九州王朝ってどこまで信じれるの?
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
wikとか見たらすごい面白そうなんだけど
トンデモ説の域はでてないのかな? たもえば露出狂は恥ずかしがらない
変態とは、そういうもの 行程記事が現実の地理と合っていないという想定を排除しちゃうから曲解に曲解を重ねてつじつま合わせを繰り返すことになる
行程記事が間違いだらけで、この記事では邪馬台国にたどり着けないと認めてしまえば楽になるよ
畿内説を否定する論拠が完全消滅しちゃうけどね 畿内説にこだわるあまり、おおもとの魏志倭人伝まで否定しなくてはいけなくなる。 >>853
わかってないね
おおもとは、あくまでも史実
史料は情報でしかないよ 史料に多くの誤りが含まれているのは当たり前で、誤りに惑わされないように読み込むのが学問の本道
誤りをも事実と妄信して怪しい暗号解読に邁進するのは創作業。ダヴィンチコードとか聖書の暗号とかの同類。
ありもしない架空の「真実」(真実モドキ)を発掘しようとしてるだけだね >>850
>じゃあ伊都からさらに歩かなくてはいけないから、ザラコクのような筑後説なってしまう。
ザラコク氏は、私と同じ邪馬台国筑後説になったのですか?
帯方郡(京畿湾 徳積島)ー末廬国(唐津中原) 水行10日(11400里)(>>842より)
末廬国(唐津中原)−邪馬台国(八女室岡遺跡群) 陸行1月≒1000里≒80q
内訳:末廬国(唐津中原)ー伊都国(嘉瀬川扇状地惣座)ー不彌国(吉野ヶ里) 600里(50q)
不彌国(吉野ヶ里)ー邪馬台国(八女室岡遺跡群) 400里(30q)
注:卑弥呼の居所城柵(女王之所都)は久留米南部(邪馬台国中央部)
邪馬台国の範囲 北野地域(筑後川中流平野)+筑後平野内陸部(筑後平野沿岸地域は投馬国) >>852
>行程記事が現実の地理と合っていないという想定を排除しちゃうから曲解に曲解を重ねてつじつま合わせを繰り返すことになる
行程記事は現実の地理と合っているんだけどw
合っていないのはトンデモ説だからだよ。 @阿波 >>852
比率としては一定で、里の長さがおかしいだけで、あとはほぼ正しく実際の地名に比定できる。
畿内説が信じたくないだけ。
里の定義が短いだけ。 個人的には私も筑後説だったのですけど、平原遺跡があまりにも倭国女王の墓らしくて、伊都国説の方が正しく思えてきましたよ。 >>858
その割には、いう人ごとに比定地が違うね >>856
奴国と投馬国はどこに入るの?
私も
末慮国は唐津平野
末慮国から東南陸行五百里は佐賀平野だと思うけれど、
そこは伊都国ではない
違う場所への旅程が、伊都国への旅程として書かれている程度に
魏志倭人伝はいい加減
それを正しいと盲信するのは愚かしい所行だよ >>862
>私も
>末慮国は唐津平野
もし「末慮国は唐津平野」だったら、宗像にとって代わって唐津が「世界文化遺産」になってる筈。
なんで唐津が「世界文化遺産」になっていないんだろうね。 推して知るべし。 @阿波 伊都国が固定されるべきで、そこから末盧国を考えればいいんじゃないかな? >>862
>奴国と投馬国はどこに入るの?
奴国の位置
末蘆国上陸地点は、唐津平野中原遺跡(付近は弥生遺跡の密集地)。
中原遺跡の東南40q(500里)は、佐賀平野嘉瀬川扇状地の惣座遺跡(肥前国庁跡周辺)の伊都国城柵。
奴国城柵は、伊都國城柵の南南東7q(100里)の佐賀城跡になる。
奴国領域は、佐賀平野西部中南部(伊都国の在る肥前国庁跡周辺地は除く)
投馬国の位置
・投馬国は不彌国(吉野ヶ里遺跡)の南に在る。
・投馬国は帯方郡から水行20日(2万里)に在る海岸沿いの国。
以上2条件から、投馬国は有明海に面した筑後平野(佐賀諸富・大川〜大牟田)に在る。
(3世紀の佐賀市諸富は筑後川河口の南側に位置していた。佐賀平野東部は海で、
神崎市千代田以南は、佐賀市諸富を除いて、北に入り込んだ有明海の湾であった。) >>864
>伊都国が固定されるべきで、そこから末盧国を考えればいいんじゃないかな?
伊都国を固定できる根拠は何?
伊都国怡土説には根拠がない。
倭奴国怡土説は支持する。 倭奴=委奴=イト >>859
伊都国に居た王(世有王)は、卑弥呼女王ではありません。 >>866
地名が同じで遺跡も豊富だろ
これを「根拠ない」なんて言い張っても
世間がお前を信用しないよ >>868
いい加減にして、現実に眼を向けよう。
大陸からの玄関口は往古より「世界文化遺産」の相島・宗像方面。 @阿波 倭奴国が記録された時代と、怡土郡の王墓が作られた時期は同じで、それは伊都国に王ありとされた時代でもある。
つまり伊都=怡土=倭奴国だよ。 >>870
倭奴国が記録された時代・・・・1世紀後半
怡土郡の王墓が作られた時期・・1世紀〜3世紀
伊都国に王ありとされた時代・・3世紀前半
上記3つの時期時代は一致しない。 九州説のやつらがいう地名の一致って、かつて存在したとされる音韻の区別(例えば甲音 乙音?)を区別しないでいっしょくたにしたりするなど、乱暴すぎることが多いよね >>873
時代が被っているから、少しずつ表記が変わっていっただけ。 >>874
古墳はどれもこれも地方王(豪族)墓だよ。 @阿波 >>878
>春日は不弥国ではないだろうか。
不弥国は
築城五反田遺跡、上別府沖代遺跡、安武・深田遺跡、安武・土井の内遺跡、赤幡森ヶ坪遺跡
などがある「築上町辺り」だね。 @阿波 >>878
>春日は不弥国ではないだろうか。
不彌國は、「戸制度」ではなく一大国と並ぶ特殊な「家制度」であるから、特異な地域を治めていた。
その特異な地域とは、2世紀前半に衰退した帥升王倭國の首都(倭都・米多國)であった吉野ヶ里である。
不彌國集団(奴國 不彌國 邪馬台国 投馬國)に敗れた帥升王倭國は、倭都を西方100里の佐賀惣座遺跡(肥前国庁跡付近)に遷都した。 「戸」表記の地域と「家」表記の地域が別系統史料に由来してるだけだろ
つまり、「戸」表記資料に収録されてない地域だったって事
魏じゃなく呉と交流があって魏に情報が渡ってなかったとかな >>864
>伊都国が固定されるべきで、そこから末盧国を考えればいいんじゃないかな?
伊都国の北西500里は海の上
その程度に、魏志倭人伝の旅程記事はいい加減 >>863
>もし「末慮国は唐津平野」だったら、宗像にとって代わって唐津が「世界文化遺産」になってる筈。
>なんで唐津が「世界文化遺産」になっていないんだろうね。 推して知るべし。
宗像が世界遺産になったのは、海の正倉院、沖津宮の存在が大きい
まあ、半島との航海の神であることは間違いないけれど、卑弥呼の頃とは時代が違うよ 宗方の祭祀は上古から始まっている。
必ずしも時代が違うわけではない。 >>884
>まあ、半島との航海の神であることは間違いないけれど、卑弥呼の頃とは時代が違うよ
もし「末慮国は唐津平野」だったら、宗像にとって代わって唐津が「世界文化遺産」になってる筈。
なんで唐津が「世界文化遺産」になっていないんだろうね。 推して知るべし。 @阿波 >>882
>「戸」表記の地域と「家」表記の地域が別系統史料に由来してるだけだろ
>つまり、「戸」表記資料に収録されてない地域だったって事
「戸」「家」は古代中国の概念
「戸」:王領主の所有物である農奴(農民奴隷)
「家」:王領主に対して自主性有(王領主の部下になれる)
「家」は場合によっては王領主になることもある。
日本には歴史的に農奴がいなかった。
日本の農家=農奴 と考えるアホなシナ人が今でもいる。 「世界文化遺産」と「末慮国は唐津平野」には何の関連性もない。 >>888
>「世界文化遺産」と「末慮国は唐津平野」には何の関連性もない。
そうだね。
「世界文化遺産」と「末慮国は相島・宗像方面」には関連性があるってこと。 @阿波 「世界文化遺産」と「末慮国は相島・宗像方面」にも何の関連性もない。 同じ文化圏だろ。
筑紫を中心とする古代文化があったということだよ。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 >>891
>同じ文化圏だろ。
文化は圧倒的に相島・宗像方面だね。 @阿波 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
4TW >>887
>「家」:王領主に対して自主性有(王領主の部下になれる)
「家」は場合によっては王領主になることもある。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。
方可三百里、多竹木叢林。「有三千許家。」
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。「有千餘家。」
壱岐と不彌國にだけ、自主自立の民が千家単位であるっておかしいだろ?
単にもと資料の表記の違いだろ >>895
>壱岐と不彌國にだけ、自主自立の民が千家単位であるっておかしいだろ?
>単にもと資料の表記の違いだろ
漢籍で「戸」「家」の使い方を調べてごらん。
「戸」:農奴 奴隷の農家
「家」:自立農家 豪族 九州王朝が確かだとすると奈良の飛鳥とかにある遺跡はだれが作ったのか?
東鯷国? >>898
>奈良の飛鳥とかにある遺跡はだれが作ったのか?
倭国(阿波)から遷都する前の朝鮮半島人たちの遺跡。 @阿波 日本国は倭種(倭と同じ民族)とあり、九州の分家の扱いですね。
それが後に(九州の)倭を併合したのだとか。 >>900
>日本国は倭種(倭と同じ民族)とあり
倭国(阿波)から遷都する以前は「倭種の国」。
8世紀の遷都後は「日本国」「大倭国」「大和国」 @阿波 >>896
呉、楚など南方の文化圏では黄河流域の文化圏とは用字に違いがある
口と書くところで嘴をよく使う傾向がある、みたいな、方言がな。
戸と家の違いも、元資料が違ってたことを反映してるだけ、つまり片方が呉で作られた資料を使ってるんじゃないか、と思うわけ。
意味の違いによる使い分けと主張するには同一著作内での使い分けの例を示さないと(それも、引用ではない部分もしくは同一資料からの引用文とわかるもの)証拠にはならないよ >>902
>呉、楚など南方の文化圏では黄河流域の文化圏とは用字に違いがある
文化圏による用字の違いではない。
三国志では、「戸」が「魏書」「呉書」「蜀書」で夫々同じ意味で使われている。
魏志韓伝では、統一王者の居ない馬韓辰韓弁韓夫々では「家」を使い、
韓全体としては「戸」を使っている。 邪馬壱国の所在地論争は、『魏志倭人伝』の行路記事のありとあらゆる解読案にも
かかわらず、未だに決着を見ていません。 これは、万人を納得させるような解読方法が発見されていないからですが、
それでも『三国志』全体を調査せず、倭人伝だけであれこれ推理していた
「古き良き時代」なら「正しい解読方法がまだ発見されていないだけかも
しれない」という可能性も十分あったので、文献オンリーで邪馬壱国の位置が
わかるかもしれないという希望が持たれていたと思います。 ところが、おそらくは古田武彦氏に始まるのでしょうが、「倭人伝だけを調べていた
のではだめで、『三国志』全体を調査しなければ倭人伝を解読することはできない」と
いう新しい見方が導入されました。古田氏によれば、「漢字の用法を『三国志』
全体から帰納すれば、倭人伝の矛盾のない解読方法が判明する」というのです。 このような見方は斬新なものでしたから、この手法と結論の検証が、
アマチュアを含む多くの研究者によって行われるようになりました。
例えば「短里」の問題などはその最たるものでしょう。 ところがその結果分かったことは、ある意味では当然といえば当然で、
しかし非常に残念なことではありますが、「『三国志』全体を調べても、
一つの漢字には多くの用法があり、しかも一冊の正史は一人の著者に
よって実際に書かれたとは限らず、従って文字の意味は一意に定まらず、
このような方法によって漢字の用法を帰納して倭人伝を解読することは
不可能である」というものでした。 また、陳寿の撰述態度は、できるだけ原典を尊重するというものだったとされており、
典拠資料の原文に極力忠実に記したものと言われています いわゆる魏志倭人伝でも、戸数が、基本的には「戸」で記されているのに
一大國と不彌國だけ「家」となっているのは、もとの資料でそのように
書かれていたからだと解釈されています >>1
>トンデモ説の域はでてないのかな?
トンデモ説の域、どころか、トンデモ説のお手本みたいなものだよ
誤読と曲解と、捏造+チェリーピッキングでできているんだからw
誤読 伊都国が、邪馬台国の都
曲解 水行の起点は帯方郡
捏造 短里(東夷伝里) 短里の発明が二十世紀初頭で古田より古いから、
古田単独での捏造とは言えないよ
短里に否定的な見解が主流になっていたなかで
牽強付会で再興させただけだ 発明じゃなくて、実際の地理と比較するとそれくらいの尺度であることがわかった、というだけのことだろう。 九州も狭いし、王の存在はマジでいかんと思う。列島にもいらない。
おとづれ のだいじさなるなり >>913
実在しない架空の度量衡を創作するという手法を発明したのが20世紀初頭のこと
それが短里説 「単里」は、「周髀算經」でその存在が証明されています。 1里=76.5m(平均値)
「周髀算經」の記述内容がBC1120年頃迄の事象であることを、現代の天文学は証明しています。 誤読 伊都国が、邪馬台国の都
その通り。
曲解 水行の起点は帯方郡
「從郡至倭」の「從」の意味を理解できると水行の起点が帯方郡になる。
捏造 短里(東夷伝里)
>>923で「単里」の実在が証明されています。 「從郡至倭」と「自郡至倭」の違いを理解出来なければならない。 >>924
>誤読 伊都国が、邪馬台国の都
> その通り。
誤読なのは、その通りなんだね!
意見の一致を見て、なによりだよw >>924
>曲解 水行の起点は帯方郡
> 「從郡至倭」の「從」の意味を理解できると水行の起点が帯方郡になる。
バカ?
それ以前に(文章中で)今いるところから出発じゃないと話が通じない
そしてその主張だと帯方郡から南に行くだけで邪馬台国につくことになるが
冒頭の「倭人在帶方東南大海之中」と明確に矛盾する >>924
>捏造 短里(東夷伝里)
> >>923で「単里」の実在が証明されています。
>>923
>「周髀算經」の記述内容がBC1120年頃迄の事象であることを、現代の天文学は証明しています。
「周髀算經」は、蓋天説という古代中国ですでに間違いであることが明らかにされていた書物
春分秋分の正午の影の長さが、冬至と夏至の中間とか、実測値ではないことがそれだけで分かる
一寸千里とかいうのは、蓋天=平面の空が、地上から八万里としていて八尺棒で影を測るから
その比が一寸千里ってだけだよ
一寸千里×80=八尺八万里
こんなものしか頼るものがないんだよな、九州説はw >>929
文章修正
「周髀算經」は、蓋天説という古代中国ですでに間違いであることが明らかにされていた
「間違った説に沿って計算を行った」という書物 >>930
漢代の天文学者「太陽までの距離が一万数千里から十数万里まで変わるというのに、太陽の見える大きさが変わらないのはナゼだっ? 実測したってウソだろ」
周髀家「・・・・」 周髀算經には「北極枢大星」の観測が書かれています。
これは現代21世紀の天文学に基づくと、
商代BC1120年頃の小熊座ベータ星が北極星であった時の観測結果になります。
観測地点:北緯38度 石家庄付近
「一寸千里」の観測は、上記商代「北極枢大星」の観測より古いものですが、同じ商代のものです。
「一寸千里」の観測は、夏至の正午のものです。
現代とは異なる商代の地軸の傾きを基にして、「一寸千里」を求めると、
1里=76.5m(平均値)になります。 周牌というアイテムを扱って計算するから周牌算、その計算方法に関する本だから周牌算経なんだよ
周代のことを記したなどと捏造するなよ 「自郡至倭」
訳:郡から倭に至るには
「從郡至倭」
訳1:郡に立ち寄って、そこから倭に至るには
訳2:郡を経由して、そこから倭に至るには
訳3:郡の向こうにある倭に至るには
倭への行程は不彌國(女王國)までで、道里は12000餘里
投馬国へは概算道程水行20日(概算水行2万餘里)
邪馬台国へは概算道程水行10日(概算水行1万餘里)と概算道程陸行1月(概算陸行1千餘里) >>932
昔からある天文学の情報や腐儒の空想をツキハギにちりばめて箔を付けようとしただけのトンデモ本だよ
ツギハギなので、現代人が現代知識を接ぎ木して逆算すると変な値が出る >周代のことを記したなどと捏造するなよ
商高(商の高官)等から商の知見を学んで、周公(周旦)がまとめたものが「周髀算經」である。 >>937
それ、真っ赤なウソ
「昔、周公が・・」って書き出しでモロバレ >>938
周公(周旦)が商高(商の高官)に質問して、
商高等が質問に答える形式で書かれているのだが、
その何所が真っ赤なウソなんでしょうかね?
それを文書化したのは、周公(周旦)の部下でしょうね。
周旦は周建国時の最大の功労者です。事実上の王
「昔」とあるのは、周が殷商を滅ぼした時の会話だからでしょうね。
殷が引き継いできた商文化知識を周が引き継ぐ為の会見を記録したものでしょう。 昔の偉人が語ってる形式で説明するのは古代の本ではかなりメジャーな一般形式だぞ
戦国時代半ばか後半頃成立の「老子」だって、孔子よりひと世代上の架空の偉人「老子(李耳、あざなは? )」が年若い孔子に語り聞かせる体裁をとっているし、
論語の中にも孔子が周公の言葉として語る架空の言説(多くは孔子の創作か当時の巷説の引用で史実ではないと思われる)が記されている
「昔、周公が・・」って書き出しは、むしろ典型的な創作物だよ
周公が言ったとされる言説のうち、後代の人間が作ったものでなく本当に周公が言ったと考えていいのは青銅器に鋳込まれた金石文の言葉だけ。
書物に記されてる物は(史記の周本紀のものも含めて)たいていは後代の創作
とうぜん、周牌算経も後漢代の創作物 >>934
漢典
「從」
6. 自、由。《孟子•離婁下》:“施施從外來。”唐•杜甫《月夜憶舍弟詩》:“露從今夜白,月是故鄉明。”
English
from, by, since, whence, through
単に、「自 より」と同じ意味で使われているだけだよ
前にも女王之所都で「之」が入っているから、「女王の都するところ」じゃないって
言ってた九州説のあんぽんたんがいたけれど、九州説にはまともに漢文が読めるやつはいないのか? 古田氏は、珍読というよりは、牽強付会のほぼ捏造だからちょっと違うと思ふ 周牌算経は、天も地も平面で、その平面の間の距離が八万里っていう蓋天説に沿って
机上の計算をしているだけだから、それを現実の地理の説明に使おうなんてのが、
端からおかしいんだよ
周牌算経により短里の存在がーとか言い出すのは、愚の骨頂w >>948
そうそう。
んで、古文献の世界全般の常識を無視して逸脱していくんだよ。典型例が939 >>940 及び>>941-950
>とうぜん、周牌算経も後漢代の創作物
周髀算經の内容が後世の創作物ではありえない証拠を示しましょう。
天文学天体物理数学に弱い君には理解できるかな?
以下が周髀算經 巻下 3 に書かれているである。
>>https://ctext.org/zhou-bi-suan-jing/juan-xia/zh
上記にかかれている内容を解説しよう。
@黄道の北極点(北極枢) こぐま座ベータ星(北極中大星) 赤道の北極点(地球自転軸傾斜角の基準)
上記3点が天球に一直線に並んでいる。
A北極枢(天の北極)と北極中大星(北極星)がなす視角は、5.399度である。
B上記@Aを観測する日時場所は、観測者だけが設定できるものである。
観測場所の緯度は、観測者のいた時代の北緯37.836度である。
上記3条件が揃う時代は紀元12世紀末(BC1120頃)しかない。
北極星が存在しない時代である後漢の人が、創作で書けることはありえない。
「周髀算經 巻下 3」は、紀元12世紀末(BC1120頃)の観測者だけが書ける内容である。
よって、周髀算經に記述された内容は殷商時代のものであって周代以降のものではない。
以上の内容にについては、AD2000に地球の歳差運動についての詳細なデータが
発表提供されるようになってから考察可能となったのである。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。