【鎌倉北条氏】〜門流・子孫・被官〜その3 [転載禁止]©2ch.net
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鎌倉執権北条氏専用スレッドです。
多くの門流が派生し、同族間の争いも絶えなかった北条氏。
北条氏の出自、幕府内での各門流の動向、幕府滅亡後のその各門流の子孫の動向、御内人・被官について語るスレッドです。
また北条氏とその他有力御家人との関係についてもご自由にどうぞ。
※前スレ
【鎌倉北条氏】〜門流・子孫・被官〜その2
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1402780639/ 源頼朝の苗字や通称は「鎌倉」or「鎌倉殿」?「伊豆」?
それとも時代によって異なるの? >>403
それも苗字の類例に含めちゃうなら、九条殿(本人の代には九条氏ではないが、子孫が九条氏)とか、
室町殿(足利幕府の当主、必ずしも将軍職と同一ではない地位)とかも含まれちゃうな
御堂関白は御堂氏じゃない(というかそんな名前の家は作ってない)けどさ 下層の人たちが源・平・藤原などの姓を詐称した→下層なので領地は持ってないから、
苗字はまだない→そのまま鎌倉後期を迎えた
このような人たちが、当時は相当数いたということか。
そして、頼綱もそのひとりであったと考えてよいのか。
確かな血統を持つ御家人たち(とりわけ源氏御門葉)は、頼朝の家人であることを
明確にするため、苗字を称することを命じられているから、高い階層の御家人では
ほぼ苗字がある。一方、その家人クラスになると、かえって本姓を公称する状態が
残ってしまっていたということなのだろうか。 >>407
そんな感じだね。
御家人としての領地が名字の本来の前提だから、
鎌倉期ではきちんと名字持ってる人間の方が数としては少ないという事なんだろう。
で、鎌倉期にはまず姓のインフレが発生していたということか。
これが室町期になると名字のインフレが発生してほぼ全員が名字を持つ状態になると。 >>405
頼朝に苗字がないのは、領地(荘園)を持っていなかったといことですか >>409
頼朝は御家人でも門葉でもないだろ。
皇室に姓がないのと似ているお話。 御家人とか御門葉は、概ね開幕後の話で、頼朝の位置づけは、平家打倒前では清和源氏の一流程度の存在だと思うが。
開幕前頃の頼朝の通称は、前の左兵衛佐から“佐殿”だったと思う。 当時の清和源氏嫡流として認められていたのは、
1.源三位頼政
2.多田満仲以来の多田の地を相続し、鹿ヶ谷の陰謀に源氏代表として後白河法皇から声がかかった多田行綱
3.伊豆の流人、頼朝 義仲は分からんけど義経は源氏嫡流と認められてはいなかっただろ 義仲なら頼政の庇護を受けてた兄の仲家の方が上だろ。
為義が義朝でなく義賢に棟梁を譲ることが決まっていたのなら、この線もあるな。 義朝は保元から平治の頃までの官位が他の河内源氏より上だったというだけで
嫡流だったわけじゃないだろ。
下野守になるまで無位無官だったわけで。
為義に至っては五位になかなかなれず
従兄弟たちより官位が低かった。
為義も嫡流だったかについては大いに疑問がある。 >>404>>405
どっかで頼朝の名字は「鎌倉」だって説を見た。
「鎌倉殿」って呼ばれ方はもろに地名+殿
屋敷の所在地(近衛、九条、西園寺)や所領の場所(足利、畠山、三浦)+殿
かんがえてみればで構成される呼ばれ方と同類だもんな。 鎌倉初期まで嫡流という概念があったのかな?
公家は同族の中で高位を獲得して一族の中の出世頭になったものの子孫が偉いというくらいだし
武家は先祖伝来の所領を相続したら父の後継者、だけど他の兄弟も独自の財産を持って自分たちは自分たちという感じで
父の相続者の言うことを聞いていたわけではないし。 かなり流動的な時代だよな。
家の棟梁は存在しているがその統制力は一様ではない。
三浦一門とかの和田一族と義村流の関係とかかなり微妙だからね。 新羅三郎義光が河内源氏棟梁の座を狙って甥の義忠を謀殺し、その罪を兄の義綱に着せて為義に討たせた事件があったけど
源氏棟梁になったら他の源氏一族がみんな言うことを聞いてくれるってことでもないと思うけど
そもそも為義殺害に成功したとしてその後源氏の主だった者が集まって話し合いで棟梁選出とかやらないだろ
我こそがと思う奴らがみんな好き勝手に俺が源氏の棟梁だと言いたい放題だっただけじゃないのか
義家が棟梁の時代でも義綱との仲は悪く家人同士が衝突したりしていたし、義綱が統制下だったとは思えない
氏長者のように朝廷から官位をもらうのに棟梁の推挙が必要な必要なわけでもなく棟梁ってそこまで力あったのか
単に先代の領地家人などの有形無形の遺産のうち中核部分を継承した程度だったのでは 経基−−−義家
この系統だけが清和源氏とそれ以外の藤原氏、桓武平氏の諸家を官位官職で
圧倒してたからじゃないの?
要はあまり経基−−−義家系統以外は比較にならないのでとか。
経基−−−義家系統 棟梁
その他の諸家はエトセトラみたいな。 少なくとも河内源氏で棟梁が統制したのは頼朝が最初じゃないかな。
空気嫁ない義経が最後まで理解できなかったのはちょっと気の毒な面があるw まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>423
少なくとも藤原氏公卿よりは官位は劣る。
清和源氏内の官位ならば頼光の系統が頼信の系統に劣っていたとは言えないだろう。 関東武士団からみると清和源氏で正四位上?(源経基)正四位下(源義家とか)
は高位だよね。
まあそれ以上は従三位以上の中央にいる人たちになるので。
比較的身近な存在の中では群を抜いているのだろうね。 >>428
坂東武士から仰がれには十分な官位。
だけど同族(清和源氏内部)の中で頼信ー頼義ー義家系の官位が抜きん出てたわけではない。
為義に至っては清和源氏はおろか河内源氏内部にも上位者が多い。 正四位の人が地方にとどまるというのが珍しいのかも。 >>430
頼義や義家の活動の本拠はあくまで都だったからね。 源氏棟梁の統制ってどれぐらいの範囲に及んだんだ?
頼義は弟の頼清や頼季を統制できていたのか
義家は弟たちや叔父の頼清や頼季、従兄弟たちを統制できていたのか >>434
後生の人が思ってる程の統制力なんてなかったと思う。
自分の力が及ぶのは自分直系の息子孫、娘婿と養子猶子位。
傍系やその先の血縁にはあまり影響を及ぼすことは無かったと思う。
直系息子でも、義家における義親、為義における義朝などは制御されていなかった。 >>434
当初は頼清の方が頼義より官位が上だったんだよね。
頼清は武士というより文官ぽかったみたいだけど。 大したことじゃないけど源氏の通字って満仲の子世代から「頼」だったのに、
頼義は息子たちに「義」を付けてから頼義流の通字は「義」に変わった
義朝の弟に頼賢と頼仲がいるけどこれは為義が仕えていた藤原頼長の偏諱で、
義朝の嫡男頼朝は藤原信頼の偏諱だけど「長」とか「信」じゃなくて
元々の通字だったからあえて「頼」を選んだのかな まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 棟梁としての頼朝、北条氏の鎌倉幕府による統制は、源氏一門(御門葉)に
とっては息苦しく感じなかったのだろうか?
源氏一門のようなある程度家柄のある武士にとっては、朝廷から官位をもらって
京武者として生きるほうが生きやすくなかっただろうか?
源義経はそうできたほうがはるかに幸福な後半生だったように見えるし、
源範頼、安田義定、平賀朝雅などはそのほうが長生きできたように思える。 >>441
義経はそうしようとして討伐されてるじゃん 大内、平賀は時政の時代までは美味しくてたまらん状況じゃん。
義朝に最後まで付きしたがっていたおかげで門葉筆頭で時政の婿だからな。
京武者のままじゃ埋没して全く旨味はなかったろうよ。 >>441
安田義定は遠江守になった時点ではまだ頼朝からは独立していた。
ただ、色々な面で頼朝の権限が強くなると、甲斐と遠江を本拠地とする義定は頼朝に従わないと速攻潰されただろうな。
東国捨ててあらたに西国に勢力を築かない限り頼朝の影響から逃れた京武者として生きるのは不可能だっただろうな。 頼朝の時代はそれ以前に勢力を持っていた坂東の源氏受難の時代。
義朝の件で優遇された大内以外はみんな酷い目にあってる。
唯一の例外が足利だな。
足利家はほんと世渡りが上手い。 安田義定・源義広(志太先生)・佐竹秀義・平広常(上総介)などは
「独立した東国武士」として生きることが理想だったように見える。
だから、中央貴族や平家による過度な干渉は嫌っただろうが、一方で
鎌倉政権のような強力な政権が近辺にできて、家人として服属するよう
要求されるのも迷惑だったのではないか?
源氏一門や強力な坂東平氏にとって鎌倉政権などできないほうがよかった
のではないだろうか? 大内平賀?
酷いじゃん源氏門葉だかなんだか知らねえがあっけなく滅亡してるし >>445
> 唯一の例外が足利だな。
つ小笠原、信光系武田。
このあたりは下手に鎌倉政権中枢に入らなかったからな。 >>441
源範頼は自身が京とパイプを持つが故に頼朝から警戒されていることを自覚していたからね
だから後白河院の護衛任務を義経に譲っている >>447
武蔵の受領で京都守護だぞ。
バリバリのナンバーツーだわ。
しかもこういう立場に頼朝在世中から時政失脚まで30年近くいたんだぞこの家は。
一瞬の栄華ではない。 大内平賀は、頼朝に優遇されまくったおかげで
北条氏に警戒されてしまった。 >>446
志田以外はそうだろうが、志田はまた違う。志田は保元の乱で崇徳上皇方に
ついてお尋ね者状態だったため(賞金首がかかっていた)、とにかく関東が
どんな形でも秩序が戻ることを避けたかった。最後は賞金首仲間の木曽義仲、
新宮行家らと結んだけど。 >>451
正確に言うと、平賀朝雅は
時政牧の方陣営に近すぎたので(妻が牧の方の娘)、
反牧の方派の政子義時が時政追放した時にとばっちり喰らった形。
その異母兄の系統の大内は都にいることが多かったし、朝雅とは距離を取っていたから
牧の方事件では損害なし。
御家人でありながら京武者に近い存在になっていた。
その結果承久では負けカード引いたけど。 >>452
志田義広は平治のあともしれっと畿内で活動した記録が残ってるし八条院領志田荘を管理してたぞ。
元々義仲に近かった義広(八条院グループ)が
多分義仲と裏で組んで野木宮合戦起こして、負けて義仲の元に逃げ込んだ。
そうなったら義仲と運命を共にする以外の選択肢はなくなってしまった。 >>452
義広が保元の乱に参戦したかどうかは不明じゃないのか 志田が参戦したと記述されているのは保元物語ぐらいかな >>456
「平治物語」に信頼方に義朝軍の一員として加わったとある。但し名前は義憲になってるけど。 >>451
まぁ、七騎落ちで最後まで随伴した平賀を頼朝が心情的に優遇したくなるのは当然かな 頼朝は不遇な時に尽くしてくれた人間を信用するんだよな。
平凡なようだけど大事なことかもな。
大半の人間が弱り目になると裏切るからね。
伊東は実に惜しいことしたよなw >>459
それ考えると北条って頼朝からしてみれば
当時無価値の流人であった自分を婿にしてくれて
誰が見ても無謀としか思えない挙兵に協力した
恩ある家でもあるよな。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>460
北条は、呂不韋みたいなもんか
まぁ、自分の種を皇帝にまでした呂不韋には負けるけどな 始皇帝の実父呂不韋説は秦を滅ぼすのを正当化するための作り話説もあるけどな
劉邦の正妻呂后は呂不韋と同じ一族の生まれではという話もある >>464
その両方を信じると、秦漢革命は呂氏の親族間の争いとなるわけか
項羽の存在が一気に霞むように感じるのは俺だけ? 田斉に滅ぼされた姜斉の一族が、密かに復権して天下を奪おうと
陰謀を企んでいた。それが呂不韋であり、呂后であった
…という設定はどうかな。小説のネタとして >>460
牧氏事件などの暴走があるとはいえ、それが時政の評価出来る点かな
ただ得宗家の由来が義時の法名の時点で時政は忌むべき存在の一方で義時が事実上、基礎を築いたような扱いだな 義時の烏帽子親は三浦説があるがやっぱそうかな
時連も三浦だったし、泰時の許嫁も三浦
宗時の烏帽子親も三浦かも >>469
ただね、この時期「宗」の字を持つ三浦一族いたかなあ?
中村氏かもよ。
中村氏も三浦とつながりあるし。 和田義盛の父親だろ
で、時連が佐原義連なら、義時は三浦義澄だな 杉本義宗→宗時
三浦義澄→義時
佐原義連→時連
非常に綺麗だな。
まず間違いなかろう。 三浦烏帽子親説の場合
一つだけ疑問あるんだけど
時政の上の息子三人のうち
宗時、時連は三浦の通字じゃない方の字を貰ってるんだけど
義時だけ三浦通字の義を貰ってるんだよね。
これってなんか意味あるのかな? 話ズレるけど、三浦義澄の澄って、上総介広常の父常澄からかな?
三浦と上総との付き合いは強いようだし、
この付き合いが頼朝の房総復活劇の一つ要因になるかもな。 諱の研究は面白いかもな。
特に平安末期から鎌倉初期くらいだと諱のつけ方のルールも定まっていないから
案外誰の字をもらってるか判断が難しい場合が多い。 旗揚げ前から、三浦と北条はかなりつながりがあるのか
ともに挙兵するはずだ 畠山などの猪武者とは異なり権謀術数に於いても北条と張り合えるのは三浦
三浦は源家とも義家公の頃からゆかり深く平家との戦で玉砕した三浦義明に頼朝も涙を浮かべたとか 北条はどんな軍事活動をとってたんだ
甲斐源氏と交渉してたんだっけ >>480
時政と甲斐源氏との関係
『吾妻鏡』 頼朝の指示で甲斐源氏と交渉
『延慶本平家物語』 石橋山に負けて頼朝にも告げず戦場から甲斐へ速攻逃亡。
どっちかというと吾妻鏡には脚色というか美化が混じった可能性もある。
ただし時政には義経事件の時に頼朝の代理人として朝廷と交渉して一定の成果を上げた実績はある。 北条の拠点の韮崎近辺は東山道と甲斐へ行く道との十字路みたいなとこだからね。
北条家は古くから甲斐や駿河とは深い関係にあったんだろう。 出自故に甲斐源氏と繋がりのあった源範頼とも遠江を巡って反目していたらしいからね 失脚するもののあんな大それたクーデターを画策するような人物だ
曽我兄弟の仇討ち事件の黒幕が時政という陰謀論が浮上するのも無理がない 石橋山での敗戦では時政は武田のもとに逃れ子どもの宗時は伊東軍に討たれてるね
何れにせよあの窮地を脱した頼朝は強運過ぎる >>486
プッツン懐かしいw
元祖プッツン女優は石原まりこだっけ。
鶴ちゃんのプッツン5とかw 北条家自体が成り上がりの実力社会を具現化したようなものだからな >>490
源氏だ平氏だという点がまったく問題にならなかったってだけだろ 時頼の代あたりから執権が御飾りか盛り立て役で得宗が実権を握る二重、三重の構造だったからな 鎌倉と室町を語るのは本物の歴史オタ!
間違いない! 織田信長も平氏だというが系統は、どうなっているのだろうか? 長崎一門て全国的に守護地頭職も手中にしてたんでしょ
子孫がいないのはみんな殺されてしまったの? >>496
実際は藤原か忌部らしい
信長が天下人になるにつれて源平交替思想にあやかって名乗ったらしい ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 得宗の代官として守護代クラスにはいたかもしれん
新田に討たれた上野の守護代とか
諏訪と一緒に中先代で挙兵した層とか BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 >>482
北條拠点ってことは
韮崎→韮山
東山道→東海道かな?
甲斐の韮崎が北条の拠点とは知らなかったわ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています