>>83,90
>>それに北条だろ
>>領土を広げていった戦国大名は古くからの地侍を追い出してるからね〜

兵種別編成は、北条氏のみの特殊事例ととらえるってこと?
それとも領土を広げていった戦国大名は特別だってこと?
今はまさにそういう戦国大名の軍隊構成の話をしてたんじゃないのか?

まず武士の領主的性質について話してるのになんで「地侍」の話を持ち出すのかよくわからんが
たとえば宮城泰業自身が、「宮城」を称し始めたころから数えても南北朝時代から続く武蔵に土着してた小領主だよ
ただ>>92の文書画像にも書いてあるとおり、宮城の采地は岩付ではなく近隣に細かく分散しているけどね
他にも宮城とともに岩付衆の馬上奉行を務めた渋江式部大膳は、永正年間に岩付城主を務めていた渋江氏の一族なのはほぼ確実だし
土着の領主層が完全に追放されていたわけでは決してない

あと一次史料上武田氏も同様の兵種別編成を行っていたのがほぼ明らかだ
武田氏や北条氏が兵種別編成を行いだしたのは、着到状等の武器と人数を指定する軍役を課す一次史料の初出時期から
永禄年間(1550年〜1560年)ころではないかと、西股総生や平山優あたりは指摘してるけど
>>83のような見解を取る場合、武田氏、北条氏以外の戦国大名は一切兵種別編成を行っていなかったと考えるの?
「兵農分離」が完成するまで兵種別編成はなかったとするの?
従来の通説的な「兵農分離」論からすると、一次史料上から兵種別編成がおこわれていたことが明らかな武田氏、北条氏は
織田氏などに比べて兵農分離が進んでいなかった代表例だったんじゃないの?

この辺の兵種別編成の問題と大名権力論と「兵農分離」論は、丁寧に分けて慎重に検討しないと
議論が錯綜しちゃいそうだね
>>86の丸島和洋みたいに兵種別編成を否定する見解を取る人は
自身の大名権力論と兵農分離論に対する理解と矛盾がないか改めて再検討した方がいいと思う