で誰が畿内側か、明確ではない。
現代の政治争いでもそうだが、事情はもっと複雑になっていただろう。
紀元前以来ずっと博多湾沿岸にあった倭国から、畿内の日本国への政権交代が、簡単に行われたわけがない。
ソ連からロシアへの交代だって、後世から振り返ればシンプルに説明できるけれど、当時は武力衝突も含めて混沌としていた。 現代政治では、社会党の村山政権とか、民主党の鳩山政権があったが、ほとんど黒歴史となり、なかったことも同然の扱いだろ?
同様に、唐に習って律令国家となった日本国にとって、唐と戦争をしていた倭国政権なんて、なかったことにしたい黒歴史だったろう。
筑紫に王都があった時代を数百年とか数万年前に設定して日本書紀を書けば、数世代も経てば筑紫倭国のことなどただの架空の伝説としか思われなくなるだろう。
まさか21世紀になって、考古学者が1世紀や3世紀の王墓を発掘してしまうとは、予想していなかったのだろう。 >>556
宗教ということにしたいだけでしょ?
それって、考古学的な根拠がない畿内説という宗教なんだよ。 卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。
筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。
肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。
考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。
九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。
邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。
その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。
邪馬台国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。
新唐書
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。
彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。 べつに批判するつもりはないんだけど、
何という宗教(宗派)の工作員なんだ? 他のスレにも書いている事なんだけど、
そろそろ刑務所(死刑)に行ったほうが良いんじゃないのか? ま、紀元前以来ずっと博多湾沿岸にあった倭国なんてものは現代痴呆人の空想の中にしかないからな
できの悪いラノベ同様言いたい放題なのだが
すぐ辻褄が合わなくなる
設定変更を繰り返すが
結局醜態をさらす 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 畿内に弥生王墓はない。
福岡県にだけ弥生王墓がある。
弥生時代の倭国とは、福岡県と対馬海峡。 高天原(海の国)のアマテラス(海の王)は、親戚の大国主が治める稲穂が豊かに茂る陸上(豊葦原中国)が欲しくなった。
そこで船で軍勢を送り脅し、降伏した大国主を殺して国を取った(出雲の国譲り)。
そして孫のニギハヤヒを関西に、孫のニニギを九州に王として派遣した。
奈良盆地には大国主の一族(三輪山の神、富美の一族)が生き残っていて、ニギハヤヒを王として迎えた(後の物部大連家)。
九州に降ったニニギの末裔であるイワレヒコは、九州倭国の戦乱(倭国大乱)で九州を逃れて、奈良にいた親戚のニギハヤヒ一族を頼って落ち延びてきた(後の天皇家)。
蘇我大臣家がいつ頃奈良盆地に来たのかは分からないが、筑紫にいた武内宿禰の末裔と言われる。
古代のヤマト王権はこれらの家系により共同で運営されていた。
蘇我大臣家と天皇家が物部大連家を滅ぼし(物部戦争)、次に天皇家が蘇我氏を滅ぼした(乙巳の変)。
こうして天皇家が畿内の覇者となった。 結局、九州王朝信者は結論連呼しかできないわけだ
論拠を出せと言われて出す論拠っぽいものすら、なぜそう言えるのか説明できなくて、連呼だけ。 >>566
>その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。
会稽東冶は、寧波舟山群島である。
朱崖は、福建省寧徳市 霞浦県 赤岸村である。広東省ではない。台湾台北市北北西250q
儋耳は、福建省寧徳市 東沖半島である。海南省ではない。台湾台北市北北西230q >>561
>日本国は倭国の別種である。
>その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
>あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
>またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。 >>572
文献の本文はともかく古田流の曲解珍読は信用できないからしかたないね そんなものは初耳だしどうでもいい。
話を逸らすなよ。 大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 古田流だとは思っていないし、伊都が倭の首都だと思っている。
(古田は伊都を首都だと思っていなかった) 海上部族である天津神が出雲を攻略して陸上の支配権をも奪ったのが出雲の国譲り。
かくして筑紫の日向に倭国統一政権が誕生したわけです。
ただしこの時点では倭国はまだ筑紫と出雲くらいで、しかも中国と交渉するのは筑紫だけ。
だから金印をもらうのも筑紫だけ。
中国からの使いが来ても駐在するのは筑紫だけ。
倭王がいるのも当然、筑紫。
倭王である高祖日向三代がいたのは筑紫の日向、伊都国と奴国を含む福岡県西部の博多湾沿岸、高祖山がある日向地区。
倭王である卑弥呼も例外ではない。 >>582
三国志の記述では伊都は首都圏の外にある。明白な地方都市な 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 >>582
伊・・・これ
都・・・みやこ
「これ都に近し」にはならないよな、古田氏も最後は頭がボケてた
伊・・・霊力を持った聖人(卑弥呼のこと)
都・・・みやこ
伊都国が卑弥呼の都ですね。
古田氏は伊都国に近くに邪馬壹國があったと言ってるが
場所が不明ですね。 古田氏の最初の著作の頃はまだ平原遺跡が発見されたばかりで、その意味がわかっていなかった。 >>585
大率は「刺史のごとし」とある
刺史という官の特徴は、地方官、監察官、中央から派遣される、といったところ
地方官でない監察官なら別の官職があるし監察官じゃない地方官なら牧や太守もあるので、
そのなかから刺史と指定してあるのは地方官でなおかつ監察官であると解釈せざるをえない
郡国のごとき伊都国を監察する地方官なわけ。
牧ではなく刺史と言っていることからすると、官の格式自体は伊都国王より低いのだろう
(郡の太守を監察する刺史の俸給が太守より低く、官の格式自体も太守より低かったことに留意) >>590
伊都国王=卑弥呼=倭王ですよ
大率(一大率)は伊都国に居る卑弥呼が女王国の北部を治める為に置いた検察官ですよ。 刺史は地方官だ
お前さんの説明のような役職ならは刺史ではなく司隷校尉などと書いてたよ >>585
そうだろう、そうだろう
と
誰しもが思っていることなんだけど、
なぜ認めたくないんだろう 本当に鬼退治の話をしているわけではないんだけど
『伊達の桃太郎』「司馬 司徒 司空」
このような事が書いてあったり 気づいている人は気づいている事なんだけど、
司馬というのも、もともと名字、人名ではない
日本にもそういう作家がいたけど、
違うでしょ
wikiにも書いてあるはず 調べてみた?
司空?建築・・・そのような事が書いてあるし、
家の老婆のほうが詳しい? 『松傾』のような名前の家で、本人なのかな?
セメント関係の話をしていたり、浅野セメントの話 皇族というのも、日本の皇族の事ではないと思う?
そのような話はしらない、中国の皇族の事だと思う サルタというスレを参照
高祖?土民(土人)だと言ってる人がいたり 神祖、高祖神?
悪く言うと土人だと言ってる人がいるでしょ >>591
伊都国王=世有王=帥升王統の王=旧倭王ですよ
大率(一大率)は邪馬台国に居る卑弥呼が女王国の北部ある国々を治める為に置いた検察官ですよ
(卑弥呼は女王國内の一部である邪馬壹國にある城柵を都としている。)
(女王國=邪馬壹國+投馬國+不彌國+奴國 伊都国は女王國に含まれない) >>603
世有王=魏の世に居た王=卑弥呼=現倭王ですよ
何で世有王が旧倭王なの?
女王國=邪馬壹國+投馬國
邪馬壹國=不彌國+奴國+伊都国+末廬國+一大國+對馬國+其餘旁國 >>603
女王国の北部を治めるために九州北部の伊都にいたなら、女王国は九州だよね?
筑後山門かな? 大率という役職は、百済などにも見られており、中央の高級官僚だよ。 >>606
そうだと言っているんだよ、
家の、お爺さんの・・・・子供の頃に着ている制服でしょ、
白い制服のようなモノ ちなみに力夫という名前ではないよ、
そういう名前の親戚もいないし >>606
卑弥呼が朝鮮海峡付近の諸国に置いた検察官の一大率が
後の百済の中央の高級官僚の大率という役職の名前の基になった? なんで朝鮮海峡などと呼ぶの?
畿内説はどこの国の人なの?
対馬海峡ではいけないの? 着ている服、何の制服なのか、わかった人はいないの? 古代の百済と倭は非常に近い関係であり、政治機構も似ていたということだね。 亀戸(天神)に行ったこともあるんだよ
と言っていたり、老婆が嫁に来るよりも前の話
亀戸天神・・・大宰、太宰? どのスレだったかな、
宮様の写真じゃないの?というレスが来たこともあった
松傾のような名前の家なんだけどw それなら、なぜ『何者にもなれない お前たち』のような家に住んでいるのか?
家を出て、何かの職人になったような事を言っていたり、
退職金?なども無いとか、父親の話
金属関係の職人、加工?不明 お爺さんというのは、
セメント関係の仕事をしていたり、
その前は違うと言っていたり
機織りなどをしていた? このような曲があったでしょ
同じ痛み〜。同じ心で〜。
そういう作品なのかな
サルタというスレ:貧乏、みんな貧乏と言ってる人がいたり 本当の話
道具箱に鋸、🔨のようなものが入っていたり、
謎のナイフが入っていた事もあった
折りたたみ(バタフライ?)ナイフ >>594
司馬 司徒 司空 って「三公」政府の最高官だろ
時代によっては違うときもあるが。 >>604
世有王=魏の世に伊都國に居た王=帥升王統の旧倭國王ですよ
伊都國に楽浪郡から派遣された郡使=漢が派遣した郡使
(卑弥呼は漢から郡使を派遣されていない
郡使を派遣されたのは旧倭國王=倭國王帥升の王統の倭國王)
女王國=邪馬壹國+投馬國+不彌國+奴國=郡から12000餘里以遠の国々
伊都国は郡から11900餘里にあるから女王國には含まれない >>606
中央の高官なら「刺史のごとし」と表記する可能性がないんだよ
刺史とは全く違うからな
その点を説明できない時点でデムパ 松傾というのは、宮様か何かの家だったの?
家の話なんだけど >>621
卑弥呼は漢からは郡使を派遣されていないけど
公孫氏の楽浪郡や帯方郡から度々郡使が派遣されてたよ
主張してる意味が分かりませんね。
倭王の卑弥呼が居るのに別に伊都国の王がいるなんて変ですよ。 >>621
>世有王=魏の世に伊都國に居た王=帥升王統の旧倭國王ですよ
魏の時代なら、旧倭国ではなく卑弥呼の年代だよ。
倭国大乱のは漢代だから。
>伊都國に楽浪郡から派遣された郡使=漢が派遣した郡使
漢代に楽浪郡の使いが倭を訪れた記録はない。
> 伊都国は郡から11900餘里にあるから女王國には含まれない
100里はたった80キロだから、福岡県内か、せいぜい佐賀県でいいよね。 >>621
帯方郡から伊都国の西の国境までが11900餘里
東の国境までが12000餘里ですから
伊都国の東のラインが点としての女王国なんです
女王國はこのラインを中心とした国邑の集まりなんですよ。 >>627
高祖山や日向峠付近が点としての女王国ですね。 筑紫な日向のクシフル山(高祖山の最高峰)の高千穂宮だな。
後世に怡土城、高祖城となった。
現在の高祖宮。 >>621
郡使って、朝廷の命令でなく郡の独断で派遣された使節だろ
平時ならそんな使節はありえない
戦時の緊急時だからこその、特別な使節だろ >>629
空想はいいから、ちょっとはそれらしい根拠を示そう。 無いんだろうけどw @阿波
>>625
後漢末には楽浪郡など数郡が公孫氏の領土だから、仮に郡使が往来してたとしても三国志に収録される可能性はない
だから、記録にないことが即座に使節の不在を意味するわけではない >>626
帯方郡から伊都国の城柵までが11900餘里
その隣の奴國の城柵までが12000餘里ですから
奴國の先にある国々が女王国なんです
女王國はこの奴國以遠の国邑の集まりなんですよ。 >>633
>女王國はこの奴國以遠の国邑の集まりなんですよ。
女王国は、「丹」が採れる所ってことを忘れないでね。 @阿波 >>625
>>世有王=魏の世に伊都國に居た王=帥升王統の旧倭國王ですよ
>魏の時代なら、旧倭国ではなく卑弥呼の年代だよ。
>倭国大乱のは漢代だから。
魏の世に伊都國に居た王は、107年の倭國王帥升の末裔になるでしょう。
>>伊都國に楽浪郡から派遣された郡使=漢が派遣した郡使
>漢代に楽浪郡の使いが倭を訪れた記録はない。
記録がなくても楽浪郡から派遣された郡使は漢の使者です。
>> 伊都国は郡から11900餘里にあるから女王國には含まれない
>100里はたった80キロだから、福岡県内か、せいぜい佐賀県でいいよね。
伊都國は、末蘆國が唐津であるから、その東南80kmは佐賀県(佐賀市大和町) >>635
>伊都國は、末蘆國が唐津であるから、その東南80kmは佐賀県(佐賀市大和町)
伊都國は、末蘆國が福津であるから、その東南30kmは直方辺り。 @阿波 >>632
>後漢末には楽浪郡など数郡が公孫氏の領土だから、仮に郡使が往来してたとしても三国志に収録される可能性はない
>だから、記録にないことが即座に使節の不在を意味するわけではない
その通り。
漢や公孫氏の郡使であれば、尚更、郡使の記録を載せられない。 >>634
>女王国は、「丹」が採れる所ってことを忘れないでね。
女王国は、「水銀丹」だけでなく「鉄丹」や「鉛丹」が採れる所ってことを忘れないでね。
「鉄丹」は北部九州で採れます。 >>638
> 「鉄丹」は北部九州で採れます。
北部九州の古墳は 「鉄丹」だそうです(笑)。 @阿波 北部九州は、鉄丹、鉛丹、真朱が
最も使われたところだからね。
採掘の痕跡があっても
使用の痕跡がないというのは
北部九州に運ばれていたってことだろうね。 >>635
>>636
末蘆國は現在の唐津郡全体であり、魏使の上陸地点は壱岐に最も近い呼子付近です。 >>640
>採掘の痕跡があっても
>使用の痕跡がないというのは
そんなアホな。
魏使も「以朱丹塗其身體如中國用粉也」ってよ。 @阿波 >>641
>末蘆國は現在の唐津郡全体であり、魏使の上陸地点は壱岐に最も近い呼子付近です。
それにしては、相島・宗像地方に比べて遺跡・遺物で比べ物にならないね。 @阿波 >>643
遺跡が少ないってことはないけど
単なる通過地点ですからね。 >>577
どこがって、ほぼ全てが曲解と珍解釈だ。マトモな部分の方が少ないぐらい >>644
>単なる通過地点ですからね。
いや、「単なる通過地点」ではないですよ。 なんぜ大陸の玄関口として「世界文化遺産」ですから。 @阿波 >>646
いくら、これを言っても「呼子」だ、「唐津」だ、だからね。 まったく、どうにかならんもんかね。 北部九州説は。 @阿波 >>644
魏使の上陸地点は、唐津古松浦湾南岸松浦遺跡(浜堤上)にあり、
付近には弥生遺跡が散在している。 修正
>>644
魏使の上陸地点は、唐津古松浦湾南岸中原遺跡(浜堤上)にあり、
付近には弥生遺跡が散在している。 魏使の末蘆國上陸地点を呼子付近だとすると伊都国までの距離500里も合うし
方向を東南との記述したのも東松浦半島を南下し唐津市付近で東に進んで伊都国だから納得が出来る
また島の北側に付いて南側に回り次の北岸に着くとする島巡り説との整合性も取れる
魏使の末蘆國上陸地点は呼子付近で間違いない。 末蘆國を東松浦半島付近、伊都国を糸島市付近とするならな
倭人伝の記述からは魏使の末蘆國上陸地点は呼子付近で間違いない
他の場所だと記述に適合しない。 >>655
>末蘆國を東松浦半島付近、伊都国を糸島市付近とするならな
その最初の仮定がそもそも間違い。 最初からやり直し。 @阿波 >>656
阿波くんの主張には根拠が無いね
魏使の上陸地点を唐津古松浦湾南岸中原遺跡とする説にも根拠が無い
どちらも魏志倭人伝の記述と合わない
自説の為の創作ですね。 >>657
>阿波くんの主張には根拠が無いね
根拠:なんせ相島・福津方面は、大陸からの玄関口として「世界文化遺産」ですから。 呼子など以ての外。 @阿波 >>655
>伊都国を糸島市付近とするなら
「伊都国を糸島市付近とする」が間違いの元凶
伊都国は佐賀平野嘉瀬川扇状地にある。
>>657
>魏使の上陸地点を唐津古松浦湾南岸中原遺跡とする説にも根拠が無い
>どちらも魏志倭人伝の記述と合わない
魏志倭人伝では、
末蘆国の上陸地点の東南500里(40km) に伊都國がある。
一方、末蘆国の上陸地点を唐津古松浦湾南岸中原遺跡とすると、
末蘆国の上陸地点中原遺跡の東南500里(40km) に佐賀平野嘉瀬川扇状地がある。
故に、佐賀平野嘉瀬川扇状地の惣座遺跡が伊都國となる。 >>660
>故に、佐賀平野嘉瀬川扇状地の惣座遺跡が伊都國となる。
で、邪馬台国はどこ? @阿波 伊都国は考古学的にも史学的にも糸島平野からでも動かせないよ。 >>662
>伊都国は考古学的にも史学的にも糸島平野からでも動かせないよ。
で、奴国はどこ? @阿波 >>661
>邪馬台国はどこ?
邪馬台国は7万戸で28万人。投馬國は5万戸20万人。計48万人。
48万人を収容できる土地平野は筑紫平野。
筑紫平野西部の佐賀平野西部中部には、
伊都國、奴國、不彌國の2万2千戸8.8万人が居るので、
筑紫平野東部の筑後平野と北野地域と佐賀平野東部に12万戸48万人がいる。
邪馬台国は陸行で行く内陸国であるので、
邪馬台国の位置は筑後平野内陸部と北野地域となる。
なお、投馬國は水行で行くから沿岸部にあり、
投馬國の位置は佐賀平野東部沿岸部と筑後平野沿岸部になる。
追補
邪馬台国の中心となる城柵と卑弥呼が都とする城柵は異なる。
邪馬台国は4ヶ国連合国であるので、その城柵は4ヶ所にあると推察される。 >>662
>伊都国は考古学的にも史学的にも糸島平野からでも動かせないよ。
それが錯誤の元凶。 >>664
>邪馬台国は7万戸で28万人。投馬國は5万戸20万人。計48万人。
>48万人を収容できる土地平野は筑紫平野。
妄想はそれくらいでいいので、さあ、その人口に見合う「弥生末期集落遺跡群」を挙げてみよう。 @阿波 >>662
>伊都国は考古学的にも史学的にも糸島平野からでも動かせないよ。
伊都國糸島説は、1世紀2世紀の事象を3世紀の事象と見ているのが間違いの原因。 考古学者の主張を完全否定の伊都クズ
やっぱり考古学の知識は全くない >>664
弥生時代の人口なら日本列島全体で60万人ほど、九州全土では10万人ほどだぞ。どこの平野に48万人も住めるんだよ 遺跡はどんどん見つかってるからね。
吉野ヶ里とその周辺で5千人でしょ?
九州だけでも60万人くらいいないと合わなくない? 吉野ヶ里は邪馬台国連合の辺境の国邑の一つに過ぎないからね。 時代別の遺跡数の比で推計してるわけじゃん
古代の遺跡ばかり見つかって弥生遺跡が少ないとこの人口が低く推計されてる
逆にいうが、弥生遺跡がどんどん見つかってて古代の遺跡(奈良時代の遺跡)が見つかってないとこってどこよ >>674
>吉野ヶ里は邪馬台国連合の辺境の国邑の一つに過ぎないからね。
吉野ヶ里は女王國連合の国邑の一つに過ぎないからね。 >>670
>卑弥呼の即位は2世紀だぞ。
卑弥呼の即位は2世紀末190年頃だぞ。 >>676
吉野ヶ里は博多湾方面の国とだいぶ文化が違うのでムリ 吉野ヶ里(倭面土國=倭米多國)の王者帥升は、
107年博多の委奴國(委都國=伊都國)を滅ぼした。 吉野ヶ里(倭面土國=倭米多國)の王者帥升は、
107年糸島の委奴國(委都國=伊都國)を滅ぼした。 弥生時代の人口60万人は
当時の弥生遺跡1万箇所からの推計。
今は発掘されている弥生遺跡だけで
4万箇所あり、存在が確認されているが
発掘されていない弥生遺跡は
その十倍はあるとされる。 倭国(阿波)の遺跡は畿内や九州のものとレベルが違う。
「加茂宮ノ前遺跡」
徳島県阿南市加茂町大西、宮ノ前にある加茂宮ノ前遺跡は那賀川の右岸、標高約24〜26mの自然堤防に立地している。
発掘調査では、弥生〜古墳時代と鎌倉〜室町時代の集落跡を確認。弥生時代中期後半〜古墳時代前期初頭(紀元1〜3世紀ごろ)の竪穴住居跡20棟余りと、土坑、溝、柱穴を発見した。
弥生〜古墳時代の県内最大規模の集落とみられる。
住居跡や周辺の遺構からは、水銀朱の精製に関わる磨石(すりいし)や石杵、石臼などの石器500点余りと、祭祀に関わる水銀朱の原料となる辰砂約90点が見つかり、注目される。
住宅跡からは、サヌカイト製の石器とその残りかす、糸を紡ぐために使う土製紡錘車、鉄器、ガラス小玉が出土。鍛冶炉(製鉄の炉)を備えていた。
一つの住居で辰砂の精製と鉄の加工、紡織、石器づくりをしていることから、さまざまな物を同時に作る工房としての性格があることが分かった。
加茂宮ノ前遺跡の南西約5qには、弥生〜古墳時代の辰砂採掘遺跡である若杉山遺跡がある。那賀川の対岸には縄文〜鎌倉、室町時代の深瀬遺跡がある。
若杉山、深瀬の両遺跡は時代が共通する上、辰砂が見られる点から、加茂宮ノ前遺跡との関連が注目される。
加茂宮ノ前遺跡では、水銀朱を作っていたほか、石器、鉄器の製作加工や紡織をするなど「生産のムラ」として大規模に展開していたといえる。(県埋蔵文化財センター専門研究員 田川憲) @阿波 倭国(阿波)の遺跡は畿内や九州のものとレベルが違う。
「樋口遺跡」
弥生時代終末期の集落遺跡
眉山の南西の麓、園瀬川の自然堤防上に営まれた集落遺跡。1983年(昭和58年)以降数次にわたる発掘調査により、弥生時代の終末期の竪穴住居跡や奈良時代の掘立柱建物跡などが見つかっている。
竪穴住居跡からは土器や石器など多数の遺物が出土しており、中でも東阿波型土器が多く含まれる点は遺跡の大きな特徴である。
そのほか注目すべきは、赤い顔料である朱が付着した土器が多数出土していることである。これらの土器の分布範囲は広く、人々の交流が活発であった様子がわかる。
樋口遺跡の集落内には、幅広い交易に関わった人々が暮らしていたのであろう。 >>682
弥生時代の人口60万人は全く信頼性の無い数字だってことですね。 旧怡土郡の怡土平野が伊都国であり、平原遺跡等の曽根遺跡群と三雲・井原鑓溝遺跡群が中心であることを認めない説なんて話にならないな。 倭国(阿波)の遺跡は畿内や九州のものとレベルが違う。
「芝遺跡」
芝遺跡では3面の遺構面を確認した。
第1遺構面は中世にあたり、13世紀後半〜14世紀中頃にかけての屋敷境溝を持つと考えられる
掘立柱建物跡や土壙墓などを検出した。
このうち、土壙墓は屋敷墓と考えられ、海部刀短刀・土師器杯・皿が出土し、13世紀後半頃と推定できる。
第二遺構面では弥生時代後期〜古墳時代前期前半頃にかけての竪穴住居や溝、旧河道等を検出した。
旧河道からは外来系土器が多数出土している。
第3遺構面では弥生時代前期後半以降頃以降の遺構と遺物を検出した。
中期中頃〜後半にかけての円形周溝墓を4基検出し、
時期が確定できる円形周溝墓としては、県内初出となった。
この内、円形周溝墓1は直径約11メートル、溝幅が最大約2メートルを測り、陸橋を持つ。出土遺物は陸橋周辺に集中して出土しており、
結晶片岩を含む吉野川下流域産と考えられる土器がほとんどを占め、若干の在地土器が混じる。
この他、周溝墓の可能性のある溝も検出しており、この時期の集落内墓地であった可能性が考えられる。
また、弥生時代後期中頃と推定される竪穴住居33200では、炉跡内から鉄切片・小破片が出土し、炉跡底面に焼土面が広がっていた。
そのため、本炉跡は鍛冶炉跡と推定され、U類(村上1998)にあたると考えられる。
この他、サヌカイト片や特殊なものとして朱付着石杵も出土しており、この朱は水銀朱であることが確認されている。
したがって、竪穴住居33200では石器・鉄器・朱を扱う工房跡であった可能性が指摘でき、阿波南部地域に鉄・朱が伝わっていたことを実証できる好資料である。 旧河道からは弥生時代終末頃〜古墳時代前期前半頃にかけての外来系土器が多く出土した。
報告書では旧河道をそれぞれ溝12164、溝33239〜溝33241、溝33244とし、主に上層と下層に分けて、遺物の取り上げを行った。
特に溝12164は幅5m以上、深さ1.1mを測り、大きく上層・中層・下層の3層に分層できた。
下層から布留甕1個体が出土し、上層からは東阿波型土器や布留式土器がまとまって出土しており、時期差の可能性が考えられる出土状況が確認できた。
実測総数196個体に対して、阿波97個体で48%、畿内39個体で20%、在地36個体で18%、讃岐7個体で4%、土佐3個体で2%、吉備3個体で2%、産地不明が12個体で6パーセントである。
約半数が阿波(東阿波型土器を含む吉野川下流域)の土器で占めており、次いで畿内系土器、在地時の出土数が多い。讃岐や土佐、吉備の出土数は数%に留まる状況を示している。
芝遺跡では弥生時代前期後半頃には吉野川下流域や紀伊からの搬入品が認められるが、特に吉野川下流域土器は弥生時代を通じて恒常的に出土すると考えられる。
弥生時代終末頃になると吉野川下流域時の他に、畿内・讃岐・土佐・吉備からの搬入品が認められるようになるものの、普遍化した出土状況は見られない。
古墳時代前期前半頃になると吉野川下流域時が主体であることに変わりはないが、一定量の畿内系土器の搬入が認められるようになる。 以上のような搬入土器の出土状況や共伴関係の検討から、吉野川下流域の搬入時を主体とし、複数地域からの搬入土器が混在する第一段階(弥生時代終末頃〜古墳時代初め頃)。
吉野川下流域地域の土器・畿内系土器が主体となる第二段階(古墳時代前期前半頃)に分類することができると考えられる。
第一段階は伝統的な交流からの脱却の揺籃期、第二段階は交易ルートの確立を意味し、この現象は吉野川下流域、なかでも鮎喰川下流域集団の影響が大きく、朱を媒介として交流が盛んに行われていたものと考えられる。
朱の搬出や食料供給に阿波南部地域集団が関係(菅原1992、岡山 2002)していたことを示す資料である。
吉野川下流域地域で、あまり搬入土器が見られない現段階では、吉野川下流域地域を主体とし、間接的に阿波南部地域が関わっていた場合と阿波南部地域が直接的に交流・交易を行っていた場合が考えられる。
そして、土佐のタタキ甕や布留式土器などが本遺跡で出土したことは、吉野川下流域地域を主体とした間接的な交流・交易を行いながら、他地域との直接的な交流・交易も行っていた可能性を示していると推定される。 本地域は発掘調査がほとんど行われていないため、資料数が少ないが、海部川河口砂堆に所在する大里松原神社遺跡において若干の土器が採集されている。
東阿波型土器や下川津B類時が出土しており、在地産土器と外来系土器が混在する状況を示している。
時期は大きく弥生時代後期後半と古墳時代前期初頭の2時期に分かれ、この在地土器と外来系土器の混在する状況が、本地域の特徴であると意義付け、海人の存在が想定されている。(菅原1992)
この他、吉野川下流域地域で畿内系土器が出土しているのは黒谷川郡頭遺跡(菅原1989)や石井城ノ内遺跡(日下1999)などに限られ、出土点数も数点しかない現状では、阿波南部地域の特異性が窺える。
まとめ
芝遺跡は阿波南部地域で数少ない発掘調査を行った遺跡である。
県内では珍しい円形周溝墓をはじめ、竪穴住居等の遺構や弥生時代前期後半以降の土器・石器も出土し、本地域の集落形態の一様相が確認できた遺跡である。
また、弥生時代終末頃〜古墳時代前期前半頃にかけての搬入土器がまとまって出土したことから、出土状況・共伴関係の検討を行い、各搬入土器の搬入時期のピークを探った。
土器の搬入には鮎喰川下流域集団の関与が想定され、一連の動きに若杉山遺跡(岡山1997)の朱が関わっていると考えられる。
本地域の発掘調査事例が芝遺跡に限られる現状では、搬入土器が普遍的に出土するのか、芝遺跡の特異性なのか、判断しがたいが、大里松原神社遺跡においても搬入土器が認められることは、
本地域に一定量の土器が搬入される状況があったことの傍証になるものと考えられる。
芝遺跡は土佐ー阿波ー畿内を結ぶ四国東岸海岸沿い太平洋ルートを想定できる遺跡であり、海上交通に際しての人・物が集中する拠点集落であったと考えられる。 怡土郡や松浦郡ってのがあるのに伊都国や末廬國を根拠も無く自分の好きな所に設定する人は頭がおかしい。 >>691
>阿波くんの我田引水の長文なんか誰も読まんよw
だからいつまでたっても、「井の中の蛙大海を知らず」って言われるんだよ。
倭国(阿波)では、着々と遺跡発掘が進んでいるというのにw 君はすでに時代に乗り遅れているよ。 @阿波 >>686
>旧怡土郡の怡土平野が伊都国であり、
「怡土」と「伊都」は、根拠無しの単なる語呂合わせである。
>平原遺跡等の曽根遺跡群と三雲・井原鑓溝遺跡群が中心であることを認めない説なんて話にならないな。
平原遺跡等の曽根遺跡群と三雲・井原鑓溝遺跡群は福岡平野の中心地のひとつと認めていますよ。
それらの遺跡群を3世紀の邪馬台国と結びつけるのが間違いの元凶。 >>694
>「怡土」と「伊都」は、根拠無しの単なる語呂合わせである。
根拠なし。
>それらの遺跡群を3世紀の邪馬台国と結びつけるのが間違いの元凶。
何がどう間違いなのか説明できていない。 >>696
根拠も何もそのままだし、魏志倭人伝に王がいることが記されていて、実際に弥生王墓が多数存在する。
地名に加え、それらが根拠だよ。
根拠なしと呟けばいいとでも思った?
畿内説の無知無理さ加減を露呈するだけだよ。 >>697
>魏志倭人伝に王がいることが記されていて、実際に弥生王墓が多数存在する。
魏志倭人伝にはその王が糸島平野に居たとは書いてない。
弥生王墓じゃない。
漢と通交があったと思われる弥生の地域権力者の墓に過ぎない。 >畿内説の無知無理さ加減を露呈するだけだよ。
私は九州説なんですけど。 >>698
魏志倭人伝には、王が伊都国にいたと書いてあるよ。
後漢書には、倭国は狗邪韓国から倭奴国までの間の対馬海峡の国と書いてあるよ。
そしてその時代の王墓が見つかるのは糸島平野だけ。
糸島平野にあった伊都国が倭の王都だよ。 >>698
>漢と通交があったと思われる弥生の地域権力者の墓に過ぎない。
この辺がキナイコシの妄想(根拠のない思い込み)なんだよ。 >>700
>糸島平野にあった伊都国が倭の王都だよ。
いくら叫んでも「其山有丹」で即死。 残念ですが。 @阿波 >>703
一大國の説明に「亦南北市糴」と書かれてるのが読めないみたいだなw
阿波の主張は出だしから間違ってる。 >>704
>一大國の説明に「亦南北市糴」と書かれてるのが読めないみたいだなw
読めるけどそれがなにか? @阿波 一大國からは南に行けないから末廬國は宗像だと言ってたよねw >>706
その誤解を解いてあげよう。
島民が対馬海峡を「南北市糴」して、朝鮮半島や末盧国と交易していると妄想するからトンデモとなる。
島民が日曜茶飯事に対馬海峡なんて航行できる別ないでしょ。常識を働かせなさい。
「亦南北市糴」は、對海國島内を船で「南北市糴」、また一大國島内を船で「南北市糴」という意味なんだよ。
そんな当たり前のことを誰も気づかない。 情けない話。 @阿波 >>707
阿波くんは阿保ですか
對馬國は「無良田 食海物自活」なので「乗船南北市糴」だし
一大國は「差有田地 耕田猶不足食」だから「亦南北市糴」なんだよ
島内では問題解決しないよw
日常的に島から出て南北の海峡を渡って交易してたんだよ
壱岐では交易してた証に漢代の銅銭等が多く出土してるよ。 >>707
その島は山ばかりで耕作地が乏しいので交易で食べ物を入手してる、
という文脈の一部なんだから、島内での交易なはずないだろ >>708
>對馬國は「無良田 食海物自活」なので「乗船南北市糴」だし
對馬國は「無良田 食海物自活」だからこそ「乗船南北市糴」して島内で問題解決したんだよw
>一大國は「差有田地 耕田猶不足食」だから「亦南北市糴」なんだよ
一大國は「差有田地 耕田猶不足食」だからこそ「亦南北市糴」」して島内で問題解決したんだよw
> 日常的に島から出て南北の海峡を渡って交易してたんだよ
島民の船ごときで対馬海流を航行できると思ってるのかね? 常識を働かせなさい。
>壱岐では交易してた証に漢代の銅銭等が多く出土してるよ。
まさか島民が漢代の銅銭を使って貨幣経済をしていたとでも? 常識を働かせなさい。
それは大陸と倭国(阿波)との国と国との交易品に決まってるでしょ。 @阿波 >>711
島内で食料が足りないのにどうやって解決したの?
壱岐対馬では古代から島民の船で海峡を越えていたんだよ
北部九州地域では既に銅銭が取引に使われていたんだよ
阿波くんが常識が無いだけなんだよw >>712
>島内で食料が足りないのにどうやって解決したの?
不足品のを物々交換。 これで解決。
>壱岐対馬では古代から島民の船で海峡を越えていたんだよ
君の得意な「妄想」。 「妄想」でないなら根拠を挙げてね。
>北部九州地域では既に銅銭が取引に使われていたんだよ
君の得意な「妄想」。 「妄想」でないなら根拠を挙げてね。 @阿波 >>713
島内で食料が不足してるのに島内で物々交換しても何も解決できないよw
>君の得意な「妄想」。 「妄想」でないなら根拠を挙げてね。
実際に中国銭も見つかってるんだから交易してたんだよ、妄想である根拠は?
取引に使わないなら銅銭を何に使っていたの? >>714
>島内で食料が不足してるのに島内で物々交換しても何も解決できないよw
だから不足品を物々交換するんでしょ? もしも交換するものがなければ、餓死するだけのこと。 いつの世もあること。
>実際に中国銭も見つかってるんだから交易してたんだよ、妄想である根拠は?
> 取引に使わないなら銅銭を何に使っていたの?
大陸と倭国(阿波)との交易品。 島内にあったのは、交易品のおこぼれ。 島民が貨幣経済をしていたとでも? 常識を働かせなさい。
君の得意な「妄想九州王朝説」。 @阿波 >>716
餓死してるなんて書いてないからねw
阿波からは銭なんて出土してないよw
阿波くんは妄想好き?冗談www >>717
>餓死してるなんて書いてないからねw
そうだね。 物々交換が成立していたんだね。
>阿波からは銭なんて出土してないよw
出土してたらどうするの? 倭国(阿波)では大抵のものはあるんだけどw
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%B3%A4%CD%DB%C4%AE%2F%C2%E7%CE%A4%BD%D0%C5%DA%C1%AC
島民が貨幣経済をしていたとでも? 常識を働かせなさい。
君の得意な「妄想九州王朝説」。 @阿波 >>718
壱岐の場合は島内で食料が足りないけど3世紀には既に戸数三千家も在ったんだね
1家5人としても15000人の人口があったことになる
壱岐ではその後1000年以上人口の変動が殆ど無いから
開発が進み既に人口は飽和状態に達していたんだよ
壱岐では航海技術が発達して
3世紀には南北に船を出して交易で食料を調達してたんだよ
阿波なんて何も無い所は出る幕が無いんだよwww >>719
>壱岐の場合は島内で食料が足りないけど3世紀には既に戸数三千家も在ったんだね
そうだね。 物々交換が成立していたんだね。
>3世紀には南北に船を出して交易で食料を調達してたんだよ
そうだね。 「島内」を南北に船を出して交易で食料を調達してたんだね。
>阿波なんて何も無い所は出る幕が無いんだよwww
出土してたらどうするの? 倭国(阿波)では大抵のものはあるんだけどw
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%B3%A4%CD%DB%C4%AE%2F%C2%E7%CE%A4%BD%D0%C5%DA%C1%AC
島民が貨幣経済をしていたとでも? 常識を働かせなさい。
君の得意な「妄想九州王朝説」。 @阿波 >>720
答えられないでしょw
阿波くんの気違いぶりが面目躍如ですね。 >>720
個人経営の商業なんて、もっともっと後の時代だろ
古代なら、領主豪族が交易の主体じゃないのかね
島内では貨幣経済が成立してなくても、外との交易で貨幣経済を介しててもおかしくない >>722
>個人経営の商業なんて、もっともっと後の時代だろ
「個人経営の商業」??? 何を悠長なw 毎日を、生きていく為に、必死の自給自足活動だよ。
>古代なら、領主豪族が交易の主体じゃないのかね
「領主豪族」が交易して、その食料を島民に分け与えていたとでも? 何を悠長なw 島民が毎日を生きていく為に、必死の自給自足活動だよ。
>島内では貨幣経済が成立してなくても、外との交易で貨幣経済を介しててもおかしくない
「外との交易」って、まさか朝鮮半島や末盧国と? あの難所の対馬海峡を、日々の生活のために日常的に島民が航行していたと?
少しは常識を働かせなさい。 君の得意な「妄想九州王朝説」。 @阿波 >>723
>じゃあ貨幣は何の目的で使われたの?
中国人が、中国国内で、貨幣経済の道具として使った。
島内にあった貨幣は、大陸と倭国(阿波)との交易品のおこぼれ。 島民が貨幣経済をしていたとでも? 少しは常識を働かせなさい。 君の得意な「妄想九州王朝説」。 @阿波 泡が魏志倭人伝に真っ向から反対している。
こいつも邪馬台国論争に首を突っ込む資格はないな。 対馬海峡を支配していたのが卑弥呼の大率なら、商取引の主役は領主豪族ではなく、倭王たる卑弥呼だろうよ。 紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。 >>726
>泡が魏志倭人伝に真っ向から反対している。
>>724に対する反論はないの? 出来ないの? @阿波 >>727
>商取引の主役は領主豪族ではなく、倭王たる卑弥呼だろうよ。
そうだね。 倭国(阿波)のね。 @阿波 >>728
>後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
魏志倭人伝での「其山有丹」で、北部九州は「邪馬台国論争に首を突っ込む資格はないな」。 @阿波 >>724
そもそも、島内で耕作可能な食料で生活できる範囲より数倍から十倍ほどの人口が記載されてるのだから、
食料の多くは外から買い入れてるとしか考えられないだろうに >>732
>食料の多くは外から買い入れてるとしか考えられないだろうに
それは、単なる君の短絡的妄想。
まさか朝鮮半島や末盧国と、あの難所の対馬海峡を、日々の生活のために日常的に島民が航行していたと?
少しは常識を働かせなさい。 君の得意な「妄想九州王朝説」。 @阿波 始めて一海を度(わた)る千余里、対馬国に至る。
その大官を卑狗といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。
居る所絶島、方四百余里ばかり。
土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の小径(こみち)の如し。
千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す。 >>732
>食料の多くは外から買い入れてるとしか考えられないだろうに
食料の乏しい島内で自給自足しているのは、なにも対馬や壱岐だけじゃないんだよ。
少しは常識を働かせなさい。 君の得意な「妄想九州王朝説」。 @阿波 >>734
>船に乗りて南北に市糴(してき)す。
島内をね。 @阿波 穀物が作れるところが少ないので
南北に買い出しに行ってたと書かれてたのでは? 糴・・・穀物を買い入れること。
島内に穀物が少ないので島外から穀物を買い入れてた
壱岐対馬では近代まで同じですね
宗氏は朝鮮王から官位を貰って穀物を朝鮮から輸入してましたね。 >>738
>宗氏は朝鮮王から官位を貰って穀物を朝鮮から輸入してましたね。
それがなにか? @阿波 >>737
>南北に買い出しに行ってたと書かれてたのでは?
島内をね。
食料の乏しい島内で自給自足しているのは、なにも対馬や壱岐だけじゃないんだよ。
少しは常識を働かせなさい。 君の得意な「妄想九州王朝説」。 @阿波 >>740
>島内をね。
バカじゃないの?
島内で不足しているのに。
対馬海峡を南北に行き来していたのに決まっているだろ。
少しは常識を働かせなさい。 >>741
>島内で不足しているのに。
バカじゃないの?
食料の乏しい島内で自給自足しているのは、なにも対馬や壱岐だけじゃないんだよ。
少しは常識を働かせなさい。 君の得意な「妄想九州王朝説」。 @阿波 >>724
>>古代なら、領主豪族が交易の主体じゃないのかね
>「領主豪族」が交易して、その食料を島民に分け与えていたとでも? 何を悠長なw 島民が毎日を生きていく為に、必死の自給自足活動だよ。
領主豪族が領民を働かせて対価に食糧等を支給するんだろ、普通じゃないか
そもそも古代社会じゃ、農具や土地も含めた生産財は全部が領主のもので、それを領民に貸して食糧生産などさせて、
労働の対価に生産物の一部を得させてるわけだろ、どう違うんだよ
>「外との交易」って、まさか朝鮮半島や末盧国と? あの難所の対馬海峡を、日々の生活のために日常的に島民が航行していたと?
交易の利益で食糧等を得てるんだろ
半島と本土の交易を介在することは大きな利益がある。
日持ちしない生鮮食品じゃなく日持ちする食糧をメインに買ってれば、航海は毎日のように必要とは言えないだろ
自力で食糧生産できない生業の人を食わせる必要があるから穀物の需要が高くなったんじゃないのかね。
みんなが自給自足なら穀物じゃなくても食えれば何でもいい。穀物の需要は冬期のための保存だけしかなくなってしまう。
職人とか商人とかが必要だからこそ、彼らの労働に対する対価として穀物が必要になるんじゃないか
江戸時代の農村では米が日常の食事じゃなく、その一方で都市部では米以外の物を食う機会が乏しかった。
穀物の機能ゆえに、都市部では穀物以外の食糧の方が贅沢品になり、産地では穀物が贅沢品になったわけだ。 >>740
食糧生産が乏しい島嶼部の村ってのは、漁業なり製塩なり、何らかの商品生産で利益を得て外から食糧を買うのが古い姿。
自給自足ならあんなとこには最初から住まないよ
そこに住むことにメリットがあったから住んでたんだ。
穀物生産ではないメリットがあり、その利益で食糧を島外から買う。これが基本。
自給自足で暮らす島の人口密度がどれほど低いか調べてみなよ >>743
>そもそも古代社会じゃ、農具や土地も含めた生産財は全部が領主のもので、それを領民に貸して食糧生産などさせて、
労働の対価に生産物の一部を得させてるわけだろ、どう違うんだよ
それ、NHKでやってた「村」という固有名詞誕生の話だね。中世と一緒にしちゃいかんよ。 君の得意な「妄想九州王朝説」。 @阿波 >>743
>交易の利益で食糧等を得てるんだろ
だ・か・ら、 あの難所の対馬海峡を、日々の生活のために日常的に島民が航行していたと?
少しは常識を働かせなさい。 君の得意な「妄想九州王朝説」。 @阿波 >>744
>自給自足ならあんなとこには最初から住まないよ
バカじゃないの?
食料の乏しい島内で自給自足しているのは、なにも対馬や壱岐だけじゃないんだよ。
少しは常識を働かせなさい。 君の得意な「妄想九州王朝説」。 @阿波 >>747
他の島、たとえば瀬戸内海の島嶼部も含めてだよ
農業で食っていくつもりなら最初から移住するはずがない場所なんだから、農業以外の生業を目当てで移住したに決まってるじゃん
瀬戸内海だと塩田目当てが多いが、対馬とかだと交易ないし寄港地だろ >>748
>対馬とかだと交易ないし寄港地だろ
バカじゃないの?
だ・か・ら、 あの難所の対馬海峡を、日々の生活のために日常的に島民が航行していたと?
少しは常識を働かせなさい。 君の得意な「妄想九州王朝説」。 @阿波 玄界灘は難所ではあるが
白村江では48000を運んでいるので
地元民なら運用できたことがわかる。
遠く奈良から来た船は
1/4が遭難していたから
それなりのノウハウが必要だったのは
間違いないが、
壱岐、対馬の住人ならノウハウも
あっただろうからね。 そもそも瀬戸内海は記紀の神代にほとんど登場しない。
主な舞台は高天原と筑紫。
そして少し出雲。
大和もほぼ出てこない。 >>750
>白村江では48000を運んでいるので
>地元民なら運用できたことがわかる。
地元民に頼らずとも、倭国(阿波)の海人族に任せなさい。 遠く関東まで、進出しているんだから。 @阿波 >>750
>白村江では48000を運んでいるので
>地元民なら運用できたことがわかる。
地元民に頼らずとも、倭国(阿波)の海人族に任せなさい。
遠く関東や山陰・北陸まで、進出しているんだから。 @阿波 >>749
毎日毎日航行したと書いてるように誤読してるのか
議論する前に視力をどうにかしてこいよ 阿波の土人なんて馬鹿じゃないのw
壱岐対馬では古代から自由に海を越えて交易を行っていたんだよ
阿波は妄想を止めて現実を認めろよ! >>755
>毎日毎日航行したと書いてるように誤読してるのか
別に毎日毎日とは思わないが、じゃあ、三日に一度、或いは一月に一度でもいいよ。
だ・か・ら、 あの難所の対馬海峡を、日々の生活のために日常的に島民が航行していたと?
少しは常識を働かせなさい。 君の得意な「妄想九州王朝説」。 @阿波 普通に日常的に航行していただろ。
漁業やって、それを交易品にして
倭や朝鮮半島へ穀物買いに行ってんだから。 >>758
>普通に日常的に航行していただろ。
「其行來渡海詣中國恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人名之爲持衰」
バカじゃないの?
だ・か・ら、 あの難所の対馬海峡を、日々の生活のために日常的に島民が航行していたと?
少しは常識を働かせなさい。 君の得意な「妄想九州王朝説」。 @阿波 白村江の時代、日本に巨大船があったとは聞かないから
48000人の輸送は当時の日本が作れる程度の
中小の舟を集めたんだろうね。
数百、あるいは数千隻の船で
48000人を運べる状況は
どの程度の難所なんだろうかね。 >>760
地元民に頼らずとも、倭国(阿波)の海人族に任せなさい。
遠く関東や山陰・北陸まで、進出しているんだから。 @阿波 地元民なら48000人を運べて
日常的に穀物の買い出しにも行けるけど
他所の人間だと1/4遭難する
ちょっと難しい海域だというだけの話だよ。 >>755
日々の生活の糧を農業で得てる人たち(つまり農民)は、毎日収穫作業をしてるのか、違うだろ
収穫作業自体は農業の一部にすぎず、時期的に限られてる
それと同じで、交易で食べ物を入手してるにしても、入手すること自体は季節的・時期的に限られてるかもしれんってこと
買い入れるのは生鮮食品じゃなく保存の効く穀物や保存食などが多いんじゃないのかと。
そもそもだ、豪族が主体で交易してるなら(俺の主張はこれな)、動員される良民の生活手段は豪族が支給するんだから、
保存の効く食料を支給してたら毎日のように半島まで買い物に出る必要なんかない 記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。 >>760
もう少し後の遣唐使船だと、一隻目の「第一船」に百人以上は乗ってるし、
無理したら大型の船を作れたんじゃないか?
無理しすぎたから遭難沈没することも多かったが。 白村江では42000人を800余艘で運んでいるので、一艘あたり50人ですね。
魏志倭人伝の頃は流石にもう少し小さかったと思いますが。 >>764
国産み神話の舞台だったオノコロ島は瀬戸内海だろ
あるいはいわく(略)淡路島。 >>763
>そもそもだ、豪族が主体で交易してるなら(俺の主張はこれな)、動員される良民の生活手段は豪族が支給するんだから、
豪族ですか。
その豪族の名前が天津神だったり、頭領の名前が天照(アマテラス=海を支配する)だったりしませんかね。
後漢書には倭国の北限が狗邪韓国、南限が倭奴国とあるので、倭国とは対馬海峡そのものですね。 >>766
地元民に頼らずとも、倭国(阿波)の海人族に任せなさい。
遠く関東や山陰・北陸まで、進出しているんだから。 @阿波 >>768
根拠なし。
おのころ島は矛で作ったことになっています。
銅矛文化は九州北部が中心です。
瀬戸内海なら銅剣で作ったはず。
銅矛で領土を獲得したと言う建国神話なんですよ。 >>770
阿波も銅剣文化圏、消滅または吸収された側ですよ。 >>769
>その豪族の名前が天津神だったり、頭領の名前が天照(アマテラス=海を支配する)だったりしませんかね。
どのみち、島へ渡ったのは倭国(阿波)の海人族ですよ。 @阿波 その「豪族」の支配機構が大率ですよ。
南限の王都「伊都」に置かれ、必要に応じて王都より北の対馬海峡を検察したのです。 魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif 旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。
新唐書
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。
彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。 >>774
>その「豪族」の支配機構が大率ですよ。
実はその「大率」も筑紫忌部。 @阿波 >>778
>島根県の方から怒号が飛んできますぞ。
その島根も倭国(阿波)を発った出雲忌部。島根は倭国(阿波)に向かって礼拝していますよ。 @阿波 >>765
淤能碁呂島・・・オノゴロ島・・・御・能古島ですね >>774
地方豪族は刺史のようではなく太守のような存在だぞ 筑紫の日向の小戸で出土した銅矛を神宝とする小戸大神宮がありますよ。
また、筑紫の日向の小戸におけるイザナギの禊に由来するのが住吉神社です(大阪の住吉社を含む全国の住吉の元社)。 >>785
そもそも大国主はその銅矛で討伐された側でしょ。
阿波くんはわけもわからずデタラメを言い張っているね。 祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す >>787
>そもそも大国主はその銅矛で討伐された側でしょ。
狗奴国ですね。 大国主が居たのは倭国(阿波)の長国(阿南市周辺)。
長国(狗奴国)は若杉山や黒潮の太平洋があり、強大だったからね。 @阿波 >>783
三国志最強の男 曹操の人望力 - 12 ページ
刺史は本来、地方行政の組織の枠に組み入れられた存在ではなかった。役職も目付のようなもので、州や郡、県の役人が政務を真面目に司っているか否かを監督し、 その成績を考察して、中央へ報告する役割を担っていた。
曹操も刺史であったことがあった。
また、大率は百済においては高位の中央官僚。 >>789
じゃあ筑紫に討伐された方だw
記紀も少しくらい読めよ。 >>746
古来より玄界灘を自由に往来してたんだよ
阿波くんの常識が異常。 >>782
淤能碁呂島・・・オノゴロ島・・・おノゴの島・・・御・能古島 >>792
>古来より玄界灘を自由に往来してたんだよ
倭国(阿波)の忌部海人族がね。 忌部海人族以外、いないでしょ? @阿波 >>784
そうじゃない
刺史も太守も地方官だからな
刺史は監察官で太守は統治、地方行政のトップ
豪族と似てるのは刺史ではなく太守ってのは、豪族は監察官ではなく統治者だという意味
刺史のごとくと表現するはずがない >>795
>阿波からでは、玄界灘に来るのも大変だ。
心配ご無用。 倭国(阿波)の海人族に任せなさい。 そんなこと出来るの、倭国(阿波)の海人族しかいないんだから。
遠く関東や山陰・北陸まで、進出しているでしょ。
もちろん、対馬海峡を渡って朝鮮半島へも鉄素材を取りに行ってるからね。 @阿波 >>745
その番組って見たことない、というかタイトルも初見だが
内容が一致してるってことか。
偶然の一致ではないのだから信憑性が上がったな
つまりお前さんの意見の信憑性のなさが露見した >>771
国産み神話に矛が使われるようになったのが紀記編纂時すなわち奈良時代だった可能性をガン無視とか、ダメダメだな
紀記神話のなかに奈良時代に入ってから作られた要素が多く含まれるのは常識だろ
奈良時代に入ってから作られた要素ではないことを論証できてないものは、古くない可能性を念頭に置かないとダメだ >>796
>刺史は監察官で太守は統治、地方行政のトップ
似ていると言うだけで、刺史だと言っているわけではないし、刺史が普段は中央にいてもいいのだろう? >>799
>国産み神話に矛が使われるようになったのが紀記編纂時すなわち奈良時代だった可能性をガン無視とか、ダメダメだな
奈良時代は銅矛文化ではないし、奈良は上古においては銅鐸文化圏であった。
奈良時代に矛の話が挿入される可能性は低い。
奈良時代に入ってから作られた要素ではあることを論証できてないものは、原典にそのように記載されていたと考えるべきだ。
国生み神話の始まりである能古島(おのころ島)は弥生時代における銅矛文化の中心地である博多湾にあり、むしろその時代の伝承がそのままである可能祭が高い。 >>797
阿波からは鉄器なんて出土しないじゃないw >>803
君はビギナーかね? もうトンデモ説に洗脳されてしまってるのかな? @阿波 >>800
中央にいてたら刺史と似てないからボツ
刺史と似てるとか記録されてるんだから、刺史との共通点がないとダメだ
監察官で統治してない点と地方駐留の二点、どちらを欠いても刺史を例にあげる可能性がなくなるキー要素 「一大率」はどの道、筑紫忌部の役職だから、倭国(阿波)の中央には居ないよ。 @阿波 >>808
>無いものをあると言い張るのw
鉄器もいろいろあるんだけど、なにがいい? @阿波 三国志最強の男 曹操の人望力 - 12 ページ
刺史は本来、地方行政の組織の枠に組み入れられた存在ではなかった。役職も目付のようなもので、州や郡、県の役人が政務を真面目に司っているか否かを監督し、 その成績を考察して、中央へ報告する役割を担っていた。 刺史が地方にいるはずというのが、畿内説の唯一の攻撃手段になってしまったな。
しかし大率がそもそも中央官僚の名称なのに。 >>810
だから、どの道「一大率」は筑紫忌部の役職なんだから、倭国(阿波)の中央には居ないよ。 @阿波 >>811
大率が中央官の名前というのも外国での類例一例だけを根拠にした憶測でしかないしな 「一大率」は女王国の以北の諸国で検察してる監察官
女王卑弥呼は都の伊都国で一大率を使い国を治めている
刺史が地方にいるし、一大率は刺史の如しと記されているから一大率も地方にいるな。 >>814
類例があるのに頑なに否定する方がおかしい。 名前だけで意味の確実度が低い異言語同一名称よりか、意味説明の証言の方が重いだろ普通 百済と倭は古来から非常に近い関係なんだよ。
その百済の官名と、倭の官名が同じであるのは、なんの不思議もない。
類例がちゃんとあるのに、都合が悪いから無視するのは正しい態度ではないな。 三国志最強の男 曹操の人望力 - 12 ページ
刺史は本来、地方行政の組織の枠に組み入れられた存在ではなかった。役職も目付のようなもので、州や郡、県の役人が政務を真面目に司っているか否かを監督し、 その成績を考察して、中央へ報告する役割を担っていた。 つまり大率は地方を査察する役割の中央官僚であり、卑弥呼の王都である伊都に本拠地を置く中央官僚だな。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 >>821
>女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。
一生懸命書いてくれているが、北部九州は「其山有丹」・「末盧国」で即死。
邪馬台国論争に参加する資格は、端から無し。 @阿波 後漢書で倭とは対馬海峡の国で、その後漢代における倭の内乱を終息させるために共立されたのが卑弥呼であると魏志倭人伝にある。
それなのにどうして倭が九州以外の地域になるのか。
大率は王都である伊都に置かれ、筑紫倭国における生命線である対馬海峡を鎮守した高官だよ。 >>823
>それなのにどうして倭が九州以外の地域になるのか。
「其山有丹」でアウトだから! @阿波 「阿南・加茂宮ノ前遺跡」 平成30年7月6日 徳島新聞朝刊
「鉄器の製造拠点か」
「住居跡の半数 鍛冶炉や道具出土」
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20軒が見つかり、このうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土した。
県教委と県埋蔵文化財センターが5日発表した。鉄器の製造工房としては国内最古級で、集落(ムラ)の半分が工房という特徴から、県南部に大規模な鉄器の生産拠点が形成されていたとみられる。
竪穴住居跡で最も大規模なものは直径が約7mあり、その内部に鍛冶炉が19か所あった。鍛冶炉は直径30〜40pで、鉄をやじりや小型ナイフなどの小さな鉄器に加工するためのものという。
住居跡からは鉄器に加え、鉄器の形状を整える台石、製品を仕上げる砥石などが出土した。
石のやじりや糸を紡ぐ道具の紡錘車、古代の祭祀などに使われた赤色顔料・水銀朱を生産する石杵や石臼なども確認。
さらにガラス玉や管玉など、県内で数点しか出土していない稀少な装飾品も多数含まれ、出土品は計約50万点にも達する。
集落は、鉄器以外にもさまざまな物品を製作する工房として活用され、交易拠点としても繁栄していた可能性があるという。
県教委は2016年度から、加茂宮ノ前遺跡の発掘調査を実施。
17年2月には出土品の分析などから、南西約5kmにある若杉山遺跡で採掘された原料を使い、水銀朱を製造した工房跡との調査結果を公表している。
同時期の鍛冶炉は九州や中国地方にもあり、県内では矢野遺跡、名東遺跡(以上徳島市)、光勝院寺内遺跡(鳴門市)の3か所で確認されているが、県南部では初めて。
県埋蔵文化財センターは「他の遺跡では鍛冶炉を備えた住居跡は1、2軒だが、半数もあるのは全国的にも特異だ」としている。 @阿波 >>825
これが南の「狗奴国」「長国」です。 北の「邪馬台国」「粟国」に対抗する強大な勢力ですね。 @阿波 >>823
>後漢書で倭とは対馬海峡の国で、その後漢代における倭の内乱を終息させるために
>共立されたのが卑弥呼であると魏志倭人伝にある。
これがすでに誤読
後漢書の倭国の情報は、魏志倭人伝と基本的に同じだよ
後漢書の原文は
倭在韓東南大海中 依山㠀爲居 凡百餘國
其地大較在會稽東冶之東 與朱崖儋耳相近
魏志倭人伝は
倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑 舊百餘國
計其道里當在會稽東治之東
所有無與擔耳朱崖同
倭地(倭国)は帯方(韓)の東南大海中の南北に長くのびる洲島で
會稽東治の東、擔耳朱崖の近くまで続いている
というのは共通
擔耳朱崖は海南島あたり
思いっきり南の国扱いだろ?
対馬海峡の国なんてことは書いてないよ 朝鮮半島も対馬海峡も、実際より南北に長く思われていたんだろ。
短里で報告された距離を長里で理解してしまったことから生じた齟齬だね。 >>827
>南北に長くのびる洲島
見え見えのウソは遺憾。 @阿波 >>828
すると魏晋朝短里は間違いで東夷伝短里が正しいと考えてるのか
古田とは違う説なんだね? 帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美) 10km/100里=100m/1里
統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので、海路のデータ3つ(100,70,50)倭国に上陸したあとの陸路のデータ3つ(50,200,100)のn=3の二つのデータセットで、有意水準95%の区間推定を行うと、
海路 平均73m 分散633m
陸路 平均117m 分散5833m で
自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
海路は 73.3(10.8〜135.8)ただし( )内は95%信頼区間
陸路は 116.7(-73.1〜306.4)ただし( )内は95%信頼区間
となります。単位はmです。
95%信頼区間に430mが含まれていないから、東夷では魏の里が使われていなかったことは明白。 誤差率が大きすぎて95%信頼区間どころか80%程度の信頼すらできる数値じゃない件について
95%信頼(笑)区間とか 数値の正確性を考慮できるレベルのデータじゃないものに対して無理矢理に正確さを求めたりとか無謀に過ぎる
zarakokuみたいな、概数を加算減算すると誤差が相殺されるとかデタラメなことを信じてたりはしないだろうな?
(a ± b)−(c±d)=(a-c)±(b-d)じゃないからな
(a ± b)−(c±d)=(a-c)± √(bxb+dxd) だからな
○○余里を足し合わせて1万2千余里から引いた残りは100余里じゃなく100±数千里だぞ >>832
>95%信頼区間に430mが含まれていないから、東夷では魏の里が使われていなかったことは明白。
他人の計算に、訳の分からない誤解釈を付け足して貼り付けるんじゃねえよw
これの元ネタは「マイナスの値まで含む信頼区間しか出ないデータセットから、
短里があると言い張るのはバカの極み」っていう意味のものだぞww
根拠はオレw >>836
>○○余里を足し合わせて1万2千余里から引いた残りは100余里じゃなく100±数千里だぞ
また嘘をついている。
1万2千「余」里ではなく1万2千里だろ。
千余里は正確ではないもののおよそ千百里から千五百里ほどの間だろう(千八百里とかならおよそ2千里とか二千里足らずと書いただろう)。
そういう余りを加算すると、合計で一万二千里になるんだよ。
少なくとも陳寿らはそう理解して記録した。 三国志の分では
>自郡至女王國萬二千 餘 里
とある。1万2千里ではなく1万2千余里だよ
余が無いのは後漢書のみ
おまいら九州王朝説では後漢書は書き換えられてて信用できない、陳寿の三国志の方が正しいといつも主張してるクセに、自説の都合によっては後漢書の方が正しいとか言い出すのかよ、ご都合主義者め 帯方郡(ソウル)ー(循海岸水行7000里)ー狗邪韓国(巨斉島南岸) 550km/7000里=79m/1里
狗邪韓国(巨斉島南岸)ー対馬国(対馬北西岸)75km/1000里=75m/1里
対馬国(循海岸水行800里)対馬北岸ー対馬東岸 70q/800里=79m/1里
対馬国(巌原)ー対馬南端海域経由 一大国(壱岐北端)70km/1000里=70m/1里
一大国(循海岸水行600里) 35q/600里=60m/1里
一大国(壱岐南端)ー末廬国(唐津中原) 45km/1000里=45m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(嘉瀬川扇状地惣座) 40km/500里=80m/1里
伊都国(嘉瀬川扇状地惣座)ー奴国(佐賀城跡) 7km/100里=70m/1里
伊都国(嘉瀬川扇状地惣座)ー不弥国(吉野ヶ里)8km/100里=80m/1里 帯方郡(京畿湾 徳積島)ー(循海岸水行7000里)ー狗邪韓国(巨斉島南岸) 550km/7000里=79m/1里
狗邪韓国(巨斉島南岸)ー対馬国(対馬北西岸)75km/1000里=75m/1里
対馬国(循海岸水行800里)対馬北岸ー対馬東岸 70q/800里=79m/1里
対馬国(巌原)ー対馬南端海域経由 一大国(壱岐北端)70km/1000里=70m/1里
一大国(循海岸水行600里) 35q/600里=60m/1里
一大国(壱岐南端)ー末廬国(唐津中原) 45km/1000里=45m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(嘉瀬川扇状地惣座) 40km/500里=80m/1里
伊都国(嘉瀬川扇状地惣座)ー奴国(佐賀城跡) 7km/100里=70m/1里
伊都国(嘉瀬川扇状地惣座)ー不弥国(吉野ヶ里)8km/100里=80m/1里 伊都国の場所を動かすのはいただけない。
ただ、距離のばらつきは減ったなあ。 武将 軍師では 中国では武将が能力伸びたけど、日本には軍師が育たない
難点があるよ。 >>839
>1万2千「余」里ではなく1万2千里だろ。
三国志
自郡至女王國萬二千「餘」里
魏略
自帯方至女國萬二千「餘」里
後漢書
樂浪郡徼去其國萬二千里
梁書
去帶方萬二千「餘」里
余がないっていうのは意味ないね じゃあ伊都からさらに歩かなくてはいけないから、ザラコクのような筑後説なってしまう。 たもえば露出狂は恥ずかしがらない
変態とは、そういうもの 行程記事が現実の地理と合っていないという想定を排除しちゃうから曲解に曲解を重ねてつじつま合わせを繰り返すことになる
行程記事が間違いだらけで、この記事では邪馬台国にたどり着けないと認めてしまえば楽になるよ
畿内説を否定する論拠が完全消滅しちゃうけどね 畿内説にこだわるあまり、おおもとの魏志倭人伝まで否定しなくてはいけなくなる。 >>853
わかってないね
おおもとは、あくまでも史実
史料は情報でしかないよ 史料に多くの誤りが含まれているのは当たり前で、誤りに惑わされないように読み込むのが学問の本道
誤りをも事実と妄信して怪しい暗号解読に邁進するのは創作業。ダヴィンチコードとか聖書の暗号とかの同類。
ありもしない架空の「真実」(真実モドキ)を発掘しようとしてるだけだね >>850
>じゃあ伊都からさらに歩かなくてはいけないから、ザラコクのような筑後説なってしまう。
ザラコク氏は、私と同じ邪馬台国筑後説になったのですか?
帯方郡(京畿湾 徳積島)ー末廬国(唐津中原) 水行10日(11400里)(>>842より)
末廬国(唐津中原)−邪馬台国(八女室岡遺跡群) 陸行1月≒1000里≒80q
内訳:末廬国(唐津中原)ー伊都国(嘉瀬川扇状地惣座)ー不彌国(吉野ヶ里) 600里(50q)
不彌国(吉野ヶ里)ー邪馬台国(八女室岡遺跡群) 400里(30q)
注:卑弥呼の居所城柵(女王之所都)は久留米南部(邪馬台国中央部)
邪馬台国の範囲 北野地域(筑後川中流平野)+筑後平野内陸部(筑後平野沿岸地域は投馬国) >>852
>行程記事が現実の地理と合っていないという想定を排除しちゃうから曲解に曲解を重ねてつじつま合わせを繰り返すことになる
行程記事は現実の地理と合っているんだけどw
合っていないのはトンデモ説だからだよ。 @阿波 >>852
比率としては一定で、里の長さがおかしいだけで、あとはほぼ正しく実際の地名に比定できる。
畿内説が信じたくないだけ。
里の定義が短いだけ。 個人的には私も筑後説だったのですけど、平原遺跡があまりにも倭国女王の墓らしくて、伊都国説の方が正しく思えてきましたよ。 >>858
その割には、いう人ごとに比定地が違うね >>856
奴国と投馬国はどこに入るの?
私も
末慮国は唐津平野
末慮国から東南陸行五百里は佐賀平野だと思うけれど、
そこは伊都国ではない
違う場所への旅程が、伊都国への旅程として書かれている程度に
魏志倭人伝はいい加減
それを正しいと盲信するのは愚かしい所行だよ >>862
>私も
>末慮国は唐津平野
もし「末慮国は唐津平野」だったら、宗像にとって代わって唐津が「世界文化遺産」になってる筈。
なんで唐津が「世界文化遺産」になっていないんだろうね。 推して知るべし。 @阿波 伊都国が固定されるべきで、そこから末盧国を考えればいいんじゃないかな? >>862
>奴国と投馬国はどこに入るの?
奴国の位置
末蘆国上陸地点は、唐津平野中原遺跡(付近は弥生遺跡の密集地)。
中原遺跡の東南40q(500里)は、佐賀平野嘉瀬川扇状地の惣座遺跡(肥前国庁跡周辺)の伊都国城柵。
奴国城柵は、伊都國城柵の南南東7q(100里)の佐賀城跡になる。
奴国領域は、佐賀平野西部中南部(伊都国の在る肥前国庁跡周辺地は除く)
投馬国の位置
・投馬国は不彌国(吉野ヶ里遺跡)の南に在る。
・投馬国は帯方郡から水行20日(2万里)に在る海岸沿いの国。
以上2条件から、投馬国は有明海に面した筑後平野(佐賀諸富・大川〜大牟田)に在る。
(3世紀の佐賀市諸富は筑後川河口の南側に位置していた。佐賀平野東部は海で、
神崎市千代田以南は、佐賀市諸富を除いて、北に入り込んだ有明海の湾であった。) >>864
>伊都国が固定されるべきで、そこから末盧国を考えればいいんじゃないかな?
伊都国を固定できる根拠は何?
伊都国怡土説には根拠がない。
倭奴国怡土説は支持する。 倭奴=委奴=イト >>859
伊都国に居た王(世有王)は、卑弥呼女王ではありません。 >>866
地名が同じで遺跡も豊富だろ
これを「根拠ない」なんて言い張っても
世間がお前を信用しないよ >>868
いい加減にして、現実に眼を向けよう。
大陸からの玄関口は往古より「世界文化遺産」の相島・宗像方面。 @阿波 倭奴国が記録された時代と、怡土郡の王墓が作られた時期は同じで、それは伊都国に王ありとされた時代でもある。
つまり伊都=怡土=倭奴国だよ。 >>870
倭奴国が記録された時代・・・・1世紀後半
怡土郡の王墓が作られた時期・・1世紀〜3世紀
伊都国に王ありとされた時代・・3世紀前半
上記3つの時期時代は一致しない。 九州説のやつらがいう地名の一致って、かつて存在したとされる音韻の区別(例えば甲音 乙音?)を区別しないでいっしょくたにしたりするなど、乱暴すぎることが多いよね >>873
時代が被っているから、少しずつ表記が変わっていっただけ。 >>874
古墳はどれもこれも地方王(豪族)墓だよ。 @阿波 >>878
>春日は不弥国ではないだろうか。
不弥国は
築城五反田遺跡、上別府沖代遺跡、安武・深田遺跡、安武・土井の内遺跡、赤幡森ヶ坪遺跡
などがある「築上町辺り」だね。 @阿波 >>878
>春日は不弥国ではないだろうか。
不彌國は、「戸制度」ではなく一大国と並ぶ特殊な「家制度」であるから、特異な地域を治めていた。
その特異な地域とは、2世紀前半に衰退した帥升王倭國の首都(倭都・米多國)であった吉野ヶ里である。
不彌國集団(奴國 不彌國 邪馬台国 投馬國)に敗れた帥升王倭國は、倭都を西方100里の佐賀惣座遺跡(肥前国庁跡付近)に遷都した。 「戸」表記の地域と「家」表記の地域が別系統史料に由来してるだけだろ
つまり、「戸」表記資料に収録されてない地域だったって事
魏じゃなく呉と交流があって魏に情報が渡ってなかったとかな >>864
>伊都国が固定されるべきで、そこから末盧国を考えればいいんじゃないかな?
伊都国の北西500里は海の上
その程度に、魏志倭人伝の旅程記事はいい加減 >>863
>もし「末慮国は唐津平野」だったら、宗像にとって代わって唐津が「世界文化遺産」になってる筈。
>なんで唐津が「世界文化遺産」になっていないんだろうね。 推して知るべし。
宗像が世界遺産になったのは、海の正倉院、沖津宮の存在が大きい
まあ、半島との航海の神であることは間違いないけれど、卑弥呼の頃とは時代が違うよ 宗方の祭祀は上古から始まっている。
必ずしも時代が違うわけではない。 >>884
>まあ、半島との航海の神であることは間違いないけれど、卑弥呼の頃とは時代が違うよ
もし「末慮国は唐津平野」だったら、宗像にとって代わって唐津が「世界文化遺産」になってる筈。
なんで唐津が「世界文化遺産」になっていないんだろうね。 推して知るべし。 @阿波 >>882
>「戸」表記の地域と「家」表記の地域が別系統史料に由来してるだけだろ
>つまり、「戸」表記資料に収録されてない地域だったって事
「戸」「家」は古代中国の概念
「戸」:王領主の所有物である農奴(農民奴隷)
「家」:王領主に対して自主性有(王領主の部下になれる)
「家」は場合によっては王領主になることもある。
日本には歴史的に農奴がいなかった。
日本の農家=農奴 と考えるアホなシナ人が今でもいる。 「世界文化遺産」と「末慮国は唐津平野」には何の関連性もない。 >>888
>「世界文化遺産」と「末慮国は唐津平野」には何の関連性もない。
そうだね。
「世界文化遺産」と「末慮国は相島・宗像方面」には関連性があるってこと。 @阿波 「世界文化遺産」と「末慮国は相島・宗像方面」にも何の関連性もない。 同じ文化圏だろ。
筑紫を中心とする古代文化があったということだよ。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 >>891
>同じ文化圏だろ。
文化は圧倒的に相島・宗像方面だね。 @阿波 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
4TW >>887
>「家」:王領主に対して自主性有(王領主の部下になれる)
「家」は場合によっては王領主になることもある。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。
方可三百里、多竹木叢林。「有三千許家。」
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。「有千餘家。」
壱岐と不彌國にだけ、自主自立の民が千家単位であるっておかしいだろ?
単にもと資料の表記の違いだろ >>895
>壱岐と不彌國にだけ、自主自立の民が千家単位であるっておかしいだろ?
>単にもと資料の表記の違いだろ
漢籍で「戸」「家」の使い方を調べてごらん。
「戸」:農奴 奴隷の農家
「家」:自立農家 豪族 九州王朝が確かだとすると奈良の飛鳥とかにある遺跡はだれが作ったのか?
東鯷国? >>898
>奈良の飛鳥とかにある遺跡はだれが作ったのか?
倭国(阿波)から遷都する前の朝鮮半島人たちの遺跡。 @阿波 日本国は倭種(倭と同じ民族)とあり、九州の分家の扱いですね。
それが後に(九州の)倭を併合したのだとか。 >>900
>日本国は倭種(倭と同じ民族)とあり
倭国(阿波)から遷都する以前は「倭種の国」。
8世紀の遷都後は「日本国」「大倭国」「大和国」 @阿波 >>896
呉、楚など南方の文化圏では黄河流域の文化圏とは用字に違いがある
口と書くところで嘴をよく使う傾向がある、みたいな、方言がな。
戸と家の違いも、元資料が違ってたことを反映してるだけ、つまり片方が呉で作られた資料を使ってるんじゃないか、と思うわけ。
意味の違いによる使い分けと主張するには同一著作内での使い分けの例を示さないと(それも、引用ではない部分もしくは同一資料からの引用文とわかるもの)証拠にはならないよ >>902
>呉、楚など南方の文化圏では黄河流域の文化圏とは用字に違いがある
文化圏による用字の違いではない。
三国志では、「戸」が「魏書」「呉書」「蜀書」で夫々同じ意味で使われている。
魏志韓伝では、統一王者の居ない馬韓辰韓弁韓夫々では「家」を使い、
韓全体としては「戸」を使っている。 邪馬壱国の所在地論争は、『魏志倭人伝』の行路記事のありとあらゆる解読案にも
かかわらず、未だに決着を見ていません。 これは、万人を納得させるような解読方法が発見されていないからですが、
それでも『三国志』全体を調査せず、倭人伝だけであれこれ推理していた
「古き良き時代」なら「正しい解読方法がまだ発見されていないだけかも
しれない」という可能性も十分あったので、文献オンリーで邪馬壱国の位置が
わかるかもしれないという希望が持たれていたと思います。 ところが、おそらくは古田武彦氏に始まるのでしょうが、「倭人伝だけを調べていた
のではだめで、『三国志』全体を調査しなければ倭人伝を解読することはできない」と
いう新しい見方が導入されました。古田氏によれば、「漢字の用法を『三国志』
全体から帰納すれば、倭人伝の矛盾のない解読方法が判明する」というのです。 このような見方は斬新なものでしたから、この手法と結論の検証が、
アマチュアを含む多くの研究者によって行われるようになりました。
例えば「短里」の問題などはその最たるものでしょう。 ところがその結果分かったことは、ある意味では当然といえば当然で、
しかし非常に残念なことではありますが、「『三国志』全体を調べても、
一つの漢字には多くの用法があり、しかも一冊の正史は一人の著者に
よって実際に書かれたとは限らず、従って文字の意味は一意に定まらず、
このような方法によって漢字の用法を帰納して倭人伝を解読することは
不可能である」というものでした。 また、陳寿の撰述態度は、できるだけ原典を尊重するというものだったとされており、
典拠資料の原文に極力忠実に記したものと言われています いわゆる魏志倭人伝でも、戸数が、基本的には「戸」で記されているのに
一大國と不彌國だけ「家」となっているのは、もとの資料でそのように
書かれていたからだと解釈されています >>1
>トンデモ説の域はでてないのかな?
トンデモ説の域、どころか、トンデモ説のお手本みたいなものだよ
誤読と曲解と、捏造+チェリーピッキングでできているんだからw
誤読 伊都国が、邪馬台国の都
曲解 水行の起点は帯方郡
捏造 短里(東夷伝里) 短里の発明が二十世紀初頭で古田より古いから、
古田単独での捏造とは言えないよ
短里に否定的な見解が主流になっていたなかで
牽強付会で再興させただけだ 発明じゃなくて、実際の地理と比較するとそれくらいの尺度であることがわかった、というだけのことだろう。 九州も狭いし、王の存在はマジでいかんと思う。列島にもいらない。
おとづれ のだいじさなるなり >>913
実在しない架空の度量衡を創作するという手法を発明したのが20世紀初頭のこと
それが短里説 「単里」は、「周髀算經」でその存在が証明されています。 1里=76.5m(平均値)
「周髀算經」の記述内容がBC1120年頃迄の事象であることを、現代の天文学は証明しています。 誤読 伊都国が、邪馬台国の都
その通り。
曲解 水行の起点は帯方郡
「從郡至倭」の「從」の意味を理解できると水行の起点が帯方郡になる。
捏造 短里(東夷伝里)
>>923で「単里」の実在が証明されています。 「從郡至倭」と「自郡至倭」の違いを理解出来なければならない。 >>924
>誤読 伊都国が、邪馬台国の都
> その通り。
誤読なのは、その通りなんだね!
意見の一致を見て、なによりだよw >>924
>曲解 水行の起点は帯方郡
> 「從郡至倭」の「從」の意味を理解できると水行の起点が帯方郡になる。
バカ?
それ以前に(文章中で)今いるところから出発じゃないと話が通じない
そしてその主張だと帯方郡から南に行くだけで邪馬台国につくことになるが
冒頭の「倭人在帶方東南大海之中」と明確に矛盾する >>924
>捏造 短里(東夷伝里)
> >>923で「単里」の実在が証明されています。
>>923
>「周髀算經」の記述内容がBC1120年頃迄の事象であることを、現代の天文学は証明しています。
「周髀算經」は、蓋天説という古代中国ですでに間違いであることが明らかにされていた書物
春分秋分の正午の影の長さが、冬至と夏至の中間とか、実測値ではないことがそれだけで分かる
一寸千里とかいうのは、蓋天=平面の空が、地上から八万里としていて八尺棒で影を測るから
その比が一寸千里ってだけだよ
一寸千里×80=八尺八万里
こんなものしか頼るものがないんだよな、九州説はw >>929
文章修正
「周髀算經」は、蓋天説という古代中国ですでに間違いであることが明らかにされていた
「間違った説に沿って計算を行った」という書物 >>930
漢代の天文学者「太陽までの距離が一万数千里から十数万里まで変わるというのに、太陽の見える大きさが変わらないのはナゼだっ? 実測したってウソだろ」
周髀家「・・・・」 周髀算經には「北極枢大星」の観測が書かれています。
これは現代21世紀の天文学に基づくと、
商代BC1120年頃の小熊座ベータ星が北極星であった時の観測結果になります。
観測地点:北緯38度 石家庄付近
「一寸千里」の観測は、上記商代「北極枢大星」の観測より古いものですが、同じ商代のものです。
「一寸千里」の観測は、夏至の正午のものです。
現代とは異なる商代の地軸の傾きを基にして、「一寸千里」を求めると、
1里=76.5m(平均値)になります。 周牌というアイテムを扱って計算するから周牌算、その計算方法に関する本だから周牌算経なんだよ
周代のことを記したなどと捏造するなよ 「自郡至倭」
訳:郡から倭に至るには
「從郡至倭」
訳1:郡に立ち寄って、そこから倭に至るには
訳2:郡を経由して、そこから倭に至るには
訳3:郡の向こうにある倭に至るには
倭への行程は不彌國(女王國)までで、道里は12000餘里
投馬国へは概算道程水行20日(概算水行2万餘里)
邪馬台国へは概算道程水行10日(概算水行1万餘里)と概算道程陸行1月(概算陸行1千餘里) >>932
昔からある天文学の情報や腐儒の空想をツキハギにちりばめて箔を付けようとしただけのトンデモ本だよ
ツギハギなので、現代人が現代知識を接ぎ木して逆算すると変な値が出る >周代のことを記したなどと捏造するなよ
商高(商の高官)等から商の知見を学んで、周公(周旦)がまとめたものが「周髀算經」である。 >>937
それ、真っ赤なウソ
「昔、周公が・・」って書き出しでモロバレ >>938
周公(周旦)が商高(商の高官)に質問して、
商高等が質問に答える形式で書かれているのだが、
その何所が真っ赤なウソなんでしょうかね?
それを文書化したのは、周公(周旦)の部下でしょうね。
周旦は周建国時の最大の功労者です。事実上の王
「昔」とあるのは、周が殷商を滅ぼした時の会話だからでしょうね。
殷が引き継いできた商文化知識を周が引き継ぐ為の会見を記録したものでしょう。 昔の偉人が語ってる形式で説明するのは古代の本ではかなりメジャーな一般形式だぞ
戦国時代半ばか後半頃成立の「老子」だって、孔子よりひと世代上の架空の偉人「老子(李耳、あざなは? )」が年若い孔子に語り聞かせる体裁をとっているし、
論語の中にも孔子が周公の言葉として語る架空の言説(多くは孔子の創作か当時の巷説の引用で史実ではないと思われる)が記されている
「昔、周公が・・」って書き出しは、むしろ典型的な創作物だよ
周公が言ったとされる言説のうち、後代の人間が作ったものでなく本当に周公が言ったと考えていいのは青銅器に鋳込まれた金石文の言葉だけ。
書物に記されてる物は(史記の周本紀のものも含めて)たいていは後代の創作
とうぜん、周牌算経も後漢代の創作物 >>934
漢典
「從」
6. 自、由。《孟子•離婁下》:“施施從外來。”唐•杜甫《月夜憶舍弟詩》:“露從今夜白,月是故鄉明。”
English
from, by, since, whence, through
単に、「自 より」と同じ意味で使われているだけだよ
前にも女王之所都で「之」が入っているから、「女王の都するところ」じゃないって
言ってた九州説のあんぽんたんがいたけれど、九州説にはまともに漢文が読めるやつはいないのか? 古田氏は、珍読というよりは、牽強付会のほぼ捏造だからちょっと違うと思ふ 周牌算経は、天も地も平面で、その平面の間の距離が八万里っていう蓋天説に沿って
机上の計算をしているだけだから、それを現実の地理の説明に使おうなんてのが、
端からおかしいんだよ
周牌算経により短里の存在がーとか言い出すのは、愚の骨頂w >>948
そうそう。
んで、古文献の世界全般の常識を無視して逸脱していくんだよ。典型例が939 >>940 及び>>941-950
>とうぜん、周牌算経も後漢代の創作物
周髀算經の内容が後世の創作物ではありえない証拠を示しましょう。
天文学天体物理数学に弱い君には理解できるかな?
以下が周髀算經 巻下 3 に書かれているである。
>>https://ctext.org/zhou-bi-suan-jing/juan-xia/zh
上記にかかれている内容を解説しよう。
@黄道の北極点(北極枢) こぐま座ベータ星(北極中大星) 赤道の北極点(地球自転軸傾斜角の基準)
上記3点が天球に一直線に並んでいる。
A北極枢(天の北極)と北極中大星(北極星)がなす視角は、5.399度である。
B上記@Aを観測する日時場所は、観測者だけが設定できるものである。
観測場所の緯度は、観測者のいた時代の北緯37.836度である。
上記3条件が揃う時代は紀元12世紀末(BC1120頃)しかない。
北極星が存在しない時代である後漢の人が、創作で書けることはありえない。
「周髀算經 巻下 3」は、紀元12世紀末(BC1120頃)の観測者だけが書ける内容である。
よって、周髀算經に記述された内容は殷商時代のものであって周代以降のものではない。
以上の内容にについては、AD2000に地球の歳差運動についての詳細なデータが
発表提供されるようになってから考察可能となったのである。 キナイコシは真理を探究するセンスが皆無なんだな
>>951 数値の精度やら誤差率を自説の都合に合わせて緩急つけるのも王朝信者の18番だね
曲解や珍解釈と都合のいい部分のピックアップ/無視とか、インチキ手法の大盤振る舞いだよ 一寸千里法は、
魏志倭人伝の里程単位「一寸千(短)里」説批判 Unit of Length mentioned in WEI CHIN concerning Japanese People Critique of the short mileage theory
篠原 俊次 Shinohara Shunji
って論文で論破されて、それに対する反論も出さなかったことで終わってるだろ
計量史研究
計量史研究 7(1), 7-22, 1985 日本計量史学会
を探して読んで来いよ
周牌算経の数値から得られる数値はたくさんあって、「2580B.C.年」 とか、「地理的には現在の山西省陽泉市?大原市を結ぶ高緯度線」
など、数値誤差に起因してか、いろんなばらついた結果が出まくってるぞ
どう見ても自説に都合のいいとこだけピックアップしてきました、他は無かったことにしてます、感が出まくってる。
これがインチキじゃなかったら、インチキって言葉の意味を根源から問い直さなければいけないよな
古田説w チョンのような感情的反論しかできないようだね。
論理的理知的反論が欲しいな。
それによって周髀算經巻下3論もより強化されると思うんだがね。
それとも無視? 依拠文献が示されてるのに感情的とか
伊都クズはまじに学問の方法論を理解してないな >>956
「地理的には現在の山西省陽泉市ー大原市を結ぶ高緯度線」説は、
時代による赤道傾斜角の変動を考慮し忘れていますね。
「2580B.C.年」説は、りゅう座アルファ星トゥバンがピラミッド建設時の北極星であったことですね。
篠原 俊次氏の論文は反論に値しない内容だったと記憶しているが。
其の論文は1985年。
北極枢大星「周髀算經 巻下 3」説は、
AD2000に地球の歳差運動についての詳細なデータが
発表提供されるようになってから考察可能となったのである。 >>959
愚にも付かない難癖をつけることしかできてないのに否定したつもりになってる酔っ払い談義を紹介して、それで否定したつもりになってるのか。悲惨なほど知的レベルが低いね
酔っ払い談義が学術的考察に見えてしまうほど判断力が無いなんてさ 節穴だらけ。
引用が普通でない論文という指摘がある。
それだけで失格。読む価値なし。
批判する価値もない論考と思われたんだろうね。 冬至の影の長さが短すぎる、実測だったら同一地点ではないはずの数値を記載してるのに、
どのような根拠で実測だと信じたのか。
本影、半影の別も誤差も考えても、あり得ないほどに冬至の影の長さが短い。
記載数値に正確さがないと考えざるを得ないほどの大きな狂いがある。
そんな本の中から、自説に都合がいいとこだけピックアップするいんちき。
まともな頭がある人なら信用しないよ 形式の整ってない論考は読む価値がないよ
反論以前の問題。むしろそんな論文を読み解く時間を浪費するだけ有害な存在。そんなことも理解できないのか?
まともに査読したことないな? >>960
に反論がでないから
創作でなかったということだね。めでたしめでたし。 >>970
あなたの理屈では反論がなかったものは全部、妥当なもののようだからね。
論理性がないことを認めると言うことだから
やはり篠原論考はここでは不適当と言うことだね。わかればそれでいいよ。 >>971
反論もせずに無視とはさすがトンデモ古田説
論理性がない >>960
>「地理的には現在の山西省陽泉市ー大原市を結ぶ高緯度線」説は、
>時代による赤道傾斜角の変動を考慮し忘れていますね。
それを考慮したら何年ぐらいになるか教えてほしい
BC1100年ぐらいになればいいんだよね? そこまで大きく変わるなら是非とも発表を求む。無理だろうけど。 >>974
いちばん最初のやつだけは論文としての形式と体裁を確保できてなかったっけ?
他は全部ダメだけど 春分と秋分の影の長さが、冬至と夏至の影の長さを足して2で割ったものって時点で
実測値ではないのは明白だと思うんだが?
何か反論はあるかい? 欲知北極樞,璿周四極。
常以夏至夜半時北極南游所極,冬至夜半時北游所極,
冬至日加酉之時西游所極,日加卯之時東游所極。
此北極璿璣四游。正北極璿璣之中,正北天之中。
正極之所游,冬至日加酉之時,立八尺表,以繩繫表顛,
希望北極中大星,引繩致地而識之。
又到旦,明日加卯之時,復引繩希望之,首及繩致地而識其端,相去二尺三寸。
故東西極二萬三千里,其兩端相去正東西。中折之以指表,正南北。
加此時者,皆以漏揆度之。此東、西、南、北之時。
其繩致地所識,去表丈三寸,故天之中去周十萬三千里。
何以知其南北極之時?以冬至夜半北游所極也北過天中萬一千五百里,
以夏至南游所極不及天中萬一千五百里。
此皆以繩繫表顛而希望之,北極至地所識丈一尺四寸半,
故去周十二萬四千五百里,過天中萬一千五百里;其南極至地所識九尺一寸半,
故去周九萬一千五百里,其南不及天中萬一千五百里。
此璿璣四極南北過不及之法,東、西、南、北之正勾。 古い時代の事実が書いてあるから古い時代に書かれた本だと思い込む馬鹿は
歴史の本を読んだことのない馬鹿 >>462
唐に人質にとられてるのに何いってんだ?こいつ 捕虜になったときの記録も残ってない程度の重要性しかない人物だから問題ない >>760
元寇の襲来考えてみ
船作るのに半島の山は丸坊主になったらしいよ
蒙古襲来の時代でさえ九州から対馬に渡るのにも3艘に一艘は沈むくらいだよ
現地に倭人が居たに決まってるじゃん >>983
日中に記録が残っているよ。
筑紫の君を帰国させるために向こうで自身は残留した人の話とかあったよね? 今週は熱中症にやられ、書き込みができませんでした。
>>975
>>「地理的には現在の山西省陽泉市ー大原市を結ぶ高緯度線」説は、
>>時代による赤道傾斜角の変動を考慮し忘れていますね。
>それを考慮したら何年ぐらいになるか教えてほしい
>BC1100年ぐらいになればいいんだよね? そこまで大きく変わるなら是非とも発表を求む。無理だろうけど。
北極枢北極中大星の観測された年は、何年になるかは直接求められません。
前述の@Aで求めた年代が適切かどうかの検証に使います。
例えば前述@で求めた年代の時の赤道傾斜角から、
大原ー陽泉ラインの緯度を赤道傾斜角の変動角度分で修正すると、
BC1120に実際に観測した緯度は、現在の邢台北部の緯度になります。
邢台は、商代の第4商王朝(邢商王朝)の都城である「邢」ですから、
北極枢大星の観測は、商歴代王朝の領域内北辺地でなされたものと考えられます。
以上より、周碑算経に書かれている内容は商代の知識であるといえます。 まだ脳が熱中症だろ
平成28年版最新「せかいのれきし」に書かれている内容も
商代の知識であるといえますよ >>988
>まだ脳が熱中症だろ
>平成28年版最新「せかいのれきし」に書かれている内容も商代の知識であるといえますよ
情緒的感情的発言しかできないお前は、チョン(朝鮮人 韓人)だな。 >>989
九州説の大変なところは「人材難」だよな
日本書紀に2回だけちらっと名前が出てきただけの筑紫君薩夜麻あたりを倭王としないといけないんだから
倭の五王は九州説だと、当てるべき人物がそもそもいないんだよね
記紀の物語が九州の倭王家の歴史を盗んだものだって九州説の人は言うけど、だったら倭の五王の墓はどれ?
磐井の乱の、磐井の墓とされる岩戸山古墳より大きな墓はないよね? >>991
>倭の五王は九州説だと、当てるべき人物がそもそもいないんだよね
これは畿内説へのブーメランだよ。 >>993
嘘つきw
「讃」→仁徳天皇
「珍」→反正天皇
「済」→允恭天皇
「興」→安康天皇
「武」→雄略天皇
異論は認めるが、候補はたっぷりいるよ
「武」→雄略天皇は鉄板だし >>992
>畿内は墓の大きさしか語る言葉を持たないらしい。
それで、九州王朝説では倭の五王の墓はどれ? >>995
系図が一致しない。
無理に当てはめようとして破綻している。
候補がたっぷりいるなんて、逆に誰でもないことの証明のようなもの。 情報の欠落や混乱が起きないという前提に立つから一致しないと思い込んじゃうだけだね
古文献の読み方に対する無知による勘違いに基づいた否定論だ。マトモな反論になってないから没 都合の良い史料は捻じ曲げてでも採用し、都合が悪い史料は無視する。
それが畿内説のクオリティ。
親子兄弟の関係が全然違う天皇を倭の五王に否定してもへっちゃらさ! そもそも記紀の記述自体が正確性を欠いているという説が主流となっているのだから、中国の記録と一致しないことに意味はないと考える以外に解釈の余地はない
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