♪邪馬台国東遷説 その15 [転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国研究の本道「東遷説」臨死体験後復活♪
汝らに平安あれ >>951
>魏の使いは九州北部、それも福岡から一度も出た形跡がなく
それはない。 四国の阿波にきた形跡、あるよ。 若杉山知ってるし、中国産朱も持参してるし。 @阿波 >>953
>阿波への道のりが説明されていない。
はい、これが阿波への道のり
末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)
↓【東南】陸行500里 福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】 豊後水道 水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛辺り)
↓【南】水行10日(太平洋ルート)又は陸行1月(旧土佐街道) 途中、阿南の若杉山辰砂採掘現場視察
女王・卑弥呼のおわす《邪馬台国 阿波》到着(七万戸)
↓【東】海渡1000里 (阿波から東へ1000里渡海)
女王国(阿波)の東、海(紀伊水道)を渡る千余里、復(ま)た国(畿内)有り、皆倭種なり。 >>951
>それも福岡から一度も出た形跡がなく
南至投馬國水行二十日。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
これを無視または誤読してるから、福岡から出ていないなんていう寝言が言えるんだよ >>955
行程の解釈で様々な説があるが、正解はわかってない。
誤読?何をもって誤読とすることができるのかい?
陳寿が何を考え、何を見て記述したかわからないのだが?
錯かんの可能性もあるし。
だからこそ、どの説もはっきり"誤読"と言い切れないし、通説の解釈が正解とも限らない。
文献的に様々な可能性を考え、考古学的根拠で確認していくしかない。
今のところ九州説が一歩リード、というところか。 >>956
>だからこそ、どの説もはっきり"誤読"と言い切れないし、通説の解釈が正解とも限らない。
通釈がなぜ通釈とされているか、きちんと調べて自分なりの考えを示せばいいじゃないか
通釈で不都合だと思うところがあれば、「根拠」を示して論じればいい
「帯方郡から」とするのが不合理な理由は「東南」ではなく「南」至邪馬壹國となっているから
魏志倭人伝の冒頭に「倭人在帶方『東南』大海之中」とあるし 邪馬壹國までの水行10日陸行1月が
帯方郡からの全行程ならば、当然「東南」でなければならない >>958
そもそも、その通説の根拠が見当たらないんだよなぁ。
誰が通説が正解だと論じてるのかい?
〜思われる、〜だから〜解釈するのが妥当、止まりじゃないかい?
説が出尽くした感はあるけどね。 >>958
東南でなければならないというのは、少しでも畿内に近づけたいからかな?
帯方郡から筑紫なら、南で十分なのだけれど。 >>958
いや、倭人の住んでる所と邪馬台国は違うでしょう。
東南は倭人が"いる"所の広範囲を示し、
南は"邪馬台国"という限定的な範囲だね。
邪馬台国が北部九州のみを指すのなら、南は妥当ということになる。
全て行程を直線的に読み、"南"も正しく、日程も距離を示すのであれば、邪馬台国は日本じゃないな。 >>961
>東南は倭人が"いる"所の広範囲を示し、
>南は"邪馬台国"という限定的な範囲だね。
>邪馬台国が北部九州のみを指すのなら、南は妥当ということになる。
なるほど。
この説明は合理的ですね。 >>964
963は自演だから、反応してもムダだよ >>959
>そもそも、その通説の根拠が見当たらないんだよなぁ。
>誰が通説が正解だと論じてるのかい?
ほら、また根拠なしでごまかす
大陸の史書の地理・旅程記事で、
途中からいきなり「起点からの表記」になるものはない
要するに、大陸史書の表記法の標準に合わない「異端の読み方」だって言ってるんだよ
こっちは根拠を示しているんだから、反論も根拠をつけてどうぞ
これに対する最もシンプルで有効な根拠は、
大陸史書の地理旅程記事で「途中から起点表記になる例」を出してくれればいい
本来的には、それが標準と見てよいほど多数例を示す必要があるけれど、とりあえず1例でいいよ
がんばれ! >>960
>東南でなければならないというのは、少しでも畿内に近づけたいからかな?
違うよ
魏志倭人伝の表記=撰者の認識が「東南」であるという意味だ
>帯方郡から筑紫なら、南で十分なのだけれど。
魏志東夷伝の表記では、韓が方4千里で、
循海岸水行、歴韓國、乍南乍「東」、到其北岸狗邪韓國、七千餘里
とあるから、まず南へ四千里行って、そこから「東へ三千里」行ったところが
狗邪韓國という認識になっている
末慮国上陸後も
東南陸行五百里到伊都國
東南至奴國百里
と、東南に進み続けている
それを、南と書くことはない
大陸の認識としては帶方「東南」大海之中の国なんだから、起点が帯方郡なら
「東南」でなければならない
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月
を帯方郡からと読むのは、明らかな誤読だよ >>961
>邪馬台国が北部九州のみを指すのなら、南は妥当ということになる。
この時点で、妥当じゃないんだよ
>全て行程を直線的に読み、"南"も正しく、日程も距離を示すのであれば、邪馬台国は日本じゃないな。
だから、旅程をそのままに読んでも仕方がないと言っている訳だ
要するにあてにならないってこと >>968
>要するにあてにならないってこと
結論が先にあるんだろう? >>969
>結論が先にあるんだろう?
九州説はそうなんだろ?
帯方郡の「南」を、無理に正当化しようとするし 南と書いてあるからだろ?
畿内説のように南を東と読み替えるような破廉恥なことはしない。 >>971
>南と書いてあるからだろ?
その前に、帶方「東南」大海之中と書いてあるのと矛盾する
南と書いてあるのは、帯方郡からではおかしいし、福岡平野からでも南に水行はできない
つまり、記載をそのままに受け取ることはできない、が結論だ >>972
東南は"大海"を修飾してるなら、帯方郡の東南にある大海の中に、となるな。
さらに範囲が広がるなぁ >>972
で、君はどこに邪馬台国があると思うんだい?
君の解釈だと、邪馬台国は倭人がいる国ではない事になってしまうが? >>966
まず、それなら直線的行程の中に里数から日程記述に変化している記述をしりたいなぁ。
場所の地理的説明ではなく、行程でね。
後、放射読みだったら意味がないよ? >>976
相手の質問・要求に対して、逆質問で返すのは詐欺師の基本だよ?
まずは、そちらが論証すべきことを、先に論証するのが筋だ
漢書/列傳 凡七十卷/卷九十六上 西域傳第六十六上/大月氏國
大月氏國,治監氏城,去長安萬一千六百里。不屬都護。戶十萬,口四十萬,勝兵十萬人。
東至都護治所四千七百四十里,西至安息四十九日行,南與罽賓接。
大月氏国、監氏城に治す。長安を去ること萬一千六百里。都護に属さず。
戶数は十萬,人口四十萬人,勝兵は十萬人。
東の都護の治するところに至るに四千七百四十里、西に安息国に至るに四十九日行、
南は罽賓に接す。
これを見ても分かるように、全行程は最初に書かれるもので、途中に起点からの
全行程が入るのがおかしいって分かるだろ?
それに勝手に「放射読みだったら意味がないよ?」とか付けているが、
こっちはそんなことを主張したことはない
そして、ここに挙げた大月氏国の地理は、大月氏国基準だと放射読みだが、
安息国への情報としては、
西域都護まで里数
大月氏国まで里数
安息国まで日数 となっている訳だ
問題ないだろ
さあ、大陸史書の地理旅程記事で「途中から起点表記になる例」を出してくれ
本来的には、それが標準と見てよいほど多数例を示す必要があるけれど、とりあえず1例でいいよ
がんばれ! >>974
>君の解釈だと、邪馬台国は倭人がいる国ではない事になってしまうが?
「私の解釈」ではなく、「陳寿の認識」では、倭国は南へと
伸びていく列島となっていて、現実の日本列島に当てはめると
「倭人がいる国ではない事になってしまう」んだよ
つまり、旅程記事はあてにならない、だ
>で、君はどこに邪馬台国があると思うんだい?
となれば「倭国は南へと伸びていく列島」という「陳寿の認識」を修正して
考えていくよりないってことになる そして「水行」の大陸史書の地理・旅程記事での用例を見ると、
海岸沿いの海の移動であることが分かる
そうである以上、北部九州、奴国周辺からの水行は、
「日本海の山陰地方沿岸を東へ」、というのが一番考えやすい
可能性としては、
「瀬戸内海を東へ」
「九州東岸を南へ」
「九州西岸を南へ」
もあり得るが、これらのルートではないって、5万戸の投馬国、7万戸の邪馬台国の
比定地が得られない
であるなら、日本海の山陰沿岸を東へ水行し
投馬国(出雲国)5万戸を経由し、邪馬台国(大和国)7万戸に至るのが、
一番齟齬のない旅程となる なぜ出雲と大和と特定できるのか。
なぜ阿波と吉備ではいけないのか。 >>980
>東じゃ論外
九州説はそこしか頼るところがないからね
そして、根拠なしに一言だけ書くのはいつものこと
そもそも魏志倭人伝の記述通りでは、どこにも行き着かない
だから>>974でも書いたように
「倭国は南へと伸びていく列島」という「陳寿の認識」を修正して
考えていくよりないってことになる
そして、北部九州から水行して行ける、考古学的に確認できる大勢力を求めることになる 要するに畿内説は結論先にありきの論理性のない思い込み。 >>990
>要するに畿内説は結論先にありきの論理性のない思い込み。
論理性って言葉が使いたかったんだな? 無理しなくていいんだよ?
前提1
陳寿の記述通りではどこにも行き着かない
↓
陳寿の記述は倭国が南北に伸びる列島であることを前提にしている
↓
現実の日本(倭国)は、南北に延びる列島ではない
↓
現実の日本列島に合うように修正する必要がある
きわめて論理的だろ?
前提2
大陸史書の地理旅程記事での「水行」は海岸沿いのの海の移動
↓
水行の起点は北部九州(奴国・福岡平野周辺)
↓
可能な経路は
1「日本海山陰沿岸を東へ」、2「瀬戸内海を東へ」、3「九州東岸を南へ」、4「九州西岸を南へ」
の4通りが考えられる
↓
上記4経路のうち、投馬国五万戸と邪馬台国七万戸にあたる考古学的に確認できる大国がある経路を選べばよい
↓
投馬国:出雲国、邪馬台国:大和国と考えれば、上記の条件を満たす
と、こちらもきっちり論理が通ってるだろ?
卑彌呼共立以前の段階で、巨大墳丘墓を作れるローカル首長が居なかったところは考慮に入らないんだよ 短里の報告書を長里で解釈していたから、朝鮮半島と九州の南北の長さを過大に評価していただけだよ。
本州と四国は、海の東にも倭人がいると記録されており、方角を間違えていたわけではない。 >>992
>陳寿の記述通りではどこにも行き着かない
前提から間違ってる 勝手に変えて読めばどこにでも行き着く
そんなこと、する意味がない
つまり使い物にならない >>993
>本州と四国は、海の東にも倭人がいると記録されており、
九州説はいつもこうやってごまかそうとするが、
女王國東「渡海千餘里」復有國だ
幅600メートルの関門海峡は、九州説のいう短里であってもどうやっても千里にはならないだろ?
本州を渡海千里の国とするのは、あまりにも恣意的なこじつけ
>短里の報告書を長里で解釈していたから
そもそも短里などというものはない
紀元前3世紀の秦の始皇帝の度量衡の統一から卑弥呼の時代までに400年以上経過している
辺境だから古い度量衡が残っていたとするのは、妄想に近い憶測
倭地が漢土から萬二千里の彼方というのは、淮南子に見られる世界の果てまでの距離に合わせ
司馬懿の功績を顕彰するための数字あわせで、短里などというものはない
短里を前提とする論説はそれだけで破棄してよい >>994
>前提から間違ってる
どこがどう間違っているかを「根拠」を挙げて論じられない時点で
九州説の立場を取る人間の能力の限界が明らか
基本的に個人の感想レベルのことしか書いてないのが九州説の書き込みの常 古墳時代に入れば、畿内が倭国の中心になることは明らか
そして、標準的な編年では、古墳時代の始まりと、邪馬台国の時代は重なる
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