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九州王朝ってどこまで信じれるの?
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0001日本@名無史さん
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2014/08/28(木) 23:57:38.88
wikとか見たらすごい面白そうなんだけど
トンデモ説の域はでてないのかな?
0366日本@名無史さん
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2017/12/21(木) 01:01:26.17
ただ島津という名前なだけで、
先祖が、そっちのほうから来たのか、どうかは?

もれ(仮)には、わからない
0367日本@名無史さん
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2017/12/21(木) 01:28:35.55
>>363



じゃあ、江南では水田にどんな耕作用農具を使ったんだ?


で、初めて稲作するのに何でそれが分かるんだよ?


.
0368日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/21(木) 01:57:39.56
石包丁は
江南のものが九州を素通りして
唐古・鍵遺跡から出てるんだってね
不思議だねぇ。
0369日本@名無史さん
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2017/12/21(木) 02:52:16.35
半島でも出てるだろ(プ
0370日本@名無史さん
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2017/12/22(金) 17:36:56.03
これもじゃ
0371日本@名無史さん
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2017/12/22(金) 18:10:52.96
熊本からは石包丁型の鉄包丁ってのが
出土してるな。

オリジナルの創作の萌芽期のようで
興味深い。
0372日本@名無史さん
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2017/12/22(金) 23:58:47.91
>>367
>江南では水田にどんな耕作用農具を使ったんだ?

江南では陸稲中粒種と水稲短粒種の混作であるから畑耕作用農具しか使わない。
水田耕作用農具は不必要。
梅雨に十分な降雨があれば水田となり水稲短粒種が育つ。
梅雨に降雨が不足すれば畑となり陸稲中粒種が育つ。
水稲短粒種か陸稲中粒種かどちらの収穫になるかは天候まかせ。

>初めて稲作するのに何でそれが分かるんだよ?

文意不明。
それ は何を指すの?
0373日本@名無史さん
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2017/12/23(土) 00:49:07.63
>>372



で、最古水田菜畑から出土したその江南の畑耕作用農具は?


.
0374日本@名無史さん
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2017/12/23(土) 00:51:31.95
>>372
うまいやり方だよね。

日本みたいにカレンダーと降雨の関係が安定してないならその方がいいものね。
0375日本@名無史さん
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2017/12/23(土) 10:13:11.42
>>372
江南の稲作は畑作じゃなく水田だぞ
農具も当然、その作付方法に合うものしか使えない
なぜ畑作用農具を使うんだよ、おかしいだろ
0376日本@名無史さん
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2017/12/23(土) 16:33:07.09
>>372
>梅雨に十分な降雨があれば水田となり水稲短粒種が育つ。
>水稲短粒種か陸稲中粒種かどちらの収穫になるかは天候まかせ。

バカ言うな。
そんなことに生活をかけられるものか。
九州に上陸した瞬間にはすでに水田の灌漑の仕組みも上陸している。
0377日本@名無史さん
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2017/12/23(土) 16:43:28.59
少なくとも江南での初期水田は自然沼沢地を利用した水田で区画整理も灌漑も未発達だから丸かったりひょうたん型だったりの不定形水田だな

日本列島に渡来した時点では相当規模の区画整理や灌漑の技術を随伴してるから自然水田ではなくなってたよ
渡来当初から水田は区画化されている。

ただ、初期の水田は米穀の収穫物よりか藁などの副産物の方が目当てだった可能性さえ想定されるほどに収量が低かった模様。
そででさえヒエやアワの畑作を下回るほど低くはないが。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 17:03:59.91
唐津の菜畑遺跡だと
川沿いの低湿地地帯を利用してたから
川沿いに細長くなってるね。
0379日本@名無史さん
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2017/12/23(土) 17:09:34.49
川から水を汲み上げるのも大変だから
川の水面に近い高さのところを
利用しているが、その分適地が少ないわけだ。

筑後川沿いの農地は水面から1〜2m高いけど
広大な平地の筑紫平野では、
もっと高い標高の水を引ける地点が遠いから
三連水車など、組み上げる工夫が必要になる。
0380日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 17:15:30.49
弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水を無視してはだめですよ。

灌漑水田稲作は壊滅です。 
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で大柿遺跡の棚田がみられるが、縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせるらしい。

弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。

土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。   @阿波
0381日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 19:20:11.63
>>377
渡来してませんので。

最古水田菜畑の弥生人たちは中国土器も朝鮮土器も一つも作ってませんので。

搬入した朝鮮無文土器の壺が一基出土しただけ。

稲作は朝鮮南部からパクっただけ。

渡来したのはその50年以上前の山陰あたりだと、弥生開始土器は語る。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 20:59:05.89
どこから経由したにせよ日本に渡来はした

そして、その時点では「相当規模の区画整理や灌漑の技術を随伴してるから自然水田ではなくなってたよ
渡来当初から水田は区画化されている。」

と読むことすらできないのか、どれだけ頭が堅かったらそのようなレスになるかも理解できないよ
0383日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 21:24:43.16
>>375
>江南の稲作は畑作じゃなく水田だぞ
>農具も当然、その作付方法に合うものしか使えない
>なぜ畑作用農具を使うんだよ、おかしいだろ

江南の稲作は、水田の水稲短粒種と畑の陸稲中粒種の混作である。

江南で出土した農具は固い地面を耕す畑作用の石鋤である。

畑を石鋤で耕し、水稲短粒種と陸稲中粒種の種を植える。
畑は多雨になれば水田となり水稲短粒種が育つ。
少雨であれば畑となり陸稲中粒種が育ち、多収穫の水稲短粒種はほぼ全滅。

水稲短粒種の原産地(発生地)は長江中流流域の湖南省と推定されている。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 22:27:32.41
>>382
その場合、渡来という言葉じゃなくて、導入か取り入れたという言葉だろ。

導入当初から水田は区画化されている、なら理解できる。

九州北部の弥生人たちは頻繁に半島南部を訪れていたから、訪れるたびに技術や
ノウハウが蓄積していき、最古水田菜畑は完成しただけ。

弥生人の渡来とは全然関係がない。

弥生人の渡来はその50年以上前の山陰あたり。

九州北部の黒川式縄文土器が山陰方面から入ってきた刻目突帯文土器を持った
沿海州系の渡来人に乗っ取られて、その渡来人が半島南部から稲作をパクってきて
弥生時代は幕開けする。
0385日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 22:45:31.17
>>383
違うだろ。

弥生開始と同期する江南の地面を耕す農具は石耜。

そのまんま石刃のスキの事。

石鋤は石刃で地面を引き削って除草する除草用の農具で、日本には
伝わっていない。

最古水田菜畑には両方とも伝わっていない。

出土した耕作用農具は木製のクワとエブリだけで、これらは当時の江南にはない農具。

しかも最古水田菜畑にはスキがなかったのである。

スキが伝わったのはそれから200年以上経ってからで、やはり木製であった。

江南の耕作用農具である石耜も石鋤も日本には永遠に伝わる事はなかったのである。
0386日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 23:57:02.08
縄文末期〜弥生初期までの時期で長江流域の文化ってえと呉城文化(紀元前1400年? - 紀元前1000年?)あたりか?

その地域は日本列島よりひとあしふたあし早く青銅器時代に入ってて、弥生初期になる前に衰退しつつあったっぽいとこなんだよな
文明的ピーク期が日本列島の縄文中期と前後する感じ
0387日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 00:46:05.27
>>386
呉城文化期で正しい。

しかもBC10Cの弥生開始時と同期する江南の土器は全体の1割ほどが
既に原始磁器であり、もう土器時代ではなく、陶磁器時代に入っていたのである。

炊飯器は鼎と鬲の両方があったが、鼎の方が江南では優勢だった。

その後、越式鼎という足の長い鼎が名物になり、句呉でも使われていた。

壺には大きな双耳が付き、持ち運びに便利になっていた。

飲酒も盛んで、様々な酒器があった。

鳥形三足酒器のキ、ラッパ形酒器の尊、酒甕の罍など、見たことも聞いたこともない、
まるで宇宙人の創造物かのごとき飲食器であふれていた。

我が国の弥生時代にはそれら江南の先進文物が微塵も伝わらず、
壺も持たない全く原始的な沿海州系の土器が伝わる事で我々の弥生時代は
幕開けしたのである。
0388日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 08:42:47.99
>>387
>壺も持たない全く原始的な沿海州系の土器が伝わる事で我々の弥生時代は
幕開けしたのである。

チョンのごとき嘘でたらめ書くな。
土器の伝わる方向が逆だ。
17000年の歴史を持つ縄文土器が沿海州に伝わったのである。
0389日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 10:23:22.90
>>388
台湾ブタ広鼻 亜熱帯形質 ハナノアナガヨクミエル 巨大タラコ唇ピーデの
ごとき嘘デタラメ書くな。


青森の土器は16000年前だろ。

アムール川下流域あたりでも16000年前の土器が出土している。

土器技術はアムール川下流域あたりで出現したと考えるのが妥当。

沿海州でもガーシャ遺跡の土器は炭素測定で約13000年前のものという結果。



ユー、   ハノイ!wwwwwwwwwwwww


.
0390日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 11:30:33.88
全ての国に王がいて、全ての王を統括するのが大王(後に天皇表記)っていう構図
0391日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 11:32:05.35
>>389
日本産の黒曜石の石器がアムール川流域で発掘されてるから
土器も同様に日本→アムールだよ
0393日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 12:01:25.32
17000年〜20000年前に東日本の火山地帯で発生した縄文土器が

黒曜石と同様に北海道を経由してアムール川流域沿海州に伝わった。

細石刃はアムール川流域→北海道東日本への流れ。
0394日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 12:11:49.71
土器の伝播と言っても最初から縄文土器作家は居たわけで
流行が弥生式になったのは生活の変化が要因だろ。

採集の原始共産制から貯蔵や売買が可能な穀物が主食になって
それ用の鍋と釜や貯蔵具や食器が普及した。

縄文文化と言っても皮革、布、農具、黒曜石、翡翠宝飾、塩の流通は有った訳で
土器だって地域的としても商品だったはずである。

弥生文化を稲作と渡来人のセットで捉えても
稲作不適地にも弥生文化は浸透している。

関西で銅鐸祭祀、以降関東に大和朝廷、
国家形成に渡来人がどんだけ役に立ったかはしれている。
DNA解析の結果は方法論的にもまだちゃんと出ているとは言えない。

って、言うか結果ありきで作為的だろ?
ネットでミスリードのアラシやってるやつって・・・ 
相手スンナwww
0395日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 12:15:37.77
>>391
そんな詐欺を働いている考古学者はいない。



ユー、   プノンペンブラック!プノンペンブラック!wwwwwwwwwwwwwwwwww


with ブタ広鼻wwww
0396日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 12:19:30.16
>>393
そんな見え透いた詐欺を働いている考古学者なんか居ない。



あなたは台湾ブタ広鼻 亜熱帯形質 ブタチック半黒人wwwwwwwwwwwwwwww
0397日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 13:45:01.34
この辺りに住んでいるはず

『川崎区 桜本 島津』

近(遠い)親者だったのかな、
少なからず、ゆかりがあるんだと思う

島津という名前を知らないと付けられないし、
島津氏のことを知っているという意味でしょ
0398日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 13:51:49.75
検索しても出ないようになっているのかな?

何度(再度読み込み)も検索すると・・・出て来た
0400日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 15:15:56.70
羽地?というのも、
いたような気がするんだけど、琉球関係?

字が違ったかな?
0402日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 16:15:07.26
>>397
古代の一大豪族、シマ氏族。

蘇我氏や島津氏はその末流?

島。洲。嶌。嶋。縞。
志麻。 志摩。志満。志麿、、、
司馬(シマ/シバ)。芝。柴。斯波。紫波。司波。志波
0403日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 17:26:34.65
ってか1万2千年前までは、日本列島と大陸は陸続きだから
日本海は巨大な湖と考えて
日本海沿岸部は全て同一文化圏と考えた方が良いかもね
0404日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 23:24:36.98
アー ハノイ デスネー タイワン!wwwwwww
0405日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/28(木) 04:26:22.00
すげー、これでも何が言いたいかわかってしまうw
0406日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/23(火) 07:13:54.54
Wikiみるとそれほど与太話って感じではないな。
説唱えた人も親鸞研究とかで実績ある人みたいだし。

壬申の乱が九州で起きてたってのは根拠あるのかな?
0408日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/23(火) 09:09:03.74
九州説の立場だが、さすがに壬申の乱が九州の中だけというのはその後の歴史と繋がらないから信頼できない。
0409日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/23(火) 10:17:29.31
九州王朝が白村江で大敗北して
大津近江京へ疎開。

畿内地元民がいい具合に統治してたところへ
上位の統治者とは言え、九州王朝が
負けて兵も少ない状況なのに、
入り込んできて偉そうにしてたのが
面白くないのは当然で、
大津近江京でクーデター。

しばらくは九州王朝の政治形式を引き継いできたが
九州年号大化(695〜700)に
政治形式を一新。大化の改新である。

これを期に九州王朝から大和朝廷に移行する。
年号も九州年号から大和朝廷の年号に変わり
中国の政権交代に習って、
記紀などの歴史書を編纂する。
0410日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/23(火) 10:27:30.19
じゃあ、蘇我氏が九州王朝?
壬申の乱が切り替えで、中大兄が九州王朝の方が無理が少なくない?
0411日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/23(火) 10:35:02.37
天智天皇は太宰府で水城を作ったりして
北部九州での事跡が多いからね。

ただ、壬申の乱自体は近江京で出来事で
九州ではないだろう。
0413日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/23(火) 13:34:33.22
倭の五王あたりは結構説得力あるんだけどな。
0414日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/24(水) 15:58:06.30
>>410
>じゃあ、蘇我氏が九州王朝?

蘇我氏は、九州王朝の弟王(法皇・統治軍事外交を司る実務王)
  参考 九州王朝の兄王(天皇・祭祀王)

天皇・祭祀王:卑弥呼、壹与、持統天皇、薩末比売

法皇・実務王:委奴國王、帥升、(卑弥呼の)男弟佐治國、難升米、倭王旨、讃、珍、済、
       興、武、筑紫君磐井、多利思北孤、筑紫君薩夜麻、中大兄(天智)、大海人(天武)
0415日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/24(水) 16:11:09.90
兄弟統治はいいのだけれど、挙げられている人命の兄と弟の分類にはいろいろ疑問を感じるよ。
0417日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/24(水) 18:01:18.14
>>406
【壬申の乱】は
大友皇子軍の淡海の大津宮=阿波吉野川下流域北岸の鳴門市大津町木津
大海人皇子軍の吉野宮=吉野川上流域北岸の三好郡三野町加茂宮
が武天皇紀の戦闘記事である、本来の壬申の乱の舞台なのである。  @阿波

【天武天皇紀に記される地名が阿波吉野川北岸の地名にはっきり残っている】

⚫︎粟津:鳴門市里浦町粟津
⚫︎大津宮:鳴門市撫養町木津、鳴門市大津町木津野
⚫︎菟田(うだ):板野郡土成町鵜田尾(うのたお)
⚫︎鈴鹿:板野郡土成町樫原を流れる鈴川(すずかわ)
⚫︎桑名:板野郡土成町と阿波市市場町の境 九王野(山)
⚫︎安八麿(あちはま):阿波市市場町粟島(あわしま)
⚫︎大野:阿波市市場町大野
⚫︎尾張:阿波市市場町尾開(おばり)
⚫︎倭京:阿波市市場町奈良坂(若宮皇太神宮)
⚫︎不破道:阿波市市場町大門から讃岐に通じる奈良街道
⚫︎乃楽山(ならやま):阿波市市場町奈良街道沿い城王山(旧名 奈良山)
⚫︎美濃:三好郡三野町
⚫︎伊勢:阿波市阿波町伊勢
⚫︎高安城(たかやすのき):美馬市脇町の大滝山
⚫︎吉野宮:三好郡三野町加茂野宮  
0418日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/24(水) 18:15:39.90
>>415
>兄弟統治はいいのだけれど、挙げられている人命の兄と弟の分類にはいろいろ疑問を感じるよ。

女性の兄王(天皇・祭祀王) は問題ないでしょう。

男性の弟王(法皇・統治軍事外交を司る実務王) については詰めが不足しています。
軍事外交の記録のない王である「委奴國王」、「倭王旨」等については疑問の余地があります。

蘇我氏については各個人毎に検討する必要があります。
0419日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/24(水) 18:26:24.46
>>418
>蘇我氏については各個人毎に検討する必要があります。

蘇我氏の本拠地:徳島県石井町の曽我氏神社古墳群

先日のNHKでは、方墳は飛鳥時代蘇我稲目の都塚古墳から突然始まると放送されていたが
蘇我氏の本拠地とされる徳島県石井町の曽我氏神社古墳群にはそれに先立ち、古墳時代前期に既に10m×12mの方墳(2号墳)が確認されている。
このことから、方墳墓は蘇我氏一族専用の墓型であった可能性が高い。
また、同じ石井町には奈良の大和朝廷に先行すると思われる白鳳寺院跡および白鳳瓦窯跡が確認されている。
他にも吉野川中流域の美馬町・川島町にも白鳳寺院跡が存在する。
これらも阿波国内で頭角を現した有力豪族、蘇我氏に由来するものであろう。  @阿波
0420日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/24(水) 18:29:12.49
倭の五王の中には兄弟関係も明記してあるし。
中大兄とあって弟とか言われましても。
0421日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/24(水) 20:16:16.13
>>420
>倭の五王の中には兄弟関係も明記してあるし。
>中大兄とあって弟とか言われましても。

「兄弟統治」である「兄王」「弟王」は肉親の兄弟関係を指すものではありません。

随書に言う「開皇二十年 俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言 
俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 
高祖曰此大無義理 於是訓令改之」の
「以天為兄以日為弟」で意味する「兄」と「弟」です。

「兄王」は「天王・天皇」、「弟王」は「日王・日皇」とも言えます。

「兄弟統治」は「天日統治」とも言えます。


チョンが「天皇」のことを「日王」と言うのは、
外交をする「弟王」を外交をしない「天皇」と勘違いしているものと見做せます。

日本では現代に至るまで「兄弟統治」が切れることなく続いているのです。
0423日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/24(水) 21:24:18.83
「兄弟統治」「天日統治」は、二元統治体制を表す言葉です。

兄王 天王・・・・天皇
弟王 日王・・・・内閣総理大臣・征夷大将軍・関白・執権・摂政・太政大臣
0424日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/24(水) 21:43:48.24
ある程度、実際の兄弟関係を反映しているんじゃないか?
はじめは兄が天皇で、弟が天皇になると兄は法皇となり政治から手を引くみたいな。
そうしないとつじつまが合わない。
0425日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/25(木) 22:02:11.00
>>424

兄王・・天王・・天皇(神職)
弟王・・日王・・法皇(仏徒) 例:阿毎多利思北孤
0426日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/25(木) 22:15:31.98
タリシヒコが兄王で祭祀専門だと隋書に。
0427日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 00:25:37.43
持統天皇より前には生前退位の記録はないだろ
退位して法王とか妄想をたくましくしすぎだな
0428日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 00:51:10.08
退位じゃないんですよ。
わかりやすく説明しているだけで。
0429日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 15:07:12.28
>>426
>タリシヒコが兄王で祭祀専門だと隋書に。

随書では、多利思北孤は、隋と外交交渉をし、軍を以て隋使の歓迎をしていますから、弟王です。
兄王は夜に祭祀し、弟王は昼に外交軍事等の世俗実務政治をするとなっています。
0430日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 01:13:06.95
>>426
それは弟に王位継承争いに負けた兄が負け惜しみで言っただけだからな
アマタリシヒコは王位継承の負けを認めることができず中国を味方につけようと部下を中国に派遣した

部下は仕方なく中国に行ったが、王の名前を聞かれて真実(真の王の名)を言うことも嘘(自分を派遣した人間の名)を言うこともできず、
「アマタリシヒコです」と言ってごまかしたわけだ
0431日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 01:15:05.09
正確に言うと弟の娘(推古)だな
アマタリシヒコからしたら姪だよ

アマタリシヒコの正体わかっただろ?
0432日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 06:11:13.64
>>430
神武の息子たちは兄弟相続で弟が政治を取るし、海幸山幸、邇邇芸と饒速日など、末の弟が家督を相続することが多い。
それも兄弟の役割分担の結果なのではないか。
0433日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 06:12:14.10
>>431
畿内説には相当不利だから認めたくないだろうな。
0434日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 12:24:50.26
アマタリシじゃなくてアマテラスと読むんじゃない?
0436日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 13:42:18.34
>>434
語源は同じだけれど、歴代天皇にタリシヒコという諡号は7人もいるので、それでいいと思う。
0437subo
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2018/01/27(土) 14:50:08.96
九州王朝説は存在している、今でも
0439日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 16:38:16.74
戦国時代みたいに朝廷の影響力が地方に及んでなかったって考えられない?
東北とかにも大名みたいなのがいたんじゃないかな?
0440日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 16:42:01.31
ちゃんと勉強をしたほうが良いんじゃないのか?
0441日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 16:44:07.92
家の老婆は、ここの話をしている

『霊山城』
0443日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 16:49:12.14
電気(発電)を起こしていたとか、
近所の人から何々様なんて言われたりしていた
と言っていたり

何だったんだろう
0444日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 16:55:50.03
キュウリの葉、葱の華・・・
などの写っている写真があるでしょ、その家の話

「すがの」だと言っていたり
0445日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 17:07:19.25
どのスレだったか覚えていないんだけど、
このような事を言っている人がいた

本家のような家があったとか、
明治頃?名字が必要になり、
近所に住んでいる人たちは皆、同じような家名を名乗った


本家のような家があり
私の名前を名乗りなさいとか、
ということは、どこかに本家があるはず

もしかして、あの写真の家?
家なんだけど
0446日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 17:10:10.48
>>1
そこが面白いんじゃないか。古代はわからないことだらけだから、
自分なりに線引きして、トンデモとトンデモでないを峻別すればいい。
大まかに言えば、自己主張の強い仮説はトンデモが多い。
0447日本@名無史さん
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2018/01/30(火) 14:46:17.52
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

M88E8
0448日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 00:51:48.25
九州って平安時代田舎扱いみたいな感じなのも謎なんだよな。
0449日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 02:40:58.30
田舎ってか、ど僻地ね
0450日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 02:53:01.79
史実の神武天皇を抹殺した津田“記紀罵り史学”の弟子達
──真赤な“嘘と偽造の古代史”を粉砕し、赤い古代史を粉砕しよう
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2018/02/08/133547

筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

津田史学の継承者は全員、津田と異なって、共産党員や狂信的なコミュニストばかりで例外はゼロ
津田“記紀罵り史学”の嫡流的な直系弟子は、具に調査すると十名をはるかに超える。
後世への悪影響が大きかった者に限定すると、井上光貞、直木孝次郎、水野祐、上田正昭の四名が、その筆頭
津田史学を活用して天皇制廃止運動とカネ稼ぎに没頭した江上波夫は、津田史学の直系弟子ではなく、津田史学の便乗組。

今では一笑に付されて誰も信じない荒唐無稽な三文小説扱いになった、江上波夫の“お笑い狂説”「騎馬民族征服王朝説」をとりあげる。
「騎馬民族征服王朝説」を妄想した江上波夫の頭の中は、簡単に言えば、こうだ。津田左右吉の妄説「日本の大和朝廷は、崇神天皇でもって、突然に畿内とその周辺に誕生したのであって、
それ以前の天皇は神話にすぎず歴史上には実在しない」に従えば、崇神天皇は日本の外からやってきたことにすれば、話の筋が通るではないか。
これが、「そうだ一発、有名人になって金儲けしよう」とばかり、
「他の日本国内のミニ国家群に比すれば強大な武力を初めて保有する崇神天皇は朝鮮半島の《任那》に造営した宮城から日本に渡り九州を征服した」との荒唐無稽で耳目を引く
デッチアゲ嘘歴史を、江上が捏造した動機であった。

 江上は、この嘘フィックションに続けて、第二の嘘フィックション「畿内制覇は、応神天皇がなした」を嘯き強弁する。
つまり、天皇による日本統治は、外来民族である天皇族(=天神あまつかみ族)が、九州と畿内を二段階で征服して始まったとの、“妄想も度外れの反・歴史”。

だが、ここで一つだけ喚起しておきたい事柄がある。
江上波夫は、北朝鮮の金日成に四回も直接会いに行ったように、金日成崇拝の“北朝鮮の犬”であった。
0451日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 14:37:19.77
>>448-449
遣唐使とかで国際交流があった時期は僻地あつかいじゃないだろ
そのあと、異国船を追い返すようになってから僻地あつかいに変わっていく感じじゃなかったか
0452日本@名無史さん
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2018/03/06(火) 20:29:12.92
いや、これ唱えてるやつ頭悪い
理由は中国の公孫氏や卑弥呼あたりの周辺事情を全く考えないただの戦後の「反日天皇侮辱説」としての強弁にしかなってない

理論じゃなく一個一個の主張が強弁にしかなってない
もっといえばこれを主張する連中はただのアンチで、考古学的、歴史学的思考ができない
普通に平行的な学力ないやつが主張する馬鹿を騙す強弁で、むしろ今日の考古学的検知で成立しない

論理の破綻した侮日説にしかなってない。

@主張は白村江配線までは九州王朝の歴史で、以後壬申の乱で大和王朝がいれかわったとかいう「トンデモ」説
A主張の一つ一つがあまりにも考古的検知に基づかず、むしろ日本書紀の考古的合致性がでてくるのに
「強弁否定」で証拠性を無視
B王朝塗り替え説が成立しうる科学根拠性がない。単にちょっとの思考力があれば「古い時代の小さな資料矛盾」は記録と確認の不確実でおこるむしろ世界中の当たり前
なのにその当たり前をみれば矛盾→批判→突飛理論→世間の関心で金を儲けたい心理で嘘を唱える狂人にすぎない

この主張者らは左翼、まおいすとらと同様のただの敗北主義反戦安置暴力主義者にすぎない
理論ですらない
0453日本@名無史さん
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2018/03/07(水) 08:04:16.79
【白村江の戦いと倭国滅亡】

663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。

668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。

671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。

筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。

701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。
0454日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 23:04:23.06
https://gigazine.net/news/20180306-fake-news-hard-to-correct/
「フェイクニュース」によって生まれた誤った認識は認知能力が高くなければ正すことが難しい

って話が出てきたが、いまどき古田説を信仰してる人らも「誤った認識を正すことができない人」の類型のひとつだな
ちゃんとしてるヒトは古田説を見限って去っちゃってるよ。
0455日本@名無史さん
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2018/03/08(木) 08:49:04.47
ではなぜ唐は都督府を大和ではなく筑紫に置いたのか。
その時点で筑紫が倭の中心と見ていたからではないのか。
畿内説の主張は、史書の記事と矛盾が多い。
0456日本@名無史さん
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2018/03/08(木) 19:15:17.37
そもそも筑紫の都督府を置いたのが唐と決め込む根拠すら示さないで決めつけるなよ
0457日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:06:27.40
百済、倭など敗戦国に順に置いたんだよ。
日本側が主体ならそんなことにはならない。
0458日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:16:10.87
wiki 熊津都督府

熊津都督府(ゆうしんととくふ)は、唐が百済を滅ぼした後、現在の忠清南道に相当する百済旧域の管理を目的に設置した植民地。
唐が高句麗と百済を滅ぼした後、旧高句麗領を安東都護府、旧百済領を熊津都督府、新羅も藩属国から鶏林州都督府へ切り替え、
半島全域を羈縻州としたため、一時的に朝鮮半島から国はなくなった。

で、ほぼ同時に敗戦国である筑紫都督府も置かれたわけだけど、これでどうして日本側が設置したと思えるんだい?
そもそも都督は中国皇帝が任命する官位だし。
0459日本@名無史さん
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2018/03/08(木) 21:18:57.91
>これでどうして日本側が設置したと思えるんだい?

倭の五王が都督府を自称していたのだから
その頃から都督府と自称していたのだろうから。
0460日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:22:48.62
実際には倭の五王の都督は認められず、倭の敗北後に都督が置かれたのだから、皮肉なもんだ。
0461日本@名無史さん
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2018/03/08(木) 21:29:04.72
>>460
実際には認められているね
五王全員が都督と叙任されているのだから

あんたの説は大崩壊
0462日本@名無史さん
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2018/03/08(木) 21:31:53.69
太宰率(の前身である筑紫率、筑紫大宰や筑紫総領なども?)の「唐名」として都督と呼んでる史実があるので、地方官たる太宰府のことを「唐名」筑紫都督府と呼んだことがあってもおかしくない。

唐から日本列島側に来た兵員数では桁違いに少なすぎて占領とか役所設置とかできるはずがないし、表記ゆれとしか思えないね

>日本側が主体ならそんなことにはならない。
という理屈は成立しないので、依然として「不明」のままだよ
0463日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:33:06.81
使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王

倭はいいとして
百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓

まで含まれると日本人以外のある国の人にとっては発狂もの

つまりはそういうこと
>>458
0464日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:40:50.29
奈良時代以降は筑紫率は日本側が置いた地方官だろう。
ただ、東アジアのグローバルな状況を見れば、白村江直後の筑紫都督府は唐が置いたとしか考えられない。

そもそも都督は列島と半島の支配者として倭の五王が名乗っていたわけで、唐から見れば地方官だが極東のトップの地位になる。
それを都督は地方官などと言って矮小化するから誤解を生む。
0465日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:43:19.05
東アジアのグローバルな状況を見れば、筑紫都督府は唐が置いたとは考えられない。

白村江の後も、高句麗やら西方やらで唐は大規模戦争の連続で、
はるか日本へ占領軍を派遣する余裕など皆無。

そして文献にも記載は皆無。

>>464
日本人じゃない人、お疲れ様です!
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