>>15続き
また、白兎は二回に渡り因幡に渡ろうと試みるが、一度目を和邇に阻まれ失敗したと言う。
司馬遷は史記の中で「徐福は一度目の渡航で蓬莱の探索に失敗し戻った際、大和邇(ワニ)に行く手を阻まれたと嘘をついた」
と記述しており、いずれも「和邇」が渡航を阻む内容になっている。
ここでいう「和邇」とは海人族の先住氏族「和邇氏」ではないか?と比定される。
事実、和邇氏とも繋がりがある海部氏が神主を務める元伊勢の籠神社には漢代に製作されたと学者が分析した銅鏡が神宝として伝わっており、
古代中国と出雲王朝を結ぶ航路の存在を示している。

また古事記では大国主命の兄弟は八十神(ヤソノカミ)とされ大国主命に先立って葦原中津国に渡ったと言う記述になっているが、
夏の後裔を名乗る苗族の神話によれば、兎王の先祖であるシユウは八十一人兄弟だったとされる。

これは出雲に降り立った大国主命に先立って八十(古代では「多くの」の意とされる)氏族が古代日本に渡った暗示だろう。
古事記の記述では大国主命の六代前は素戔嗚尊(スサノオ)であるが、素戔嗚尊とシユウも「武神」的性格、「製鉄(銅)」の暗示など非常に共通点が多い。
大陸と日本が氷河期の陸続きの時代から戦乱などがある度、多くの夏の末裔達が日本に渡っていたのだろう。
越、呉、紀(杞)など春秋戦国期の国名がそのまま古代日本の地名になっている事も、日本各地に兎を祭る神社がある事も決して偶然ではない。

「因幡の白兎説話」と「史記の徐福」の記述はこのように重複箇所が多く、古代出雲王朝と秦代(紀元前220年前後)の徐福(夏の末裔苗族に近い部族)の渡来を示す有力な手掛かりと言えるだろう。