【鎌倉北条氏】〜門流・子孫・被官〜その3 [転載禁止]©2ch.net
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鎌倉執権北条氏専用スレッドです。
多くの門流が派生し、同族間の争いも絶えなかった北条氏。
北条氏の出自、幕府内での各門流の動向、幕府滅亡後のその各門流の子孫の動向、御内人・被官について語るスレッドです。
また北条氏とその他有力御家人との関係についてもご自由にどうぞ。
※前スレ
【鎌倉北条氏】〜門流・子孫・被官〜その2
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1402780639/ 北条氏は子沢山ぶりがすごいよ
側室集めてセックスしまくりだったんだね
徳川将軍家は見習うべきだ >>543
譜代家臣もなく味方の乏しかった頃の頼朝に、譜代家臣の代わりに自分の一門たる北条氏を味方させて家臣団の中核を作っただろ 頼朝擁立に積極的だったのは政子で時政は消極的だったらしい
政子の説得に応じて時政が動いたとかで >>533
自分たちで、自ら絶滅を選んだんだろ(北条時行をのぞく)
これは北条に限らず、平家、和田、三浦らもそうなので、
そういうカルチャーだったとしか言いようがない
それが転換されるのは、後醍醐天皇以降のこと
しぶとく二枚腰、三枚腰、各地を転戦するようになる
足利直冬、懐良親王、足利義視、足利義稙、上杉憲政など
北条や安達、長崎らも、鎌倉で集団自決などせず、
地盤のある陸奥や蝦夷地へ逃れていたら、まだチャンスはいくらでもあった
現に建武の新政は数年で瓦解したのだから 連休中に、鎌倉の頼朝の墓行ってみた。
割と近くに義時の墓があるのね。但しこちらは鎌倉末期には結構見棄てられていたらしい。
大蔵幕府が置かれていた頼朝自宅跡は、現在私立小学校になってた。 まあ後継者が足りないイメージの原因は秀忠と家綱綱吉家継と家治家定家重あたりが原因か
って過半かよ >>529
悪いことをすると報いがくるんだよね
北条氏、豊臣氏、ドイツ帝国、ソ連
北条氏150年の罪を背負った邦時少年は本当にかわいそう
寒くて痛くてお腹が空いて辛くて、斬首
地獄の義時はどう思ってるだろうか >>542
色ボケジジイはもっと早く粛正してもよかったのに >>541
牧の方が出しゃばって早々に瓦解してたろ 得宗家というが実態は最明寺家というべき
傍系継承の時頼以降の正系という感じで >>555
そんなん言い出したら、そもそも義時も泰時も傍系継承やで? まだ本家分家の別が確立されてなくて、もっとも出世したヤツが代表として本家となってたような時代のことじゃん、鎌倉時代前半頃までって。 ブー、たとえば北条氏なら時政→政範が嫡流です
なぜそれがわかるかというと、
・母親(牧の方)の身分が高いこと
・官位の昇進が他の兄弟より早いこと
・義時は長く、北条姓ではなく江間姓を称していたこと
などが明確に示しているからです
とくに足利氏の例を見ても、
別姓の江間を名乗った時点で義時は庶流だとほぼ断定できます
例外は、時代が下がって、平頼綱に溺愛されて、
御内人でありながら、そして内管領でも、侍所所司でもないのに
国司(安房守)になった飯沼資宗ですね、彼はあらゆる意味で異例です >>559
時行の子孫の横井さん(本家は尾張藩重臣、通字の「時」も継承) 得宗家に生まれたかった…
「太守」と呼ばれたかった… >>562
得宗家でも庶子に生まれたら粛清の対象、
嫡男に生まれた生まれたで、(エジプト王朝よりはマシだが)
安達氏との近親婚の繰り返しで、遺伝的に欠陥のある病弱な体に生まれ、
内管領が箸の上げ下ろしまで細かく指図してくるんやで?
あまりいい人生ではないよ 家名とそれなりの領地(四千石)、地位(尾張藩重臣)が残った
得宗家(横井氏)はまだずっとマシだよ
安達氏とか長井氏(大江氏惣領家)とか南北朝の争乱で完全に消えたからな ついに大河で俺たちの得宗がきたね!
北条フリークとしてはこりゃ楽しみだわ!
時代が何を求めるのか明確に判断できた男だよ、義時さんは! >>564
分家あわせた横井一族全体では約一万石な
>>565
むしろ吾妻鏡の捏造プロパガンダを排した、
残念な成り上がり北条氏、残念な義時さんを描くことを期待してますよ 鎌倉殿の13人→北条時宗→太平記
これで北条得宗は完璧にカバーできるな とにかく北条氏は(もちろん北条義時も)
コンプレックスと恐怖心の塊だということを理解する必要がある
後代では、長州閥と(世界の)共産党が北条氏と非常によく似ている
13世紀に現れた、その先駆性は世界的にも稀有で、恐ろしく早い
長州閥と反日左翼による合作の反皇室プロパガンダ、共産主義者の破綻した陰謀論、
明治天皇替え玉説(笑)や田布施システム(笑)なるものがあるw
反日左翼は実は「似た者同士」の長州閥が大好き、
長州を過大評価、長州の虚像を広めることで、長州のお手伝いをしている
私は最初、追い込まれている、しょぼい長州閥が
自分たちを大きく見せるために、この手の捏造プロパガンダを流してると思ったら、
どうやら本当にアカが流しているようで、アカのあまりの頭の悪さに大爆笑したものだ 【長州閥の実像】
幕末に、尊皇攘夷のカルトテロリスト集団が手の平返しをして、長州征討で滅亡寸前だったところを、
外国の力まで借りて九回裏2アウトから逆転サヨナラホームランを打っただけ。
当時、明治天皇以外にもフツーに男性皇族はいた、江戸幕府はそれ以外に輪王寺宮というカードも持っており、
すり替え()など政治的に自殺行為。 また明治天皇の生母の実家の中山家で
明治天皇の幼少期の養育に関与していたのは、長州ではなく、むしろ薩摩である。
もちろんすり替え()・替え玉()などしたら、薩摩が黙っていない。
マイノリティが一瞬の差し脚、ただのクーデターで権力を手に入れただけだから、
明治維新後も、(薩摩と比較しても)異様に権力に執着して、
山県有朋という足軽未満の中間(ちゅうげん)上がりの小心者が、
ハリネズミのように陸軍や内務省(警察)を抑えにかかった。
このあたりは、ソ連共産党始め世界の共産党の権力奪取パターンと非常によく似ている。
歴史的には、共産党よりも長州閥の方が早く、さらに言えば鎌倉幕府の執権北条氏の二番煎じ、再来とも言える。
薩摩は徳川将軍とも皇室とも縁戚であり、どっしり構えて、そのようなことをする必要はないのである。
それでも長州閥というのはショボくて、戦前も、昭和の段階で、すでに押されまくっていた。
ちなみに長州閥は実に3回も歴史的な国民暴動(※)を起こしている嫌われ者の無能集団なのである。
(※)第一次憲政擁護運動(×第3次桂内閣)、米騒動(×寺内内閣)、60年安保(×岸内閣)
ただし、ここでは、嫌われ者の無能集団であることよりも、
長州閥の恐怖心・コンプレックスを理解することの方が重要である。 (>>569の続き)
大正の頃から、すでに薩長史観批判があったのは(内藤湖南など)、
薩長や公家が弱すぎて、佐幕勢力を一掃できなかったから、
華族・士族の支配階層として、そっくりそのまま温存せざるをえなかったからである。
長州閥の田中義一が、張作霖爆殺事件で若い昭和天皇に一喝されて内閣総辞職したのは、
それくらい長州閥の立場が弱いからである。(憲法上は、総辞職の必要はまったくなかった)
宮中某重大事件で(薩摩その他に)完敗して、失意のうちに死んだ山県有朋も同じ。
安倍晋三と不仲であることが周知の上皇陛下も、退位問題で安倍を振り回す一方で、
政府主催の明治150年記念式典(長州閥の正統性をアピールする、とっても大切な式典)は欠席した。
安倍晋三が即位の礼はじめ皇室関連行事を最大限に利用するのは、
鎌倉幕府の執権が「鎌倉殿の命により」と言う(言わざるを得ない)のと同じであるが、
目的が勤皇ではなく、あくまでも自分の権威付けなので、1年に3回も世界覇権国・宗主国の
トランプ大統領を日本に呼びつけようとしてトランプを激怒させ、
序列13位の末席の女性閣僚を派遣されるような大失態を犯すわけだ。
たった1回の来日に絞れば、トランプを即位の礼に呼ぶことも十分に可能だった。 やる夫が鎌倉幕府を成立させるそうです 第六幕 「次郎実朝」 後篇
(一部抜粋)
吾妻鏡が北条氏の歴史本で、北条氏にとって都合のいい本だと知っているだろう。
それは正しい、ただ……、北条一族の重要人物の中で、
どうも一人、“妙に吾妻鏡が厳しい目を向ける人物”
……そういう人物がいるのをご存知だろうか。
北条義時、である (中略)
このように、義時は何かやるにしろ必ず実朝なり家族なりに諌められている。
はっきり言って書く必要はないのに、だ。
ただ、義時が諌められている事項を抜き出すとあることが分かる。
★★被官にえこ贔屓すること、大御家人に便宜をはかるため道理をねじ曲げること。
権威のために寺社に資材を大量に浪費すること……。★★
それらで義時と共通する存在、それは―
吾妻鏡は義時に、―鎌倉時代末期の北条氏を重ねているんだよ!
義時の状態は、権威も格もない新興氏族が陥りやすい状況であり、
彼自身の意識よりも、そうせざるをえない部分がある。
油断するとこうなる、そう言った見本のような部分があった。
後に陥る状況を、予言のようにはっきりと言う実朝は、義時の状況を見た上で論理的に出した結論なのだろう。 皇室が鬼門、泣き所なのも、北条氏=長州閥に共通してるね 北条義時と、(長州閥の)安倍晋三をかぶらせる演出、
なんとなく連想させる演出とかすると話題になるよ あ、そうか
当然、義時の死まで描くだろうから、承久の乱で、
後鳥羽上皇と現代の上皇陛下をかぶらせて、
北条義時=(長州閥の)安倍晋三の礼賛ドラマになるのかーw
その頃まで、安倍内閣が続いているとも思えんが┐(゚〜゚)┌ パヨクってホント気持ち悪いなあ
何でもかんでも安倍ちゃんに結びつける
そんなに安倍を愛してるのかw 安倍首相が北条義時に似ているわけがない。
安倍首相は、旧町村派の引き立てで第一次内閣をやらせてもらってダメなところをカバーしてもらってたのに、領袖である町村信孝会長が出馬した総裁選でまさかに裏切り出馬をして、大顰蹙を買った。
北条邦時を裏切った五大院宗繁なら安倍首相によく似ている。 >>577
最近の大河ドラマは政治色が強い、
ドップリ政治に浸かってるのに何言ってんだこいつ >>578
恩のある大御家人を次から次へと滅ぼして成り上がった北条氏にそっくりですやんw 関連本だが、人物叢書の「源頼朝」、「北条時政」早く刊行してほしい 泰時・重時・時頼が出てるけど北条政村は出せるのだろうか? >人物叢書 >>583
現在、刊行予定なのが時政、高時 政村は予定にはないね >>529
北条邦時は各種媒体によると「処刑」されたとのことだけど、
それは斬首なのかなあ
だとすると10歳前後の子供を斬首、いったいどうやってやったんだろうか
そして北条邦時少年の気持ちはどんなもんだったとうねぇ 北条氏と鎌倉幕府
執権北条氏は、なぜ自ら将軍とならなかったのか。その謎を解き明かした興味深い本です。
鎌倉時代の武士の荒々しい実像を初めて知った思いがしました。鎌倉時代の武士たちは、自分たちを「勇士」と称していたが、要するに野蛮人だった。
京都の王朝貴族は東国武士を蔑んで「東夷」(あずまえびす。東に住む野蛮人)と呼んだが、そのとおりだった
紛争解決方法として相手を殺すことを即座に選ぶ武士たちが作った鎌倉幕府は、まさに蛮族の政権であり、王朝のような知識の蓄積はほとんどなかった。
鎌倉武士たちは支配機構を手探りで作っていった。鎌倉幕府の歴史は、東夷たちの悪戦苦闘の歴史であり、すなわちムダな流血の連続だった 池畑慎之助の大河の役は男装武者みたいでめちゃかっちょえ >>548
>自分たちで、自ら絶滅を選んだ・・・・・
1333年5月に叛逆者足利高氏勢に敗れ東国へ没落行途中の
六波羅探題北条仲時一行が中山道近江番場宿手前の蓮華寺で
集団自決に及んだのは何故だったのか?
自決者432名にものぼる勢力だと道中で敵対する勢力に
遭遇しても敗残事態はなかっただろうに。 >>585
邦時を生かしておいたら弟の時行のように挙兵していたことは間違いない
幼い子供といえども殺さなければやがては自分たちが滅ぼされる危惧が伴う
新田義貞が本当に殺してやりたいと思ったのは褒賞目当てに邦時を売った五大院宗繁だと思う
10歳の浅井万福丸の尻を槍で串刺しにした野蛮猿の秀吉よりは斬首の方が人道的といえる >>585
紐を付けた籠の中に入れて海に沈めたかもよ
誰の子供を処刑したときのやり方だったかな?ハテ >>500
大和説側が九州説を批判するときに、
列島規模の大和中央集権国家は魏志倭人伝の記述と合うとか、
3世紀に九州中央集権国家ができていたなんてあり得ないと言うが、
九州説側は中央集権国家ができていたなどと主張してない
大和日本國は倭國の別種の旧小国であった、と言っているだけ
大和説者らは、藁人形論法で批判してるだけ >>548
鎌倉合戦で自決せず、将軍の守邦親王をお連れして所領へ下って転戦する道もあったよね
鎌倉が天然の要害であるが故に、立てこもって運命をともにする道を選んでしまったのか
先祖の北条時政は石橋山合戦後も頼朝といっしょに落ち延びて再起しているんだから
その先例に習って欲しかった 北九州市近郊の田舎の出身なのだが、家紋が三つ鱗
家の言い伝えでは、規矩高政か糸田貞義の子孫だといっているが実際どうなんだろうか? >>564
幕末期に青松葉事件で一族の何人かは処刑されたけどな、親戚筋の熊本藩家老の人も暗殺されてるし呪われてるわ。 >>600
横井小楠は殺されてなけりゃ明治政府から勲功受けてたと思う 鎌倉北条末裔の一族の名字で某地域で調べたら今でも時の通字使ってて感動した。旧華族でも通字をやめちゃってる所が多いもんな。 明日発売の少年ジャンプで『暗殺教室』の松井優征
先生の新連載『逃げ上手の若君』が来週開始!
なんと主人公は北条時行!!
主人公の逃亡譚になるとの話だが、俺のイメージ
では北条時行は生涯足利家への復讐の為戦い続けた
というイメージだが。いずれにしろこれは楽しみ!! 母校の先輩に横井北条氏の末裔が居てびっくりした。愛知では今でもかなりの名門ぽい。 「逃げ上手の若君」。
まあ、予想通りだが、足利高氏の悪役ぶりが(笑)。
少年マンガらしくかなり歴史背景ははしょってる。
評価としたら及第点といったところか。
あとは後醍醐天皇をどう描くかが楽しみ。 >>604
社会学者 横井時冬
東山動植物初代園長 横井時綱
維新以降も中々の大物を輩出 維新後の尾張徳川家の家政機関で、御相談人(発足時6人)にも横井時犠の名が見えますね
旧重臣で名が見えるのは成瀬氏(子爵)と横井氏だけですね 維新後旧重臣が一般人化していく中で近代で名前を見かける辺り今でも名古屋の名門一族なんだな >>540
初期の北条一族は得宗家と名越家の血統的な優劣は判然としてなかったんだよな
得宗家の主導性が強まるのは年長の泰時の実績が大きかったのと執権を長期に務めたのが大きかった印象 >>605
やはり得宗という言葉は出なかったな
高校クラスの教科書でもまだ使ってないかな >>610
巻末の解説でようやく登場
中公新書の中先代の乱でも紹介 >>594
御内人が得宗の外戚になる可能性もあったんだよな >>575
三つの内乱と徳政令をベースにした貞時時代の作品を見たい 『逆賊、ドゴール将軍、神風、持明院統』
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▼平治の乱の後、死一等を減ぜられ、平清盛の嫡男、平重盛の家人である藤原南家の伊東祐親(工藤祐親)の監視下に 少数の従者を伴って13歳で流された清和源氏の嫡流、頼朝。
▼名誉を重んじ 一族が睦み合う関東の自然恩沢の守護人(名門)たる小山氏や千葉氏、三浦氏などと全く異なり、辺境の伊豆では 本拠地の伊東を中心とする久須美庄の開発領主となった工藤祐隆の一族のように肉親同士が血で血を洗う骨肉の相続争いを繰り返していた。
▼工藤祐隆の本拠地 伊東が 後妻の連れ子である工藤祐継から その息子の工藤祐経へと相続され、嫡流を自負する己には辺境の河津しか宛がわれなかったことに反発した前妻の孫、河津(工藤)祐親が伊東を掠め取って伊東祐親を名乗り、すると今度は工藤祐経が逆襲して 伊東祐親の嫡子、河津(工藤)助通を奥野の巻き狩りの帰路、射殺した。
▼そして相模の小領主である曽我祐信と再婚した河津(工藤)助通の未亡人の連れ子が『曽我物語』に登場する曽我十郎祐成(幼名 一万)と曽我五郎時宗(幼名 筥王)である。
▼辺境 伊豆の豪族達は、名誉を重んじて同じ血筋で結束するよりも おのおのが暴力、詐欺、脅迫で生き残る道を切り開くのが流儀だった。
▼流人である源頼朝の監視役だった伊東祐親の目を盗んで、頼朝が祐親の娘、八重姫と密通し千鶴御前をもうけたのを知ると、伊東祐親は容赦なく千鶴御前を松川に沈めて殺害したので、頼朝は北条時政に庇護を求め 時政の娘、政子と結婚した。
▼この時 北条時政は伊東祐親の娘を正室に迎えており 既に義時や政子などをもうけていたが、矢張り同じ血筋で結束するよりも 伊豆の豪族達の流儀に従い、勝ち馬に乗るべく我を通す道を選んでいる。 (続き)
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▼伊豆の豪族達は、 名誉と血統を重んじ 宗家に対し庶家として忠義を尽くす関東の自然恩沢の守護人達と全く異質であり、おのおのが暴力、詐欺、脅迫で我を通す破落戸ヤクザの流儀の信奉者だったので、同族への裏切りも日常茶飯事だったのだ。
▼源頼朝が平家打倒の兵を挙げると、平家方の伊東祐親の娘を正室に迎え 自らも平氏の末裔である北条時政は 躊躇することなく頼朝に従軍し 伊東祐親や平家軍と戦火を交えた。
▼治承・寿永の乱を制し 源頼朝が将軍に就任すると、平家方だった伊東祐親は恩赦を辞退して自刃した。
▼仮に恩赦を受けていたとしても、 久須美庄を奪い取りたい北条時政によって義父の伊東祐親は容赦なく暗殺されただろう。
▼『曽我物語』によれば 治承・寿永の乱を制し 将軍に就任した源頼朝の催した富士野(駿河国)の巻き狩りに潜入して頼朝の側近となっていた工藤祐経を暗殺した伊東祐親の孫が曽我十郎祐成と曽我五郎時宗だった。
▼しかし 仇討ちを成し遂げたところで何も得るものも無いのに 伊豆の豪族である曽我十郎祐成と曽我五郎時宗は本当に父の仇として工藤祐経を、祖父の仇として源頼朝を討とうとしたのだろうか?
. (続き)
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▼暴力、詐欺、脅迫で我を通し 肉親を裏切る骨肉の争いも厭わない破落戸ヤクザの流儀で生きる伊豆の豪族の端くれが、何の得も無いのに父や祖父の仇討ちをしたとは考えられない。
▼平家方に付いた伊東祐親や孫の曽我兄弟が 源氏方に付いた工藤祐経を殺害したところで、頼朝が敵方に恩賞を与える道理は無い。
▼矢張り曽我十郎祐成と曽我五郎時宗(時の字は北条時政から与えられた)の伯父で 五郎時宗の烏帽子親である北条時政が、発足したばかりの鎌倉幕府で冷遇されたことに憤慨し、暴力、詐欺、脅迫で我を通す意を体して (時政が警備を担当する駿河国富士野の巻き狩りで頼朝の側近を暗殺するよう)曽我兄弟を唆したと解する方が説得力が有る。
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▼すっかり北条時政の仕打ちに恐懼した源頼朝は、頼朝の側近である工藤祐経を殺害し、あまつさえ頼朝の本陣に討ち入って来た曽我五郎時宗を赦免しようとした。
▼また御家人の筆頭であり将軍を補佐する執権職を新設して 北条時政を任命したのである。
▼同じ平家の血筋で結束するよりも 北条氏は頼朝の平家打倒の挙兵に加勢し 躊躇なく同族の平家や伊東祐親軍を蹴散らしたが、それもこれも暴力、詐欺、脅迫で我を通す伊豆の破落戸ヤクザの流儀に則り、勝ち馬(官軍)に乗っかったまでのことだった。
▼辺境の地である伊豆の豪族達にとって 我を通すために同族を裏切り、暴力、詐欺、脅迫で仕打ちを加えることは別にルール違反ではなかったのである。
. (続き)
▼梶原景時の変(西暦1199年)、頼家暗殺(西暦1203年)、比企能員の変(西暦1204年)、畠山重忠の乱(西暦1205年)、和田合戦(西暦1213年、和田義盛)、牧氏事件(西暦1215年、北条時政)、実朝暗殺(西暦1219年)、承久の乱(西暦1221年)、宝治合戦(西暦1247年、三浦泰村)、千葉宗家 乗っ取り(西暦1281年、千葉胤宗)、霜月騒動(西暦1285年、安達泰盛)、後醍醐暗殺未遂事件(西暦1334年、西園寺公宗、北条泰家)と中先代の乱(西暦1335年、北条時行)、大覚寺統への帰順と持明院統への反逆(北条時行)…
▼名誉と血統を重んじ 宗家に対し庶家として当然の忠義を尽くす関東の自然恩沢の守護人達と全く異質であった伊豆の豪族 北条氏は、御家人の筆頭であり将軍を補佐する執権職を世襲すると、暴力、詐欺、脅迫で我を通す破落戸ヤクザの流儀に則り、意の侭にならない身内の源家将軍である頼家や実朝を躊躇なく裏切って暗殺したばかりか、容赦なく後鳥羽上皇に弓を引いて隠岐への流罪を言い渡した。
▼鎌倉幕府滅亡後も、生き残った北条泰家が西園寺公宗と共謀して後醍醐暗殺未遂事件を起こしたかと思えば、今度は逆に北条時行が臆面も無く後醍醐天皇に帰参して持明院統の朝廷に対して躊躇なく弓を引いた。
▼相手が誰であろうと帰順したかと思えば躊躇なく裏切り、暴力、詐欺、脅迫という弱肉強食原理で同族だろうが何だろうが容赦なく相手を打倒することは、辺境の地である伊豆の豪族達にとって当たり前のサバイバル術だったのだ。
▼更に、破落戸ヤクザの流儀で関東における領土拡大を狙う北条氏は、比企氏に続き 武勇と人望の誉れ高い秩父平氏の畠山重忠を騙し討ちにして武蔵国を手中に収め、次いで和田合戦や宝治合戦、霜月騒動で和田氏や三浦氏、安達氏を滅ぼして名実共に相模国を支配下に置いた。 (続き)
▼千葉氏は小山氏や三浦氏などと並び、名誉と血統を重んじ 宗家に対し庶家として当然の忠義を尽くす関東の自然恩沢の守護人であった。
▼辺境の伊豆から進出して来て 暴力、詐欺、脅迫で我を通す破落戸ヤクザの流儀を振り翳し関東に勢力を伸ばす北条氏は、南関東攻略の総仕上げとして 元寇に際し領国を留守にした千葉宗家の当主、宗胤の隙を突いて 北条一門の金沢顕時の娘を娶っていた弟の千葉胤宗に躊躇なく兄を裏切らせて家督を掠め取らせ、あまつさえ千葉宗家が信仰していた日蓮宗を排撃して北条一門が尊崇する真言律宗への宗旨替えを断行したのである。
▼南関東を攻略し完全な支配下に置いた北条一族が、同族だろうが輝かしい歴史を誇る名門(自然恩沢の守護人)だろうが 暴力、詐欺、脅迫で我を通す破落戸ヤクザの流儀に則って 次に北関東の足利、新田、小山、結城などを潰しに掛かるのは時間の問題だった。
▼特に足利、小山などは北条得宗家の女子を正室に迎え 親密な関係を代々 築いて来たが、そのような努力も ひとたび北条一門に狙いを付けられれば何の抑止力にもならないことは明白だった。
▼江戸時代に『大日本史』を編纂した水戸光圀は、後鳥羽上皇に弓を引いた北条義時を“逆臣”と手厳しく批判したが、南北朝期に『神皇正統記』を著した北畠親房は、“北条義時は人望に背かなかった。陪臣である義時が天下を取ったからという理由だけでこれを討伐するのは、後鳥羽に落ち度がある。謀反を起こした朝敵が利を得たのとは比べられない。従って、幕府を倒すには機が熟しておらず、天が許さなかったことは疑いない”(wikipedia)という官軍批判を展開した。
▼果たして北畠親房の官軍批判は当を得ていたのだろうか。
▼暴力、詐欺、脅迫で我を通す破落戸ヤクザの流儀は 今日まで辺境である伊豆に深く根を張っているようだ。
▼伊豆に起源を持つ朝鮮ゴロツキ・ヤクザの稲川会も、正に北条一族の足跡をなぞるように神奈川県に進出し神奈川県議会を手中に収め、横須賀の小泉一家を担いで国政に多大な悪影響を及ぼした。
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. (続き)
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▼『裏切り』が全て悪い訳ではない。寧ろ裏切る方が正義である場合も多い。
▼悪逆非道な狂人ヒットラーと誼を通じた暗愚な上役のペタン元帥を裏切って亡命政権「自由フランス」を樹立したドゴール将軍は誰が見ても正しい行動を取ったと言える。
▼ところで 戦前まで横行した南朝正統論とは端的に言えば、「持明院統の天皇方は 平将門と同じように『天皇』を詐称した言わば大覚寺統の朝廷に対する逆賊であり偽主であったが、明徳の和約により それまで『天皇』を詐称していた偽主であった後小松天皇に神器が移ったため、後小松天皇以降、(平将門と同じように『天皇』を詐称した)逆賊や偽主の地位から正統性を有する天皇に変わった」というものだ。
▼しかしながら 易姓革命論に従えば、平将門と同じように『天皇』を詐称した逆賊であり偽主であった徳の無い人物に 後から正統性を有する天皇の地位が移ることは有り得ないであろう。
▼戦前まで横行した南朝正統論は持明院統の天皇方に対して甚だ無礼であったと言わざるを得ない。 ▼南朝正統論を肯定する一方、悪逆非道な狂人ヒットラーと誼を通じて「持たざる国」(無産階級国家)を自称し 国家社会主義三国軍事同盟を結んで、米・仏を盟主とするブルジョア憲法を共有する運命共同体に対して無謀な階級闘争を仕掛けようとした藤原摂関家の総理大臣 近衛文麿。
▼出鱈目な判断を下す藤原摂関家の近衛文麿を裏切ることもせず、ひたすら出鱈目な判断に盲従し 連合艦隊司令長官の地位に恋々として真珠湾奇襲攻撃を立案し 日本海軍を指揮した山本五十六は著しく正義に反する行動を取ったと断じざるを得ない。
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>1338年9月、大覚寺統の朝廷では劣勢を挽回するために東国の軍勢を糾合して京都へ攻め上るという案が用いられ、北条時行も義良親王・宗良親王や北畠親房・結城宗広・伊達行朝・新田義興らと共に伊勢国大湊から出帆したが、遠州灘を過ぎた辺りで暴風雨に遭遇して四散した。北条時行の漂着した場所は不明であるが潜伏して探索を逃れていたらしい。
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▼神国史観に照らせば、日本史の重要な時期に神風が二度 吹いている。
▼一度目は言わずと知れた元寇の時であり、二度目は持明院統の朝廷に味方した西暦1338年の遠州灘の神風である。 平家の場合は早い時期から劣勢が明らかだったからいったん都を明け渡して西国の拠点で抗戦する道が選べた。
だが、北条氏は新田義貞挙兵から鎌倉合戦までの時間が非常に短く、いったん鎌倉を放棄して抗戦するという
選択肢が作れなかったのでは?
鎌倉が天然の要害であるため、鎌倉に立てこもって戦うというのがベストと考えるのが合理的だった
のかも知れない。だが、鎌倉防衛に失敗したとき、次の手段がなくなった。 >>624
あ〜あの時の僧が執権時頼殿でしたか‼
盆栽三鉢と栗ごはんの飲食代を含めて宿泊料金として200万円お支払いください 2022年1月3日(月)15時25分頃 茨城南部で反米・極右が震度1の人工地震(深さ50km)。 核戦力を保有するロシアと手を結んで在日米軍を追い出そうと企んだ浅知恵の反米・極右。 天照皇大神を軽んじる伊勢神道を妄信したため衰勢を辿った大覚寺統を買い被り 天照信仰を貫いた正統派の持明院統(北朝5代)を皇統譜の歴代から未だに排除し続ける逆賊ども。 >>602
北条時敬って教育者もいるね
系統はよくわからんけど横井の系統が濃厚かもね
幕末に近くなったあたりで北条を名乗り始めたとか 戦国時代の宇都宮家の家臣に北条勝時ってのがいるけど新規のどの系統なんだ?
横井系ではなさそうだけど 一部地方の伝説を採用して八重姫が義時の嫁になっちゃった
アニメ平家物語でも資盛が奄美で生き延びた説を採用したり
大正13年(1924)の小谷部全一郎著成吉思汗ハ源義経也とか
こういうのが歴史を面白くしてる 足利義氏室(北条泰時娘)と足利泰氏室(北条時氏娘)は誤記の可能性がありそう。
生年を考えると義氏に嫁いだのが北条義時娘、泰氏に嫁いだのが北条泰時娘かな? 兄の安徳天皇は身投げしたのに
弟の後鳥羽上皇は敗戦後に生き恥さらして惨めに島流しになったのはなんで? 江戸時代中津藩の奥平家に仕えてた横井家も北条系横井氏の系統なんかね。
こっちの名前は追える分だと忠○○で、北条系の時○○じゃないから別系統かもだが、 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています