神功皇后とは一体なんだったのか [転載禁止]©2ch.net
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神功皇后の非実在性の否定は戦後タブーとされた様に見える
朝鮮半島が倭人の女性、しかも妊婦によって征服されたなど日教組自虐史観においてはあってはならない事なのだろう 神功皇后が男装して新羅を征した。神はこれを導いた。これにより船を乗せた浪は、遠く新羅国の中にまで及んだ。
新羅王宇流助富利智干は迎えて跪き、叩頭して「臣は今後、日本国においでになる神の御子に、内官家うちつみやけとして、絶えることなく朝貢いたします」と言った。
【日本書紀 神功皇后摂政前紀 仲哀天皇九年十二月辛亥条 一云 第一】 一に云はく、新羅の王を禽獲にして、海邊に詣りて、王の月賓筋を拔きて、石の上に匍匐はしむ、俄ありて斬りて、沙の中に埋みつ。
則ち一人を留めて、新羅の宰として還したまふ。
然して後に、新羅の王の妻、夫の屍を埋みし地を知らずして、獨宰を誘つる情有り。
乃ち宰に誂へて曰はく、「汝、當に王の屍を埋みし處を識らしめば、必ず敦く報せむ。且吾、汝の妻と爲らむ。」
是に、宰、誘く言を信けて、密に屍を埋みし處を告ぐ。
則ち王の妻と國人、共に議りて宰を殺す。更に王の屍を出して他處に葬る。
乃時、宰の屍を取りて、王の墓の土の底に埋みて、王の木親を擧げて、其の上に穴乏ゑて曰はく、「尊く卑しき次第、固に此の如くなるべし。」
是に、天皇、聞こしめして、重發震忿りたまひて、大きに軍衆を起したまひ、頓に新羅を滅さむとす。
是を以て、軍船、海に滿みて詣る。
是の時に、新羅の國人、悉に懼りて、不知所如。
則ち相集ひて共に議りて、王の妻を殺して罪を謝ひにき。 三韓征伐というが、皇后は新羅しか攻めてなくね?
三国史記の記述をみても、倭国がさかんに新羅を攻めてひきあげていったのは書いてあるな。 神功皇后で重要なのは香坂王子と忍熊王子へのクーデターの方
三韓征伐の強調はそのごまかし >>1
「非実在性の否定」ってわかりにくい。「実在の肯定」だろ。 >>4
そこはおそらく(平和裡に行われたということにされている)出雲の国譲りと大きな関係があるんだと思う
新羅ってのは海路の関係から言っても親出雲の土地の筈だ
三国遺事の延烏郎細烏女説話や脱解尼師今の出自の話みたいに半島と日本の日本海側同士の交流は盛んだったんだろう
新羅が大和政権を倭の正統な支配者と認めない立場を取って敵対したとしてもおかしくはない
>>5
「神功皇后はいなかったニダ!これを否定するものはネトウヨネトウヨネトウヨ!!」
という感情が込められていると言いたかった 敵対うんぬんより、倭人がガンガン半島に進出してるのがあの時代 >>9
出雲の息がかかった倭人が半島に進出して新羅の王(脱解尼師今)となったと考えてもおかしくない 日本書紀によると、神功皇后が、かつて「山門(やまと)」と呼ば
れたこの地の土蜘蛛・田油津媛(タブラツヒメ)を討ったとのこと
です。また、その兄である夏羽(ナツハ)が軍勢従えてやって来た
のですが、妹が討たれたと知り、逃げ去りました。
http://jyashin.net/evilshrine/gods/tsuchigumo_shrine/tsuchigumo_trip_chikugo_0101.html
人を誑かすタブラツヒメは、鬼道を使っていたのだろう。 >>8>>11
古代日本にはやたらと女酋長が多く出てくるな
鬼道ってのは女が政治に携わる事をいうのか? 土蜘蛛は女酋長みたいだね。みんなヤマトに滅ぼされたけど。 景行から神功は、福岡を支配する
豪族だろうね。
景行は本拠地筑前から、
肥国と激しい戦いの後、筑後に進出。
肥国と停戦、不戦協定を結び、
豊国、熊襲国を征服。 神功皇后の九州までの移動ルート
気比神社
↓
武庫
↓
播磨
↓
牛窓
↓
渟田門
↓
鷹飛原神社
↓
沙麼の浦
↓
豊浦宮 神功皇后伝説由来の地名の一覧ってどっかにないんですかねえ?
誰か研究してると思うんですけど 何か食い詰めた三韓が攻めてきた。
稲作で兵糧がある日本が勝った。
でも当事は文字が無いので口伝に
なった。
後年「あれ実は最初の対外戦争だったんじゃね?」
って事になって大急ぎで古代の
おまいらにアニメ化させたのが
神功皇后ちゃん。
但し古代の女酋長がモデルになった
可能性までは否定出来ない。
朝鮮にもそれらしき名前(細鳥女)
が残ってるので。 >>12
日本に限らず古代は女酋長や女領主がいっぱい居る。
新羅にも居た。
でも中華で女性蔑視ブームが発生して、この近代化
に乗り遅れたらヤバイいんじゃね?
って雰囲気になって女系皇統(欠史八代)を無かっ
た事(神話化)にした。
朝鮮でも同じ事が起こったと思われる。
彼らの異様な焚書趣味の根底にはそういう思想がある。
恐らく朝鮮半島にも漢4郡等の史書があったんだろう
けど残ってない。檀君何とかはその残滓。
日本もそうなりかけたが、国学者達が目覚めて歴史を
守った。 息長氏の姫が皇族に嫁ぎ、産まれた皇子が推す勢力があって、皇太子を排除して即位した
同時期に日本の軍勢が新羅の王都に攻め込んだ
この二つは事実だろう おきながって海人族だけど海人(あま)帯(たらし)アマテラスってことじゃないの?
ところで武内宿禰って蘇我の祖といわれているけど蘇我と物部は同属だよね
武内宿禰は彦太押信の孫だけどもこれフトオシじゃなくてどう考えてもフツヌシだ
武というのはもののふの語源につながるのではないか 『三国史記』にでてくる倭の将軍于道朱君が建内宿禰という説はある >>1>>8
卑弥呼は、外交にはおろか、内政にもタッチしてない。
政治は、弟にやってもらっていた。
むしろ、時代的には、卑弥呼の親族の トヨ が、神功皇后に相当すると思う。
トヨが卑弥呼の後を継いだと記録があるし、
その時期には、大和朝廷が急速に集権化を行っている。
卑弥呼とトヨは、親族だろうけど、方針が全然違うんじゃないのかな? 近所にいるでしょ
とくに重要な日、変わった日でもないのに、
小豆の入った赤飯を持ってきてくれる人
そういうことだよ 日本書紀の記述どおりに
神功・応神・仁徳の三世代で二百年ということはまずありえない。
神功皇后が卑弥呼より百年以上後の人物でないと
天皇家の家系図が途切れてしまう。
それとも実際には天皇家の系図は仲哀と応神の間で切れていて
日本書紀の編纂者がこの間に卑弥呼をつなぎとして置いたのだろうか? 神功皇后伝説は高句麗南侵の経緯に酷似しているのでこの時期にヤマトに亡命して来た亡命高句麗王族の四方山話
亡命高句麗王族は自分達の兵装がヤマトより進んでいた事から欲を掻いて多勢に無勢にも拘わらず兵を開き70年弱ヤマトと戦った後講和してオオキミと姻戚関係になったので四方山話が挿入された ヤマトは二正面作戦を強いられていた時期が有ったかも知れない承平・天慶の乱みたいに >>26
なんで南進した側の王族が亡命するんだよ。普通亡命するのは南進された側だろ 日本・中国・朝鮮の史料では、倭人が朝鮮半島に侵攻していると書いてるのに、
史料に書いてない逆のパターンを想定している人が多くて驚く。
しかも、根拠は特になし。 倭人が朝鮮半島に侵攻する出来事がしょっちゅうのことだったなら
そのうちのどの出来事が記紀の示す神功皇后の記事に当たるんだろう?
実際に神功皇后が新羅征伐などしていなくても中国・朝鮮の資料を使って
もっともらしくごまかすことができるんじゃないかな。
神功皇后は本当に夫とされる仲哀天皇の死後幼いわが子の
摂政を務めたのか?神功皇后の摂政年数から60年(干支は60年で一巡)
引くと9年になる。じゃあ9年間わが子の摂政をしたのか?
しかしこの9年は仲哀天皇の在位年数と同じである。彼女の摂政年数は
実はゼロ年であって俺は彼女が産んだとされる応神天皇は、
仲哀天皇の死後生まれたのではなく既に成人しており、
仲哀天皇にとって赤の他人か傍系によるクーデターによって
仲哀天皇の一族が放逐されたのではないか?、彼女は仲哀・応神
の間を血で繋げる役割を記紀編纂者に託されたのではないかと思ったりもする。
実は血がちゃんと繋がっていて、天皇のお付きの妾にすぎない女性が
本妻の産んだ二皇子を殺して我が子を皇位に付けた、古代にそんな出来事が
絶対になかったとは言えないが。 >>28 わからんw
>>29 神功皇后は高句麗衰亡期に入ってる頃だよねつまりその時期に日本に亡命した者のそれより遥か以前の興隆期の先祖の手柄話が新羅征伐であり神功皇后伝説に変化したんじゃないかな >>29 26は書き方が拙かったねスマソ
高句麗興隆期の事件→高句麗新羅征伐
高句麗衰亡期の事件→日本への亡命 そももそ仲哀天皇からして景行・成務天皇からの継承経緯が不自然きわまりないのだが。 神武天皇のライバルの長脛彦と、
応神天皇のライバルの二王子(麛坂皇子,忍熊皇子)、
継体天皇のライバルのヤマトヒコは共通点があるとかなんとか。
ナガスネという地名と籠坂という地名は近隣で、
ヤマトヒコは仲哀の子孫と言う設定 日本の資料の三世紀後半に、半島進出の(新羅攻め)の記事があり、
半島の記録にも同様にある。
記録に残る七支刀が出土している。
当時何らかの事件があり、優れたシャーマンだった王族出身の妃が、
危機のヤマトを率いて戦ったという伝承があったとしか思えない。
捏ち上げるなら、立派な天皇が半島へ攻め込んでぶんどったとすればいいのだから。 三国史記于老列伝によると、
「沾解王七年癸酉に倭国使臣の葛那古を新羅が接待したとき、于老は戯れに、早晩、汝の王を塩奴(塩を焼く奴)とし王妃を飯炊き女とすると言ったので、
倭王は大いに怒って将軍の于道朱君を派遣し、新羅を攻めて于老を火あぶりの刑に処した。
その後、味鄒王(沾解王の次代で第十三代国王)の時代に、倭の大臣が新羅を訪問したとき、
于老の妻はこの者を欺いて饗宴のうえで捕らえ、火あぶりにして怨みを晴らした。
そこで、倭は怒って新羅の都・金城を攻めたが、勝利をおさめられずに帰った」
ここでいう、葛那古が葛城襲津彦、于道朱君が武内宿祢という説がある。 >>37
その将軍が王族とかではない応神天皇であり、
そいつがヤマトをのっとったんじゃね?
で、応神と仲哀をつなげるために神宮皇后を作り出したとか >>39
だからなんでそんなひねくれた解釈が必要なんだよ?
「倭国が新羅を攻めて属国にした」という分には記紀の伝承になんの問題もないだろ
そもそものっとったのなら、のっとられらほうの悪業を書き上げるだろ
自分を偽って嬉しいか? 勝利者なのに自分を偽る必要ないだろ
仮面かぶる必要あるならまだ天下とってなくて戦いの途上だってことだろ
そんな中途半端な段階で歴史を捏造なんて悠長なことしてないっつの >>20
神功皇后の出身氏族息長氏が、どういう遺物から海人族と言われるの?
史家山尾幸久氏は、その著『日本古代王権形成史論』に以下の記述を
している。
「息長氏は、5世紀の中葉から後半ごろ裏日本に来着した新羅文化を
背景にもつ加耶系有力氏族そのものであるか、またその強い影響下に
そのころ在地に台頭した集団・・・・・」 >>37
>危機のヤマトを率いて戦ったという伝承があった・・・・・・・・・・・・・・・
三韓征伐という海外侵攻が、危機のヤマトとかいう国難になるのか
理解できません。
>日本の資料の三世紀後半に、半島進出の(新羅攻め)の記事・・・・・・・・・
>半島の記録にも・・・・・・・・・・・・・
と書かれた倭国・半島それぞれの記録名は、何ですか?
記紀の記す神功皇后三韓征伐年代は、AD200年代とは違うが? >>39
何故のっとるの?
ヤマト王権には多くの豪族が参集している。
おまえさんがいうことを実現させるには、多くの豪族を打ち破り、さらに
海外遠征をしなくてはいけない。大半を海外に向けたら、国内で反逆が起きる。
敵兵を残らず殺してしまったら、海外遠征する兵士が足りないw
全国で王(豪族の首長)だけを殺害する下克上が起き、各地の武人がすべて
征服王に従うという奇跡が起きない限り困難。
秀吉のようなのが現れて、と言いたいのかも知れんが、秀吉は信長の
後継者となったからだよ。それに一代で終わったしw
応神以降も有力豪族の系譜は途絶えていない。 >>42
伽耶出身のわけのわからない氏族に安曇、住吉の海人系が加勢するだろうか
しかも、潮満潮干の珠はそんじょそこらの珠じゃないです
ヒコホホデミが豊玉姫から借り受けた
海人族の正当な後継者が持つものだと思います 27 名前:日本@名無史さん :2015/03/19(木) 18:56:29.55
邪馬台国は宮崎県にあった。
謎が解けたよ。
宮崎を日向と名付けたのは景行天皇で、神武東征の時には、宮崎は日向では
なかった。
つまり、天孫降臨の地は宮崎ではなく、後から宮崎を日向と偽称させた。
なぜか?
邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされた土蜘蛛であったが、これを明らかにすることは
できなかった。
なぜなら、邪馬台国は魏の冊封国であり、これを滅ぼしたとしたら、中華帝国
への反乱ということになってしまうからだ。
そこで、大和朝廷は、卑弥呼と台与の事績を神功皇后一人の記とするなどの
混乱を見せつつ、これらが皇統であるかのような偽装を行った。
神功皇后は、日本が倭国であるかのような偽装を行うための架空の人物であり、
だこらそれは女性である必要があった。
そして、もう一つの偽装が、宮崎を日向の呼び、天孫降臨の地であるかのように
詐称したことだ。
なぜ宮崎だったのか。
それは、宮崎が邪馬台国だったからだ。
卑弥呼や台与が神功皇后であったかのように記述したのと同様、邪馬台国
を天孫降臨の地であるかのように詐称させることで、大和朝廷が邪馬台国
を滅ぼしておらず、むしろ正統な後継者であるかのようにする偽装が完成した。
このように、宮崎を天孫降臨の地であるかのように詐称したのは意味が
あり、そこが邪馬台国であったからだ。 応神天皇に抹殺された仲哀天皇一族‐記紀の数字が語る古代史
http://marishi.weblogs.jp/blog/2009/07/post-62e7.html
仲哀天皇(推定生没年359年〜380年、22歳)(推定在位期間372年〜380年)
応神天皇(推定生没年363年〜403年、41歳)(推定在位期間381年〜403年)
両者は親子ではない。
神功皇后は実在したとしても仲哀の皇后でありえない。
神功の摂政期間はゼロ年である。 神功皇后の伝承が残る土地は沢山ありますが
空海や役小角や安倍晴明のように後世創作された伝説も当然あるはずですよね
その手の研究が書かれている書籍はないでしょうか?
あまり研究が進んでいない分野だったりします? 2世紀説が正しいとすれば七支刀は箸墓に二本あると言う事
になって神功皇后(卑弥呼)は政略結婚で魏に贈られた人質
であると思われる。
狗邪韓国経由で魏に贈られたが後に魏が黄幢を授けて傀儡と
して 仲哀、忍熊、弟媛の支配する正統邪馬台を滅ぼして女王
となる。
確かに国中服さず反乱を起こされたのは当たり前だね?
後には神格化され八幡神になったと思われるがいかがか?
弥生時代〜古墳時代は騎馬民族時代とするべき。
結論、邪馬台国は魏の傀儡政権だった。 4世紀人物説であれば卑弥呼とは別人の可能性もあり、
史料や伝説の類似はのちの時代の習合が原因であると
推定される。
4世紀説が実証されれば2倍暦説が正しいと実証される
だろうし出土人骨から当時の平均年齢が30歳であるに
も関わらず長命であるという中国史書の記述に考古学
的裏付けが与えられ証明される事だろう。
神功を殺害したのは魏ではなくて高句麗か新羅という
可能性が濃厚となる。
応神天皇が新羅か高句麗の王族の子孫である可能性も
あるだろう。
仲哀敗戦後に倭国から贈られた人質でその人質にを傀
儡として高句麗の騎馬民族に奈良と太宰府は蹂躙され
忍熊王子らは反乱軍ではなく侵略者と戦った偉大なる
忍熊大王だったと思われる。
各地に残る伝説は大陸系征服王朝の苛烈さを物語る物
であろう。
だが、次第に土着系が時が経つにつれて盛り返して来
て神功傀儡に率いられた侵略者渡来人豪族達の多くも
土着系に寝返ったのだと思う。
清寧天皇に子が無かったのはそういう関係であろう。
だが、更に時が経つとまたまた渡来系が逆転して応神
の5代末裔と称して土着系を滅ぼしたと考えられる。
武烈は崇神王朝の流れを汲む土着系だったのかもしれ
ない。 結論、
神功皇后は騎馬民族高句麗の傀儡か
王族血統獲得の為の人質であった可
能性が高い。
朱蒙は弓の達人だし神功も弓の達人。
アマテラス=タラシヒメ=柳花
応神=朱蒙 高句麗に対馬海峡を渡る造船技術はない
それとも海チョコボの背中に田植えしながら騎海チョコボ民族がクエクエとジャップランドを征服したのかね?
ホ妄想よ 神功皇后は、仲哀天皇の側室であって、正室ではない。
彼女の出自も、正室よりは皇室本家よりも遠い傍系皇族。 岩戸を開かす(新王朝)為の天宇津女命。
ウズは偉大。ウズ女は偉大な女、、、大倭姫(大倭の女王、女帝)
天手力男命。は武内宿禰命。
古い天照皇大神(古い王権)、、、仲哀天皇を謀って葬りさり
(この際には普通なら大葬の筈が国が穢れたとして大祓の神事をした。)
新たな若々しい天照皇大神、、、ホムタワケ=応神天皇を引き(担ぎ)だして
新王朝を樹立。
淡路島の北端のアマの岩屋(石屋神社/イザナキの幽宮伝承地。//天地大明神)で岩戸開き?の神事を懇ろになさってから出陣。
御帰還?の際には凱旋のお礼参り。幼少(稚)の新たな天照皇大神=応神天皇を引き連れて、、、 応神河内王権の最高神を祀る住吉大社。
祭神はツツノオ三神。
ツは都で十につながり、十は最高。重ね重ねで廿。旧来の最高の更に上の超最高。
祭礼の際の拍手(手打ち式)の儀礼は生国魂神社とほとんど同じもの。
う〜ちましょ!。パンパン。(も一つセ)パンパン。(祝うて三度)パパン、(、、、)パン。(、、、)パンパン。パンパン。オォ!\(^o^)/ 神功皇后が活躍した時代は四世紀後半だろ。
七支刀、高句麗の記述。
息子の応神が活躍したのが五世紀初頭だから、時代はあってる。
>>54
皇族なのに側室ってか。 息長氏って、有力子孫が残ってないからあれだけど、ヤマト王権誕生時の有力者なんじゃないかなあ。
丹波氏もそうなんだけどね。丹後から近江、尾張にかけての地域の有力者なんだろうと思うなあ。
卑弥呼を共立した氏族の一つと言う感じ。
ヤマト黎明期から、応神の頃までの天皇家も含むヤマト連立政権というか。
オレは崇神天皇じゃなくて彦坐王が後継者のはずだったんじゃないかと思ってる。
だから、狭穂彦が王位を狙ったというか。反乱ではなくて奪い返したのか、全く逆で
崇神がクーデターを起こしたのかも知れん。
彦坐王は、丹波一族の母を持ち、息長の娘を妃にした。
初代斎宮の倭姫命は、母は日葉酢媛命で丹波一族だ。
この時代、母から女王の血筋というか聖なる血脈を引き継がないと王の神聖さが
担保されなかったんだろう。
神功皇后が女でありながら天皇のごとく扱われ、臣下が異を唱えているようすは
見えないところを見ると、彼女がそういう血筋で神聖さと武運を持った女性だった
からとしか思えない。
後代の男系子孫にこだわる考え方からすれば、こんなのをでっち上げる必要は全くない。
仲哀が自分で行けばいいのだから。
細かい物語は作ってあるとしても、神功皇后の実在や系譜をでっち上げてるとは
思えない。
三世紀後半、軍隊を率いて戦い、戦勝をあげ、百済から七支刀を受け取り、
高句麗にも恐れられた女性皇族がいた、という事実があったんだろう。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>57
おまえ、頭が悪いなw
正室だとか側室だとか、言い方はどうでも良いんだよw
第一夫人とか第二夫人って言い方でも良い。
仲哀天皇の第一皇子や第二皇子の生母と
第4皇子である応神天皇の生母である神功皇后の出自を比べてみろ。
どちらが本来の皇后というか第一夫人だということが、よくわかる。
どっちも神武皇統だけど、前者のほうが皇室本家に近い。 日教組自虐史観の在日朝鮮人が何を書いても説得力はない
時に最近は2ch日本史にはなりすましのチョンが多い >>62
後者のほうは高祖父が兄弟というぐらい離れていて
前者のほうはもろにいとこどうしですもんね。
天皇の血が濃い皇子が当然貴い。
日本書紀編纂当時の天皇は応神天皇の子孫であり、
側室あるいは後妻の子どもが仲哀天皇の正統な跡継ぎ
二人を抹殺した上で天皇になったものだから
それを取り繕ってごり押しでも母親は正妻という立場にしない
といけなかったのかもしれませんね。
そういう取り繕いが全くない歴史書のほうが珍しいでしょう。 >>64
>天皇の血が濃い皇子が当然貴い。
いつからそうなったんだい?
20代くらいまでのはそうは見えないけどな。
後に天皇になった人を生んだ生母が皇后ということにしたのは同意する。
そもそもそんな古くに「皇后」なんて名称があったはずはないし、皇后のような
正室扱いがあったかどうかも不明。
有力豪族同士の政略結婚が基本で、雄略以降は有力豪族を潰したから、
随分変わったかも知れんが、継体の例もあるしね。 >>37
三世紀後半って書き間違い?
四世紀後半なら同意するよ。 >>39
神功は仲哀(14代)の皇后ではなく、『紀』が皇后も子も記さない13代
成務の皇后だった?
日本古代(真実)史 849.神功とは誰か:宝賀寿男さん説 2009/10/11
ttp://blogs.yahoo.co.jp/raccoon21jp/34388777.html 三世紀初頭の時点で天皇家が絶対的権力と神聖性と正統性を持っていたなら、
混乱は起きないし、卑弥呼共立もないんだよ。
なのに、天皇の血筋に近いほうが正妻でその子が貴いって、おかしいと思わんのかね?
四世紀〜5世紀初頭の古墳は、200m程度のものがたくさんある。
櫻井周辺と佐紀、馬見が大半だが、丹後と播磨にもある。
まあ、有力者同士で婚姻関係を結んでいてその子供の代とかだと一族と言えるかも
しれんから、広い意味での天皇家といえるかも知れんけどな。
倭の五王の時代、倭王は部下にも官位を求めているから、その頃でも絶対的権力とは
少し違うんだろうけどな。
何が理由かは分からんが、挙国一致で半島へ攻め込んだ。一度とは限らない。
任那地域を脅かされ、交易が途絶えたとか、追い出されそうになったことが
理由かもしれない。
ともかく、神功皇后のおかげで半島での権益を確保できたんだろうな。
そして、そのことは当時の日本にとってものすごく重要な事だったということだ。 皇室の祖先にそれなりの神聖性や正統性が無かったら、
群雄割拠してればいいだけなのに何故に卑弥呼を共立したんだ?
卑弥呼の後も同族の台与を共立してるし。
男子だと争いが起きそうだから女子にするってのはまんま上代と同じだ。
江戸時代にはそっちこっちに大規模な城郭があったけど、あれは独立政権の証か?
みな徳川に臣従してたと思うんだが。
使者や部下に官位をもらうと絶対的な権力じゃないって理路がいまいちわからん。
秀吉は朝廷から部下の分の官位ももらったけど、相対的な実力者にすぎなかったのか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています