九州王朝ってどこまで信じれるの?
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wikとか見たらすごい面白そうなんだけど
トンデモ説の域はでてないのかな? 天智天皇は太宰府で水城を作ったりして
北部九州での事跡が多いからね。
ただ、壬申の乱自体は近江京で出来事で
九州ではないだろう。 >>410
>じゃあ、蘇我氏が九州王朝?
蘇我氏は、九州王朝の弟王(法皇・統治軍事外交を司る実務王)
参考 九州王朝の兄王(天皇・祭祀王)
天皇・祭祀王:卑弥呼、壹与、持統天皇、薩末比売
法皇・実務王:委奴國王、帥升、(卑弥呼の)男弟佐治國、難升米、倭王旨、讃、珍、済、
興、武、筑紫君磐井、多利思北孤、筑紫君薩夜麻、中大兄(天智)、大海人(天武) 兄弟統治はいいのだけれど、挙げられている人命の兄と弟の分類にはいろいろ疑問を感じるよ。 >>406
【壬申の乱】は
大友皇子軍の淡海の大津宮=阿波吉野川下流域北岸の鳴門市大津町木津
大海人皇子軍の吉野宮=吉野川上流域北岸の三好郡三野町加茂宮
が武天皇紀の戦闘記事である、本来の壬申の乱の舞台なのである。 @阿波
【天武天皇紀に記される地名が阿波吉野川北岸の地名にはっきり残っている】
⚫︎粟津:鳴門市里浦町粟津
⚫︎大津宮:鳴門市撫養町木津、鳴門市大津町木津野
⚫︎菟田(うだ):板野郡土成町鵜田尾(うのたお)
⚫︎鈴鹿:板野郡土成町樫原を流れる鈴川(すずかわ)
⚫︎桑名:板野郡土成町と阿波市市場町の境 九王野(山)
⚫︎安八麿(あちはま):阿波市市場町粟島(あわしま)
⚫︎大野:阿波市市場町大野
⚫︎尾張:阿波市市場町尾開(おばり)
⚫︎倭京:阿波市市場町奈良坂(若宮皇太神宮)
⚫︎不破道:阿波市市場町大門から讃岐に通じる奈良街道
⚫︎乃楽山(ならやま):阿波市市場町奈良街道沿い城王山(旧名 奈良山)
⚫︎美濃:三好郡三野町
⚫︎伊勢:阿波市阿波町伊勢
⚫︎高安城(たかやすのき):美馬市脇町の大滝山
⚫︎吉野宮:三好郡三野町加茂野宮 >>415
>兄弟統治はいいのだけれど、挙げられている人命の兄と弟の分類にはいろいろ疑問を感じるよ。
女性の兄王(天皇・祭祀王) は問題ないでしょう。
男性の弟王(法皇・統治軍事外交を司る実務王) については詰めが不足しています。
軍事外交の記録のない王である「委奴國王」、「倭王旨」等については疑問の余地があります。
蘇我氏については各個人毎に検討する必要があります。 >>418
>蘇我氏については各個人毎に検討する必要があります。
蘇我氏の本拠地:徳島県石井町の曽我氏神社古墳群
先日のNHKでは、方墳は飛鳥時代蘇我稲目の都塚古墳から突然始まると放送されていたが
蘇我氏の本拠地とされる徳島県石井町の曽我氏神社古墳群にはそれに先立ち、古墳時代前期に既に10m×12mの方墳(2号墳)が確認されている。
このことから、方墳墓は蘇我氏一族専用の墓型であった可能性が高い。
また、同じ石井町には奈良の大和朝廷に先行すると思われる白鳳寺院跡および白鳳瓦窯跡が確認されている。
他にも吉野川中流域の美馬町・川島町にも白鳳寺院跡が存在する。
これらも阿波国内で頭角を現した有力豪族、蘇我氏に由来するものであろう。 @阿波 倭の五王の中には兄弟関係も明記してあるし。
中大兄とあって弟とか言われましても。 >>420
>倭の五王の中には兄弟関係も明記してあるし。
>中大兄とあって弟とか言われましても。
「兄弟統治」である「兄王」「弟王」は肉親の兄弟関係を指すものではありません。
随書に言う「開皇二十年 俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言
俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟
高祖曰此大無義理 於是訓令改之」の
「以天為兄以日為弟」で意味する「兄」と「弟」です。
「兄王」は「天王・天皇」、「弟王」は「日王・日皇」とも言えます。
「兄弟統治」は「天日統治」とも言えます。
チョンが「天皇」のことを「日王」と言うのは、
外交をする「弟王」を外交をしない「天皇」と勘違いしているものと見做せます。
日本では現代に至るまで「兄弟統治」が切れることなく続いているのです。 「兄弟統治」「天日統治」は、二元統治体制を表す言葉です。
兄王 天王・・・・天皇
弟王 日王・・・・内閣総理大臣・征夷大将軍・関白・執権・摂政・太政大臣 ある程度、実際の兄弟関係を反映しているんじゃないか?
はじめは兄が天皇で、弟が天皇になると兄は法皇となり政治から手を引くみたいな。
そうしないとつじつまが合わない。 >>424
兄王・・天王・・天皇(神職)
弟王・・日王・・法皇(仏徒) 例:阿毎多利思北孤 持統天皇より前には生前退位の記録はないだろ
退位して法王とか妄想をたくましくしすぎだな 退位じゃないんですよ。
わかりやすく説明しているだけで。 >>426
>タリシヒコが兄王で祭祀専門だと隋書に。
随書では、多利思北孤は、隋と外交交渉をし、軍を以て隋使の歓迎をしていますから、弟王です。
兄王は夜に祭祀し、弟王は昼に外交軍事等の世俗実務政治をするとなっています。 >>426
それは弟に王位継承争いに負けた兄が負け惜しみで言っただけだからな
アマタリシヒコは王位継承の負けを認めることができず中国を味方につけようと部下を中国に派遣した
部下は仕方なく中国に行ったが、王の名前を聞かれて真実(真の王の名)を言うことも嘘(自分を派遣した人間の名)を言うこともできず、
「アマタリシヒコです」と言ってごまかしたわけだ 正確に言うと弟の娘(推古)だな
アマタリシヒコからしたら姪だよ
アマタリシヒコの正体わかっただろ? >>430
神武の息子たちは兄弟相続で弟が政治を取るし、海幸山幸、邇邇芸と饒速日など、末の弟が家督を相続することが多い。
それも兄弟の役割分担の結果なのではないか。 >>431
畿内説には相当不利だから認めたくないだろうな。 >>434
語源は同じだけれど、歴代天皇にタリシヒコという諡号は7人もいるので、それでいいと思う。 戦国時代みたいに朝廷の影響力が地方に及んでなかったって考えられない?
東北とかにも大名みたいなのがいたんじゃないかな? 『御代院』
寺院に通っていたんだよ
と言っていたり 電気(発電)を起こしていたとか、
近所の人から何々様なんて言われたりしていた
と言っていたり
何だったんだろう キュウリの葉、葱の華・・・
などの写っている写真があるでしょ、その家の話
「すがの」だと言っていたり どのスレだったか覚えていないんだけど、
このような事を言っている人がいた
本家のような家があったとか、
明治頃?名字が必要になり、
近所に住んでいる人たちは皆、同じような家名を名乗った
本家のような家があり
私の名前を名乗りなさいとか、
ということは、どこかに本家があるはず
もしかして、あの写真の家?
家なんだけど >>1
そこが面白いんじゃないか。古代はわからないことだらけだから、
自分なりに線引きして、トンデモとトンデモでないを峻別すればいい。
大まかに言えば、自己主張の強い仮説はトンデモが多い。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
M88E8 九州って平安時代田舎扱いみたいな感じなのも謎なんだよな。 史実の神武天皇を抹殺した津田“記紀罵り史学”の弟子達
──真赤な“嘘と偽造の古代史”を粉砕し、赤い古代史を粉砕しよう
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2018/02/08/133547
筑波大学名誉教授 中 川 八 洋
津田史学の継承者は全員、津田と異なって、共産党員や狂信的なコミュニストばかりで例外はゼロ
津田“記紀罵り史学”の嫡流的な直系弟子は、具に調査すると十名をはるかに超える。
後世への悪影響が大きかった者に限定すると、井上光貞、直木孝次郎、水野祐、上田正昭の四名が、その筆頭
津田史学を活用して天皇制廃止運動とカネ稼ぎに没頭した江上波夫は、津田史学の直系弟子ではなく、津田史学の便乗組。
今では一笑に付されて誰も信じない荒唐無稽な三文小説扱いになった、江上波夫の“お笑い狂説”「騎馬民族征服王朝説」をとりあげる。
「騎馬民族征服王朝説」を妄想した江上波夫の頭の中は、簡単に言えば、こうだ。津田左右吉の妄説「日本の大和朝廷は、崇神天皇でもって、突然に畿内とその周辺に誕生したのであって、
それ以前の天皇は神話にすぎず歴史上には実在しない」に従えば、崇神天皇は日本の外からやってきたことにすれば、話の筋が通るではないか。
これが、「そうだ一発、有名人になって金儲けしよう」とばかり、
「他の日本国内のミニ国家群に比すれば強大な武力を初めて保有する崇神天皇は朝鮮半島の《任那》に造営した宮城から日本に渡り九州を征服した」との荒唐無稽で耳目を引く
デッチアゲ嘘歴史を、江上が捏造した動機であった。
江上は、この嘘フィックションに続けて、第二の嘘フィックション「畿内制覇は、応神天皇がなした」を嘯き強弁する。
つまり、天皇による日本統治は、外来民族である天皇族(=天神あまつかみ族)が、九州と畿内を二段階で征服して始まったとの、“妄想も度外れの反・歴史”。
だが、ここで一つだけ喚起しておきたい事柄がある。
江上波夫は、北朝鮮の金日成に四回も直接会いに行ったように、金日成崇拝の“北朝鮮の犬”であった。 >>448-449
遣唐使とかで国際交流があった時期は僻地あつかいじゃないだろ
そのあと、異国船を追い返すようになってから僻地あつかいに変わっていく感じじゃなかったか いや、これ唱えてるやつ頭悪い
理由は中国の公孫氏や卑弥呼あたりの周辺事情を全く考えないただの戦後の「反日天皇侮辱説」としての強弁にしかなってない
理論じゃなく一個一個の主張が強弁にしかなってない
もっといえばこれを主張する連中はただのアンチで、考古学的、歴史学的思考ができない
普通に平行的な学力ないやつが主張する馬鹿を騙す強弁で、むしろ今日の考古学的検知で成立しない
論理の破綻した侮日説にしかなってない。
@主張は白村江配線までは九州王朝の歴史で、以後壬申の乱で大和王朝がいれかわったとかいう「トンデモ」説
A主張の一つ一つがあまりにも考古的検知に基づかず、むしろ日本書紀の考古的合致性がでてくるのに
「強弁否定」で証拠性を無視
B王朝塗り替え説が成立しうる科学根拠性がない。単にちょっとの思考力があれば「古い時代の小さな資料矛盾」は記録と確認の不確実でおこるむしろ世界中の当たり前
なのにその当たり前をみれば矛盾→批判→突飛理論→世間の関心で金を儲けたい心理で嘘を唱える狂人にすぎない
この主張者らは左翼、まおいすとらと同様のただの敗北主義反戦安置暴力主義者にすぎない
理論ですらない 【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。
671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。 https://gigazine.net/news/20180306-fake-news-hard-to-correct/
「フェイクニュース」によって生まれた誤った認識は認知能力が高くなければ正すことが難しい
って話が出てきたが、いまどき古田説を信仰してる人らも「誤った認識を正すことができない人」の類型のひとつだな
ちゃんとしてるヒトは古田説を見限って去っちゃってるよ。 ではなぜ唐は都督府を大和ではなく筑紫に置いたのか。
その時点で筑紫が倭の中心と見ていたからではないのか。
畿内説の主張は、史書の記事と矛盾が多い。 そもそも筑紫の都督府を置いたのが唐と決め込む根拠すら示さないで決めつけるなよ 百済、倭など敗戦国に順に置いたんだよ。
日本側が主体ならそんなことにはならない。 wiki 熊津都督府
熊津都督府(ゆうしんととくふ)は、唐が百済を滅ぼした後、現在の忠清南道に相当する百済旧域の管理を目的に設置した植民地。
唐が高句麗と百済を滅ぼした後、旧高句麗領を安東都護府、旧百済領を熊津都督府、新羅も藩属国から鶏林州都督府へ切り替え、
半島全域を羈縻州としたため、一時的に朝鮮半島から国はなくなった。
で、ほぼ同時に敗戦国である筑紫都督府も置かれたわけだけど、これでどうして日本側が設置したと思えるんだい?
そもそも都督は中国皇帝が任命する官位だし。 >これでどうして日本側が設置したと思えるんだい?
倭の五王が都督府を自称していたのだから
その頃から都督府と自称していたのだろうから。 実際には倭の五王の都督は認められず、倭の敗北後に都督が置かれたのだから、皮肉なもんだ。 >>460
実際には認められているね
五王全員が都督と叙任されているのだから
あんたの説は大崩壊 太宰率(の前身である筑紫率、筑紫大宰や筑紫総領なども?)の「唐名」として都督と呼んでる史実があるので、地方官たる太宰府のことを「唐名」筑紫都督府と呼んだことがあってもおかしくない。
唐から日本列島側に来た兵員数では桁違いに少なすぎて占領とか役所設置とかできるはずがないし、表記ゆれとしか思えないね
>日本側が主体ならそんなことにはならない。
という理屈は成立しないので、依然として「不明」のままだよ 使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王
倭はいいとして
百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
まで含まれると日本人以外のある国の人にとっては発狂もの
つまりはそういうこと
>>458 奈良時代以降は筑紫率は日本側が置いた地方官だろう。
ただ、東アジアのグローバルな状況を見れば、白村江直後の筑紫都督府は唐が置いたとしか考えられない。
そもそも都督は列島と半島の支配者として倭の五王が名乗っていたわけで、唐から見れば地方官だが極東のトップの地位になる。
それを都督は地方官などと言って矮小化するから誤解を生む。 東アジアのグローバルな状況を見れば、筑紫都督府は唐が置いたとは考えられない。
白村江の後も、高句麗やら西方やらで唐は大規模戦争の連続で、
はるか日本へ占領軍を派遣する余裕など皆無。
そして文献にも記載は皆無。
>>464
日本人じゃない人、お疲れ様です! 率と帥は同じ意味で発音も同じ。
邪馬台国時代に伊都国に置かれていた大率も、倭国の中の地方官ではなく、倭国の女王(引きこもり卑弥呼)に次ぐ実権を持っていた。
つまり大率が置かれた伊都国が倭国の中心であった。
中国から見れば、筑紫が一貫して倭の都だった。 >>465
>そして文献にも記載は皆無。
筑紫に二千人の人員が派遣されたことは文献にあるよ。 日本人じゃない詐欺師の人がんばるねーw
卑弥呼邪馬台国に始まる
筑紫の支配者を蹴落としたくて蹴落としたくて必死なんだろうねw すでに降伏した敗戦国に行政府を置くなら、二千人は十分な数だろう。
その後は唐にべったりとしてマメマメしく遣唐使を送るようになるわけだし。 >>473
降伏したという証拠は?
なんか城とか一杯作ってるんだけど?
降伏したならそんな国家事業やらないよね?
行政府の長官の名前は残っているのかな?
日本人じゃない人に聞いていいのだろうかw 思いっきり広く考えれば、後漢に朝貢した帥升、邪馬台国時代の大率、筑紫帥まで筑紫倭国の事実上のトップの称号なんだよ。
奈良時代以降は太宰帥は九州の行政官としての名称になったけれど、それは倭国が九州であった枠組みがスライドしただけ。 (唐)の「都督府」とは、(唐)の本土と外蕃の直轄地に置かれた役所で、「都督」は県知事のような もの、同時に軍の長官でもありました。
「都護府」は、外蕃の占領地に置かれた「都督府」であると同 時に、「都護」は何カ所かの外蕃の「都督府」の「都督」を統括する一段上の長官です。
(百済)・(筑 紫)・(新羅)に置かれた「都督府」は、(高句麗)の平城に置かれた「安東都護府」の「都護」の管轄下 に置かれたのです。
「都護府」は(唐)の東西南北の外蕃に置かれ、朝鮮半島に「安東都護府」が置かれたと同時 に、ベトナムに「安南都護府」、タリム盆地に「安西大都護府」、外モンゴルに「安北大都護府」が 置かれています。
西と北の都護府には、「大」の字が被せられ、西洋に通じる「西」と、北方遊牧 騎馬民族に対する「北」が重視され、規模も大きかったことが窺えます。
なお、遣唐使として(唐)に渡った阿部仲麻呂は、中国人に交じって「科挙」の試験を受けて合 格して唐の官吏になり、後年、「安南都護」に就任しています。
(高句麗)・(百済)の王と(倭の五 王)は、「都督」の称号を与えられていますから、仲麻呂は(唐)でその一段上の地位にまで昇進 したのです。 >>473
倭国がわは遠征軍が敗退しただけで防衛能力を失うほどではないよ
現に、かなりの規模で防衛体勢をととのえてる
高句麗討伐と同等以上の大規模遠征でもしないと、
つまり何十万もの大軍を送らないと占領なんて無理 >>477
高句麗遠征は列島倭国じゃないだろ?
あの時代の技術力考えると、あの規模はムリ >>480
占領するにはそれぐらいの大軍が必要だろうってこと。もちろんそんなの不可能だろうがな
つまり唐の軍事力では倭国の占領は不可能ってこと。
筑紫に都督府を設置するほどの軍事力は唐にはない 大体だなあ、「唐帝国は筑紫都督府を設置した」なる記述が、大唐帝国側の政治記録や歴史書にあるのか?
この説、もう根本がダメよな。 >>481
敗戦国が防衛も何もない
戦勝国を筑紫に受け入れただけじゃん >>483
遠征部隊が壊滅しただけで防衛部隊がないわけじゃないから抵抗は十分可能だぞ 筑紫君はちほうごうぞくにすぎず、倭王ではないから問題なく防衛できる 実際には防衛などせず、唐に尻尾を振って遣唐使を派遣したんだよ。 >>480
>高句麗遠征は列島倭国じゃないだろ?
>あの時代の技術力考えると、あの規模はムリ
高句麗遠征は半島南岸多島海地域にいた倭人が半島西岸を渡海して仕掛けた。 >>481
占領はされてないけど戦争に負けて
倭王が唐の都督になったて倭の王都が都督府になったんだろう。 >>489
>>>480
>>高句麗遠征は列島倭国じゃないだろ?
>>あの時代の技術力考えると、あの規模はムリ
>高句麗遠征は半島南岸多島海地域にいた倭人が半島西岸を渡海して仕掛けた。
その通り。
「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里有」魏志韓伝
朝鮮半島南岸多島海地域は、倭と書いてあるよね。 >>493
倭人は、対馬海峡の南北両岸に住んでいたと書いてあるのです。 >>1
そんなのが本当にありゃそもそも日本側に伝承や記録が残されるわな 書いてあるよ。
記紀の神代の都は筑紫の日向の高千穂宮だよ。 >>495
九州王朝は西暦700年に畿内王朝に滅ぼされたので、
断片的な記録しか残っておりません。
記紀では「一書」としてその存在が窺がわれるだけです。 纏向遺跡で2〜3世紀頃の桃の種がたくさん出土したことで遺跡の年代に対する疑義は終わってしまったな
古田説信者たちの言う巻向新しい説は結局は虚報だったわけだ 古い桃の種を100年寝かせてから埋めたのかもしれないだろ 腐りやすい果物の代表格である桃を保存するとか、あり得ないから って、果物部分じゃなく種を保存か
動機さえ示せたら、空想の余地があると認めなくはないな せめて、魏志倭人伝に記録されている鉄鏃とか絹とか鏡とか朱が纏向遺跡から出てこないとな。
何一つ邪馬台国らしいものがないからな。
桃の種が出ても、邪馬台国と関係ない建物があったのかな、くらいの話。 >>1000
>なんかまた政治思想的な色メガネだろ<
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、また、
なんかまた「国粋皇国史観国家」狂の、
政治宗教的な色メガネなんだろ。 絹みたいな高級品(当時)は、王墓とか豪族墓の墓室ぐらいじゃないと、まず出てこない
巻向含め畿内の主要な王墓はたいてい宮内庁が立入規制してて発掘不能だから、絹が埋まってても見つからない。
>>506
文献に書かれていることが間違ってるはずがないと決めつけなかったらお前さんのような論法は成立しないよ
間違いを含まない可能性がゼロである以上、お前さんの論が正しい可能性もゼロだ >>507
九州であちこち見つかっているものを、同時代の奈良盆地では見つからないわけだけどね。 >>507
>間違いを含まない可能性がゼロである以上、お前さんの論が正しい可能性もゼロだ
論理学を理解しないバカ 情報に間違いが含まれていることを許容してるなら、「矛盾するから間違い」という論法は使えないだろ
畿内説の人は(一部例外もいるのかもしれんけど)矛盾という言葉を用いないよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています