>>8の続き)
国司任期終了後の平時方は、都に帰らず三島国府庁舎の直ぐ近くにある北条郷に土着し
氾藍原の開発領主となってしまう。北条郷は、湯走権現の所領でもあった。平時方は、
父である聖範(湯走権現禅師)のコネを使い、湯走権現から北条郷を譲り受けた。
そして俗姓も北条とした。
これ以降、都での平直方流軍事貴族としてのキャリアを捨て東国武士として
伊豆北条氏の歩みを始める。また、この決定は、平忠盛の意向を呑んだ可能性もある

もっとも自分の故郷の近くであり、任国として実際に数年間統治し、父や盛方の実子が居る伊豆で
のんびりやっていた方が、都での軍事貴族として出世競争にあせくせするよりマシだ。 と言う判断が、
時方には、あったのかも知れない。

また平直方-平維方-平盛方の直方流三代は、貞盛流の嫡流の地位を継承してきたが、
盛方の忠盛襲撃事件の関与により直方流の没落が決定的となり、忠盛-清盛流が貞盛流の
嫡流の座を引継ぐ事になった。その為に盛方処刑後に直方流を継いだ時方は、貞盛流の
嫡流の座を忠盛に明け渡し京武者(都の軍事貴族)の立場を捨てて伊豆北条郷に土着し
東国武士(関東武士)としての歩を始めたのだろう。

ただし、京都大番や公家の従者を勤め続けているので、
伊豆北条氏から、完全に京武者の性格が無くなった訳ではない。