今の東北民の先祖は蝦夷征伐時の移住者か蝦夷なのか [転載禁止]©2ch.net
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0001日本@名無史さん
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2014/12/15(月) 22:26:45.96
どうなのか
0749日本@名無史さん
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2021/03/24(水) 20:42:07.30
横穴墓の分布と征討軍の地方制圧ルート

 九州は横穴墓が広範囲に分布していますが、景行天皇の九州行幸ルートとほぼ合致します。
 景行天皇12年に熊襲が朝貢しないため、景行天皇は西征に発っています。
 経由地を記すと、娑麼から豊前国、日向国に移り、夷守を経て襲国の熊襲梟帥を討ち、大和に還っています。
 しかも、佐賀県や長崎県、宮崎県以南に横穴墓が分布しないという点でも合致しています。

 太平洋側の横穴墓の分布は、日本武尊の東征ルートと合致しています。
 日本武尊は景行天皇40年に都を出て、伊勢神宮から東征し、上総国に入り、海路で蝦夷の境に至っています。
 陸奥国の竹水門で蝦夷の賊首、嶋津神・國津神等を制圧・虜とし、日高見国で転じて常陸に戻っています。

 日本武尊は「蝦夷の凶しき首、 咸く其の辜に伏いぬ。唯信濃国、越国のみ、頗る未だ化に従わず」と述べています。
 東国が平定されても、信濃国と越国は大和王朝には従っていないことがわかります。
 このように、征討軍のルート上に横穴墓が分布し、その結果、新たな階層が生み出されたと考えられるのです。

■ 第8図 景行天皇の九州行幸 第9図 大和武尊の東征
https://pds.exblog.jp/pds/1/201907/20/25/f0300125_21581552.jpg
0750日本@名無史さん
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2021/03/25(木) 05:54:23.28
坂上田村麻呂(758 - 811)

 田村麻呂の出自をたどると、中国後漢の霊帝の子孫で、 阿知使主を祖とする東漢氏の一族と伝えている。
 ところが、阿知使主は朝鮮半島南部から渡来しているので、朝鮮半島系というのが事実のようである。

 『日本紀略』延暦13(794年)6月13日条に、「副将軍坂上大宿禰田村麻呂巳下蝦夷を征す」とあり
 10月28日条には、「斬首四百五十七級、捕虜百五十人、獲馬八十五匹、焼落(焼き払った集落)七十五処」
 とその戦果を報告したとある。日高見国において、朝廷軍が惨い行いをしたということだ。
 田村麻呂は、この2年後に征夷大将軍になっている。征夷大将軍という称号は、こんな極悪非道なモノだったのだ。

 桓武は前回の失敗に懲りて兵力を倍増した。征軍十万とあるから、前回のほぼ倍にあたる。
 朝廷軍はアテルイを捕らえることもできなかったが、日高見国が受けた損害は大きかった。
 斬首された者の数は、前回の約五倍であり、焼き払われた集落の数もおびただしい。
 日本軍が中国で行った「三光政策」に似た虐殺行為が、日高見国においても行われたのであろう。
 住居や家財道具を失ったエミシの非戦闘員の苦しみは大変なものであったと思われる。
 陸奥国の移民の中には、こうしたエミシの悲惨な状態をみて、エミシに味方する者も現れた。

 延暦18(799年)2月21日、陸奥国新田郡の農民の弓削部虎麻呂とその妻の丈部小広刀自女が
 「久しく賊地に住み、能く夷語を習い、しばしば謾語を以て夷俘の心を騒動」したために、日向国に流されている。
 虎麻呂夫妻はエミシに同情し、懐柔政策の実態など律令国家にとって不利な情報を提供していたのであろう。
 律令国家は、それを「謾語」(でたらめの話)でエミシを動揺させるとして、虎麻呂夫妻を流刑に処した。


■ 北上川(日高見川)と巣伏の戦い 蝦夷征伐の実態は北上川を遡上する朝廷の侵略戦争であった
http://kitakawachisofttennis.web.fc2.com/hp1/tora/photos/uncategorized/2013/01/07/1.jpg

■ 末期古墳(蝦夷系墳墓)の分布 蝦夷の民が北上川沿いに集落をなしていたことがわかる
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/008/807/07/N000/000/011/155917363329402336180.png
0751日本@名無史さん
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2021/03/25(木) 05:55:41.81
外ケ浜の\村――津軽の蝦夷部落

 津軽海峡には、むかし点々と\村があった。\は「狄」のつくりを犬に替えて作字したものである。
 名高いのは三厩村の宇鉄である。その東どなりの今別村、石崎村、宇田などにもアイヌ系の人々が住んでいた。
 西どなりには竜飛村の兵路というアイヌの漁民の集落があった。
 宝暦五年(1755)の「津軽外之浜後潟組伏御改覚」では\村八カ村で二百三十四人のアイヌがいたと記されている。

 \村の人たちは外向きの和人名のほかにアイヌ本来の名前ももっていた。
 万五郎犬とか万五郎逢犬とか、和人名の下に「犬」もしくは「逢犬」をつけているものはアイヌ系であるという印である。
 宝暦年間(1751-1764)に津軽落の政策によって和人同様の扱いを受けるようになり、
 その名の下に「犬」の文字をつけて差別していた取り扱いが撤廃された。

 『陸奥州駅路図』に、「宇鉄村は宝暦年間まで蝦夷の容貌たり。曾長をクマタカイノ、フルクイン、
 ウテレキ、セリキハ、ルウマンアイノ、ソタツイン、クマカイなど云へる名にてありしが、今は服従せり」とある。

大日本國東山道陸奥州驛路圖 (1800) 宇鉄村
https://image.prntscr.com/image/oslpMdnwR2yX88BupJSOfQ.jpg

江戸後期の津軽紀行『東遊記 (1807)』より:
 >「当地は70年前まではエゾ村であったが、今は風俗が変わって日本人の通りになっている。
 >しかし近所の村とは縁組をせず、顔立ちも異なって眉が一文字につながっている女子などもいる。
 >毎年近くの今別村の寺に集まり「蝦夷踊り」を行っている」
0752日本@名無史さん
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2021/03/25(木) 10:13:55.42
〜1910年

 ∧支∧
( `八´)
(  ̄|| ̄)   ニ∧_∧ <ははぁ!宗主国様〜
| ̄.| ̄|   <`∀´ ;>⌒)  
/__l _ゝ = と と_(_つ


1910年〜1945年
              . _
,,'⌒丶、     ,,'⌒丶、. |●|
ゝ☆==>    ゝ☆==>| ̄
( ´∀`)   ∩<`∀´ヽ>∩<今日からウリ達も一等国民ニダ!
( ~=|=)   >     く   大日本帝国万歳!
| | |     ( <⌒)ノ
(__)_)    ヽ,_,フ 


1945年〜

  | ̄ ̄| 
_☆☆☆_
(  ´_ゝ`) ∧_∧ <ウリ達は無理矢理イルボンに
(  ω  )<`д´ヽ>   併合されたニダ!
| | | ⊂  ⊂.)     本当は戦勝国民ニダよ!
(__)_)(__と_)
0753日本@名無史さん
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2021/04/06(火) 04:00:00.22
文献史料からは、蝦夷が倭人とは通じない言語を使用していたために訳語がおかれていたこと、
蝦夷の言語が律令国家側から「夷語」とよばれていたことなどが知られる。

訳語・通事が置かれたのは、確実なところでは漢語・新羅語・湖海語・夷語、
奄美等訳語(『延喜式』巻30大蔵省)、それに隼人の言語が加えられるかもしれない。
0754日本@名無史さん
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2021/04/08(木) 11:01:59.43
.              ¶  (´⌒;;)
               ||   llll    馬鹿チョンコ!
               |], ∧日∧    糞食いや糞酒なんて止めろ!
               |] (`ω´# )    大日本帝国民になりたいんだろう?
   人           [||と  //  )
  (._ ).         Д |  |  | 
  (__ )          (_(_.)
。゚<;゚`Д⊂ヽ
 (    )   ウリの唯一の楽しみを奪う日帝はなんて酷い奴等ニダ!! アイゴー!!
          でも日本人名カッコ良いから名乗りたいニダ
            1,200年も奴隷国家だったから宗主国風の名だったニダ
    アイゴー!               アイゴー!
    ∧_,,∧      アイゴー!     。 ∧_,,∧ 。
  〃,<;∩Д´>    :∧,,_∧:        < ゚`Д⊂ヽ
   /(_ノ ィ \   :<、   ⌒ヽo:    (    ノ
 ⊂こ_)_)`ヽつ   :(_,,ィ、__つつ   ム_)_)
0755日本@名無史さん
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2021/04/24(土) 01:26:40.71
ガースー
「特別給付金を配ると言ったな
あれは嘘だw ゲラゲラ」
0756日本@名無史さん
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2021/04/24(土) 08:07:50.14
>>1
もっと時代が下ってからの移住者のほうが多いだろうな。
0757日本@名無史さん
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2021/04/25(日) 00:57:31.42
大分の宇佐神宮には熊襲征伐で大勢の熊襲を殺したから
その霊を弔う為に放生会(ほうじょうや)の催しを
毎年行っている、筥崎宮の放生会も有名だが熊襲霊を
弔うものかは分からない
0758日本@名無史さん
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2021/06/17(木) 19:08:17.36
すだれ頭「英語わがんね」
0759日本@名無史さん
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2021/06/18(金) 22:59:17.10
そもそも縄文文化の生活形態は移動と定住の繰り返しの文化
この範囲は列島だけじゃなく諸島の移動も激しいものだった
とくに2万年前からの気候変動は大きく狩猟採集の移動は熱い時期には北へと伸び
逆に寒冷化すると畿内盆地へと向かったわけだ
こういう移動を無視してアイヌ人とか言っている時点で非科学的な妄想でしかない
当時は国境もなくただ部落集落の争いがあったのみ
0760日本@名無史さん
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2022/06/19(日) 06:50:31.39
ちょうど網野義彦の「東と西の語る日本の歴史」を読んだとこなのでこのネタ興味ある

東国の社会は領主のイエ支配を中心に、タテに百姓たちが領主と結びついた家父長的な性格の強い主従関係が基礎になっているのに対し、西国の場合は百姓の小さなイエがヨコに連合したムラ的な結合が発達していた。
http://web.joumon.jp.net/blog/2015/01/2662.html

ちなみに上記の東国は関東の事で関東と東北は、古代は征伐する側と征伐される側の関係だったからなのかもしれないが、仲が悪かったようだ
0761日本@名無史さん
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2022/10/31(月) 23:38:37.34
>>1お前馬鹿 蝦夷北海道北広島は広島移住者だろうがわかったお前馬鹿
0762日本@名無史さん
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2022/11/01(火) 07:35:27.08
福島県は畿内からの征服者ばかり。
フクイチざまあああああああああああああああああああああああああ
0763日本@名無史さん
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2022/11/14(月) 05:41:59.86
蝦夷がそもそも倭人と遺伝的に大差がなかったんでは
0764日本@名無史さん
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2023/03/12(日) 08:54:48.62
>>10
> アイヌの9割がD2系統。

 これは調査結果そのものだからいいとして

> 近畿のD2は被差別部落民。
> 日本人(関東)D2 48.2%  O2 30.7%  O3 14.5%
> 日本人(関西)D2 26.8%  O2 37.1%  O3 23.9%

 いやそれ被差別民大杉だろ
 全人口の1/4も居ないからw
0766日本@名無史さん
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2023/07/26(水) 19:39:33.67
世界の何だコレ!?ミステリー五稜郭
0767日本@名無史さん
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2023/07/26(水) 22:26:41.97
>>1
東北も含めて日本本土は縄文ゲノムを少数しか引いていないいる(平均一割)
沖縄の縄文由来率よりはるかに少ない
だから移住民の和人の子孫だね
東北関東九州が縄文由来率が若干高い程度
0768日本@名無史さん
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2023/08/09(水) 06:40:09.77
>>1
化学研究世界トップ中国科学院による遺伝子研究(2018)

>私たちの結果は、東アジアの3つの集団、漢族、日本人、韓国人は、見た目は似ているものの、遺伝子構成が異なり、
>明らかにゲノムレベルで区別されていることを示しています。

The Korean population also has NEAC, SEAC and RC, but F 3 results strongly suggest that it received gene flow directly through Han Chinese and Japanese
>韓国人にもNEAC、SEAC、RCがありますが、F3の結果は、漢民族と日本人を通じて直接遺伝子フローを受け取ったことを強く示唆しています←ここ注目

日本人と韓国人はどちらも独立したクラスターに属する。
>Japanese and Korean each has each independent cluster,

Han Chinese and Korean are not well distinguished, while all the Japanese individuals cluster perfectly.
>漢民族と韓国人は十分に区別されませんが、日本人はすべて完全に区別化されます。


★韓国人は日本人より北方漢民族に似ている。日本人と漢族の混血。朝鮮人は新しい年代に北中国人と混血してる。

https://hereditasjournal.biomedcentral.com/articles/10.1186/s41065-018-0057-5

https://i.imgur.com/Zcs25Wn.jpeg

https://i.imgur.com/8Giju3G.jpeg

https://i.imgur.com/lYWMVN7.jpeg
0770日本@名無史さん
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2023/09/05(火) 03:14:42.92
てか坂東武者の子孫だろ
今の東北人って。
坂東武者の領主の家系から
庄屋が出てきてその庄屋から
分家が出て貧農になった。
で江戸期以降は東北は飢饉が
エグかったので庄屋の直系の系統の
人間しか生き残れなかった。
マタギとか除いて農耕民になった
原住民の子孫は絶滅している。
0771日本@名無史さん
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2023/09/05(火) 22:59:57.84
平安時代以降の東北人は、蝦夷と和人のハーフだろ。
例えば、6月から8月に東北の太平洋側で吹く東よりの冷たい風をヤマセと呼ぶが、これはアイヌ語のyam(ヤム=冷たい)と和語の風(カゼ)のセの合成語。
このように、ヤマセがアイヌ語と和語の合成語であるのと同じで、平安時代以降は、蝦夷は和人との混血が進んだということだろう。
0772日本@名無史さん
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2023/09/09(土) 01:35:39.72
>>771
ハーフというより圧倒的に和人寄りだね
今日の東北人のDNAは他地域同様、弥生由来の比率が圧倒的に高く縄文由来要素はほんのわずか平均より高い程度
沖縄人の方が遥かに縄文由来DNAの比率が高い
0775日本@名無史さん
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2023/10/06(金) 12:34:36.21
>>771
やませは山風だろ
キモいアイヌ語起源説の入る余地はない
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=209

語誌
(1)本来、山の向こうから吹いてくる風のことで、山背の漢字表記がなされ、語源説では「セ」を風とみるものが多い。

方言
(1)山の方から吹く風。山風。《やませ》石川県能美郡012鹿島郡411島根県725《やまで》静岡県榛原郡・賀茂郡521
(2)陸から沖に吹く風。《やまで》静岡県静岡市054志太郡521《やまて》静岡県賀茂郡521島根県益田市・隠岐島725
(3)梅雨時に夜明けごろ陸から沖に向かって吹く風。《やませ》岩手県気仙郡102
(4)山から吹く突風。《やまぜ》愛媛県840

だいたいアイヌの先祖は弥生時代末期に北海道から南下してきたのであって、それ以前の紀元前4世紀には関東地方よりも早く稲作が到来してる
それ以前の亀ヶ岡文化も全然アイヌとは共通点ない
0777日本@名無史さん
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2023/11/04(土) 16:32:19.59
青森にあった浪岡北畠は北畠顕家が家祖とされてるし
南部家は山梨県から移住した一族だからなあ
0778ネトウヨボクメツタイ!
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2023/11/04(土) 22:30:28.82
今の本州島の東北地方の住民はあきらかに関東と越の住民の子孫であると言える
原住民のアイヌ系は岩手県北部や山形県の日本海側に居住していたが、律令国家によって開拓農民が送られて彼らが今の東北弁話者になりアイヌ系は同化されるか一部は北海道に移住した

恐らく蝦夷の支配階級は平安時代の頃には日本語とアイヌ語のバイリンガルになっていた
支配者階級は京都系の文化を学んで仏教を受け入れていた
治金職人や陶磁器職人や僧侶などインテリは和人系であった
東北アイヌは平安時代末期には民族的アイデンティティを喪失していた
現在に残るアイヌ語の痕跡はマタギ言葉くらいなものでしかない
0779日本@名無史さん
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2023/11/04(土) 22:38:52.36
>>1
基本的に縄文人の子孫は大陸からもたらされた病気に
弱かったのではないかな?
東北人に限らずに、おそらく日本人の遺伝子は弥生時代以降に
大陸から日本に移住した水田耕作民の子孫が大半を占めていて、
それ以前から日本に住んでいた縄文人の子孫は大陸からもたらされた
病気ですぐに死んでしまったのではないかな?
0780日本@名無史さん
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2023/11/11(土) 23:01:57.04
蝦夷って和人なんだぜ、大和民族はブーメランすな

縄文晩期は寒冷化に伴う環境の変化により、弥生海退と呼ばれる海水面の低下で干潟が一気に減少し、貝塚も消えていきます。
木の実、動物などの食料が減少した時代ですが、さらに、約3000年前に富士山が4回の爆発的噴火を起すなど、
関東平野一帯では富士山や箱根山の噴火が長期化したため食料の確保が難しくなり、急激な人口減少が起きたと考えられます。
そのため関東では遺跡がほとんど見当たらないという状況にまで至っています。

いわば空白地帯となった関東平野ですが、弥生後期(2〜3世紀)になると再び人口増加に転じます。どこから?どのような人々が関東平野に移り住んだのでしょうか?
無人だった関東平野を開拓したのは誰か?
そもそも関東の原住民(実際は西からの移民)とは、東海やら近畿やら新潟やらの組織的な移住集団(弥生後期以降)から始まってる 。

「安達登 山梨大学 教授 2017-03-31」
東北、関東の5遺跡から出土した合計22個体の古墳人骨からDNAを抽出した。その結果、東日本古墳時代人の遺伝的特徴は現代人に非常に近かった。
古墳時代には既に、渡来人の遺伝的影響が東日本において集団の主体をなすほど大きくなっていた可能性を示していると考えられる。
0781日本@名無史さん
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2023/11/11(土) 23:02:20.80
日本列島の頭蓋計測値

分部哲秋 長崎大学・大学院医歯薬学総合研究科・講師 松下孝之 土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアム館長 2022

頭蓋の計測的形質から見た場合、宮崎県西部山間部と宮崎県東部山間部から出土する従来からの山間部古墳人との間には大きな差は見られず、
形態的に縄文的要素を強く留めた集団といえる。

ENROSE形態距離に基づく主座標分析図を見ると、両古墳人の座標上での位置取りは、
渡来系弥生人(安永田、吉野ヶ里、金隈、土井ヶ浜)と関係が深いとされる北九州、山陽、畿内、関東、東北の古墳人よりも縄文人に近い。
また、縄文人の継続したものと考えられている西北九州弥生人よりもさらに縄文人に近い関係が見られる。

https://i.imgur.com/8MlJjEq.png
https://i.imgur.com/MYjlCc6.png

津雲縄文人(津雲貝塚)
渡来系弥生人(安永田、吉野ヶ里、金隈、土井ヶ浜)
宮崎東部古墳人(旭台、上の原、菓子野、大萩、原村上、縄瀬、横尾、立切、東二原および日守地下式横穴墓群)
宮崎西部古墳人(広畑および島内地下式横穴墓群)
熊本古墳人(津袋大塚、向野田、古城、西潤野、四十八塚、千埼、桐ノ木尾)
佐賀古墳人(小隈、丸山、金立、今町、平田原、妻山、谷口)
東日本縄文人
東北古墳人(上の原、山ノ上、腰巻、千代鶴、深渡戸、梨木畑、五松山、二木、丸山、清水、熊野堂、矢本、山王、市川橋、狄穴)
関東古墳人
0782日本@名無史さん
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2023/11/11(土) 23:03:23.39
津雲縄文人 渡来系弥生人

頭蓋最大長186.4 183.7
頭蓋最大幅144.4 142.4
Ba-Br高 134.0 137.7
頭長幅示数 77.7 77.7
頭長高示数 71.6 75.3
頭蓋幅高示数92.2 97.0
頬骨弓幅143.2 140.0
中顔幅 103.6 104.7
顔 高 115.8 123.8
上顔高 67.0 74.8
眼窩幅 43.5 43.2
眼窩高 33.5 34.5
眼窩示数76.5 79.9
鼻 幅 26.6 27.1
鼻 高 48.6 52.8
鼻示数 54.5 51.4
0783日本@名無史さん
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2023/11/11(土) 23:03:34.79
宮崎東部古墳人 宮崎西部古墳人 熊本古墳人

頭蓋最大長180.9 181.5 181.2
頭蓋最大幅141.6 143.6 143.8
Ba-Br高 135.4 137.3 135.3
頭長幅示数 77.4 77.8 78.8
頭長高示数 74.8 76.0 75.5
頭蓋幅高示数96.0 96.5 94.6
頬骨弓幅138.4 139.2 137.9
中顔幅 102.4 100.9 102.5
顔 高 114.8 116.1 116.0
上顔高 68.4 69.0 67.4
眼窩幅 43.0 42.8 42.7
眼窩高 32.8 33.6 33.0
眼窩示数76.8 78.5 77.1
鼻 幅 27.1 27.1 26.3
鼻 高 49.4 49.8 50.1
鼻示数 55.0 54.9 52.3
0784日本@名無史さん
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2023/11/11(土) 23:04:02.54
東日本縄文人 東北古墳人 関東古墳人

頭蓋最大長183.2 182.6 181.8
頭蓋最大幅143.7 140.0 142.1
Ba-Br高 139.9 136.1 137.3
頭長幅示数78.5 76.9 78.6
頭長高示数76.4 75.0 75.7
頬骨弓幅141.8 136.6 141.8
上顔高 68.4 69.7 70.9
眼窩幅 43.8 42.9 43.1
眼窩高 32.9 33.6 33.7
眼窩示数75.2 78.4 78.4
鼻 幅 26.6 26.6 26.8
鼻 高 49.6 50.8 51.4
鼻示数 53.8 52.3 52.6
0785日本@名無史さん
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2023/11/11(土) 23:04:44.94
弥生時代・高度な灌漑水田稲作、環濠集落の北上
・青森県弘前市・湯の沢遺跡(岩木山北東麓の標高144メートル)
2021/9/15 津軽平野で初となる弥生時代前期(約2400年前)の大型住居跡・同時代の特徴を備えた土製品 今回の調査は同遺跡の発見から約60年ぶりに行われた
・青森県弘前市・垂柳遺跡、砂沢遺跡(2500年前)等の稲作跡
・秋田県秋田市・地蔵田遺跡(西の遠賀川系土器)西日本式の高度な環濠集落はこの地方周辺における当時の一般的な建物構造であることが明らかになりつつある。
・青森県・清水森西遺跡 弥生時代の水稲農耕文化の痕跡の最北地を更新
(倭人來獻鬯草(推定周の成王およそ紀元前11世紀3100年前縄文時代付近か)倭と呼ばれていた弥生時代から遡って縄文時代晩期も倭ではあろうが)

古墳時代・近畿東海集団の大規模移入(須恵器・土師器・鉄製品・石製模造品など)
・宮城県栗原市・入の沢遺跡(300年代)
・宮城県石巻市・新金沼遺跡(300年代)
・宮城県仙台市・南小泉遺跡(300年代)
・岩手県奥州市・中半入遺跡(300年代)
・岩手県盛岡市・永福寺山遺跡(300年代)
・山形県山形市・大塚天神遺跡(300年代)
・山形県鶴岡市・畑田遺跡(300年代)
・山形県酒田市・関遺跡(300年代)
・青森県八戸市・湯ノ沢遺跡(300年代)
・青森県五所川原市・隠川遺跡(300年代)

・福島県・杵ガ森遺跡(200年代)、会津大塚山遺跡(300年代)、三角縁神獣鏡等。ほか大安場古墳
・福島県・灰塚山遺跡(400年代)、青銅の鏡、刀や矢尻など多量の鉄製品、・福島県の塚前遺跡(500年代)
・福島県・四穂田遺跡(400年代)「短甲」、鉄製大刀、鉄斧、鉄製矢尻、槍鉋、砥石、土師器など 
・例えるなら大和民族が日本の先住者で、東北人は移住した大和民族なのだから本来のカタチとなっただけ。
・弥生時代に東北に固有の民族は居ない。蝦夷は遥か後に誕生したもの。倭から分かれた亜種と言ってもいいか。
0786日本@名無史さん
垢版 |
2023/11/11(土) 23:05:20.22
弥生時代の遺跡は、最上川流域に極めて少ない。
古墳時代前期、すなわち米沢盆地は北陸ー会津ルートによるものであり、山形盆地は畿内ー仙台平野方面から、
庄内平野は北陸ー越後方面から、人々がかなり進出したことによるものであった。
人と物の頻繁な移動により、人口希薄なこの地に多くの人びとが移住するという外来的な要因によって、
最上川流域の古墳時代が開始されたのであったと考える。

馬を飼う文化と言語
古代史では蝦夷は馬を飼うのが特徴だと言われます。
しかし馬はもともと日本列島に生息しておらず、5世紀に古墳文化を担っていた人々が大陸から導入し、馬を飼う文化を広めました。
一方でアイヌ民族は馬を飼いませんでした。古代の蝦夷が馬を飼っていたのなら、
「蝦夷はアイヌ民族ではなく和人である」という可能性が高まります。
また、アイヌ語は形容詞がない代わりに動詞を形容詞的に使うなど、日本語とはまったく違う言語です。
12世紀以降の東北地方では日本語が話されていたことが文献からわかりますし、
それ以前に使われていたアイヌ語から急速に言語が入れ替わったと考えるのも難しいでしょう。
青森県西部で使われる津軽弁に日本語古語に由来する言葉が多いことからも、そこでは古くから日本語が話されていたことがうかがえます。
つまり、古代の東北地方にはアイヌ民族ではなく和人が住んでいたと推測できるのです。

考古学は物証が大切
事件が起きた時に伝聞や自白ではなく物証を求めるように、考古学でもその歴史が本当に起きたのかという証拠を探して裏をとります。
例えば日本列島各地の水田に住むマルタニシは弥生時代以降に出現したのですが、DNA分析によると朝鮮半島のものと同種です。
マルタニシは水田や水路に生息し食用とされていたと中国の6世紀の文献に書かれており、稲作と共に大陸から持ち込まれたと考えられます。
人間と共にあった様々なものや生き物から、人の移動や歴史の流れを読み取れるのです。
0787日本@名無史さん
垢版 |
2023/11/11(土) 23:05:35.85
西暦200年人口推定

東奥羽(福島、宮城、岩手、青森): 2万9000
西奥羽(山形、秋田): 5000
北関東(茨城、群馬、栃木): 3万9000
南関東(千葉、埼玉、東京、神奈川): 6万
北陸(新潟、富山、石川、福井): 2万1000
東山(山梨、長野、飛騨): 8万7000
東海(静岡、愛知、岐阜): 5万4000
畿内(奈良、京都、大阪、神戸): 3万
畿内周辺(滋賀、三重、和歌山、兵庫): 7万
山陰(鳥取、島根): 1万8000
山陽(岡山、広島、山口): 4万9000
四国(徳島、香川、愛媛、高知): 3万
北九州(福岡、佐賀、長崎、大分): 4万1000
南九州(熊本、宮崎、鹿児島): 6万5000

総数60万

鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」2000年
0788日本@名無史さん
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2023/11/11(土) 23:05:51.62
> 0548ウィズコロナの名無しさん
> 2023/11/04(土) 13:25:48.91ID:xgBNZpLQ0
> 東北の日本海側はユーラシア大陸の巨大政権に怯えて朝鮮から逃げて来た勢力が大勢いたんよ、だから臆病な村社会の気質が今も受け継がれてる。

> 本格的な日本海交易の物流は弥生後期2〜3世紀から始まっていた。この時代は日本列島生きた人々が東アジアの強大な政権と本格的な交渉を開始した時期である。
> 対馬海流が朝鮮海峡から津軽海峡方面に流れ、沿岸部にはその反流が流れるため、舟で往来するのにはとても有効な海路である。
> 日本海というのは、地球規模でみた場合は大きな湖のようなもので、古代人にとって「内海」といっても過言ではなかった。
> 弥生後期2〜3世紀からは朝鮮半島から直接、準構造船船団による組織的交易が新潟や東北方面にもたらされるのである。

> 方形周溝墓に鉄製武器を副葬する習俗は、朝鮮半島に由来するものである。
> 根塚遺跡の渦巻紋装飾を含めた3本の鉄剣は特注品であり、当時から長野県北部の人々は朝鮮の鉄器制作工人と直接交渉していたことになる。
> 長野県内の千曲川流域のいくつもの遺跡で朝鮮半島製の青銅器や鉄器が発見されているが、いずれも上越から峠を越えて運ばれたものである。
> その分布は千曲川流域から、さらには関東地方まで強い影響を与えている。

> この時期は中部地方や関東一帯でものを切ったりする利器が、鉄器に劇的に移り変わる時期にあたる。
> 鉄器とその素材は朝鮮半島の南東部に由来するものである。
> 実際に東北一円、新潟でもそうだが、消耗度の非常に高いアメリカ式石鏃(大阪府高槻市芝生遺跡で初めて見つかった際に、アメリカ原住民が使う矢じりとよく似ていたのでこの名がつけられた)
> などには鉄を使わないので石の矢じりは残るが、木を伐採する石斧は急速に数を減じて、鉄斧が一斉に普及する様子を知ることができる。

> 丁度その頃に新潟県内の各所でも高地性集落が目立つようになるが、これは中国の『後漢書』などに、後漢の終わり頃「倭国、大いに乱れる」という記事が出てくる。それを彷彿とさせる状況と言える。
> https://i.imgur.com/gV9WpIG.png
0789日本@名無史さん
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2023/11/11(土) 23:07:31.04
The distinctive geographic patterns of common pigmentation variants at the OCA2 gene
https://www.nature.com/articles/s41598-020-72262-6

沿海州ツングース集団や中国東北部集団(rs74653330) C2やNとほぼ相関 東北日本海沿岸に多い傾向も見られた。
https://i.imgur.com/CRZ0YO4.png
共通する新モンゴロイド(寒冷地適応した)に由来する。

それぞれ
沿海州・高句麗・新羅→北陸・東北地方日本海側(粛慎?蝦狄?)
ルートに対応すると思われる。
0790日本@名無史さん
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2023/11/11(土) 23:09:18.20
東国における古墳時代地域経営の諸段階−上毛野地域を中心として−
国立歴史民俗博物館研究報告
第 211 集 2018 年 3 月

東海集団の大規模移入
南関東のうち相模湾・東京湾西岸では,弥生後期前半から中葉にかけて以下に述べる東海東部系土器の大規模な移入が知られている[比田井 1993,松本完1993 西川 2001 など]。
相模では,相模川西岸に東遠江(菊川式)・駿河(雌鹿塚式)の土器が,また相模川東岸には東三河(寄道式)と西遠江(伊場式)の土器が濃厚にみられ,
南武蔵には東遠江,駿河の土器が移入されるとともに,環濠集落が集中して形成される。

中期後半の宮ノ台文化が解体した後,集落再編と久ケ原式の成立がみられ,その外縁に東海東部系土器の移入が生じたのである。
これらはいずれも型式属性や土器組成が故地と同じでありながら,胎土は在地のものであり,また当初は故地の様式に忠実であったものが次第に在地化し,台付甕文化圏を広く成立させている。
これらの状況は,大規模な入植集団による地域再開発とその定着の道筋を示していると考えられる[大村 2015]。

続いて,弥生終末期から古墳時代初頭にかけても集団移動が確認できる。@地域では弥生後期の様相を引き継いだ土器様式が展開するなかに外来系土器の混成が認められるが,
A地域では主として東京湾岸系土器(内房地域)のまとまった移動が認められ,在地の土器群を一変させることが知られている。
それまで不詳だった方形周溝墓や方形環濠集落も出現している。大村直はこれを「終末期開拓移住」と性格付ける [比田井 2004,大村 2015]。
0791日本@名無史さん
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2023/11/11(土) 23:09:37.76
一方,B地域には,畿内の庄内式後半から布留 0 式並行期に S 字口縁台付甕を中核とした東海西部系土器(元屋敷式系)が出現する[田口 1981,若狭 2007]。
この時期に東海西部系土器の参入が厚くみられるのが,在来弥生集団が進出していなかった上毛野利根川沿岸低地部や武蔵北部の利根川・荒川流域である。
また,下毛野・那須,常陸北部,三浦半島,南武蔵の東京低地(古利根川・渡良瀬川が形成した武蔵と下総の間にある湾岸低地)にもS字甕がみられる。
特に上毛野の低地部では,東海西部系土器が様式的に完備した形で定着し,在地化を遂げる。墓制が東海起源の前方後方墳に転換し,東海西部系の木器様式,
排水溝をめぐらした低地性住居(平地建物)も出現する。
東海色は布留 1 式並行期まで継続し,故地との情報交流が継続しているが,その段階の葬送用器物として顕著なのが,東海でも伊勢地方に多い伊勢型二重口縁壷[田口 1981]の採用である。

またB地域では,後述するように東海西部系様式を保持する集団の外縁地帯(山麓や山間部)に,一時的に在来弥生系土器を保持した集団が併存し,次第に同化していく[若狭 1990]。
以上のような諸属性から,この地に東海西部を主体とする外来集団が組織的に移入したことは疑いなかろう。
なかでも,典型的な「伊勢型二重口縁壷」が葬送儀礼に用いられた上毛野西部に移入した集団は,主に伊勢地方に起源する可能性が考えられる。
ただし,上毛野から東に離れると,次第にS字甕・伊勢型二重口縁壷が薄れ,普通口縁のハケ整形台付甕やナデ整形平底甕,久ケ原系壺などが混在する。
そこでの集団構成は,大宮台地や上総の在来系集団を核に,各地の外来系集団を混成したものとみられる。

遺跡の分布からみた東海西部系集団の移入ルートは,太平洋岸の外洋を経由した後に,三浦半島を経由して東京湾から東京低地に入り,現荒川筋を遡上,大宮台地北部から現利根川流路を経つつ,
北武蔵と上毛野において利根川両岸に展開したとみられる[田口 2000]。
0792日本@名無史さん
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2023/11/11(土) 23:09:57.08
北西関東における東海西部系集団の定着
上述のように,古利根川,荒川水系は連接し,東京湾と北西関東内陸部を連絡していた。ここを遡上してきた外来系集団は利根川両岸に展開したが,なかでも中核的な定着地となったのが次の地域である。

ア.群馬県西部の利根川北岸・井野川下流(高崎市・玉村町地域)
イ.同利根川南岸,鏑川・神流川下流域(藤岡市・埼玉県児玉郡域)
ウ.利根川から荒川南岸(埼玉県本庄市・熊谷市)
エ.群馬県東部の利根川北岸域(群馬県伊勢崎市・太田市地域)

これらは,いずれも先行する弥生後期集団が不在であった低湿地域である。換言すれば,在来弥生集団が経営不可能であった未開地であるがゆえに外来集団の移入が可能だったのであり,
ここに東海地方固有の低湿地開発に適応した技術群が投入されたと考えられる。広大な空閑地を開拓するために,外来の人々は目的的に移入したのである。
なお,ここでは集団定着後の墓制として東海系譜の前方後方墳が成立する。
前方後方墳は,前方後円墳秩序の影響を受ける前後で,第T群・第U群前方後方墳にその歴史的性格が分かれることが指摘されるが [中井 2004,田中 2011],
B地域ではU群前方後方墳として大型のものが成立するのが特徴的である。

100m級では,ア地域の元島名将軍塚古墳(95m),前橋八幡山古墳(130m),エ地域の藤本観音山古墳(116m),山王寺大枡塚古墳(96m)を挙げることができ,
とりわけ農業経営に成功し,動員力を獲得した地域であったと見られる。
なお,利根川水系以外では,那珂川水系の上流部に大型前方後方墳の集中がある。
駒形大塚古墳(64 m)からはじまり,前期を通じて前方後方墳を継続し,最終的に下侍塚古墳(84 m),上侍塚古墳(114 m)を輩出する那須地域である。
移入集団は当初から首長に統括されており,その首長墓の造営準備行為は水田開発準備と連動し,土器を献納する祭祀(集団意識の結集行為)を伴いながら進行したことが判明する。
すなわち,古墳造営が,新開地での開発推進と連動する「象徴行動」であることが確認できよう。
0793日本@名無史さん
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2023/11/11(土) 23:10:15.63
なお本古墳は,弥生後期の樽式土器を保持する在来集団の「伝統的居住域」と古墳時代外来集団による「新開地域」の境界地に築造されており,
記念物としてきわめて意図的な選地が行われ,外来集団と在来集団の統合のシンボルとしても機能したと考えられる。
荒川南岸の低地に営まれた集落跡からは,吉ケ谷式系,東海西部・東海東部系,畿内系,北陸系土器とともに,ガラス玉の製作を証明する土製鋳型や,
水晶・緑色凝灰岩・瑪瑙を用いた玉造りの痕跡が確認されており,遺跡内では河川跡と堰も検出された。
往時の上毛野の低地部には,地域経営をすすめる複数の首長系譜が移入し,上述のように大型前方後方墳の築造を成し遂げているが,
これらの集団は,上毛野の広大で安定した低湿地が未利用であるという情報を,弥生後期の情報ネットワークのなかで獲得し,
ここを経営する目的で大挙して移住したと考えられる。

上毛野の開発が急速に進められ,東日本でも突出した古墳文化を創出していく理由は,当初から低湿地利用を核とした地域経営システムが完成された形で扶植され,
かつ集団編成が多元的であったことに由来したのである。古墳膝下にある五領遺跡は布留式土器を多量に出土しており,このエリアの畿内との交流の濃厚さを教えている。
最も外来系集団の圧力が強かった上毛野西部平野部周辺では,樽式土器は急速に解体し,外来系集団に速やかに取り込まれた[若狭 1990]。
吉ケ谷式はさらに興味深い動きを示す。北武蔵から見て利根川対岸(北岸)の上毛野東部は,もとより在来弥生集団が希薄であり,弥生後期はほぼ無住地であった。
しかし古墳前期初頭になると,東海西部系集団の移入とともに吉ヶ谷式の拡散が起こり,上毛野東部利根川沿岸低地には東海西部系集団,
背後の赤城山や足尾山地の山麓部には吉ヶ谷系集団という住み分けが発生したのである[若狭 1990,深沢 2015]。
0794日本@名無史さん
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2023/11/11(土) 23:10:34.93
同時に,赤城山南麓には上毛野西部から樽系集団や,信濃を経由してきた北陸北東部系集団(北陸全般に共通する土器様式〔月影式,白江式〕を保持し,
能登・佐渡・越中・越後などの北東部地域固有の甕を組成する)も展開し,赤城山南麓では樽系集団,吉ケ谷系集団,北陸北東部系集団が混住し,
東海西部系土器(ただしこのエリアでは,模倣された土器が主体)を共伴するという複雑な様相を呈する。
弥生終末から古墳前期に東京湾から荒川・利根川を遡上した東海西部系集団はかなりの規模であり,河川両岸の空閑地となっていた低湿地に定着し,大規模な水田開発を行った。
同時に,反町遺跡に代表される集落の出土組成に東海東部系・南関東系・北陸北東部系の土器を含むように,この集団は近接集団と密接な交流関係を取り結び,
弥生後期の閉じた社会関係を大きく再編したことが明らかである。

長野県内では,木島平村・長野市・上田市・佐久市と千曲川流域一帯に点々と朝鮮半島南部で製作された鉄器と青銅器の出土例があり,いずれも弥生時代後期後半であることは重要である。
関東地方でも群馬県有馬遺跡や新保田中村前遺跡などの礫床木棺墓や,埼玉県観音寺遺跡などの方形周溝墓の主体部や周溝内埋葬などの副葬品として検出されている。
長野県内や関東地方の分布状況をみると,千曲川流域から群馬県方面,そこからさらに南関東や東関東方面へと分布が形成されたと考えられる。

そして千曲川流域への流入経路を考えると,直接の流入もとは高田平野であり,さらに北陸,北近畿,山陰と,日本海沿岸部を西にたどっていくことができる。
ざっくり言ってしまえば,そもそも,墳墓に鉄剣を主とする鉄製武器を副葬する習俗は朝鮮半島南部に顕著なもの。これが弥生時代後期後半に,中国地方から北陸へと分布を拡大しており,
その延長線上に千曲川流域や関東の鉄剣副葬習俗の普及があるとみられる。
0795日本@名無史さん
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2023/11/11(土) 23:10:52.46
こうした,弥生後期後半からの再編の波をうけ,西進の移入経路にあたっていた吉ケ谷集団は分解し,外来集団と接触する一方,一部は利根川を遡上した支流の鏑川流域,
あるいは利根川対岸の上毛野東部・下毛野地域に移住したとみられる。
同じ頃,上毛野西部では外来集団との関係で樽集団が変質を迫られ,一部は利根川を渡った上毛野東部に移り,吉ヶ谷集団とも交わりながら再編されていった。
地域開発に関してみると,低湿地部はその地に適した固有の技術群をもつ東海系集団が推し進めており,
彼らは未利用低地を開発するために首長に率いられ,目的的に移入してきたことが明らかである。

上述のように,上毛野地域における古墳前期の地域経済の進展は,主に低湿地の水田耕作の拡大によって成し遂げられていったが,
砂町遺跡の事例に代表されるように,その耕地整備は,滞留水を除去する排水措置の実施と,用水の安定管理に資する給水路の整備の両面によって保障されていた。
このため,当地域の政治経済圏は,基本的には河川水系に依拠していたことが明らかである。
また,地域開発はそれを主導する首長の墳墓の造営とも連動していたとみられたが,河川水系単位の経済力 ・ 動員力で成し遂げられる古墳の規模は,
上毛野では前橋八幡山古墳(130 m),前橋天神山古墳(129 m)にみる墳長 130 m 級が最大であり,また限界であった。

しかし,前期後半になると墳長 172 m の高崎市浅間山古墳,同 165 m の太田市別所茶臼山古墳のように,それまでの限界を超えた大型古墳(いずれも前方後円墳集成4期)が登場した。
これらは,水系経済圏を越えた複数領域の集団が共立した大首長の墓と考えられる。その成立にあたって,いくつかの要因が考えられる。
0796日本@名無史さん
垢版 |
2023/11/11(土) 23:11:13.39
一つはそれまでの用水圏をさらに結合した広域用水圏の成立である。別所茶臼山古墳の成立はまさにそれにあたると考えられる。
茶臼山古墳の立地は,赤城山東南麓の大間々扇状地南端に発する水源を押さえており,上毛野東部の広域用水網を整備し,諸首長間の利害を調停した大首長=共立王[土生田 2008]の登場を教えている。
同古墳膝下の水源地には,導水路を備えた中溝・深町遺跡[福島 2000] が成立し,ここに首長の居所が置かれるとともに,石敷井戸や貯水池を配備した水の祭祀場,方形溝をめぐらした大型倉庫が装備され,
大首長の政治・経済・祭祀拠点(いわゆる首長居館)が象徴化,可視化されている[若狭 2011]。

そのヒントとなるのが,太田天神山古墳より以後に生起する,上毛野への渡来文化・渡来技術の導入と,それによって生起する様々な技術群の存在である。
結論を先に述べると,太田天神山古墳の成立は,これ以前の地域内事情を超越した「東アジア世界との交渉」がもたらしたものであると考える。
倭王権の一翼を担った上毛野勢力が対外活動のために結集するに当たって,それまでの経済圏を越えて,「外交・軍事指揮者」を共立したのがその歴史的背景であったと考えたい[若狭 2017]。
上毛野全域の集団は,外来文化という果実を手にするために大団結したのである。その結果として5世紀中葉以降の上毛野地域に現出したのが,
後述するような「渡来人と多様な技術群」であった[若狭 2011,亀田修一 2012]。

『日本書紀』神功〜仁徳紀には,上毛野氏祖による朝鮮半島での度重なる軍事・外交活動(荒田別・鹿我別の新羅征討[神功49年],荒田別・巫別による百済からの王仁の招聘[応神15年],
竹葉瀬・田道による新羅征討と四邑民の連れ帰り[仁徳53年])が記されているが,この文献上の記述と,実際に上毛野地域で確認される考古学的事実(渡来文物の多出)との間には,整合する部分が認められる。
したがって,『日本書紀』の記事には5世紀の地域史の実態が埋め込まれていると考えられる[若狭 2015]。
0797日本@名無史さん
垢版 |
2023/11/11(土) 23:12:46.90
3〜4世紀、近畿勢力・東海勢力の関東・東北への集団移住 日本考古学協会 西川寿勝 2022 年 12 月 17 日

関東平野では東海の土器をもつ集落と近畿の土器をもつ集落がモザイク状に分布。
https://i.imgur.com/JjWfCJd.png
https://i.imgur.com/xN1nfOC.png
0798日本@名無史さん
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2023/11/11(土) 23:13:36.35
三陸河北新報社2022年8月24日

【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】
宮城県は弥生時代の集団遺跡がとにかく少ない。人類の集落や生活の痕跡が見えない中、古墳時代前期(4世紀)になって突然、蛇田の新金沼遺跡に集落が出現する。
石巻地方に古墳時代人が登場したのである。

突然、大集落が出現しただけでも驚きなのに、さらに驚いたのは住居から出土した土器である。関東・東海地方の特徴を持つ弥生土器よりも装飾のない「土師器(はじき)」と呼ばれる土器である。
東北地方の古墳時代は関東・東海地方の人々の移住から始まったのである。

ともかくも、こうして東北各地に移民による拠点集落ができていった。
岩手奥州の中半入遺跡、石巻の新金沼遺跡、大崎の名生館遺跡、多賀城の山王遺跡、仙台平野の南小泉遺跡、名取の清水遺跡などが有名だ。
いずれも結構な数の須恵器の出土が見られる。

宮城県大崎市青山横穴古墳群、大崎市混内山横穴古墳群、塩竈市清水洞窟
山形県米沢市戸塚山古墳、福島県喜多方市灰塚山古墳、福島県郡山市正直古墳群
いずれの古墳人も、縄文人の特性は見られず渡来系の特徴を持つ

当然、さまざまな道も生まれていった。
仙台平野から大崎平野をへて北上盆地に向かっては「山道」(さんどう)と呼ばれた幹線道路があったことも知られている。
「道奥」は道がなかったわけではなく、中央ヤマトがそのようにみなしただけだった。
0799日本@名無史さん
垢版 |
2023/11/11(土) 23:15:04.35
古墳と祭祀遺跡は、いずれも古墳時代を考える上で重要な要素である。
石製模造品は、その両者を共通して分析できる数少ない遺物の一つであり、古墳時代中期を代表する祭祀遺物である。
畿内を発祥の地とし関東地方まで盛行することから、大和政権の東国に対する勢力伸長を反映するものと理解されてきた。
この考えは、今日にいたるまで基本的な視点として受け継がれている。

倭の五王の時代、律令制国家以前
赤線は内陸部主要交通ルート
https://i.imgur.com/hoHEdkE.png
https://i.imgur.com/TA3rE0o.png
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