九州王朝ってどこまで信じれるの?
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wikとか見たらすごい面白そうなんだけど
トンデモ説の域はでてないのかな? 記紀は捏造だとか言いつつ自分で歴史を捏造しちゃったやつ 世界史的には間違いなく存在したが日本史ではまるで無かったことになってる九州王朝は実在する。
征西大将軍こと後醍醐天皇の皇子、兼良親王の北九州に成立させた王朝。
少なくとも、世界史的には実在する。 どこまで信じれるか、だと?
何一つ信じられませんが、何かw やっぱり記録に残ってないから信じられないのかな?
天智天皇と天武天皇あたりってかなり怪しいと思うんだがどうなんだろ? 記録に残ってないのは、そもそも九州王朝なんて無かったから。
私は天智・天武あたりが別に怪しいとは思わない。以上 倭国と日本は別物
日本の国号を奪った。
唐書に記録があるし。天武が革命っぽい事を言ってた記録とかもあったんじゃなかったっけ? >>8
もういっぺん良く読んどけ
442 :日本@名無史さん:2014/08/27(水) 23:59:56.49
>>438
倭国も日本国も「やまとのくに」で基本は同じです。
中国では国名が変わると王朝の交替を表わすので、
中国側がこの国名変更に色々思い悩んでいる様子が看て取れます。
唐書よりも古い本の「通典」や「唐会要」と比較してみると、何となく事情が見えてくるのではないでしょうか。
「明史日本伝」などを読むと分かりますが、中国の史書は結構いい加減(説明不十分)なところがあります。
中国の史書を「文字通り」読むだけではいけないことを知っておくべきでしょう。
まあ、中国にとって日本は、東海の辺鄙なところにある島国に過ぎませんから仕方ありませんが。
王朝が変わるというような意味でのリセットはまず無いですね。飛鳥京域からは斉明朝以降の木簡が見つかりますが、
極端な断絶を示すようなものはありません。それに、記紀が書かれたのは西暦710年代つまり
今からちょうど1300年前のことで、壬申の乱は672年ですから、1972年の日本を知る人が今でも大勢いるように、
672年の飛鳥を知る人も当時まだゴロゴロいたはずで(現に天智・天武の子女たちが何人も存命ですから)、
そのような中で国の大枠やトップに関わる事項が史書で根本から改変されるなどということは、考えづらいと思われます。 >>6
記録に無いものを勝手に妄想するのは「歴史」じゃないの。
日本史板じゃなくてオカ板とか創作文芸に行ってください。 >>9
それは一例で。
天智天皇が紂王で天武天皇が武王
みたいな説とか。天武の方が年上とか。
さらにその前の聖徳太子非実在説と日本書記の信用度
日本書記の編纂を命じた天武天皇。 >>13
結論は出てるよ
九州王朝なんてものはフィクション 磐井王朝の話だったら可能性があるだろ
本質にせまらないで皇統だのなんだの誤魔化して
いるから答えがでないっていってるんだが?
やれ朝鮮がどうだの変なことばっかり言ってるもんな
ほんとに死ぬかお前ら >>12
逆にそういう「説」を疑ってみることも必要だよ。
あと、君は日本書紀とか信用できないとかいって
九州王朝に期待を寄せているようだけど、
九州王朝説は日本書紀以上に信用できない、といっても過言ではない。 阿毎多利思比孤だの話は九州の可能性が高いんだろ
捏造されてるのは分かっているんだよ >阿毎多利思比孤だの話は九州の可能性が高いんだろ
↑これが捏造 倭奴国該当は九州です
昔の日本史の常識ではな
九州は橘氏系の氏族の拠点でもある
橘氏関係から調べていくのが正解 >>15
そこいらのオッサンの与太話より記紀を信じるね そもそも、もう4世紀には漢字は流入してたから、当時の記録は伝聞として200年くらいは残ってたはずなんだよね。
したがって、九州王朝なんて存在しえないんだよね。 似たようなので王朝交代説ってのもあるけどそっちの
信用度はどんなもん? 議論は停滞気味だね
継体天皇新王朝論もあくまで俺の私見だけど積極的に
新王朝だ!簒奪だ!という人は最近はあまりいないような気がする >>23
王朝交代説ってのは三王朝のが有名だけど、
今は政権持ち回り説なんてのもあって、
ヤマト王朝とか王権というより、ヤマト政権とか言ったりする。
それに地方の豪族とかも独自の勢力持ってたから、
ヤマトも有力な「一地方政権」的な見方もある。
中央集権国家としての日本国が出来た8世紀頃〜が王朝というにふさわしい。 九州に王朝なんかないない。
鹿児島住みだけれど
こんな田舎にまず人が居た訳がない。
熊襲とかの野蛮人位のもんでしょ。
上野原遺跡も嘘臭いから、
遺跡周辺は工場地帯だけど、
建設前の事前調査も無視してガンガン
建物建ててるよ。 未開の原住民に王も何もなかろう。
九州の大酋長なら居たかもしれない。
現在のサモアの元首:オ・レ・アオ・オ・レ・マーロー。
俺、というのは酋長の自称。
麻呂こそ酋長のことだ。
納得しただろう? けど出雲地方は古代では大都会だったわけでしょ。
今、九州が田舎だからといって当時も田舎だったとは限らない。 桜島大噴火、 桜島は、かつては文字通り島であったが1914年(大正3年)の噴火により大隅半島と陸続きとなったというから、
桜島周辺を掘れば、ポンペイ遺跡が出てくるだろうね。 >>28
出雲が都会だったというより、今の京都のあたりも出雲だった。だから、京都には出雲のつく地名が多い。
鴨族じたいが出雲族だし。
出雲は大和(日本)を譲る代わりに、出雲に神殿を建ててもらったもの。 倭王武の上奏文や稲荷山鉄剣銘文から考えるに、
少なくとも雄略天皇の時代は王朝といっても差支えないと思う 埼玉の古墳から長い文章が書かれた剣がみつかるぐらいなんだから。
他の古墳も調べれば古代史の事が解るような史料が見つかるのかな。
宮内庁が許可出す事ってあるのかなあ? 宮内庁にとって不都合な事実を公表する予定はございません。 記紀なんての自体が全部作り話っていうのが当たり前の事実だろうけど。
何故そう言い切れるか?今に残ってるから。今に続く権力に都合がいいから残されたのです。 >>34
ハァ、じゃあなんで邪馬台国論争に参加されてるんで?
魏志倭人伝も信じないんでしょ? そういう次元の話じゃ無い。
北九州に王朝のようなものがあったであろう事は想像する事が容易い。
なのに記紀には磐井の乱程度の事しか大きな話題が無い。そんなわけないだろう?
吉野ケ里然り、多くの大規模な遺跡が見つかっているのにこれらをいちいち邪馬台国に結びつける必要性は無い。
本来、魏書に僅かに残る邪馬台国の記述をを古代日本の統一王朝のように捉える意味もないのだ。
裏返せばこれらの歴史の流れという定説が全て後付け設定なんです。
アカデミズムってのの現場で当たり前のようにそれが何の疑問も持たれない。気持ちの悪い話だ。聖書物語に近いね。 邪馬台国の規模からして、どう考えても九州の国とは思えないんだが。
邪馬台国=大和朝廷だろ
記紀で九州の国は小国扱いだし >>36
アカデミズムにも受け容れられない与太話は聖書偽典以下だね。 北部九州は7世紀くらいまで、
相変わらずのマイペースで、
墳墓も前方後円墳を作ったかと思えば、
でっかい円墳も作る。
まったく統一感がなく、広域支配された形跡もない。
ある程度の連合はあったのかもしれないが、
実態は小国の集合体で、なにかあればすぐ
ばらばらになる。
倭人伝に書かれたままの状態。 ついでに小国の各国が鉄や鏡、玉などを、
生産して使用していたので、
環濠集落ごとに鍛冶の痕跡があったり、
玉の加工痕跡があったりする。
小国なので規模は小さいが、
それぞれがワンセット持ってたようである。 九州王朝なんて今も昔も存在しないし、邪馬台国も九州にはなかった。 九州王朝は太宰府の前身だな。
太宰府周辺を発掘すると、
昔からいろいろと工事が行なわれていたらしく、
弥生土器から須恵器までごちゃまぜに出てくるそうな。
つまりそれだけ長期間集落だったということだが、
それで九州では弥生時代から須恵器があったなんて、
無茶書いてるサイトがあったな。
さすがにそれには賛同できないが。 天智は金春秋の庶子王子で金ヒエイ。
新羅国の人質として太宰府に着たが、
倭国王からは疎外され面通しも無かった。
660年の百済戦争に志願し出兵。
亡国百済の庶子王子一行を太宰府に護送する任務を与えられるが
途中で彼らを殺し、自らがそれに成りすます。
それで太宰府から難波宮に倭国王の特使としてやって来た。
そこで半島出兵命令を偽って発行し、
驚いて抗弁するイルカの頸を鎌足仕込みの朝鮮刀法で斬り飛ばした。
天王寺に急行してイルカの衛兵共を皆殺し、住吉に着至。
住吉大神の神託として軍権を掌握した。
飛鳥に攻め込みエミ氏を焼殺、馬子の墓を暴く。
近畿の大軍を率いて太宰府に戻り、
倭国王を力で退位させ、その後に暗殺。
白浜に手勢をまわして捕獲していた斉明天皇を公開処刑した。
すぐさま半島出兵し、新羅軍の誘導に従って、百済故都に進軍した。 王朝と言うより各地に固まって各々の
暮らしをしていたんでしょう 九州王朝が成立するのは、
6世紀の前半からだね。
それ以前のどの段階で、
ある程度まとまるようになったのかは
分からないが。 九州王朝など存在しない。
九州王朝説は、異端である!
抹殺しろ! 九州王朝が存在したらしたらでよいではないか。
どのみち、大和天皇家とは接続がないのだから。
神武東征があったのは卑弥呼金印仮授以前である。 >>54
九州王朝説は本家の古田とは別に取り巻きが妄想膨らまして
各自勝手な説を唱えてどんどん増殖しちゃったからなぁ
九州王朝が畿内勢力を併合して統一政権になったとか
九州王朝と畿内王朝が合体したとかのバリエーションもある このまま収拾のつかないトンデモ群として消滅していくんだろうなぁ 1)天皇家には姓が無い。
2)阿蘇山のある倭国の王「阿毎」多利思比孤だった。
3)故に天皇家とは異なる倭国が阿蘇山の付近にあった。
3段論法によって九州王朝が存在した事が証明できる。 なるほど、お話になってないね。
このまま収拾のつかないトンデモ群として消滅していくんだろうなぁ 集住集落があった程度でしょうね。
古い所でも↓国分の上野原みたいな9500年前とか大した物は出ないし。
http://www.jomon-no-mori.jp/uenointr.htm 九州王朝説がまったく信じられないことが、よくわかった ビッグコミック立ち読みしたら天智と天武で中大兄皇子と大海人皇子が唐に捕まってけど筑紫君=大王説を取ったのかな 天智は、武則天の寵愛を受け、高句麗征伐軍の先遣隊長を務めた。
この集団が土着し自立したのがマッカツであり、モンゴル宗家に発展した。 日本、倭、百済残部、高句麗、これらすべてを
一人で破壊し尽したのだから、天智はスゴイ。
695年に、藤原京開基を祝賀する新羅国外交団として
フヒトや小角ら一騎当千の部下を連れて入京した天智は
すぐ姿をくらまし、近江多賀方面で三日で二万の兵力を醸成。
蒲生、甲賀を抜けてサボ山に伏兵し朝駆けにて藤原京を急襲、
それを完全封鎖した。
文武王の妾であった天智の妹が天皇となりその孫が日嗣となった。
新羅王の傍系が天皇家を乗っ取ったわけである。
このときの俄か兵力の成れの果てが比叡山僧兵やら興福寺僧兵やらである。 >>継体天皇新王朝論
ある意味では正しいでしょう。
まともな実力者で天皇になりたがる人物が
全く出てこなくなったので
九州主導で継体が押し出された。
引き受ける代わりに生命保証してほしいと願ったので
その目的のため倭国副王が難波宮に設置された。
天皇家を強く太くするため編み出された
万世一系法の弊害が極みに到達した時代なのだ。 >>55
古墳時代スレに「倭の五王=仁徳の弟から九州王朝に分岐した」といってるやつがいた
もうどんどん収拾つかなくなってるな きうしう王朝説は元々が、野史ですから
収拾つかないのが当たり前ですよ。 >>66
越と近江って明記されてるのにわざわざ九州に持っていく理由を知りたいね >>72
古来の史実書物なんて客観的立場で書いてない限り
捏造だらけだからよほど信頼に足らないと眉唾ものだね
しかも越と近江って邪馬台国時代の文化的遺跡なんて皆無でしょw
前から思ってんだけど継体関連なんて
無理に整合性を持たせようとするところなんてかなり眉唾ものだよ >>73
5世紀末から6世紀の人物である継体帝と3世紀の邪馬台国とが関連しないからって何だってんだ 旧肥前国、肥後国が女王国。
そのうち肥後国が邪馬台国
漢委奴国王の帥升は奴国=筑前国
筑後川沿いの筑後は広大な土地であったが、
筑後川が暴れ川であることと、広大な低湿地地域であることから、
あまり使える土地ではなかった。
しかし、灌漑土木技術が進むに連れ、広大な良田となる。
有明海湾岸を支配する肥国と筑後川沿いを確保しようとする
筑前奴国で抗争が勃発。
その境界である吉野ケ里、安永田や、瀬高、大牟田、玉名では、
大量の武器と戦死の痕跡が残る。
ついには筑前が久留米高良山を取り、戦争は終了、
合併はしていないようだが、不戦協定が結ばれる。
景行天皇が残る熊襲退治を行い、九州は統一される。
帰りに肥後地域を通るが、ここでは戦争になっていない。
九州王朝設立。 >>77
相変わらず、どこが馬鹿なのかを
指摘する知能はなさそうだね。 どこが馬鹿か言われないと分からないのも深刻な知能不足 >>76
熊襲勢力が大分鹿児島
邪馬台国が肥前肥後
大和朝廷が筑前
こんな感じだね 大分とか宮崎の沿岸部は北部九州と同じタイプの人骨がでてる
熊襲は球磨とか曽於のあたりでしょ 景行天皇の九州巡幸では
豊後国(大分)で土蜘蛛を倒し
日向国(宮崎)に入り熊襲を倒した
よって宮崎鹿児島が熊襲だ 845 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2014/12/06(土) 20:52:49.74
南九州の山間部古墳人は,「低・広顔」傾向を示し,宮崎平野の古墳人は「狭・高顔」傾向が強い。
眼窩および鼻部の形態も,顔面全体の形にそれぞれ相応している。
ここにおいても宮崎平野の柿木原古墳人は顔面全体の形は他の平野部古墳人に似ているが,
眼窩および鼻部の形態は山間部古墳人に類似している。
南九州の山間部古墳人の顔面頭蓋は,西北九州,大友両弥生人および縄文人に近いが,
これらよりもより強い低顔性が認められ,大きな特徴に数えられる。
宮崎平野の古墳人は北部九州の弥生人に近似しているが,柿木原古墳人の眼窩および鼻部はむしろ西北九州弥生人に近い。
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/29416/1/ishi_i1044ronbun.pdf 柿木原古墳人は、面長なのに彫りが深いということだけど何者なんだろうな。 >>43
>九州王朝は太宰府の前身だな。
1月17日に九州国立博物館の「百済展」に関連するシンポジュウムがありました。
そのとき太宰府の水城や大野城の配置はは百済の古都の公州に似ているというお話がありました。
赤司善彦氏のお話です。
KAKEN - 赤司 善彦(00446882)
https://kaken.nii.ac.jp/d/r/00446882.ja.html >>6
>天智天皇と天武天皇あたりってかなり怪しいと思うんだがどうなんだろ?
倭京は大宰府の前身か? 天智天皇は水城の修復なんかもしてるから、
九州王朝系の話がはめ込まれてると思ってる。
天武天皇が畿内王権系で、白村江の敗北で
疎開してきた天智天皇を殺ったのでは。
まあ、まだ妄想段階だけどね。 桓武天皇で皇統が天智系に移ってる時点で永久に妄想確定です 畿内以外に、日本の歴史も文化もあるわけないだろ
九州王朝とかいうトンデモ妄想は、日本史や日本文化に対する侮辱行為で反日行為と言える
熊襲土人は畿内や京都の歴史を勉強しろ そもそも中国の王朝に遣いを送れるのは中国に近い地域を支配してた王のみ。
関西や関東の王様では道中よその國からの妨害に遭うものな。 >>90
九州が他の地域に隷属していたかもしれないことは想像しないらしい。
よその国は必ず妨害するものらしい。
倭と中国の間には朝鮮があったわけだがね。 北部九州の遺跡数はそうとう多いからね。
ほかのどこがここを支配できるというんだ? >>92
いつの時代の話をしてる?
百済はなぜ倭の遣使を妨害しなかった? 紆余曲折あったことは想像に難くないが
白村江までは救援に行ったところから見ても
百済と倭は仲いいだろ。
白村江後は南路で朝鮮を通らないようになる。 >>94
>百済と倭は仲いいだろ。
倭って畿内のこと?九州のこと?
>>90の言うように畿内王権が中国への遣使したくても妨害されていたような状況なら、
白村江以前に中国正史へ記録された倭とは九州王朝ということになる。
つまり百済は九州王朝と仲が良かったということになる。
ところで、畿内王権は九州王朝と敵対していて滅亡させている。
どうして畿内王権は、敵だった九州王朝と仲が良かった百済の、
再興を援助したり、滅亡した後に残党の面倒を見てやったりしたのか。 >>26
何を持って田舎だとして人がいないと断定したのかは知らないけど、南方のポリネシア系の人が日本に流入するときに真っ先に上陸するであろうところは地理的にお前のとこと沖縄だよ >>95
別に妨害はされてないと思うけど、距離も遠いし、
一応九州王朝という日本地域の代表がいたというだけで、
特に敵対してたかどうか。
旧唐書の、「日本はもとは小国で倭の地を合わせたり」
という状況だから小国の間は遺使する必要はあまりなかったんじゃないかな。
もちろん、白村江のあとに、九州王朝崩壊の残党が流れて来たら、
いくらか使える連中を採用して、日本として日本地域の代表者になった、
だから、百済との関係も悪くはないが、
百済そのものは白村江でなくなっちゃった。
記紀の名残としては、九州王朝が天智天皇系、畿内王権が天武天皇系、
九州王朝の残党が畿内に逃げ込んだけど、優秀な官僚だけ取り込んで
天智天皇は殺された、というネタはわりかしよく見るネタですね。
畿内王権が畿内でうまくやっていたなら、よそからの権威者なんて
邪魔ですからね。 >>98
>特に敵対してたかどうか。
敵対していなかったら、なぜ九州王朝を滅ぼして、記録を抹消したの?
>旧唐書の、
旧唐書には複数の説があるので、なんともいえない。
>九州王朝崩壊の残党が流れて来たら、いくらか使える連中を採用して、
具体的に誰?
>記紀の名残としては、九州王朝が天智天皇系、畿内王権が天武天皇系、
根拠不明。
>畿内王権が畿内でうまくやっていたなら、よそからの権威者なんて邪魔ですからね。
なんで百済王族は殺されなかったのか、整合性が無い。 >敵対していなかったら、なぜ九州王朝を滅ぼして、記録を抹消したの?
九州王朝とは別に畿内王権もそれなりには発展していて、
互いにほぼ独立していたと考えています。
その状態で白村江で壊滅して疎開してきたとしても、
はいどうぞと九州王朝を受け入れて、支配権を渡すことはないでしょう。
弱体化していれば、分断して吸収利用するのが賢いやり方だといえます。
ただし、権威の象徴である九州王朝の王は、消されたか適当な場所に流して
飼い殺しにされた可能性が高いでしょう。
白村江以降から急速に大和王権は政治体制の整備を充実させ、
大宝律令に先行する飛鳥浄御原令
条坊都市である藤原京の築造整備、
701年以降には大宝律令、年号制定、記紀などの国史、風土記の編纂
などが実行されています。 >>99
白村江以前に九州と畿内が対立していなかったとする根拠も説明も無いし、
他の質問にも答えてないところが多いけど。
>九州王朝とは別に畿内王権もそれなりには発展していて、
「もとは小国」っていつごろのことを言ってるの?
>白村江で壊滅して疎開してきた
九州王朝は白村江で滅びたの?
唐が九州に攻めてきたわけでもなく、
王家の存続もさせてもらえないような他国へ、なぜ疎開したの?
九州の王が酷い扱いを受けたのに、
九州の旧臣は叛乱もせず、唯々諾々と畿内王に従ったの?腰抜けじゃん。
てか、白村江の後、大宝律令に先行する近江令を制定したのは、
九州系認定されてる天智なんだけど?
辻褄あってなさすぎとちゃいまっか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています