【鎌倉北条氏】〜門流・子孫・被官〜その3 [転載禁止]©2ch.net
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鎌倉執権北条氏専用スレッドです。
多くの門流が派生し、同族間の争いも絶えなかった北条氏。
北条氏の出自、幕府内での各門流の動向、幕府滅亡後のその各門流の子孫の動向、御内人・被官について語るスレッドです。
また北条氏とその他有力御家人との関係についてもご自由にどうぞ。
※前スレ
【鎌倉北条氏】〜門流・子孫・被官〜その2
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1402780639/ >>27
戦国三傑の中では50代で20代の淀殿に手を出した秀吉が一番好色じみて描かれるけど
70近くで10代の少女を側室にしていた家康が一番好色だからな
(家康はさすがに満60歳で儲けた市姫が最後の子だったが) 大内に匿われた名越の子孫名乗ってたんだっけ
でも大内って討幕派では 名越家の菩提寺って九州?
北条家の供養のため
足利尊氏と後醍醐天皇が建てた
鎌倉の宝戒寺が健さんの墓があるらしいが 梶原景時事件と比企の乱は主体が結城朝光から北条時政に変わっただけで
同様な構造なんだな
時政が主体である事には変わらないが背後で時政を動かしていたのは
義時と政子のような気がする 動いてたことが明らかな人物
景時事件:阿波局、三浦義村
比企の乱:政子、義時、三浦義村
ここいらは同じグループだからね。
ボス:政子
参謀:義時
広報宣伝:阿波局
行動隊長:義村
ちなみに時政追放もこのグループが行ってることは明らかだし。 阿野時元の誅殺は「禅定二品(政子)の仰せに依って、右京兆(義時)が
金窪兵衛尉行親以下の御家人等を駿河に差し遣わした」と『吾妻鏡』にあるけど
阿波局(時元実母)の心情はどうだったんだろう?まあ、姉の意向には
逆らえないだろうけど。 政子からしたら時元が将軍になんてなったら阿波局に立場を取って代わられるからとても生かしておけなかったんだろうな。
我が子や孫を誅殺するくらいだから妹の子を殺すくらい屁でもないってとこだろう。
この辺が政子の恐ろしさだ。 >>36
三浦義村は謎だらけだな。
反北条派から何度も頼りにされ、裏切り続けている。
しかも義村にとって身内といえる人間ばかりだ。 阿波局、義時と義村は従兄弟なんだよな。
政子を含めて子供の頃からの古いつき合いなんだろうな。
ただ、当時の坂東の豪族は通婚で親戚だらけだから、この程度の関係は他にいくらでもある。
だから特に注目されなかったのかもしれない。
そして義村は義時等との繋がりを周囲に悟らせない韜晦術を備えてたのだろうな。
それで反北条派が何度も引っかかったんだろう。 利害の不一致があったのにも関わらず
和田義盛は三浦義村を過信してしまったからね
三浦義村は常に戦の趨勢を占うキーマンであり続けた
義時との協調関係は利害の一致による表面的なものだったのか
それとも盟友としての絆があったのか >>41
従兄弟であった和田義盛。
妻が乳母を努め自身が後見人的の立場であった公暁
弟で後鳥羽上皇に「兄は日本総追捕使に任じられるなら必ず御味方しましょう」と語った胤義
これらの義村と近しい人間が義村に何の相談もなく行動を起こすのだろうか? >>42
和田義盛は三浦義村に相談を持ち掛けて一方的に期待をかけて
裏切られたんだろうな
公暁の場合は実朝暗殺後に三浦邸に駆け込んでいる事から義村を
頼ろうとしていた筈
只、公暁が義村と共謀していたとは考えにくい
公暁の暗殺計画自体はよく練られているけど、鎌倉殿の地位に就く為の
動きがあまりに杜撰だ >>43
和田の場合義村は起請文まで書いてるからな。
戻れないとこまで義盛を追い込んでから梯子外した。
あれは義村に義盛の一党を滅ぼす気満々とみるべき。
公暁に関してはおっしゃるとおりと思う。 公暁も和田もあんまりものを考えないタイプぽいし
三浦とつるんでたようにはみえんな
義時のがずっと三浦に気を使ってるように見える 和田は義村より年長だから、三浦一族の棟梁風吹かせてたんだろ。
義村はそれに従う風を装ってたんだろうな。
もちろんそれが面白くないから和田を高いとこに上らせて梯子を外したわけだ。
義村の内心と義時一味とのつながりを見抜けなかった和田が滅びたのは仕方がないことだ。 >>30
大内惣領家の大内弘幸は幕府側として長門探題と運命を共にした上、南北朝期は直冬派だった。 三浦氏は庶流が蘆名氏として戦国時代後期まで武威があった分で長持ちかもしれない
中先代の乱の後も
北条氏もどこかで武威を示してほしかった・・ 那古野氏は戦国時代にイケメンで有名でしたな・・・・・
そういえば高倉建さんも名越流北条氏らしいですな
やはりカッコイイですな 高倉健は松平健の子孫だからな
イケメンぶりは遺伝だな。 >>44
三浦義村は野心があれどもリスク回避を最優先するから
尚且つ北条家に恩を売れるからベストな選択だったんだろう
若輩の千葉胤綱に裏切り者呼ばわりされても何とも思わなかっただろう 安康天皇を殺した目弱王を匿い、滅ぼされるまで雄略天皇と戦った葛城円。
義村を頼り、義村邸に逃げ込もうとした公暁を刺し殺した義村。 坂東の平氏から見れば源氏は貴種でも愛着が薄かったのかもしれない
源平合戦は平家(麿)と平氏(武士)の争いのイメージ
初代将軍の頼朝は政治力で抑えてたが
やはり源氏将軍・摂家将軍・親王将軍と
ほとんど御輿化した 実朝亡き後の新将軍に他の源氏を据える考えが一切浮上しなかったのが意外
親王将軍は朝幕の協調の象徴として互いにメリットは大きい筈 親王将軍をもっと大事にしていれば
南北朝時代も独自の鎌倉朝廷に進化できたかも >>57
まず、前提として、頼家と比企の件は北条家に相当なトラウマだったんだろ。
実朝の子以外は全く選択肢の外だった。
実朝が殺されたら阿波局の子すら粛清されたくらいだからね。
そうなると、誰がどう考えても旗印は親王以外にないんだよな。
後鳥羽がくれんから九条なんていう中途半端な家から仕方なく連れて来たが。 頼家の娘はいい訳だが
あれは北条がバックだろ<竹御所
両親兄弟みんな殺されたのに北条に担がれてるとこが不思議だ いつか婿とその一族が担いで悪だくみしないよう最初から監視するためじゃないの? >>59
実朝が25歳ぐらいのかなり若い時期から北条政子らが朝廷に交渉してるからねえ
御家人を抑えるには源氏将軍でもダメで朝廷の権威が必要だったのでは?
実朝が10代の頃から正室・妾を持っても子供がいなかったからとはいえ
25歳ではその後に実朝に子供が産まれる可能性はゼロとは言い切れなかっただろう 実朝も仮に子供が作りにくいとはいえ早々にそんな案を出されてどういう心境だったんだろう 実朝自身の意向だったらしいぞ>宮将軍をお迎えする。 政子も実朝も公暁とかいるのに頼家の遺児は完全無視だからな
そりゃ腹立つよな 「私めが力を尽くして戦っても勝つことなどないでしょう。しかし私を頼って
家にお入りになった王子は、死んでもお見捨てすることはございません」
と言った。そしてまた武器を取り、家に帰って戦った。力尽き、矢も尽きると、
王子に「私はすっかり傷付き、また矢も尽きました。今はもう戦うことは
できません。いかがなさいましょう」と言った。
王子が答えて言うには、「それならば為す術もない。今は私を殺してくれ」と。
それでその王子を刀で刺し殺し、自分の首を切って死んだ。
公暁による実朝暗殺は親の仇討ちとして時の将軍を将軍継承権を持つ立場の者が
直接、手を下し、幕府のbQの実力者で乳母夫の三浦義村を頼ったという点で、
上の目弱王の変の話とそっくりである。
頼られたbQの態度は正反対であったが当時の坂東武者とはそういうものか。 >>33
前スレみても土豪説主張してる人って
「そんなわけない」「ありえない」しか言ってないけど 関東における平氏一門の武士の分散具合から見て、北条氏が平氏の支流だった可能性は充分高いと思うんだがなあ、
それを受け入れられない人がいるみたい。 否定説の人の唯一と言っていい具体的な根拠が系図の混乱だけだしね >>69
北条は土豪上がりの田舎武士と罵っただけだね
・周辺の有力豪族と通婚関係にあること
・官位者が存在してること
こうした土豪上がりだったら説明がつかないことに対して
ちゃんと反論せずに同じことを繰り返すだけ 関東における貞盛流の嫡流といえる大掾氏の北条時政と同時代の当主は、
多気義幹であるが、既に多数の由緒正しい常陸平氏庶流が当時には存在している。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01113a.htm
貞盛流直系の平直方の末裔を自称する北条氏の同族や諸流は当時どの程度いたの? >>72
>官位者が存在してること
誰がどのレベルの官位(できれば時政以前)かおしえてくれないかな?
(私は否定論者ではない)
>周辺の有力豪族と通婚関係にあること
時政の母ちゃんが伴氏(伊豆における伴氏の地位もわかるかなあ)
義時の母ちゃんが伊東氏、
他にあったら教えてくれ まあ、同じ伊豆の土豪でも天野氏や田代氏みたいに「後三条源氏」と主張されてしまうと、
だれだって「嘘だろw」と思うわけだが、
「桓武平氏」だとたいへん最もらしく思えるってだけのこと。
熊澤家が「南朝の子孫」と主張すれば、「このインチキめ」と思うだろうが、
実は確からしさにおいては、そこらの武士の「うちは清和源氏です」と大差がない。
系図なんてそんなもの。 鎌倉幕府の執権であった北条氏は桓武平氏は僭称でただの伊豆の土豪上がりがほぼ確定。
逆に一介の伊勢の素浪人でかつて下剋上の代表とされた、伊勢新九郎は実は正真正銘の
桓武平氏で室町幕府の要職にあった伊勢氏の出であるのに北条氏を名乗ったという皮肉。 確かに北条氏が貞盛や直方の子孫を誇ったような証拠はないな
源氏の外戚から出発してその源氏の幕府を引き継いだわけで
あえて平氏の出を強調するわけにもいかなかったとも言えるが 北条氏が平氏の出であることを必死に否定している奴って
何かにうなされているのか?
たぶん、そういうやつ、極一部のやつだと思うぞ。 北条氏を平氏だと否定している奴に限って
平貞盛や平直方を過大評価しすぎているんだよw
当時の坂東武者にとって、とてもじゃないけど、自分たちの旗頭になれるような
人物じゃないぞ、平貞盛や平直方ごときでは。 北条氏を平氏だと否定している奴に限って
平貞盛や平直方を過大評価しすぎているんだよw
当時の坂東武者にとって、とてもじゃないけど、自分たちの旗頭になれるような
人物じゃないぞ、平貞盛や平直方ごときでは。
平将門の子孫ならば誇れるけど、 伊勢氏のほうが逆に怪しいけどな。
だって、おつげによって、自分たちは平氏にしたということになっているから。
実は、伊勢氏は元は藤原氏を名乗っていて
うんじゃ、本当に藤原氏なのか?というとそうではなく
伊勢中臣氏(鎌足や不比等よりも前の代に中臣氏本流から分岐)の系統
じゃないのか?って説がある。 伊勢氏の先祖は伊勢前司藤原俊継って名前出てくるね。
で、系図には「伊勢神宮のお告げにより伊勢平氏と号する」とある。 北条氏が平氏であることを否定するってことは、
北条氏が「京侍」の出であることを否定するってことさ。
ま、近頃武士の起源をことごとく「京侍」に一元化するきらいがあるが、
やっぱりそれは行き過ぎで、在地の土豪から成長した「武士」もいたと思う。
系図では北条氏の近親ということになっている熊谷氏は、あれはやっぱり私市党の武士で、
在地豪族系じゃなかろうか。 >>85
在地の土豪たちは京都とのつながり、人脈を希求してただろ
その際に有用な手段である婚姻を駆使したと考えるのはおかしいか?
京侍を婿に入れて人脈を強化安定化させようと目論んだ土豪が多かったから京侍の子孫が全国に数多く分散してるんだろ
あと、各地の在地土豪たちの相当数は古代豪族--国造〜郡司の子孫だったと思うよ
庶民が開墾で勢力を築きあげたとかは妄想。 北条氏はあくまでも京武者の子孫。平直方の系譜で間違いないだろう。
だとしたら、北条氏では、当時の坂東武者の旗頭になりにくい。
先祖の平貞盛は、平将門を潰して坂東政権の夢を潰した張本人であり、
また、坂東八平氏の多くが、平将門と同盟関係にあった平良文の末裔たちであり、
平貞盛系は同族と言え、敵対関係にあったものだった。
貞盛の子孫である平直方と
平忠常(良文の後胤であり、母系では将門の子孫でもある)とも戦い、
源頼信が出てきたところで、忠常は降伏した。
これらのことからも、平直方の末裔であることは、坂東武者たちにとって
何の権威にもならなかったことが分かる。
平直方の末裔が唯一、自らの存在意義を高められるのは、河内源氏との婚姻関係であり、
直方の娘が頼義に嫁いで義家と義綱を生んだこと、
時政の娘が頼朝に嫁いで、頼家と実朝を生んだことである。 だからこそ、北条氏は自らが旗頭にはなれず、
清和源氏や皇族に娘を嫁がせて外戚になることで権威を高めた。
源氏が三代潰れた後は、皇族将軍や源氏の名門の足利家との婚姻を深めた。
そんな北条氏も、自らが武門の旗頭になろうとした時が来た。
それが北条時頼であり、このころから北条氏の嫡流は得宗家と言われるようになり、
鎌倉幕府の政治機関である執権職とは別に、事実上の武門の棟梁として脱皮しようとした。
実際に時頼は、息子の時宗に、頼朝らが行っていた行事を継承したりするようになる。 >>87
こいつのはいつも極端な妄想しかはかない。
ただの一部分の極端な肥大解釈しかできない低学歴 >低学歴
お前だけには言われたくない
東大以外は大学と言わないと言うのを知っていて使ってるんだろうな? でたでた基地外力
東大以外は大学のなを知らないという高卒のなせる笑いだな
たいしたもんだ >>91
お前にとっては阪大出でも低学歴だと分かった。もうしゃべるなよ >>89
こういう、「系図」だけを唯一の根拠に「京武者」の子孫っていいきっちゃうのは、
もう学問の領域じゃないんだよね。
系図マニアに多い。 時政の祖父と考えられる北条時家が伊豆介であったという記録がある
このことの真偽はどんな感じなの 伊豆介というのは
京で任ぜられる場合と(政官官職との兼任、お給料替わりの任官)
と地元有力者が任ぜられる場合があるよな。
狩野介の場合は地元任官ぽいけど(それでも都に上るとかそれなりの人脈があると可能性はある)
こっちはどうかな?
あ、それと北条氏系図は系図によって時政以前が混乱してるから
その「伊豆介」記載の系図はどの系図かわかれば教えてほしい。 当時は正式の「伊豆介」(これは中央の貴族が任命され、ようにん国司であることが多い)
のほか、地元の在庁官人が勝手に名乗る「介」もあった。
系図に伊豆介とあるからといって、正式のものであるとは限らない。 >>98「伊豆介」記載の系図はどの系図かわかれば教えてほしい。
お前人に聞く前にちっとは調べろや
尊卑文脈以下ほとんどの系図に載ってるやん >>100
このスレを見てるのは議論している当事者だけではないんだから
ギャラリーにもわかりやすく「系図に書いてある」の言い出しっぺが
具体的系図名や、どこみればその系図が見れるのか提示しておいた方がいいと思う。
それみて北条の出自は平氏だ説に賛同する人も増えるかもしれないし。 伊豆北条氏の京武者由来性を否定したい連中ってのは、
当時の日本の政治体制の中央集権的性格を否定したい連中だと思う。
律令制ってのは、基本的に中央集権なんだけどね。
王朝国家になり、少し分権的になっていたけど、
基本的な政治体質は、やはり中央集権だとおもう。
鎌倉幕府が出来るまで、地方の武士(国武者)が、律令体制下で
京都大番をシッカリ務めたのは、中央政府の権門へのコネ作りだと思う。
その鎌倉幕府だって、中央集権だからね。
国造家由来の土着系武士は、
当然居たけど、京武者のコネには敵わなかったんだろう。 京都大番役と類似点が見える健児制(こんでいせい)ってのが古代の軍制として見えてることも考えて、
律令体制との連続性が見えにくい武士が王朝貴族と関係してることは想像できるだろうにな。 青森東部から宮城南部の広大な地域に勢力を持ち、出羽の清原氏が参戦するまでは平直方の娘婿であった源頼義を圧倒していた安倍氏も京武者の藤原経清を娘婿にしていた。
北条氏も野盗同然の立場から在庁官人に取り入り身分を保証され、土豪として伊豆で地位を築いていったんだろう。 >>67
>なんでも横山さんは、東大らしい…スゴスギ!
同姓同名の東大准教授がいるから、その方と誤解しているのでは?
横山さんは、東京都市大学の学生さんでしょう。
東京都市大学アメリカンフットボール部 HELIOS MGBLOG 2012.0609
ラインマネージャーになりました、工学部都市工学科1年の横山友梨香です
http://tcuhelios.jugem.jp/?day=20120609
>>104
別に伊豆北条氏は、野盗(野党)ジャネーし!
伊豆北条郷に入植した平(北条)時方からして、伊豆国司だし! 北条氏が平氏なんていうのは僭称にすぎない。
一介の伊豆の土豪にすぎない。 >>102
> 伊豆北条氏の京武者由来性を否定したい連中ってのは、
> 当時の日本の政治体制の中央集権的性格を否定したい連中だと思う。
>
それは否定してないが、他豪族と違って「系譜」がはっきりしないから土豪説が出てくるんだよね。
吾妻鏡でさえ、都の滝口を選ぶ時、先祖の先例を重視したらしい記載があるのに
北条にはそれらしい記載が見当たらないし。
> 鎌倉幕府が出来るまで、 >>104
在庁官人もメリットないと相手を取り込まない。
都のコネ、財力、特殊技能などないとね。
単なる土豪説はそこが弱い。 > >>104
> 伊豆北条郷に入植した平(北条)時方からして、伊豆国司だし!
上の方で呈された
「系図名の提示」「伊豆介自称疑惑」に対する返答をされてから主張された方がいいと思いますが。
伊豆介については当事の都の権力状態に絡めて言及されると説得力あると思いますよ。 中央の下級貴族らにとっても、地方豪族と姻戚関係を持つことは財政面で有利だった側面もあるわけで、
地方豪族が中央の貴族たちの子孫に組み込まれる動機が双方にある。
後世の人々にも分かるような有名どころだけでも、将門の例を見ても分かるように
(つまり将門の周辺にいた敵味方の諸豪族たちのことな)都人子孫が極めて多く見られるわけだ
んで、そういった人々の周辺にいた零細豪族たちも、それらのいずれかと組んで姻戚関係を持ちたがる。
有力な平氏の子孫かどうかは不明でも、平氏の誰かの子孫であった可能性程度なら大きいだろ
まあ、あの時期の関東で、直方の親戚以外の平氏がどの程度いたかは分からんし、
直方と無関係だったとは思いにくいがな >>109
>「系図名の提示」「伊豆介自称疑惑」に対する返答をされてから
伊豆北条氏の系図は、だいたい直方流とつながっている。
伊豆介どころか、平(北条)時方は、伊豆国司! >>111
> 伊豆介どころか、平(北条)時方は、伊豆国司
意味が分からん。
伊豆介なら伊豆国司に決まってるだろ。 北条氏が本当に直方の末裔なら、鎌倉は北条にとって祖先伝来の地。
直方と頼義の関係は婿舅で主従関係はない。
源氏の血統が絶えれば、源氏が相続したものの返還を求められる立場。
朝廷に対しても清盛の同族として同じ地位を大きな顔をして要求できただろう。
それができなかったのはなぜ? >>111
>伊豆北条氏の系図は、だいたい直方流とつながっている。
それは認めるよ。
だけど直方から時政までの間の系譜が系図によってまちまちになっているから
時政=直方流に対する疑問(詐称疑惑)が起きているんだ。
時政の祖先に伊豆国司がいるというのなら、具体的系図の3個くらいは出して
どの系図の誰がどのレベルの伊豆国司(守、介、じょう、目)を明示
(同時期の中央権力者は推定誰)くらいは出さないと
「伊豆国司」の説得力はないよ。
>伊豆介どころか、平(北条)時方は、伊豆国司!
これは他のひとも突っ込んでいる通りおかしな表現。
国司も四等官制度だから(かみ、すけ、じょう、さかん)
どれのレベルでも国司だよ。
それと時政の父親が伊豆のなんらかの国司だった場合、もう知行国制になっている可能性が高いから
そのころの知行国主を挙げてくれると、その国司の正統性の真偽の議論の足しになる。 >>117
>朝廷に対しても清盛の同族として同じ地位を大きな顔をして要求できただろう
出来ない。盛方流は、忠盛・清盛親子と嫡流争いをして負けた。
それで伊豆に土着する事になったから、清盛のバックアップはムリ筋。
むしろ盛方流(時方)は、清盛流に敵対している。だから源頼朝を擁立した。
ところで、伊豆は親王任国なの?じゃないの? どっちなの? >>120を一部修正
だから源頼朝を擁立した。 → だから源頼朝に馳せ参じた。
>>117
>直方と頼義の関係
北条時政は、政子と頼朝の婚姻や
山木兼隆攻撃の時にこのエピソードをつかっている。 親王任国は上総、常陸、上野の三国だろ。
いずれも大国。 >>117
当時の同族の範囲を考えてみよっか。
同族扱いで助け合う範囲は本人とその直系の男系子孫のみ。
本人死亡後は遺児たちの間で壮絶な権力争いが起こる。
遺児たちにとっての「同族」は自分の直系の子孫のみだからね。
藤原一族の政治闘争をみてるとよくわかるでしょ。
>>120
その盛方との嫡流抗争説、このスレの最初の方でいろいろと疑問が提示されているんだけど
それに対する返答がまだ出てないよ。 >>120
>盛方流は、忠盛・清盛親子と嫡流争いをして負けた。
妄想乙。以下の記述も、一次資料に全く根拠のない戯言ばっかり。
系図マニアはこれだから、学問的にダメなんだよ。
「北条氏は、直方直系の京武者、なんとなれば系図にそう書いてあるから」
バッカじゃなかろうかw
しかも多くの系図は15世紀以後の編纂物だというのにw
まるで義経記で、義経の史実を探るようなものだ。
北条氏が京武者の出身だとい言うなら、平安遺文なり当時の日記なりで証明してみろよ。 >>120
>ところで、伊豆は親王任国なの?じゃないの? どっちなの?
>>122が書いてくれたとおり、親王任国は大国の中のその三国のみ。
伊豆は親王任国ではない。しかも下国。
(国のランク、実入りのいい順に大国>上国>中国>下国) >>102
>国造家由来の土着系武士は、
>当然居たけど、京武者のコネには敵わなかったんだろう
武士の時代よりも全然昔だけど、奈良時代には、藤原仲麻呂の乱の平定に
尽力したという事で、相模東部(相武)の国造家出身の漆部直伊波が中央政府に
食い込んでいる。
でもかなりのレアケース。
基本的に、大化の改新で国造家は、既得権を奪われている。 最近の古文書発見によって、伊勢氏の先祖が、藤原俊経、藤原俊嗣父子であることが判明したが、
彼らは、平家に最後まで忠実に従った伊勢伊藤氏ではなかろうか。
というのも、太田亮氏によれば伊勢伊藤氏は、平家の家人であっただけに、
平姓を名乗る者もいたということだからである。
藤原俊嗣が「天照大神のお告げにより伊勢平氏と号した」のは、鎌倉時代後半だが、
ちょうどその頃、鎌倉幕府は北条氏と、内寒冷長崎氏が権力を握っていたことだ。
北条氏が直方の子孫と名乗りだし、長崎氏が資盛の子孫と名乗りだしたのはその頃であり、
藤原俊嗣は、平家を滅ぼした鎌倉幕府中枢が平氏の嫡流を名乗りだしたのに激怒して、
自ら「伊勢平氏」と名乗ったのであろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています