【鎌倉北条氏】〜門流・子孫・被官〜その3 [転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
鎌倉執権北条氏専用スレッドです。
多くの門流が派生し、同族間の争いも絶えなかった北条氏。
北条氏の出自、幕府内での各門流の動向、幕府滅亡後のその各門流の子孫の動向、御内人・被官について語るスレッドです。
また北条氏とその他有力御家人との関係についてもご自由にどうぞ。
※前スレ
【鎌倉北条氏】〜門流・子孫・被官〜その2
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1402780639/ >>434
後生の人が思ってる程の統制力なんてなかったと思う。
自分の力が及ぶのは自分直系の息子孫、娘婿と養子猶子位。
傍系やその先の血縁にはあまり影響を及ぼすことは無かったと思う。
直系息子でも、義家における義親、為義における義朝などは制御されていなかった。 >>434
当初は頼清の方が頼義より官位が上だったんだよね。
頼清は武士というより文官ぽかったみたいだけど。 大したことじゃないけど源氏の通字って満仲の子世代から「頼」だったのに、
頼義は息子たちに「義」を付けてから頼義流の通字は「義」に変わった
義朝の弟に頼賢と頼仲がいるけどこれは為義が仕えていた藤原頼長の偏諱で、
義朝の嫡男頼朝は藤原信頼の偏諱だけど「長」とか「信」じゃなくて
元々の通字だったからあえて「頼」を選んだのかな まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 棟梁としての頼朝、北条氏の鎌倉幕府による統制は、源氏一門(御門葉)に
とっては息苦しく感じなかったのだろうか?
源氏一門のようなある程度家柄のある武士にとっては、朝廷から官位をもらって
京武者として生きるほうが生きやすくなかっただろうか?
源義経はそうできたほうがはるかに幸福な後半生だったように見えるし、
源範頼、安田義定、平賀朝雅などはそのほうが長生きできたように思える。 >>441
義経はそうしようとして討伐されてるじゃん 大内、平賀は時政の時代までは美味しくてたまらん状況じゃん。
義朝に最後まで付きしたがっていたおかげで門葉筆頭で時政の婿だからな。
京武者のままじゃ埋没して全く旨味はなかったろうよ。 >>441
安田義定は遠江守になった時点ではまだ頼朝からは独立していた。
ただ、色々な面で頼朝の権限が強くなると、甲斐と遠江を本拠地とする義定は頼朝に従わないと速攻潰されただろうな。
東国捨ててあらたに西国に勢力を築かない限り頼朝の影響から逃れた京武者として生きるのは不可能だっただろうな。 頼朝の時代はそれ以前に勢力を持っていた坂東の源氏受難の時代。
義朝の件で優遇された大内以外はみんな酷い目にあってる。
唯一の例外が足利だな。
足利家はほんと世渡りが上手い。 安田義定・源義広(志太先生)・佐竹秀義・平広常(上総介)などは
「独立した東国武士」として生きることが理想だったように見える。
だから、中央貴族や平家による過度な干渉は嫌っただろうが、一方で
鎌倉政権のような強力な政権が近辺にできて、家人として服属するよう
要求されるのも迷惑だったのではないか?
源氏一門や強力な坂東平氏にとって鎌倉政権などできないほうがよかった
のではないだろうか? 大内平賀?
酷いじゃん源氏門葉だかなんだか知らねえがあっけなく滅亡してるし >>445
> 唯一の例外が足利だな。
つ小笠原、信光系武田。
このあたりは下手に鎌倉政権中枢に入らなかったからな。 >>441
源範頼は自身が京とパイプを持つが故に頼朝から警戒されていることを自覚していたからね
だから後白河院の護衛任務を義経に譲っている >>447
武蔵の受領で京都守護だぞ。
バリバリのナンバーツーだわ。
しかもこういう立場に頼朝在世中から時政失脚まで30年近くいたんだぞこの家は。
一瞬の栄華ではない。 大内平賀は、頼朝に優遇されまくったおかげで
北条氏に警戒されてしまった。 >>446
志田以外はそうだろうが、志田はまた違う。志田は保元の乱で崇徳上皇方に
ついてお尋ね者状態だったため(賞金首がかかっていた)、とにかく関東が
どんな形でも秩序が戻ることを避けたかった。最後は賞金首仲間の木曽義仲、
新宮行家らと結んだけど。 >>451
正確に言うと、平賀朝雅は
時政牧の方陣営に近すぎたので(妻が牧の方の娘)、
反牧の方派の政子義時が時政追放した時にとばっちり喰らった形。
その異母兄の系統の大内は都にいることが多かったし、朝雅とは距離を取っていたから
牧の方事件では損害なし。
御家人でありながら京武者に近い存在になっていた。
その結果承久では負けカード引いたけど。 >>452
志田義広は平治のあともしれっと畿内で活動した記録が残ってるし八条院領志田荘を管理してたぞ。
元々義仲に近かった義広(八条院グループ)が
多分義仲と裏で組んで野木宮合戦起こして、負けて義仲の元に逃げ込んだ。
そうなったら義仲と運命を共にする以外の選択肢はなくなってしまった。 >>452
義広が保元の乱に参戦したかどうかは不明じゃないのか 志田が参戦したと記述されているのは保元物語ぐらいかな >>456
「平治物語」に信頼方に義朝軍の一員として加わったとある。但し名前は義憲になってるけど。 >>451
まぁ、七騎落ちで最後まで随伴した平賀を頼朝が心情的に優遇したくなるのは当然かな 頼朝は不遇な時に尽くしてくれた人間を信用するんだよな。
平凡なようだけど大事なことかもな。
大半の人間が弱り目になると裏切るからね。
伊東は実に惜しいことしたよなw >>459
それ考えると北条って頼朝からしてみれば
当時無価値の流人であった自分を婿にしてくれて
誰が見ても無謀としか思えない挙兵に協力した
恩ある家でもあるよな。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>460
北条は、呂不韋みたいなもんか
まぁ、自分の種を皇帝にまでした呂不韋には負けるけどな 始皇帝の実父呂不韋説は秦を滅ぼすのを正当化するための作り話説もあるけどな
劉邦の正妻呂后は呂不韋と同じ一族の生まれではという話もある >>464
その両方を信じると、秦漢革命は呂氏の親族間の争いとなるわけか
項羽の存在が一気に霞むように感じるのは俺だけ? 田斉に滅ぼされた姜斉の一族が、密かに復権して天下を奪おうと
陰謀を企んでいた。それが呂不韋であり、呂后であった
…という設定はどうかな。小説のネタとして >>460
牧氏事件などの暴走があるとはいえ、それが時政の評価出来る点かな
ただ得宗家の由来が義時の法名の時点で時政は忌むべき存在の一方で義時が事実上、基礎を築いたような扱いだな 義時の烏帽子親は三浦説があるがやっぱそうかな
時連も三浦だったし、泰時の許嫁も三浦
宗時の烏帽子親も三浦かも >>469
ただね、この時期「宗」の字を持つ三浦一族いたかなあ?
中村氏かもよ。
中村氏も三浦とつながりあるし。 和田義盛の父親だろ
で、時連が佐原義連なら、義時は三浦義澄だな 杉本義宗→宗時
三浦義澄→義時
佐原義連→時連
非常に綺麗だな。
まず間違いなかろう。 三浦烏帽子親説の場合
一つだけ疑問あるんだけど
時政の上の息子三人のうち
宗時、時連は三浦の通字じゃない方の字を貰ってるんだけど
義時だけ三浦通字の義を貰ってるんだよね。
これってなんか意味あるのかな? 話ズレるけど、三浦義澄の澄って、上総介広常の父常澄からかな?
三浦と上総との付き合いは強いようだし、
この付き合いが頼朝の房総復活劇の一つ要因になるかもな。 諱の研究は面白いかもな。
特に平安末期から鎌倉初期くらいだと諱のつけ方のルールも定まっていないから
案外誰の字をもらってるか判断が難しい場合が多い。 旗揚げ前から、三浦と北条はかなりつながりがあるのか
ともに挙兵するはずだ 畠山などの猪武者とは異なり権謀術数に於いても北条と張り合えるのは三浦
三浦は源家とも義家公の頃からゆかり深く平家との戦で玉砕した三浦義明に頼朝も涙を浮かべたとか 北条はどんな軍事活動をとってたんだ
甲斐源氏と交渉してたんだっけ >>480
時政と甲斐源氏との関係
『吾妻鏡』 頼朝の指示で甲斐源氏と交渉
『延慶本平家物語』 石橋山に負けて頼朝にも告げず戦場から甲斐へ速攻逃亡。
どっちかというと吾妻鏡には脚色というか美化が混じった可能性もある。
ただし時政には義経事件の時に頼朝の代理人として朝廷と交渉して一定の成果を上げた実績はある。 北条の拠点の韮崎近辺は東山道と甲斐へ行く道との十字路みたいなとこだからね。
北条家は古くから甲斐や駿河とは深い関係にあったんだろう。 出自故に甲斐源氏と繋がりのあった源範頼とも遠江を巡って反目していたらしいからね 失脚するもののあんな大それたクーデターを画策するような人物だ
曽我兄弟の仇討ち事件の黒幕が時政という陰謀論が浮上するのも無理がない 石橋山での敗戦では時政は武田のもとに逃れ子どもの宗時は伊東軍に討たれてるね
何れにせよあの窮地を脱した頼朝は強運過ぎる >>486
プッツン懐かしいw
元祖プッツン女優は石原まりこだっけ。
鶴ちゃんのプッツン5とかw 北条家自体が成り上がりの実力社会を具現化したようなものだからな >>490
源氏だ平氏だという点がまったく問題にならなかったってだけだろ 時頼の代あたりから執権が御飾りか盛り立て役で得宗が実権を握る二重、三重の構造だったからな 鎌倉と室町を語るのは本物の歴史オタ!
間違いない! 織田信長も平氏だというが系統は、どうなっているのだろうか? 長崎一門て全国的に守護地頭職も手中にしてたんでしょ
子孫がいないのはみんな殺されてしまったの? >>496
実際は藤原か忌部らしい
信長が天下人になるにつれて源平交替思想にあやかって名乗ったらしい ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 得宗の代官として守護代クラスにはいたかもしれん
新田に討たれた上野の守護代とか
諏訪と一緒に中先代で挙兵した層とか BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 >>482
北條拠点ってことは
韮崎→韮山
東山道→東海道かな?
甲斐の韮崎が北条の拠点とは知らなかったわ。 北条重時の烏帽子親って誰なんだろうな
あの当時存命の重役で名前に重がつくのって葛西清重か佐竹義重ぐらいしかいないっぽいんだけど
もう少し早ければ畠山重忠がいたんだが、実兄の朝時の元服より前に死んでるからありえないよな ありえるのは初期評定衆だった三善倫重もしくは三浦一族の大河戸重澄か
泰時は初名が頼時で源頼朝の「頼」
朝時が源実朝の「朝」、政村が三浦義村の「村」、実泰が源実朝の「実」
泰時、朝時、実泰は将軍の一字でなぜ重時や政村は将軍からもらえなかったのか
政村と実泰は同母兄弟なのに兄の政村が弟より悪い扱いになっている >>496
信長は源平交代説を信じていたから平氏だと名乗るしかなかった説 >>496
信長は織田氏の祖である織田親真が平資盛の子だと称していた >>506-507
もともとは藤原を名乗ってたが晩年頃? に平氏に変更したんじゃなかったかな
若い頃の署名では藤原信長になってたはず 織田氏は齋部氏(タカミムスビ系の忌部氏)の可能性が高い。
この家系は古代においては、中臣氏(藤原氏の前身)を上を行く祭祀の名門家系だった。 >>448
政権の中枢に入らなくてもたまたま安達と懇意だっただけで霜月騒動に巻き込まれる >>504
普通に葛西清重じゃないの?重時の娘に葛西殿っているし
葛西氏から屋敷を譲られたからその名前なんでしょ
どういう経緯でそうなったかは知らんが ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ こんにちは、はじめてこのスレに書き込みします。
歴史好きでとくに北条氏に興味があります。
本当に不思議な一族ですよねえ、この北条氏は。
将軍でもなく、従四位下ぐらいでしたっけ、極官は。
その程度の一族が150年近く政権を握り、日本を支配。
神奈川県知事が総理大臣をやっていたようなもんですよね。
そして最後は族滅されると。
こんな一族は日本史では他にないですよ。 そして最後は鎌倉武士として一族玉砕。
まさにサムライらしい最期じゃないですか。
畠山や梶原を粛清して悪行を尽くした報いではありますし、
得宗専制とか悪く言われるんですけど、
それでも最期は本当に美しいと思うんですよおお。
どう思いますか、この北条氏の生き様を!
ぼくはそういうところが、
まさにインガオホーであり、でも最期はきっちりとしめたところが好きなんですよおお。 足利将軍家だって分家は(鎌倉公方の後裔)残ったけど本家は断絶したし頼朝の子孫も早期に断絶したし、
管領細川氏も本家は滅亡して分家が幕藩大名になったし、
滅んだ家の方が多いような気もするんだよな。討ち死にとか切腹とかで滅んだ例が少ないだけで。 長崎含め北条一党は最後まで鉄の結束を見せた点に凄みを感じる 秋田城介の一派とか東北あたりの北条被官たちは南北朝時代なにしてたんだろうか
地元で各個地元の反北条派に撃滅されていったんだろうか 安達は他の北条与党とともに北方で叛乱を起こす者もいれば足利の与党となった者もいるな 北条政村の官職って変じゃね?位階はさっさと従四位になってる(40前に叙位。重時46歳、朝時48歳、義時53歳、泰時55歳)のに
国司任官が連署になって陸奥守になるまで全くない(重時25歳、朝時32歳、泰時35歳、有時37歳、義時41歳)のな
どっか適当なタイミングで遠江守なり出羽守なり伊豆守なり西国の守護なりやりそうなもんだが
兄貴の有時が30年以上駿河守やってるっぽいのも謎だな…兄貴の意地で譲らなかったのかな?w
幕府での役職も評定衆になるまでは正式にはなし?(実質的な寄合衆だけど)小侍所別当も弟の実泰がやってるし >寛喜2年(1230年)1月13日、常陸大掾に任官。閏1月4日、式部少丞に転任。10月15日、従五位下に叙位。式部少丞如元
常陸大掾って国司(かみじゃなくじょう、三等官だけど)だろ。
あと、国司は守でも従五位相当の官職だから、四位ならむしろ中央の官職の方が適切。
官位相当表で従四位だと中宮太夫とか左右大弁あたりか、貴族以外の就任が難しい程度には、けっこう上級職だよ 北条朝時が手を出そうとして怒られた娘の親父の佐渡守親康って何物なんだろ
1146年に信濃権守やってるっぽい人と同一人物だとしたら年齢がちょっとおかしいな
1212年だともう相当な年齢だろうに佐渡守どまりってことはそこまで羽振りのいい門流ってわけでもないのかな
九条兼実の弟の慈円とも懇意にしてるってことは九条家関係者なんだろうけど 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
CIO1G とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
5NM 義時は頼家の小さな子供たちを殺したり、邪魔者は徹底的に抹殺してきたけど、その報いが子孫たちに行われたと考えると幕府の滅亡も合点が行くね
くにときは9歳で処刑されたけど、あの世の義時はどう思っているだろうか >>527
北条太郎邦時(9歳)は一番信じていたおじさんの五大院宗繁に騙されて斬首されたんだね
北条義時は頼家の5歳の子供(一幡)や公暁たち邪魔な人たちをたくさん殺した罪深い人だけど、
まさにその因果が子孫にたたったという感じだね
みすぼらしい姿で鎌倉の処刑場の筵の上に引き立てられた9歳の男児を、
義時はどう思っているだろうか
9歳の男の子は北条150年の罪をすべて背負ってしんだキリストのようだよ 伊豆の土豪から出発して30年で鎌倉幕府の最高指導者、
義時はマジ成り上がりだよ あと、北条の人々は繁殖力が強いよねえ、
側室たくさん持ってなおかつ生まれるのが男ばかりと
バンバン分家ができるよ
はらませ一族やがな しかしあれほど名君揃いなのになぜ絶滅されるほど憎まれたのか 安達、三善、大江の各氏の子孫も滅亡をともにしたのでしょうか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています