【鎌倉北条氏】〜門流・子孫・被官〜その3 [転載禁止]©2ch.net
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鎌倉執権北条氏専用スレッドです。
多くの門流が派生し、同族間の争いも絶えなかった北条氏。
北条氏の出自、幕府内での各門流の動向、幕府滅亡後のその各門流の子孫の動向、御内人・被官について語るスレッドです。
また北条氏とその他有力御家人との関係についてもご自由にどうぞ。
※前スレ
【鎌倉北条氏】〜門流・子孫・被官〜その2
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1402780639/ >>373
>鎌倉時代は御家人ではない武士も多かった。
いや、 鎌倉時代は御家人ではない武士「のほうが」多かった。
だろ >>374
そうであるならば、なおさらのこと、苗字ではなく、本姓を名乗る武士が
多かったということになるのだろうか?
鎌倉時代には非御家人の多くの武士が、源〇〇、平〇〇、橘〇〇、伴〇〇、
藤原〇〇というふうに称していたと考えてよいのか? 平という苗字はないだろ、明治新姓が出てくるまでは。 >>377
北条も、一門が北条だらけになったから、赤橋とか金沢とか、名前つけたでしょ >>378
大江広元の苗字は寒河江あるいは毛利だって言ってるのと同じくらい滑稽 平頼綱の次男は飯沼助宗だけど飯沼っていう苗字の由来は地名ってことでいいのか >>378
頼綱は本姓も苗字も平。六波羅平家の嫡流で平資盛の子孫が長崎なんて名乗るはずがない。
なお、長崎氏は平頼綱の流れの分家で、長崎光綱(平頼綱の弟)が始祖とされるが、
これは諸説がある。 平頼綱が資盛の子孫のわけがない。
織田信長が資盛の子孫だというぐらい滑稽なこと。
保歴間記に頼綱は「先祖を知らず」と明記されている。
ようするに大した家柄でもないのが「平」をなのったってこと。
これは別に不思議でも何でもない。平安遺文、鎌倉異聞をひもとけば、
農民クラスが源平藤原含めた本姓を名乗っている例などいくらでもある。 後三年の役のラストで八幡太郎を罵倒した清原家衡の傅役千任も平千任とか藤原千任になってるな まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>384
本姓を僭称する例が多いことはわかる。頼綱も恐らく僭称だろう。
だが、鎌倉時代の後期になって、得宗被官の筆頭という立場で、苗字を用いず
平姓を公称することがあり得たのか? >>388
だから僭称ではないんでしょ?
資盛流じゃないというだけで >>388
足利氏の執事「高氏」の例もある。
東鏡を紐解けば、幕府の官吏
「藤出雲守」「清左衛門尉」「橘たくみのかみ」などといった例がいくらでもある。
頼綱も実際の呼ばれ方は「へいさえもんのじょうどの」といったところ。 鎌倉時代はまだ名字が確立したとは言えない時期だろうな。
だから平姓を名乗る事自体はおかしくないだろ。
室町になったらほぼ100%名字名乗りだろうけど。 文永の役のときの壱岐守護代に平景隆ってのがいるな
武藤(少弐)の家人と推定されてる
平頼綱一族といい高一族といい↑の例といい
御家人の家人層では大多数とは言わないがあったんだろう
ただ息子(飯沼)や親族(長崎)は苗字を名乗ってるのに
嫡流だけは平姓のままという理由は良く分からないな
所領がなかったわけでもないだろうに >>383
お前さんって、源頼朝の苗字は源だとか言っちゃうクチか。それ苗字じゃねえよ >>392
それとは毛色が違うが、佐々木氏の例で、分家がそれぞれの家の通称(?)の苗字を併用し始めた後も、本家だけは佐々木という苗字を使い続け(って、当たり前だよな。)
後になって本家も別の苗字を併用し始めた例があるが、佐々木ってのは姓じゃなく苗字なんだよなあ。姓は源。
なんで本家まで、元の苗字とは別に六角なんていう苗字を併用しちゃったんだろ。 >>394
六角の場合は自分たちで名乗ったのはなく
屋敷の場所から生じた通称なんじゃねーの? 平頼綱って、伊勢平氏の中でも、平家(六波羅流)とは別系統だろう?
たしか、鎌倉初期の北条氏の被官の中に、
伊勢平氏の家系の者がいたはず。
そいつの末裔だろう? >>396
たまたま395が名前を挙げた人物、佐々木導誉の京極氏だって六角氏と同様に屋敷の場所から出た通称じゃん
しかし六角氏と違って早くから苗字と同様に使われてる気がする。
苗字はあくまでも佐々木であって、京極や六角は苗字じゃないはずなんだけどな。 名字が更に分化するのは珍しくない。
毛利一門の福原、桂、志道とかね。
佐々木の場合宗家までが六角になってしまったのが珍しい。 >>390
鎌倉幕府の文官は本姓の名乗りが多かったということか。
京都の下級公家が鎌倉へ下向して、京都時代のまま本姓を称していたということか。
佐々木は苗字だが、六角とか京極というのは、公家と同様、一種の家名だと思うのだが、どうか。
だから、領国にいるときは佐々木で、京都にいるときは六角ではないのだろうか。 >>399
南部も宗家のはずの根城南部の方が変えちゃったよね 松平も宗家が徳川に変えて庶流は松平のまま
蠣崎も宗家が松前に変えて庶流は蠣崎のまま
まあ意味合いが違うけどね 源頼朝の苗字や通称は「鎌倉」or「鎌倉殿」?「伊豆」?
それとも時代によって異なるの? >>403
それも苗字の類例に含めちゃうなら、九条殿(本人の代には九条氏ではないが、子孫が九条氏)とか、
室町殿(足利幕府の当主、必ずしも将軍職と同一ではない地位)とかも含まれちゃうな
御堂関白は御堂氏じゃない(というかそんな名前の家は作ってない)けどさ 下層の人たちが源・平・藤原などの姓を詐称した→下層なので領地は持ってないから、
苗字はまだない→そのまま鎌倉後期を迎えた
このような人たちが、当時は相当数いたということか。
そして、頼綱もそのひとりであったと考えてよいのか。
確かな血統を持つ御家人たち(とりわけ源氏御門葉)は、頼朝の家人であることを
明確にするため、苗字を称することを命じられているから、高い階層の御家人では
ほぼ苗字がある。一方、その家人クラスになると、かえって本姓を公称する状態が
残ってしまっていたということなのだろうか。 >>407
そんな感じだね。
御家人としての領地が名字の本来の前提だから、
鎌倉期ではきちんと名字持ってる人間の方が数としては少ないという事なんだろう。
で、鎌倉期にはまず姓のインフレが発生していたということか。
これが室町期になると名字のインフレが発生してほぼ全員が名字を持つ状態になると。 >>405
頼朝に苗字がないのは、領地(荘園)を持っていなかったといことですか >>409
頼朝は御家人でも門葉でもないだろ。
皇室に姓がないのと似ているお話。 御家人とか御門葉は、概ね開幕後の話で、頼朝の位置づけは、平家打倒前では清和源氏の一流程度の存在だと思うが。
開幕前頃の頼朝の通称は、前の左兵衛佐から“佐殿”だったと思う。 当時の清和源氏嫡流として認められていたのは、
1.源三位頼政
2.多田満仲以来の多田の地を相続し、鹿ヶ谷の陰謀に源氏代表として後白河法皇から声がかかった多田行綱
3.伊豆の流人、頼朝 義仲は分からんけど義経は源氏嫡流と認められてはいなかっただろ 義仲なら頼政の庇護を受けてた兄の仲家の方が上だろ。
為義が義朝でなく義賢に棟梁を譲ることが決まっていたのなら、この線もあるな。 義朝は保元から平治の頃までの官位が他の河内源氏より上だったというだけで
嫡流だったわけじゃないだろ。
下野守になるまで無位無官だったわけで。
為義に至っては五位になかなかなれず
従兄弟たちより官位が低かった。
為義も嫡流だったかについては大いに疑問がある。 >>404>>405
どっかで頼朝の名字は「鎌倉」だって説を見た。
「鎌倉殿」って呼ばれ方はもろに地名+殿
屋敷の所在地(近衛、九条、西園寺)や所領の場所(足利、畠山、三浦)+殿
かんがえてみればで構成される呼ばれ方と同類だもんな。 鎌倉初期まで嫡流という概念があったのかな?
公家は同族の中で高位を獲得して一族の中の出世頭になったものの子孫が偉いというくらいだし
武家は先祖伝来の所領を相続したら父の後継者、だけど他の兄弟も独自の財産を持って自分たちは自分たちという感じで
父の相続者の言うことを聞いていたわけではないし。 かなり流動的な時代だよな。
家の棟梁は存在しているがその統制力は一様ではない。
三浦一門とかの和田一族と義村流の関係とかかなり微妙だからね。 新羅三郎義光が河内源氏棟梁の座を狙って甥の義忠を謀殺し、その罪を兄の義綱に着せて為義に討たせた事件があったけど
源氏棟梁になったら他の源氏一族がみんな言うことを聞いてくれるってことでもないと思うけど
そもそも為義殺害に成功したとしてその後源氏の主だった者が集まって話し合いで棟梁選出とかやらないだろ
我こそがと思う奴らがみんな好き勝手に俺が源氏の棟梁だと言いたい放題だっただけじゃないのか
義家が棟梁の時代でも義綱との仲は悪く家人同士が衝突したりしていたし、義綱が統制下だったとは思えない
氏長者のように朝廷から官位をもらうのに棟梁の推挙が必要な必要なわけでもなく棟梁ってそこまで力あったのか
単に先代の領地家人などの有形無形の遺産のうち中核部分を継承した程度だったのでは 経基−−−義家
この系統だけが清和源氏とそれ以外の藤原氏、桓武平氏の諸家を官位官職で
圧倒してたからじゃないの?
要はあまり経基−−−義家系統以外は比較にならないのでとか。
経基−−−義家系統 棟梁
その他の諸家はエトセトラみたいな。 少なくとも河内源氏で棟梁が統制したのは頼朝が最初じゃないかな。
空気嫁ない義経が最後まで理解できなかったのはちょっと気の毒な面があるw まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>423
少なくとも藤原氏公卿よりは官位は劣る。
清和源氏内の官位ならば頼光の系統が頼信の系統に劣っていたとは言えないだろう。 関東武士団からみると清和源氏で正四位上?(源経基)正四位下(源義家とか)
は高位だよね。
まあそれ以上は従三位以上の中央にいる人たちになるので。
比較的身近な存在の中では群を抜いているのだろうね。 >>428
坂東武士から仰がれには十分な官位。
だけど同族(清和源氏内部)の中で頼信ー頼義ー義家系の官位が抜きん出てたわけではない。
為義に至っては清和源氏はおろか河内源氏内部にも上位者が多い。 正四位の人が地方にとどまるというのが珍しいのかも。 >>430
頼義や義家の活動の本拠はあくまで都だったからね。 源氏棟梁の統制ってどれぐらいの範囲に及んだんだ?
頼義は弟の頼清や頼季を統制できていたのか
義家は弟たちや叔父の頼清や頼季、従兄弟たちを統制できていたのか >>434
後生の人が思ってる程の統制力なんてなかったと思う。
自分の力が及ぶのは自分直系の息子孫、娘婿と養子猶子位。
傍系やその先の血縁にはあまり影響を及ぼすことは無かったと思う。
直系息子でも、義家における義親、為義における義朝などは制御されていなかった。 >>434
当初は頼清の方が頼義より官位が上だったんだよね。
頼清は武士というより文官ぽかったみたいだけど。 大したことじゃないけど源氏の通字って満仲の子世代から「頼」だったのに、
頼義は息子たちに「義」を付けてから頼義流の通字は「義」に変わった
義朝の弟に頼賢と頼仲がいるけどこれは為義が仕えていた藤原頼長の偏諱で、
義朝の嫡男頼朝は藤原信頼の偏諱だけど「長」とか「信」じゃなくて
元々の通字だったからあえて「頼」を選んだのかな まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 棟梁としての頼朝、北条氏の鎌倉幕府による統制は、源氏一門(御門葉)に
とっては息苦しく感じなかったのだろうか?
源氏一門のようなある程度家柄のある武士にとっては、朝廷から官位をもらって
京武者として生きるほうが生きやすくなかっただろうか?
源義経はそうできたほうがはるかに幸福な後半生だったように見えるし、
源範頼、安田義定、平賀朝雅などはそのほうが長生きできたように思える。 >>441
義経はそうしようとして討伐されてるじゃん 大内、平賀は時政の時代までは美味しくてたまらん状況じゃん。
義朝に最後まで付きしたがっていたおかげで門葉筆頭で時政の婿だからな。
京武者のままじゃ埋没して全く旨味はなかったろうよ。 >>441
安田義定は遠江守になった時点ではまだ頼朝からは独立していた。
ただ、色々な面で頼朝の権限が強くなると、甲斐と遠江を本拠地とする義定は頼朝に従わないと速攻潰されただろうな。
東国捨ててあらたに西国に勢力を築かない限り頼朝の影響から逃れた京武者として生きるのは不可能だっただろうな。 頼朝の時代はそれ以前に勢力を持っていた坂東の源氏受難の時代。
義朝の件で優遇された大内以外はみんな酷い目にあってる。
唯一の例外が足利だな。
足利家はほんと世渡りが上手い。 安田義定・源義広(志太先生)・佐竹秀義・平広常(上総介)などは
「独立した東国武士」として生きることが理想だったように見える。
だから、中央貴族や平家による過度な干渉は嫌っただろうが、一方で
鎌倉政権のような強力な政権が近辺にできて、家人として服属するよう
要求されるのも迷惑だったのではないか?
源氏一門や強力な坂東平氏にとって鎌倉政権などできないほうがよかった
のではないだろうか? 大内平賀?
酷いじゃん源氏門葉だかなんだか知らねえがあっけなく滅亡してるし >>445
> 唯一の例外が足利だな。
つ小笠原、信光系武田。
このあたりは下手に鎌倉政権中枢に入らなかったからな。 >>441
源範頼は自身が京とパイプを持つが故に頼朝から警戒されていることを自覚していたからね
だから後白河院の護衛任務を義経に譲っている >>447
武蔵の受領で京都守護だぞ。
バリバリのナンバーツーだわ。
しかもこういう立場に頼朝在世中から時政失脚まで30年近くいたんだぞこの家は。
一瞬の栄華ではない。 大内平賀は、頼朝に優遇されまくったおかげで
北条氏に警戒されてしまった。 >>446
志田以外はそうだろうが、志田はまた違う。志田は保元の乱で崇徳上皇方に
ついてお尋ね者状態だったため(賞金首がかかっていた)、とにかく関東が
どんな形でも秩序が戻ることを避けたかった。最後は賞金首仲間の木曽義仲、
新宮行家らと結んだけど。 >>451
正確に言うと、平賀朝雅は
時政牧の方陣営に近すぎたので(妻が牧の方の娘)、
反牧の方派の政子義時が時政追放した時にとばっちり喰らった形。
その異母兄の系統の大内は都にいることが多かったし、朝雅とは距離を取っていたから
牧の方事件では損害なし。
御家人でありながら京武者に近い存在になっていた。
その結果承久では負けカード引いたけど。 >>452
志田義広は平治のあともしれっと畿内で活動した記録が残ってるし八条院領志田荘を管理してたぞ。
元々義仲に近かった義広(八条院グループ)が
多分義仲と裏で組んで野木宮合戦起こして、負けて義仲の元に逃げ込んだ。
そうなったら義仲と運命を共にする以外の選択肢はなくなってしまった。 >>452
義広が保元の乱に参戦したかどうかは不明じゃないのか 志田が参戦したと記述されているのは保元物語ぐらいかな >>456
「平治物語」に信頼方に義朝軍の一員として加わったとある。但し名前は義憲になってるけど。 >>451
まぁ、七騎落ちで最後まで随伴した平賀を頼朝が心情的に優遇したくなるのは当然かな 頼朝は不遇な時に尽くしてくれた人間を信用するんだよな。
平凡なようだけど大事なことかもな。
大半の人間が弱り目になると裏切るからね。
伊東は実に惜しいことしたよなw >>459
それ考えると北条って頼朝からしてみれば
当時無価値の流人であった自分を婿にしてくれて
誰が見ても無謀としか思えない挙兵に協力した
恩ある家でもあるよな。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>460
北条は、呂不韋みたいなもんか
まぁ、自分の種を皇帝にまでした呂不韋には負けるけどな 始皇帝の実父呂不韋説は秦を滅ぼすのを正当化するための作り話説もあるけどな
劉邦の正妻呂后は呂不韋と同じ一族の生まれではという話もある >>464
その両方を信じると、秦漢革命は呂氏の親族間の争いとなるわけか
項羽の存在が一気に霞むように感じるのは俺だけ? 田斉に滅ぼされた姜斉の一族が、密かに復権して天下を奪おうと
陰謀を企んでいた。それが呂不韋であり、呂后であった
…という設定はどうかな。小説のネタとして >>460
牧氏事件などの暴走があるとはいえ、それが時政の評価出来る点かな
ただ得宗家の由来が義時の法名の時点で時政は忌むべき存在の一方で義時が事実上、基礎を築いたような扱いだな 義時の烏帽子親は三浦説があるがやっぱそうかな
時連も三浦だったし、泰時の許嫁も三浦
宗時の烏帽子親も三浦かも >>469
ただね、この時期「宗」の字を持つ三浦一族いたかなあ?
中村氏かもよ。
中村氏も三浦とつながりあるし。 和田義盛の父親だろ
で、時連が佐原義連なら、義時は三浦義澄だな 杉本義宗→宗時
三浦義澄→義時
佐原義連→時連
非常に綺麗だな。
まず間違いなかろう。 三浦烏帽子親説の場合
一つだけ疑問あるんだけど
時政の上の息子三人のうち
宗時、時連は三浦の通字じゃない方の字を貰ってるんだけど
義時だけ三浦通字の義を貰ってるんだよね。
これってなんか意味あるのかな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています