♪邪馬台国東遷説 その15 [転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国研究の本道「東遷説」臨死体験後復活♪
汝らに平安あれ 九州の邪馬台国は東遷して大和朝廷になった。
東遷説の基本は、天照大神=卑弥呼+台与。
したがって東遷の時期は、台与時代のあととなる。
☆文献的根拠
1,魏志倭人伝の卑弥呼の倭国と、記紀における天照大神の高天原の類似性
2,記紀における神武東征の記述
3,古事記において、大久米命は刺青をしていると書かれている。
東征軍は刺青をしていた。倭人伝には、倭国の男子は大人も子供も
刺青をしていると書かれている。
4,記紀の神代は、矛や剣など九州の弥生時代を象徴する金属器が
登場し、近畿地方の金属器である銅鐸は全く登場しない。これは、皇室の歴史が
九州の文化の中で育ち、近畿地方の文化を経ていないことを意味する。
☆考古学的根拠
1,古墳時代を境に銅鐸が消滅し、鏡が広く普及する
2,古墳に代表される階級社会への突然の移行
墓制における弥生九州と古墳近畿の連続性、弥生近畿と古墳近畿の非連続性。
3,古墳の棺の副葬品などが弥生時代の九州の棺の内容に酷似。
すなわち、近畿地方の弥生時代と古墳時代では宗教的にも社会的にも
また、文化的にも激変が見られる。
前スレ
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1417909047/ 魏志倭人伝の卑弥呼の倭国と、記紀における天照大神の高天原
って、なにが類似してんの? 卑弥呼は日本列島にいた。
天照は日本列島にはいなかった。誰も墓を探さない。 >>4
卑弥呼も天照大神も、女性でありながら最高の地位にあり、
夫がいない。巫女的な性格もよく似ている。
卑弥呼を日の御子と考えると、共に太陽神であること。
また、共に鏡に関係が深い。
卑弥呼には狗奴国、天照大神には素戔鳴尊という宿敵がいる。
卑弥呼は帯方郡に使者を送り、狗奴国と戦争状態にあると報告するが、
張政がやってきた頃には死んでしまう。
天照大神は、素戔鳴尊の乱暴に怒り、天岩戸に隠れてしまう。
卑弥呼が死ぬと男王が立つが国中が不服で争いが起き、千人あまりが
殺される。天照大神が天岩戸に隠れると高天原も葦原中国も真っ暗になる。
台与が王になると、国中がついに定まり、天照大神が岩戸から出て
来ると、もとのように高天原は明るくなる。
台与が王になったあと、また男王が立ち、共に中国の爵命を受ける。
天照大神が岩戸から出てくると高皇産霊尊が登場し、共に高天原を
主宰する。 要するに、魏志倭人伝の卑弥呼の倭国と記紀における天照大神の高天原
には
何の類似点もないと >>7
天照大神には子も孫もいるし世襲らしいので、卑弥呼とは似ても似つかないだろ。 >>9
天照大神は生涯未婚だよ
子神は息を吹きかけたりするとできるので
子宮妊娠はしたことがない 卑弥呼に子がいたか?
せっくすしないで、子が生まれるか? 卑弥呼は生涯独身だったの?
女王の座に就く前は既婚者で子供がいたかもって考えはダメか? 時系列が逆になってるんだから東遷説はありません
終了です 記紀における神武東征の記述
いつの時代のことか特定できないままでは
邪馬台国東遷説の根拠にすることは不可能 >>12
イエス・キリストを見よ。処女のお母ちゃんが妊娠して生まれたらしいぞ。 大久米命が刺青をしてても、邪馬台国と関係ない
テンプレ3死亡 >>17
それギリシア語からラテン語への翻訳時に起きた誤訳が原因 >>19
倭人伝には、(倭人の)男子は、大人も子供も皆、顔や体に刺青をしていると
書かれている。これは重要。神武天皇に随行して来た大久米命も顔に
刺青をしていた。刺青は集団の習慣だから、大久米命だけでなく、東征軍は
みな刺青をしていたと考えるのが普通。
仮に近畿地方でも刺青の習慣があったら、大久米命の刺青は問題に
ならなかっただろう。特筆されることもなかっただろう。
しかし、後に神武天皇の后になる五十鈴姫(伊須氣余理比賣)は大久米命の
黥を見て奇妙に思った。これからも五十鈴姫が育った三輪山の付近では
刺青の習慣がなかったことがわかる。
大久米命の刺青は、邪馬台国東遷説の根拠になりえる。 いつの時代の話かも分からないのに、まったく無理だよね 神武東征は狗奴国東遷説のもとであって邪馬台国とは関係ないと思うけどな
まぁ邪馬台国の南に狗奴国だから神武東征が鹿児島スタートなら多少は関係あるか >>25
東遷説としては、卑弥呼+台与=天照大神だから、
皇室の先祖は天照大神であり、卑弥呼ということになる。
つまり、神武天皇の先祖は卑弥呼であって、それに敵対する
狗奴国ではないということになるわけなのだが。 >>19
大来目だけが倭人の習慣を持っていた。
いわば桃太郎の猿 東遷説の年代観も卑弥呼+台与=天照大神から導かれる。
要するに、天岩戸隠れが250年あたりになる。
このあとで出雲の国譲りがあり、その後、天孫の日向降臨がある。
こういう風に考えると、神武東征の時期は300年前後。
四世紀になってからのほうが可能性は高いかもしれない。 安本東遷説だと、アマテラスの時代から、国譲りをして天孫降臨して
九州から東遷して巨大古墳を作るまでがめっちゃ忙しいな。
早送りしなくちゃいけないよ。
ビデオは早送り出来るけど、人間の一生は早送りできないんだよな。 もう死にそうだから家族が都合の悪い情報から遠ざけているのかもしれないな
「あれ、今日の新聞は?」
「ん?入れ忘れみたい…」
な感じで。 >>34
東遷説も古くからあって、けっこう出尽くし感がある。
天照大神の高天原と卑弥呼の倭国の状況が酷似すると
いうのも白鳥庫吉の時代からあるし、安本氏の独自の説感が
ある年代論にしても先駆者がいる。
東遷説というと、安本説と思っている人も多いのだろうが、
特に畿内説の人はそうらしいが、むしろ、過去の東遷説を
まとめた人と言ったほうがいいかもしれない。
純粋に安本氏独自の説と言えるのは、甘木付近と奈良付近の地名の
類似性による邪馬台国の所在地論だろう。
個人的には、安本氏は日向を当初から完全に無視しているのが
気になるところ。
最近はちょっと気にしているように見受けられるところもあるが。
あれだけ記紀を忠実にたどっているのに、神武天皇の出身地である
日向を無視するのはどうかと思う。やはり、安本氏くらいの年代に
なると、神武東征に触れたくないようなところがあるんだろう。
畿内説から軍国主義者と言われて攻撃されたのを覚えている
世代だろうから。
いわゆる日向神話もいろいろ示唆的なところがあってなかなか面白い。 宮崎は、扱われ方がいろいろとややこしい。
律令下では日向国として鹿児島(熊襲・隼人)と一緒くた。
神話の中では天皇の先祖の地とされる。
古事記では熊曾国(建日別)に当たるようだが、名前からは肥国(建日向日豊久士比泥別)に含まれているような気もするし、
それを示すように先代旧事本紀では日向国(豊久士比泥別)と肥国(建日別)が分けられている。
東遷説論者は魏志倭人伝の行程をうんぬんするよりも、宮崎県の歴史にこだわって調べた方がいいような気がする。 日向神話に特徴的なのは海が頻繁に出てくること。
高天原神話には海が出てこない。
宮崎に関して言えば、古墳文化が非常に栄えている。
九州随一と言えるかも。古墳群が多い。
九州でもっとも大きな古墳があるのも宮崎県。 >>37
>神話の中では天皇の先祖の地とされる。
これ間違いね
古事記では海佐知毘古こと火照命は隼人阿多の君の祖とされてる
ほか出てくる地名人名は鹿児島を指している
同地名が宮崎にあるが記紀の記述と合わないなど後付による命名なのは確実
日向はまだ大和朝廷の点と線の支配しか受けてなかった
宮崎は古墳も新しいし発展したのは大和朝廷の入植以降だろう
宮崎からは海に関する遺物も出てこないことに注意
地図を見れば海洋民にとって忌避すべき地形であることが分かる 阿多というのは南薩だからな
あそこは開聞岳と屋久島というランドマークがあるから海に出る人にはありがたいところだろうね 高千穂町は韓国に向かっていないという欠点があるけど
高千穂神社も変なところあるよ
神武天皇の兄である三毛入野命とその妻子を祀っているんだけど
その子どもの名に御子太郎命、二郎命、三郎命と付けてるんだよね
太郎という名は嵯峨天皇が長男に付けたのが始まりだからどう考えても西暦800年以降
文献に出てくるのが1189年
宮崎神宮が文献に出てきたのもその頃だし12世紀になにかブームがあったんじゃないかね 朝鮮半島から天下ってきた部族は、熊襲や邪馬台国と戦って成果がなかったので、
東を征服し、それから九州南部を平らげたんだろうな。 >>43
朝鮮半島のやつが侵略しに来たってどこに書いてあんの?
逆はあるけど、くや韓国とか任那とか 任那って、もともとの日本でしょ。
日本は朝鮮半島にあったし、日本列島に移って、白村江の戦いで朝鮮半島の本拠地を
失ってから、日本国を樹立したんだが。
旧唐書にかいてあるように、倭国は日本に征服されたんだよ。 天の香具山を含む大和三山は香春岳って説があるんだけど、
これ本当だったら歴史がひっくり返るね。
まず神武が即位した畝傍山の東南の橿原宮は、香春岳の東南って事になる。
香春岳の東南には鶴岡八幡神社がある、これ鎌倉の鶴岡より50年古い。
神武の陵は畝傍の東北、香春岳の東北におほきんさんっていう弥生の円墳がある。
香春にある謎の地下水路も斉明紀にある香具山の西にある狂心の渠の事になる。
仁徳の聖帝伝説、香具山に登って国見したのも香春の事になる。
神武は九州を出ていない、神武から斉明、天智、天武までは確実に香春にいた。
文献では天の香具山からは金、銅、鉄が取れるって書いてるんだが、奈良の香具山
では取れない、香春岳では今でも取れる。
この説でいくと東遷は天武辺りからか、うーんおもしろい説だ。 東遷説は神武東征との関連が密接。
九州の邪馬台国あるいはそれを受け継ぐ勢力が東征し、
大和朝廷を打ち立てたというもの。
これが基本。 つまり現代の考古学では全く整合性のない化石のような話 最近スレが寂しいようなのでカキコしましょう。
倭人伝に基づいて邪馬台国は壱岐より三千余里。行程がどうの、日数がどうのと考えなくても、壱岐から三千里の半円を描いたら、邪馬台国はその半円の線
上近くに有ったことになる。郡から釜山までの韓半島西側海岸の距離から七千里をとるか、釜山と対馬の距離でを一千里とるか、いづれにしても三千里をコ
ンパスに採るのはさほど難しくない。この方法を採るとおよそ九州東海岸の福岡県南部、大分県北部にどうも邪馬台国は有ったようだ。
しかし文化的に遅れていた畿内に急に新しい文化が起こり、やがてこの地で大和朝廷ができて日本中に影響力を持つようになったことを考えると、中国の国情
の流動によって邪馬台国は自国の安全確保のため、九州よりもっと東へ勢力の中心を移したと考えた方が日本古代史の真実の姿に近いのであろう。その証拠が
記紀の神武天皇による東征で、大和朝廷の先祖はあきらかに九州の方から近畿にやってきた征服王朝であることを示している。近畿説の人たちは考古学的証拠
が無いと言うが、日本中まだまだ発掘されていない遺跡はたくさん眠っていると見込まれ、やがて東征の証拠も見つかる日がくるであろう。 京大史学科のご用学者どもが否定したって何になる。ここは東遷説スレだ。 yahoo知恵袋に、ワンパターンの畿内説と、関係ない九州説批判だけの
回答をする畿内説の人間がいる。
投票になってベストアンサーになるのは必ずこいつ。
自分で別IDを作って投票しているのは明らか。
邪馬台国関係の質問については投票になるケースが多いので
こいつがほとんどベストアンサーになっていることになる。
おかげで、yahoo知恵袋への邪馬台国関係の書き込みが激減している。
うんざりして以前からの人が次々にいなくなる。
学問としての邪馬台国論争もこれによく似ているのかもしれない。
うんざりして係わらなくなるケース。 断言するけど、畿内説は、日本列島における支配者は皇統以外あり得ないという信仰
が生み出した幻想だよ。 天孫降臨は北九州の可能性あり。
平原遺跡からは太陽信仰、伊勢神宮の御神体のやたのかがみではないか?
と思われる物がでている。
冬至の時に日向峠から太陽が上がる。
その隣の山が櫛降岳。
ここは韓国にも向かっている。 簡単に言うと縄文
その人達が進化していった
漢字等も取り入れ勉強しただけw 『アフリカで誕生した人類が日本人になるまで』溝口優司(国立科学博物館人類研究部長)2011
日本人の成り立ちについての3つの仮説(P173)
縄文人と弥生人の関係については、これまでに大きく分けて3つの仮説が唱えられてきま
した。「置換説」「混血説」「変形説」です。
(中略)
では、今はどうかというと、「置換に近い混血説」が主流です。(中略)
その後、侃々諤々の議論が繰り広げられましたが、今では「大陸から渡来した弥生人が、
もともと日本に住んでいた縄文人と混血しながら広がっていき、かなり置き換わったのに
近い状態になった」と考える人が多いのです。
私が行った、頭蓋の7つの計測項目による多変量の距離分析でも、西日本の古墳時代人は
弥生人に似ているけれども、東日本の古墳時代人は縄文人と弥生人に同程度に似ていると
いう結果が出ています。 主張する学者ゼロ%
中身は妄想と讒言と陰謀説100%
これが東遷説の悲惨な現状 >>60
女性の墓と見られる古墳が日本には十数ヶ所あるらしい。
そのうち、女性の完全な人骨が出てきたのが向野田古墳など二ヶ所。
女性の遺骨が出たらしいという記録のあるのが数ヶ所。
副葬品から女性らしいと考えられているのが数ヶ所となる。
もちろん、女性とわかってもどこの誰かわからない。これが現実。
内部の調査も行われていないのに、被葬者は卑弥呼と決め付けるのが
畿内説の現実。倭人伝に書かれている卑弥呼の墓とは大きさも形も
年代も違うのにである。
箸墓を卑弥呼の墓と決め付け、宣伝し、だから邪馬台国は近畿地方だと
言わなければならないのが畿内説の悲惨な実態。 断言するけど、畿内説は、日本列島における支配者は皇統以外あり得ないという信仰
が生み出した幻想。 箸墓があるから畿内説じゃないのに。
70000戸の意味すら未だに理解出来ない東賎厨w >>63 64
だったら畿内説を立証してみろ。畿内説が立証できれば九州説も東遷説も有り
得ないことになる罠。そらっ、はよう、畿内説を立証せんかい。ア○ウなキタ
ナイ説論者め。二度とこのスレに来るな。 爺さん必死すぎだろ
寿命が迫ってるからって焦るなよ 邪馬台国連合が組まれたのってくな国か熊襲に対抗するためでしょ
個人的にはくな国の人達を熊襲と言ったんだと思いますけど
それは置いといて、邪馬台国連合が東に行ってしまったら残った国はくな国や熊襲に対して負けるんじゃないかな?
強い邪馬台国がなくなって得にはならんだろ
そこんとこ、弱小国を見捨ててまで東に移ったと考えてんの?
それと九州から奈良はかなりの距離があるけど、老人子供も含めたみんなの体力で行けたと思ってんの? 奈良県あたりでも古墳の発掘調査は行われているが、考古学的な
調査で誰の墓かわかったことはない。わかるとすれば、日本書紀や
古事記の記述と一致した時。
考古学では固有名詞(名前)や個人の業績など歴史学的なものは出てこない。
だから、九州の弥生時代の墓が調査されても誰の墓か判らない。
畿内説の考古学者が調査もしていないのに、箸墓は卑弥呼の墓だと言う。
畿内説の信者は、考古学者は神様みたいになんでもわかるのだから、
間違いないと信じる。これが畿内説の実態。 >>67
中国の歴史書によると、弥生中期には倭国は百カ国あまりに分かれていた。
こういう状態では、強い王が出てくると周りの諸国を支配することが
予想され、徐々に統合が進むと考えられる。
そんな中で、特に強い王が出現し、周りを全て武力支配することも十分に
ありえる。それが107年に後漢に朝貢した帥升であり、だから「倭国王」と
呼ばれた。狗奴国とか熊襲に対抗するためではないと考えられる。
東遷を国中の全ての人が移住したと考える必要はないだろう。
たとえば、徳川家康が江戸に幕府を開いた時も、全ての人が移住した
わけではなく、ごく一部の人に限られる。 >>68
箸墓は記紀に三輪の大物主の逸話と共に、モモソの墓だと
記述がある訳だが。それが嘘だと言いたいのかな? >>70
倭迹迹日百襲姫の墓が箸墓なのは日本書紀に書いてあるとおり。
しかし、百襲姫の墓である箸墓があの箸墓古墳かどうかはわからない。
これは崇神天皇陵とされる古墳が崇神天皇の墓かどうかわからないのと同じ。
倭迹迹日百襲姫と同じように論じられる倭姫の墓を見てみるといい。
非常に小さくて質素。箸墓古墳は一介の皇女で過ぎない倭迹迹日百襲姫の
墓としては大きすぎる。
もっと疑問なのは、日本書紀に倭迹迹日百襲姫の墓と書いてあるものが
どうして卑弥呼の墓につながるのかということ。 >>69
じゃあ、邪馬台国は2つに分かれて九州邪馬台国と畿内邪馬台国になったというんだね。
で、卑弥呼は畿内邪馬台国の方に行ったと
たぶん人口増加によって水田も不足してきてるから、信憑性はあるかも
でも、九州一帯を支配(熊襲とくな国以外)できるカリスマ性のある卑弥呼の後をできる人がでたということでしょうか?
いと?とよ?だっけ?
ありえるかもしれん 邪馬台国と大和朝廷は何の関係もない。
だから、邪馬台国や卑弥呼の詳細が分からなくなってしまったんだよ。 >>67
邪馬台国連合は神功皇后によって滅ぼされてるよ。
記紀に書かれてる熊襲とか鬼とかいうのは邪馬台国の末裔たちの事だね。
大善寺玉垂宮吉山旧記には狗奴国の末裔と思われる桜桃沈輪も殺されてる。
九州の支配者が交代したんだね、東遷の最初は饒速日の子の宇摩志麻治だと
思うけど、筑紫と豊国の寺の廃寺が異常に多い7世紀も案外移動が有ったのかも。
廃寺跡からは木材が一切出てこないんだよね、天皇で言えば天武持統辺りだね。
神功の後、九州にそのまま留まっていれば天武持統辺りで移動があったかもね。 小浜基次「形質人類学から見た日本の東と西」
『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号
畿内型は西日本の畿内を中心として、瀬戸内海沿岸を経て、朝鮮につらなり、
東北・裏日本型は東日本より裏日本に広がり、西日本では、畿内型の周辺を
とりかこんでいる。西日本の離島には代表的な東日本型形質が残されている。
このような両型の地理的分布によつて、集団の移動を推定すると、はじめに、
東北・裏日本型集団が広く日本全土に先住し、のちに、畿内型集団が朝鮮半
島より渡来し、瀬戸内海沿岸を通つて、畿内に集中し、その一部はさらに、
東進したものであろう。古代の高い文化が、畿内を中心として栄えた史実に
一致することは興味深い(以上、75頁)
(追加)形質人類学的にみた未解放部落
われわれの全国的な日本人調査のうちには、未開放部落もふくまれ、その調
査地区は近畿、山陽、九州、四国に散在する四七部落にわたつている。
(中略)
身長は一般に低身であるが、部落の生活環境によつては、長身の集団もある。
頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅
は小さい。したがつて、畿内のような高度の短頭地区内にはさまつた部落は、
一般集団との間に明らかな差異が認められる。しかし、山陰、北九州、四国
東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。
畿内地区における両集団の差異は畿内人と山陰人とのちがいにすぎないので
ある。そのほかの形質、たとえば、頭頂高指数や頭部の測度、指数などにつ
いても、部落はまつたく東北・裏日本型に類似している。
大陸朝鮮型形質のもつとも濃厚な畿内地区に、もつとも非朝鮮的な形質を持
つ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値する。おそ
らくは、婚姻と住居の制限によつて内婚率が高く、特異の形質がよく保たれ
ているものと思われる。このような部落の成因については、文化史その他の
分野より検討せらるべき課題であろう。(成績はいずれも男子資料による)
(大阪大学医学部教授) >>72
一介の皇女について、神と人が協力して墓を作るかな?
また大坂山の石が実際に用いられていたという、
考古学と文献資料の一致もある。
更に籠神社にはモモソを日女命とする資料も存在している。
候補者とすると、土蜘蛛の女酋長やらとは次元が違う話だ。 >>77
崇神天皇の時代をみると、
まず天照と大国魂神(=大国主?)を追い出し、
次に百襲姫の死を持って大物主を退場させてる。
神に頼る政治から人による政治への移行とも見えるけど、
日向系・出雲系、それから大和系の勢力を掌握していった過程とも
考えられないかな。
百襲姫も記紀に書かれているのとは異なる実像があるのかもしれない。 >>77
日本書紀には次のように書かれている。
崇神天皇十年九月。倭迹迹日百襲姫は箸でホトを突いて死んだ。
そこで大市に葬られた。人はその墓を箸墓と呼んだ。
その墓は昼は人が作り、夜は神が作った。大坂山の石を運んで作った。
山から墓に至るまで、人々が手渡しで運んだ。
実際に神が造ったというのはありえないし、崇神天皇十年九月中に死んで、
すぐに葬られたことも確か。以後、日本書紀に百襲姫の名前は出てこない。
つまり、百襲姫の墓である箸墓の築造には実質十日もかかっていないことに
なる。
http://j-texts.com/jodai/shoki5.html
いわゆる箸中山古墳(箸墓古墳)の築造には数年はかかるとされる。
あれは百襲姫の墓じゃないな。 >>78
崇神天皇の時代には大きな災いが多発した。疫病が流行し民の半数以上が死ぬ。
また、反乱する者があとを立たないという状態。
当時の感覚からすると、これは何かのたたりに違いないと考えられた。
そこで、出雲系の大物主神を祀ると災いは収まった。出雲のたたりだと
考えられたわけである。つまり、災いは、「出雲の国譲り」という
征服戦争のたたりであり、その霊を慰めることにより災いは収まった。
となると、出雲の国譲りを主導した天照大神と高皇産霊尊を大物主神と
一緒に祀るわけにはいかない。そこで、二神は宮殿から遠ざけられた。
倭大国魂神は間違いなく高皇産霊尊だろう。 >>82
そうだね、神武天皇もあんなに長く生きれる訳はないので、
神武天皇は架空の人でいいという事か。
つまり東遷説は根本的に成立しないという事だw >>75
熊襲が邪馬台国の末裔とは・・・
熊襲の場所は熊本県球磨郡〜鹿児島県あたりだよ
ここが邪馬台国ならくな国は鹿児島県の南部しかないということになる
卑弥呼が熊襲のトップとは考えにくいな
いろんな国と仲良くするために同盟組んでるのに、襲撃する方になるとは考えられん
熊が襲うと書いて熊襲だから山賊やテロリストみたいな感じがするんだよね 完全にトンデモ化した東遷説が、学問の世界に浮かび上がることは
二度とない >>86
畿タ内説のア○ウがまた喚いているな。お前に断言できる能力も資格も無いだ
ろうが。断言するなら立証しろ。できまい。ドア○ウ。だからキタナイ説と揶揄
されるのだ。 畿タ内説の立証まだ〜?。できないくせに畿タ内説で決まったようなプロパガ
ンダをする。畿タ内説の奴らはキタナイねー。まるでウンチみたいな奴らだ。
あぁ、くさい、くさい。 >>91>東遷厨
東遷説スレでするわけないじゃん
言ってることが支離滅裂だな どうでもいいことだけど東遷説スレのテンプレどうにかならんのか
稚拙すぎだろ
主観丸出しだし、情報古いし、根拠のない断定ばっかりだし 邪馬台国を探す事自体、無意味だ
中国(当時は何て言った国?なのか)の歴史書を真に受け探す事の無意味
ここにしか登場しない邪馬台国、古事記にも登場しない邪馬台国を探す事の愚
無駄な人生を費やした人には、己のバカさ加減を知れと言いたい
邪馬台国など存在しない。倭国が存在しただけである
バカな中国のいい加減な歴史書に翻弄された人生だったのである事実を受け入れなさい
古事記に無いものを追い続ける理由が、中国の三国志って可哀想すぎる
邪馬台国は倭国であり、卑弥呼は陽の皇女でも日の命でもいいのだ
中国の歴史書を真面目に探る必要など無い
それより古事記を真面目に探る事こそ日本の真実を求める事なのである >>89
皇室の歴史書といわれる古事記、日本書紀の神代には九州の金属器が
登場する。
イザナギ・イザナミの天沼矛。イザナギの白銅鏡。
天照大神の八咫鏡。素戔鳴尊や月読尊の剣。
矛・鏡・剣は近畿地方の弥生時代以前からはまず出てこない。
一方で、近畿地方あたりで興隆を極めたとされる銅鐸は記紀には
一切出てこない。
つまり、神武東征以前の記紀の記述は九州の文化の中にあり、
近畿地方の文化を全く経ていないことになる。
これなどは東遷の根拠の一つになっている。 日本列島を作ったという矛って、朝鮮半島のものだろ。
日本にいなかった馬は出てくるし、朝鮮半島のシンボルの八咫烏は出てくる。
おまけに、天孫が最初に住んだ場所は、韓国に向かっていて、朝鮮語で
都を意味するシフル・ソホリだというんだから、皇室は明らかに朝鮮半島
の人たちだよ。 もし記紀の神代の記述が史実でないならば東遷説は成り立たないということでいいか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています