【刀】鈴木眞哉史観を疑う 六太刀目【騎馬武者】
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「歴史の真実を見極めよ」と既存の歴史観にエキセントリックに疑義を投げかける、
紀州雑賀衆の末裔を自称する「日曜歴史家」鈴木眞哉。
ネット上を見ると、彼を評価する人間も少なくないが、
鈴木のいう「歴史の真実を見極める」とは
彼の説を無条件に受け入れるだけで事足りることなのか?
彼の提案する説で疑問に感じるところはないのか?
鈴木史観との向き合い方から鈴木史観の内容についてまで、
それを日本史板なりに専門的に議論するスレ。
前スレ
【刀】鈴木眞哉史観を疑う 五太刀目【騎馬武者】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1350722151/ >>274
>信長でも佐久間の家臣については直接関与することができないと分かる
直接関与ってなんなの?
軍役果たしてねえからクビだと言ってるんだから立派な関与だろ。
信長は直臣だけで無数に居るんだから、そいつらの軍役まで信長が直接履行しないのは当然だろ。
直臣の統制は軍役を果たしたかどうかでやるしかないだろうが。 佐久間は信長の部下だが、佐久間の部下は信長の部下じゃないからリストラできないとは
武家社会はややこしい こういう戦国時代の組織の関係って、今のヤクザがどうなってるかから逆算できんもんかね >>280
基本的にヤクザの組織は武家の組織の真似してるからある程度は言える。
ただ、ヤクザの組織も組織によって随分違うんで、戦国大名の組織も家ごとに結構違うと思う。
だからこそこれから詳細に研究して欲しいんだよね、北条家以外も。 跡目争いが血で血を洗う抗争事件、お家騒動になるところもそっくり。 ヤクザには上納金ってあるじゃん
実は武将も大名に上納金払ってたりすんのかね
江戸時代に扶持米になったときには大名側がピンハネしてたらしいがw >>258
君は議論がしたいんじゃなくて、偶偶手にとった新書か、目に留まったネットのコピペを最新の学説だと思い込み、その布教がしたいんだろ?
どうせ何を言っても聞く耳もたないだろうから説明しない
>>259
>大名の側が自分で人選して臨時雇いする方がマシな兵が集まるはず
その前に書いていることは正しいけど、これは一概には言えない
主君を渡り歩く名のしれた牢人もいるし戦国時代は牢人にとっては再就職先に困らない印象もあるが、尼子氏を滅亡させた毛利氏は
領国が急拡大し人手が足りなかったにもかかわらず尼子の旧臣を再雇用することは警戒している
牢人・浮浪は国内を不穏化させる潜在的な敵だから >>284
オレ>大名の側が自分で人選して臨時雇いする方がマシな兵が集まるはず
>その前に書いていることは正しいけど、これは一概には言えない
いや、普通に領内から徴用する兵と比べてるんじゃなくて、(一部の?もしくは少なからぬ?)士分たちが、
領民を連れて行くと税収が落ちるからと(もしくは別の理由で)外部からヘボい人夫を格安で雇って連れて行く例が問題になってたわけで、
どうせ外部から雇い入れるぐらいならば大名側が人選して雇いたかっただろうって程度の発言。
大名側が本当に多くの兵を臨時で雇い入れていたかどうかは不明、というか、多くは雇い入れてないだろ。
>尼子氏を滅亡させた毛利氏は、領国が急拡大し人手が足りなかったにもかかわらず
>尼子の旧臣を再雇用することは警戒している
たいていの大名は、新しい支配地を得たときに、そこに元から住んでた在地領主を追い出して自分の部下を入植させるのではなく、
たいていの領主を温存して、自分の部下はその上での地域支配を任せる程度だよな。
まあ、敗戦国に身方してた件について、臨時課税するとか領地の一部を召し上げるとかいうふうな、なんらかの処断はするとして、だ。 >>275>>277
軍役か・・・・
俺も分からなくなってきた >>260
>農作物の収穫が厳しい寒冷期には農民の兵役が主流になり、
>そうでない収穫安定期には専業兵が主流になる(兵農分離がすすむ)
>そういう傾向が、ヨーロッパで見られるという話はある。
はぁ??ヨーロッパはカール大帝より前から兵農分離だが
なんでルイス・フロイスが無一文で戦に駆り出される農民見て驚いてるか考えてみろよ >>287
兵農「未」分離って言葉に引っかかってるな。
未分離状態から分離状態へと、社会の進化によって変わっていくのではなくて、
気候条件によって未分離状態が主流になったり分離状態が主流になったり、可逆的に変わるんだよ
寒冷期には未分離状態に戻るんだ。
カール大帝より以前って、そこそこ温暖だった時期だから、兵農分離状態が主流だった。それだけだ。 騎馬隊が騎馬だけで構成されていて機能するのか?
そもそも騎馬武者は複数の武器を使いこなすから兵器換装を必要とする
やはり槍持・弓持の随伴を必要とするよな
となると騎馬には少なくとも足軽2人は必要
ちなみにモンゴルの騎馬兵は換装を必要としないんだ
なぜならモンゴル兵は弓だけで戦をする
白兵戦はおまけ程度 >>290
モンゴルはエリート特権階級が白兵用の重騎兵な >>284
わけがわからんなぁ
あんたが>>219で上の方の話の流れを見る限り唐突としか思えない
「手足のように運用」という言葉を出してきたので
こっちはそんな話がどっから出てきたのかってただの”素朴な”疑問をぶつけたわけじゃん
で、あんたは>>227で「近代軍の騎馬隊に恒常的な訓練が必要なのは常識だ」と言い出したわけだ
これ、答えになってないでしょ普通に?
歴史の話以前に文章、議論としておかしいじゃん
それに数騎単位の運用で騎馬隊なんてやっぱり普通は言わないでしょ
最新学説だの史料の解釈などと言った小難しい話なんてこっちは一切してないんだよ
知識の有無など何の関係もなしに論点そのものがずれてるんじゃないかと言ってるだけで
そしたら今度は「お前なんかに何言っても無駄だから説明しない」って・・・
なんだそりゃ? 敵が体勢整える前に急襲したいとか、敵の意表を突きたいとか
こういう全体の速度が要求される場合は例外かもしれないけど、
通常の戦では兵種別編成が行われてたとしても
全軍を丸ごと再編成するのではなく、
ある程度の規模の纏まったブロック毎に行われるイメージでいいの? そりゃ戦の度に全軍丸ごと再編成するなんて非効率すぎるだろ >>292
そういえば最後の〆で重騎兵を使っていたような・・・ >>296
軽騎兵の騎射は前座で
重騎兵による決戦がモンゴル帝国の根幹 「集史」の挿絵なんか見ると重騎兵も時によっては騎射をやる感じだな >>294
兵種別再編してる様子が明らかになった北条家の場合、岩付衆という単位内でのお話。
人数がだいたい1000人超くらいだったから所謂備えと言える単位。
少なくとも北条家内では備え単位で兵種別編成をしてたんじゃないの?
戦国時代は備え単位で動いてたから他家でも似たり寄ったりと思う。 >>299
備が本当に全国の全部の大名家で採用されてた制度かどうかはわかってないからね? 兵科別にやっていたところもその一方で武将や旗本衆周囲は
昔からの編成をさせていた二元構造だった可能性もある >>300,301
全国一律の軍制なわけない。
だから何? >>299
というか、全国有数の先進的な兵制を採用していた北条家が例外的に施行してた制度って可能性があるんじゃね。
織田家とかではたぶん実現できてないよな。 『野口豊前守戦功覚書写』を見る限り佐竹配下の多賀谷家家臣として
その北条方とも戦っていた野口豊前守たちはそんなに大きな単位で
騎馬突撃してた感じではないな
例えば↓だと「つれ合候衆」として出てくる名のある武士は二人しかいない
このケースの場合彼ら+豊前守の三騎の騎馬武者に徒歩なり騎馬なりの郎党を加えた単位で
「馬を入乗くつし」をしていたんじゃないかと思える
『野口豊前守戦功覚書写』
・一、小山きりとをしと申所ニ而、ひさきと申物人衆引連打出候を、我等馬を入乗くつし申候、つれ合候衆山内大炊亮・
塚原ぬいの助そんし申候事、 多賀谷氏は残っている陣立書が事実なら兵科別には編成されていなかった
ただそれを見るとこのクラスの勢力にしては合計千挺と鉄砲が随分多いし
それが間違いのない事実だと言い切れる自信はないがね
豊前守の戦功にもあるように天正後半の小山とか牛久在番衆とかの北条の勢力と接する
最前線にいたから佐竹からの援助の元で揃えられた可能性もあるけど >>305
切通しってだいたい狭い道でしょ?
そんなとこで戦ってるあたり、ものすごく規模の小さな戦闘なんじゃないのこれ 切り通しはそこを押さえれれば交通を一気に遮断できる要衝でもあるので
周辺で戦闘になることも多いが、だからと言ってものすごく規模が小さいとまではちょっと断言できない
もし切り通し自体が戦場になったのならそんな地形でも馬を入れたりしてたってことにもなるが >>305
共に「馬を入乗くつし」た「つれ合候衆」中で
「そんし(存じ)申候」即ち、知っていたのが
「山内大炊亮・ 塚原ぬいの助」の2人ってことで
他にもっと沢山いたのかもしれないぞ。 >>305
そもそも戦功覚書って、普通は仕官にあたり履歴書として仕官先に提出するもので
そこに「つれ合候衆」として名前があがってる2人は、
その覚書作成当時(おそらくはその戦いがあってから相当年月が経っている)に
野口の働きぶりを見知っていてその戦功の証人足りうる人物としてあげたのがこの二人ってだけだから
「小山きりとをし」で馬を入れたのがこの3騎だけだったかどうかは、この書面からはわからない
履歴書代わりに使用する戦功覚書は、当該戦功があったことの真実性を担保するために、
信用がある人物を証人として1、2名挙げればそれでよくて
軍記物みたいに一緒に戦った人の名前をずらずら全部書き連ねるなんてことは普通しないしその必要もないからね >>310
なるほど。
戦功覚え書じゃ全体の様子はわかりにくいね。
ただ、ある局面に関しては相当具体的にわかるってことか。 >>299
156のhttp://kagiya.at.webry.info/201307/article_2.htmlで、
「何も不知案内ニ候間、可有相違候、如何様帰陣之上、心静遂糾明」
という一文から、「やってない可能性あるんじゃないの」って指摘されてるけどどう思う 5人組ってのは軍隊の最小単位で支那でも古くから使われてきたよな
アメリカドラマのコンバットでもサンダース軍曹が若干兵装の違う4人ぐらいの部下を引き連れて活躍する
騎馬1・足軽4ぐらいのユニットって結構優れもんではないのか? >>312
横レスだけど岩付衆のその陣定書にはそもそも「今度之陣一廻之定」とあるから
恒常的に岩付衆がそういう軍編成であったとは限らないってことは
兵種別再編成を支持する研究者たち(則武とか)からも、もとより指摘されている
そのブログでも指摘してるけど、陣定書の編成と一般的な北条氏の軍役の編成との間では
単純な動員兵数という点では特段奇異な違いはなくて、特徴的な違いといえるのは
陣定書の軍構成は、衆全体のなかで馬上が占める割合が妙に大きくなってるところだから
素直に考えれば、その陣定書では、馬上衆を多めにした衆の編成を試してみたのかもしれない
もちろんこれは完全に想像にすぎないけど
そもそもこの陣定書に相応する戦「今度之陣」がどれであるかといったことも研究途上で特定されてないから
陣定書が実際に実施されたか否かは、一次史料から確定させることは現状出来てない
ただ実際に陣定書に従った「陣」があったとした場合、事前にこの陣定書が岩付衆に交付され、
それに従って岩付衆が動くのは不自然ではないし
他方で「帰陣」した後、口頭による談合で「心静遂糾明」がされたために文書が残っていなかったとしても何ら不自然なことはない
というか、こういうややこしい説明を要する軍事機密に類する話は、たとえ文書が残っていても、詳しくは口頭で使者が伝える
としか書いてないことが多いし、それよりなによりそもそも文書が残っていることの方がレアケースだから、
「心静遂糾明」に関する文書、反応が現時点で発見されていないから
陣定書は実施されていなかったのではないかとする、そのブログの論拠はあまり説得力がないんじゃないかな
というかそのブログ、ざっとしか読んでないんで誤解があるのかもしれんけど
武田家の旗本衆や単独で一手を形成できる家臣の兵種別再編成は認めながら、
寄親寄子の組み合わせになる一手あるいは備えの兵種別再編成は不可とする論旨がいまいちよくわからん
寄親寄子制ってそういう備えを形成するには大小中途半端な給人たちを
有効な戦闘単位へ編成するための制度だろうに 米軍のように完全に規格化された軍隊が当然とか、相変わらず笑わせてくれるが
まぁこの子は放置しておくとして
>5人組ってのは軍隊の最小単位で支那でも古くから使われてきたよな
>アメリカドラマのコンバットでもサンダース軍曹が若干兵装の違う4人ぐらいの部下を引き連れて活躍する
前文はどうでもいいが、WWUの軍隊の最小単位は分隊で何所の国でも十人乃至十数人
で、コンバットの場合のように米軍の完全に規格化された分隊では兵の構成上そうなっていただけ
このスレ、何人で会話されているのか知らんけど、僅かな情報による牽強付会のオンパレードだなw 米軍のように完全に規格化された軍隊が当然とかどこに書いてあるんだろう
牽強付会どころかエスパーが来たかな? 以下、中世の日本には「有効な戦闘単位」が確固として存在したと、
素人妄想と得意の検索技術を活用し、即席の拾った言葉で開陳されまつ。 >>317
君は自分で気づいてるんだよ
「有効な戦闘単位」があったかも知れないということをね
そしてそれを否定したい自分がいる
だから先回りして潰しに掛かる なんでもかんでもマニュアルが存在すると思い込み
此の世の全てをマニュアルに当て嵌めることが思索の第一歩なんだろ、坊や >>317
明史に中世の日本には「有効な戦闘単位」が確固として存在したと記録されてるからな
史実より願望を重視するのは馬鹿チョン 牽強付会と並んで、論旨の摩り替えもオンパレードだなw >>314だけど「有効な戦闘単位」って別に近代的な編成があったとかって言ってるわけじゃないよ
戦国時代の寄親寄子制度が、平時にあっては、寄親が寄子の争訟の第一審として問題解決を担当し、
寄子が主君にいきなり直接訴え出ることを禁止し
戦場では本来直臣として同格である一定数の寄子の軍事指揮権を寄親が持つ擬似「親子的な」制度ってのは、争いのない見解だ
そうした擬似的な「親分子分」関係に基づいて指揮権を与えられた寄親を中心に中小給人をひとまとめにしたものが
戦国時代の戦場における一般的に「有効な戦闘単位」だったって言ってるだけで、それが近代的な洗練・訓練された編成・部隊だったとも
全国的に画一統一された制度だともはいってない
寄親が同格の寄子への軍事指揮権を持つことと、兵種別再編成の存否の間にも厳密には必然的論理的な関連性があるともいえない
いわゆる「備」の具体的な中身や運用方法、地域差はまだ研究途上だからね
あと>>314の最終段落は>>312のブログが武田信玄自身が直接率いる部隊の兵種別再編成を認めながら、
主君自身が率いるには物量的に手が余る直臣(寄子)たちを、
家臣団統制の一環として寄親に預けると兵種別再編成ができなくなるっていうのは不自然だと指摘しているだけだよ >有効な戦闘単位
もうこの表現は止めた方がいいな
何を指してるのか特定しずらい
この言葉で延々と議論をすると何が何だか分からなくなる恐れがある >>314
>兵種別再編成を支持する研究者たち(則武とか)からも、もとより指摘されている
でもこのスレでもここんとこスルーしてる人間多いから、もっかいこのこと心に置いたほうが良いよな 320
明史とやらにでてくる戦闘単位やらと日本史にでてくる小大名の勢力圏
まったくおかしなところはにいけどそれがどうかしたか? >寄子が主君にいきなり直接訴え出ることを禁止し
でもこれってもう明確な陪臣化だよな
俺が寄子ならすげーイヤだわw 一週間ぐらい落ち込む >>326
そうだなw
秀吉が天下とった後で、秀吉の古くからの家来という印象の人間の大半が、
実は本能寺までは信長の直臣だからなw
今なら本社社員の身分のまま本社常務クラスの人間が社長つとめる子会社へ出向ってことだから落ち込むなw
でも、組織が大きくなるってことはそういう事だから仕方ねえべ。 日本は山ばっかりで馬は無用、と言われるけど、平地が全く無いわけじゃないし、
5km10km程度の移動でも馬が居ないより居た方が良いよね。 むしろ山ばっかりだと移動は馬の方が便利だろう。
馬による奇襲とかも山の方がやりやすい地形だってあるし。
平地か山かで二分は出来んよね。 牛なら普通の山道でも通れるが馬をきちんと運用するには高低差の少ない道路を整備しないとダメだ、
みたいな話を昔聞いたことがあったんだが、この話の真贋がよく分からん。 >>328
「功名が辻」だと転戦が出来て武功を稼ぎやすいって一豊はポジティブに捉えてたけどどうなんだろ 遠戦志向説から行くと、厳密な兵種別の編成が行われていない軍でも
まず前列に鉄砲や弓を配して撃ち合い、その後槍や刀で斬り込む、
という基本的なセオリーがあって
少なくとも飛び道具の兵と打ち物の兵の大まかな編成分けはあったと考えていいのか? 鎌倉時代までの武士は主力武器が弓だったわけで、この人の説である「南北朝時代から遠戦指向になった」ではおかしいだろ
もともと武士のことを「弓馬の党」などといい、武芸のことを「弓馬の道」と読んでたぐらいに弓が(騎馬を操りながらの射撃が)重視されてたわけで。
近戦指向から遠戦指向への移行なんて有ったはずがないと思わんか。 矢を何本携えているのかが問題
一分間に1本射れば30分で30本消費してしまう
矢を失ったらどうなるかだ >>336
鎌倉武士の戦法は、重装弓騎兵による突撃しての近接射撃、という世界的に珍しい戦法。
南北朝の頃は弓歩兵による一斉射撃だから、考え方が変わった、というのも間違いではない。 >>339
>鎌倉武士の戦法は、重装弓騎兵による突撃しての近接射撃
なんか違うような気がする
日本の弓は世界最大で速射能力を捨てて威力を追及したものなんだ
それが近接射撃とは信じがたい
近接射撃はモンゴルがやる戦法だよ >>340
流鏑馬も、犬追物も、近接射撃の訓練だよ?
接近しての一撃でケリを受けるからこそ、大威力が必要。。 >>341
う〜んんん。確かに流鏑馬は近距離だ。。。 大鎧着た相手に遠くからピシピシ矢を射て死ぬわけないだろ
近づいて顔面にブチ込むんだよ。将門や義仲・義貞もみんなそうやって死んでる。 難太平記読むと相手の白刃が届く距離で騎射してる場面がある 343
源為朝なんかが大弓の名手だったって有名な話だよな
それで九州に落ち延びて九州をまとめ上げ支配したと
かなんとかの説もなかったっけ?
よく覚えていないけどなんかで聞いたかテレビで見た
かした話 九州あたりも源氏に関係しそうな話ってのはあるんだよな 源義親は隠岐に流罪だっけ?
そのあと義光と義国が争ってるんだよな
源氏を継いだ為義派だったのが義国 342
奥州藤原氏ってのは独自に大陸の方と通商を持っていた話はあるぞ
位置的にいえば今の沿海州だろ >>340
元寇の後の元代の文献でも日本の矢の射程は遠くないと述べられているよ
その手の文献だと刀の鋭さも言及されるから刀は活躍したんだろうとはわかる つうか普通の人間には大弓は引けないから
弓を引くときの硬さでいったら世界一じゃないの? >>352
そこまで行くと実戦的な感じがしないなw >>341
鎌倉後期の春日権現験記絵なんか見るとやや遠間から馬を走らせてつつ
弓を脇に挟んで抜刀なんて姿もあるな
距離があっても弓でなく刀を選択してるわけで
このあたりから騎射の威力が見切りをつけられて南北朝の打物時代に至るのかも >>350
弓の大きさの割りには射程がそれ程ではないと言われてるね
矢が重いのか?
弓の素材のせいかな? >>355
鎧を貫くために矢が長く重いとは言われる 弓術の訓練で400メートル超の距離を射ることを求められることもあると考えれば
矢次第でかなり変わりそうではある
もちろんこれは有効射程ではなく最大射程だけど >>340-342
それに、当時の軍記物や絵巻物における一騎打ちも、それを裏付けるかのように、彼我の距離が数メートルないし十メートル程度だしな。
明らかに近接射撃
>>346-347
為朝が九州で勢力を持ってたのは清盛が台頭する前だしな。
為朝が処刑されたことで生じた空白地をかすめ取ったのかな? 数メートルの距離に接近して馬上から弓で鎧の隙間を狙うくらいなら打物やるわって
流れになるのも無理はないと言える まあ数メートルから矢が当たれば高い確率で死亡するからそれが主流だったんだろうけどな。
ただこうなると遠戦志向とは違うよな。
遠戦で矢を使うなら集団で雨あられのように射かけなくては。 もったいない精神で外れ矢を恐れるあまりどんどん近づき、更にどうせ当てるなら効果を最大限にと威力を増していったと。。。 もったいないどころか接近しながら射る矢が外れたり有効じゃなかったら
自滅に等しいことにもなりかねないわけで 「真光故実」を信じるなら鎧も強度を増してきて昔なら可能だった
鎧の「裏をかく」=貫通するもできなくなっていったらしい
だから鎧の隙間を狙うか馬を狙うとか以外にも打物とか組討になるようになったんだと
ちなみに馬を射ることがマナー違反とか変な俗説があるけどここには
非難するようなニュアンスはないよ
「平家」で義経が水夫を狙わせるところも本文ではなんら非難がましいことが
書かれていないのになぜか当時の常識ハズレとか暗黙のルール違反とか言われたりと
色々不思議な俗説がまかり通ってると思う 80年代以前の戦後の馬鹿人文ガク者共は妄言垂れ流しまくりだからな
戦前より低水準じゃないの?ってレベルで 鎧の革とかペラペラじゃんとか昔はよく知らずにバカにしてたんだが、
あれが軽くて強度あるんだよな。
矢はもちろん、打ち物でも鎧に当たったら効果薄い。
隙間を効果的に狙うにはより接近思考になったということかな。
そうなると打ち物が有利になるよね。
鎧通しなんて優れものもあるしなw 資料に風云々と出てれば遠距離攻撃が行なわれていたとみていいと思うんだ
近距離での攻撃のみなら風はあまり関係ないからね
確か平将門の最後の戦いでも風のことが書かれていたとよな >>365
そうなると、槍とか鈍器がもっと早く流行りそうな気がしないでも無い。 >>365
減衰するだけで、条件悪いと普通に刺さるし斬られるけどな
革の鎧着た李朝兵が鎧ごと日本刀でばっさり殺られたみたいに 全然関係ない話だけど、鄭成功の鉄人部隊に驚いてたってことは
中国でも鉄製の甲冑って珍しかったんだろうか?
材料や技術に不足があったとは思えないが >>368
悪いけど、革の鎧と言っても日本刀相手にしてる日本の革鎧と朝鮮の革鎧を一緒にするのはどうかと。
日本のは革を丁寧に丁寧に塗り固めて作って行くのよ。 漆に付けた革を重ねて突き固め石灰で固めるようなことをどっかで見たけど思い出せぬ 日本の練革は、牛の生皮を何枚か膠で貼り合わせた後乾燥、
防水のため漆を塗って仕上げる。
大陸の革鎧は知らない。 中国の革の鎧も大体同じ
つっても日本も中国も革の鎧は早くに廃れてるし >>366
胴鎧しかつけてない歩兵相手には矢襖でも十分だったろうね
しかし重装備の騎馬武者を仕留めるにはやはり接近しないと無理だったのでは 足軽とかの鎧だと矢も簡単に貫通したらしい。
ところが本格的な鎧だと貫通は相当難しかったようだね、
まあでも、動きを重視するとそうそう全身を覆えないからどうしても隙は出来て来る。
逆に隙間なく覆うと動きが犠牲になると。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています