【鎌倉北条氏】〜門流・子孫・被官〜その3 [転載禁止]©2ch.net
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鎌倉執権北条氏専用スレッドです。
多くの門流が派生し、同族間の争いも絶えなかった北条氏。
北条氏の出自、幕府内での各門流の動向、幕府滅亡後のその各門流の子孫の動向、御内人・被官について語るスレッドです。
また北条氏とその他有力御家人との関係についてもご自由にどうぞ。
※前スレ
【鎌倉北条氏】〜門流・子孫・被官〜その2
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1402780639/ 伊勢氏の先祖は伊勢前司藤原俊継って名前出てくるね。
で、系図には「伊勢神宮のお告げにより伊勢平氏と号する」とある。 北条氏が平氏であることを否定するってことは、
北条氏が「京侍」の出であることを否定するってことさ。
ま、近頃武士の起源をことごとく「京侍」に一元化するきらいがあるが、
やっぱりそれは行き過ぎで、在地の土豪から成長した「武士」もいたと思う。
系図では北条氏の近親ということになっている熊谷氏は、あれはやっぱり私市党の武士で、
在地豪族系じゃなかろうか。 >>85
在地の土豪たちは京都とのつながり、人脈を希求してただろ
その際に有用な手段である婚姻を駆使したと考えるのはおかしいか?
京侍を婿に入れて人脈を強化安定化させようと目論んだ土豪が多かったから京侍の子孫が全国に数多く分散してるんだろ
あと、各地の在地土豪たちの相当数は古代豪族--国造〜郡司の子孫だったと思うよ
庶民が開墾で勢力を築きあげたとかは妄想。 北条氏はあくまでも京武者の子孫。平直方の系譜で間違いないだろう。
だとしたら、北条氏では、当時の坂東武者の旗頭になりにくい。
先祖の平貞盛は、平将門を潰して坂東政権の夢を潰した張本人であり、
また、坂東八平氏の多くが、平将門と同盟関係にあった平良文の末裔たちであり、
平貞盛系は同族と言え、敵対関係にあったものだった。
貞盛の子孫である平直方と
平忠常(良文の後胤であり、母系では将門の子孫でもある)とも戦い、
源頼信が出てきたところで、忠常は降伏した。
これらのことからも、平直方の末裔であることは、坂東武者たちにとって
何の権威にもならなかったことが分かる。
平直方の末裔が唯一、自らの存在意義を高められるのは、河内源氏との婚姻関係であり、
直方の娘が頼義に嫁いで義家と義綱を生んだこと、
時政の娘が頼朝に嫁いで、頼家と実朝を生んだことである。 だからこそ、北条氏は自らが旗頭にはなれず、
清和源氏や皇族に娘を嫁がせて外戚になることで権威を高めた。
源氏が三代潰れた後は、皇族将軍や源氏の名門の足利家との婚姻を深めた。
そんな北条氏も、自らが武門の旗頭になろうとした時が来た。
それが北条時頼であり、このころから北条氏の嫡流は得宗家と言われるようになり、
鎌倉幕府の政治機関である執権職とは別に、事実上の武門の棟梁として脱皮しようとした。
実際に時頼は、息子の時宗に、頼朝らが行っていた行事を継承したりするようになる。 >>87
こいつのはいつも極端な妄想しかはかない。
ただの一部分の極端な肥大解釈しかできない低学歴 >低学歴
お前だけには言われたくない
東大以外は大学と言わないと言うのを知っていて使ってるんだろうな? でたでた基地外力
東大以外は大学のなを知らないという高卒のなせる笑いだな
たいしたもんだ >>91
お前にとっては阪大出でも低学歴だと分かった。もうしゃべるなよ >>89
こういう、「系図」だけを唯一の根拠に「京武者」の子孫っていいきっちゃうのは、
もう学問の領域じゃないんだよね。
系図マニアに多い。 時政の祖父と考えられる北条時家が伊豆介であったという記録がある
このことの真偽はどんな感じなの 伊豆介というのは
京で任ぜられる場合と(政官官職との兼任、お給料替わりの任官)
と地元有力者が任ぜられる場合があるよな。
狩野介の場合は地元任官ぽいけど(それでも都に上るとかそれなりの人脈があると可能性はある)
こっちはどうかな?
あ、それと北条氏系図は系図によって時政以前が混乱してるから
その「伊豆介」記載の系図はどの系図かわかれば教えてほしい。 当時は正式の「伊豆介」(これは中央の貴族が任命され、ようにん国司であることが多い)
のほか、地元の在庁官人が勝手に名乗る「介」もあった。
系図に伊豆介とあるからといって、正式のものであるとは限らない。 >>98「伊豆介」記載の系図はどの系図かわかれば教えてほしい。
お前人に聞く前にちっとは調べろや
尊卑文脈以下ほとんどの系図に載ってるやん >>100
このスレを見てるのは議論している当事者だけではないんだから
ギャラリーにもわかりやすく「系図に書いてある」の言い出しっぺが
具体的系図名や、どこみればその系図が見れるのか提示しておいた方がいいと思う。
それみて北条の出自は平氏だ説に賛同する人も増えるかもしれないし。 伊豆北条氏の京武者由来性を否定したい連中ってのは、
当時の日本の政治体制の中央集権的性格を否定したい連中だと思う。
律令制ってのは、基本的に中央集権なんだけどね。
王朝国家になり、少し分権的になっていたけど、
基本的な政治体質は、やはり中央集権だとおもう。
鎌倉幕府が出来るまで、地方の武士(国武者)が、律令体制下で
京都大番をシッカリ務めたのは、中央政府の権門へのコネ作りだと思う。
その鎌倉幕府だって、中央集権だからね。
国造家由来の土着系武士は、
当然居たけど、京武者のコネには敵わなかったんだろう。 京都大番役と類似点が見える健児制(こんでいせい)ってのが古代の軍制として見えてることも考えて、
律令体制との連続性が見えにくい武士が王朝貴族と関係してることは想像できるだろうにな。 青森東部から宮城南部の広大な地域に勢力を持ち、出羽の清原氏が参戦するまでは平直方の娘婿であった源頼義を圧倒していた安倍氏も京武者の藤原経清を娘婿にしていた。
北条氏も野盗同然の立場から在庁官人に取り入り身分を保証され、土豪として伊豆で地位を築いていったんだろう。 >>67
>なんでも横山さんは、東大らしい…スゴスギ!
同姓同名の東大准教授がいるから、その方と誤解しているのでは?
横山さんは、東京都市大学の学生さんでしょう。
東京都市大学アメリカンフットボール部 HELIOS MGBLOG 2012.0609
ラインマネージャーになりました、工学部都市工学科1年の横山友梨香です
http://tcuhelios.jugem.jp/?day=20120609
>>104
別に伊豆北条氏は、野盗(野党)ジャネーし!
伊豆北条郷に入植した平(北条)時方からして、伊豆国司だし! 北条氏が平氏なんていうのは僭称にすぎない。
一介の伊豆の土豪にすぎない。 >>102
> 伊豆北条氏の京武者由来性を否定したい連中ってのは、
> 当時の日本の政治体制の中央集権的性格を否定したい連中だと思う。
>
それは否定してないが、他豪族と違って「系譜」がはっきりしないから土豪説が出てくるんだよね。
吾妻鏡でさえ、都の滝口を選ぶ時、先祖の先例を重視したらしい記載があるのに
北条にはそれらしい記載が見当たらないし。
> 鎌倉幕府が出来るまで、 >>104
在庁官人もメリットないと相手を取り込まない。
都のコネ、財力、特殊技能などないとね。
単なる土豪説はそこが弱い。 > >>104
> 伊豆北条郷に入植した平(北条)時方からして、伊豆国司だし!
上の方で呈された
「系図名の提示」「伊豆介自称疑惑」に対する返答をされてから主張された方がいいと思いますが。
伊豆介については当事の都の権力状態に絡めて言及されると説得力あると思いますよ。 中央の下級貴族らにとっても、地方豪族と姻戚関係を持つことは財政面で有利だった側面もあるわけで、
地方豪族が中央の貴族たちの子孫に組み込まれる動機が双方にある。
後世の人々にも分かるような有名どころだけでも、将門の例を見ても分かるように
(つまり将門の周辺にいた敵味方の諸豪族たちのことな)都人子孫が極めて多く見られるわけだ
んで、そういった人々の周辺にいた零細豪族たちも、それらのいずれかと組んで姻戚関係を持ちたがる。
有力な平氏の子孫かどうかは不明でも、平氏の誰かの子孫であった可能性程度なら大きいだろ
まあ、あの時期の関東で、直方の親戚以外の平氏がどの程度いたかは分からんし、
直方と無関係だったとは思いにくいがな >>109
>「系図名の提示」「伊豆介自称疑惑」に対する返答をされてから
伊豆北条氏の系図は、だいたい直方流とつながっている。
伊豆介どころか、平(北条)時方は、伊豆国司! >>111
> 伊豆介どころか、平(北条)時方は、伊豆国司
意味が分からん。
伊豆介なら伊豆国司に決まってるだろ。 北条氏が本当に直方の末裔なら、鎌倉は北条にとって祖先伝来の地。
直方と頼義の関係は婿舅で主従関係はない。
源氏の血統が絶えれば、源氏が相続したものの返還を求められる立場。
朝廷に対しても清盛の同族として同じ地位を大きな顔をして要求できただろう。
それができなかったのはなぜ? >>111
>伊豆北条氏の系図は、だいたい直方流とつながっている。
それは認めるよ。
だけど直方から時政までの間の系譜が系図によってまちまちになっているから
時政=直方流に対する疑問(詐称疑惑)が起きているんだ。
時政の祖先に伊豆国司がいるというのなら、具体的系図の3個くらいは出して
どの系図の誰がどのレベルの伊豆国司(守、介、じょう、目)を明示
(同時期の中央権力者は推定誰)くらいは出さないと
「伊豆国司」の説得力はないよ。
>伊豆介どころか、平(北条)時方は、伊豆国司!
これは他のひとも突っ込んでいる通りおかしな表現。
国司も四等官制度だから(かみ、すけ、じょう、さかん)
どれのレベルでも国司だよ。
それと時政の父親が伊豆のなんらかの国司だった場合、もう知行国制になっている可能性が高いから
そのころの知行国主を挙げてくれると、その国司の正統性の真偽の議論の足しになる。 >>117
>朝廷に対しても清盛の同族として同じ地位を大きな顔をして要求できただろう
出来ない。盛方流は、忠盛・清盛親子と嫡流争いをして負けた。
それで伊豆に土着する事になったから、清盛のバックアップはムリ筋。
むしろ盛方流(時方)は、清盛流に敵対している。だから源頼朝を擁立した。
ところで、伊豆は親王任国なの?じゃないの? どっちなの? >>120を一部修正
だから源頼朝を擁立した。 → だから源頼朝に馳せ参じた。
>>117
>直方と頼義の関係
北条時政は、政子と頼朝の婚姻や
山木兼隆攻撃の時にこのエピソードをつかっている。 親王任国は上総、常陸、上野の三国だろ。
いずれも大国。 >>117
当時の同族の範囲を考えてみよっか。
同族扱いで助け合う範囲は本人とその直系の男系子孫のみ。
本人死亡後は遺児たちの間で壮絶な権力争いが起こる。
遺児たちにとっての「同族」は自分の直系の子孫のみだからね。
藤原一族の政治闘争をみてるとよくわかるでしょ。
>>120
その盛方との嫡流抗争説、このスレの最初の方でいろいろと疑問が提示されているんだけど
それに対する返答がまだ出てないよ。 >>120
>盛方流は、忠盛・清盛親子と嫡流争いをして負けた。
妄想乙。以下の記述も、一次資料に全く根拠のない戯言ばっかり。
系図マニアはこれだから、学問的にダメなんだよ。
「北条氏は、直方直系の京武者、なんとなれば系図にそう書いてあるから」
バッカじゃなかろうかw
しかも多くの系図は15世紀以後の編纂物だというのにw
まるで義経記で、義経の史実を探るようなものだ。
北条氏が京武者の出身だとい言うなら、平安遺文なり当時の日記なりで証明してみろよ。 >>120
>ところで、伊豆は親王任国なの?じゃないの? どっちなの?
>>122が書いてくれたとおり、親王任国は大国の中のその三国のみ。
伊豆は親王任国ではない。しかも下国。
(国のランク、実入りのいい順に大国>上国>中国>下国) >>102
>国造家由来の土着系武士は、
>当然居たけど、京武者のコネには敵わなかったんだろう
武士の時代よりも全然昔だけど、奈良時代には、藤原仲麻呂の乱の平定に
尽力したという事で、相模東部(相武)の国造家出身の漆部直伊波が中央政府に
食い込んでいる。
でもかなりのレアケース。
基本的に、大化の改新で国造家は、既得権を奪われている。 最近の古文書発見によって、伊勢氏の先祖が、藤原俊経、藤原俊嗣父子であることが判明したが、
彼らは、平家に最後まで忠実に従った伊勢伊藤氏ではなかろうか。
というのも、太田亮氏によれば伊勢伊藤氏は、平家の家人であっただけに、
平姓を名乗る者もいたということだからである。
藤原俊嗣が「天照大神のお告げにより伊勢平氏と号した」のは、鎌倉時代後半だが、
ちょうどその頃、鎌倉幕府は北条氏と、内寒冷長崎氏が権力を握っていたことだ。
北条氏が直方の子孫と名乗りだし、長崎氏が資盛の子孫と名乗りだしたのはその頃であり、
藤原俊嗣は、平家を滅ぼした鎌倉幕府中枢が平氏の嫡流を名乗りだしたのに激怒して、
自ら「伊勢平氏」と名乗ったのであろう。 ちなみに、北条郷のなかに「長崎」の地名があることから、
内管領長崎氏は、時政以前の北条氏からの分家であろう。
もちろん、現行の北条氏、長崎氏系図の古い部分はでたらめであるから、
その形跡は見られないが。 >>128
長崎家は平資盛の子孫だよ。
平清盛−重盛−資盛−盛綱−盛時−長崎光綱(兄は平頼綱)と続く。
限りなく平家の嫡流に近い、とても高貴な家柄だ。(平頼綱はもっと嫡流に近い)
ちなみに、何故こういことが起きたかと言えば、北条家が本家の資盛の嫡子(盛綱)を
ひそかに匿ったからだと言われている。 >>129
ありえないねWWWWW
六代ですら斬られてるんだぜ。
系図を盲信してバッカじゃなかろうかWWWWW
北条氏が平氏(それも六波羅流平家一門)を匿うなんて有りない。
織田信長や対馬宗氏が資盛の子孫だというくらいありえないWWW 武士の習いに仇討ちというのがある。特に親の仇を撃つのは権利であり義務であるのだ。
平家の公達の生き残りなんて危険極まりないし、そんなヤツをなんで北条氏が匿うんだよW
長崎氏は平家の公達の子孫なら、当時の武士の感覚から言って、北条氏よりはるかに格上の貴種だし、
自分たちの旗印にするか、殺してしまうかどっちかだよW
鎌倉幕府の吏僚ならば、殺すの一手のみW >>131
>長崎氏は平家の公達の子孫なら、当時の武士の感覚から言って、北条氏よりはるかに格上の貴種だし、
>自分たちの旗印にするか、殺してしまうかどっちかだよW
実際に、平頼綱は自分が六波羅平家であることを利用して専横を極めたよ。
滅ぼされたけどね。六波羅平家の滅亡は正確にはこの時。
なお、同様に宮将軍も貴種を理由に何度も利用され、追い出されている。
平頼綱も宮将軍とはちょっと違うけど、貴種を利用したのは全く同じ。
長崎家が専横を極めたのも、同様の理由と言われている。(こっちは分家だけど)
なお、このラインから分家が残っていた場合、今でも清盛の子孫は生きていることになる。
伊勢関氏は六波羅平家の生き残りラインから分家したという説が有望。
流石に、信長はもう可能性はゼロに近いようだけど・・・・・。 織田や宗ほど由緒正しいとかえって詐称がばれるのに、北条は時政の父すらはっきりしない。 >>132
>実際に、平頼綱は自分が六波羅平家であることを利用して専横を極めたよ
でたらめいうな、頼綱が「六波羅流平家であることを利用し」たという、一次史料を出せよW
デタラメにも程があるWWW >伊勢関氏は六波羅平家の生き残りラインから分家したという説が有望。
ちなみにこれもダメねW
六波羅流平家一門は、ほぼ断絶したといっていい。
後世の系図は、家柄を飾るためで信用できないW
つかありえないよ、危険極まりないから。みんな皆殺しが、良くて仏門
頼朝が許さんよW >>127
足利氏にも藤姓足利氏と源姓足利氏がいたし、畠山氏も平姓と源姓があったわけじゃん
それと比べて考えるなら、伊勢氏にも藤姓と平姓が両方いたことに、何の問題もない。
佐々木導誉の実家である京極氏にも、同じ苗字の藤原北家の京極家があるし。 壇ノ浦の後にも助命されて残ってる一門の有力者があるのにいつ断絶したんだよ はっきり言って、長崎氏が平家の公達の子孫というのは、同時代の証言からもありえないね。
だって平家物語は摂家将軍の時代に書かれたと言われてるが、この本は
「六代切られ」をさいごに「さてこそ平家はたえにけれ」って書いてるんだぜ。
しかるにその頃幕府では、長崎氏の平盛綱が、北条氏の家人として活躍してるW
長崎氏が六波羅中平家一門であろうはずがない >>137
いや信用ある系図では清盛流は武門としては全滅ですよ。
ほかも、京都の貴族としてほそぼそ生き残るくらい。
「さてこそ平家はたえにけれ」が同時代の認識W >>136
だ〜か〜ら〜
本来藤原氏だった人が伊勢平氏を名乗ってる明白な証拠が発見されたってことW
系図をまともに信じることがいかに愚かかの実例。 >>124
こいつは… 殿上闇討 も知らないのか?www
急速な出世を妬んだ公卿たちの
忠盛襲撃計画は、事実だし、その一味に平盛方も加わっていた。
この記述は、熊谷氏の記録にもある。
だから盛方は、処分されたのに、それも知らないなんてwww >>142
その「熊谷氏の記録」の名前と
専門家によるその記録の信憑性の評価をこのスレに記載ヨロ。 巛ミヾヾ \
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ヒッシ・ダナー [Hissy Danner]
(1901〜1997 イギリス)
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ググレカス [ gugurecus ]
(西暦一世紀前半) >>144
ググれカス=ネタ元がない又は提示できない又は信憑性なし
の時出るセリフ >>142
ヴァカ発見w
殿上の闇討ちが、平盛方の仕業というのは、
熊谷氏の系図の、さらにほんの一部のもの(江戸時代の編纂w)だけに記載されているもので、
歴史的事実としての信用性は全くないw
142は司馬遼太郎の小説で日本の歴史を語るレベルwwwww ちなみに
最近の高橋修『熊谷直実』では、もちろん盛方が、殿上の闇討の主犯だなんて馬鹿な話は
完全無視だし、熊谷氏が北条氏の同族であるという系図も信用していない。
これが学問的態度というもの。
はるか後世に書かれたた系図の物語をいかにもっともらしく解釈しても歴史の真実はわからない。 あと、関氏の出自だが、六波羅流平家の子孫ではありえないのはもちろんだが、
これについては、かの北条早雲が貴重な証言を残している。すなわち
「私の家は、伊勢の関氏と同族」ということだ。
数ある桓武平氏の中でわざわざ関氏をとりあげたということは、伊勢氏と関氏が、相当近い分家だろうということだろう。
早雲は自分の家を桓武平氏として疑わなかっただろうが
最近の古文書からみて、伊勢伊藤氏と考えるのが妥当であり、
関氏も、実は伊勢伊藤氏の末裔ではなかろうか。
すなわち六波羅の平家の家人の末裔である。 >>147
熊谷系図の話が平家物語の殿上闇討と百練抄の平盛方流罪を
組み合わせて創作されたと考えるほうが自然だよな。 >>148
清盛の男系は根絶やしにされたのに、平家の侍大将で三日平家の乱まで起こした伊藤氏が存続した根拠は? ここに繋がる話になるかわからんが
関氏について少し。
頼朝挙兵の標的となった山木兼隆の父親の平信兼は
関信兼と呼ばれていたらしい。
ちなみに信兼は治承寿永の期間何度も伊勢の要衝の関を切り塞いでいたという記録がある。(玉葉) 関は姓じゃなくて苗字だから、平信兼やその他伊勢在住の平氏に繋がる保証はない。
そこに(関という地名のあるところ)すんでいれば、姓は何であっても関さんであるのは事実。
また、伊勢に住んでる藤原さんなら伊藤忠清の子孫でなくても伊藤さん。
ただ伊藤忠清の子孫が絶滅したとは限らないし、平信兼が子孫を残していないとは限らない。
つまりここに出てる関氏にの先祖には色々な可能性があるということ。 >>150
三日平氏の乱の大将は、平信兼や平家継で、伊藤氏はその忠実な家人として従ったにすぎない。
族滅の対象となるのは大将の平氏。
忠実な家人はむしろ武士の美徳。
やはり忠実な平家の家人の原田氏なども生き残っている。
寛政武家系図には伊勢伊藤氏の子孫というものが十数家ある。
伊藤氏はむしろ繁栄したというべき。 >>153
伊藤忠清の主は小松系平家(重盛とその子たち)
平家継は同輩、平信兼は平家とは関係ない独自の立場を持つ京武者だよ。
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殿上闇討に、平盛方が、加わっていたのは事実。
それにより、平盛方が、処刑されたのも事実。
伊豆北条氏が、京武者(中央軍事貴族)由来だと、お困りの連中は、シネ!!! >>156
> 伊豆北条氏が、京武者(中央軍事貴族)由来だと、お困りの連中は
別に京武者由来でも困らないけど、
> 殿上闇討に、平盛方が、加わっていたのは事実。
>
> それにより、平盛方が、処刑されたのも事実。
>
と「事実」を主張するなら事実を証明する史料を提示して下さいね。 巛ミヾヾ \
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ヒッシ・ダナー [Hissy Danner]
(1901〜1997 イギリス)
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ググレカス [ gugurecus ]
(西暦一世紀前半) >>156
だからそういう事実をしめす一次史料を出せよ
これは歴史学の常識だぞ。 .
伊豆北条氏
時方(伊豆守)−時家(伊豆介)−時政(無官:源平合戦前)
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時兼(伊豆介)−時定(?:山木攻めに参加) >>161
時方や時家が本当に伊豆守や伊豆介なら、当時の京都の除目の史料にのっているはず。
除目大成抄っていう官人の任命一覧も残っているんだから。 .
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ググレカス [ gugurecus ]
(西暦一世紀前半) 時政の父親は速く死んだので
叔父や従兄弟に北条家の嫡流の地位を奪われていた。 >>164
そもそも北条の嫡流があったとしたら、嫡流の本拠地はどこになるのかね。
時政屋形以外のそれっぽい屋形あととか残ってる?
そもそも北条の範囲は狭い。
血縁者とはいえ、住む場所がちょっとでもはなれてたら別の苗字になる。
(例、三浦と和田)
時政の叔父や従兄弟の苗字は実際の所何だったんだろうね。 実際の所当時の嫡流は
1 親の本拠地を相続する
2 他の親戚より栄える
のどちらかで決定する。
武家源氏なんかは2のパターンで頼朝が自分とこが嫡流という顔してるだけ。
時政も頼朝姻戚を最大に活かして繁栄して嫡流顔してただけで、実際には他の系統が元々栄えていたのかもしれない。 >>164-165
時定が、山木攻めや石橋山の戦いに参加しているので、伊豆北条氏には、
深刻な内紛は無かったと思うが、時兼が、伊豆の在庁官人(地方官)と
して国衙に勤務し、時政が、北条郷の農地経営を営んでいた可能性はある。
また北条氏は、規模が小さいながらも、水軍を持っていたので漁業や海運業も
営んでいた。国衙に近い北条郷に土着したのは、官物輸送を受託していた事と
関係があるかも。
また、時政は、伊豆の北条郷にずーっといた訳ではなくて、京都大番で三年ほど
洛中で勤務していたし、駿河大岡牧を領有する中堅の公家である牧氏(牧宗親)
の被官でもあった。伊豆北条氏は、時政で伊豆に土着して三代目だけど、この様に
それなりに中央権門とのコネは保っていた。
後に時政の後妻として牧の方が、伊豆北条氏に入ってくる。
伊豆の北条郷は、せいぜい数万坪程度の耕作地でしかなく、米の収穫量も
それほどではない。当時の農業土木技術では、耕作地としては拡大するのは、
これが限界だったのだろう。伊豆北条氏としての歳入(収入)は、米作よりも
むしろ海運業や漁業のウェイトの方が、かなり大きかったのでは?と類推される。
山木攻めの時に動員出来た伊豆北条氏の兵力は、30〜50騎とされ、
それも借武者と言って臨時にバイト的に雇用した人員を入れてこの数字である。
この事から、伊豆北条氏は、武士団としてはかなりの小規模だと思われる。
ちなみに時政の最初の妻の伊東氏は、300騎近くを動員できる規模の武士だ。
三浦氏などは3000騎。千葉氏や上総氏、下野の小山氏などは、万を超える
動員を行っている。 つかさ、北条氏って、時政以前の人で当時の日記や文書に名前が出てる人っているの?
なんか時政になって突然現れたとしか思えない。
むしろ楠木正成みたいな感じ。
そういえば楠木正成も先祖の系図はでたらめだけどね。 当時の伊豆介は工藤茂光だな。
伊豆大島に流された源為朝の監視も務め、
最終的に自害に追い込んでる。
にもかかわらず、頼朝挙兵に駆けつけるとかわけわからん。
血統的には藤原南家の出で系図もはっきりしており
伊東氏などとも同族。
北条もこの程度、素性がはっきりしてくれないものか。 >>169
>伊豆大島に流された源為朝の監視も務め、最終的に自害に追い込んでる。
その時の軍勢に時政の名前が出ている。
伊豆の水軍を動員したらしく、北条氏を含め
水軍を持つ伊豆の武士が動員されて大島に攻め込んでいる。 >>167
>後に時政の後妻として牧の方が、伊豆北条氏に入ってくる。
これは、源平合戦の前か後かで、論争になっているらしい。
どっちにせよ、牧の方を後妻としてもらった事は、時政の大失敗につながる。
牧宗親と牧の方は チーム後妻業 化するwww >>169
> 当時の伊豆介は工藤茂光だな。
>
> 伊豆大島に流された源為朝の監視も務め、
> 最終的に自害に追い込んでる。
> にもかかわらず、頼朝挙兵に駆けつけるとかわけわからん。
>
どうやら伊東との同族争いがあったらしい。
頼政が長年伊豆知行国主をしていた関係で、伊豆国在地実力者であった茂光は頼政にかなり接近し、
在地での威勢確保に頼政の権威を利用していた。
ところが、以仁王事件で頼政が滅亡して新しい知行国主が時忠になると
茂光の立場は悪くなり、かわって伊東が台頭。
目代も時忠の元部下山木兼隆に変更(時忠は検非違反別当、山木兼隆は元検非違使) こんな状況で茂光らもと頼政派は事態の逆転を狙っていた。
折しも、相模や房総でも平氏派閥と反平氏派閥の対立が情勢されており、(土肥三浦対大庭など)
また甲斐でも安田義定らが蜂起の動きをみせていた。
そんな時、伊豆で旗印になりそうな人物がたまたまいた。それが源頼朝。
おそらく伊東山木らにかなり追い込まれていた茂光らが、相模反平氏との連合を画して、頼朝を担いで挙兵したとみられる。
一方為朝については「保元物語」の記載を信じるならば
為朝のやったことは明らかに国衙に対する反乱行為だから国衙の関係者として追討するのは当然。
為朝の時の茂光は体制の守護者、頼朝の時は反乱者になっているが、それは茂光を巡る情勢の変化によるもの。
源平や源氏の血縁関係に拘るとおかしなものに見えるが、このフィルターを外すとおかしなものではなくなる。 >>168
楠木正成は出鱈目ではないだろう?
はっきりしているぞ。
北条氏もはっきりしている。
北条氏は武士というよりも、殆ど中級貴族。 何が中級貴族だこのバ〜カwww
お前らって貴族とかなんとかに変な憧れでもあるのか? あれって公家連中がどこらへんまでの効果範囲があるのか知らないが
勝手に認定しまくったもんだろ
その公家連中のまず出処ってのを説明しない? 貴族の範囲
公卿 従三位以上の位階または参議以上の官職(公卿補任に記載される)
通貴 従五位下以上の位階を持つ者(相応官職は国の守または親王任国の介、または中央官職の「すけ(輔、助、佐)」)
↑ここまでが「貴族」
六位の位階を持つもの
(相応官職は中央官の「じょう(丞、尉)」
↑このクラスは「侍(さむらい)」)
それ未満は地下(じげ) ちなみに頼朝の祖父為義は長年五位になれず「貴族」なれなかった。(晩年にゲット)
父義朝は30歳頃に下野守と五位の位階を得て貴族の仲間入り。
頼朝は13歳で五位をゲットして貴族の仲間入り。流刑間も一応「元貴族」扱い。
一方時政は
頼朝生存中は無位無官。
頼朝死後「従五位下遠江守」になってようやく「貴族」入り。
時政以前に時政と同等かそれ以上の官位の持ち主がいたって記録がある?
それがなければ時政の先祖が貴族だったとは言えないよ。 >>174
お前、楠木正成の系図が何種類あるのか知らないのかw
父親の名前さえ、てんでばらばら、系図によって、
先祖代々として出てくる名前が全く違うんだぞw
ほんとにお前は何にも知らないんだなw 北条家は受領階級だろう?
時政は無位無官だけど、叔父さんや従兄弟は違うしな。
時政は親父が早く死んだから、叔父さんに
北条家の本流の地位を奪われていたんだろうよ。 >>183
楠木正成は親父が熊野国造の和田家の出身で
越智氏系の橘氏の婿養子に入った氏族。 >>180
楠木正成は親父が熊野国造の和田家の出身で
越智氏系の橘氏の婿養子に入った氏族。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています