【鎌倉北条氏】〜門流・子孫・被官〜その3 [転載禁止]©2ch.net
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鎌倉執権北条氏専用スレッドです。
多くの門流が派生し、同族間の争いも絶えなかった北条氏。
北条氏の出自、幕府内での各門流の動向、幕府滅亡後のその各門流の子孫の動向、御内人・被官について語るスレッドです。
また北条氏とその他有力御家人との関係についてもご自由にどうぞ。
※前スレ
【鎌倉北条氏】〜門流・子孫・被官〜その2
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1402780639/ 広義では北条執権も中央集権ではないだろ
室町時代の動乱と中央集権云々はあまり関係無いし 前スレから添付
貞盛-維将-維時-直方-聖範-時直-時家-時方-時政(尊卑分脈)
貞盛-維将-維時-維方-直方-時方-時家-時政(前田本)
貞盛-維将-維時-維方-直方-時方-玄承-時忠-時家-時政(前田本イ)
貞盛-維時-直方-維方-時方-時家-時政(群書類従)
貞盛-維将-維時-直方-雲範-時直-時家-時方-時政(野津本)
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-聖範-時家-時兼-時政(野辺本)
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-時範-時直-時家-時兼-時政(野辺本イ)
貞盛-維将-維時-直方-維方-聖範-時家-時兼-時政(中条本)
貞盛-維時-直方-維方-俊則-時家-時方-時政(山門本)
貞盛-維時-直方-維方-時方-時家-時兼-時政(入来院)
貞盛-維時-直方-維方-時方-時家-時政(入来院イ)
貞盛-維将-維時-直方-維方-時方-時政(桓武平氏)
貞盛-維将-維時-直方-維方-時方-時家-時政(系図纂要)
貞盛-維将-維時-直方-雲範-時直-時家-時方-時政(古系図)
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-時家-時方-時政(正宗寺本)
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-時家-時兼-時政(内閣文庫)
貞盛-維将-維時-中方-聖範-時方-時兼-時家-時政(内閣文庫イ)
貞盛-維衡-政度-維時-直方-維方-時方-時家-時政(熊谷氏系図)
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-時家-時兼-時政(妙本寺本)
貞盛-維将-維時-直方-維方-時方-時兼-時家-時政(指宿氏系図)
貞盛-維時-直方-維方-時方-時家-時政(延慶本平家物語)
貞盛-維衡-維度-維盛-盛基-貞時-時家-時方-時政(源平闘諍録)
貞盛-維将-維時-直方-維方-時方-時家-時政(千葉大系図) .
【アホー!】 「撤廃を」 5都府県市が共同提言 [11/11] 【ゲール人!】
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1415712703/
48 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/11/11(火) 23:14:03.75 ID:Tyy729OU0
こういう話になるとすぐアメリカを理想国家のように出すが、
一極集中がないだけで、日本と比べ物にならん地域格差がある
73 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/11/11(火) 23:50:03.90 ID:hUdX21pX0
>>1
>東京都と神奈川県、愛知県、大阪府、名古屋市
ここら辺の自治体首長は、安倍総理が直接任免されれば良いのでは?
横浜市、横須賀市、川崎市、鎌倉市を含めてね!!!
政令指定都市の首長は、全部、安倍総理が直接任免されても良いと思うわ。
公共事業は、これ以上必要ないけど、
特亜が攻めて来てるから、中央集権は、必要だよね!!!
78 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/11/11(火) 23:57:29.47 ID:pOlRZHq90
これが、地方分権の正体ですね。 道州制で国家解体。
80 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/11/12(水) 00:00:39.39 ID:btg1BA0M0
.
「自治基本条例」「国家の主権に外国人が関与」 保守系がブレーキ
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1415621600/ .
鎌倉北条氏って時政以前の系図なんかは良く判らないらしいが、
案外伝承どおり、平直方流じゃないのかな?と思える。
平直方-平維方-平盛方の直方流三代は、貞盛流の嫡流であり、
従五位下の京の軍事貴族として公卿の警護みたいな仕事をしていた。
平盛方が活躍する時代は、同族伊勢平氏(貞盛流)の平忠盛(清盛の父)が台頭
し活躍し始める時期でもある。当然、平盛方と平忠盛はライバル関係に有り
新興勢力の忠盛は、平貞盛流の嫡流の座を狙い始めていた。
平盛方の子供と言われる熊谷氏の伝承によると朝廷で平忠盛襲撃事件があり、
その一味に同族である平盛方が加わっており、その罪により処刑されてしまう。
事実、平忠盛は当時は異例の高待遇である内昇殿を許可された。
『平家物語』では武士である忠盛が殿上人となったことを憎んだ公卿たち
による闇討ちが企てられるが、忠盛は銀箔の木刀によって公卿たちを脅す
機転によって彼らの襲撃を防ぎ、鳥羽上皇から賞された事(殿上闇討事件)があった。
それ以外でも武士でありながら出世を重ねる忠盛に反感を抱く公家による襲撃事件が多数あった。
この平盛方処刑により盛方流は没落、これで貞盛流嫡流だった直方流の都での評価は地に
落ちたと思う。盛方流は、都に居られなくなり、盛方の弟である阿多美聖範の家筋に平直
方流の当主の座は移ってしまう。そしてこれが伊豆北条氏の直接の家祖として考えても良
いのではないだろうか。 (>>7の続き)
処刑された盛方の弟の阿多美聖範は伊豆阿多美郷に土着し開発領主としてこの地域を開発した。
阿多美四郎を名乗り伊豆北条氏の通字である四郎が始めて登場する。
罪人となった平盛方の実子の直光は聖範が引き取り、阿多美郷の領主を引継ぐ。
また、その弟の直貞は、まだ赤子で乳母に
抱かれて武蔵国大里郡熊谷郷に落ち延び熊谷氏の祖になる。
聖範の実子である平時方は、当初は阿多美郷和田里に居住して和田太夫四郎と
名乗っていたが、処刑された盛方にかわって直方流を継いで都に上がり宮仕えを始める。
平時方は、処刑された盛方とは違い、順調に出世し上総介や肥後守を勤めた。そして晴れて
伊豆守に任命され伊豆の国司となる。この時期の国司は国元には赴任せず代理人を派遣して
国司業務を代行させたが、平時方は父の聖範や盛方の子らが居る伊豆に赴任して在国の国司
として三島の国府庁舎で国司の業務をこなした可能性が高い。またその方が地元の事情が判り
国元での影響力を行使し易く、国司業務がはかどる、という事もあったであろう。 (>>8の続き)
国司任期終了後の平時方は、都に帰らず三島国府庁舎の直ぐ近くにある北条郷に土着し
氾藍原の開発領主となってしまう。北条郷は、湯走権現の所領でもあった。平時方は、
父である聖範(湯走権現禅師)のコネを使い、湯走権現から北条郷を譲り受けた。
そして俗姓も北条とした。
これ以降、都での平直方流軍事貴族としてのキャリアを捨て東国武士として
伊豆北条氏の歩みを始める。また、この決定は、平忠盛の意向を呑んだ可能性もある
もっとも自分の故郷の近くであり、任国として実際に数年間統治し、父や盛方の実子が居る伊豆で
のんびりやっていた方が、都での軍事貴族として出世競争にあせくせするよりマシだ。 と言う判断が、
時方には、あったのかも知れない。
また平直方-平維方-平盛方の直方流三代は、貞盛流の嫡流の地位を継承してきたが、
盛方の忠盛襲撃事件の関与により直方流の没落が決定的となり、忠盛-清盛流が貞盛流の
嫡流の座を引継ぐ事になった。その為に盛方処刑後に直方流を継いだ時方は、貞盛流の
嫡流の座を忠盛に明け渡し京武者(都の軍事貴族)の立場を捨てて伊豆北条郷に土着し
東国武士(関東武士)としての歩を始めたのだろう。
ただし、京都大番や公家の従者を勤め続けているので、
伊豆北条氏から、完全に京武者の性格が無くなった訳ではない。 7
さあな?
はっきりしてるのは伊豆に住んでた荘司かなんかだっけ? 頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう
政子の葬儀奉行は足利義氏だった
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
・公暁
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源頼家→公暁(母親は足助重長(三河国加茂郡足助)の娘)
・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河国司)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護) >>7>>8>>9
は、「系図に書いてあることを信じれば」の話でしょ。
系図はみんな源平藤原に繋げるのが普通だから、その構図に乗ればみんな「もとは京武者」ということになる。
それは史実の証明にはなっていない。
伊豆の田代氏は「後三条源氏」だが、それを信じる学者はほとんどいない。
「桓武平氏」を名乗ると何やらもっともらしいけど。それが史実だという保証はない。 >>7
> 平盛方が活躍する時代は、同族伊勢平氏(貞盛流)の平忠盛(清盛の父)が台頭
> し活躍し始める時期でもある。
>当然、平盛方と平忠盛はライバル関係に有り
>>5の系図を見ると盛方は時政の6代前になるよね。
忠盛は時政と同年生まれ(1138年)の平重盛の祖父になる。つまり2代前。
世代が4代違う盛方と忠盛が同年代に活躍したとは考えにくい。
> 新興勢力の忠盛は、平貞盛流の嫡流の座を狙い始めていた。
当時の嫡流意識は同族より先に上位の官位や権益をもてばそれが嫡流になるというものだから
セコイ手を使って相手を潰して嫡流になるという見方は成り立たない。
血筋ではなく、人脈経済力政治遊泳術を使ってのしあがったものが後世から嫡流と見なされるようになるだけ。
> 平盛方の子供と言われる熊谷氏の伝承によると朝廷で平忠盛襲撃事件があり、
> その一味に同族である平盛方が加わっており、その罪により処刑されてしまう。
もしそのような事件が本当にあったとしても上記の通り北条氏につながる>>5の系図では盛方と忠盛は代数が会合わないのだからその「平盛方」さんは北条や熊谷に繋がらない同名の別人の平盛方さんでしょう。 平盛方が貞盛流嫡流で熊谷直実の祖父にあたり、平忠盛襲撃で処刑された人物なら、
平家物語で平敦盛の最期は直実の敵討ちの美談となり、平家物語に書かれた
「物の数では有りませぬが、拙者は、武蔵の国の住人・熊谷次郎直実と申します」
「そうか、ならば、そなたには名を名乗るまい。但し、そなたにとっては良き敵ぞ。名を名乗らずとも、この首取って人に問え、知らぬ者は有るまい」
という話にはならん。 もう一度系図見直してみたけど
野辺本は5代前だったね。
内閣文庫と正宗寺本、妙本寺本は3代前でギリギリ忠盛に引っ掛かる。
ただ、直方からみると少し(修正可能だけど)ズレがある。 で、盛方が時政の3代前になる系図を検証してみた。
生没年が割とわかっている河内源氏の代をからめてみると
内閣文庫に合わせてみると直方-維方-盛方-時家-時兼-時政
直方=頼義(義家との年齢差51歳を考えるとこうみるのが妥当)
惟方=頼義妻
盛方=義家
時家=義親=平正盛
時兼=為義=平忠盛 (忠盛と為義は同年生まれ)
時政=義朝=平清盛 (時政は清盛の子重盛と同年生まれ)
代を重ねると親子の年齢差の関係で一代くらいずれるかもしれないから
時政=重盛になる可能性は十分にある。
ただ、直方世代=頼義差代ベースから見た場合でも盛方=忠盛になるには少し無理がありそうだ。 野辺本ベースで検証すると
直方-維方-盛方-聖範-時家-時兼-時政
直方=頼義
維方=頼義妻
盛方=義家
聖範=義親=平正盛
時家=為義=平忠盛
時兼=義朝=平清盛
時政=義平=平重盛(時政重盛に一番年の近い義平を持ってきた)
ですっきりする
(ただし、長子がつづくか末子がつづくかによって世代のズレが生じるのでこれをきれいにあてはめるわけにはいかない)
いずれにしても野辺本の場合も上の代からみても盛方と忠盛が同世代になるという見方は苦しい。 一つ気になるのが>>7->>9の伝承の中に「熊谷」がさり気に入り込んでいるんだが
その「熊谷系図」に「盛方」の名前が出てこないのが気になる。
この>>7->>9の伝承の元ネタを教えていただきたい。 まあ、なんにせよ北条や熊谷が平氏なんてのを真に受けてるのはアホ。
田舎豪族の僭称にすぎない。 別れ路を 何かなげかん 越えて行く 関もむかしの あとと思へば
(出陣に際して別れることをどうして嘆くことがありましょう、昔私の先祖も関を越えて(東国へ向かって)勝利してきたことを思えば)
これは平忠度が富士川の戦いの追討軍となった時に、平将門を追討した祖先の貞盛になぞらえて詠んだ詩だ。
平家にとっても貞盛は偉大な祖先であった。
北条氏は関東を地盤に権力を握ったが、貞盛の旧領の常陸に祖先を祀る寺社を建立したとか、そんな話あるのかい? 源義家って、頼義の長男なんだけど、
頼義が50代の時の子供なんだよw
しかも、義家の嫡男の義忠が、これまた、義家が40代の時の子供。 んでもって義朝が為義の長男なんだか、為義28歳の時の子。
その後の為義の驚異的な子供生産数を考えると28歳は遅く感じる。(鳥居禅尼は義朝の姉のようだが) それまで娘一人しかもうけなかったのに
40代半ばからいきなり男子もうけまくった藤原忠通の例があるから
子供のできかたはワケわからん。 家康なんか長子と末子の年齢差すごすぎる
長男:信康1559年生まれ
末子:市姫1607年生まれ
信康の曾孫:三保姫1603年生まれ
年下の叔父叔母は結構あるが、家康には玄孫より年下の娘がいる >>27
戦国三傑の中では50代で20代の淀殿に手を出した秀吉が一番好色じみて描かれるけど
70近くで10代の少女を側室にしていた家康が一番好色だからな
(家康はさすがに満60歳で儲けた市姫が最後の子だったが) 大内に匿われた名越の子孫名乗ってたんだっけ
でも大内って討幕派では 名越家の菩提寺って九州?
北条家の供養のため
足利尊氏と後醍醐天皇が建てた
鎌倉の宝戒寺が健さんの墓があるらしいが 梶原景時事件と比企の乱は主体が結城朝光から北条時政に変わっただけで
同様な構造なんだな
時政が主体である事には変わらないが背後で時政を動かしていたのは
義時と政子のような気がする 動いてたことが明らかな人物
景時事件:阿波局、三浦義村
比企の乱:政子、義時、三浦義村
ここいらは同じグループだからね。
ボス:政子
参謀:義時
広報宣伝:阿波局
行動隊長:義村
ちなみに時政追放もこのグループが行ってることは明らかだし。 阿野時元の誅殺は「禅定二品(政子)の仰せに依って、右京兆(義時)が
金窪兵衛尉行親以下の御家人等を駿河に差し遣わした」と『吾妻鏡』にあるけど
阿波局(時元実母)の心情はどうだったんだろう?まあ、姉の意向には
逆らえないだろうけど。 政子からしたら時元が将軍になんてなったら阿波局に立場を取って代わられるからとても生かしておけなかったんだろうな。
我が子や孫を誅殺するくらいだから妹の子を殺すくらい屁でもないってとこだろう。
この辺が政子の恐ろしさだ。 >>36
三浦義村は謎だらけだな。
反北条派から何度も頼りにされ、裏切り続けている。
しかも義村にとって身内といえる人間ばかりだ。 阿波局、義時と義村は従兄弟なんだよな。
政子を含めて子供の頃からの古いつき合いなんだろうな。
ただ、当時の坂東の豪族は通婚で親戚だらけだから、この程度の関係は他にいくらでもある。
だから特に注目されなかったのかもしれない。
そして義村は義時等との繋がりを周囲に悟らせない韜晦術を備えてたのだろうな。
それで反北条派が何度も引っかかったんだろう。 利害の不一致があったのにも関わらず
和田義盛は三浦義村を過信してしまったからね
三浦義村は常に戦の趨勢を占うキーマンであり続けた
義時との協調関係は利害の一致による表面的なものだったのか
それとも盟友としての絆があったのか >>41
従兄弟であった和田義盛。
妻が乳母を努め自身が後見人的の立場であった公暁
弟で後鳥羽上皇に「兄は日本総追捕使に任じられるなら必ず御味方しましょう」と語った胤義
これらの義村と近しい人間が義村に何の相談もなく行動を起こすのだろうか? >>42
和田義盛は三浦義村に相談を持ち掛けて一方的に期待をかけて
裏切られたんだろうな
公暁の場合は実朝暗殺後に三浦邸に駆け込んでいる事から義村を
頼ろうとしていた筈
只、公暁が義村と共謀していたとは考えにくい
公暁の暗殺計画自体はよく練られているけど、鎌倉殿の地位に就く為の
動きがあまりに杜撰だ >>43
和田の場合義村は起請文まで書いてるからな。
戻れないとこまで義盛を追い込んでから梯子外した。
あれは義村に義盛の一党を滅ぼす気満々とみるべき。
公暁に関してはおっしゃるとおりと思う。 公暁も和田もあんまりものを考えないタイプぽいし
三浦とつるんでたようにはみえんな
義時のがずっと三浦に気を使ってるように見える 和田は義村より年長だから、三浦一族の棟梁風吹かせてたんだろ。
義村はそれに従う風を装ってたんだろうな。
もちろんそれが面白くないから和田を高いとこに上らせて梯子を外したわけだ。
義村の内心と義時一味とのつながりを見抜けなかった和田が滅びたのは仕方がないことだ。 >>30
大内惣領家の大内弘幸は幕府側として長門探題と運命を共にした上、南北朝期は直冬派だった。 三浦氏は庶流が蘆名氏として戦国時代後期まで武威があった分で長持ちかもしれない
中先代の乱の後も
北条氏もどこかで武威を示してほしかった・・ 那古野氏は戦国時代にイケメンで有名でしたな・・・・・
そういえば高倉建さんも名越流北条氏らしいですな
やはりカッコイイですな 高倉健は松平健の子孫だからな
イケメンぶりは遺伝だな。 >>44
三浦義村は野心があれどもリスク回避を最優先するから
尚且つ北条家に恩を売れるからベストな選択だったんだろう
若輩の千葉胤綱に裏切り者呼ばわりされても何とも思わなかっただろう 安康天皇を殺した目弱王を匿い、滅ぼされるまで雄略天皇と戦った葛城円。
義村を頼り、義村邸に逃げ込もうとした公暁を刺し殺した義村。 坂東の平氏から見れば源氏は貴種でも愛着が薄かったのかもしれない
源平合戦は平家(麿)と平氏(武士)の争いのイメージ
初代将軍の頼朝は政治力で抑えてたが
やはり源氏将軍・摂家将軍・親王将軍と
ほとんど御輿化した 実朝亡き後の新将軍に他の源氏を据える考えが一切浮上しなかったのが意外
親王将軍は朝幕の協調の象徴として互いにメリットは大きい筈 親王将軍をもっと大事にしていれば
南北朝時代も独自の鎌倉朝廷に進化できたかも >>57
まず、前提として、頼家と比企の件は北条家に相当なトラウマだったんだろ。
実朝の子以外は全く選択肢の外だった。
実朝が殺されたら阿波局の子すら粛清されたくらいだからね。
そうなると、誰がどう考えても旗印は親王以外にないんだよな。
後鳥羽がくれんから九条なんていう中途半端な家から仕方なく連れて来たが。 頼家の娘はいい訳だが
あれは北条がバックだろ<竹御所
両親兄弟みんな殺されたのに北条に担がれてるとこが不思議だ いつか婿とその一族が担いで悪だくみしないよう最初から監視するためじゃないの? >>59
実朝が25歳ぐらいのかなり若い時期から北条政子らが朝廷に交渉してるからねえ
御家人を抑えるには源氏将軍でもダメで朝廷の権威が必要だったのでは?
実朝が10代の頃から正室・妾を持っても子供がいなかったからとはいえ
25歳ではその後に実朝に子供が産まれる可能性はゼロとは言い切れなかっただろう 実朝も仮に子供が作りにくいとはいえ早々にそんな案を出されてどういう心境だったんだろう 実朝自身の意向だったらしいぞ>宮将軍をお迎えする。 政子も実朝も公暁とかいるのに頼家の遺児は完全無視だからな
そりゃ腹立つよな 「私めが力を尽くして戦っても勝つことなどないでしょう。しかし私を頼って
家にお入りになった王子は、死んでもお見捨てすることはございません」
と言った。そしてまた武器を取り、家に帰って戦った。力尽き、矢も尽きると、
王子に「私はすっかり傷付き、また矢も尽きました。今はもう戦うことは
できません。いかがなさいましょう」と言った。
王子が答えて言うには、「それならば為す術もない。今は私を殺してくれ」と。
それでその王子を刀で刺し殺し、自分の首を切って死んだ。
公暁による実朝暗殺は親の仇討ちとして時の将軍を将軍継承権を持つ立場の者が
直接、手を下し、幕府のbQの実力者で乳母夫の三浦義村を頼ったという点で、
上の目弱王の変の話とそっくりである。
頼られたbQの態度は正反対であったが当時の坂東武者とはそういうものか。 >>33
前スレみても土豪説主張してる人って
「そんなわけない」「ありえない」しか言ってないけど 関東における平氏一門の武士の分散具合から見て、北条氏が平氏の支流だった可能性は充分高いと思うんだがなあ、
それを受け入れられない人がいるみたい。 否定説の人の唯一と言っていい具体的な根拠が系図の混乱だけだしね >>69
北条は土豪上がりの田舎武士と罵っただけだね
・周辺の有力豪族と通婚関係にあること
・官位者が存在してること
こうした土豪上がりだったら説明がつかないことに対して
ちゃんと反論せずに同じことを繰り返すだけ 関東における貞盛流の嫡流といえる大掾氏の北条時政と同時代の当主は、
多気義幹であるが、既に多数の由緒正しい常陸平氏庶流が当時には存在している。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01113a.htm
貞盛流直系の平直方の末裔を自称する北条氏の同族や諸流は当時どの程度いたの? >>72
>官位者が存在してること
誰がどのレベルの官位(できれば時政以前)かおしえてくれないかな?
(私は否定論者ではない)
>周辺の有力豪族と通婚関係にあること
時政の母ちゃんが伴氏(伊豆における伴氏の地位もわかるかなあ)
義時の母ちゃんが伊東氏、
他にあったら教えてくれ まあ、同じ伊豆の土豪でも天野氏や田代氏みたいに「後三条源氏」と主張されてしまうと、
だれだって「嘘だろw」と思うわけだが、
「桓武平氏」だとたいへん最もらしく思えるってだけのこと。
熊澤家が「南朝の子孫」と主張すれば、「このインチキめ」と思うだろうが、
実は確からしさにおいては、そこらの武士の「うちは清和源氏です」と大差がない。
系図なんてそんなもの。 鎌倉幕府の執権であった北条氏は桓武平氏は僭称でただの伊豆の土豪上がりがほぼ確定。
逆に一介の伊勢の素浪人でかつて下剋上の代表とされた、伊勢新九郎は実は正真正銘の
桓武平氏で室町幕府の要職にあった伊勢氏の出であるのに北条氏を名乗ったという皮肉。 確かに北条氏が貞盛や直方の子孫を誇ったような証拠はないな
源氏の外戚から出発してその源氏の幕府を引き継いだわけで
あえて平氏の出を強調するわけにもいかなかったとも言えるが 北条氏が平氏の出であることを必死に否定している奴って
何かにうなされているのか?
たぶん、そういうやつ、極一部のやつだと思うぞ。 北条氏を平氏だと否定している奴に限って
平貞盛や平直方を過大評価しすぎているんだよw
当時の坂東武者にとって、とてもじゃないけど、自分たちの旗頭になれるような
人物じゃないぞ、平貞盛や平直方ごときでは。 北条氏を平氏だと否定している奴に限って
平貞盛や平直方を過大評価しすぎているんだよw
当時の坂東武者にとって、とてもじゃないけど、自分たちの旗頭になれるような
人物じゃないぞ、平貞盛や平直方ごときでは。
平将門の子孫ならば誇れるけど、 伊勢氏のほうが逆に怪しいけどな。
だって、おつげによって、自分たちは平氏にしたということになっているから。
実は、伊勢氏は元は藤原氏を名乗っていて
うんじゃ、本当に藤原氏なのか?というとそうではなく
伊勢中臣氏(鎌足や不比等よりも前の代に中臣氏本流から分岐)の系統
じゃないのか?って説がある。 伊勢氏の先祖は伊勢前司藤原俊継って名前出てくるね。
で、系図には「伊勢神宮のお告げにより伊勢平氏と号する」とある。 北条氏が平氏であることを否定するってことは、
北条氏が「京侍」の出であることを否定するってことさ。
ま、近頃武士の起源をことごとく「京侍」に一元化するきらいがあるが、
やっぱりそれは行き過ぎで、在地の土豪から成長した「武士」もいたと思う。
系図では北条氏の近親ということになっている熊谷氏は、あれはやっぱり私市党の武士で、
在地豪族系じゃなかろうか。 >>85
在地の土豪たちは京都とのつながり、人脈を希求してただろ
その際に有用な手段である婚姻を駆使したと考えるのはおかしいか?
京侍を婿に入れて人脈を強化安定化させようと目論んだ土豪が多かったから京侍の子孫が全国に数多く分散してるんだろ
あと、各地の在地土豪たちの相当数は古代豪族--国造〜郡司の子孫だったと思うよ
庶民が開墾で勢力を築きあげたとかは妄想。 北条氏はあくまでも京武者の子孫。平直方の系譜で間違いないだろう。
だとしたら、北条氏では、当時の坂東武者の旗頭になりにくい。
先祖の平貞盛は、平将門を潰して坂東政権の夢を潰した張本人であり、
また、坂東八平氏の多くが、平将門と同盟関係にあった平良文の末裔たちであり、
平貞盛系は同族と言え、敵対関係にあったものだった。
貞盛の子孫である平直方と
平忠常(良文の後胤であり、母系では将門の子孫でもある)とも戦い、
源頼信が出てきたところで、忠常は降伏した。
これらのことからも、平直方の末裔であることは、坂東武者たちにとって
何の権威にもならなかったことが分かる。
平直方の末裔が唯一、自らの存在意義を高められるのは、河内源氏との婚姻関係であり、
直方の娘が頼義に嫁いで義家と義綱を生んだこと、
時政の娘が頼朝に嫁いで、頼家と実朝を生んだことである。 だからこそ、北条氏は自らが旗頭にはなれず、
清和源氏や皇族に娘を嫁がせて外戚になることで権威を高めた。
源氏が三代潰れた後は、皇族将軍や源氏の名門の足利家との婚姻を深めた。
そんな北条氏も、自らが武門の旗頭になろうとした時が来た。
それが北条時頼であり、このころから北条氏の嫡流は得宗家と言われるようになり、
鎌倉幕府の政治機関である執権職とは別に、事実上の武門の棟梁として脱皮しようとした。
実際に時頼は、息子の時宗に、頼朝らが行っていた行事を継承したりするようになる。 >>87
こいつのはいつも極端な妄想しかはかない。
ただの一部分の極端な肥大解釈しかできない低学歴 >低学歴
お前だけには言われたくない
東大以外は大学と言わないと言うのを知っていて使ってるんだろうな? でたでた基地外力
東大以外は大学のなを知らないという高卒のなせる笑いだな
たいしたもんだ >>91
お前にとっては阪大出でも低学歴だと分かった。もうしゃべるなよ >>89
こういう、「系図」だけを唯一の根拠に「京武者」の子孫っていいきっちゃうのは、
もう学問の領域じゃないんだよね。
系図マニアに多い。 時政の祖父と考えられる北条時家が伊豆介であったという記録がある
このことの真偽はどんな感じなの 伊豆介というのは
京で任ぜられる場合と(政官官職との兼任、お給料替わりの任官)
と地元有力者が任ぜられる場合があるよな。
狩野介の場合は地元任官ぽいけど(それでも都に上るとかそれなりの人脈があると可能性はある)
こっちはどうかな?
あ、それと北条氏系図は系図によって時政以前が混乱してるから
その「伊豆介」記載の系図はどの系図かわかれば教えてほしい。 当時は正式の「伊豆介」(これは中央の貴族が任命され、ようにん国司であることが多い)
のほか、地元の在庁官人が勝手に名乗る「介」もあった。
系図に伊豆介とあるからといって、正式のものであるとは限らない。 >>98「伊豆介」記載の系図はどの系図かわかれば教えてほしい。
お前人に聞く前にちっとは調べろや
尊卑文脈以下ほとんどの系図に載ってるやん >>100
このスレを見てるのは議論している当事者だけではないんだから
ギャラリーにもわかりやすく「系図に書いてある」の言い出しっぺが
具体的系図名や、どこみればその系図が見れるのか提示しておいた方がいいと思う。
それみて北条の出自は平氏だ説に賛同する人も増えるかもしれないし。 伊豆北条氏の京武者由来性を否定したい連中ってのは、
当時の日本の政治体制の中央集権的性格を否定したい連中だと思う。
律令制ってのは、基本的に中央集権なんだけどね。
王朝国家になり、少し分権的になっていたけど、
基本的な政治体質は、やはり中央集権だとおもう。
鎌倉幕府が出来るまで、地方の武士(国武者)が、律令体制下で
京都大番をシッカリ務めたのは、中央政府の権門へのコネ作りだと思う。
その鎌倉幕府だって、中央集権だからね。
国造家由来の土着系武士は、
当然居たけど、京武者のコネには敵わなかったんだろう。 京都大番役と類似点が見える健児制(こんでいせい)ってのが古代の軍制として見えてることも考えて、
律令体制との連続性が見えにくい武士が王朝貴族と関係してることは想像できるだろうにな。 青森東部から宮城南部の広大な地域に勢力を持ち、出羽の清原氏が参戦するまでは平直方の娘婿であった源頼義を圧倒していた安倍氏も京武者の藤原経清を娘婿にしていた。
北条氏も野盗同然の立場から在庁官人に取り入り身分を保証され、土豪として伊豆で地位を築いていったんだろう。 >>67
>なんでも横山さんは、東大らしい…スゴスギ!
同姓同名の東大准教授がいるから、その方と誤解しているのでは?
横山さんは、東京都市大学の学生さんでしょう。
東京都市大学アメリカンフットボール部 HELIOS MGBLOG 2012.0609
ラインマネージャーになりました、工学部都市工学科1年の横山友梨香です
http://tcuhelios.jugem.jp/?day=20120609
>>104
別に伊豆北条氏は、野盗(野党)ジャネーし!
伊豆北条郷に入植した平(北条)時方からして、伊豆国司だし! 北条氏が平氏なんていうのは僭称にすぎない。
一介の伊豆の土豪にすぎない。 >>102
> 伊豆北条氏の京武者由来性を否定したい連中ってのは、
> 当時の日本の政治体制の中央集権的性格を否定したい連中だと思う。
>
それは否定してないが、他豪族と違って「系譜」がはっきりしないから土豪説が出てくるんだよね。
吾妻鏡でさえ、都の滝口を選ぶ時、先祖の先例を重視したらしい記載があるのに
北条にはそれらしい記載が見当たらないし。
> 鎌倉幕府が出来るまで、 >>104
在庁官人もメリットないと相手を取り込まない。
都のコネ、財力、特殊技能などないとね。
単なる土豪説はそこが弱い。 > >>104
> 伊豆北条郷に入植した平(北条)時方からして、伊豆国司だし!
上の方で呈された
「系図名の提示」「伊豆介自称疑惑」に対する返答をされてから主張された方がいいと思いますが。
伊豆介については当事の都の権力状態に絡めて言及されると説得力あると思いますよ。 中央の下級貴族らにとっても、地方豪族と姻戚関係を持つことは財政面で有利だった側面もあるわけで、
地方豪族が中央の貴族たちの子孫に組み込まれる動機が双方にある。
後世の人々にも分かるような有名どころだけでも、将門の例を見ても分かるように
(つまり将門の周辺にいた敵味方の諸豪族たちのことな)都人子孫が極めて多く見られるわけだ
んで、そういった人々の周辺にいた零細豪族たちも、それらのいずれかと組んで姻戚関係を持ちたがる。
有力な平氏の子孫かどうかは不明でも、平氏の誰かの子孫であった可能性程度なら大きいだろ
まあ、あの時期の関東で、直方の親戚以外の平氏がどの程度いたかは分からんし、
直方と無関係だったとは思いにくいがな >>109
>「系図名の提示」「伊豆介自称疑惑」に対する返答をされてから
伊豆北条氏の系図は、だいたい直方流とつながっている。
伊豆介どころか、平(北条)時方は、伊豆国司! >>111
> 伊豆介どころか、平(北条)時方は、伊豆国司
意味が分からん。
伊豆介なら伊豆国司に決まってるだろ。 北条氏が本当に直方の末裔なら、鎌倉は北条にとって祖先伝来の地。
直方と頼義の関係は婿舅で主従関係はない。
源氏の血統が絶えれば、源氏が相続したものの返還を求められる立場。
朝廷に対しても清盛の同族として同じ地位を大きな顔をして要求できただろう。
それができなかったのはなぜ? >>111
>伊豆北条氏の系図は、だいたい直方流とつながっている。
それは認めるよ。
だけど直方から時政までの間の系譜が系図によってまちまちになっているから
時政=直方流に対する疑問(詐称疑惑)が起きているんだ。
時政の祖先に伊豆国司がいるというのなら、具体的系図の3個くらいは出して
どの系図の誰がどのレベルの伊豆国司(守、介、じょう、目)を明示
(同時期の中央権力者は推定誰)くらいは出さないと
「伊豆国司」の説得力はないよ。
>伊豆介どころか、平(北条)時方は、伊豆国司!
これは他のひとも突っ込んでいる通りおかしな表現。
国司も四等官制度だから(かみ、すけ、じょう、さかん)
どれのレベルでも国司だよ。
それと時政の父親が伊豆のなんらかの国司だった場合、もう知行国制になっている可能性が高いから
そのころの知行国主を挙げてくれると、その国司の正統性の真偽の議論の足しになる。 >>117
>朝廷に対しても清盛の同族として同じ地位を大きな顔をして要求できただろう
出来ない。盛方流は、忠盛・清盛親子と嫡流争いをして負けた。
それで伊豆に土着する事になったから、清盛のバックアップはムリ筋。
むしろ盛方流(時方)は、清盛流に敵対している。だから源頼朝を擁立した。
ところで、伊豆は親王任国なの?じゃないの? どっちなの? >>120を一部修正
だから源頼朝を擁立した。 → だから源頼朝に馳せ参じた。
>>117
>直方と頼義の関係
北条時政は、政子と頼朝の婚姻や
山木兼隆攻撃の時にこのエピソードをつかっている。 親王任国は上総、常陸、上野の三国だろ。
いずれも大国。 >>117
当時の同族の範囲を考えてみよっか。
同族扱いで助け合う範囲は本人とその直系の男系子孫のみ。
本人死亡後は遺児たちの間で壮絶な権力争いが起こる。
遺児たちにとっての「同族」は自分の直系の子孫のみだからね。
藤原一族の政治闘争をみてるとよくわかるでしょ。
>>120
その盛方との嫡流抗争説、このスレの最初の方でいろいろと疑問が提示されているんだけど
それに対する返答がまだ出てないよ。 >>120
>盛方流は、忠盛・清盛親子と嫡流争いをして負けた。
妄想乙。以下の記述も、一次資料に全く根拠のない戯言ばっかり。
系図マニアはこれだから、学問的にダメなんだよ。
「北条氏は、直方直系の京武者、なんとなれば系図にそう書いてあるから」
バッカじゃなかろうかw
しかも多くの系図は15世紀以後の編纂物だというのにw
まるで義経記で、義経の史実を探るようなものだ。
北条氏が京武者の出身だとい言うなら、平安遺文なり当時の日記なりで証明してみろよ。 >>120
>ところで、伊豆は親王任国なの?じゃないの? どっちなの?
>>122が書いてくれたとおり、親王任国は大国の中のその三国のみ。
伊豆は親王任国ではない。しかも下国。
(国のランク、実入りのいい順に大国>上国>中国>下国) >>102
>国造家由来の土着系武士は、
>当然居たけど、京武者のコネには敵わなかったんだろう
武士の時代よりも全然昔だけど、奈良時代には、藤原仲麻呂の乱の平定に
尽力したという事で、相模東部(相武)の国造家出身の漆部直伊波が中央政府に
食い込んでいる。
でもかなりのレアケース。
基本的に、大化の改新で国造家は、既得権を奪われている。 最近の古文書発見によって、伊勢氏の先祖が、藤原俊経、藤原俊嗣父子であることが判明したが、
彼らは、平家に最後まで忠実に従った伊勢伊藤氏ではなかろうか。
というのも、太田亮氏によれば伊勢伊藤氏は、平家の家人であっただけに、
平姓を名乗る者もいたということだからである。
藤原俊嗣が「天照大神のお告げにより伊勢平氏と号した」のは、鎌倉時代後半だが、
ちょうどその頃、鎌倉幕府は北条氏と、内寒冷長崎氏が権力を握っていたことだ。
北条氏が直方の子孫と名乗りだし、長崎氏が資盛の子孫と名乗りだしたのはその頃であり、
藤原俊嗣は、平家を滅ぼした鎌倉幕府中枢が平氏の嫡流を名乗りだしたのに激怒して、
自ら「伊勢平氏」と名乗ったのであろう。 ちなみに、北条郷のなかに「長崎」の地名があることから、
内管領長崎氏は、時政以前の北条氏からの分家であろう。
もちろん、現行の北条氏、長崎氏系図の古い部分はでたらめであるから、
その形跡は見られないが。 >>128
長崎家は平資盛の子孫だよ。
平清盛−重盛−資盛−盛綱−盛時−長崎光綱(兄は平頼綱)と続く。
限りなく平家の嫡流に近い、とても高貴な家柄だ。(平頼綱はもっと嫡流に近い)
ちなみに、何故こういことが起きたかと言えば、北条家が本家の資盛の嫡子(盛綱)を
ひそかに匿ったからだと言われている。 >>129
ありえないねWWWWW
六代ですら斬られてるんだぜ。
系図を盲信してバッカじゃなかろうかWWWWW
北条氏が平氏(それも六波羅流平家一門)を匿うなんて有りない。
織田信長や対馬宗氏が資盛の子孫だというくらいありえないWWW 武士の習いに仇討ちというのがある。特に親の仇を撃つのは権利であり義務であるのだ。
平家の公達の生き残りなんて危険極まりないし、そんなヤツをなんで北条氏が匿うんだよW
長崎氏は平家の公達の子孫なら、当時の武士の感覚から言って、北条氏よりはるかに格上の貴種だし、
自分たちの旗印にするか、殺してしまうかどっちかだよW
鎌倉幕府の吏僚ならば、殺すの一手のみW >>131
>長崎氏は平家の公達の子孫なら、当時の武士の感覚から言って、北条氏よりはるかに格上の貴種だし、
>自分たちの旗印にするか、殺してしまうかどっちかだよW
実際に、平頼綱は自分が六波羅平家であることを利用して専横を極めたよ。
滅ぼされたけどね。六波羅平家の滅亡は正確にはこの時。
なお、同様に宮将軍も貴種を理由に何度も利用され、追い出されている。
平頼綱も宮将軍とはちょっと違うけど、貴種を利用したのは全く同じ。
長崎家が専横を極めたのも、同様の理由と言われている。(こっちは分家だけど)
なお、このラインから分家が残っていた場合、今でも清盛の子孫は生きていることになる。
伊勢関氏は六波羅平家の生き残りラインから分家したという説が有望。
流石に、信長はもう可能性はゼロに近いようだけど・・・・・。 織田や宗ほど由緒正しいとかえって詐称がばれるのに、北条は時政の父すらはっきりしない。 >>132
>実際に、平頼綱は自分が六波羅平家であることを利用して専横を極めたよ
でたらめいうな、頼綱が「六波羅流平家であることを利用し」たという、一次史料を出せよW
デタラメにも程があるWWW >伊勢関氏は六波羅平家の生き残りラインから分家したという説が有望。
ちなみにこれもダメねW
六波羅流平家一門は、ほぼ断絶したといっていい。
後世の系図は、家柄を飾るためで信用できないW
つかありえないよ、危険極まりないから。みんな皆殺しが、良くて仏門
頼朝が許さんよW >>127
足利氏にも藤姓足利氏と源姓足利氏がいたし、畠山氏も平姓と源姓があったわけじゃん
それと比べて考えるなら、伊勢氏にも藤姓と平姓が両方いたことに、何の問題もない。
佐々木導誉の実家である京極氏にも、同じ苗字の藤原北家の京極家があるし。 壇ノ浦の後にも助命されて残ってる一門の有力者があるのにいつ断絶したんだよ はっきり言って、長崎氏が平家の公達の子孫というのは、同時代の証言からもありえないね。
だって平家物語は摂家将軍の時代に書かれたと言われてるが、この本は
「六代切られ」をさいごに「さてこそ平家はたえにけれ」って書いてるんだぜ。
しかるにその頃幕府では、長崎氏の平盛綱が、北条氏の家人として活躍してるW
長崎氏が六波羅中平家一門であろうはずがない >>137
いや信用ある系図では清盛流は武門としては全滅ですよ。
ほかも、京都の貴族としてほそぼそ生き残るくらい。
「さてこそ平家はたえにけれ」が同時代の認識W >>136
だ〜か〜ら〜
本来藤原氏だった人が伊勢平氏を名乗ってる明白な証拠が発見されたってことW
系図をまともに信じることがいかに愚かかの実例。 >>124
こいつは… 殿上闇討 も知らないのか?www
急速な出世を妬んだ公卿たちの
忠盛襲撃計画は、事実だし、その一味に平盛方も加わっていた。
この記述は、熊谷氏の記録にもある。
だから盛方は、処分されたのに、それも知らないなんてwww >>142
その「熊谷氏の記録」の名前と
専門家によるその記録の信憑性の評価をこのスレに記載ヨロ。 巛ミヾヾ \
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ヒッシ・ダナー [Hissy Danner]
(1901〜1997 イギリス)
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ググレカス [ gugurecus ]
(西暦一世紀前半) >>144
ググれカス=ネタ元がない又は提示できない又は信憑性なし
の時出るセリフ >>142
ヴァカ発見w
殿上の闇討ちが、平盛方の仕業というのは、
熊谷氏の系図の、さらにほんの一部のもの(江戸時代の編纂w)だけに記載されているもので、
歴史的事実としての信用性は全くないw
142は司馬遼太郎の小説で日本の歴史を語るレベルwwwww ちなみに
最近の高橋修『熊谷直実』では、もちろん盛方が、殿上の闇討の主犯だなんて馬鹿な話は
完全無視だし、熊谷氏が北条氏の同族であるという系図も信用していない。
これが学問的態度というもの。
はるか後世に書かれたた系図の物語をいかにもっともらしく解釈しても歴史の真実はわからない。 あと、関氏の出自だが、六波羅流平家の子孫ではありえないのはもちろんだが、
これについては、かの北条早雲が貴重な証言を残している。すなわち
「私の家は、伊勢の関氏と同族」ということだ。
数ある桓武平氏の中でわざわざ関氏をとりあげたということは、伊勢氏と関氏が、相当近い分家だろうということだろう。
早雲は自分の家を桓武平氏として疑わなかっただろうが
最近の古文書からみて、伊勢伊藤氏と考えるのが妥当であり、
関氏も、実は伊勢伊藤氏の末裔ではなかろうか。
すなわち六波羅の平家の家人の末裔である。 >>147
熊谷系図の話が平家物語の殿上闇討と百練抄の平盛方流罪を
組み合わせて創作されたと考えるほうが自然だよな。 >>148
清盛の男系は根絶やしにされたのに、平家の侍大将で三日平家の乱まで起こした伊藤氏が存続した根拠は? ここに繋がる話になるかわからんが
関氏について少し。
頼朝挙兵の標的となった山木兼隆の父親の平信兼は
関信兼と呼ばれていたらしい。
ちなみに信兼は治承寿永の期間何度も伊勢の要衝の関を切り塞いでいたという記録がある。(玉葉) 関は姓じゃなくて苗字だから、平信兼やその他伊勢在住の平氏に繋がる保証はない。
そこに(関という地名のあるところ)すんでいれば、姓は何であっても関さんであるのは事実。
また、伊勢に住んでる藤原さんなら伊藤忠清の子孫でなくても伊藤さん。
ただ伊藤忠清の子孫が絶滅したとは限らないし、平信兼が子孫を残していないとは限らない。
つまりここに出てる関氏にの先祖には色々な可能性があるということ。 >>150
三日平氏の乱の大将は、平信兼や平家継で、伊藤氏はその忠実な家人として従ったにすぎない。
族滅の対象となるのは大将の平氏。
忠実な家人はむしろ武士の美徳。
やはり忠実な平家の家人の原田氏なども生き残っている。
寛政武家系図には伊勢伊藤氏の子孫というものが十数家ある。
伊藤氏はむしろ繁栄したというべき。 >>153
伊藤忠清の主は小松系平家(重盛とその子たち)
平家継は同輩、平信兼は平家とは関係ない独自の立場を持つ京武者だよ。
忠清は彼らにとっては同盟者。 ""満州事変""《知る覚悟が出来ている方のみ御読み下さい》
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《《驚愕の実態を知る事となります》》←世の中知らない方が良い事もあります・・・。
※1番目〜3番目以内に、
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殿上闇討に、平盛方が、加わっていたのは事実。
それにより、平盛方が、処刑されたのも事実。
伊豆北条氏が、京武者(中央軍事貴族)由来だと、お困りの連中は、シネ!!! >>156
> 伊豆北条氏が、京武者(中央軍事貴族)由来だと、お困りの連中は
別に京武者由来でも困らないけど、
> 殿上闇討に、平盛方が、加わっていたのは事実。
>
> それにより、平盛方が、処刑されたのも事実。
>
と「事実」を主張するなら事実を証明する史料を提示して下さいね。 巛ミヾヾ \
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ヒッシ・ダナー [Hissy Danner]
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ググレカス [ gugurecus ]
(西暦一世紀前半) >>156
だからそういう事実をしめす一次史料を出せよ
これは歴史学の常識だぞ。 .
伊豆北条氏
時方(伊豆守)−時家(伊豆介)−時政(無官:源平合戦前)
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時兼(伊豆介)−時定(?:山木攻めに参加) >>161
時方や時家が本当に伊豆守や伊豆介なら、当時の京都の除目の史料にのっているはず。
除目大成抄っていう官人の任命一覧も残っているんだから。 .
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ググレカス [ gugurecus ]
(西暦一世紀前半) 時政の父親は速く死んだので
叔父や従兄弟に北条家の嫡流の地位を奪われていた。 >>164
そもそも北条の嫡流があったとしたら、嫡流の本拠地はどこになるのかね。
時政屋形以外のそれっぽい屋形あととか残ってる?
そもそも北条の範囲は狭い。
血縁者とはいえ、住む場所がちょっとでもはなれてたら別の苗字になる。
(例、三浦と和田)
時政の叔父や従兄弟の苗字は実際の所何だったんだろうね。 実際の所当時の嫡流は
1 親の本拠地を相続する
2 他の親戚より栄える
のどちらかで決定する。
武家源氏なんかは2のパターンで頼朝が自分とこが嫡流という顔してるだけ。
時政も頼朝姻戚を最大に活かして繁栄して嫡流顔してただけで、実際には他の系統が元々栄えていたのかもしれない。 >>164-165
時定が、山木攻めや石橋山の戦いに参加しているので、伊豆北条氏には、
深刻な内紛は無かったと思うが、時兼が、伊豆の在庁官人(地方官)と
して国衙に勤務し、時政が、北条郷の農地経営を営んでいた可能性はある。
また北条氏は、規模が小さいながらも、水軍を持っていたので漁業や海運業も
営んでいた。国衙に近い北条郷に土着したのは、官物輸送を受託していた事と
関係があるかも。
また、時政は、伊豆の北条郷にずーっといた訳ではなくて、京都大番で三年ほど
洛中で勤務していたし、駿河大岡牧を領有する中堅の公家である牧氏(牧宗親)
の被官でもあった。伊豆北条氏は、時政で伊豆に土着して三代目だけど、この様に
それなりに中央権門とのコネは保っていた。
後に時政の後妻として牧の方が、伊豆北条氏に入ってくる。
伊豆の北条郷は、せいぜい数万坪程度の耕作地でしかなく、米の収穫量も
それほどではない。当時の農業土木技術では、耕作地としては拡大するのは、
これが限界だったのだろう。伊豆北条氏としての歳入(収入)は、米作よりも
むしろ海運業や漁業のウェイトの方が、かなり大きかったのでは?と類推される。
山木攻めの時に動員出来た伊豆北条氏の兵力は、30〜50騎とされ、
それも借武者と言って臨時にバイト的に雇用した人員を入れてこの数字である。
この事から、伊豆北条氏は、武士団としてはかなりの小規模だと思われる。
ちなみに時政の最初の妻の伊東氏は、300騎近くを動員できる規模の武士だ。
三浦氏などは3000騎。千葉氏や上総氏、下野の小山氏などは、万を超える
動員を行っている。 つかさ、北条氏って、時政以前の人で当時の日記や文書に名前が出てる人っているの?
なんか時政になって突然現れたとしか思えない。
むしろ楠木正成みたいな感じ。
そういえば楠木正成も先祖の系図はでたらめだけどね。 当時の伊豆介は工藤茂光だな。
伊豆大島に流された源為朝の監視も務め、
最終的に自害に追い込んでる。
にもかかわらず、頼朝挙兵に駆けつけるとかわけわからん。
血統的には藤原南家の出で系図もはっきりしており
伊東氏などとも同族。
北条もこの程度、素性がはっきりしてくれないものか。 >>169
>伊豆大島に流された源為朝の監視も務め、最終的に自害に追い込んでる。
その時の軍勢に時政の名前が出ている。
伊豆の水軍を動員したらしく、北条氏を含め
水軍を持つ伊豆の武士が動員されて大島に攻め込んでいる。 >>167
>後に時政の後妻として牧の方が、伊豆北条氏に入ってくる。
これは、源平合戦の前か後かで、論争になっているらしい。
どっちにせよ、牧の方を後妻としてもらった事は、時政の大失敗につながる。
牧宗親と牧の方は チーム後妻業 化するwww >>169
> 当時の伊豆介は工藤茂光だな。
>
> 伊豆大島に流された源為朝の監視も務め、
> 最終的に自害に追い込んでる。
> にもかかわらず、頼朝挙兵に駆けつけるとかわけわからん。
>
どうやら伊東との同族争いがあったらしい。
頼政が長年伊豆知行国主をしていた関係で、伊豆国在地実力者であった茂光は頼政にかなり接近し、
在地での威勢確保に頼政の権威を利用していた。
ところが、以仁王事件で頼政が滅亡して新しい知行国主が時忠になると
茂光の立場は悪くなり、かわって伊東が台頭。
目代も時忠の元部下山木兼隆に変更(時忠は検非違反別当、山木兼隆は元検非違使) こんな状況で茂光らもと頼政派は事態の逆転を狙っていた。
折しも、相模や房総でも平氏派閥と反平氏派閥の対立が情勢されており、(土肥三浦対大庭など)
また甲斐でも安田義定らが蜂起の動きをみせていた。
そんな時、伊豆で旗印になりそうな人物がたまたまいた。それが源頼朝。
おそらく伊東山木らにかなり追い込まれていた茂光らが、相模反平氏との連合を画して、頼朝を担いで挙兵したとみられる。
一方為朝については「保元物語」の記載を信じるならば
為朝のやったことは明らかに国衙に対する反乱行為だから国衙の関係者として追討するのは当然。
為朝の時の茂光は体制の守護者、頼朝の時は反乱者になっているが、それは茂光を巡る情勢の変化によるもの。
源平や源氏の血縁関係に拘るとおかしなものに見えるが、このフィルターを外すとおかしなものではなくなる。 >>168
楠木正成は出鱈目ではないだろう?
はっきりしているぞ。
北条氏もはっきりしている。
北条氏は武士というよりも、殆ど中級貴族。 何が中級貴族だこのバ〜カwww
お前らって貴族とかなんとかに変な憧れでもあるのか? あれって公家連中がどこらへんまでの効果範囲があるのか知らないが
勝手に認定しまくったもんだろ
その公家連中のまず出処ってのを説明しない? 貴族の範囲
公卿 従三位以上の位階または参議以上の官職(公卿補任に記載される)
通貴 従五位下以上の位階を持つ者(相応官職は国の守または親王任国の介、または中央官職の「すけ(輔、助、佐)」)
↑ここまでが「貴族」
六位の位階を持つもの
(相応官職は中央官の「じょう(丞、尉)」
↑このクラスは「侍(さむらい)」)
それ未満は地下(じげ) ちなみに頼朝の祖父為義は長年五位になれず「貴族」なれなかった。(晩年にゲット)
父義朝は30歳頃に下野守と五位の位階を得て貴族の仲間入り。
頼朝は13歳で五位をゲットして貴族の仲間入り。流刑間も一応「元貴族」扱い。
一方時政は
頼朝生存中は無位無官。
頼朝死後「従五位下遠江守」になってようやく「貴族」入り。
時政以前に時政と同等かそれ以上の官位の持ち主がいたって記録がある?
それがなければ時政の先祖が貴族だったとは言えないよ。 >>174
お前、楠木正成の系図が何種類あるのか知らないのかw
父親の名前さえ、てんでばらばら、系図によって、
先祖代々として出てくる名前が全く違うんだぞw
ほんとにお前は何にも知らないんだなw 北条家は受領階級だろう?
時政は無位無官だけど、叔父さんや従兄弟は違うしな。
時政は親父が早く死んだから、叔父さんに
北条家の本流の地位を奪われていたんだろうよ。 >>183
楠木正成は親父が熊野国造の和田家の出身で
越智氏系の橘氏の婿養子に入った氏族。 >>180
楠木正成は親父が熊野国造の和田家の出身で
越智氏系の橘氏の婿養子に入った氏族。 >>183
それも確実性が全くない話。
少なくとも尊卑分脈はそう書いていない。
楠木正成以前は、あまりに系図ごとに現れる人名がまちまちなので、
楠木氏が歴史に舞台に上がってから、その子孫と称する各家ごとに、
適当にでっち上げられたと考えるのが穏当。 むしろ一級資料などをみるとたとえば二条道平の日記に、楠と戦う幕府軍を
「くすの木の ねハかまくらに成るものを 枝をきりにと 何の出るらん」
と皮肉った狂歌からもわかるとおり、
楠木氏は、東国出身の御家人もしくは得宗被官の可能性が指摘されている。
吾妻鏡にも楠木兵衛という東国出身の武士がいたことが書かれている。
これに対し、熊野系というのは、明治時代の偽作系図によるものもあり、信ずるに足りない。 >>181
時政以前の北条氏が「受領階級」であるということを証明する一次史料をだせよ 結論から言うと、後世の系図をいくらいじくりまわしても、歴史の真実に到達することはないってこと。
歴史の真実は、同時代史料、一次史料、あるいはそれらを直接使ったと思われる良質な資料によらなければ、
史実を明らかにすることはできない。
系図というのは、自己の家系を飾るために、積極的に創作されるものであるから、
「系図に名家、京侍の子孫とかいているから、そうに違いない」と考えるのは
バカ以外の何者でもない。 >>181
> 北条家は受領階級だろう?
> 時政は無位無官だけど、叔父さんや従兄弟は違うしな。
その叔父さんや従兄弟は親王任国以外の「守」で五位の位階をもっていた?
そうでなきゃ「受領」階級とは言えないよ。
ちなみに頼朝期の「受領」は門葉か準門葉しかいないし、
受領(つまり「○○守」)は幕府の行事では特別席に通されて、一般御家人とは明確に待遇が変えられてる。
(「吾妻鏡」に書いてあるからね)
頼朝期に時政やその他北条一門男子が行事に受領特別席に行った記録がある?
あったら、北条は受領階級だと言っていいけどね。
ちなみに受領階級は五位以上の位階とセットであることをお忘れなく! ちなみに>>181が主張する北条時定が有官位者についてだけど
時定が得ていた官位は「左衛門尉」
それも行家などを討ち取った功による「壇の浦、義経没落後」ゲットした官位。
左衛門尉は六位相当の官位で「受領を目指す人」が貰う官位。
左衛門尉は「侍」階級。
貴族でも受領でもない。
義経没落後にやっとこさ「侍」階級にたどりついたのに、
北条は以前が「受領」と主張できるわけないでしょ? そういや、保歴間記では平頼綱のことを「先祖不知」って書いてるねw
また東鏡によると義時は承久の乱の勝報をうけて、
「いまや自分の果報は王にまさる。前世に徳を十分に積んだからだろう。
ただ一つたりなかったために、卑しい生まれとなったのだろう」
と言っている。
細川重男もいうように北条氏は京侍とかではなく、本来たしかな先祖をもたない程度の家系だったと考えられる。
北条氏には時政以前の古い時代の有力な分家がないところを見ると、古くから続いた家ではなく、
時政の数代前は凡下だったのではないか。 となると、北条氏が将軍にならなかったのも、「血筋がいやしかった」からではないか。
実朝は「おれは種なしだ。俺の後、源氏から将軍は出すな」と発言したが、
やはり北条氏としては、それなら「親王将軍」がふさわしいと思ったのであろう。
「直方流」という系図すら、幕府時代後半の後世の捏造だろう。
「直方流」なら、血筋の上では「桓武平氏の嫡系」ということになってしまい、
「卑しい」とは言えない。少なくとも平賀朝雅が将軍になれるのなら、北条氏が将軍になってもおかしくない。
義朝・実朝のころは、まだ北条氏は「先祖不知」の成り上がりだったのだろう。
「直方流」の系図は、幕府後半時代に、自らを平氏嫡流に仕立て上げた創作だろう。 伊豆北条氏が、受領かどうかは知らないけど、
在庁官人(地方官・国衙関係者)であることは間違いないだろう。
>>173が言う様に
>為朝のやったことは明らかに国衙に対する反乱
>行為だから国衙の関係者として追討するのは当然。
だとして、為朝追討の軍勢に北条時政の名があるので、
在庁官人である事には間違いない。しかも土着の武士では
なくて、国衙に寄生している性格の強い武士とも言える。
その点が、伊豆北条氏の京武者(中央軍事貴族)由来性を感じさせる。
伊豆北条氏の特徴としては、所領の少なさに対比して、
官位の高さが挙げられる。伊豆守、伊豆権守、伊豆介、などなど
国衙のトップクラスの官位を得ている。
これは、伊豆北条氏の10倍以上の所領をもつ伊東氏とほぼ同じ官位で、
時方の伊豆守を見れば、若干、伊豆北条氏の方が、官位が高い感じがする。
北条郷しか所領のない伊豆北条氏が、
伊豆守、伊豆権守、伊豆介に任官するなんて、非常に珍しい。 >>193
時政以前の北条氏の人間が、伊豆守などに任官しているっていう、
一次史料を示してみろよ。 >>193
あと、念のため言っとくけど
たんなる「在庁」なら京侍由来でない可能性の方がはるかに高い。
在庁官人は基本的に在地の有力者で、京都に「留住」ことのない人間が主体で、
基本的には地元の郡司クラスが多い。彼らクラスになるともはや正確な系図を持たない
下郎の身分であり、本来は卑姓の持ち主が多い。なお彼らが源平を名乗っても、
それが真実である保証は全くない。
吾妻鏡など紐解けば「源太」「平六」などと名乗る、最下層の凡下がいくらでも現れる。
こんなの農民上がりだろう。
のちの護良親王は北条氏のことを
「伊豆の国在庁時政子孫高時法師」と言っている。今更>>193
に言われなくても北条氏が「在庁」クラスの人間であることはよく知られている。
ちなみに義時は自らの家を「げろう」と言っている。これは五位以上にはなれない
卑しい身分であると自ら証言しているのである。
時政以前が伊豆守になったなどというのは後世の系図の嘘。 >>195
>在庁官人は基本的に在地の有力者で、
>京都に「留住」ことのない人間が主体で、
だから平時方は、京武者(中央軍事貴族)を辞めて、
平忠盛との出世競争を諦めて、伊豆の北条郷に入植したんだろ。 >>196
時方の存在を示す一次史料を示してください。
話はそれから。 >>197
時方の存在を認めない>>197の方が、おかしい。 資料云々の問題ではない。 >>193
時方が伊豆守であったことを示す史料は何?
さんざんここで責められている「系図」でもいいから何か出してくださいね。
それからね、この時代は「○○守」ってのは基本的に在地には来ない。
目代を送りつけて本人は来ないからね。
中央軍事貴族出身の可能性は否定しないけどね。
「伊豆守」の目代でやってきてそのまま居ついたくらいならまだ分かるし。
>>198
申し訳ないが、史料を提示できないことにはなにをいっても歴史系の話では
「妄想」の一言で片づけられるんでね。
一次資料が出せなくても、専門家がその他の要因を考慮して「ある程度信頼できる」とされたものを出してほしいんだ。
系図でも信頼性のある部分を含むものと、まったくお話にならないもの両方あることを把握してほしい。 >>193
平宗盛による源義仲への牽制として(城長茂)は越後守に任じられる。
都の貴族である九条兼実や吉田経房は、地方豪族である長茂の国司任官・
藤原秀衡の陸奥守任官を「天下の恥」「人以て嗟歎す」と非難している。
貞盛流で平家や平直方の同族にあたる城氏や奥州藤原氏でさえ地方豪族という
理由だけでこの扱いなんだが。。 一族の通字を名前の後ろにつけることが多い一族で、例外的にそれを前側につけてる人って、本来は当主になる予定じゃなかったのが突発的に当主となった人が多いんじゃないかなあ
毛利元就とか。これは兄が当主になる予定でも隣はその家臣になるはずだったからさ。
時政もひょっとしたらそれじゃないの?
ところで。
在庁官人って、国司(守や介など上位者)の元で働く役人だけど、地元の郡司系氏族から取り立てられる場合もあるし、
国司となった人物が都に居た頃から召し抱えてた人が同道して現地入りする場合もあるじゃん。
前者の場合は地元民だし後者なら京武者やそれに近い在京の官人だろ。 なんにせよ、北条氏は直方とも貞盛とも一切関係ない自称平氏の土豪だけどな。 >>202
【社会】 荒れる湘南ビーチ…
「乱れる風紀」で“鎌倉市×海の家・財界”の攻防
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1430606535/
186 テレビ局が海の家を営業しているのが問題なんだよ
200
海の家って、どういう法的位置付けなのか良く分からんよね
海岸って、国有地だから、私有地じゃないんだよ
つまり、海の家がある土地って、国有地なのね
なのに、特定の人間に営業許可して、家を建てさせてるってのは
どういう法律に基づいてるんだろうね
570 海の家を完全廃止すれば、解決
853 1
ウソケンカのプロレス。
鎌倉の商店街や商工会議所は、旧みんな(民主)とズブズブ。
維新だって江田が、絶賛汚鮮中だしね。 ちかく維新も第二民主に。 在地か京都出身かはわからんが
上で誰かが言っていた中級貴族やら受領ではないらしいことは推定できる。
都から連れてこられる場合は良くて六位、普通はそれ未満が多い。 >>203
要するに北条氏は海の家のオヤジや商店街の顔役レベルだってことか。
貴族でも平氏でもなんでもない田舎の顔役ってことやね。 伊豆北条氏と海の家のオヤジや商店街の顔役に何の関係があるんだよ!?
馬鹿じゃね?www 朝廷の高級貴族から見れば、伊豆の北条某なんて、いまでいう海の家のオヤジレベル。 その平時方を京武者として採用していたのは誰だ?
それに、承久の乱で、朝廷は、なんで大負したんだ? >>204
そりゃ、受領より官位の高いヤツを召し抱えていくはずがないからな。
従五位下とかだといちおう受領クラスの位階だから、受領の配下には収まらんだろ 源氏も平氏も世代が下がるにつれて官位が下がる傾向にあるんだよ、
だって皇室からどんどん遠くなるから。
だから、功績を残さないといけない。 >>212は一般論としてはその通りだが、
だからと言って伊豆の一土豪の北条さんが平氏だった根拠にはならないね。
北条さんなんて、伊豆の商店会の顔役レベル。 >>212は一般論としてはその通りだが、
だからと言って伊豆の一土豪の北条さんが平氏だった根拠にはならないね。
北条さんなんて、伊豆の商店会の顔役レベル。 北条氏は平貞盛系の嫡流ではないね、実は。
伊勢平氏よりは嫡流に近いけど
たぶん、平貞盛系の嫡流は、平直方の兄の平中方の系譜だね。 あまり官位自体に拘りがないというか重視してなかった
実力社会の象徴 鎌倉幕府自体がもともとは中小企業の寄合レベルだからな
そんな組織がいつの間に朝廷の人事まで左右する
まあ向こうが決めてくれとお願いしてきただけなんだが 両統迭立で幕府を恨むのは筋違いなんだよね。
時代が下がって、公家諸法度に宮中席次規定が入ってるのも自分で決められなかったからだしな。 幕府あってこその秩序だったのに後醍醐帝がやったことは結局は改革ではなくて秩序の破壊に過ぎなかった 両統迭立に関しては北条時宗といえども西園寺家の言うがままだろ
幕府はそこまで朝廷に介入する気はなかったし
承久の乱を鎌倉幕府に密告して以来の親幕公卿である西園寺家に任せていた これだけ政治的に優秀な人材が続いた一族は他にはない
最期に高時とうババを引いたわけだが 後醍醐天皇がやろうとしていたのは、皇統の独占。
それだけだよ。
後醍醐天皇は大覚寺統の中でも本流ではなかった。
兄の後二条天皇のほうに大覚寺統の本流が受け継がれようとしていた。
それを阻止するために動いただけ。
だからこそ、南北朝の動乱では、他の大覚寺統の皇族たちは
のきなみ、持明院統に味方して北朝側にいた。 高時は覚醒が遅かっただけで割とやる奴だけどな
後醍醐島流しにしたり日野処刑したり二条家ぶっ潰したり
ただ覚醒が遅すぎた >>218
三浦、小山、千葉、上総などは、
国衙と関係なく、数千〜万単位の兵力を動員できる。
とてもじゃないけど中小企業ではナイよ。 完全に大企業。 大勢力の上総広常の参戦が頼朝の勝利を決定つけたからね
時には非情な手段を用いても有力諸侯を御する頼朝や北条の政治的センスが凄い ただね、千葉、小山についちゃ言っときたいことがある。
千葉 当時重盛姻戚千田氏の圧迫を受けていて動員力は激減、頼朝房総上陸に便乗して千田を討ってから数千規模の動員力を獲得。
小山 いち早く頼朝につき、同族との競争に勝ってから万規模の動員力を獲得。ちなみに頼朝挙兵時は当主政光がメイン郎党引き連れて都におり、戦力的にダウンしていた。
上総介の大動員力には意義なし。ただし広常は兄弟争いの最中で支配力は万全じゃなかったけどね。 あと、頼朝についた武士には
上総介なみの大豪族もいれば、熊谷みたいに親子+郎党一人ってのもいる。
一流上場企業から町の個人商店主まで様々な規模の御家人がいた。 そんな大動員できる豪族が集中してる坂東って・・・
当時の人口から考えて可能なのか?
平時の動員は人口の1パーセント、非常時に最大限動員しても1割までいかないはず。 まあ、人数割り増しがあることは考えていいだろうな。
あとは、数え方が保元平治の頃と変わった可能性がある。
保元平治の頃は純粋に一騎単位(騎馬武者+従者五、六人)
治承以降は戦闘員+荷物運び、建築工作兵その他も含んで数えるようになったのかも。 >>230
坂東に集中してたわけじゃない。
越後の城氏なんかも木曽義仲と武田信義は自分一人で引き受けると平家に
豪語し、実際、横田河原では5万集めて、兵力では義仲を圧倒していた。
奥州藤原氏の動員力はさらに上。
まあ当時の兵力は眉唾物だが。 >>226
上総介広常とかが晩期を動員したのは事実だが、それは国衙の代理という立場を利用した物であって、自前で動員できたわけじゃないぞ。ふかしすぎだ 事実上、頼朝と武田は対等だったからな
富士川の戦いは武田信義が主将と言っても差支えないくらい >>233
自前であろうとなかろうと、一万騎を動員・指揮できたことには違いないので。
警視総監とか県警トップ(警視長)のことを中小企業社長とは言わんだろ。 商工会議所の所長権限で勧誘して賛同者を募っただけで、自前の権力だけでは数千騎も動員できないじゃん .
|| ̄ .大阪都構想は"水道の民営化"を行うから危険です....  ̄||
|| 去年、府と市で否決されたのに復活させてウサン臭いです ||
|| 経済対策は"カジノだけ"でいかがわしいです∧_∧
|| 外国人特区を作り治安が悪化します \ (゚Д゚,,) いいですね!!!
||______________ ⊂⊂ |
∧ ∧ ∧ ∧ ∧ ∧ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧ ( ∧ ∧ ( ∧ ∧ | |
〜(_( ∧ ∧ __( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_( ∧ ∧_( ∧ ∧ は〜い、先生
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
橋下徹という罠 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=nAy4HHst7UE
ミ _ ドスッ
┌──┴┴──┐
ヤレヤレ.. ∧∧ │ ちょっと待て │
( ,,)│ その維新は. │
/ つ. 在日党 . │ .
〜′ /´ └──┬┬──┘
∪ ∪ ││ _ε3
【2F】 国土強靭化、終了のお知らせ!!! 【アホー】
http://kanae.2ch.net/test/read.cgi/eco/1424399674/ 現在の財政状況で市民サービスの大幅低下は不可避だろ
二重行政を解消できた方がサービス低下の酷さを増しにできる、低下しにくくできるんじゃないのかよ
んな状態で市民サービスが低下しそうだから反対とか、アホかと 朝廷と鎌倉幕府の二重行政では、東国武士へのサービスを向上できたよな。 交通網の発達程度が低くて全国を一元的に統治するのが難しかったから、東西二重政権が有効だったんだよ
東西分割統治の手法は、内紛が起きやすいという重大な欠点があったものの、それ以上の有効性があったらしく、
どういう有効性なのかは分からんけど、室町幕府にも継承されたし、織豊政権下でも援用された。
一部の説では、江戸時代初頭まで続けられ、大阪の両陣を契機に廃止されたとか。
東国武士へのサービス向上は朝廷への上納金を廃止して着服した分が使われたからだろうな 元寇以降は事実上、鎌倉の単独統治だろ。
しかし全てを鎌倉で決めようとしたため、それが幕府の崩壊に繋がったと。 >>243
実権を握っていた内管領長崎氏が、御内人の増え杉で事態を掌握できず、
さらに賄賂のとりすぎで、得宗被官層のコントロールに失敗。
しかも、その後始末を外様御家人にやってもらったと言う最悪の展開が、幕府崩壊の原因。
鎌倉北条氏ですら、祭上げられていて、
実際の政権運営には、関っていない事も、幕府崩壊の理由にあったと思う。 >>244
>賄賂のとりすぎ
つ、ダイエーの中内www
割引金融債(ワリシン?ワリコウ?ワリチョー?) 大河の太平記では安東氏の内訌で両方から賄賂をもらった高資を円喜が怒って殴りつけるシーンがあった 仮に安達泰盛が勝ってたらどうなったんだろ
肥大化とは正反対の方向になったんだろうな >>243
いや、権限が縮小したとは言え朝廷の独自支配が及ぶ範囲は少なからず残ってたぞ
そうじゃないと後醍醐倒幕は起こりえなかった
ま、それでも一度は叛乱鎮圧されて廃位され遠流に処されたんだけどな。 >>247
得宗家の勢力拡大の抑制を目指すあまりに、
外様御家人の権益保護ばかりに懸命になり、恩賞問題をこじらせた。
そういう意味では、視界狭窄の面があったと思う。
特に北条一門主導の鎌倉幕府による高麗遠征計画を中止に追い込んだ事で
恩賞原資の確保に全くメドが立たなくなり、幕政の混乱を招いたのは、安達泰盛の所為。
鎌倉幕府の高麗遠征計画
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%AE%E9%AB%98%E9%BA%97%E9%81%A0%E5%BE%81%E8%A8%88%E7%94%BB 安達泰盛本人は御家人じゃなく御内人なんだよなあ、そのあたりの関係性がよく分からない 安達泰盛は御内人じゃなくて御家人、それも有力御家人 安達泰盛と親しい有力御家人には、足利家時がいる。
上野の守護は、四代にわたり安達氏で、足利氏は、下野の有力御家人。
しかも霜月騒動の半年前に家時は、自害。
家時は、高氏(尊氏)の祖父だけど、
やっぱ倒幕と言うか、得宗家征伐を考えていたのかね? しかしなぜ高氏が家督を継いだんだろうか
貞氏が死んだのが1331年で高氏の兄高義の死去が1317年
高義に男子がいたし、貞氏は生前には家督を譲っていない
貞氏の死去時に高義の子は既に10代半ばになっている
普通なら高義の子が家督を継承するのが筋だと思うけど 何で上野とか下野が関係あるんだよ
霜月騒動の本質は、三河で繋がる頼朝縁者の排斥だろ
範頼(三河守)の後裔、吉見氏はその後最後にやられた
負け組を箇条書きにすれば一目瞭然だろが
霜月騒動の負け組(三河の頼朝縁者)
・足利氏←三河守護
・安達氏(三河国八名郡小野田)←初代の盛長は三河守護、泰盛は三河国渥美郡小松原荘地頭
・足助氏(三河国加茂郡足助)←三河国加茂郡足助荘地頭、頼朝嫡男の正室の家系
・吉良氏(三河国幡豆郡吉良)
・斯波氏(三河国額田郡矢作)
・中条氏←三河国加茂郡高橋荘地頭、中条家長は八田知家猶子
・二階堂氏←二階堂行政の母親は三河の藤姓熱田大宮司家出身、三河国碧海郡重原荘地頭
・大江氏(長井氏)←大江広元は、元々、三河の藤姓熱田大宮司家の家来か?広元の4男が藤姓熱田大宮司家に養子入り、尾張国海東郡地頭 >>254は、アホか!?
安達泰盛は、上野の守護なんだよ!
しかも、武蔵北部まで、その勢力範囲を拡大している。
霜月騒動の本質は、恩賞問題も絡んでいる。 上野守護どうのこうのは関係なくねーか?w
高野山金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
・公暁
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源頼家→公暁(母親は足助重長(三河国加茂郡足助)の娘)
・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護) >>256
霜月騒動の根本原因は、恩賞問題だから、上野守護職がキッカケではない。
ただ、霜月騒動以降の安達氏は、上野守護を辞めさせられているけどね。
それと霜月騒動は、恩賞問題解決の為に得宗家所領の分配を言い出した
安達泰盛を御内人勢力が討った面がある。御内人しても安達を滅ぼせば
その所領や財産を恩賞支払いにまわせるから。 三河の頼朝縁者を警戒していたが手を出せずにいたんだろう
安達氏は関東に軸足を移したが、泰盛の代になっても、頼家に正室を出し、将軍以外で唯一昇殿出来た足助氏と姻戚を結んでいる
リベンジ組
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/tenryuji.html
表には載っていないが、参列者には城九郎直盛という安達氏らしい奴もいた
霜月騒動の負け組(三河の頼朝縁者)
・足利氏←三河守護
・安達氏(三河国八名郡小野田)←初代の盛長は三河守護、泰盛は三河国渥美郡小松原荘地頭
・足助氏(三河国加茂郡足助)←三河国加茂郡足助荘地頭、頼朝嫡男の正室の家系
・吉良氏(三河国幡豆郡吉良)
・斯波氏(三河国額田郡矢作)
・中条氏←三河国加茂郡高橋荘地頭、中条家長は八田知家猶子
・二階堂氏←二階堂行政の母親は三河の藤姓熱田大宮司家出身、三河国碧海郡重原荘地頭
・大江氏(長井)←大江広元は、元々、三河の藤姓熱田大宮司家の家来か?広元の4男が藤姓熱田大宮司家に養子入り、尾張国海東郡地頭
リベンジ組
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/tenryuji.html 本人は、平資盛の系譜だって言ってますけど?
盛国が、その子だとも言っていますね。 平盛綱が平資盛の子だと言われている
資盛―盛国―国房―盛綱と曾孫説もある
世代考えるといくらなんでも曾孫はないだろう 国房が無い系図もありますね。
それと平盛綱と関実忠が、兄弟だとか。
関実忠は、北条時政の娘と結婚しています。
二人とも義時〜泰時時代の御内人ですね。 >>260
実際は時政以前に分かれた北条氏の庶流だろうってのをどっかで見たな 伊豆北条氏ってそんなに広がりがある一族ではないよ。
山木攻めの時で、時政、宗時、義時、平六時定の4人だけ。
時定の父の時兼は、如何しちゃったんだろ?
山木攻めの二ヶ月前に伊豆介に補任されているんだけど。 >>265
関実忠が北条時政の娘婿ってどこに書かれてるんだ
時政の娘婿は記録を見る限り源頼朝、阿野全成、足利義兼、畠山重忠、坊門忠清、
河野通信、大岡時親、平賀朝雅、滋野井実宣、宇都宮頼綱、三条実宣とあるが >>268
大岡時親というのは、大岡越前のご先祖さまと考えていいの? >>267
広がりがないってことは、下賎な血筋から成り上がったばかりのため、
系図を作っておらず、同族意識の広がりがないってことじゃん。
何がいずの介だよw むしろ楠木正成みたいなもんだw
あと、
長崎氏も「先祖を知らず」って保間歴記に明記してあるわけだがw
北条と長崎は完全な成り上がりw
北条郷に長崎という地名があるから、長崎氏が北条氏の古い分家の可能性はあるが、
かれらはもともと系図を作らない階級出身なので、それすらわからないってことだろう。 >>270
伊豆北条氏の系図の広がりが少ないのは、
伊豆に土着して、まだ日にちが浅いからだ!!! >>271
ありえません。
北条義時はみずからの家を「下郎」と称しています。
京都から下向して間もない家系なら三浦だの千葉だのといった家に比べても
尊いはずで、「下郎」などということはありません。
北条義時は、自分の家が系図すら持たない卑しい家系であると認識していたということです。 >>269
大岡時親は牧宗親の息子で大岡越前守忠相とは無関係 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり >>272
義時が「下郎」と称したのは、主達の事じゃね?
あの伊豆の北条館に出入りしていた近所の農民や土豪たちみたいなの。
それに伊豆北条氏は、伊豆介、伊豆守、伊豆権守が、いる家ですけど? さてさて、内管領長崎(平)氏の出自は、ドレだろうね?
平資盛血統説(自称)
北条氏血統説(細川重男説)
伊勢平氏系関氏説(一応系図)
伊豆北条館の近所(長崎郷)の土豪(主達)説(細川重男説)
etc 森幸夫などは、平資盛血統説を支持しているみたいだな。 北条氏は平直方の後胤だろう?
それを無理に否定したがるやつは、むしろ、平直方の血統を過大評価しすぎているんだよ。
その当時、源義家の後胤といえば、坂東での権威はかなりのもんだけど
平直方の後胤だとかいっても、だから何?で終わるよ。
その程度のもん。
いや、それどころか、坂東で勢力のあった平良文の後胤である
千葉氏、三浦氏、上総氏、秩父氏らの連中から見たら
平貞盛、平直方の後胤である北条氏は、先祖の敵だぞ。 >>280
直方は源義家、義光の外祖父であり、鎌倉に地を婿の頼義に相続し、源氏の坂東での繁栄の基礎を提供した人物。
将門を討った貞盛の直系にあたり、本当に子孫なら北条時政や義時が名乗りを挙げるときに必ず名前が出ないほうがおかしい。 千葉や三浦と同族だなんて自称したら、ウソがばれるから平直方の子孫を騙ったのだろう。
良文系を詐称・僭称したくても、相模には三浦一族がウジャウジャいるから、さすがに無理だろう。
一方、直方系は熊谷みたいな弱小武士でも自称できるレベルだから、自称するには手頃だった。 仮に北条や熊谷が自称だったとして、本物の直方流はどこいったんだろうな >>281
つうか、頼朝が頼義の故事をしつこく再現したから
それに北条が便乗して「直方」子孫を主張するのが都合よかったんだろうね(その主張する系譜の真偽はしらん。)
頼朝=頼義
政子=直方娘
頼家=義家
時政=直方
にしとくと時政と政子の格が上がるし
北条が鎌倉で実力行使する理由にもできる。 大体、熊谷と北条が系図上、やたら血が近いのがインチキくさいんだよな。
誰が見てもウソ系図とわかるレベル。 ところで阿多見聖範っていう坊主は実在の人物で間違いないのか まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり >>283
断絶したと考えられる。
だからこそ北条氏ごとき成り上がりがいけしゃあしゃあと「直方直系」を自称できた。
一次史料による限り資盛には子供がいないはずなのに、
長崎だの関だのが、堂々と子孫を名乗りあげてるのと全く同じ構図。 >279
森幸夫はアホだね。
平家物語の「六代斬られ」で「さてこそ平家は絶えにけれ」と書いてるのとか
「保歴間記」に平頼綱について「先祖知らず」と書かれているのを、知らないんだろうw
不勉強な学者って、案外こんなもんだよ まあ平家物語はあくまで軍記物でそれが正しいと決まったわけでもないけどね
厳密には六代の死後も源智や頼盛流はまだ残ってはいるから六代の死で終焉ではない ものの数ではございませんが、武蔵の国の住人、
熊谷次郎直実と申します。と敦盛に名乗った熊谷は潔い。 >>292
だけど、やっぱりあの物語は摂家将軍時代に書かれたもので、
その時代の読む人にとって真実が書いてなきゃおかしい。
「さてこそ平家は絶えにけれ」といっているのに現実世界で
新三位中将の御子息が鎌倉幕府で吏僚として活躍してたらおかしいだろw
歴史学のルールによる限り、あんたは完全に論破されてるんだよ。 九条兼実の玉葉のようなその時代を書き綴った日記と比べて軍記物は史料として価値が劣るのでは
頼盛流は清盛の子孫ではないが平家といった場合、意味するものは正盛流であって清盛流に限らない >>294
現存している最古の「平家物語」は【延慶本】と呼ばれているもの。
その延慶本も成立は鎌倉時代中期を遡ることは無いと言われている。
今残っている「平家物語」と題名がつく他の本は物語的内容を充実させた改変が繰り返されて成立した後世の作品。
成立時期のほとんどは室町以降。
ちなみに延慶本のラストは「両親を早くに失った少年が権勢を得たことはめでたいことだ」という頼朝賛辞で終了している。
室町以降に成立した本のラストを当時の実感と解釈するのは危険。 >>296
あんた「歴史学」並びに「国文学」に無知だね。史料批判に無知だし。論破されて言い訳に終始している。
「平家物語」では、清盛流一門のことを平家と言っている。
「たけきものもつひにはほろびぬ」とは清盛の一門を言っている
だから平家物語で「さてこそ平家は絶えにけれ」は、清盛流平家が絶えたことを行っているのである。
平家物語は源平合戦については「軍記物」であるが、物語が書かれた当時の人々の認識を示すものとしては、
紛れもなく「一次史料」である。
物語が書かれた摂家将軍の時代、六代処刑によって清盛流平家は断絶していたという当時の人たちの「証言」としては、
まぎれもなく第一級の証拠であって、これに比べれば
15世紀の尊卑分脈に書いてあることなんか全く信用するに足りない。
これが歴史学における通常の思考ルール。
森幸夫は不勉強なので「平家物語」や「保暦間記」の記述を知らないのだろう。
あと、「平家」一般の用語としては「正盛流」という意味ではないよ。
一般に正盛流という意味だという証拠を見せてみな。 >>294
> 新三位中将の御子息が鎌倉幕府で吏僚として活躍してたらおかしいだろw
> 歴史学のルールによる限り、あんたは完全に論破されてるんだよ。
意外と当時の世界はルーズなとこがあって
平治の乱で処罰された信頼の娘が建春門院の女房になってたり、
保元の乱で敗死した頼長の息子が太政大臣になったりしてる。
平家の子孫も他家の養子に入ったり、最初から僧になってた連中は命を取られていない。
あと、信憑性に問題あるが、平家の遺児が八幡宮の僧坊に僧として仕えさせられたという話もある。 >>297
十二巻平家物語は、「政権が平氏⇒源氏⇒藤原氏」と移ることを暗示する物語がある。
これにより、摂家将軍の時代に書かれたことが知られる。
そして「六代が切られたことにより平家は滅びた」とあるのである。
新三位中将の御子息が幕府でご活躍になっていたら、「平家絶えたり」などとと書くはずがないw
言い訳はいい加減にしてくれ。 >>298
> 平家物語は源平合戦については「軍記物」であるが、物語が書かれた当時の人々の認識を示すものとしては、
> 紛れもなく「一次史料」である。
> 物語が書かれた摂家将軍の時代、六代処刑によって清盛流平家は断絶していたという当時の人たちの「証言」としては、
> まぎれもなく第一級の証拠であって、これに比べれば
申し訳ないが「平家物語」は一級史料とは言いがたい。
上横手雅敬さんの主張を借りると
「(上横手さんね主張当時)平家物語の内容を史料として扱ってはならないという学会の主張は最もである。しかし、他の文献や当時の社会情勢の分析と照らし合わせながら使用すると使える史料にはなる」
「平家物語」は史料として無価値ではないが、書いてある内容を吟味してから使うべき史料。
書かれているから即証拠とはならない。 >>299
お前がルールに違反しているのは
1次史料の証拠より室町時代の史料を優先している点。
これは歴史学としてありえないんだよw >>298
> 森幸夫は不勉強なので「平家物語」や「保暦間記」の記述を知らないのだろう。
「保暦間記」も信憑性イマイチだよ。
学者の論文で「保暦間記」の内容を引用するときも「保暦間記」しか記載がないので信憑性に不安があるがと注意書されるシロモノ。 >>301
じゃ、
長崎氏が、新三位中将の子孫であるという証拠は、どこからくるの?
言ってみなw >>302
おれは今日の朝から書き込みしてて、正盛云々とは別人だぞ。
それに信頼の娘や頼長の息子の話は玉葉その他の記載事項、
鶴岡の話は山本幸司「頼朝精神史」から引用だけど(山本氏は信憑性に不安ありと言っとるが) >>305
申し訳ないがその人とは別人なので返答できない。
横レスで混乱させて申し訳ないが十二巻平家物語の成立年代を回答してほしい ちなみにあなたが論争相手に歴史学国文学無知と言っている割りに
平家物語の研究や史料の価値について疑問だらけのことを書いたので気になってレスした。 >>286
熊谷氏の先祖の平盛方が失脚したから、叔父で出家していた阿多見聖範の系統に
平直方の嫡流の地位が来たんだろうが。
平直方の末流は、たしかに、そこそこの権威はあるけど
あくまでも、源家の外戚としての歴史的な権威でしかないだろう?
源義家、源義光の外祖父が平直方だけど、
源頼朝の時代には、源義家、源義光の末裔がいっぱいいたんだから。 本当の子孫ではなくて、あくまで赤の他人の北条や熊谷の自称だけどね。
まあ、系図ってのは事実である必要はなく、名乗ったもんがちだけど。 >>290
断絶か行方不明になる程に直方流が没落したならば、或いは坂東に落ちて土豪化したと考えても、まあ不自然ではないんじゃないか?
それが北条や熊谷だったと
どつちにしろ確証はないけど なんにせよ、熊谷や北条が直方の子孫とか長崎が平家の子孫とかインチキのデタラメだな。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり >>311
没落しても義家や義光に頼み込んで家人となってたら、
それなりの待遇を与えられたはず。 いつも思うんだが平直方って、幾何学みたいな名前だよな 義家と義綱は平直方娘が母だけど、義光は母が違うという説もあるな >>284
安倍昭恵さんに、安倍総理とのお子さんがいらしたら、北条政子になれたのに。
:::::::::::/ ヽ::::::::::::
:::::::::::| キ じ き i::::::::::::
:::::::::::.ゝ モ つ み ノ:::::::::::
:::::::::::/ イ に は イ:::::::::::::
::::: | な。 ゙i ::::::
\_ ,,-'
――--、..,ヽ__ _,,-''
:::::::,-‐、,‐、ヽ. )ノ -=-::.
:::::_|/ 。|。ヽ|-i、 .. / \:\
/. ` ' ● ' ニ 、 .| ミ:::|
ニ __l___ノ ミ|_≡=、´ `, ≡=_、 |;/
/ ̄ _ | i ||. ◎ .| ̄|. ◎ |─/ヽ
|( ̄`' )/ / ,.. |ヽ二/ \二/ ∂>
`ー---―' / '(__ ) /. ハ - −ハ |_/
====( i)==::::/ | ヽ/ヽ/\_ノ / |
:/ ヽ:::i \、 ヽ二二/ヽ / /
.\i ___ /_/ >>320
.───┐ ∠_ \L
 ̄ ̄ ̄| | llヽ _| ヽ
| | |l ̄| | l 安倍家岸家ってドラえもんのいた未来ではどうなってんの?
| | / ´\ /
| | ヽ、_ `^イ
二二二 」 _ __ lニ二二l、 ____
─┴┐ ⊆フ_)__./ ┌ヽ ヽ┐ /´ `\
二二二二二二l / | | | |. / ヽ
_l_____| /`ー─‐|_| |_| / ヽ
| /`ヽ__, ─ 、ノ |─l l l
|───/ /lニ/ /二ニluul. | ! 将軍家になってるよ
| ___| ̄ | | |_|. l /
└─( )(ニ|  ̄|./二ニ) ヽ /
 ̄ ̄ / ) >━━━━━━ く 確かに内閣総理大臣(太政大臣相当?)を右大将と同等に扱うのは
前者に対して失礼だって気はするけど、
でもそれにもかかわらず、>>319 >>322の言っていることはアホだと思う。 能力的には安倍ちゃんと一緒にされたら頼朝がお気の毒 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり >>286
伊豆北条郷に土着した平時方は、阿多見聖範の子供だよ。
忠盛襲撃事件を起こして処罰された平盛方の弟でもある。 >>323
【政治】 安倍総理夫人・昭恵さん「辺野古の飛行場、海の上には造らないで」
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1433302095/
31 1
陽動作戦で、安倍総理夫人が反対派の立場代弁するんだよなw ネトウヨの俺も苦笑w
35 31
ガス抜きかな?
93 1
先日は、昭恵夫人を非難する
書き込みをしてしまい、大変申し訳ありませんでした。
以後、気をつけます。 失礼致しました。
反省も意味もありまして、
今後は、2chへの書き込みは少し控えようかと思います。
完全に止める訳ではありませんが、ぺースは、控える心算です。
重ねがさね、申し訳ありませんでした。 頼朝が鎌倉を武家政権の本拠地にしたのは、
かつて鎌倉が「相模公」の居所だったからと聞いたことがあるが、
相模公とは何者? 単に、鎌倉が東国を代表する大都市のひとつだったからだろ >>330
鎌倉しか空いた土地が無かったという話もあるぞ >>330
>相模公とは何者?
染谷(染屋)太郎時忠の事だろ。
坂東総追捕史だった豪族で、由比の長者と言われ、由比ヶ浜に館を構えていた。
相模東部(相武の国)の国造一族の 漆部直伊波 を投影した武人と言われる。
寒川神社や鎌倉の甘縄神社を創建した人物とも言われ、
寒川市在住の染矢一族は、その時忠の子孫と言われる。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>336
坂東総追捕史 じゃなくて 坂東総追捕使 なんだけど? >>334
> 鎌倉しか空いた土地が無かったという話もあるぞ
「空いた土地」ってのが何を意味するのかもわからないし、
その「空いた土地」が鎌倉しかなかった、というのも自分には意味がわからないのだが。
どゆこと?誰が言っている説? 頓珍漢な質問だったらごめんなさい
北条氏照の子孫が東北に流れつくことはあるのでしょうか? 戦国時代の後北条氏は鎌倉北条氏とは無関係だから、このスレ的にはスレチ
ええと、戦国大名としての後北条氏が滅ぼされた際、秀吉からは睨まれたから、北条家中で主戦派とみなされた氏政氏照刃切腹させられたわけだが、
当主氏直らが蟄居謹慎(+所領没収)のみで処刑されてはいないし、
徳川と姻戚関係ということで北条家家臣や支流の者が徳川に召し抱えられたりしてるぐらいだから、切腹させられた氏照の子孫と言っても、東北まで逃げ延びなければならない理由はないよ
ただ、どこかの大名に招聘されて弛緩する可能性はある。東北じゃないけど、蜂須賀家とかね
つまり、北条氏の所縁のものだという出自を隠して密かに逃げ延びた可能性ってのは低い
(直後なら分からんけど、氏直の蟄居以後なら)出自を隠す必要すらなかったはずだから、身元を隠してたというなら偽系図の可能性が高いんじゃないか? 氏照養子の千葉直重の千葉氏繋がりで、千葉良胤の子孫を称する系統が東北に逃れ着いたという伝承があるけど、まあこっちは氏照とは無関係だわな >>344>>345
スレ違にも拘らずありがとうございます
分かりやすくて助かりました 早雲は、鎌倉北条氏末裔の女当主がいることを知って、関東覇権の足掛かりとして大義名分を得るため正室に迎え、北条姓を名乗ったんじゃなかったっけ。
テキトーな記憶で書いてるから補完してください。 伊豆を制圧する過程で拠点を旧北条の地に近い韮山に置いた関係で、拠点の地名にちなんで北条って説もあった気はする
昔は早雲による伊豆平定が短期間に終わったとされてたが、実は何年もかけてじっくり平定してたっぽいし。 >>347
氏綱の正室の養珠院が横井氏(時行の子孫)出身じゃなかったっけ 韮山に居たのは、自称鎌倉北条氏の母子だったね。
早雲は、それを保護して、名門の伊勢氏よりも、関東で知名度抜群の北条の名が欲しかった。
一級資料のネタでないけど。 >>349
中先代の子孫っているんだね。
全滅したんじゃないんだ… >>352
中先代 時行 以外にも北条氏の遺児を擁立した挙兵が多発した時期のことでもあるし、遺児の生き残りが意外と多かった、逆に言えば挙兵した遺児の家族(妻とか遺児)が生き延びやすかった可能性はある
まあ、子孫の信憑性は不明だけど。 北条氏遺児を擁立するのはわかるが、守邦親王も擁立してほしかった。
鎌倉殿を擁立すれば、鎌倉幕府の再興も夢ではあるまい。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>355
守邦親王は幕府滅亡の年にすでに死んでます 中先代の乱で勝てれば、念願の北条将軍が実現するからね。 平頼綱ってなんであの時代に平なんて名乗ってたの?
なんか場違い感があるんだが 源平合戦で(平家だけではなく)平氏が滅亡したと勘違いしてるだけでしょ、360が。
清盛の一族一門が滅んだからと言って、平氏の勢力が消滅したわけじゃないんだから、平姓の有力者の一人や二人ぐらい出てきてもなんの不思議もない。 滅亡して追跡できなくなった氏族、証人が生き残っていない氏族の分家やら落胤と自称する系図は詐称が多いからな
同じ平氏でも滅亡してない家系はたくさん残ってたから、そっちから出たヤツが活躍しててもおかしくはないんだけど、
平頼綱やら長崎氏の家系が信頼できるという意味になるわけじゃない というかなぜ苗字でなく平姓のままだったのかを聞きたかったんだが
なんかwikiにそれっぽい説明があったんでもういいっすw 梶原城比企和田三浦
この辺はきっちり族滅させたのに安達や平は生き残って最後は幕政牛耳ってたよね 安達や平といっても実際のところ霜月騒動後に復活した安達はおまけみたいなもので、牛耳ってたのはつまるところ長崎だろ
泰盛と頼綱の時代でさえ頼綱に敗れてるし、安達時顕の復権後は高景の室に円喜の娘を迎えて御内勢力に取り込まれたに等しい
事実、安達と長崎の利害が対立した高時後継問題では長崎の押す邦時が世嗣になってる
しかし何が失敗だったかといえば内管領を長崎氏の世襲に近い形にしたのは不味かったな
あれは室町幕府の三管のように長崎、尾藤、諏訪の上位御内人の持ち回りにするべきだった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>360
理由は簡単。御家人ではないから。
苗字は将軍の前で名乗るもの。
平頼綱は、北条得宗家の御内人だから、苗字を名乗る必要はない。
だから、平という姓を名乗った。 御内人上位層はだいたい御家人から転じたもので御家人身分も併有している
諏訪だけでなく長崎も御家人であったといわれているが 鎌倉時代は御家人ではない武士も多かった。
彼らはみんな源平藤橘・清原・菅原・伴・物部などの本姓を名乗っていたのだろうか?
もしそうであれば、平頼綱もその一例として理解できる。
平頼綱以外に例がないのならば、やはり奇妙に感じる。
平頼綱以外にあまり例を見ないから、奇妙に感じるのではないか? >>373
>鎌倉時代は御家人ではない武士も多かった。
いや、 鎌倉時代は御家人ではない武士「のほうが」多かった。
だろ >>374
そうであるならば、なおさらのこと、苗字ではなく、本姓を名乗る武士が
多かったということになるのだろうか?
鎌倉時代には非御家人の多くの武士が、源〇〇、平〇〇、橘〇〇、伴〇〇、
藤原〇〇というふうに称していたと考えてよいのか? 平という苗字はないだろ、明治新姓が出てくるまでは。 >>377
北条も、一門が北条だらけになったから、赤橋とか金沢とか、名前つけたでしょ >>378
大江広元の苗字は寒河江あるいは毛利だって言ってるのと同じくらい滑稽 平頼綱の次男は飯沼助宗だけど飯沼っていう苗字の由来は地名ってことでいいのか >>378
頼綱は本姓も苗字も平。六波羅平家の嫡流で平資盛の子孫が長崎なんて名乗るはずがない。
なお、長崎氏は平頼綱の流れの分家で、長崎光綱(平頼綱の弟)が始祖とされるが、
これは諸説がある。 平頼綱が資盛の子孫のわけがない。
織田信長が資盛の子孫だというぐらい滑稽なこと。
保歴間記に頼綱は「先祖を知らず」と明記されている。
ようするに大した家柄でもないのが「平」をなのったってこと。
これは別に不思議でも何でもない。平安遺文、鎌倉異聞をひもとけば、
農民クラスが源平藤原含めた本姓を名乗っている例などいくらでもある。 後三年の役のラストで八幡太郎を罵倒した清原家衡の傅役千任も平千任とか藤原千任になってるな まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>384
本姓を僭称する例が多いことはわかる。頼綱も恐らく僭称だろう。
だが、鎌倉時代の後期になって、得宗被官の筆頭という立場で、苗字を用いず
平姓を公称することがあり得たのか? >>388
だから僭称ではないんでしょ?
資盛流じゃないというだけで >>388
足利氏の執事「高氏」の例もある。
東鏡を紐解けば、幕府の官吏
「藤出雲守」「清左衛門尉」「橘たくみのかみ」などといった例がいくらでもある。
頼綱も実際の呼ばれ方は「へいさえもんのじょうどの」といったところ。 鎌倉時代はまだ名字が確立したとは言えない時期だろうな。
だから平姓を名乗る事自体はおかしくないだろ。
室町になったらほぼ100%名字名乗りだろうけど。 文永の役のときの壱岐守護代に平景隆ってのがいるな
武藤(少弐)の家人と推定されてる
平頼綱一族といい高一族といい↑の例といい
御家人の家人層では大多数とは言わないがあったんだろう
ただ息子(飯沼)や親族(長崎)は苗字を名乗ってるのに
嫡流だけは平姓のままという理由は良く分からないな
所領がなかったわけでもないだろうに >>383
お前さんって、源頼朝の苗字は源だとか言っちゃうクチか。それ苗字じゃねえよ >>392
それとは毛色が違うが、佐々木氏の例で、分家がそれぞれの家の通称(?)の苗字を併用し始めた後も、本家だけは佐々木という苗字を使い続け(って、当たり前だよな。)
後になって本家も別の苗字を併用し始めた例があるが、佐々木ってのは姓じゃなく苗字なんだよなあ。姓は源。
なんで本家まで、元の苗字とは別に六角なんていう苗字を併用しちゃったんだろ。 >>394
六角の場合は自分たちで名乗ったのはなく
屋敷の場所から生じた通称なんじゃねーの? 平頼綱って、伊勢平氏の中でも、平家(六波羅流)とは別系統だろう?
たしか、鎌倉初期の北条氏の被官の中に、
伊勢平氏の家系の者がいたはず。
そいつの末裔だろう? >>396
たまたま395が名前を挙げた人物、佐々木導誉の京極氏だって六角氏と同様に屋敷の場所から出た通称じゃん
しかし六角氏と違って早くから苗字と同様に使われてる気がする。
苗字はあくまでも佐々木であって、京極や六角は苗字じゃないはずなんだけどな。 名字が更に分化するのは珍しくない。
毛利一門の福原、桂、志道とかね。
佐々木の場合宗家までが六角になってしまったのが珍しい。 >>390
鎌倉幕府の文官は本姓の名乗りが多かったということか。
京都の下級公家が鎌倉へ下向して、京都時代のまま本姓を称していたということか。
佐々木は苗字だが、六角とか京極というのは、公家と同様、一種の家名だと思うのだが、どうか。
だから、領国にいるときは佐々木で、京都にいるときは六角ではないのだろうか。 >>399
南部も宗家のはずの根城南部の方が変えちゃったよね 松平も宗家が徳川に変えて庶流は松平のまま
蠣崎も宗家が松前に変えて庶流は蠣崎のまま
まあ意味合いが違うけどね 源頼朝の苗字や通称は「鎌倉」or「鎌倉殿」?「伊豆」?
それとも時代によって異なるの? >>403
それも苗字の類例に含めちゃうなら、九条殿(本人の代には九条氏ではないが、子孫が九条氏)とか、
室町殿(足利幕府の当主、必ずしも将軍職と同一ではない地位)とかも含まれちゃうな
御堂関白は御堂氏じゃない(というかそんな名前の家は作ってない)けどさ 下層の人たちが源・平・藤原などの姓を詐称した→下層なので領地は持ってないから、
苗字はまだない→そのまま鎌倉後期を迎えた
このような人たちが、当時は相当数いたということか。
そして、頼綱もそのひとりであったと考えてよいのか。
確かな血統を持つ御家人たち(とりわけ源氏御門葉)は、頼朝の家人であることを
明確にするため、苗字を称することを命じられているから、高い階層の御家人では
ほぼ苗字がある。一方、その家人クラスになると、かえって本姓を公称する状態が
残ってしまっていたということなのだろうか。 >>407
そんな感じだね。
御家人としての領地が名字の本来の前提だから、
鎌倉期ではきちんと名字持ってる人間の方が数としては少ないという事なんだろう。
で、鎌倉期にはまず姓のインフレが発生していたということか。
これが室町期になると名字のインフレが発生してほぼ全員が名字を持つ状態になると。 >>405
頼朝に苗字がないのは、領地(荘園)を持っていなかったといことですか >>409
頼朝は御家人でも門葉でもないだろ。
皇室に姓がないのと似ているお話。 御家人とか御門葉は、概ね開幕後の話で、頼朝の位置づけは、平家打倒前では清和源氏の一流程度の存在だと思うが。
開幕前頃の頼朝の通称は、前の左兵衛佐から“佐殿”だったと思う。 当時の清和源氏嫡流として認められていたのは、
1.源三位頼政
2.多田満仲以来の多田の地を相続し、鹿ヶ谷の陰謀に源氏代表として後白河法皇から声がかかった多田行綱
3.伊豆の流人、頼朝 義仲は分からんけど義経は源氏嫡流と認められてはいなかっただろ 義仲なら頼政の庇護を受けてた兄の仲家の方が上だろ。
為義が義朝でなく義賢に棟梁を譲ることが決まっていたのなら、この線もあるな。 義朝は保元から平治の頃までの官位が他の河内源氏より上だったというだけで
嫡流だったわけじゃないだろ。
下野守になるまで無位無官だったわけで。
為義に至っては五位になかなかなれず
従兄弟たちより官位が低かった。
為義も嫡流だったかについては大いに疑問がある。 >>404>>405
どっかで頼朝の名字は「鎌倉」だって説を見た。
「鎌倉殿」って呼ばれ方はもろに地名+殿
屋敷の所在地(近衛、九条、西園寺)や所領の場所(足利、畠山、三浦)+殿
かんがえてみればで構成される呼ばれ方と同類だもんな。 鎌倉初期まで嫡流という概念があったのかな?
公家は同族の中で高位を獲得して一族の中の出世頭になったものの子孫が偉いというくらいだし
武家は先祖伝来の所領を相続したら父の後継者、だけど他の兄弟も独自の財産を持って自分たちは自分たちという感じで
父の相続者の言うことを聞いていたわけではないし。 かなり流動的な時代だよな。
家の棟梁は存在しているがその統制力は一様ではない。
三浦一門とかの和田一族と義村流の関係とかかなり微妙だからね。 新羅三郎義光が河内源氏棟梁の座を狙って甥の義忠を謀殺し、その罪を兄の義綱に着せて為義に討たせた事件があったけど
源氏棟梁になったら他の源氏一族がみんな言うことを聞いてくれるってことでもないと思うけど
そもそも為義殺害に成功したとしてその後源氏の主だった者が集まって話し合いで棟梁選出とかやらないだろ
我こそがと思う奴らがみんな好き勝手に俺が源氏の棟梁だと言いたい放題だっただけじゃないのか
義家が棟梁の時代でも義綱との仲は悪く家人同士が衝突したりしていたし、義綱が統制下だったとは思えない
氏長者のように朝廷から官位をもらうのに棟梁の推挙が必要な必要なわけでもなく棟梁ってそこまで力あったのか
単に先代の領地家人などの有形無形の遺産のうち中核部分を継承した程度だったのでは 経基−−−義家
この系統だけが清和源氏とそれ以外の藤原氏、桓武平氏の諸家を官位官職で
圧倒してたからじゃないの?
要はあまり経基−−−義家系統以外は比較にならないのでとか。
経基−−−義家系統 棟梁
その他の諸家はエトセトラみたいな。 少なくとも河内源氏で棟梁が統制したのは頼朝が最初じゃないかな。
空気嫁ない義経が最後まで理解できなかったのはちょっと気の毒な面があるw まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>423
少なくとも藤原氏公卿よりは官位は劣る。
清和源氏内の官位ならば頼光の系統が頼信の系統に劣っていたとは言えないだろう。 関東武士団からみると清和源氏で正四位上?(源経基)正四位下(源義家とか)
は高位だよね。
まあそれ以上は従三位以上の中央にいる人たちになるので。
比較的身近な存在の中では群を抜いているのだろうね。 >>428
坂東武士から仰がれには十分な官位。
だけど同族(清和源氏内部)の中で頼信ー頼義ー義家系の官位が抜きん出てたわけではない。
為義に至っては清和源氏はおろか河内源氏内部にも上位者が多い。 正四位の人が地方にとどまるというのが珍しいのかも。 >>430
頼義や義家の活動の本拠はあくまで都だったからね。 源氏棟梁の統制ってどれぐらいの範囲に及んだんだ?
頼義は弟の頼清や頼季を統制できていたのか
義家は弟たちや叔父の頼清や頼季、従兄弟たちを統制できていたのか >>434
後生の人が思ってる程の統制力なんてなかったと思う。
自分の力が及ぶのは自分直系の息子孫、娘婿と養子猶子位。
傍系やその先の血縁にはあまり影響を及ぼすことは無かったと思う。
直系息子でも、義家における義親、為義における義朝などは制御されていなかった。 >>434
当初は頼清の方が頼義より官位が上だったんだよね。
頼清は武士というより文官ぽかったみたいだけど。 大したことじゃないけど源氏の通字って満仲の子世代から「頼」だったのに、
頼義は息子たちに「義」を付けてから頼義流の通字は「義」に変わった
義朝の弟に頼賢と頼仲がいるけどこれは為義が仕えていた藤原頼長の偏諱で、
義朝の嫡男頼朝は藤原信頼の偏諱だけど「長」とか「信」じゃなくて
元々の通字だったからあえて「頼」を選んだのかな まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 棟梁としての頼朝、北条氏の鎌倉幕府による統制は、源氏一門(御門葉)に
とっては息苦しく感じなかったのだろうか?
源氏一門のようなある程度家柄のある武士にとっては、朝廷から官位をもらって
京武者として生きるほうが生きやすくなかっただろうか?
源義経はそうできたほうがはるかに幸福な後半生だったように見えるし、
源範頼、安田義定、平賀朝雅などはそのほうが長生きできたように思える。 >>441
義経はそうしようとして討伐されてるじゃん 大内、平賀は時政の時代までは美味しくてたまらん状況じゃん。
義朝に最後まで付きしたがっていたおかげで門葉筆頭で時政の婿だからな。
京武者のままじゃ埋没して全く旨味はなかったろうよ。 >>441
安田義定は遠江守になった時点ではまだ頼朝からは独立していた。
ただ、色々な面で頼朝の権限が強くなると、甲斐と遠江を本拠地とする義定は頼朝に従わないと速攻潰されただろうな。
東国捨ててあらたに西国に勢力を築かない限り頼朝の影響から逃れた京武者として生きるのは不可能だっただろうな。 頼朝の時代はそれ以前に勢力を持っていた坂東の源氏受難の時代。
義朝の件で優遇された大内以外はみんな酷い目にあってる。
唯一の例外が足利だな。
足利家はほんと世渡りが上手い。 安田義定・源義広(志太先生)・佐竹秀義・平広常(上総介)などは
「独立した東国武士」として生きることが理想だったように見える。
だから、中央貴族や平家による過度な干渉は嫌っただろうが、一方で
鎌倉政権のような強力な政権が近辺にできて、家人として服属するよう
要求されるのも迷惑だったのではないか?
源氏一門や強力な坂東平氏にとって鎌倉政権などできないほうがよかった
のではないだろうか? 大内平賀?
酷いじゃん源氏門葉だかなんだか知らねえがあっけなく滅亡してるし >>445
> 唯一の例外が足利だな。
つ小笠原、信光系武田。
このあたりは下手に鎌倉政権中枢に入らなかったからな。 >>441
源範頼は自身が京とパイプを持つが故に頼朝から警戒されていることを自覚していたからね
だから後白河院の護衛任務を義経に譲っている >>447
武蔵の受領で京都守護だぞ。
バリバリのナンバーツーだわ。
しかもこういう立場に頼朝在世中から時政失脚まで30年近くいたんだぞこの家は。
一瞬の栄華ではない。 大内平賀は、頼朝に優遇されまくったおかげで
北条氏に警戒されてしまった。 >>446
志田以外はそうだろうが、志田はまた違う。志田は保元の乱で崇徳上皇方に
ついてお尋ね者状態だったため(賞金首がかかっていた)、とにかく関東が
どんな形でも秩序が戻ることを避けたかった。最後は賞金首仲間の木曽義仲、
新宮行家らと結んだけど。 >>451
正確に言うと、平賀朝雅は
時政牧の方陣営に近すぎたので(妻が牧の方の娘)、
反牧の方派の政子義時が時政追放した時にとばっちり喰らった形。
その異母兄の系統の大内は都にいることが多かったし、朝雅とは距離を取っていたから
牧の方事件では損害なし。
御家人でありながら京武者に近い存在になっていた。
その結果承久では負けカード引いたけど。 >>452
志田義広は平治のあともしれっと畿内で活動した記録が残ってるし八条院領志田荘を管理してたぞ。
元々義仲に近かった義広(八条院グループ)が
多分義仲と裏で組んで野木宮合戦起こして、負けて義仲の元に逃げ込んだ。
そうなったら義仲と運命を共にする以外の選択肢はなくなってしまった。 >>452
義広が保元の乱に参戦したかどうかは不明じゃないのか 志田が参戦したと記述されているのは保元物語ぐらいかな >>456
「平治物語」に信頼方に義朝軍の一員として加わったとある。但し名前は義憲になってるけど。 >>451
まぁ、七騎落ちで最後まで随伴した平賀を頼朝が心情的に優遇したくなるのは当然かな 頼朝は不遇な時に尽くしてくれた人間を信用するんだよな。
平凡なようだけど大事なことかもな。
大半の人間が弱り目になると裏切るからね。
伊東は実に惜しいことしたよなw >>459
それ考えると北条って頼朝からしてみれば
当時無価値の流人であった自分を婿にしてくれて
誰が見ても無謀としか思えない挙兵に協力した
恩ある家でもあるよな。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>460
北条は、呂不韋みたいなもんか
まぁ、自分の種を皇帝にまでした呂不韋には負けるけどな 始皇帝の実父呂不韋説は秦を滅ぼすのを正当化するための作り話説もあるけどな
劉邦の正妻呂后は呂不韋と同じ一族の生まれではという話もある >>464
その両方を信じると、秦漢革命は呂氏の親族間の争いとなるわけか
項羽の存在が一気に霞むように感じるのは俺だけ? 田斉に滅ぼされた姜斉の一族が、密かに復権して天下を奪おうと
陰謀を企んでいた。それが呂不韋であり、呂后であった
…という設定はどうかな。小説のネタとして >>460
牧氏事件などの暴走があるとはいえ、それが時政の評価出来る点かな
ただ得宗家の由来が義時の法名の時点で時政は忌むべき存在の一方で義時が事実上、基礎を築いたような扱いだな 義時の烏帽子親は三浦説があるがやっぱそうかな
時連も三浦だったし、泰時の許嫁も三浦
宗時の烏帽子親も三浦かも >>469
ただね、この時期「宗」の字を持つ三浦一族いたかなあ?
中村氏かもよ。
中村氏も三浦とつながりあるし。 和田義盛の父親だろ
で、時連が佐原義連なら、義時は三浦義澄だな 杉本義宗→宗時
三浦義澄→義時
佐原義連→時連
非常に綺麗だな。
まず間違いなかろう。 三浦烏帽子親説の場合
一つだけ疑問あるんだけど
時政の上の息子三人のうち
宗時、時連は三浦の通字じゃない方の字を貰ってるんだけど
義時だけ三浦通字の義を貰ってるんだよね。
これってなんか意味あるのかな? 話ズレるけど、三浦義澄の澄って、上総介広常の父常澄からかな?
三浦と上総との付き合いは強いようだし、
この付き合いが頼朝の房総復活劇の一つ要因になるかもな。 諱の研究は面白いかもな。
特に平安末期から鎌倉初期くらいだと諱のつけ方のルールも定まっていないから
案外誰の字をもらってるか判断が難しい場合が多い。 旗揚げ前から、三浦と北条はかなりつながりがあるのか
ともに挙兵するはずだ 畠山などの猪武者とは異なり権謀術数に於いても北条と張り合えるのは三浦
三浦は源家とも義家公の頃からゆかり深く平家との戦で玉砕した三浦義明に頼朝も涙を浮かべたとか 北条はどんな軍事活動をとってたんだ
甲斐源氏と交渉してたんだっけ >>480
時政と甲斐源氏との関係
『吾妻鏡』 頼朝の指示で甲斐源氏と交渉
『延慶本平家物語』 石橋山に負けて頼朝にも告げず戦場から甲斐へ速攻逃亡。
どっちかというと吾妻鏡には脚色というか美化が混じった可能性もある。
ただし時政には義経事件の時に頼朝の代理人として朝廷と交渉して一定の成果を上げた実績はある。 北条の拠点の韮崎近辺は東山道と甲斐へ行く道との十字路みたいなとこだからね。
北条家は古くから甲斐や駿河とは深い関係にあったんだろう。 出自故に甲斐源氏と繋がりのあった源範頼とも遠江を巡って反目していたらしいからね 失脚するもののあんな大それたクーデターを画策するような人物だ
曽我兄弟の仇討ち事件の黒幕が時政という陰謀論が浮上するのも無理がない 石橋山での敗戦では時政は武田のもとに逃れ子どもの宗時は伊東軍に討たれてるね
何れにせよあの窮地を脱した頼朝は強運過ぎる >>486
プッツン懐かしいw
元祖プッツン女優は石原まりこだっけ。
鶴ちゃんのプッツン5とかw 北条家自体が成り上がりの実力社会を具現化したようなものだからな >>490
源氏だ平氏だという点がまったく問題にならなかったってだけだろ 時頼の代あたりから執権が御飾りか盛り立て役で得宗が実権を握る二重、三重の構造だったからな 鎌倉と室町を語るのは本物の歴史オタ!
間違いない! 織田信長も平氏だというが系統は、どうなっているのだろうか? 長崎一門て全国的に守護地頭職も手中にしてたんでしょ
子孫がいないのはみんな殺されてしまったの? >>496
実際は藤原か忌部らしい
信長が天下人になるにつれて源平交替思想にあやかって名乗ったらしい ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 得宗の代官として守護代クラスにはいたかもしれん
新田に討たれた上野の守護代とか
諏訪と一緒に中先代で挙兵した層とか BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 >>482
北條拠点ってことは
韮崎→韮山
東山道→東海道かな?
甲斐の韮崎が北条の拠点とは知らなかったわ。 北条重時の烏帽子親って誰なんだろうな
あの当時存命の重役で名前に重がつくのって葛西清重か佐竹義重ぐらいしかいないっぽいんだけど
もう少し早ければ畠山重忠がいたんだが、実兄の朝時の元服より前に死んでるからありえないよな ありえるのは初期評定衆だった三善倫重もしくは三浦一族の大河戸重澄か
泰時は初名が頼時で源頼朝の「頼」
朝時が源実朝の「朝」、政村が三浦義村の「村」、実泰が源実朝の「実」
泰時、朝時、実泰は将軍の一字でなぜ重時や政村は将軍からもらえなかったのか
政村と実泰は同母兄弟なのに兄の政村が弟より悪い扱いになっている >>496
信長は源平交代説を信じていたから平氏だと名乗るしかなかった説 >>496
信長は織田氏の祖である織田親真が平資盛の子だと称していた >>506-507
もともとは藤原を名乗ってたが晩年頃? に平氏に変更したんじゃなかったかな
若い頃の署名では藤原信長になってたはず 織田氏は齋部氏(タカミムスビ系の忌部氏)の可能性が高い。
この家系は古代においては、中臣氏(藤原氏の前身)を上を行く祭祀の名門家系だった。 >>448
政権の中枢に入らなくてもたまたま安達と懇意だっただけで霜月騒動に巻き込まれる >>504
普通に葛西清重じゃないの?重時の娘に葛西殿っているし
葛西氏から屋敷を譲られたからその名前なんでしょ
どういう経緯でそうなったかは知らんが ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
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歴史好きでとくに北条氏に興味があります。
本当に不思議な一族ですよねえ、この北条氏は。
将軍でもなく、従四位下ぐらいでしたっけ、極官は。
その程度の一族が150年近く政権を握り、日本を支配。
神奈川県知事が総理大臣をやっていたようなもんですよね。
そして最後は族滅されると。
こんな一族は日本史では他にないですよ。 そして最後は鎌倉武士として一族玉砕。
まさにサムライらしい最期じゃないですか。
畠山や梶原を粛清して悪行を尽くした報いではありますし、
得宗専制とか悪く言われるんですけど、
それでも最期は本当に美しいと思うんですよおお。
どう思いますか、この北条氏の生き様を!
ぼくはそういうところが、
まさにインガオホーであり、でも最期はきっちりとしめたところが好きなんですよおお。 足利将軍家だって分家は(鎌倉公方の後裔)残ったけど本家は断絶したし頼朝の子孫も早期に断絶したし、
管領細川氏も本家は滅亡して分家が幕藩大名になったし、
滅んだ家の方が多いような気もするんだよな。討ち死にとか切腹とかで滅んだ例が少ないだけで。 長崎含め北条一党は最後まで鉄の結束を見せた点に凄みを感じる 秋田城介の一派とか東北あたりの北条被官たちは南北朝時代なにしてたんだろうか
地元で各個地元の反北条派に撃滅されていったんだろうか 安達は他の北条与党とともに北方で叛乱を起こす者もいれば足利の与党となった者もいるな 北条政村の官職って変じゃね?位階はさっさと従四位になってる(40前に叙位。重時46歳、朝時48歳、義時53歳、泰時55歳)のに
国司任官が連署になって陸奥守になるまで全くない(重時25歳、朝時32歳、泰時35歳、有時37歳、義時41歳)のな
どっか適当なタイミングで遠江守なり出羽守なり伊豆守なり西国の守護なりやりそうなもんだが
兄貴の有時が30年以上駿河守やってるっぽいのも謎だな…兄貴の意地で譲らなかったのかな?w
幕府での役職も評定衆になるまでは正式にはなし?(実質的な寄合衆だけど)小侍所別当も弟の実泰がやってるし >寛喜2年(1230年)1月13日、常陸大掾に任官。閏1月4日、式部少丞に転任。10月15日、従五位下に叙位。式部少丞如元
常陸大掾って国司(かみじゃなくじょう、三等官だけど)だろ。
あと、国司は守でも従五位相当の官職だから、四位ならむしろ中央の官職の方が適切。
官位相当表で従四位だと中宮太夫とか左右大弁あたりか、貴族以外の就任が難しい程度には、けっこう上級職だよ 北条朝時が手を出そうとして怒られた娘の親父の佐渡守親康って何物なんだろ
1146年に信濃権守やってるっぽい人と同一人物だとしたら年齢がちょっとおかしいな
1212年だともう相当な年齢だろうに佐渡守どまりってことはそこまで羽振りのいい門流ってわけでもないのかな
九条兼実の弟の慈円とも懇意にしてるってことは九条家関係者なんだろうけど 日本史より謎な金儲けできる方法とか
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5NM 義時は頼家の小さな子供たちを殺したり、邪魔者は徹底的に抹殺してきたけど、その報いが子孫たちに行われたと考えると幕府の滅亡も合点が行くね
くにときは9歳で処刑されたけど、あの世の義時はどう思っているだろうか >>527
北条太郎邦時(9歳)は一番信じていたおじさんの五大院宗繁に騙されて斬首されたんだね
北条義時は頼家の5歳の子供(一幡)や公暁たち邪魔な人たちをたくさん殺した罪深い人だけど、
まさにその因果が子孫にたたったという感じだね
みすぼらしい姿で鎌倉の処刑場の筵の上に引き立てられた9歳の男児を、
義時はどう思っているだろうか
9歳の男の子は北条150年の罪をすべて背負ってしんだキリストのようだよ 伊豆の土豪から出発して30年で鎌倉幕府の最高指導者、
義時はマジ成り上がりだよ あと、北条の人々は繁殖力が強いよねえ、
側室たくさん持ってなおかつ生まれるのが男ばかりと
バンバン分家ができるよ
はらませ一族やがな しかしあれほど名君揃いなのになぜ絶滅されるほど憎まれたのか 安達、三善、大江の各氏の子孫も滅亡をともにしたのでしょうか 得宗家という呼び方自体が本来の嫡流家ではないという印象
あくまで最高実力家という感じで >>537
そりゃあ、時政自身が北条家の嫡流じゃなかったからじゃね 「時政の邸を継承した名越流が本宗家だ!」とイキる名越光時に「おう、じゃあ北条の本貫地やるよ」といって
江馬の地に押し込めたのはすげえ皮肉が効いてると思う 北条時政が失脚せずに続いて、牧の方との間に設けた政範が夭折しなかったなら、
北条氏の歴史はまったく違ったものになっていたのかな?
政範流が北条氏の嫡流になり、義時や時房はその補佐をするようになるだけで、
北条氏は幕府の実力者になる流れは変わらなかったのかな? 幕府創設時に、北条一門の中でもっとも活躍したのが政子だったわけで、政子と仲がよかった義時のほうが時政より有利でしょ
時政と義時が対立せず平穏だったら目があったかもしれんけど、対立して紛争になったからね 北条氏は子沢山ぶりがすごいよ
側室集めてセックスしまくりだったんだね
徳川将軍家は見習うべきだ >>543
譜代家臣もなく味方の乏しかった頃の頼朝に、譜代家臣の代わりに自分の一門たる北条氏を味方させて家臣団の中核を作っただろ 頼朝擁立に積極的だったのは政子で時政は消極的だったらしい
政子の説得に応じて時政が動いたとかで >>533
自分たちで、自ら絶滅を選んだんだろ(北条時行をのぞく)
これは北条に限らず、平家、和田、三浦らもそうなので、
そういうカルチャーだったとしか言いようがない
それが転換されるのは、後醍醐天皇以降のこと
しぶとく二枚腰、三枚腰、各地を転戦するようになる
足利直冬、懐良親王、足利義視、足利義稙、上杉憲政など
北条や安達、長崎らも、鎌倉で集団自決などせず、
地盤のある陸奥や蝦夷地へ逃れていたら、まだチャンスはいくらでもあった
現に建武の新政は数年で瓦解したのだから 連休中に、鎌倉の頼朝の墓行ってみた。
割と近くに義時の墓があるのね。但しこちらは鎌倉末期には結構見棄てられていたらしい。
大蔵幕府が置かれていた頼朝自宅跡は、現在私立小学校になってた。 まあ後継者が足りないイメージの原因は秀忠と家綱綱吉家継と家治家定家重あたりが原因か
って過半かよ >>529
悪いことをすると報いがくるんだよね
北条氏、豊臣氏、ドイツ帝国、ソ連
北条氏150年の罪を背負った邦時少年は本当にかわいそう
寒くて痛くてお腹が空いて辛くて、斬首
地獄の義時はどう思ってるだろうか >>542
色ボケジジイはもっと早く粛正してもよかったのに >>541
牧の方が出しゃばって早々に瓦解してたろ 得宗家というが実態は最明寺家というべき
傍系継承の時頼以降の正系という感じで >>555
そんなん言い出したら、そもそも義時も泰時も傍系継承やで? まだ本家分家の別が確立されてなくて、もっとも出世したヤツが代表として本家となってたような時代のことじゃん、鎌倉時代前半頃までって。 ブー、たとえば北条氏なら時政→政範が嫡流です
なぜそれがわかるかというと、
・母親(牧の方)の身分が高いこと
・官位の昇進が他の兄弟より早いこと
・義時は長く、北条姓ではなく江間姓を称していたこと
などが明確に示しているからです
とくに足利氏の例を見ても、
別姓の江間を名乗った時点で義時は庶流だとほぼ断定できます
例外は、時代が下がって、平頼綱に溺愛されて、
御内人でありながら、そして内管領でも、侍所所司でもないのに
国司(安房守)になった飯沼資宗ですね、彼はあらゆる意味で異例です >>559
時行の子孫の横井さん(本家は尾張藩重臣、通字の「時」も継承) 得宗家に生まれたかった…
「太守」と呼ばれたかった… >>562
得宗家でも庶子に生まれたら粛清の対象、
嫡男に生まれた生まれたで、(エジプト王朝よりはマシだが)
安達氏との近親婚の繰り返しで、遺伝的に欠陥のある病弱な体に生まれ、
内管領が箸の上げ下ろしまで細かく指図してくるんやで?
あまりいい人生ではないよ 家名とそれなりの領地(四千石)、地位(尾張藩重臣)が残った
得宗家(横井氏)はまだずっとマシだよ
安達氏とか長井氏(大江氏惣領家)とか南北朝の争乱で完全に消えたからな ついに大河で俺たちの得宗がきたね!
北条フリークとしてはこりゃ楽しみだわ!
時代が何を求めるのか明確に判断できた男だよ、義時さんは! >>564
分家あわせた横井一族全体では約一万石な
>>565
むしろ吾妻鏡の捏造プロパガンダを排した、
残念な成り上がり北条氏、残念な義時さんを描くことを期待してますよ 鎌倉殿の13人→北条時宗→太平記
これで北条得宗は完璧にカバーできるな とにかく北条氏は(もちろん北条義時も)
コンプレックスと恐怖心の塊だということを理解する必要がある
後代では、長州閥と(世界の)共産党が北条氏と非常によく似ている
13世紀に現れた、その先駆性は世界的にも稀有で、恐ろしく早い
長州閥と反日左翼による合作の反皇室プロパガンダ、共産主義者の破綻した陰謀論、
明治天皇替え玉説(笑)や田布施システム(笑)なるものがあるw
反日左翼は実は「似た者同士」の長州閥が大好き、
長州を過大評価、長州の虚像を広めることで、長州のお手伝いをしている
私は最初、追い込まれている、しょぼい長州閥が
自分たちを大きく見せるために、この手の捏造プロパガンダを流してると思ったら、
どうやら本当にアカが流しているようで、アカのあまりの頭の悪さに大爆笑したものだ 【長州閥の実像】
幕末に、尊皇攘夷のカルトテロリスト集団が手の平返しをして、長州征討で滅亡寸前だったところを、
外国の力まで借りて九回裏2アウトから逆転サヨナラホームランを打っただけ。
当時、明治天皇以外にもフツーに男性皇族はいた、江戸幕府はそれ以外に輪王寺宮というカードも持っており、
すり替え()など政治的に自殺行為。 また明治天皇の生母の実家の中山家で
明治天皇の幼少期の養育に関与していたのは、長州ではなく、むしろ薩摩である。
もちろんすり替え()・替え玉()などしたら、薩摩が黙っていない。
マイノリティが一瞬の差し脚、ただのクーデターで権力を手に入れただけだから、
明治維新後も、(薩摩と比較しても)異様に権力に執着して、
山県有朋という足軽未満の中間(ちゅうげん)上がりの小心者が、
ハリネズミのように陸軍や内務省(警察)を抑えにかかった。
このあたりは、ソ連共産党始め世界の共産党の権力奪取パターンと非常によく似ている。
歴史的には、共産党よりも長州閥の方が早く、さらに言えば鎌倉幕府の執権北条氏の二番煎じ、再来とも言える。
薩摩は徳川将軍とも皇室とも縁戚であり、どっしり構えて、そのようなことをする必要はないのである。
それでも長州閥というのはショボくて、戦前も、昭和の段階で、すでに押されまくっていた。
ちなみに長州閥は実に3回も歴史的な国民暴動(※)を起こしている嫌われ者の無能集団なのである。
(※)第一次憲政擁護運動(×第3次桂内閣)、米騒動(×寺内内閣)、60年安保(×岸内閣)
ただし、ここでは、嫌われ者の無能集団であることよりも、
長州閥の恐怖心・コンプレックスを理解することの方が重要である。 (>>569の続き)
大正の頃から、すでに薩長史観批判があったのは(内藤湖南など)、
薩長や公家が弱すぎて、佐幕勢力を一掃できなかったから、
華族・士族の支配階層として、そっくりそのまま温存せざるをえなかったからである。
長州閥の田中義一が、張作霖爆殺事件で若い昭和天皇に一喝されて内閣総辞職したのは、
それくらい長州閥の立場が弱いからである。(憲法上は、総辞職の必要はまったくなかった)
宮中某重大事件で(薩摩その他に)完敗して、失意のうちに死んだ山県有朋も同じ。
安倍晋三と不仲であることが周知の上皇陛下も、退位問題で安倍を振り回す一方で、
政府主催の明治150年記念式典(長州閥の正統性をアピールする、とっても大切な式典)は欠席した。
安倍晋三が即位の礼はじめ皇室関連行事を最大限に利用するのは、
鎌倉幕府の執権が「鎌倉殿の命により」と言う(言わざるを得ない)のと同じであるが、
目的が勤皇ではなく、あくまでも自分の権威付けなので、1年に3回も世界覇権国・宗主国の
トランプ大統領を日本に呼びつけようとしてトランプを激怒させ、
序列13位の末席の女性閣僚を派遣されるような大失態を犯すわけだ。
たった1回の来日に絞れば、トランプを即位の礼に呼ぶことも十分に可能だった。 やる夫が鎌倉幕府を成立させるそうです 第六幕 「次郎実朝」 後篇
(一部抜粋)
吾妻鏡が北条氏の歴史本で、北条氏にとって都合のいい本だと知っているだろう。
それは正しい、ただ……、北条一族の重要人物の中で、
どうも一人、“妙に吾妻鏡が厳しい目を向ける人物”
……そういう人物がいるのをご存知だろうか。
北条義時、である (中略)
このように、義時は何かやるにしろ必ず実朝なり家族なりに諌められている。
はっきり言って書く必要はないのに、だ。
ただ、義時が諌められている事項を抜き出すとあることが分かる。
★★被官にえこ贔屓すること、大御家人に便宜をはかるため道理をねじ曲げること。
権威のために寺社に資材を大量に浪費すること……。★★
それらで義時と共通する存在、それは―
吾妻鏡は義時に、―鎌倉時代末期の北条氏を重ねているんだよ!
義時の状態は、権威も格もない新興氏族が陥りやすい状況であり、
彼自身の意識よりも、そうせざるをえない部分がある。
油断するとこうなる、そう言った見本のような部分があった。
後に陥る状況を、予言のようにはっきりと言う実朝は、義時の状況を見た上で論理的に出した結論なのだろう。 皇室が鬼門、泣き所なのも、北条氏=長州閥に共通してるね 北条義時と、(長州閥の)安倍晋三をかぶらせる演出、
なんとなく連想させる演出とかすると話題になるよ あ、そうか
当然、義時の死まで描くだろうから、承久の乱で、
後鳥羽上皇と現代の上皇陛下をかぶらせて、
北条義時=(長州閥の)安倍晋三の礼賛ドラマになるのかーw
その頃まで、安倍内閣が続いているとも思えんが┐(゚〜゚)┌ パヨクってホント気持ち悪いなあ
何でもかんでも安倍ちゃんに結びつける
そんなに安倍を愛してるのかw 安倍首相が北条義時に似ているわけがない。
安倍首相は、旧町村派の引き立てで第一次内閣をやらせてもらってダメなところをカバーしてもらってたのに、領袖である町村信孝会長が出馬した総裁選でまさかに裏切り出馬をして、大顰蹙を買った。
北条邦時を裏切った五大院宗繁なら安倍首相によく似ている。 >>577
最近の大河ドラマは政治色が強い、
ドップリ政治に浸かってるのに何言ってんだこいつ >>578
恩のある大御家人を次から次へと滅ぼして成り上がった北条氏にそっくりですやんw 関連本だが、人物叢書の「源頼朝」、「北条時政」早く刊行してほしい 泰時・重時・時頼が出てるけど北条政村は出せるのだろうか? >人物叢書 >>583
現在、刊行予定なのが時政、高時 政村は予定にはないね >>529
北条邦時は各種媒体によると「処刑」されたとのことだけど、
それは斬首なのかなあ
だとすると10歳前後の子供を斬首、いったいどうやってやったんだろうか
そして北条邦時少年の気持ちはどんなもんだったとうねぇ 北条氏と鎌倉幕府
執権北条氏は、なぜ自ら将軍とならなかったのか。その謎を解き明かした興味深い本です。
鎌倉時代の武士の荒々しい実像を初めて知った思いがしました。鎌倉時代の武士たちは、自分たちを「勇士」と称していたが、要するに野蛮人だった。
京都の王朝貴族は東国武士を蔑んで「東夷」(あずまえびす。東に住む野蛮人)と呼んだが、そのとおりだった
紛争解決方法として相手を殺すことを即座に選ぶ武士たちが作った鎌倉幕府は、まさに蛮族の政権であり、王朝のような知識の蓄積はほとんどなかった。
鎌倉武士たちは支配機構を手探りで作っていった。鎌倉幕府の歴史は、東夷たちの悪戦苦闘の歴史であり、すなわちムダな流血の連続だった 池畑慎之助の大河の役は男装武者みたいでめちゃかっちょえ >>548
>自分たちで、自ら絶滅を選んだ・・・・・
1333年5月に叛逆者足利高氏勢に敗れ東国へ没落行途中の
六波羅探題北条仲時一行が中山道近江番場宿手前の蓮華寺で
集団自決に及んだのは何故だったのか?
自決者432名にものぼる勢力だと道中で敵対する勢力に
遭遇しても敗残事態はなかっただろうに。 >>585
邦時を生かしておいたら弟の時行のように挙兵していたことは間違いない
幼い子供といえども殺さなければやがては自分たちが滅ぼされる危惧が伴う
新田義貞が本当に殺してやりたいと思ったのは褒賞目当てに邦時を売った五大院宗繁だと思う
10歳の浅井万福丸の尻を槍で串刺しにした野蛮猿の秀吉よりは斬首の方が人道的といえる >>585
紐を付けた籠の中に入れて海に沈めたかもよ
誰の子供を処刑したときのやり方だったかな?ハテ >>500
大和説側が九州説を批判するときに、
列島規模の大和中央集権国家は魏志倭人伝の記述と合うとか、
3世紀に九州中央集権国家ができていたなんてあり得ないと言うが、
九州説側は中央集権国家ができていたなどと主張してない
大和日本國は倭國の別種の旧小国であった、と言っているだけ
大和説者らは、藁人形論法で批判してるだけ >>548
鎌倉合戦で自決せず、将軍の守邦親王をお連れして所領へ下って転戦する道もあったよね
鎌倉が天然の要害であるが故に、立てこもって運命をともにする道を選んでしまったのか
先祖の北条時政は石橋山合戦後も頼朝といっしょに落ち延びて再起しているんだから
その先例に習って欲しかった 北九州市近郊の田舎の出身なのだが、家紋が三つ鱗
家の言い伝えでは、規矩高政か糸田貞義の子孫だといっているが実際どうなんだろうか? >>564
幕末期に青松葉事件で一族の何人かは処刑されたけどな、親戚筋の熊本藩家老の人も暗殺されてるし呪われてるわ。 >>600
横井小楠は殺されてなけりゃ明治政府から勲功受けてたと思う 鎌倉北条末裔の一族の名字で某地域で調べたら今でも時の通字使ってて感動した。旧華族でも通字をやめちゃってる所が多いもんな。 明日発売の少年ジャンプで『暗殺教室』の松井優征
先生の新連載『逃げ上手の若君』が来週開始!
なんと主人公は北条時行!!
主人公の逃亡譚になるとの話だが、俺のイメージ
では北条時行は生涯足利家への復讐の為戦い続けた
というイメージだが。いずれにしろこれは楽しみ!! 母校の先輩に横井北条氏の末裔が居てびっくりした。愛知では今でもかなりの名門ぽい。 「逃げ上手の若君」。
まあ、予想通りだが、足利高氏の悪役ぶりが(笑)。
少年マンガらしくかなり歴史背景ははしょってる。
評価としたら及第点といったところか。
あとは後醍醐天皇をどう描くかが楽しみ。 >>604
社会学者 横井時冬
東山動植物初代園長 横井時綱
維新以降も中々の大物を輩出 維新後の尾張徳川家の家政機関で、御相談人(発足時6人)にも横井時犠の名が見えますね
旧重臣で名が見えるのは成瀬氏(子爵)と横井氏だけですね 維新後旧重臣が一般人化していく中で近代で名前を見かける辺り今でも名古屋の名門一族なんだな >>540
初期の北条一族は得宗家と名越家の血統的な優劣は判然としてなかったんだよな
得宗家の主導性が強まるのは年長の泰時の実績が大きかったのと執権を長期に務めたのが大きかった印象 >>605
やはり得宗という言葉は出なかったな
高校クラスの教科書でもまだ使ってないかな >>610
巻末の解説でようやく登場
中公新書の中先代の乱でも紹介 >>594
御内人が得宗の外戚になる可能性もあったんだよな >>575
三つの内乱と徳政令をベースにした貞時時代の作品を見たい 『逆賊、ドゴール将軍、神風、持明院統』
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▼平治の乱の後、死一等を減ぜられ、平清盛の嫡男、平重盛の家人である藤原南家の伊東祐親(工藤祐親)の監視下に 少数の従者を伴って13歳で流された清和源氏の嫡流、頼朝。
▼名誉を重んじ 一族が睦み合う関東の自然恩沢の守護人(名門)たる小山氏や千葉氏、三浦氏などと全く異なり、辺境の伊豆では 本拠地の伊東を中心とする久須美庄の開発領主となった工藤祐隆の一族のように肉親同士が血で血を洗う骨肉の相続争いを繰り返していた。
▼工藤祐隆の本拠地 伊東が 後妻の連れ子である工藤祐継から その息子の工藤祐経へと相続され、嫡流を自負する己には辺境の河津しか宛がわれなかったことに反発した前妻の孫、河津(工藤)祐親が伊東を掠め取って伊東祐親を名乗り、すると今度は工藤祐経が逆襲して 伊東祐親の嫡子、河津(工藤)助通を奥野の巻き狩りの帰路、射殺した。
▼そして相模の小領主である曽我祐信と再婚した河津(工藤)助通の未亡人の連れ子が『曽我物語』に登場する曽我十郎祐成(幼名 一万)と曽我五郎時宗(幼名 筥王)である。
▼辺境 伊豆の豪族達は、名誉を重んじて同じ血筋で結束するよりも おのおのが暴力、詐欺、脅迫で生き残る道を切り開くのが流儀だった。
▼流人である源頼朝の監視役だった伊東祐親の目を盗んで、頼朝が祐親の娘、八重姫と密通し千鶴御前をもうけたのを知ると、伊東祐親は容赦なく千鶴御前を松川に沈めて殺害したので、頼朝は北条時政に庇護を求め 時政の娘、政子と結婚した。
▼この時 北条時政は伊東祐親の娘を正室に迎えており 既に義時や政子などをもうけていたが、矢張り同じ血筋で結束するよりも 伊豆の豪族達の流儀に従い、勝ち馬に乗るべく我を通す道を選んでいる。 (続き)
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▼伊豆の豪族達は、 名誉と血統を重んじ 宗家に対し庶家として忠義を尽くす関東の自然恩沢の守護人達と全く異質であり、おのおのが暴力、詐欺、脅迫で我を通す破落戸ヤクザの流儀の信奉者だったので、同族への裏切りも日常茶飯事だったのだ。
▼源頼朝が平家打倒の兵を挙げると、平家方の伊東祐親の娘を正室に迎え 自らも平氏の末裔である北条時政は 躊躇することなく頼朝に従軍し 伊東祐親や平家軍と戦火を交えた。
▼治承・寿永の乱を制し 源頼朝が将軍に就任すると、平家方だった伊東祐親は恩赦を辞退して自刃した。
▼仮に恩赦を受けていたとしても、 久須美庄を奪い取りたい北条時政によって義父の伊東祐親は容赦なく暗殺されただろう。
▼『曽我物語』によれば 治承・寿永の乱を制し 将軍に就任した源頼朝の催した富士野(駿河国)の巻き狩りに潜入して頼朝の側近となっていた工藤祐経を暗殺した伊東祐親の孫が曽我十郎祐成と曽我五郎時宗だった。
▼しかし 仇討ちを成し遂げたところで何も得るものも無いのに 伊豆の豪族である曽我十郎祐成と曽我五郎時宗は本当に父の仇として工藤祐経を、祖父の仇として源頼朝を討とうとしたのだろうか?
. (続き)
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▼暴力、詐欺、脅迫で我を通し 肉親を裏切る骨肉の争いも厭わない破落戸ヤクザの流儀で生きる伊豆の豪族の端くれが、何の得も無いのに父や祖父の仇討ちをしたとは考えられない。
▼平家方に付いた伊東祐親や孫の曽我兄弟が 源氏方に付いた工藤祐経を殺害したところで、頼朝が敵方に恩賞を与える道理は無い。
▼矢張り曽我十郎祐成と曽我五郎時宗(時の字は北条時政から与えられた)の伯父で 五郎時宗の烏帽子親である北条時政が、発足したばかりの鎌倉幕府で冷遇されたことに憤慨し、暴力、詐欺、脅迫で我を通す意を体して (時政が警備を担当する駿河国富士野の巻き狩りで頼朝の側近を暗殺するよう)曽我兄弟を唆したと解する方が説得力が有る。
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▼すっかり北条時政の仕打ちに恐懼した源頼朝は、頼朝の側近である工藤祐経を殺害し、あまつさえ頼朝の本陣に討ち入って来た曽我五郎時宗を赦免しようとした。
▼また御家人の筆頭であり将軍を補佐する執権職を新設して 北条時政を任命したのである。
▼同じ平家の血筋で結束するよりも 北条氏は頼朝の平家打倒の挙兵に加勢し 躊躇なく同族の平家や伊東祐親軍を蹴散らしたが、それもこれも暴力、詐欺、脅迫で我を通す伊豆の破落戸ヤクザの流儀に則り、勝ち馬(官軍)に乗っかったまでのことだった。
▼辺境の地である伊豆の豪族達にとって 我を通すために同族を裏切り、暴力、詐欺、脅迫で仕打ちを加えることは別にルール違反ではなかったのである。
. (続き)
▼梶原景時の変(西暦1199年)、頼家暗殺(西暦1203年)、比企能員の変(西暦1204年)、畠山重忠の乱(西暦1205年)、和田合戦(西暦1213年、和田義盛)、牧氏事件(西暦1215年、北条時政)、実朝暗殺(西暦1219年)、承久の乱(西暦1221年)、宝治合戦(西暦1247年、三浦泰村)、千葉宗家 乗っ取り(西暦1281年、千葉胤宗)、霜月騒動(西暦1285年、安達泰盛)、後醍醐暗殺未遂事件(西暦1334年、西園寺公宗、北条泰家)と中先代の乱(西暦1335年、北条時行)、大覚寺統への帰順と持明院統への反逆(北条時行)…
▼名誉と血統を重んじ 宗家に対し庶家として当然の忠義を尽くす関東の自然恩沢の守護人達と全く異質であった伊豆の豪族 北条氏は、御家人の筆頭であり将軍を補佐する執権職を世襲すると、暴力、詐欺、脅迫で我を通す破落戸ヤクザの流儀に則り、意の侭にならない身内の源家将軍である頼家や実朝を躊躇なく裏切って暗殺したばかりか、容赦なく後鳥羽上皇に弓を引いて隠岐への流罪を言い渡した。
▼鎌倉幕府滅亡後も、生き残った北条泰家が西園寺公宗と共謀して後醍醐暗殺未遂事件を起こしたかと思えば、今度は逆に北条時行が臆面も無く後醍醐天皇に帰参して持明院統の朝廷に対して躊躇なく弓を引いた。
▼相手が誰であろうと帰順したかと思えば躊躇なく裏切り、暴力、詐欺、脅迫という弱肉強食原理で同族だろうが何だろうが容赦なく相手を打倒することは、辺境の地である伊豆の豪族達にとって当たり前のサバイバル術だったのだ。
▼更に、破落戸ヤクザの流儀で関東における領土拡大を狙う北条氏は、比企氏に続き 武勇と人望の誉れ高い秩父平氏の畠山重忠を騙し討ちにして武蔵国を手中に収め、次いで和田合戦や宝治合戦、霜月騒動で和田氏や三浦氏、安達氏を滅ぼして名実共に相模国を支配下に置いた。 (続き)
▼千葉氏は小山氏や三浦氏などと並び、名誉と血統を重んじ 宗家に対し庶家として当然の忠義を尽くす関東の自然恩沢の守護人であった。
▼辺境の伊豆から進出して来て 暴力、詐欺、脅迫で我を通す破落戸ヤクザの流儀を振り翳し関東に勢力を伸ばす北条氏は、南関東攻略の総仕上げとして 元寇に際し領国を留守にした千葉宗家の当主、宗胤の隙を突いて 北条一門の金沢顕時の娘を娶っていた弟の千葉胤宗に躊躇なく兄を裏切らせて家督を掠め取らせ、あまつさえ千葉宗家が信仰していた日蓮宗を排撃して北条一門が尊崇する真言律宗への宗旨替えを断行したのである。
▼南関東を攻略し完全な支配下に置いた北条一族が、同族だろうが輝かしい歴史を誇る名門(自然恩沢の守護人)だろうが 暴力、詐欺、脅迫で我を通す破落戸ヤクザの流儀に則って 次に北関東の足利、新田、小山、結城などを潰しに掛かるのは時間の問題だった。
▼特に足利、小山などは北条得宗家の女子を正室に迎え 親密な関係を代々 築いて来たが、そのような努力も ひとたび北条一門に狙いを付けられれば何の抑止力にもならないことは明白だった。
▼江戸時代に『大日本史』を編纂した水戸光圀は、後鳥羽上皇に弓を引いた北条義時を“逆臣”と手厳しく批判したが、南北朝期に『神皇正統記』を著した北畠親房は、“北条義時は人望に背かなかった。陪臣である義時が天下を取ったからという理由だけでこれを討伐するのは、後鳥羽に落ち度がある。謀反を起こした朝敵が利を得たのとは比べられない。従って、幕府を倒すには機が熟しておらず、天が許さなかったことは疑いない”(wikipedia)という官軍批判を展開した。
▼果たして北畠親房の官軍批判は当を得ていたのだろうか。
▼暴力、詐欺、脅迫で我を通す破落戸ヤクザの流儀は 今日まで辺境である伊豆に深く根を張っているようだ。
▼伊豆に起源を持つ朝鮮ゴロツキ・ヤクザの稲川会も、正に北条一族の足跡をなぞるように神奈川県に進出し神奈川県議会を手中に収め、横須賀の小泉一家を担いで国政に多大な悪影響を及ぼした。
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▼『裏切り』が全て悪い訳ではない。寧ろ裏切る方が正義である場合も多い。
▼悪逆非道な狂人ヒットラーと誼を通じた暗愚な上役のペタン元帥を裏切って亡命政権「自由フランス」を樹立したドゴール将軍は誰が見ても正しい行動を取ったと言える。
▼ところで 戦前まで横行した南朝正統論とは端的に言えば、「持明院統の天皇方は 平将門と同じように『天皇』を詐称した言わば大覚寺統の朝廷に対する逆賊であり偽主であったが、明徳の和約により それまで『天皇』を詐称していた偽主であった後小松天皇に神器が移ったため、後小松天皇以降、(平将門と同じように『天皇』を詐称した)逆賊や偽主の地位から正統性を有する天皇に変わった」というものだ。
▼しかしながら 易姓革命論に従えば、平将門と同じように『天皇』を詐称した逆賊であり偽主であった徳の無い人物に 後から正統性を有する天皇の地位が移ることは有り得ないであろう。
▼戦前まで横行した南朝正統論は持明院統の天皇方に対して甚だ無礼であったと言わざるを得ない。 ▼南朝正統論を肯定する一方、悪逆非道な狂人ヒットラーと誼を通じて「持たざる国」(無産階級国家)を自称し 国家社会主義三国軍事同盟を結んで、米・仏を盟主とするブルジョア憲法を共有する運命共同体に対して無謀な階級闘争を仕掛けようとした藤原摂関家の総理大臣 近衛文麿。
▼出鱈目な判断を下す藤原摂関家の近衛文麿を裏切ることもせず、ひたすら出鱈目な判断に盲従し 連合艦隊司令長官の地位に恋々として真珠湾奇襲攻撃を立案し 日本海軍を指揮した山本五十六は著しく正義に反する行動を取ったと断じざるを得ない。
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>1338年9月、大覚寺統の朝廷では劣勢を挽回するために東国の軍勢を糾合して京都へ攻め上るという案が用いられ、北条時行も義良親王・宗良親王や北畠親房・結城宗広・伊達行朝・新田義興らと共に伊勢国大湊から出帆したが、遠州灘を過ぎた辺りで暴風雨に遭遇して四散した。北条時行の漂着した場所は不明であるが潜伏して探索を逃れていたらしい。
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▼神国史観に照らせば、日本史の重要な時期に神風が二度 吹いている。
▼一度目は言わずと知れた元寇の時であり、二度目は持明院統の朝廷に味方した西暦1338年の遠州灘の神風である。 平家の場合は早い時期から劣勢が明らかだったからいったん都を明け渡して西国の拠点で抗戦する道が選べた。
だが、北条氏は新田義貞挙兵から鎌倉合戦までの時間が非常に短く、いったん鎌倉を放棄して抗戦するという
選択肢が作れなかったのでは?
鎌倉が天然の要害であるため、鎌倉に立てこもって戦うというのがベストと考えるのが合理的だった
のかも知れない。だが、鎌倉防衛に失敗したとき、次の手段がなくなった。 >>624
あ〜あの時の僧が執権時頼殿でしたか‼
盆栽三鉢と栗ごはんの飲食代を含めて宿泊料金として200万円お支払いください 2022年1月3日(月)15時25分頃 茨城南部で反米・極右が震度1の人工地震(深さ50km)。 核戦力を保有するロシアと手を結んで在日米軍を追い出そうと企んだ浅知恵の反米・極右。 天照皇大神を軽んじる伊勢神道を妄信したため衰勢を辿った大覚寺統を買い被り 天照信仰を貫いた正統派の持明院統(北朝5代)を皇統譜の歴代から未だに排除し続ける逆賊ども。 >>602
北条時敬って教育者もいるね
系統はよくわからんけど横井の系統が濃厚かもね
幕末に近くなったあたりで北条を名乗り始めたとか 戦国時代の宇都宮家の家臣に北条勝時ってのがいるけど新規のどの系統なんだ?
横井系ではなさそうだけど 一部地方の伝説を採用して八重姫が義時の嫁になっちゃった
アニメ平家物語でも資盛が奄美で生き延びた説を採用したり
大正13年(1924)の小谷部全一郎著成吉思汗ハ源義経也とか
こういうのが歴史を面白くしてる 足利義氏室(北条泰時娘)と足利泰氏室(北条時氏娘)は誤記の可能性がありそう。
生年を考えると義氏に嫁いだのが北条義時娘、泰氏に嫁いだのが北条泰時娘かな? 兄の安徳天皇は身投げしたのに
弟の後鳥羽上皇は敗戦後に生き恥さらして惨めに島流しになったのはなんで? 江戸時代中津藩の奥平家に仕えてた横井家も北条系横井氏の系統なんかね。
こっちの名前は追える分だと忠○○で、北条系の時○○じゃないから別系統かもだが、 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています