【刀】鈴木眞哉史観を疑う 六太刀目【騎馬武者】
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「歴史の真実を見極めよ」と既存の歴史観にエキセントリックに疑義を投げかける、
紀州雑賀衆の末裔を自称する「日曜歴史家」鈴木眞哉。
ネット上を見ると、彼を評価する人間も少なくないが、
鈴木のいう「歴史の真実を見極める」とは
彼の説を無条件に受け入れるだけで事足りることなのか?
彼の提案する説で疑問に感じるところはないのか?
鈴木史観との向き合い方から鈴木史観の内容についてまで、
それを日本史板なりに専門的に議論するスレ。
前スレ
【刀】鈴木眞哉史観を疑う 五太刀目【騎馬武者】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1350722151/ つまり、
「日本人は威風堂々、勇猛果敢、突撃第一で敵を蹴散らす」
のではないのですよ
と言いたいがための、なんつーのか、「日本人なんて戦争向きでないのが本質ですよ」
とみんなにいいふらしたいのが目的で、一生懸命資料集めしてまとめ文章を書く人。
時代の要請、そう書くと出版社やメディアに重宝がられてお目通りがかない、
糊口を凌げる、という下衆な想像をしてしまう。
そんな言説の一つで、「学問」「学術」とは思えません。 まったくその通り
図書館で本見たけど読み通す価値ないから速攻で投げた
中学生並みの権威否定オナニー はい論破と
>長野県湯倉洞窟縄文早期人骨(mtDNA D4b2)、青森県尻労安部洞窟縄文中期人骨(mtDNA D4h2)、
>福島県三貫地貝塚縄文晩期人骨(mtDNA N9b&M7a2)出土の縄文人骨から抽出した核ゲノムを解析
>日本列島3集団(アイヌ,本土日本,琉球)と縄文人を用いた主成分分析の結果、
>縄文人と遺伝的に類似の集団は見られず、遺伝的に非常に特異な集団であることが明らかとなった。
http://ir.soken.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=4960&file_id=19&file_no=1
>全ゲノム解析法を用いた縄文人と渡来系弥生人の関係の解明
>縄文人の系統的な位置を確認するために,湯倉洞窟と尻労安部のSNPデータを用いて現代人との比較を行った。
>双方に共通するSNPは5万6千箇所あまりで,これを現代日本人と中国(北京)のデータと比較した。
>主成分分析を行ったところ,このSNPデータで琉球と本土日本の現代人,及び中国人集団は分離されたが,
>尻労安部と湯倉縄文人はいずれの集団とも離れたところに位置することが分かった。
>現代日本人の成立には,その後の大陸からの影響が大きかったことをうかがわせるものである。
http://www.kahaku.go.jp/disclosure/duties/imgs/h25houkoku.pdf 結局こいつが世の中引っ掻き回してぐるっと一回りしただけか。
日本の合戦はやっぱりチャンバラで主武器は日本刀だし武田騎馬軍団も実在したということだ。 >>707
軍忠状の使いかたの時点で既に間違ってるわけだが
更に自分で調べたわけでもない
全てにおいて無価値 むしろ日本刀に武器の価値が無いというのなら
なぜあそこまで高価に取引されたのかそれを調べろっていう話だよ 大河ドラマ真田丸では
普通に武田の騎馬衆って言ってたね 何基準で貧弱になるんだろうね
アジアの草原馬という観点からはむしろ標準サイズとなるとのことですけど
近藤好和「弓矢と刀剣」
かかるわが国在来馬の特質(特にその小型であること)は、一見、特異なことのように
思われる。しかしそれは、競馬のために品質改良されたサラブレッドなどと比較するからである。
現在のモンゴルの馬をみればわかるように、実はわが国在来馬の特質は、アジアの草原馬全体の
特質であり、その中にあってわが国の在来馬はむしろ標準といえよう。古代中国でも
軍馬の条件は一三○センチ以上であり、有名な秦始皇帝の兵馬俑は実物大だが、
その馬俑の平均体高は一三二センチなのである。 チンギスハーンの歴史とか知らんのだろな
まぁあの人らは騎乗しながら寝れるらしいから人間じゃないが 戦闘の徒歩化ってのも戦術上の問題であって可能不可能とはまた別だからな
板金鎧全盛時代のイギリスの騎士だって戦闘は下馬して行っていた
テレンス・ワイズ「ばら戦争 装甲騎士の時代」
・騎士と従騎士だけでなく、多くの重装甲兵にいたるまで部隊の大半が
馬に乗っていた。「騎馬歩兵」の中には、馬で偵察や側面守備などに
趣く者もあったが、わずか100騎ほどの騎乗予備軍は別として、
馬はすべて荷物と共に後方へさげ、戦闘は徒歩で行われた。この措置は
主として使用する武器がそうさせるのと、馬に乗ったまま効率よく戦える
騎兵がほとんどいなかったという事情による。 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>720
>テレンス・ワイズ「ばら戦争 装甲騎士の時代」
これ読んだけど面白かったな
16世紀のイギリス王国軍の9割は弓兵はだったとか
下馬戦が多かったのは遠戦志向にも関わらず騎射の技術がなかったからだろうな 弓矢も鉄砲も 馬を完全に停止させない限り 命中精度が極端に低下=射程距離が極端に短くなる のは当たり前の話。
馬を完全に停止させてから撃つのであれば、馬に乗っている利点はほとんどなく
馬が敵からの的になるだけだから、馬は後方につないでおくほうが理に適っている。 そりゃあ、騎射できる兵は養成が大変なのは当たり前。
少数の武士が主役の鎌倉武士団だからできる。
弓兵の主体が自作農民のイギリス軍ではそこまで鍛錬できない。
長弓に熟練するだけでも当時の傭兵より訓練度が高かったぐらいなのに、
さらに騎射訓練までさせてたら農業する暇が無くなる。 ロングボウの騎射はできるできないの話で言ったら十分可能だよ
絵画史料からも少数確認できるらしい
一般的ではなかっただろうけどね
Mounted Longbow Archer
https://www.youtube.com/watch?v=gcpHB-flwJQ 100年も戦争が続いていた戦国時代を
現代の感覚で論じるのが間違ってる。
重機の発達した現代でセメント袋25kg担ぐのが
やっとな土木作業員が大半。
つい20年ほど前までは、60、70代の土木作業員が
40kgのセメント袋2袋余裕で担いでいた光景が
残っていた。(今は40kg重すぎで25kgになった。)
機械なしで人力で農作業していた人々、
さらにその中から選りすぐりの強者が実戦を繰り返していた
のだから。 イギリスのリーズ大学で行われた全身板金鎧を着用した実験では
同じ重量を普通に運ぶのに比べて二倍のカロリーを消費することがわかったから
中世・近世初期の甲冑着用兵士と現代歩兵の全備重量が近いからといって
体にかかる負担が必ずしも同様とは言えないとは思う 人間の基礎体力が昔と今では根本に
違うということです。
お伊勢参りに徒歩でいこうと思う時代の
人たちですからw
それに主力の足軽は必要最小限の
軽装備であったわけですし。
25kgで重たいと思う現代人と
力のある人は 80kg担がなきゃ仕事にならんと
考えた人たちでは比較になりませんよ >>724
そんなことはない
ターゲットとなる武将の近くまで素早く移動できるし、馬上からなら視界も良く、どこに
ターゲットがいるか良くわかる。 >>731
実際に見聞き体験した人間じゃないと理解できんかもよw
歴史板の住人にとってはつい最近、ほんの30〜40年前まではかなり重い背負子担いだ爺さん婆さんたちが魚市場や卸市場から荷物運んでいたんだけど、
男子高校生や会社員が真似して担ごうとしても無理だったとか信じて貰えないだろう。
普通に考えりゃ10代後半〜20代男子の方が60〜70歳の婆さんより重い物持てるはずだからねw
要はバランスの取り方なんだけど。 逆に武士に現代歩兵装備もたせたらやっぱ動き辛いんじゃね 現代歩兵はWWII型歩兵に比べて電子装備が増え、携行弾数が増えた分装備が重くなってるって言うな。 うちの爺さんは40代の頃に片手で50kgの荷物を持てたと言ってたな
両手で100kg持って、周囲の者があんぐり口を開けたと愉快そうに語ってた
ちなみに爺さんの職業は中学校の教師 昔の人すごいじゃなくて、今の一般人がしょぼすぎるという話だなこれ全部
まあ運動してないからしゃーないが 朝から夕方まで休み休みだらだら歩いても三万歩から四万歩はいくけど、一万歩行くか行かないかで健康ガーとか言ってるんだからな。
やっぱ動かなすぎだろ。 雑賀衆が徹底した反中央・反信長みたいなこと書いてたけど
孫一は本願寺と信長の和睦成立後は信長と組んで土橋派を攻めてるし
本能寺後は逆に土橋が雑賀衆を牛耳るようになったからそんな単純じゃないのでは >>730
あれ?アーマードバトルしてる人たち曰く
プレートアーマーは全身に荷重が分散されるから
着ている人には殆ど負担なくスタミナも消耗しにくいんじゃなかったのか? 見た目より動きやすいという話は聞くがスタミナ消耗しにくい説まであったのか
アーマーバトルの人たちは下の実験のように酸素消費量も測定しての結論なのかな?
http://dailynewsagency.com/2011/08/09/metal-armor-fail/ むしろ全身に重さがかかるおかげでかえって疲れやすいという結果
>15世紀によく用いられたプレートアーマーは重さが30kgから50kgにもなりますが、
この重さが全身にかかるため腕や足が振りにくくなり、同じ重さの荷物を運ぶより2倍のカロリーを消費します。
また、肋骨にかかる重量によって深く息をすうのが難しくなるため、さらに疲労しやすいという結果も
実験によって明らかになりました。 60キロの荷物背負うとする
荷物に動きが制限されるが、代わりに荷物の重心移動が最小になるから必要なエネルギーは抑えられる
鎧だと手足に分散されるから手足の動きトレースして動きが大きくなる
分散されてる分、部分部分は動かしやすいがそれが同時に仕事量を増大させてる この人は自分が見聞きした旧軍の美的イメージを破壊するために
この本、そして多数の著書を残した。
旧軍を否定的に描き、現代人の惰弱な日常に即した架空の歴史を描けば
「出版物」となり「文化人」となれた。テレビにも出演できた。
なので、
学術的分析というよりは、最初に結論を持ってきて、旧軍に対する
反美的イメージを修飾する作業にいそしんだ。
作文に関しては政治プロパガンダ手法に似ている。
この人の「分析」はその材料が180度逆の見方も出来るようなものばかりで、
帰納的な知的スリルはない。 旧軍の美的イメージを破壊するのにご熱心だったのは旧日本兵の生き残りたちだったわけだが
山本七平とか司馬遼太郎とか小松真一とか
で一方旧軍賛美にご熱心なのは自身の批判する戦後民主主義まっただ中で育った世代なのは皮肉 日共とか司馬遼みたいに捏造嘘話で美的イメージを破壊云々とか言われても、嘘書かなきゃ下げられないようなものなの?って逆に思っちゃう。
旧軍なんぞは昭和の体育会体質を更に酷くした体罰イジメ自殺多発社会だったのに。
生田寿は妥当な批判だと思うが。 今時、軍隊生活に憧れるって…北朝鮮の人?
現代でも第三世界ぐらいだろうね、軍隊社会を(衣食住が保障されているから)肯定できるのって
軍隊とはそういうもの、日本のことなら何でも否定すればいいっていう人種は
異なる世界に住んでいて、自らの幻想を現実より重要だと考えて、事実から目を背ける傾向が強いけど 旧軍は酷い人たちなんですぅ〜
現代の先進国の軍隊は虐めのない、僕ちゃんの理想郷なんですぅ〜
っていう可哀相な子供がいるねって話 >>752
実在しない敵を作り上げて
非常にアホなそいつを論破すること
己が勝者のようにふるまうシステム
鈴木に限らずよく見る手法だね 「日本はなぜ敗れるのか 敗因21ヵ条 」 山本七平
そんなわけで身体の良い連中は増々肥り、いやらしい連中はこの親分の所へ自然と集っていった。
為に暴力団(親分)の勢力は日増しに増強され、次いでは演芸部もその勢力下に治めてしまった。
一般PWがこの暴力団の事、炊事、演芸等の事を少しでも悪ロをいうと忽ちリンチされてしまった。
各幕舎には一人位ずつ暴力団の関係者がいるのでうっかりした事はしゃべれず、全くの暗黒暴力政治時代を現出した。
彼等は米人におだてられるままに同胞を酷使して良い顔になっていた。
(中略)
それでこのストッケードの主な暴力勢力は一掃された。
しかし本部にほとんど人がいなくなったのでPW行政は行き詰まり新たにPWの組閣を行わねばならなくなった。
皆救われたような気がし一陽来復の感があった。
暴力団がいなくなるとすぐ、安心してか勝手な事を言い正当の指令にも服さん者が出てきた。
何んと日本人とは情けない民族だ。
暴力でなければ御しがたいのか 「日本はなぜ敗れるのか 敗因21ヵ条 」 山本七平
Oさんはノートをかたわらに押しやると、われわれ「日本軍捕虜」の状態は、何といっても余りに情けないと嘆じた。
彼が収容した米英人は、絶対にこんな状態ではなかった。
彼らはすぐさま、自分たちの手で立派な自治組織をつくり、それを自分たちで運営した。
一体どうして、われわれにそれができないのであろう、と。
彼は緒戦当時、英語が上手なため徴用され、米英オランダの民間人を収容する収容所に勤務させられた。
そこも似たような状態であり、着のみ着のままの人が、ほぼ同じように柵内で生活し、彼らの好むままに秩序をつくらせた一種の自治であった。
彼らは、自己の伝統的文化様式通りの秩序をつくり、各人の「思想」すなわち自己規定でそれを支え、秩序整然としていたのだから。
小松氏が記している米軍による暴力団の一掃は、ほぼ全収容所で同時に行われたらしい。
というのは、戦犯容疑者収容所における暴力団も、同じようにMPによって一掃されたからである。
そしてそのあとの状態もまさに同じであった。
Oさんは、このときも嘆いていった。
米英オランダ人の収容所に対して、日本軍が、こういう措置をとらねばならなかった事例はなかった、と。 二次大戦後にイタリアを占領した米軍はマフィアを重用して
次々と市長や町長につけたらしいけどな。 この暴力団ってのは小松が横柄な連中を勝手にそう呼んでるだけでヤクザじゃないぞ
ヤクザというか前科者は兵役に着けなかった
関東尾津組とか東京空襲のまっただ中にも関わらず抗争してるし >>761
>暴力団(親分)の勢力は日増しに増強され、次いでは演芸部もその勢力下に治めてしまった。
PW状況下だけじゃなくて、今現在の世の中もそうだよね。
今だって日本社会が潤沢な福祉予算で警察、公共秩序を整えているから整然としているだけで。
タガがはずれると南北朝、室町時代の再来ですよ。倭寇の時代ですな。
暴力団というか、頭目をこしらえてしまう。
日本という国にとって近世、近代の強力な国家権力(暴力の一元化)は、
歴史の求めたヘーゲル的な最高の統治で、
「自由な市民社会」もつねに暴力、ヤクザといったものを内在している。
いまの「市民運動」などという看板の連中も、中身はヤクザ、暴力団、それに類するものがバックボーン、
あるいは背景として潜在している。 山本七平が嘆いたのは旧日本軍批判している左翼連中ですら旧日本軍的思考回路から抜け出せないってことなんだよな
天皇制ガーファシストガーとかほざいてた日教組が一方で徹底した管理教育を推進して自身の権力拡大には余念がなかったり 東武士は大方強敵どもなり
筑紫の奥は奥州衆により申候
上方の弓矢すえになりたる国ども、(中略)五畿内中国の町人に相似たる侍ども、(中略)弱敵の国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
上方武士は、歩の頸を一つ取りは、侍の頸を十も取りたるやうに、針ほどの事を棒程に過言を申と、山本勘助が話を聞き候如くあるべきなり。
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
関東の敵馬上の戦ひよくして、馬を入乗きり、足軽上手なれば
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。(中略)三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
三河国、日本六十余州にて、人のかぞゆる侍の、武篇かせぐ国なれば
たけき武篇の家、和朝に上杉謙信・徳川家康なり。
(『甲陽軍鑑』) うえの話、暴力団じゃなくて牢名主制度だな
日本の捕虜の秩序維持システム
西洋は囚人じゃなくて、一般社会のシステム持ってきてるのか >>766
そうね。
例えば、日本のいわゆる新左翼組織に「第四インターナショナル」というのが存在していた。
これはトロツキーが創設した国際組織の日本支部だったが、今はもうない。
解散せざるを得なかったのは、単に構成員が減ったからというわけではない。
組織の幹部が女性党員を好き放題やっていたのを突き上げられて、組織の存続が難しくなってしまったから。
「人権ガー」とか「性奴隷ガー」とかどの口が言ってんの?ってお話し。
まあ同じような問題抱えていたのはここだけじゃなかったみたいなんだけど、とりあえず残りは証拠不十分かなw 鈴木眞哉氏は最新の著書で反対意見に日本刀信者ってレッテルを貼ってるらしいが誰のことなんだろう
反対意見を出してる歴史学者、歴史家、本、論文があるなら気になるので調べてみたい 軍忠状では死因がわからない
刀槍は負傷者より死亡者が多い
ってよく言われるけどそれに対して鈴木眞哉氏が合戦の死亡者自体が少ないから死因について論じても無駄って言ってたな この辺どうなんだろう お友達でも時代考証やってた名和弓雄氏みたいに実際に鉄砲三段撃ちを再現してみたとか
そういう意味のあることをしてれば別なんだけどね 全部憶測でしょ 図書館で立ち読みしただけだから詳しく覚えてないけど死因うんぬんについての鈴木氏の反論は
戦国時代の大誤解
に載ってた
記憶があいまいだから
戦国軍事史への挑戦 ~疑問だらけの戦国合戦像
謎とき日本合戦史―日本人はどう戦ってきたか
のどちらかかもしれないけど 名和弓雄は習ったこともない天神真楊流や正木流を師範家を詐称したり信憑性に疑問のある人物だから当てにならない
三弾撃ちに関しては朝鮮出兵時の明側の史料にも明記されてるから信長の発明かはともかく否定のしようがないでしょ 少ないも何も合戦の死亡者なんて基本的にろくに判明もしてないだけだろ
例えば長篠合戦だって武田側で合戦後の文書で討ち死にしたとして名前が出てくるのがろくにいないわけだけど
そこで判明しているのがすべてだというなら武田はろくに戦死者を出さなかったことになる
単に軍忠状や感状等では極めて断片的な情報しか得られないってだけなのに
それを認めちゃうと自説の前提が崩れるから見ないふりなのかな? スマホで書き込んだらなぜか反映されない…
ガチ甲冑合戦でわかった実戦で最強の「日本武術」
って本によると槍より近い間合いは短刀を使う
打刀の出番は殆ど無いとの事らしいが
このガチ甲冑合戦ての本当にリアルなのかね?
人数少ない
槍の長さは3m
お貸し具足を着てるやつがいない
これじゃ打刀を使う”乱戦”にはならないよなと思った
おまけに本の著者は鈴木説鵜呑みにしてるし このスレには鈴木眞哉の
戦闘報告書が語る日本中世の戦場
を読んだ人がいるみたいだけど
鈴木は反対意見を日本刀信者と呼んでたらしいね
その反対意見が誰なのか教えてくれない?刀の説に反論してる人がいるなら
調べてみたい
金がたまったら鈴木の最新の本も買って読もうとは思ってるけど
金欠なので反対意見について教えてください 「東アジア兵器交流史の研究 十五〜十七世紀における兵器の受容と伝播」
反論というわけではないけど朝鮮出兵時の豊臣軍は打ち刀と鉄砲による散兵戦術を主体としていて
それに苦戦した李朝側が降倭を通してそれらの戦術を受容していく過程が当時の一次史料をもとに描かれている
そもそも歴史≒政治文化史であって中世の合戦とかそんなニッチなのもまともな史学者は扱わない
一応日本にも軍事史を専門とした研究者はいるけどポスドククラスの人ばかりで発言力はないに等しいのでほとんど研究が進んでないというのが実情 敗戦後のGHQによる指導、「大学で軍事研究はしない」は軍事史も含まれるからね。
防衛大学は流石にそうはいかんだろうが、如何せん研究者の数が少なずぎて研究も議論もあまり進まない。
そういう所で研究するもんでもないしね。 そういうネトウヨ陰謀論はどうでもいいから
ヨーロッパでも軍事史研究何て一部のミリオタがやってたぐらいでジェフリー・パーカーが現れるまでまともな研究者は相手しなかった >>778
軍役状見ても武将の持槍は二間以上だし色々おかしそうだな
どういった文献に準拠しての再現なんだろうか? 日本の長柄槍と同程度の槍を扱うヨーロッパのパイク兵にとっても剣は接近戦時の必須武器なんだけど
どうして日本だと使われないと考えるんだろう? 使われた割合が弓>刀で別に何とも思わないけど
主力兵器しかいらない、他は役立たずと言うなら歴史以前に軍事わかってないよね
それを言っちゃあ、爆撃機の方が圧倒的に殺せるから小銃は飾りだって事になる
現代ですら結局最後は歩兵が制圧しなきゃ戦いは終わらない
という事を理解してるんだろうか
彼らにとっての合戦とはTVドラマや西洋映画みたいに
広くて見渡しのいい原っぱで互いに正面見据えて
突撃し合う物しか存在しないのだろうか?
当時の狭い城や日本家屋を見て、この中に弓と槍だけでなだれ込むのが
合理的だと本当に考えているのだろうか…? 当時の軍役状みるとどの武将も弓兵が占める割合は一割に満たない
越後上杉のように弓兵自体が存在しなかったところもある
◇上杉氏(天正3年・1575年の軍役帳)
馬上兵 10%
槍歩兵 65%
鉄砲歩兵 6%
手明 12%
(重装備の歩兵です。馬上兵についたり、少数の歩兵を指揮します。
徒侍ですね。荷駄をひく兵隊と言われることもありますが、一方で
身分が雑兵よりも少し高く、下士官のような存在であるとも言われます)
大小旗(旗持ちの徒侍ですね。)7%
◇武田氏(永禄4年・1561年〜天正6年・1578年の着到状の集計)
※着到状…陣ぶれの催促を受けて所定の場所に到着した事を記し、上申する文書のこと。
変事に際し軍事勤務をはたすという忠勤の証拠として論功行賞の際に提出するもの
馬上兵 12%
槍歩兵 58%
鉄砲歩兵 7%
弓歩兵 10%
手明 7%
大小旗 6%
◇後北条氏(天正5年・1577年の一門である岩付衆(太田家)の軍役)
馬上兵 32.0%
槍歩兵 38.5%
鉄砲歩兵 2.6%
弓歩兵 3.2%
手明 16.0%
大小旗 7.7% そもそも鈴木が根拠にあげている「軍忠状」がいかなる性質のものか考えないといけない
普通論功は挙げた首級の数で行われるが稀に戦傷の数をもって行っているものがあってこれを根拠にしているわけだが
恐らく白兵戦に及ぶ前の前哨戦である矢戦で終わってしまい首級が手に入らなかった場合に作成された者だろう
鈴木の説が正しいなら一割に満たない弓兵だけが戦っていて他大勢は何をしていたのかという事になる 手明ってのは槍や弓を持たないという意味で「手明」というらしい 射撃戦だけで済むなら、弭槍みたいなものは考えられもしなかっただろう。 あとは軍役関係文書見ると野戦で投石が猛威を振るったってのがウソなのがよくわかる
投石兵なんかまるで出てこないから
あれはほとんどが城攻めのときに籠城側が上から落としてくる石による傷の統計だろ ちなみにスイス盟約者団で武器割り当て数が判明してるケースでも飛び道具は20%未満だな
チューリヒ邦の分遣隊 1443年
クロスボウ ハンドガン パイク ハルベルトおよび斧 合計
チューリヒ市 128(20%) 45(7%) 103(16%) 363(57%) 639(100%)
邦管轄区 345(16.3%)16(7%) 532(25%) 1,228(58%) 2,121(100%)
全邦 473(17%) 61(2.2%) 635(23%)1,591(57.8%) 2,760(100%)
(ダグラス・ミラー著 「戦場のスイス兵」P18より) おっと、邦管轄区のところのハンドガンは0.7%だな オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズの「ばら戦争 装甲騎士の時代」に載ってる軍役帳だと全部隊の9割が弓兵
徹底的に弓矢による弾幕をはって白兵戦になる前に敵を殲滅するのがイングランドの戦術ドクトリンだったらしい イングランドのロングボウアーチャーはそのためだけに戦闘訓練を続けて、装甲騎兵もクロスボウ傭兵も
ロングボウだけで殲滅できる特殊兵種。
社会的身分もそれなりにある連中で、なおかつ、腕の太さが左右で違うとか肉体的にも怪物。
日本の農民兵と一緒にしちゃいかん。日本で言えば、源平の頃の関東武士団みたいなもん。 >>795
平安期の武士って、武芸に秀でて優秀なものは
北面の武士で京都・西国に居たわけだが >>796
いや、そういう話じゃなくて、鈴木説で飛び道具主体の戦争が云々言ってるのは戦国期の足軽(農民兵)主体の話だろ?
毎日戦闘訓練してる自作農(小地主)を主体としたイングランドロングボウアーチャーを足軽と一緒にするのはおかしくて、
小地主として自作農しながら毎日戦闘訓練してた関東武士団=坂東武者みたいなもんだよ、って話。
騎馬武者が徒歩の郎党4人連れて参戦するのが標準と考えると、軍隊の騎乗弓兵率が20%になっちゃうけど、
足軽主体の戦国時代にそんな馬鹿な話はないよね、って話。 >>797
戦国期でも百姓は狩猟用弓は所持して使い慣れているんだが?
狩猟しないと獣害は起こり放題だぞ
(これは現代でも都市郊外で山に近いところだと、
獣害用の電気柵など普通に存在する)
それに狩猟用弓が戦で役に立たたない理屈はないだろ >>796
京武者は弱いよ。
鈴木と同類のアホ学者が持ち上げたけど実戦派の近藤好和に論破されて意気消沈して逃亡しました。
今から20年も前にね。 >>799
平清盛も平忠盛も北面の武士だったわけだが
だいたい源頼朝だって都出身だよね >>800
忠盛は実戦経験に乏しいし清盛はヘロヘロ矢。
頼朝は伊豆で狩猟してたから。 >>798
だから、ロングボウを日常的に仕える弓と一緒にすんなよ。 強弓で有名な源為朝は西国出身だけどなあ
それと「ロングボウを日常的に仕える弓と一緒にすんな」という
意味不明な理屈にワロタw
矢はともかくとして弓はかなり狩猟用でも威力は重要だ
戦国期での足軽が使う弓の威力だと、
要求されるのが狩猟用で充分だ
威力よりも数をそろえる方が重視される >>794
17ページにある「射手と重装甲兵の割合」が書かれている表のことかな? オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズの「ばら戦争 装甲騎士の時代」には
ばら戦争の戦いに関して面白い論評が載ってるな
「ほとんどの戦いが弓矢の応酬で始まるため、両者ともロングボウの長所が相殺されてしまう。
続いて混乱した乱闘が徒歩で繰り広げられる」
両軍が飛び道具を多く保持しているからといって遠距離の矢戦だけで終わるわけではないということだね
むしろどちらにもアドバンテージがなくなって次の「乱闘」の段階が重要になってきそうだ >>801
ヘロヘロ矢の清盛に源義朝は敗れ頼朝は流罪になったんだw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています