徐福=神武天皇 [転載禁止]©2ch.net
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中国のネット上で出回り続け、もやは中国人の中では定説になっているこの説について語りましょう 徐福って前210年ごろ日本に来たんだろ
神武の4代前のニニギやその7代前のスサノヲに当てても
古すぎるわ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 遺伝子調査で考古学者の捏造がバレバレになって発狂とかみっともない しんでい い でんし
 ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|/-O-O-ヽ| ブツブツ...
| . : )'e'( : . | ハァハァ...
` ‐-=-‐ フヒヒ...
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||. .\\ \ ( ;´Д`) (また来たよw遺伝子厨w)
. \\ \ / ヽ.
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. \∧_∧ (⌒\|__./ ./
( ´,_・・`)目合わせるなって ∧_∧
. _/ ヽ \ ( ) な?遺伝子厨が来ると一気にトンデモクソスレになるだろ? 1000年以上前のことは、
こんな話もありましたで良いんじゃない。
誰も見てないし、 徐福=神武天皇はある意味
真実をついている。
最新のDNAを使った研究により
日本の稲は従来言われていた
朝鮮半島ルートではなく、
直接中国大陸から伝来したことが
あきらかになっている。
これは最新のDNA研究に基づく
ものである。
これは稲作に関わりの深い天皇の
先祖が、半島からではなく、
中国大陸から直接渡来した
可能性を示している。 調査サンプルに詐欺トリックがあるペテン師のサギー佐藤なんか支持している考古学者も
他の農学者もいない。
サギー佐藤以外の農学者や考古学者はみんな稲作は朝鮮で一致している。
稲作が中国からなんてもう0.1%の可能性も無い。
諦めましょう。 蓼科山の双子池には徐福の双子の子供が遊んでいたって伝説があるな。 >>138
そんなもの命懸けの航海に
載せて来れるか! いつものご都合主義w
アジア人って何でいつも結果ありきなんだろ 中国人たちの妄想だったものが江戸時代に日本にも伝わったフィクションで、
徐福集団を証明する証拠遺跡もその生活痕たる証拠土器や石器も一切皆無のため、
考古学的には何も立証できない単なるフィクションである。 >>161
今年中国で徐福のドラマが放映されるそうである(実に喜ばしい 中国人の恥ずかしい妄想から生まれた単なるフィクションというのが真相。 徐福の一団はいくつかの船に別れて出港した。
徐福本人がたどり着いたというよりも、ほとんどが嵐で難破して、かろうじて生き延びた
何割かがばらばらになって各地に漂流してたどり着いたのだろう。
神武は関係ない。 アナタ タイワン カエル カエル
タイワン カエル カエル カエル
アナタ ニホン デテク デテク
ニホン デテク デテク デテク 昔の天皇の平均在位年数は11年ぐらいだから、
4世紀末に即位した応神天皇を基準に十五代
遡ると、神武天皇は2世紀末〜3世紀初頭の
人物になる(こんなことを言わなくても皇紀が大嘘
であることぐらいほとんどの日本人が知っている)。
徐福が日本に渡来したことが史実であっても
それは神代の出来事であり、神武天皇より400年も昔のこと。
始皇帝と同じ時代の徐福が始皇帝より800年後の推古天皇から
数えて21代前の人物であるはずがない。 >>170
そんなに短い期間しか続かなかったのは、皇太子が若年であるとか、高齢での即位だったとか、
摂関や豪族の力が異常に強く圧力に屈したとか、そういった事情がある場合。
推古天皇は35年。その父、欽明天皇も32年
聖武天皇も桓武天皇も一条天皇も25年。
醍醐天皇33年。
大王の力が強かった継体天皇より前の時代は、50年、60年続いた天皇もいた。 >>171
崇神天皇は4世紀初め頃の人物だった可能性が高い。
物部・中臣・鴨・三上祝など各系図との比較で
初代の神武天皇から第10代崇神天皇まで6世代と推定される。
神武天皇から数代の天皇は大和平野の一豪族家でしかなく
力は強くなかった。第12代景行天皇なら25年ぐらい
第15代応神天皇や第16代仁徳天皇なら30年ぐらい在位した可能性があるが、
即位したときの年齢は若かった。大王は50歳生きたら長生きなほう。
継体天皇より前に50年や60年も在位した天皇はいなかった。 神武天皇から応神天皇までその通り15世代とし
一代平均20年在位したとしても神武天皇は西暦1世紀の人物になる。
辛酉の年に即位したというなら西暦61年が一番理想的だろう。
応神天皇が即位したとされる庚寅の年は西暦390年だろう。
応神天皇が継体天皇の五世代前なら十分ありうる。
となると神武天皇即位は徐福伝説より270〜300年ほど後の出来事である。 あ、神功皇后もちゃんと一代として数えてるからね。
神武天皇即位から応神天皇即位まで
神武天皇が2世紀末〜3世紀初頭の人物なら一代平均13〜14年、
神武天皇が1世紀半ばの人物なら一代平均21〜22年ぐらいかな。 >大王は50歳生きたら長生きなほう。
これはウソ↑。
昔、大王、豪族、そしてその親族は、非常に大事にされ守られた。
食事もはるかに栄養バランスが良かったので、昔の支配階級は非常に長生きしていた。
医療だけは乏しかったので、天然痘など流行病、感染症にかかった場合だけはかなり若年で
崩御したけど、そういうことでもなければ皆長生きしていた。
病気も事件も何もないのに70まで生きなかった天皇などいない。 仮に長生きする傾向があったとして、大王が日本書紀みたいに
70歳や80歳でできた子ども(末子継承?)に跡を継がせる理由
が分からない。幼君が即位したら家臣にお家を乗っ取られるぞ。 >>176
70や80でできた子供に継がせるのではなく、
50や60でできた子どもが、そのころ20歳前後の、皇位継承適齢期になっているということでしょう。
もしくは姉弟、従弟、孫ということもあるだろう。
宋書倭国伝にもこう書かれてる。「讃死弟珍立遣使貢」「倭國王興死弟武立」
そこそこ高齢で崩御した兄から皇位を継承した弟は、おそらく高齢での即位故、
そう長くはいられなかったはず。 推古天皇のように皇族でも女性は長生きする傾向があっただろう。
しかし日本書紀で450年生まれで82歳生きたと書かれてる継体天皇が
古事記では485年生まれで43歳没であるように現実の大王は短命なんだよ。
継体天皇が孫の推古天皇と104歳も離れていたという日本書紀より69歳ほど
離れていたという古事記のほうが信頼できる。
継体の寿命がこれぐらいだと仮定するとその後の安閑天皇や宣化天皇も
70代の老齢でなく30代の若さで亡くなったと考えられる。欽明天皇は
宣化天皇の娘婿だから即位したとき30代どころか10代だったことになる。
これで32年間在位しても45歳ぐらいだ。継体天皇が大和に迎え入れられて
まもない頃の誕生だと考えればそうなる。継体は決して即位して欽明が
生れた頃から18年近くも大和に入れなかったのではない。
なんで5世紀から6世紀にかけての天皇が60歳や70歳を超えたりするのか。
それは簡単な話で神功皇后を百何十年も前のヒミコの時代にもってきた影響
を引きずってるからだろう。 >>178
推古天皇の父、仁徳天皇は男性だ。
また、古事記は元明天皇におべっかを言うために編まれたものなので、日本書紀ほど
信頼できるものではない。
繰り返すけど、昔から大王、天皇は大事にされ、食事は非常に栄養バランスがとれていて健康的で、
感染症や流行病でもなければ基本70歳以上まで生きている。
70歳未満で崩御してる天皇は、病気か、何かの争乱に巻き込まれたのが原因の早世。
紫衣事件で有名な後水尾天皇も85歳まで生きてる。 徐福みたいな香具師は紀元前10世紀から
どんどけでもいる。 それが弥生。 応仁系皇統が断絶しそうな時に、大伴金村が、越前地方を支配していた大迹王(遠く
応神天皇の血を引く皇族で、複数の夫人との間にたくさんの子どもがいた)を
お迎えして即位させた。
その時すでに60歳近い高齢だった。
数多くいた皇子(皇女)達はすでに成人だった。 少なくとも天武天皇までは、
その時代に強権をふるっている豪族の決定によって、皇位も決まるような、
「大王」を中心に、中国の属国である「大和国家」だった。
天武天皇が初めて「天皇」を名乗り、中央集権国家「日本」を建国した。
天武天皇の先祖たちは、神武天皇にさかのぼるまで、<天皇>を名乗らなくても、
大和国家の君主として、「大王家」を存続させてきた。
天皇を名乗った天武天皇から後を見ればいい。
天武天皇以前の大王たちは、あくまで天皇家の御先祖の大王たちであり、それは誰にも否定できない。 >>179
>推古天皇の父、仁徳天皇は男性だ。
欽明天皇だろw 推古天皇の父が男性だから何なんだw?
>70歳未満で崩御してる天皇は、病気か、何かの争乱に巻き込まれた
>のが原因の早世。
>紫衣事件で有名な後水尾天皇も85歳まで生きてる。
奈良時代以降の天皇で70歳以上生きてるのは、光仁、桓武、陽成、
白河、後亀山、正親町、後水尾、明正、霊元、後桜町、光格、昭和、
そして今上陛下のほかにいたっけ?20代〜40代で亡くなってる天皇
がザラだぞ。しかも長生きした天皇でも50や60でできた子どもに
最終的に皇位継承させてるのって後水尾天皇だけじゃん。なんでそれ
を古代で一般化できるんだ? 天皇家つまり大王家の御先祖の誰が百年生きようが、百五十年生きようが、
それがどうしたというのだ?
そんなふうに文句ばかり垂れているおまえの先祖だって、150年生きたかもしれないんだ。 >>181
継体天皇が即位したとき老齢だったという説を
俺は>>178で否定している。安閑天皇や宣化天皇
が欽明天皇より40歳も年上だったら既にたくさん
妻や子どもがいただろう。安閑天皇が老齢で子ども
一人いないとか不自然だと思うんだよな。 ちなみに、明治30年生まれで、大正5年に、旧氏族で役人だらけのこの家に嫁いできた
私の曾祖母はいつも言っていた。家の一番奥に、100歳を超える怖いおばあさんがいて、
ことあるごとに奥の部屋から出てきては、家のものを怒鳴りつけていたのだそう。
嫁いできたばかりの頃、そのおばあさんが怖くて、祖母はしょっちゅう実家に逃げ帰って
いたそうだ。
祖母はこのあたりでは最も大きな商家のお嬢さん(今も祖母の実家は大きな会社を経営し
てる)で、甘やかされて育ったから役人の厳しくてけちけちした雰囲気が辛かったはずだ。。
それはさておき、大正時代でも100歳を超えるおばあさんが元気で、家族を怒鳴りつけて
いた。昔の人は早死にだというのは間違っている。
昔の人が早死にをしたのは、過酷な労働や戦争のせいであり、人の寿命が百年というのは、
源氏物語の中にも書かれている、いつの世も変わらない常識だ。 とにかくわが国の皇室の歴史は世界に自慢できるほど長い
のは確かだが、紀元前の建国とかあからさまな嘘は恥ずかしい。 >>185
武烈天皇も、愛する女性が他の男性と結ばれて、結局子を作らぬまま死んだ。
愛する人と結婚できないとか、結婚はできても子宝に恵まれないということはよくある話だ。
孝徳天皇も、姉の娘(姪)と形式上の結婚をさせられたけど、形式上の妻である姪をとても
大切に扱い、最後まで手を触れることもなかった。
人は年を取れば必ず子ができるものという考えは甘すぎる。
現代でも40歳、50歳になってもまだ子ができない人は多い。 聖武天皇と光明皇后はものすごく愛し合ったけども(少なくとも聖武天皇はものすごく
光明皇后を敬いその意のままに国を治めた)、二人の間には男の皇子が育たなかった。
女の子しか生まなかった天皇、男の子をたくさん生んだのに誰も天皇にはならなかった
という天皇は少なくない。 >>187
天皇制に基づく中央集権国家である日本国を、大和国家の大王たちが建国したのは7世紀のこと。
7世紀までの大和国家は、まだ中央集権国家ではなかったが大王を中心とする国家だったのは事実。
大和国家が神武天皇による建国であるという建国の物語は、何も恥ずかしいことではない。
それはこの優れた中央集権国家を治める天皇を権威づけるために書かれた歴史なのだから。
むしろ誇るべき歴史だ。 代々皇統を守りつづけた大王たちの中で、7世紀に皇位にあった皇極帝が、中央集権国家
を建設しようと思い立った。
弟や皇子たちの手を借りて、そうして皇極帝の夢は、最終的にかない、670年頃には、
「日本」と言う名の国が完成し大王のことを「天皇」と呼ぶことが決まり、とうとう701年、
現代まで続く天皇制国家が完成する。
670年頃までは天皇が「大王」と呼ばれていたし、まだ日本は「大和国家」だった。
それでも大和国家時代の大王たちこそが日本国を建設した事実は変わらない。
大和国家時代の大王家(皇室)のことは、宋書倭国電に登場する5世紀初め以後の大王たち
のことしかわからない。4世紀までの先祖のことは大王家に伝わる伝承でしかわからない。
ただ、はっきりしているのは、人には親がいて、親にはその親がいる。
5世紀初めの大王(おおきみ)讃の前にも大王がいて、その前にも大王がいたということ。
大王(おおきみ)の先祖が、いつから大和地方でそれなりの集団を率いていたのかは、
それはわからない。
伝承によれば、大和地方でそれなりの集団を率いるための即位を最初にしたのは神武天皇
だったということ。 天皇の系図だけに着目すれば神武天皇が紀元前の人物になる
可能性はきわめて低い。もし神武天皇が紀元前7世紀や徐福
が生きたとされる紀元前3世紀末の人物ならば記録に残った
大王の人数が不足しているということだ。
おい、聞いてるか自民党の山谷えり子。あんた民主党政権の
時代に参院決算委員会で枝野幸男に今年が皇紀何年で今の陛下
が何代目に当たるか質問しただろ。山谷、あんたは本気で大昔
の天皇が百何十歳生きていたとか信じているのか?
おい、枝野。お前もなぜそれは科学的におかしいと突っ込みを
入れなかったんだ。知りませんじゃねーんだよ。 >>1
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と
その生活痕たる中国系土器と中国系農具は?
. 皇室に伝わる伝承のなかに、古代のお年寄りの記憶違いがあって、実際には紀元前3世紀で
あろうと、紀元前1世紀であろうと、そんなことはどうでもいいんだよ。
伝承なんだから。 とりあえず、神武天皇の時には、大和を本拠地に決めたばかりの小集団であった
倭の国が、紀元421年には、日本列島の諸集団を代表するほど大きな国となっており、
朝鮮半島でもある程度の影響力を持つほどに成長していたことが『宋書』の中に示さ
れている。
まだやっと大和を本拠地に定めたばかりの神武天皇は、おそらく紀元前660年頃だと
計算する人がいても、紀元前300年頃だろ、という人がいても、この日本国を建設した
のは、倭王讃の子孫である皇極帝らなのだから。 沖縄でも、琉球王国の最初の王は、源為朝の息子だという伝説がある。
源為朝と言うのは、源氏(清和天皇の子孫)。日本国の天皇の子孫が琉球王国を
建てたのだ、という伝承は、琉球王府の権威を支えた。
秦の始皇帝の命を左右した人が、日本国を作ったのだと言えば権威になった時代が
あったのでしょうけど、あまりにも突飛な印象を受けます。 徐福は古代中国における、もっとも有名な詐欺師、盗っ人である。
方士であって日本においても王になることは目指すことはない。
対馬、隠岐、壱岐、五島、済州島などで船大工、海運商にでもなったと思われる。
隠岐だと出雲と同じだけどね。 これだろ? >>197
源為朝も、古代日本における、もっとも有名な乱暴者(犯罪者)で、朝廷(天皇)から
追討を受けたとされる。
そんな死刑になったキチガイの暴れん坊が、王を目指すことはありえない。
それでも、その為朝の子が琉球初代王と言われている。
本国から逃げた極悪人が、近隣の国で王を名乗ることは大いにありうる。
可能性はゼロではない。 でも、面白行っちゃあ面白い仮説だな。
へぇ、あの秦の始皇帝をだまして、最終的には秦を亡ぼすにつながったともいえる、
あの詐欺師(不老不死の薬があると始皇帝をだまして国家運営を怠らせた)が、
神武天皇だった、か。。。
紀元前6世紀だか紀元前3世紀だかの神武天皇の性格や人格やそういうものはべつに、
紀元7世紀の天皇制国家建設とはまったく関係がないんだから。
紀元前3世紀の徐福が神武天皇であったとしても、
7世紀の、独立国日本国の誕生までは、千年ほどの差がある。
徐福が神武天皇であってもなにも問題はない。面白いだけだ。 てかさあ、紀元前に王権の存在を示すようなものが
日本で見つかったとしても、それが神武天皇の一族のもの
とは決めつけられないよね。天皇家が日本最初の王家とは限らないのよ。
弥生時代の豪族たちが神々とされた可能性もなきにしも非ずだ。
日本国を作った人が神であればイザナギを指してるかもしれないし
オオクニヌシを指してるかもしれない。神武天皇が国見をする話で、
イザナギとオオナムチ、ニギハヤヒが日本国を讃えている記事
がある。この三神(三人)が神武天皇が大和に来る以前のその地の
支配者だったのだろう。どの神も天皇の系譜と繋がってくる。
日本には天皇家より昔オオナムチという支配者がいたから皇祖神が
その神から国を取り上げる神話を作らざるを得なかったのかもしれない。
国譲りは神話上の虚構に過ぎなかったから、天孫降臨の場所が九州の
田舎になり、神武まで3世代を過ごすという妙な話の展開になったのだろう。 だいたい古代中国の王を象徴する鼎と龍が両方とも伝わってないじゃないの。
徐福が神武天皇だなんて2億%ないね。 >>201
徐福は皇族じゃないでしょ。王朝に伝わるものを持っているはずがない。
命からがら逃げたわけでしょ。 BC200年に実在した徐福を、当事存在しなかった記紀の王朝に比定する愚が判らん。
徐福王朝が存続したとして徐福が持ち込んだ中国土器の製造を継続するとは限らない。
古墳時代に墓である皇統の遺跡は有っても、奈良や京都はその地でそのまま発展している。
遺跡の多くは滅びた者の遺跡である。
BC1000年から周〜春秋戦国の遺民が呉越方面より
軍船で死滅回遊魚的に黒潮で九州〜紀伊半島、関東に渡来している。
秦の始皇帝時代にかけては山東方面からの移民も増え
対馬航路を使って楽浪郡を置いた前漢と交流を持つものもあらわれる。
農耕文化を中心とする村社会に国家形成と結びつく横の繋がりに関して銅鐸文化に注目する。
銅鐸は中国の王朝に殷周より伝わる鎛が原型である。 秦にも秦公鎛がある。
そこから国家形成の古墳時代に向けて、弥生文化が自然発生でないことが理解された以上
日本王国誕生に中国の王朝文化の中枢を知る人が影響した可能性は高い。
徐福時代である可能性が有るならば、当然、徐福である。 >>202-203
また狂言詐欺か。
台湾ニグロティックブタピーデ。
で、中国から縄文弥生期に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と
その生活痕たる中国系土器と中国系農具は?
. >>204
農具は持っていこうと思わなかったのではないか
農業は現地の倭人に引き続きやらせて、自分たちは支配者として収まるつもりだった >>205
ハイ、破たん。
そんな保育園児みたいな回答が通用するほど考古学は甘くないんでな。
台湾ブタチックインドシナピーデ。 >>206
徐福集団は3千人の若者、職工らとともに佐賀の諸富に上陸し水田稲作、絹その他
多くの物を普及させた(いいな沿海州豚 >>201
徐福(ホアカリ/ニギハヤヒ(ニニギ)。天御中主神/イザナギ/スサノオ/天照皇大神、、、)の子孫らが権力争いの末に天皇家が勝ちのこった。
神武天皇のモデルは数人いらっしゃいますが、全て徐福の子孫たち。 >>206
だって農具を持って行くことを
始皇帝が許すか?
別に軍事征服行動じゃないし 徐福が来たのは日本か沖縄だろう
朝鮮半島なら地続きだ
母国が恋しくて徐福のお供が脱走して
勝手に帰国しかねない
それに不老不死の薬を持ち帰れないなら、
徐福は帰国しても死刑だ
それで朝鮮半島に徐福がいて、いつまでも帰国
できないと始皇帝が分かれば、
遼東半島の秦軍が地続きに来る恐れあり
だから海を隔てる島国へ逃げ込むはずだ >>209
徐福は始皇帝の許可なんてとってないよ。
始皇帝を散々だまして、そろそろ限界だと思った時に行方をくらましたんだよ。
なんでも持ち出せたはず。
たしか徐福が始皇帝のところから逃げたのは紀元前3世紀末。弥生時代に入ってすでに
100年くらい経っているころ。
中国製農具を伝えたのは徐福だったって可能性もあるわけね。
まぁ、証拠が何もないから、想像して楽しむくらいしかできそうにないけど。 >>212
弥生時代(やよいじだい)は、日本列島における時代区分の一つであり、
紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。
採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。
2003年に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の
炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした。 新 弥生時代
早期(先I期) 前1000 前900
前期(I期) 前800 前700 前600 前500 前350
中期(II - IV期) 前350 前300 前200 前100 0
後期(V期) 100 200 徐福も少年少女三千人と技術者と弓兵を連れて行って、
よくずっと束ねられたもんだよな
みんな早く秦に帰りたい 家族に会いたいと思っていただろうに >>212
馬鹿?
で、どこに中国系農具があるの?
証拠遺構名とその中国系農具は?
. >>216
私はそんなマニアじゃないしオタクでもないから、遺跡のことまでしらない。
ただ知っているのは、中学校の頃に覚えた
「大陸から渡って来た鉄器は大陸でも新しい技術で、量が少なく貴重だった」
「青銅器は祭祀に、鉄器は農具や武具に使われた」と言う話だけ。
鉄器を伝えたってことは、農具や武具に使うものだってことも教えてくれたんじゃないの? そもそも、ゆうべあたりどっかにも書いた気がするけど、
弥生時代のことを延々語るようなことって、
よっぽどな暇人じゃないかと思うんだよ。
日本史で、私たちにとって重要なことは、もっと他にあるんじゃない? へぇ、始皇帝をだまして秦帝国崩壊の一要因をも作ったあの徐福が
日本に来て、大活躍とかをしたの?もしそうだったらおもしろいなぁ!
程度の話でしょこれ。 >>213
それはほんとうにおもしろくない話だね。
私が中学の時、400万年前に直立歩行のアウストラロピテクス、
50万年前に火と言葉の北京原人ジャワ原人、って覚えたのに、
最近中学生にきいたら、700万年前にアウストラロピテクス、
100年前に北京原人ジャワ原人だって。
あまりに大きく変わりすぎて面白くない。
私はやっぱり文字で記録が残されてる歴史のほうが好きだな。
そのために古文や漢文の勉強も頑張ったわけだし。 >>217
あのな考古学偏差値40未満の方。
日本には縄文弥生を通して中国人が渡来定着した証拠遺構も
その生活痕たる中国系土器も中国系農具も一切ないの。
考古学では常識過ぎる事だからな。
>>219
だから、ただのフィクションだっつーの。
中国人の勝手な妄想が江戸時代に日本にも入った ただのフィクション。
徐福を証明する証拠遺構も証拠文物も何にもない。
全然面白くないし、迷惑千万、不愉快だよ。 >徐福を証明する証拠遺構も証拠文物も何にもない。
それ、私が最初に書いたんだけど?
何の証拠もないから、ただの面白い仮定話にすぎない、って。
なんで不愉快なの? >>199を含め、この話が、単なる面白い仮説だって書いたのは私。
琉球の祖が天皇の血をひく源為朝の子だとか、
そういった面白い伝説っていくらでもある。
証拠も何もない、この面白い仮説に、信ぴょう性を持たせようとあれこれ語るのも、
この仮説の矛盾を証明しようとやっきになるのも、
どっちも同じ愚かな行為。 中国式農具って鉄製農具だろ
縄文〜弥生初期の倭国の技術力でそんなものを生産できるわけないじゃん 中国系農具とは、石スキ(石耜、石鋤)という石刃の農具の事だ馬鹿。
弥生の農具にいつ石刃の農具が伝わったんだよ?
石耜は刃が石製である事以外は弥生の木スキとほぼ同じ農具だが、
刃の形状がやや異なり、刃先が尖っている。
石鋤は弥生には無い農具で、刃の短い除草具。 初期の青銅器、鉄器がほぼ大陸産だってのは無視か?
1万年単位で狩猟民だった縄文人に土器の変化と
青銅器の渡来と水田耕作の為の土木技術が同時に起こるのは偶然か?
徐福は中国正史の三国志に記録された伝記であって
記紀のようなデタラメの時代作りの神武や神功皇后よりは実在の信憑性は有るぞ。
そもそも、発見できないものは存在しないなどと言う
考古学の無能性を考古学の見識で主張してどうする。
考古学が好きな、邪馬台国は
九州上陸点付近から、南に水行30日、陸行1月の場所に有る、
これ以外の日本情報は九州のみであり中国史では600年まで畿内に入った事が無い。
探しようが無いだろ。
考古学は、無いものでをちゃんと探せ。無能。 >>226
大陸産じゃなくて朝鮮産だろサギサギ台湾ブタ広鼻ブタロピテクス。
で、どこに中国青銅器があるの?
出土遺跡名とその中国青銅器は?
. アラシに反論した訳ではなく会話の成立する投稿子を
排除するのを抑えたかっただけです。 レス、イラネ。 >>226
定住し、農耕し、交易しているのに「狩猟採集民」とはw
水田耕作してなけりゃ全部狩猟採集民ならば、欧州は全部そうなるが。
また、水稲稲作してりゃ「高度な文明」を持つならば、マダガスカルは高度な文明人だな。
日本人にかけられた呪いだよ。
「水稲稲作(=優れた文化)を持った渡来人」がやってきて日本に文明をもたらせた。 渡来人は確かにやって来たんだよ。
アフリカからな。
だけど、支配者としてやってきた渡来人はいなかった。
少しずつ人の交流として流れ着き、交易し、やがては日本に住み着き縄文人の中に溶け込み
「日本人の祖先の一部」となった。
九州だけにやって来たわけじゃない。 でも秦も漢も魏も晋も、万里の長城より北は支配できていない
すなわち領土が日本海に到達していない
そうなると大陸から日本へ渡るには、まず最初には九州に上陸することになる 弥生土器の出現を考えると、渡来人が来たのって、九州北部に最古水田が現れる50年以上前で、
しかも山陰あたりだぜ。
だから渡来人は渡来時に稲作を持ってきていないし、しかも渡来人は朝鮮土器を作らず、
全然違う土器を作ってしまった。
つまり、渡来人の故郷は朝鮮ではないという事なんだよ。 山陰だったら出発地は朝鮮半島の日本海沿岸か高句麗か渤海の地域だぞ >>178
日本書紀の長寿は作られているな。
だけど、その目的が、卑弥呼=神功皇后とするためってのは同意できない。
天皇家には、いや古代の有力者たちには「アマテラス」伝説が共有されており、
王統を巡る争い、政略結婚もみんなに共有されてたんだよ。
先祖がどこの誰かもろくに知らない都会のリーマンにはわからないことかも分からんがな。
天皇家や将軍家じゃなくとも、400年前に先祖がやってきて娘に婿に入ってこの家の始祖になった
ってな話は、古い家なら庶民でも伝わってる。
ましてや王家を作る人々がたかだか300年前の先祖の事を一切知らずにいた無知無能の輩だったとは
お花畑にも程がある。
まさか、王仁博士が文字を伝えるまでは文盲の土人だったととでも信じ込んでいるのか?
王仁博士は文字を伝えたのではない。手習いに最適な「書物」を持ってきたのだ。
卑弥呼の時代にすでに税を取り役人がいたと史書が伝えているのに、なにゆえ文盲と信じるのか?
文盲の未開人があの大きな古墳を作ったと信じているのか、それとも作るたびに「渡来人」
とやらをお招きしたとでも思うのか?
文字が書けない未開人なのに、渡来要請はどうやってするのだろうな?
法隆寺を見たことがないのか?
二人や三人の大工を連れて来たところであんなものは作れんよ。
すべての新しい文化や技術はすべて渡来人がもたらしてくれたものであり倭人は
未開の海の底に沈んだまま、という歪な歴史観はどうしてこんなに蔓延しているんだろう。
卑日カルトに日本人全部が染まってしまっているようだ。 >>231
漢の支配が及ばなかったのは半島南部の『韓』だけであって
漢四郡の全盛期には遼東郡から広がって楽浪郡は平壌地域まで
帯方郡はソウル周辺、玄兎郡は現北朝鮮域、臨屯郡は東岸だよ。
扶余、高句麗に押されて313年には消えた。
これによって日本は傀儡立国させた百済を高句麗との戦争に借りだして
400年までに高句麗馬と捕虜牧童の国内への強制連行で
軍事施設としての御牧での馬の国内生産化を成功させている。
これが、日本百済の親睦の歴史であり、空白の4世紀だよ。
400〜500年の倭の五王はこの半島利権交渉の為
日本の統一王朝として初めて、利権の絡まない南朝の南京建康に出向いた。 すまん、徐福スレだったw
大陸から日本への渡来人は移民と言っても朝鮮半島に逃げた
箕氏朝鮮〜衛氏朝鮮、始皇帝の重労働などで逃げた遺民と言うよりは
一応船を持った将軍や豪族なわけで、ある程度の開拓ビジョンは有ったし
社会性も理解できた、と思うんだよね。
資産を持ち込んだ、アメリカ大陸移民とかと同様としても、インディアンやアフリカ人とは違って
日本側の縄文人は農耕労働への参加や外部接触に融和的だったんじゃないかと思う。
銅鐸祭祀などで集められて、労働によって保存食が与えられるとかで
墾田開拓だって、日本的な自然崇拝やシャーマン信仰が保護されて、
日本的村社会を維持できて族長がそれなりに待遇されて、奴隷化じゃなきゃ歓迎だと思うね。
ちゃちゃっと、融合しちゃってんじゃね? 日本人種を形成した北方モンゴロイド形質の渡来人は縄文晩期に渡来したものだよ。
その後の甕棺墓から夥しい数の北方モンゴロイド形質の弥生人骨が出土してくる。
この縄文晩期に渡来して拡散した北方モンゴロイド形質の渡来人がメインであって、
古墳期の朝鮮帰化人などは日本人口がすでに何百万の時代に来た、あまり日本人種の
形成には絡んでいない。 徐福が神武ってのは考えにくいな。
徐福が来た頃に国家が統一された形跡は一切ない。
その頃は100のクニに分かれていた時代。
紀元200年頃には30あまりの国になる。
だけど、日本の各地に徐福伝承がある。
多くの船に分乗して日本を目指した。台風かなにかに巻き込まれたのか、船はばらばらになり
おそらくは難破したものもあり、無事だったものも各地に漂流しそのうちの幾つかが
陸にたどり着き地元民に助けられた。彼らは「徐福」と名乗ったが「徐福の船」だったのか、
リーダーが1人徐福となのったか。
いずれにしろ、どこでも100人単位で無事に上陸したようには見えない。
難破し漂流し、生き残ったのが若く健康な男しかいなかったのだろう。
徐福が来たとは伝わるが、徐福の子孫と伝わる家はない。
そして、伝承があるのは古くからの遺跡があり人が住んでいた場所だけだということ。
徐福本人は無事だったかどうかはわからない。
少なくとも、彼が連れて出た3000人のうちの幾人かは無事に生き延びた。
立派な道具や新しい何かが見つかることはないし、そういう伝承もない、ただ漂流民が
流れ着いただけである。
しかしまあ、周が滅びる時、同じように圧迫から逃れてやって来た集団がいたのだろうな。 徐福が神武天皇なら何で神武天皇に幼名なんかあるんだっつーのw
神武天皇の最初の本名と言うか、幼名はサノノミコトと言うんだよ。
サノ様なんだよ。
それに徐福が神武天皇なら何で「徐福」という文字一つ遺さなかったのか?
故郷の漢服や木沓、主食だった水餃子くらい遺すでしょ。
だいたい故郷の主食だった水餃子くらい食べたいはずなんですよ。
日本にだってコムギはあったんですから、作って食べない理由がない。
天皇なんでしょ?w >>234
うん、日本書紀の天皇の長寿は作られているとしか思えない。
日本書紀の編者が神功皇后をヒミコやトヨの時代の人物であるか
のように印象づけてるのは天皇家の歴史を知らなかったからじゃ
なくて、中国人が読んだとき日本国の歴史の古さに感銘を受ける
ことを狙って「わざと」神功皇后の記事に魏志を引用したのだろう。
神功皇后のように昔の天皇が実際より過去の人物に設定されると
それに後続する天皇の寿命が間延びし生没年まで過去に引っ張られて
しまう。だから5世紀のある天皇を倭の五王の誰かに比定してみても
天皇の正確な生没年を算定しないことには比定が正しいという保証がない。
天皇家が自分たちの過去の歴史について無知だったわけがない。朝廷の
役人はちゃんと漢字のような文字で記録を取っていた。たぶん日本書紀
ができた時点ではそれを真に受けない上手な解釈のようなものが存在した
が、やがてそれが忘れ去られてしまって、神代の神話は史実、日本は
日本書紀の記録通り紀元前7世紀の建国で古代の天皇たちは百歳を超える
長寿だったというオカルトじみた読み方しかできなくなったのではないだろうか。 >>239
その幼名は、帝紀に書かれたものでしょう?
帝紀が書かれたとき、だれも千年も前のことなんて知らなかったはずだから、登場人物の名前は、忍壁皇子たちが名付けたのでは? 存在しない神武に実在の徐福を比定したら
神話だろ? 神々が日本列島を創る前に渡来した香具師を
天皇に比定したらマヌケだろ? 実はアメノミナカヌシかクニノトコタチあたりが
徐福なんです、みたいなオチか >>243
徐福なんて渡来してないから、おまえがマヌケ。 徐福は黄金の島ジパングを探しに来たが
まだできてなかったんでアメリカ大陸を発見した。
だな。 >>207
水稲稲作は徐福が来るよりももっと以前からやってたからそのせつは破綻している。 >>240
本来の伝承に近いのは古事記なんだと思うよ。
日本書紀は、中国に提出するために作った「正史」だ。
見えを張ってちょっと盛ったのさ。
神話が盛ってあるってのは日本に限ったことじゃない。
ちょっと「盛ってある」記紀を。デタラメだから信じてはいけないと全部を否定するのはおかしい。
それならば中国の神話も、旧約聖書もそうしなければならないはずなのに、それはしない。
日本の神話や歴史書だけを否定する立場は、ものすごく異様だ。
見え張って130才の天皇を作ったことは否定するのに、神が人間を作ったことは否定しないんだな。
五賢帝の神話は信用するのに、天孫降臨なんてでっち上げだと否定するw
アダムの肋骨は無視を決め込むのに、国産みはでっち上げだと否定する。
ギリシャ神話のポセイドンはさすが欧州様!と持ち上げるのに、ワダツミ神話はでっち上げw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています