【鎌倉北条氏】〜門流・子孫・被官〜その3 [転載禁止]©2ch.net
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鎌倉執権北条氏専用スレッドです。
多くの門流が派生し、同族間の争いも絶えなかった北条氏。
北条氏の出自、幕府内での各門流の動向、幕府滅亡後のその各門流の子孫の動向、御内人・被官について語るスレッドです。
また北条氏とその他有力御家人との関係についてもご自由にどうぞ。
※前スレ
【鎌倉北条氏】〜門流・子孫・被官〜その2
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1402780639/ >>147
熊谷系図の話が平家物語の殿上闇討と百練抄の平盛方流罪を
組み合わせて創作されたと考えるほうが自然だよな。 >>148
清盛の男系は根絶やしにされたのに、平家の侍大将で三日平家の乱まで起こした伊藤氏が存続した根拠は? ここに繋がる話になるかわからんが
関氏について少し。
頼朝挙兵の標的となった山木兼隆の父親の平信兼は
関信兼と呼ばれていたらしい。
ちなみに信兼は治承寿永の期間何度も伊勢の要衝の関を切り塞いでいたという記録がある。(玉葉) 関は姓じゃなくて苗字だから、平信兼やその他伊勢在住の平氏に繋がる保証はない。
そこに(関という地名のあるところ)すんでいれば、姓は何であっても関さんであるのは事実。
また、伊勢に住んでる藤原さんなら伊藤忠清の子孫でなくても伊藤さん。
ただ伊藤忠清の子孫が絶滅したとは限らないし、平信兼が子孫を残していないとは限らない。
つまりここに出てる関氏にの先祖には色々な可能性があるということ。 >>150
三日平氏の乱の大将は、平信兼や平家継で、伊藤氏はその忠実な家人として従ったにすぎない。
族滅の対象となるのは大将の平氏。
忠実な家人はむしろ武士の美徳。
やはり忠実な平家の家人の原田氏なども生き残っている。
寛政武家系図には伊勢伊藤氏の子孫というものが十数家ある。
伊藤氏はむしろ繁栄したというべき。 >>153
伊藤忠清の主は小松系平家(重盛とその子たち)
平家継は同輩、平信兼は平家とは関係ない独自の立場を持つ京武者だよ。
忠清は彼らにとっては同盟者。 ""満州事変""《知る覚悟が出来ている方のみ御読み下さい》
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殿上闇討に、平盛方が、加わっていたのは事実。
それにより、平盛方が、処刑されたのも事実。
伊豆北条氏が、京武者(中央軍事貴族)由来だと、お困りの連中は、シネ!!! >>156
> 伊豆北条氏が、京武者(中央軍事貴族)由来だと、お困りの連中は
別に京武者由来でも困らないけど、
> 殿上闇討に、平盛方が、加わっていたのは事実。
>
> それにより、平盛方が、処刑されたのも事実。
>
と「事実」を主張するなら事実を証明する史料を提示して下さいね。 巛ミヾヾ \
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ヒッシ・ダナー [Hissy Danner]
(1901〜1997 イギリス)
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ググレカス [ gugurecus ]
(西暦一世紀前半) >>156
だからそういう事実をしめす一次史料を出せよ
これは歴史学の常識だぞ。 .
伊豆北条氏
時方(伊豆守)−時家(伊豆介)−時政(無官:源平合戦前)
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時兼(伊豆介)−時定(?:山木攻めに参加) >>161
時方や時家が本当に伊豆守や伊豆介なら、当時の京都の除目の史料にのっているはず。
除目大成抄っていう官人の任命一覧も残っているんだから。 .
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ググレカス [ gugurecus ]
(西暦一世紀前半) 時政の父親は速く死んだので
叔父や従兄弟に北条家の嫡流の地位を奪われていた。 >>164
そもそも北条の嫡流があったとしたら、嫡流の本拠地はどこになるのかね。
時政屋形以外のそれっぽい屋形あととか残ってる?
そもそも北条の範囲は狭い。
血縁者とはいえ、住む場所がちょっとでもはなれてたら別の苗字になる。
(例、三浦と和田)
時政の叔父や従兄弟の苗字は実際の所何だったんだろうね。 実際の所当時の嫡流は
1 親の本拠地を相続する
2 他の親戚より栄える
のどちらかで決定する。
武家源氏なんかは2のパターンで頼朝が自分とこが嫡流という顔してるだけ。
時政も頼朝姻戚を最大に活かして繁栄して嫡流顔してただけで、実際には他の系統が元々栄えていたのかもしれない。 >>164-165
時定が、山木攻めや石橋山の戦いに参加しているので、伊豆北条氏には、
深刻な内紛は無かったと思うが、時兼が、伊豆の在庁官人(地方官)と
して国衙に勤務し、時政が、北条郷の農地経営を営んでいた可能性はある。
また北条氏は、規模が小さいながらも、水軍を持っていたので漁業や海運業も
営んでいた。国衙に近い北条郷に土着したのは、官物輸送を受託していた事と
関係があるかも。
また、時政は、伊豆の北条郷にずーっといた訳ではなくて、京都大番で三年ほど
洛中で勤務していたし、駿河大岡牧を領有する中堅の公家である牧氏(牧宗親)
の被官でもあった。伊豆北条氏は、時政で伊豆に土着して三代目だけど、この様に
それなりに中央権門とのコネは保っていた。
後に時政の後妻として牧の方が、伊豆北条氏に入ってくる。
伊豆の北条郷は、せいぜい数万坪程度の耕作地でしかなく、米の収穫量も
それほどではない。当時の農業土木技術では、耕作地としては拡大するのは、
これが限界だったのだろう。伊豆北条氏としての歳入(収入)は、米作よりも
むしろ海運業や漁業のウェイトの方が、かなり大きかったのでは?と類推される。
山木攻めの時に動員出来た伊豆北条氏の兵力は、30〜50騎とされ、
それも借武者と言って臨時にバイト的に雇用した人員を入れてこの数字である。
この事から、伊豆北条氏は、武士団としてはかなりの小規模だと思われる。
ちなみに時政の最初の妻の伊東氏は、300騎近くを動員できる規模の武士だ。
三浦氏などは3000騎。千葉氏や上総氏、下野の小山氏などは、万を超える
動員を行っている。 つかさ、北条氏って、時政以前の人で当時の日記や文書に名前が出てる人っているの?
なんか時政になって突然現れたとしか思えない。
むしろ楠木正成みたいな感じ。
そういえば楠木正成も先祖の系図はでたらめだけどね。 当時の伊豆介は工藤茂光だな。
伊豆大島に流された源為朝の監視も務め、
最終的に自害に追い込んでる。
にもかかわらず、頼朝挙兵に駆けつけるとかわけわからん。
血統的には藤原南家の出で系図もはっきりしており
伊東氏などとも同族。
北条もこの程度、素性がはっきりしてくれないものか。 >>169
>伊豆大島に流された源為朝の監視も務め、最終的に自害に追い込んでる。
その時の軍勢に時政の名前が出ている。
伊豆の水軍を動員したらしく、北条氏を含め
水軍を持つ伊豆の武士が動員されて大島に攻め込んでいる。 >>167
>後に時政の後妻として牧の方が、伊豆北条氏に入ってくる。
これは、源平合戦の前か後かで、論争になっているらしい。
どっちにせよ、牧の方を後妻としてもらった事は、時政の大失敗につながる。
牧宗親と牧の方は チーム後妻業 化するwww >>169
> 当時の伊豆介は工藤茂光だな。
>
> 伊豆大島に流された源為朝の監視も務め、
> 最終的に自害に追い込んでる。
> にもかかわらず、頼朝挙兵に駆けつけるとかわけわからん。
>
どうやら伊東との同族争いがあったらしい。
頼政が長年伊豆知行国主をしていた関係で、伊豆国在地実力者であった茂光は頼政にかなり接近し、
在地での威勢確保に頼政の権威を利用していた。
ところが、以仁王事件で頼政が滅亡して新しい知行国主が時忠になると
茂光の立場は悪くなり、かわって伊東が台頭。
目代も時忠の元部下山木兼隆に変更(時忠は検非違反別当、山木兼隆は元検非違使) こんな状況で茂光らもと頼政派は事態の逆転を狙っていた。
折しも、相模や房総でも平氏派閥と反平氏派閥の対立が情勢されており、(土肥三浦対大庭など)
また甲斐でも安田義定らが蜂起の動きをみせていた。
そんな時、伊豆で旗印になりそうな人物がたまたまいた。それが源頼朝。
おそらく伊東山木らにかなり追い込まれていた茂光らが、相模反平氏との連合を画して、頼朝を担いで挙兵したとみられる。
一方為朝については「保元物語」の記載を信じるならば
為朝のやったことは明らかに国衙に対する反乱行為だから国衙の関係者として追討するのは当然。
為朝の時の茂光は体制の守護者、頼朝の時は反乱者になっているが、それは茂光を巡る情勢の変化によるもの。
源平や源氏の血縁関係に拘るとおかしなものに見えるが、このフィルターを外すとおかしなものではなくなる。 >>168
楠木正成は出鱈目ではないだろう?
はっきりしているぞ。
北条氏もはっきりしている。
北条氏は武士というよりも、殆ど中級貴族。 何が中級貴族だこのバ〜カwww
お前らって貴族とかなんとかに変な憧れでもあるのか? あれって公家連中がどこらへんまでの効果範囲があるのか知らないが
勝手に認定しまくったもんだろ
その公家連中のまず出処ってのを説明しない? 貴族の範囲
公卿 従三位以上の位階または参議以上の官職(公卿補任に記載される)
通貴 従五位下以上の位階を持つ者(相応官職は国の守または親王任国の介、または中央官職の「すけ(輔、助、佐)」)
↑ここまでが「貴族」
六位の位階を持つもの
(相応官職は中央官の「じょう(丞、尉)」
↑このクラスは「侍(さむらい)」)
それ未満は地下(じげ) ちなみに頼朝の祖父為義は長年五位になれず「貴族」なれなかった。(晩年にゲット)
父義朝は30歳頃に下野守と五位の位階を得て貴族の仲間入り。
頼朝は13歳で五位をゲットして貴族の仲間入り。流刑間も一応「元貴族」扱い。
一方時政は
頼朝生存中は無位無官。
頼朝死後「従五位下遠江守」になってようやく「貴族」入り。
時政以前に時政と同等かそれ以上の官位の持ち主がいたって記録がある?
それがなければ時政の先祖が貴族だったとは言えないよ。 >>174
お前、楠木正成の系図が何種類あるのか知らないのかw
父親の名前さえ、てんでばらばら、系図によって、
先祖代々として出てくる名前が全く違うんだぞw
ほんとにお前は何にも知らないんだなw 北条家は受領階級だろう?
時政は無位無官だけど、叔父さんや従兄弟は違うしな。
時政は親父が早く死んだから、叔父さんに
北条家の本流の地位を奪われていたんだろうよ。 >>183
楠木正成は親父が熊野国造の和田家の出身で
越智氏系の橘氏の婿養子に入った氏族。 >>180
楠木正成は親父が熊野国造の和田家の出身で
越智氏系の橘氏の婿養子に入った氏族。 >>183
それも確実性が全くない話。
少なくとも尊卑分脈はそう書いていない。
楠木正成以前は、あまりに系図ごとに現れる人名がまちまちなので、
楠木氏が歴史に舞台に上がってから、その子孫と称する各家ごとに、
適当にでっち上げられたと考えるのが穏当。 むしろ一級資料などをみるとたとえば二条道平の日記に、楠と戦う幕府軍を
「くすの木の ねハかまくらに成るものを 枝をきりにと 何の出るらん」
と皮肉った狂歌からもわかるとおり、
楠木氏は、東国出身の御家人もしくは得宗被官の可能性が指摘されている。
吾妻鏡にも楠木兵衛という東国出身の武士がいたことが書かれている。
これに対し、熊野系というのは、明治時代の偽作系図によるものもあり、信ずるに足りない。 >>181
時政以前の北条氏が「受領階級」であるということを証明する一次史料をだせよ 結論から言うと、後世の系図をいくらいじくりまわしても、歴史の真実に到達することはないってこと。
歴史の真実は、同時代史料、一次史料、あるいはそれらを直接使ったと思われる良質な資料によらなければ、
史実を明らかにすることはできない。
系図というのは、自己の家系を飾るために、積極的に創作されるものであるから、
「系図に名家、京侍の子孫とかいているから、そうに違いない」と考えるのは
バカ以外の何者でもない。 >>181
> 北条家は受領階級だろう?
> 時政は無位無官だけど、叔父さんや従兄弟は違うしな。
その叔父さんや従兄弟は親王任国以外の「守」で五位の位階をもっていた?
そうでなきゃ「受領」階級とは言えないよ。
ちなみに頼朝期の「受領」は門葉か準門葉しかいないし、
受領(つまり「○○守」)は幕府の行事では特別席に通されて、一般御家人とは明確に待遇が変えられてる。
(「吾妻鏡」に書いてあるからね)
頼朝期に時政やその他北条一門男子が行事に受領特別席に行った記録がある?
あったら、北条は受領階級だと言っていいけどね。
ちなみに受領階級は五位以上の位階とセットであることをお忘れなく! ちなみに>>181が主張する北条時定が有官位者についてだけど
時定が得ていた官位は「左衛門尉」
それも行家などを討ち取った功による「壇の浦、義経没落後」ゲットした官位。
左衛門尉は六位相当の官位で「受領を目指す人」が貰う官位。
左衛門尉は「侍」階級。
貴族でも受領でもない。
義経没落後にやっとこさ「侍」階級にたどりついたのに、
北条は以前が「受領」と主張できるわけないでしょ? そういや、保歴間記では平頼綱のことを「先祖不知」って書いてるねw
また東鏡によると義時は承久の乱の勝報をうけて、
「いまや自分の果報は王にまさる。前世に徳を十分に積んだからだろう。
ただ一つたりなかったために、卑しい生まれとなったのだろう」
と言っている。
細川重男もいうように北条氏は京侍とかではなく、本来たしかな先祖をもたない程度の家系だったと考えられる。
北条氏には時政以前の古い時代の有力な分家がないところを見ると、古くから続いた家ではなく、
時政の数代前は凡下だったのではないか。 となると、北条氏が将軍にならなかったのも、「血筋がいやしかった」からではないか。
実朝は「おれは種なしだ。俺の後、源氏から将軍は出すな」と発言したが、
やはり北条氏としては、それなら「親王将軍」がふさわしいと思ったのであろう。
「直方流」という系図すら、幕府時代後半の後世の捏造だろう。
「直方流」なら、血筋の上では「桓武平氏の嫡系」ということになってしまい、
「卑しい」とは言えない。少なくとも平賀朝雅が将軍になれるのなら、北条氏が将軍になってもおかしくない。
義朝・実朝のころは、まだ北条氏は「先祖不知」の成り上がりだったのだろう。
「直方流」の系図は、幕府後半時代に、自らを平氏嫡流に仕立て上げた創作だろう。 伊豆北条氏が、受領かどうかは知らないけど、
在庁官人(地方官・国衙関係者)であることは間違いないだろう。
>>173が言う様に
>為朝のやったことは明らかに国衙に対する反乱
>行為だから国衙の関係者として追討するのは当然。
だとして、為朝追討の軍勢に北条時政の名があるので、
在庁官人である事には間違いない。しかも土着の武士では
なくて、国衙に寄生している性格の強い武士とも言える。
その点が、伊豆北条氏の京武者(中央軍事貴族)由来性を感じさせる。
伊豆北条氏の特徴としては、所領の少なさに対比して、
官位の高さが挙げられる。伊豆守、伊豆権守、伊豆介、などなど
国衙のトップクラスの官位を得ている。
これは、伊豆北条氏の10倍以上の所領をもつ伊東氏とほぼ同じ官位で、
時方の伊豆守を見れば、若干、伊豆北条氏の方が、官位が高い感じがする。
北条郷しか所領のない伊豆北条氏が、
伊豆守、伊豆権守、伊豆介に任官するなんて、非常に珍しい。 >>193
時政以前の北条氏の人間が、伊豆守などに任官しているっていう、
一次史料を示してみろよ。 >>193
あと、念のため言っとくけど
たんなる「在庁」なら京侍由来でない可能性の方がはるかに高い。
在庁官人は基本的に在地の有力者で、京都に「留住」ことのない人間が主体で、
基本的には地元の郡司クラスが多い。彼らクラスになるともはや正確な系図を持たない
下郎の身分であり、本来は卑姓の持ち主が多い。なお彼らが源平を名乗っても、
それが真実である保証は全くない。
吾妻鏡など紐解けば「源太」「平六」などと名乗る、最下層の凡下がいくらでも現れる。
こんなの農民上がりだろう。
のちの護良親王は北条氏のことを
「伊豆の国在庁時政子孫高時法師」と言っている。今更>>193
に言われなくても北条氏が「在庁」クラスの人間であることはよく知られている。
ちなみに義時は自らの家を「げろう」と言っている。これは五位以上にはなれない
卑しい身分であると自ら証言しているのである。
時政以前が伊豆守になったなどというのは後世の系図の嘘。 >>195
>在庁官人は基本的に在地の有力者で、
>京都に「留住」ことのない人間が主体で、
だから平時方は、京武者(中央軍事貴族)を辞めて、
平忠盛との出世競争を諦めて、伊豆の北条郷に入植したんだろ。 >>196
時方の存在を示す一次史料を示してください。
話はそれから。 >>197
時方の存在を認めない>>197の方が、おかしい。 資料云々の問題ではない。 >>193
時方が伊豆守であったことを示す史料は何?
さんざんここで責められている「系図」でもいいから何か出してくださいね。
それからね、この時代は「○○守」ってのは基本的に在地には来ない。
目代を送りつけて本人は来ないからね。
中央軍事貴族出身の可能性は否定しないけどね。
「伊豆守」の目代でやってきてそのまま居ついたくらいならまだ分かるし。
>>198
申し訳ないが、史料を提示できないことにはなにをいっても歴史系の話では
「妄想」の一言で片づけられるんでね。
一次資料が出せなくても、専門家がその他の要因を考慮して「ある程度信頼できる」とされたものを出してほしいんだ。
系図でも信頼性のある部分を含むものと、まったくお話にならないもの両方あることを把握してほしい。 >>193
平宗盛による源義仲への牽制として(城長茂)は越後守に任じられる。
都の貴族である九条兼実や吉田経房は、地方豪族である長茂の国司任官・
藤原秀衡の陸奥守任官を「天下の恥」「人以て嗟歎す」と非難している。
貞盛流で平家や平直方の同族にあたる城氏や奥州藤原氏でさえ地方豪族という
理由だけでこの扱いなんだが。。 一族の通字を名前の後ろにつけることが多い一族で、例外的にそれを前側につけてる人って、本来は当主になる予定じゃなかったのが突発的に当主となった人が多いんじゃないかなあ
毛利元就とか。これは兄が当主になる予定でも隣はその家臣になるはずだったからさ。
時政もひょっとしたらそれじゃないの?
ところで。
在庁官人って、国司(守や介など上位者)の元で働く役人だけど、地元の郡司系氏族から取り立てられる場合もあるし、
国司となった人物が都に居た頃から召し抱えてた人が同道して現地入りする場合もあるじゃん。
前者の場合は地元民だし後者なら京武者やそれに近い在京の官人だろ。 なんにせよ、北条氏は直方とも貞盛とも一切関係ない自称平氏の土豪だけどな。 >>202
【社会】 荒れる湘南ビーチ…
「乱れる風紀」で“鎌倉市×海の家・財界”の攻防
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1430606535/
186 テレビ局が海の家を営業しているのが問題なんだよ
200
海の家って、どういう法的位置付けなのか良く分からんよね
海岸って、国有地だから、私有地じゃないんだよ
つまり、海の家がある土地って、国有地なのね
なのに、特定の人間に営業許可して、家を建てさせてるってのは
どういう法律に基づいてるんだろうね
570 海の家を完全廃止すれば、解決
853 1
ウソケンカのプロレス。
鎌倉の商店街や商工会議所は、旧みんな(民主)とズブズブ。
維新だって江田が、絶賛汚鮮中だしね。 ちかく維新も第二民主に。 在地か京都出身かはわからんが
上で誰かが言っていた中級貴族やら受領ではないらしいことは推定できる。
都から連れてこられる場合は良くて六位、普通はそれ未満が多い。 >>203
要するに北条氏は海の家のオヤジや商店街の顔役レベルだってことか。
貴族でも平氏でもなんでもない田舎の顔役ってことやね。 伊豆北条氏と海の家のオヤジや商店街の顔役に何の関係があるんだよ!?
馬鹿じゃね?www 朝廷の高級貴族から見れば、伊豆の北条某なんて、いまでいう海の家のオヤジレベル。 その平時方を京武者として採用していたのは誰だ?
それに、承久の乱で、朝廷は、なんで大負したんだ? >>204
そりゃ、受領より官位の高いヤツを召し抱えていくはずがないからな。
従五位下とかだといちおう受領クラスの位階だから、受領の配下には収まらんだろ 源氏も平氏も世代が下がるにつれて官位が下がる傾向にあるんだよ、
だって皇室からどんどん遠くなるから。
だから、功績を残さないといけない。 >>212は一般論としてはその通りだが、
だからと言って伊豆の一土豪の北条さんが平氏だった根拠にはならないね。
北条さんなんて、伊豆の商店会の顔役レベル。 >>212は一般論としてはその通りだが、
だからと言って伊豆の一土豪の北条さんが平氏だった根拠にはならないね。
北条さんなんて、伊豆の商店会の顔役レベル。 北条氏は平貞盛系の嫡流ではないね、実は。
伊勢平氏よりは嫡流に近いけど
たぶん、平貞盛系の嫡流は、平直方の兄の平中方の系譜だね。 あまり官位自体に拘りがないというか重視してなかった
実力社会の象徴 鎌倉幕府自体がもともとは中小企業の寄合レベルだからな
そんな組織がいつの間に朝廷の人事まで左右する
まあ向こうが決めてくれとお願いしてきただけなんだが 両統迭立で幕府を恨むのは筋違いなんだよね。
時代が下がって、公家諸法度に宮中席次規定が入ってるのも自分で決められなかったからだしな。 幕府あってこその秩序だったのに後醍醐帝がやったことは結局は改革ではなくて秩序の破壊に過ぎなかった 両統迭立に関しては北条時宗といえども西園寺家の言うがままだろ
幕府はそこまで朝廷に介入する気はなかったし
承久の乱を鎌倉幕府に密告して以来の親幕公卿である西園寺家に任せていた これだけ政治的に優秀な人材が続いた一族は他にはない
最期に高時とうババを引いたわけだが 後醍醐天皇がやろうとしていたのは、皇統の独占。
それだけだよ。
後醍醐天皇は大覚寺統の中でも本流ではなかった。
兄の後二条天皇のほうに大覚寺統の本流が受け継がれようとしていた。
それを阻止するために動いただけ。
だからこそ、南北朝の動乱では、他の大覚寺統の皇族たちは
のきなみ、持明院統に味方して北朝側にいた。 高時は覚醒が遅かっただけで割とやる奴だけどな
後醍醐島流しにしたり日野処刑したり二条家ぶっ潰したり
ただ覚醒が遅すぎた >>218
三浦、小山、千葉、上総などは、
国衙と関係なく、数千〜万単位の兵力を動員できる。
とてもじゃないけど中小企業ではナイよ。 完全に大企業。 大勢力の上総広常の参戦が頼朝の勝利を決定つけたからね
時には非情な手段を用いても有力諸侯を御する頼朝や北条の政治的センスが凄い ただね、千葉、小山についちゃ言っときたいことがある。
千葉 当時重盛姻戚千田氏の圧迫を受けていて動員力は激減、頼朝房総上陸に便乗して千田を討ってから数千規模の動員力を獲得。
小山 いち早く頼朝につき、同族との競争に勝ってから万規模の動員力を獲得。ちなみに頼朝挙兵時は当主政光がメイン郎党引き連れて都におり、戦力的にダウンしていた。
上総介の大動員力には意義なし。ただし広常は兄弟争いの最中で支配力は万全じゃなかったけどね。 あと、頼朝についた武士には
上総介なみの大豪族もいれば、熊谷みたいに親子+郎党一人ってのもいる。
一流上場企業から町の個人商店主まで様々な規模の御家人がいた。 そんな大動員できる豪族が集中してる坂東って・・・
当時の人口から考えて可能なのか?
平時の動員は人口の1パーセント、非常時に最大限動員しても1割までいかないはず。 まあ、人数割り増しがあることは考えていいだろうな。
あとは、数え方が保元平治の頃と変わった可能性がある。
保元平治の頃は純粋に一騎単位(騎馬武者+従者五、六人)
治承以降は戦闘員+荷物運び、建築工作兵その他も含んで数えるようになったのかも。 >>230
坂東に集中してたわけじゃない。
越後の城氏なんかも木曽義仲と武田信義は自分一人で引き受けると平家に
豪語し、実際、横田河原では5万集めて、兵力では義仲を圧倒していた。
奥州藤原氏の動員力はさらに上。
まあ当時の兵力は眉唾物だが。 >>226
上総介広常とかが晩期を動員したのは事実だが、それは国衙の代理という立場を利用した物であって、自前で動員できたわけじゃないぞ。ふかしすぎだ 事実上、頼朝と武田は対等だったからな
富士川の戦いは武田信義が主将と言っても差支えないくらい >>233
自前であろうとなかろうと、一万騎を動員・指揮できたことには違いないので。
警視総監とか県警トップ(警視長)のことを中小企業社長とは言わんだろ。 商工会議所の所長権限で勧誘して賛同者を募っただけで、自前の権力だけでは数千騎も動員できないじゃん .
|| ̄ .大阪都構想は"水道の民営化"を行うから危険です....  ̄||
|| 去年、府と市で否決されたのに復活させてウサン臭いです ||
|| 経済対策は"カジノだけ"でいかがわしいです∧_∧
|| 外国人特区を作り治安が悪化します \ (゚Д゚,,) いいですね!!!
||______________ ⊂⊂ |
∧ ∧ ∧ ∧ ∧ ∧ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧ ( ∧ ∧ ( ∧ ∧ | |
〜(_( ∧ ∧ __( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_( ∧ ∧_( ∧ ∧ は〜い、先生
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橋下徹という罠 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=nAy4HHst7UE
ミ _ ドスッ
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ヤレヤレ.. ∧∧ │ ちょっと待て │
( ,,)│ その維新は. │
/ つ. 在日党 . │ .
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∪ ∪ ││ _ε3
【2F】 国土強靭化、終了のお知らせ!!! 【アホー】
http://kanae.2ch.net/test/read.cgi/eco/1424399674/ 現在の財政状況で市民サービスの大幅低下は不可避だろ
二重行政を解消できた方がサービス低下の酷さを増しにできる、低下しにくくできるんじゃないのかよ
んな状態で市民サービスが低下しそうだから反対とか、アホかと 朝廷と鎌倉幕府の二重行政では、東国武士へのサービスを向上できたよな。 交通網の発達程度が低くて全国を一元的に統治するのが難しかったから、東西二重政権が有効だったんだよ
東西分割統治の手法は、内紛が起きやすいという重大な欠点があったものの、それ以上の有効性があったらしく、
どういう有効性なのかは分からんけど、室町幕府にも継承されたし、織豊政権下でも援用された。
一部の説では、江戸時代初頭まで続けられ、大阪の両陣を契機に廃止されたとか。
東国武士へのサービス向上は朝廷への上納金を廃止して着服した分が使われたからだろうな 元寇以降は事実上、鎌倉の単独統治だろ。
しかし全てを鎌倉で決めようとしたため、それが幕府の崩壊に繋がったと。 >>243
実権を握っていた内管領長崎氏が、御内人の増え杉で事態を掌握できず、
さらに賄賂のとりすぎで、得宗被官層のコントロールに失敗。
しかも、その後始末を外様御家人にやってもらったと言う最悪の展開が、幕府崩壊の原因。
鎌倉北条氏ですら、祭上げられていて、
実際の政権運営には、関っていない事も、幕府崩壊の理由にあったと思う。 >>244
>賄賂のとりすぎ
つ、ダイエーの中内www
割引金融債(ワリシン?ワリコウ?ワリチョー?) 大河の太平記では安東氏の内訌で両方から賄賂をもらった高資を円喜が怒って殴りつけるシーンがあった 仮に安達泰盛が勝ってたらどうなったんだろ
肥大化とは正反対の方向になったんだろうな >>243
いや、権限が縮小したとは言え朝廷の独自支配が及ぶ範囲は少なからず残ってたぞ
そうじゃないと後醍醐倒幕は起こりえなかった
ま、それでも一度は叛乱鎮圧されて廃位され遠流に処されたんだけどな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています