【刀】鈴木眞哉史観を疑う 六太刀目【騎馬武者】
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「歴史の真実を見極めよ」と既存の歴史観にエキセントリックに疑義を投げかける、
紀州雑賀衆の末裔を自称する「日曜歴史家」鈴木眞哉。
ネット上を見ると、彼を評価する人間も少なくないが、
鈴木のいう「歴史の真実を見極める」とは
彼の説を無条件に受け入れるだけで事足りることなのか?
彼の提案する説で疑問に感じるところはないのか?
鈴木史観との向き合い方から鈴木史観の内容についてまで、
それを日本史板なりに専門的に議論するスレ。
前スレ
【刀】鈴木眞哉史観を疑う 五太刀目【騎馬武者】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1350722151/ >>83
仕事だよ仕事、児童の遠足に喩えるとか在チョン反日狂死かよ 西上野の小幡一党、赤武者にて、入れ替へ懸かり来たる。
関東衆、馬上の巧者にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて、懸かり来たる。
(『信長公記』長篠の合戦)
↓
近江彦根に移住した甲斐武田の旧臣が発した驚きの声(『武田流軍書』)
「何たる事にや、上方の士、馬を入れる事が無きぞ」
何という事だ。我々甲州武士と違い上方武士は馬から下りて戦う。 >>69
クセノポンが歩兵に比べて騎兵の利点はただ退却が用意という点のみだって書いてたな >>85
宮城四郎兵衛泰業の着到状の原文を読まないと・・・・
探しても出てこん。。。。。
それに北条だろ
領土を広げていった戦国大名は古くからの地侍を追い出してるからね〜 >>90
出てこないも何も前スレ759に
>>元亀3年正月4日付宮城四郎兵衛泰業の着到状(戦国遺文北条氏編1570号)にプラスして
>>岩付衆の陣定(備え)示す天正5年北条家印判状(豊島宮城文書、戦国遺文北条氏編1923号)。
とあるとおり戦国遺文北条氏編1570号だよ
原文読みたいなら図書館にでも行ってみてきなよ
ネット上で見られる史料なんてほんの一握りだよ >>90
国立公文書館のデジタルアーカイブを念のため探したら現物の画像が出てきたわ
たぶんこれ
北条家着到書出
ttps://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000099
ttp://jpimg.digital.archives.go.jp/JPEG/PGV49.jpg >>83,90
>>それに北条だろ
>>領土を広げていった戦国大名は古くからの地侍を追い出してるからね〜
兵種別編成は、北条氏のみの特殊事例ととらえるってこと?
それとも領土を広げていった戦国大名は特別だってこと?
今はまさにそういう戦国大名の軍隊構成の話をしてたんじゃないのか?
まず武士の領主的性質について話してるのになんで「地侍」の話を持ち出すのかよくわからんが
たとえば宮城泰業自身が、「宮城」を称し始めたころから数えても南北朝時代から続く武蔵に土着してた小領主だよ
ただ>>92の文書画像にも書いてあるとおり、宮城の采地は岩付ではなく近隣に細かく分散しているけどね
他にも宮城とともに岩付衆の馬上奉行を務めた渋江式部大膳は、永正年間に岩付城主を務めていた渋江氏の一族なのはほぼ確実だし
土着の領主層が完全に追放されていたわけでは決してない
あと一次史料上武田氏も同様の兵種別編成を行っていたのがほぼ明らかだ
武田氏や北条氏が兵種別編成を行いだしたのは、着到状等の武器と人数を指定する軍役を課す一次史料の初出時期から
永禄年間(1550年〜1560年)ころではないかと、西股総生や平山優あたりは指摘してるけど
>>83のような見解を取る場合、武田氏、北条氏以外の戦国大名は一切兵種別編成を行っていなかったと考えるの?
「兵農分離」が完成するまで兵種別編成はなかったとするの?
従来の通説的な「兵農分離」論からすると、一次史料上から兵種別編成がおこわれていたことが明らかな武田氏、北条氏は
織田氏などに比べて兵農分離が進んでいなかった代表例だったんじゃないの?
この辺の兵種別編成の問題と大名権力論と「兵農分離」論は、丁寧に分けて慎重に検討しないと
議論が錯綜しちゃいそうだね
>>86の丸島和洋みたいに兵種別編成を否定する見解を取る人は
自身の大名権力論と兵農分離論に対する理解と矛盾がないか改めて再検討した方がいいと思う なんか前スレからの話を見る限り岩槻の件と武田の陣立しか騎馬隊の存在を示すものがない感じ?
随分とサンプルの量がさびしい話になってんだね
もっと例があるんなら出してほしい >>94
戦国大名の軍役の様子を示す史料の研究が進んでいるのが北条と武田以外あまりないのだから話が逆さま。
現在のところ北条家ほど史料の研究が進んでいる戦国大名はない。 >>95
研究の進む進まないに関係なく史料はないんですかという話です
戦国遺文は便利な形に編纂してくれただけで北条と武田の史料自体は
昨日今日でてきたものじゃないんだから
もしかして他家では見られないんですか? 「信長公記」見る限り長篠では五回攻勢に出るんだけどそのうちの
たった一回、それも小幡ら関東武者中心の騎馬突撃しかないんだよね
武田の誇る「馬之衆」はこれで打ち止め? >>96
横レスだが、確実な一次史料だけから疑いようがなく兵種別編成されていたことを明らかにできたのが
現状北条氏と武田氏だけだってことで、他に兵種別編成をうかがわせる史料がないわけじゃない
ぱっと思いついたのを挙げるとすれば、兵種別編成の前提となる所領の大きさ(石高、貫高)に応じて一定の武器と人数を出せ、
とする軍役を定めていたことを示す一次史料としてはたとえば明智光秀家中軍法がある
ttp://www.city.fukuchiyama.kyoto.jp/fukuchiyamaisanWEB/siteibunkazai/komonjyo/goryoujinjya%20mituhidekankei.html
ttp://www.city.fukuchiyama.kyoto.jp/fukuchiyamaisanWEB/siteibunkazai/komonjyo/katyuugunpou.jpg
あと史料自体がどこかに存在していることと、
とある命題に関する内容を証する史料があることの間には果てしない隔たりがあることを理解した方がいい
戦国時代の軍事の実態はどうであったか、という視点で史料を検討した研究者が
ちょっと前までいなかったんだから、今、現に存在が確認されている史料のなかに
「騎馬隊」が存在することを証する史料があるかないかは、改めて検証してみないと分からない
逆に言えば、今からでも戦国遺文にまとめられていない大名家の文書を総ざらえすれば
「騎馬隊」の有無に関しても相当な発見があると思うから、自分でやってみるといいと思うよ その通り。
戦国時代の軍事の実態の研究自体今までほとんどされてなかったんだよね。
それを本格的にやり始めたのが史料が豊富の揃ってる北条家の研究をしている連中ってこと。
そしてそこから兵種別編成の具体的やり方がわかって来たということだ。 上の方に出てる経略復国要編の
「?倭奴用分番休送之法、時出遊騎以攪我師、我師進不可退」って記述は
鉄砲と騎馬が別々で運用されていた一例にならないか? >>97
甲陽軍鑑品十四
丘陵地で開けていない長篠では騎兵隊を突撃為せ無かった、とある
要するに、それ以外の殆どの戦で騎馬突撃させてるって事だね >>101
信長は騎馬突撃に向いていない長篠を戦場に選んだという事だよね。
陣城まで築いて。
陣城だと雨天でも鉄砲使えるし。
相手の弱みを消して自分の強みを生かすいい戦術。
この戦場に武田を引っ張り出せるかどうかが戦いの帰趨だったと言える。
それでも戦いはかなり長時間に及んだから武田は不利な状況でかなり頑張ったと言える。 相手の弱みを消して自分の強みを生かすいい戦術。×
↓
相手の強みを消して自分の強みを生かすいい戦術。○ >96
戦国時代って史料の残存状況が悪いからねえ
北条の研究が進んでるのは、充分な史料が残ってる唯一の例だからだったはず。
武田は研究が進んでると言っても残存状況は良くないんじゃなかったかなあ
武田上杉間の、川中島の戦いの回数さえ、結論が出たのは20世紀の話だろ。それまでは5回説より7回説とか9回説の方が主流だったほどで。
>>102
甲陽軍艦は史実を反映した部分もあるが創作部分も多いから、創作じゃなく史実の部分、史料であることを裏付けられないと使えないんじゃなかったか。 「三河物語」
当世之衆ハ心得候らへ共、合戦之時ハ、皆々馬より
追下して、馬をバ後備より遥かに遠くやる物とハ知らずして、
何時も馬に乗りてあらんと計云も、はかなきことなり。
↑は徒歩化が進んでいた西国寄りの三河武士の認識だけど
馬が勝手に帰るわけはないから騎馬武者には馬取りがいたんじゃないかな? >>105
軍鑑は一級史料だよ、創作部分が多いとかほざいてたのは
妄想だらけで歴史学ごっこしてた老害連中 >>98
兵種別編成は疑ってないですよ
こういう陣立書や着到状の類が今現在どれだけ確認されてるのか知りたいだけで
研究が進む進まないの話ではなく活用されていないのも含めてどの程度あるのかな
というのが気になるんです >>107
一級史料って言葉が随分安くなったなあ
史料批判の上で使えそうなところを慎重に活用するならわかるけど >>108
北条家みたいにまとまった史料はなかなか難しいだろうけど、
ここで書かれているように戦国時代の戦の具体的やり方についての研究はまだ始まったばかり。
陣立書、着到状の類の史料はこれからどんどん表に出て来るんじゃないかと思うよ。 原形に近いって意味だよ
創作部分が少ないって意味だ >>111
山本勘助「創作部分とは具体的にはどういったところを指すのですか?
甲陽軍鑑が創作部分が少ないとは誰によって実証され支持が得られたのですか?」 KDDI au スマートバリュー CM 「おとくちゃん」篇 鈴木梨央ちゃんは騎馬武者の娘。
着物姿がかわいいですね。 芝辻氏か誰か忘れたが甲陽軍鑑には使っていいところと絶対に参考にしてはいけないところがある
とか言っていた研究者がいたな
捨てられない部分はあるが一級史料として活用するなんてとんでもない話だよ どこらへんがだ?
甲斐や信濃に牧があったのは事実だぞ
馬に乗るのは侍大将以上、郎党は徒兵
配下の騎馬武者は全て合わせて9300人
徒兵はそれの5,6倍 一級史料かどうかはともかくとして、武田の最大領域は瞬間風速で120万石くらいはある。
4万〜5万の動員は可能だから騎馬が9300でも不自然な数字ではないな。 場合によっちゃ小山田がそうやったように騎馬武者一人に10人あつめるなんて無茶もあったけど
徒兵は領内にすむ住人の中から集める つまり純粋な武士とでもいえるのはその武田の瞬間最大領域とやらでも1万人いないってことだw
これがいわゆる郷士階級とでも言えるもの >>119
そんなわけないだろw
だから武田の騎馬軍団1万とかいうのはおかしいという話になる。 >>115
牧というシロモノ自体は畿内にも西国にもあるがな。 桶狭間の頃の信長の領土では少なくとも5000人は動員可能だったはずだが、
桶狭間の戦場で今川軍と戦ったのは半分以下、2000ちょいだわな
特に周り一面が敵だらけだった、その頃の信長の場合は極端だが、
野戦に動員できる兵はそんな感じで半分ちょいが普通だろ?
秀佳外征のときみたいに国内に敵が残ってないなら全員で遠征することもできなくはないだろうが、
それでも領国統治の役人だけは残さないと困る。ましてや。 あの当時の武田は北条と同盟で織田、徳川、上杉と敵対してた。
信濃、上野、西信濃には相当数置いておかないといかん。
遠江の連中の大半は城に配置だろうし。
実際勝頼が動員してきたのは1万3000人程度。
うち騎馬隊は2000人〜3000人程度だろう。 >>114
それは信長公記やその他の同時代記も全く一緒 >>125
どんな感じで一級史料としていますかね
両氏がそう評価した原文を持ってきていただけますか? あの丸島氏も甲陽軍鑑支持の立場のようだな
従って一級史料とすべきだろう >>120
武田軍全体では騎上9000、総兵力45000
上洛戦ではその中32000強を動員した
だから上洛軍には6000強の馬上が居たのは間違い無い所 >だから上洛軍には6000強の馬上が居たのは間違い無い所
間違いがないということを一次史料から確認できるんですか? そういえば武田騎馬軍団の軍忠状や感状のほうはどうなってますか?
馬を入れまくってることが確認できるんでしょうか? やけにこだわるね
普段の合戦状況なんて3000騎がいいとこよ
むしろ騎馬武者比率は上杉謙信の方が多かったくらいだからな
上杉は主に長槍隊が主兵操だがな 9000人いたとしても半分以上、投入すれば国が滅ぶwww
守兵を残さなければ周りから攻め込まれるわ
3分の1から2分の1以上の遠征軍は無理だからw >>133
でも間違い無いらしいですよ
根拠がさっぱりですけど >>129
算数はできるかな?
9121×32700÷42857=6960 その点は上杉は帰って背中が海だから兵の投入比率は揚北さえ抑えれば
ずっと有利 >>131
確認されてしまった‥
信長公記
「三番に、西上野の小幡一党、赤武者にて、入れ替へ懸かり来たる。関東衆、
馬上の功老にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて、懸かり来たる」
蘆田記
「ソレヨリ岩村田へ働。其川口ニ敵突テカカリ候處
右衛門佐自身眞先ニ馬ヲ入乗崩シ。人數二三百モ討チ取申候ヤウニ承候」 >>137
え?
軍忠状や感状の意味もしかしてわかってないですか?
鈴木スレなのに?
こんなの相手にしてたのかよ 馬上がいるというだけでは戦うときは15世紀のイギリスみたいに馬を後ろに送って
徒歩戦闘やるのが大半だったという可能性が無いわけではないからねえ
実際その武田と幾度も戦っている三河ではそんな感じで馬から下りて
徒歩戦闘やるのが普通だったと当の戦国の三河武士が書き残しているわけだから
「三河物語」
当世之衆ハ心得候らへ共、合戦之時ハ、皆々馬より
追下して、馬をバ後備より遥かに遠くやる物とハ知らずして、
何時も馬に乗りてあらんと計云も、はかなきことなり。
馬上達者の関東武者の小幡はわかるけどいい加減そればっかりだし
わざわざ特筆したということは小幡以外がやらなかった感じがするよね
他に信頼性の高い史料で武田騎馬軍団と言えるほどの規模で
突撃しているような報告はないのかね? >>132
上杉も兵科の割合とかわかる史料があるんですか?
どこで確認できるものなんでしょうか? >>138
郡中上や環状は史料の極々一部に過ぎないよ
鈴木本人じゃ無いんだから
ああ、そういえば鈴木は軍忠状や感状も恣意的に抜き出してたな >139
関東武者の小幡の件も、
甲陽軍鑑じゃ「織田方のわけのわからないプロパガンダ」つってるしな >>142
甲陽軍鑑に拠ると、西上野衆小幡上総守総千騎とある
これは足軽は勿論雑兵も含ま無い軍役 >>139
甲陽軍鑑で馬入、乗崩と記している場面は全て騎兵隊の馬上突撃だよ
それ以外の箇所では全て斬崩しと表現 >>128
前スレで紹介されていた「あの」丸島和洋氏のありがたいお言葉
研究者が考えていることすべてを出すには、1冊の本では足りないし、もしそのようなことをしようものなら、
話にまとまりがなくなって、本として成り立たなくなる。
だから、研究者に接する時には、「その人がまだ書いていない構想」を想像するということもひとつ必要になる。
ttp://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a13b5bb5ba75b6b580fb6381da91abfb
研究者の文章を読むなら書いてないことは想像して補わないとダメだぞ
これ>>86が鈴木説を無批判になぞっただけに思えてもきっといろいろ考えた上なんだぞ >>92
おお有難う
>>93
>「兵農分離」が完成するまで兵種別編成はなかったとするの?
一部にはあったと思うよ
直轄領か、金で雇った傭兵なら兵種別編成が可能だった
んで戦国末期になると領主的要素の薄い侍が出てくる
侍の若党化、或いはサラリーマン化
こうなると兵種別編成もできるようになる >>129
当時の武田家の動員状況は1万石あたり400人弱、一般より1.5倍という状況だったってことか? >>147
北条氏、武田氏が兵種別編成ができていたのはなぜだと考えるの?
例に上がってる岩付衆なんて小領主の集合体だよ
>>侍の若党化、或いはサラリーマン化
これが永禄年間(1550年代)から北条氏と武田氏ではすでに起こっていたと理解しているの? >>137
軍忠状を求められている場面で編纂物たる軍記を持ち出すなんて…… >>148
戦国時代は1万石あたり250人とか300人とか決まってわけじゃないからな。
それは一応落ち着いてきた豊臣時代後期から江戸時代初期とかに落ち着いて来た数字。
そもそも当時はまだ貫高制なわけで、1万石あたり300人+αくらいの動員力と考えてそうおかしくない。 >>145
軍役人数を根拠にだよ、これは学界や軍忠状の常識 >>150
同時代記の軍記は史料だよ、編纂物でも無い >>154
同時代のものでも、伝聞情報などの信憑性が低いと認定される部分が多く含まれてるのが普通だぞ >>85
>その話は前スレで現状の研究成果がさんざん説明されてた
このようであるから、岩槻衆が軍役を分解して兵種別に再編したと考えることには無理があることが判る。
http://kagiya.at.webry.info/201308/article_2.html >>155
で、それがどうかしたのかね?w
同時代記の軍記が史料で、編纂物では無い事に変わり無い >>156
長いな
ただ兵種別再編成を否定する立場で、丸島みたいに何も考えてないのはともかく
史料をもとに検討してる人ってほぼいないから議論のたたき台にちょうどよさそう
あなたがそのブログ主ならポイントしぼって要点まとめてくれるとありがたい この程度で長いって、どんだけ…
期待を裏切って悪いが俺はこのプログ主じゃないよ
俺なら数百人の編成で独立して活動できる軍云云なんていう馬鹿なことは書かない いやいや
リンク先だけじゃなくて記事自体は全部で9本に分かれてていろんな論点に触れてるだろ >>158
>あなたがそのブログ主ならポイントしぼって要点まとめてくれるとありがたい
横レスだが、反論が気に入らなかったのか分かんないけど
こういう余計な煽りやめろよ >>159
ブログ主でなくてもいいから、兵種別再編が無理だと自身が思う論拠をまとめてよ
そうでないと議論・検討がしにくいしあとから来た人にわかりにくい 補給の関係で野営時に人員がバラバラに成るのは
現地調達を主とする軍隊では非常によくある事。
兵科毎に組分されている場合、それに応じた規定が有り
平時にそれに応じた軍事訓練が施されるのは当然 >>161
いやいやいやいや、煽りのつもりは全くないぞ
この辺りの議論は全然研究が進んでないところだからみなでじっくり検討したいなと思うだけで
論点絞らないと検討しにくいじゃん
今自分もさっとそのブログ読んでるけど、初見じゃない人の方が内容をまとめやすいかなと思っただけだよ >>164
じゃあ言い出しっぺがまとめてみたら良いんじゃないw
理解も深まるよ つーかさ、ここで戦国時代には兵種別編成が当然だったと言っている人は、東京の人?
関東平野なら騎馬を集団で運用する利点もあるんだろうけど、
他の地域でも騎馬が集団運用された例ってあるのかな?
戦国時代の文章が大量に残っているというのなら、小藩に成り下がって遠隔地に移封された北条家より、
毛利や島津家の方が大量に現存しているよね。
毛利や島津で騎馬が集団運用されたという例が欲しい。 「戦関連は関東が最も高レベルだった」っていうある種の先入観みたいなのがあるんじゃね >>166
戦国大名は時代が下るに連れて
足軽、雑兵を槍隊、弓隊、鉄砲隊に再編成していたのだから
一騎衆の多い家なら騎兵隊を組織しようと思うのが自然だわな っていうかこのスレ正直ID要るなw
誰が誰か分からん 兵種別編成がなされていたか否かと騎馬が集団で運用されていたか否かは別の論点だよ
前スレ853のいう3.と4.ないし5.の違い
ttp://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1350722151/853 弓・鉄砲を集団運用する利点は前スレでちょろっと書いたが
前近代の軍における投射兵器の集団運用との違いは、明確な階級制が存在しないこと
>156のリンク先にも指摘があるが、数人・数十人集団の集合体である前近代の軍隊において
一族郎党間には確固とした上下関係があるが、そうした集団から数百人・数千人を抽出した軍が混戦に陥ったら
それは烏合の衆となる、混戦下で数人の「奉行」が数百人を統率するのは不可能
取り合えず、騎馬隊恒常化説を主張している人は、軍の運用をどう考えているの? >>155
山本勘助が二百人相手に一人で戦って七、八十人斬り殺して撃退させたなんて話が載ってたりするしな・・・ >>171
組頭、或いはそれに代わる臨時的な存在が無かったと何で言い切れるんだ? >173
基本的に一族内部については君主であっても命令権はない
つーか、「ある」「なし」の議論は「ある」と主張する側に説明責任があるのだから
>173がそれらの役職を立証する義務がある
できなければ、全て仮定の話となる罠 例えば騎馬武者100人足軽400人の混合の備えがあって、その備えを戦場で突撃させる。
で、騎馬武者100人が先行して突撃して敵の陣形を乱し、足軽400人がスピードの違いから遅れて突撃する形になったとする。
この場合、騎馬隊とは呼べる?呼べない? 偶然、突撃できる平坦地があって
偶然、突撃される側に何の備えもなくて
偶然、簡単に突破されるドラマやマンガの登場人物のような無能なものが指揮官で
偶然、状況に完璧に対応できる伝達・指示・統率が可能な夢のような優れた指揮官が存在し
偶然、攻撃側に安い足軽より、多年の訓練と高価な費用がかかる騎馬を無駄に磨り潰さざるをえない事情が攻撃側にある場合? >>174,171
雑兵物語には鉄炮足軽小頭、弓足軽小頭という人物が出てくる
鉄炮足軽小頭は、その冒頭で
「おれは杖を突っ立てて足軽たちに指図をする役目だから、さしでがましいとは思うがいうことを聞いてくれ」と述べてる
他の足軽から、指図するのを「さしでがましい」と思われるくらいだから
当然一族郎党間の上下関係に基づいて命令してる訳じゃない
こういった、戦場で幾人かを統率する、家的上下関係に基づかない小頭(統率者)という役割があったのは間違いないんじゃないかね 当時寄り親寄り子制という主従関係に基づかない上下統率関係があったことははっきりしてるわけでね。
戦時において兵種別編成をして主従関係に基づかない上下統率関係で戦争を行う事に不自然さはないだろ。 >>166
信玄の時代の初期ごろ、諏訪を急襲するために騎馬隊を作ったって話なら
といっても常設の部隊じゃなく臨時編成だったはずだが。
いちおう、関東以外。 >177-178
あのさぁ、投射兵器に限らず、後方での行軍なら一人で数百人を統率することも可能なのよ
弓・鉄砲隊が混戦の最中に統率された指揮官の下で戦闘ができるのか?
俺が言っているのは、必ず混戦になる前線部隊において、任意に選択された者が他家への無条件な命令が可能なのかということ
それが可能であるのならば、江戸時代には何故他家に容喙できない中世以前の状態に先祖返りしたの?
他家内部に自由に口出しできる状態が続いたのなら、為政者がそんな美味しい権利を手放すわけがない罠 >>178
自前で兵員調達する零細武士が寄子だろ
もちろん、その寄子も各兵種混成の部隊だ。
で、兵種別変性をするってことは、寄子が自前で調達してる兵たちを取り上げて、それぞれの兵種の長が雇い主の頭越しに兵に命令するわけか。
雇い主の命令でもないものを、なかなか聞き入れんだろ。普通。 >>179
まことに申し訳ありませんが、スレの流れと、全く、関係の無い、
話を持ち出して、ドヤ顔するのは止めてもらえますか。 >>180,181
いやだから雇い主でない小頭が前線で小人数を指揮してる実例を雑兵物語から挙げたんだけど
寄親とか奉行とか、一定の役割を主君から与えられた者が、直接の主従関係にない(ただし同じ家中に属する)者を
戦場において指揮することのどこにそんなに疑問があるのか
煽りじゃなくてよくわからないので、丁寧に説明してくれ
前提として、今そちらが「他家」って言ってるのは、大名家間の話じゃなくて
いわゆる「洞」「家中」の内部関係における「家」の話をしているってことでいいんだよね? >>171
再編成した部隊は奉行の下に**頭、**大将が居るから指揮可能だよ >>180
現実に任意の下士官と士官が指揮命令を行っていたよ。
日本国地方自治体の役職者は他部門から出向してきた部下を指揮命令出来るが
日本国総理大臣は中国の辺鄙な村の村長にすら命令など出来無い
これは馬鹿でもチョンでも解る。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています