【鎌倉北条氏】〜門流・子孫・被官〜その3 [転載禁止]©2ch.net
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鎌倉執権北条氏専用スレッドです。
多くの門流が派生し、同族間の争いも絶えなかった北条氏。
北条氏の出自、幕府内での各門流の動向、幕府滅亡後のその各門流の子孫の動向、御内人・被官について語るスレッドです。
また北条氏とその他有力御家人との関係についてもご自由にどうぞ。
※前スレ
【鎌倉北条氏】〜門流・子孫・被官〜その2
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1402780639/ 広義では北条執権も中央集権ではないだろ
室町時代の動乱と中央集権云々はあまり関係無いし 前スレから添付
貞盛-維将-維時-直方-聖範-時直-時家-時方-時政(尊卑分脈)
貞盛-維将-維時-維方-直方-時方-時家-時政(前田本)
貞盛-維将-維時-維方-直方-時方-玄承-時忠-時家-時政(前田本イ)
貞盛-維時-直方-維方-時方-時家-時政(群書類従)
貞盛-維将-維時-直方-雲範-時直-時家-時方-時政(野津本)
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-聖範-時家-時兼-時政(野辺本)
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-時範-時直-時家-時兼-時政(野辺本イ)
貞盛-維将-維時-直方-維方-聖範-時家-時兼-時政(中条本)
貞盛-維時-直方-維方-俊則-時家-時方-時政(山門本)
貞盛-維時-直方-維方-時方-時家-時兼-時政(入来院)
貞盛-維時-直方-維方-時方-時家-時政(入来院イ)
貞盛-維将-維時-直方-維方-時方-時政(桓武平氏)
貞盛-維将-維時-直方-維方-時方-時家-時政(系図纂要)
貞盛-維将-維時-直方-雲範-時直-時家-時方-時政(古系図)
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-時家-時方-時政(正宗寺本)
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-時家-時兼-時政(内閣文庫)
貞盛-維将-維時-中方-聖範-時方-時兼-時家-時政(内閣文庫イ)
貞盛-維衡-政度-維時-直方-維方-時方-時家-時政(熊谷氏系図)
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-時家-時兼-時政(妙本寺本)
貞盛-維将-維時-直方-維方-時方-時兼-時家-時政(指宿氏系図)
貞盛-維時-直方-維方-時方-時家-時政(延慶本平家物語)
貞盛-維衡-維度-維盛-盛基-貞時-時家-時方-時政(源平闘諍録)
貞盛-維将-維時-直方-維方-時方-時家-時政(千葉大系図) .
【アホー!】 「撤廃を」 5都府県市が共同提言 [11/11] 【ゲール人!】
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1415712703/
48 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/11/11(火) 23:14:03.75 ID:Tyy729OU0
こういう話になるとすぐアメリカを理想国家のように出すが、
一極集中がないだけで、日本と比べ物にならん地域格差がある
73 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/11/11(火) 23:50:03.90 ID:hUdX21pX0
>>1
>東京都と神奈川県、愛知県、大阪府、名古屋市
ここら辺の自治体首長は、安倍総理が直接任免されれば良いのでは?
横浜市、横須賀市、川崎市、鎌倉市を含めてね!!!
政令指定都市の首長は、全部、安倍総理が直接任免されても良いと思うわ。
公共事業は、これ以上必要ないけど、
特亜が攻めて来てるから、中央集権は、必要だよね!!!
78 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/11/11(火) 23:57:29.47 ID:pOlRZHq90
これが、地方分権の正体ですね。 道州制で国家解体。
80 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/11/12(水) 00:00:39.39 ID:btg1BA0M0
.
「自治基本条例」「国家の主権に外国人が関与」 保守系がブレーキ
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1415621600/ .
鎌倉北条氏って時政以前の系図なんかは良く判らないらしいが、
案外伝承どおり、平直方流じゃないのかな?と思える。
平直方-平維方-平盛方の直方流三代は、貞盛流の嫡流であり、
従五位下の京の軍事貴族として公卿の警護みたいな仕事をしていた。
平盛方が活躍する時代は、同族伊勢平氏(貞盛流)の平忠盛(清盛の父)が台頭
し活躍し始める時期でもある。当然、平盛方と平忠盛はライバル関係に有り
新興勢力の忠盛は、平貞盛流の嫡流の座を狙い始めていた。
平盛方の子供と言われる熊谷氏の伝承によると朝廷で平忠盛襲撃事件があり、
その一味に同族である平盛方が加わっており、その罪により処刑されてしまう。
事実、平忠盛は当時は異例の高待遇である内昇殿を許可された。
『平家物語』では武士である忠盛が殿上人となったことを憎んだ公卿たち
による闇討ちが企てられるが、忠盛は銀箔の木刀によって公卿たちを脅す
機転によって彼らの襲撃を防ぎ、鳥羽上皇から賞された事(殿上闇討事件)があった。
それ以外でも武士でありながら出世を重ねる忠盛に反感を抱く公家による襲撃事件が多数あった。
この平盛方処刑により盛方流は没落、これで貞盛流嫡流だった直方流の都での評価は地に
落ちたと思う。盛方流は、都に居られなくなり、盛方の弟である阿多美聖範の家筋に平直
方流の当主の座は移ってしまう。そしてこれが伊豆北条氏の直接の家祖として考えても良
いのではないだろうか。 (>>7の続き)
処刑された盛方の弟の阿多美聖範は伊豆阿多美郷に土着し開発領主としてこの地域を開発した。
阿多美四郎を名乗り伊豆北条氏の通字である四郎が始めて登場する。
罪人となった平盛方の実子の直光は聖範が引き取り、阿多美郷の領主を引継ぐ。
また、その弟の直貞は、まだ赤子で乳母に
抱かれて武蔵国大里郡熊谷郷に落ち延び熊谷氏の祖になる。
聖範の実子である平時方は、当初は阿多美郷和田里に居住して和田太夫四郎と
名乗っていたが、処刑された盛方にかわって直方流を継いで都に上がり宮仕えを始める。
平時方は、処刑された盛方とは違い、順調に出世し上総介や肥後守を勤めた。そして晴れて
伊豆守に任命され伊豆の国司となる。この時期の国司は国元には赴任せず代理人を派遣して
国司業務を代行させたが、平時方は父の聖範や盛方の子らが居る伊豆に赴任して在国の国司
として三島の国府庁舎で国司の業務をこなした可能性が高い。またその方が地元の事情が判り
国元での影響力を行使し易く、国司業務がはかどる、という事もあったであろう。 (>>8の続き)
国司任期終了後の平時方は、都に帰らず三島国府庁舎の直ぐ近くにある北条郷に土着し
氾藍原の開発領主となってしまう。北条郷は、湯走権現の所領でもあった。平時方は、
父である聖範(湯走権現禅師)のコネを使い、湯走権現から北条郷を譲り受けた。
そして俗姓も北条とした。
これ以降、都での平直方流軍事貴族としてのキャリアを捨て東国武士として
伊豆北条氏の歩みを始める。また、この決定は、平忠盛の意向を呑んだ可能性もある
もっとも自分の故郷の近くであり、任国として実際に数年間統治し、父や盛方の実子が居る伊豆で
のんびりやっていた方が、都での軍事貴族として出世競争にあせくせするよりマシだ。 と言う判断が、
時方には、あったのかも知れない。
また平直方-平維方-平盛方の直方流三代は、貞盛流の嫡流の地位を継承してきたが、
盛方の忠盛襲撃事件の関与により直方流の没落が決定的となり、忠盛-清盛流が貞盛流の
嫡流の座を引継ぐ事になった。その為に盛方処刑後に直方流を継いだ時方は、貞盛流の
嫡流の座を忠盛に明け渡し京武者(都の軍事貴族)の立場を捨てて伊豆北条郷に土着し
東国武士(関東武士)としての歩を始めたのだろう。
ただし、京都大番や公家の従者を勤め続けているので、
伊豆北条氏から、完全に京武者の性格が無くなった訳ではない。 7
さあな?
はっきりしてるのは伊豆に住んでた荘司かなんかだっけ? 頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう
政子の葬儀奉行は足利義氏だった
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
・公暁
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源頼家→公暁(母親は足助重長(三河国加茂郡足助)の娘)
・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河国司)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護) >>7>>8>>9
は、「系図に書いてあることを信じれば」の話でしょ。
系図はみんな源平藤原に繋げるのが普通だから、その構図に乗ればみんな「もとは京武者」ということになる。
それは史実の証明にはなっていない。
伊豆の田代氏は「後三条源氏」だが、それを信じる学者はほとんどいない。
「桓武平氏」を名乗ると何やらもっともらしいけど。それが史実だという保証はない。 >>7
> 平盛方が活躍する時代は、同族伊勢平氏(貞盛流)の平忠盛(清盛の父)が台頭
> し活躍し始める時期でもある。
>当然、平盛方と平忠盛はライバル関係に有り
>>5の系図を見ると盛方は時政の6代前になるよね。
忠盛は時政と同年生まれ(1138年)の平重盛の祖父になる。つまり2代前。
世代が4代違う盛方と忠盛が同年代に活躍したとは考えにくい。
> 新興勢力の忠盛は、平貞盛流の嫡流の座を狙い始めていた。
当時の嫡流意識は同族より先に上位の官位や権益をもてばそれが嫡流になるというものだから
セコイ手を使って相手を潰して嫡流になるという見方は成り立たない。
血筋ではなく、人脈経済力政治遊泳術を使ってのしあがったものが後世から嫡流と見なされるようになるだけ。
> 平盛方の子供と言われる熊谷氏の伝承によると朝廷で平忠盛襲撃事件があり、
> その一味に同族である平盛方が加わっており、その罪により処刑されてしまう。
もしそのような事件が本当にあったとしても上記の通り北条氏につながる>>5の系図では盛方と忠盛は代数が会合わないのだからその「平盛方」さんは北条や熊谷に繋がらない同名の別人の平盛方さんでしょう。 平盛方が貞盛流嫡流で熊谷直実の祖父にあたり、平忠盛襲撃で処刑された人物なら、
平家物語で平敦盛の最期は直実の敵討ちの美談となり、平家物語に書かれた
「物の数では有りませぬが、拙者は、武蔵の国の住人・熊谷次郎直実と申します」
「そうか、ならば、そなたには名を名乗るまい。但し、そなたにとっては良き敵ぞ。名を名乗らずとも、この首取って人に問え、知らぬ者は有るまい」
という話にはならん。 もう一度系図見直してみたけど
野辺本は5代前だったね。
内閣文庫と正宗寺本、妙本寺本は3代前でギリギリ忠盛に引っ掛かる。
ただ、直方からみると少し(修正可能だけど)ズレがある。 で、盛方が時政の3代前になる系図を検証してみた。
生没年が割とわかっている河内源氏の代をからめてみると
内閣文庫に合わせてみると直方-維方-盛方-時家-時兼-時政
直方=頼義(義家との年齢差51歳を考えるとこうみるのが妥当)
惟方=頼義妻
盛方=義家
時家=義親=平正盛
時兼=為義=平忠盛 (忠盛と為義は同年生まれ)
時政=義朝=平清盛 (時政は清盛の子重盛と同年生まれ)
代を重ねると親子の年齢差の関係で一代くらいずれるかもしれないから
時政=重盛になる可能性は十分にある。
ただ、直方世代=頼義差代ベースから見た場合でも盛方=忠盛になるには少し無理がありそうだ。 野辺本ベースで検証すると
直方-維方-盛方-聖範-時家-時兼-時政
直方=頼義
維方=頼義妻
盛方=義家
聖範=義親=平正盛
時家=為義=平忠盛
時兼=義朝=平清盛
時政=義平=平重盛(時政重盛に一番年の近い義平を持ってきた)
ですっきりする
(ただし、長子がつづくか末子がつづくかによって世代のズレが生じるのでこれをきれいにあてはめるわけにはいかない)
いずれにしても野辺本の場合も上の代からみても盛方と忠盛が同世代になるという見方は苦しい。 一つ気になるのが>>7->>9の伝承の中に「熊谷」がさり気に入り込んでいるんだが
その「熊谷系図」に「盛方」の名前が出てこないのが気になる。
この>>7->>9の伝承の元ネタを教えていただきたい。 まあ、なんにせよ北条や熊谷が平氏なんてのを真に受けてるのはアホ。
田舎豪族の僭称にすぎない。 別れ路を 何かなげかん 越えて行く 関もむかしの あとと思へば
(出陣に際して別れることをどうして嘆くことがありましょう、昔私の先祖も関を越えて(東国へ向かって)勝利してきたことを思えば)
これは平忠度が富士川の戦いの追討軍となった時に、平将門を追討した祖先の貞盛になぞらえて詠んだ詩だ。
平家にとっても貞盛は偉大な祖先であった。
北条氏は関東を地盤に権力を握ったが、貞盛の旧領の常陸に祖先を祀る寺社を建立したとか、そんな話あるのかい? 源義家って、頼義の長男なんだけど、
頼義が50代の時の子供なんだよw
しかも、義家の嫡男の義忠が、これまた、義家が40代の時の子供。 んでもって義朝が為義の長男なんだか、為義28歳の時の子。
その後の為義の驚異的な子供生産数を考えると28歳は遅く感じる。(鳥居禅尼は義朝の姉のようだが) それまで娘一人しかもうけなかったのに
40代半ばからいきなり男子もうけまくった藤原忠通の例があるから
子供のできかたはワケわからん。 家康なんか長子と末子の年齢差すごすぎる
長男:信康1559年生まれ
末子:市姫1607年生まれ
信康の曾孫:三保姫1603年生まれ
年下の叔父叔母は結構あるが、家康には玄孫より年下の娘がいる >>27
戦国三傑の中では50代で20代の淀殿に手を出した秀吉が一番好色じみて描かれるけど
70近くで10代の少女を側室にしていた家康が一番好色だからな
(家康はさすがに満60歳で儲けた市姫が最後の子だったが) 大内に匿われた名越の子孫名乗ってたんだっけ
でも大内って討幕派では 名越家の菩提寺って九州?
北条家の供養のため
足利尊氏と後醍醐天皇が建てた
鎌倉の宝戒寺が健さんの墓があるらしいが 梶原景時事件と比企の乱は主体が結城朝光から北条時政に変わっただけで
同様な構造なんだな
時政が主体である事には変わらないが背後で時政を動かしていたのは
義時と政子のような気がする 動いてたことが明らかな人物
景時事件:阿波局、三浦義村
比企の乱:政子、義時、三浦義村
ここいらは同じグループだからね。
ボス:政子
参謀:義時
広報宣伝:阿波局
行動隊長:義村
ちなみに時政追放もこのグループが行ってることは明らかだし。 阿野時元の誅殺は「禅定二品(政子)の仰せに依って、右京兆(義時)が
金窪兵衛尉行親以下の御家人等を駿河に差し遣わした」と『吾妻鏡』にあるけど
阿波局(時元実母)の心情はどうだったんだろう?まあ、姉の意向には
逆らえないだろうけど。 政子からしたら時元が将軍になんてなったら阿波局に立場を取って代わられるからとても生かしておけなかったんだろうな。
我が子や孫を誅殺するくらいだから妹の子を殺すくらい屁でもないってとこだろう。
この辺が政子の恐ろしさだ。 >>36
三浦義村は謎だらけだな。
反北条派から何度も頼りにされ、裏切り続けている。
しかも義村にとって身内といえる人間ばかりだ。 阿波局、義時と義村は従兄弟なんだよな。
政子を含めて子供の頃からの古いつき合いなんだろうな。
ただ、当時の坂東の豪族は通婚で親戚だらけだから、この程度の関係は他にいくらでもある。
だから特に注目されなかったのかもしれない。
そして義村は義時等との繋がりを周囲に悟らせない韜晦術を備えてたのだろうな。
それで反北条派が何度も引っかかったんだろう。 利害の不一致があったのにも関わらず
和田義盛は三浦義村を過信してしまったからね
三浦義村は常に戦の趨勢を占うキーマンであり続けた
義時との協調関係は利害の一致による表面的なものだったのか
それとも盟友としての絆があったのか >>41
従兄弟であった和田義盛。
妻が乳母を努め自身が後見人的の立場であった公暁
弟で後鳥羽上皇に「兄は日本総追捕使に任じられるなら必ず御味方しましょう」と語った胤義
これらの義村と近しい人間が義村に何の相談もなく行動を起こすのだろうか? >>42
和田義盛は三浦義村に相談を持ち掛けて一方的に期待をかけて
裏切られたんだろうな
公暁の場合は実朝暗殺後に三浦邸に駆け込んでいる事から義村を
頼ろうとしていた筈
只、公暁が義村と共謀していたとは考えにくい
公暁の暗殺計画自体はよく練られているけど、鎌倉殿の地位に就く為の
動きがあまりに杜撰だ >>43
和田の場合義村は起請文まで書いてるからな。
戻れないとこまで義盛を追い込んでから梯子外した。
あれは義村に義盛の一党を滅ぼす気満々とみるべき。
公暁に関してはおっしゃるとおりと思う。 公暁も和田もあんまりものを考えないタイプぽいし
三浦とつるんでたようにはみえんな
義時のがずっと三浦に気を使ってるように見える 和田は義村より年長だから、三浦一族の棟梁風吹かせてたんだろ。
義村はそれに従う風を装ってたんだろうな。
もちろんそれが面白くないから和田を高いとこに上らせて梯子を外したわけだ。
義村の内心と義時一味とのつながりを見抜けなかった和田が滅びたのは仕方がないことだ。 >>30
大内惣領家の大内弘幸は幕府側として長門探題と運命を共にした上、南北朝期は直冬派だった。 三浦氏は庶流が蘆名氏として戦国時代後期まで武威があった分で長持ちかもしれない
中先代の乱の後も
北条氏もどこかで武威を示してほしかった・・ 那古野氏は戦国時代にイケメンで有名でしたな・・・・・
そういえば高倉建さんも名越流北条氏らしいですな
やはりカッコイイですな 高倉健は松平健の子孫だからな
イケメンぶりは遺伝だな。 >>44
三浦義村は野心があれどもリスク回避を最優先するから
尚且つ北条家に恩を売れるからベストな選択だったんだろう
若輩の千葉胤綱に裏切り者呼ばわりされても何とも思わなかっただろう 安康天皇を殺した目弱王を匿い、滅ぼされるまで雄略天皇と戦った葛城円。
義村を頼り、義村邸に逃げ込もうとした公暁を刺し殺した義村。 坂東の平氏から見れば源氏は貴種でも愛着が薄かったのかもしれない
源平合戦は平家(麿)と平氏(武士)の争いのイメージ
初代将軍の頼朝は政治力で抑えてたが
やはり源氏将軍・摂家将軍・親王将軍と
ほとんど御輿化した 実朝亡き後の新将軍に他の源氏を据える考えが一切浮上しなかったのが意外
親王将軍は朝幕の協調の象徴として互いにメリットは大きい筈 親王将軍をもっと大事にしていれば
南北朝時代も独自の鎌倉朝廷に進化できたかも >>57
まず、前提として、頼家と比企の件は北条家に相当なトラウマだったんだろ。
実朝の子以外は全く選択肢の外だった。
実朝が殺されたら阿波局の子すら粛清されたくらいだからね。
そうなると、誰がどう考えても旗印は親王以外にないんだよな。
後鳥羽がくれんから九条なんていう中途半端な家から仕方なく連れて来たが。 頼家の娘はいい訳だが
あれは北条がバックだろ<竹御所
両親兄弟みんな殺されたのに北条に担がれてるとこが不思議だ いつか婿とその一族が担いで悪だくみしないよう最初から監視するためじゃないの? >>59
実朝が25歳ぐらいのかなり若い時期から北条政子らが朝廷に交渉してるからねえ
御家人を抑えるには源氏将軍でもダメで朝廷の権威が必要だったのでは?
実朝が10代の頃から正室・妾を持っても子供がいなかったからとはいえ
25歳ではその後に実朝に子供が産まれる可能性はゼロとは言い切れなかっただろう 実朝も仮に子供が作りにくいとはいえ早々にそんな案を出されてどういう心境だったんだろう 実朝自身の意向だったらしいぞ>宮将軍をお迎えする。 政子も実朝も公暁とかいるのに頼家の遺児は完全無視だからな
そりゃ腹立つよな 「私めが力を尽くして戦っても勝つことなどないでしょう。しかし私を頼って
家にお入りになった王子は、死んでもお見捨てすることはございません」
と言った。そしてまた武器を取り、家に帰って戦った。力尽き、矢も尽きると、
王子に「私はすっかり傷付き、また矢も尽きました。今はもう戦うことは
できません。いかがなさいましょう」と言った。
王子が答えて言うには、「それならば為す術もない。今は私を殺してくれ」と。
それでその王子を刀で刺し殺し、自分の首を切って死んだ。
公暁による実朝暗殺は親の仇討ちとして時の将軍を将軍継承権を持つ立場の者が
直接、手を下し、幕府のbQの実力者で乳母夫の三浦義村を頼ったという点で、
上の目弱王の変の話とそっくりである。
頼られたbQの態度は正反対であったが当時の坂東武者とはそういうものか。 >>33
前スレみても土豪説主張してる人って
「そんなわけない」「ありえない」しか言ってないけど ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています