♪邪馬台国東遷説 その15 [転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国研究の本道「東遷説」臨死体験後復活♪
汝らに平安あれ >>499
他のレスやカキコを嫁。畿内痴呆こそ韓半島からの帰化人が多く入植して水田
耕作を始めたところだぞ。 古代の大和朝廷が自分たちの祖先は九州から来たといっている。
現代の阿呆がいくら騒いでも何の価値もない。 九州から来た可能性はあるけど
あっとしてもその時期は記紀どおりなら紀元前660年、
人間の寿命を現実的なものに修正した場合でも1世紀かそれ以前だから
邪馬台国とはまったく関係ないね >>503
東遷・東征の時期が卑弥呼・台与時代の前か後かは重要な問題だが、
これは邪馬台国がどこにあったかで決まると言える。
それを考える時に決め手になるのが、近畿地方の重要な変化。
銅鐸の消滅や古墳の出現ということになる。
鏡の普及も重要だし、土器の変化も考える必要があるかも知れない。 北九州説も南九州説も四国説も畿内説も各々唱えられれば聞き入る事が可能だが東遷説だけは納得できない
勝者の移動なら必ず後詰めが居ておかしくない筈なのにそれに関する記録も伝承もが全く何処にも無い
東遷説は天皇の正統性や権威を高める為の邪馬台国に対する窃史で在り古事記神話が諸有力豪族の持ち寄った四方山話の単一皇統史化作品で在る処に組み入れられられんとしているに過ぎない 神武東征は、西暦3世紀の卑弥呼の時代よりも前でしょう?
でも、だからといって、邪馬台国は九州から来たというわけではない。
邪馬台国の前身は畿内で誕生したんだよ、出雲を倒して。
本拠地は、高野山と天野山の山間一帯の高天と呼ばれた地域。
このあたりの平原は高天の原と呼ばれた。
その後、九州に地方官として送り込まれたのが、王家の一族のニニギ。
これを後世、天孫降臨という。
彼の曽孫のワカミケヌ(後世、神武天皇と呼ばれる人物)が
畿内本国でクーデーターがあったので、
本家筋にあたる畿内王家を救うわために、援軍として駆けつけた。
これを後世、神武東征という。
ちなみに、その当時、九州分家の出身であったワカミケヌは、
吉備の国で地方官の地位にあった。 神武東征は卑弥呼の後では?河内王朝が神武系かもしれない。
巻向が卑弥呼。 >>508
どうみても、神武東征は、卑弥呼よりも前だ。
纏向遺跡が卑弥呼の都ならば、卑弥呼はモモソ媛命だ。神武の7代後の子孫。
あと、卑弥呼は初代倭王ではない。
中興の祖くらいの人物。
実際に魏志倭人伝には、もともと倭国は男王によって建国され
やがて、倭国大乱があって、それで卑弥呼が共立され、鎮まったとある。
この建国者の男王と卑弥呼は同じ家の出身。
んじゃ、この男王が神武なのかというと、そう簡単ではないと思うね。
自分が思うに、この建国者の男王は、天照国照彦ホアカリ命という人物。
通称の天照国照彦とは、天津神と国つ神の両方の支配者という意味。
つまり、出雲国譲りを達成して、初めて天下を統一させた人物。
系譜は、神武の曽祖父のニニギの兄弟とされている人物。 >>507 508 509
どうやってあなた達のカキコを証明するのかな。証明しなければだーれも
信じないよ。妄想で終わりね。 神武天皇が官という奴もうちょっと何とかならんかね
はっきり言ってそれだけ制度が進んでいれば記紀に出てくるような事にはならん
神武東征があれだけ行き当たりばったりで
神武天皇と部下の関係も親分子分なのは村長さんレベルだったからだ 旧ソ連の人類学者、レヴィンの研究
http://www2.cc22.ne.jp/hiro_ko/9-0roots.html
【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 縄文人か弥生人か 2008.08.25 MSN産経新聞
レヴィンは、第二次大戦直後、シベリアに抑留された元日本兵約1万300人を調査。朝鮮半島では、一重まぶたに伴い涙丘がまぶたで覆われる「蒙古ひだ」が多いが、日本では近畿に最も多く、東西へ向かうにしたがって少なくなることを指摘した。
レヴィンは頭の形態や身長、ひげの濃さなども調べた結果、「日本人には、蒙古ひだが小さくひげが濃いアイヌ系要素と、蒙古ひだが大きくひげが薄い朝鮮系要素という二大要素がある」と分析。
「アイヌ系」は縄文人の古い特徴を受け継ぎ、近畿に多い「朝鮮系」は弥生以降の渡来人の新しい特徴を持つという。 >>511
神武は天皇ではなく。
イワレ彦だよ。
諱はワカミケヌ。 >>514
分かりやすいようにいっただけ
個人的には若三毛と言っている 邪馬台国が東遷したのではない。
神武が東征したのだよ。
神武はただの九州豪族で、何かをやらかして九州邪馬台国連合から破門されて、吉備に亡命したのだ。
その後、新天地を求めて畿内に行ったのだよ。 >>516
私も東遷ではなく、何らかの理由で少数勢力が移動の可能性が強いかな、と思う。 記紀を見ると、神武天皇の東征にはさまよい感があるな。
日向を発ち、宇佐から宗像のほうに向かう。しかし、どういうわけか
引き返して安芸から吉備へ。
吉備で長期間過ごしたあと、河内から生駒越えしようとして、孔舎衛坂で
長髄彦に負けて退却。恐らく、もっと東に行きたかったのだろうが、
初めての太平洋の荒波に参ってしまう。兄の稲飯命と三毛入野命は
海に飛び込んだとなっているが、これは遭難したのかもしれない。
しかたなく熊野に上陸。海は真っ平というわけで陸路を進んで
奈良盆地へ。こういう感じではなかろうか。 >>510
あちこちで見るけどさあ、天火明命が本来の王家だという書き込みに
必ず「どうやって証明するんだ?」と書いてるね。
何かそんなに都合が悪いことがあるのかい? >>518
筑紫の日向は福岡県の日向峠付近だろう
日向峠は伊都国と奴国の国境
日向を宮崎県と考えると意味不明な行動となる。 翡翠の勾玉、生産地の一番西端は長崎だからな
ま〜決定的だろ〜
公孫氏の記録みたら中国史の倭人伝の記載がない時期と重なるんだな
中国側への朝貢の記録が途絶えた時期と重なる
つまり公孫氏が横領していたって話しだ >>523
>>>518
>筑紫の日向は福岡県の日向峠付近だろう
>日向峠は伊都国と奴国の国境
>日向を宮崎県と考えると意味不明な行動となる。
だね。 そっかそっか
お前ら地域の対立には興味がないんで
現在付いてる名前での日向陶芸ね〜 【5月5日 AFP】日本語の方言の多くは約2200年前に朝鮮半島から移住してきた農民たちに由来する
「英国王立協会紀要(Proceedings of the Royal Society B)」
もう1つの説は、紀元前200年ごろの朝鮮半島からの人の大量流入が日本の先住文化に非常に大きな影響を及ぼしたとするもので、
先住民が大規模な移住を余儀なくされ、彼らの話していた言語もほとんどが置き換えられたと考える。最近の考古学上およびDNAの証拠は、
いずれもこちらの説が有力であることを示している。
http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2798334/7175562 >>518
ナント、昔は近くには櫛降岳という山があったそうだし。
ここらあたりは関係のある古い神社も多いしね。
面白い土地ではある。 >>528
いいから黙って唐津の偽物でも焼いてろよ 記紀の「クシフル」伝説は韓国伝説の剽窃か
http://ameblo.jp/kujitsutomu/entry-11617714587.html
記紀など倭国の「クシフル」伝説が、韓国の「亀旨(クジボン)」伝説の剽窃、
あるいは焼き直しであろうことは、その類似した内容をみれば理解できる。その
伝説の解説を試みれば、以下のようになる。
(中略)
ちなみに、『三国史記』の「金官加羅」は「金官伽耶」と同じ国家を表し、単に
「加羅」とも「伽耶」とも表記する。駕洛国ともいった。さらに韓国語の「クシ
フル」は「クソウル」からきており、クは大きい、ソウルは朝鮮を意味し、「クシ
フル」は朝鮮の美称であるという説もある。 >>523
簡単なこと
日向は鹿児島宮崎を指した
それで海幸の子孫は阿多隼人とはっきり書いている
阿多とは薩摩半島南部
記紀に書いているとおり宮崎ではなく鹿児島と考えればいい >>534
日向が福岡なのか鹿児島宮崎なのかどこなのかは知らないが
火照支族(釣り得意。元の釣り針でないと許さない。)
火遠理支族(釣り苦手。千の釣り針を作っても許してもらえず泣いて途方に暮れる。)
の二族が日向にいた。
最終的に勝ったのが火遠理ってのがまんが日本昔話みたいな神話。 記紀の「クシフル」伝説は韓国伝説の剽窃か
http://ameblo.jp/kujitsutomu/entry-11617714587.html
記紀など倭国の「クシフル」伝説が、韓国の「亀旨(クジボン)」伝説の剽窃、
あるいは焼き直しであろうことは、その類似した内容をみれば理解できる。その
伝説の解説を試みれば、以下のようになる。
(中略)
ちなみに、『三国史記』の「金官加羅」は「金官伽耶」と同じ国家を表し、単に
「加羅」とも「伽耶」とも表記する。駕洛国ともいった。さらに韓国語の「クシ
フル」は「クソウル」からきており、クは大きい、ソウルは朝鮮を意味し、「クシ
フル」は朝鮮の美称であるという説もある。 >>536
いや海幸山幸の話自体は南方海洋民族由来の説話だから
別に大伯父とは争いがあったとかいう話じゃないよ
天皇家は田舎の出身
その田舎は阿多(薩摩半島南部)
これだけの話
別に壮大な話にする必要はない >>538
常識的に考えて。
東征するには薩摩隼人、久留米菊兵団、熊本鎮台のような精強な不死隊が必要。
兵站などはそれからの話だ。
宮○のごときは域内統一すら不可能な弱兵。 古事記では、神武天皇は日向を発って筑紫に行幸したと書かれている。
最初に到着したのが豊の国の宇佐。次が筑紫の岡田宮。
日本書紀では、日向を立ち東征に向かい、速吸之門(豊予海峡)を
通って宇佐に行った。次が筑紫の国の岡水門。
日向は南九州かな。しかし、宇佐はともかくとして、どうして筑紫に
行ったのか。宗像のあたりだと思われるが。 記紀の「クシフル」伝説は韓国伝説の剽窃か
http://ameblo.jp/kujitsutomu/entry-11617714587.html
記紀など倭国の「クシフル」伝説が、韓国の「亀旨(クジボン)」伝説の剽窃、
あるいは焼き直しであろうことは、その類似した内容をみれば理解できる。その
伝説の解説を試みれば、以下のようになる。
(中略)
ちなみに、『三国史記』の「金官加羅」は「金官伽耶」と同じ国家を表し、単に
「加羅」とも「伽耶」とも表記する。駕洛国ともいった。さらに韓国語の「クシ
フル」は「クソウル」からきており、クは大きい、ソウルは朝鮮を意味し、「クシ
フル」は朝鮮の美称であるという説もある。 ■■■悪の化身『台湾人工作部隊』による二段構造の江南改竄詐欺の手口A■■■
@バカを確実にダマし落とすために、まず朝鮮人のふりをしながら日本人が
朝鮮人と同じ人種かのようなコピペを貼りまくって嫌がらせをしまくる。
(台湾人の自家発電に、おのれ、朝鮮人め!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、ホワイトナイトがごとく何十年も
かけて作り上げてきた、それはそれは高度な改竄用の捏造創作を使って
勝手に自分たちの祖先、長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(朝鮮人を叩く正義のおぢちゃんだ!と、バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南ブタ土人」が日本人の祖先になりました。 >>517
遷移かどうかはともかく、地名相似あたりからすれば、分国と言える程度の
ある程度まとまった人数が動いたように思うんだけどね。 小浜基次「形質人類学から見た日本の東と西」
『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号
畿内型は西日本の畿内を中心として、瀬戸内海沿岸を経て、朝鮮につらなり、
東北・裏日本型は東日本より裏日本に広がり、西日本では、畿内型の周辺を
とりかこんでいる。西日本の離島には代表的な東日本型形質が残されている。
このような両型の地理的分布によつて、集団の移動を推定すると、はじめに、
東北・裏日本型集団が広く日本全土に先住し、のちに、畿内型集団が朝鮮半
島より渡来し、瀬戸内海沿岸を通つて、畿内に集中し、その一部はさらに、
東進したものであろう。古代の高い文化が、畿内を中心として栄えた史実に
一致することは興味深い(以上、75頁)
(追加)形質人類学的にみた未解放部落
われわれの全国的な日本人調査のうちには、未開放部落もふくまれ、その調
査地区は近畿、山陽、九州、四国に散在する四七部落にわたつている。
(中略)
身長は一般に低身であるが、部落の生活環境によつては、長身の集団もある。
頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅
は小さい。したがつて、畿内のような高度の短頭地区内にはさまつた部落は、
一般集団との間に明らかな差異が認められる。しかし、山陰、北九州、四国
東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。
畿内地区における両集団の差異は畿内人と山陰人とのちがいにすぎないので
ある。そのほかの形質、たとえば、頭頂高指数や頭部の測度、指数などにつ
いても、部落はまつたく東北・裏日本型に類似している。
大陸朝鮮型形質のもつとも濃厚な畿内地区に、もつとも非朝鮮的な形質を持
つ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値する。おそ
らくは、婚姻と住居の制限によつて内婚率が高く、特異の形質がよく保たれ
ているものと思われる。このような部落の成因については、文化史その他の
分野より検討せらるべき課題であろう。(成績はいずれも男子資料による)
(大阪大学医学部教授) >>548
こういう研究の紹介をするあなたは何を訴えたいのでしょうか。@、だから邪
馬台国は北九州に起こり瀬戸内海を伝播して畿内にやって来た。A、畿内型集
団は元々朝鮮半島からの移住者だ。B前からいた縄文文化の日本人の子孫はま
だまだ健在だ。Cその他。ぜひお考えをお聞かせ下さい。 記紀の神武東征については、どうして四国に立ち寄らなかったのかも謎だな。 >>551
広島・岡山には立ち寄っているから、四国は立ち寄るほどの値打ちも無いと
判断されたんでしょうね。畿タ内説スレに四国厨のオッサンがいるけど、四
国なんざあそんなもんよ。 四国は中国地方よりも早く九州の影響を受けているとも言われるな。 北部九州にも立ち寄っているだけだけど、なにしに行ったやら 27 名前:日本@名無史さん :2015/03/19(木) 18:56:29.55
邪馬台国は宮崎県にあった。
謎が解けたよ。
宮崎を日向と名付けたのは景行天皇で、神武東征の時には、宮崎は日向では
なかった。
つまり、天孫降臨の地は宮崎ではなく、後から宮崎を日向と偽称させた。
なぜか?
邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされた土蜘蛛であったが、これを明らかにすることは
できなかった。
なぜなら、邪馬台国は魏の冊封国であり、これを滅ぼしたとしたら、中華帝国
への反乱ということになってしまうからだ。
そこで、大和朝廷は、卑弥呼と台与の事績を神功皇后一人の記とするなどの
混乱を見せつつ、これらが皇統であるかのような偽装を行った。
神功皇后は、日本が倭国であるかのような偽装を行うための架空の人物であり、
だこらそれは女性である必要があった。
そして、もう一つの偽装が、宮崎を日向の呼び、天孫降臨の地であるかのように
詐称したことだ。
なぜ宮崎だったのか。
それは、宮崎が邪馬台国だったからだ。
卑弥呼や台与が神功皇后であったかのように記述したのと同様、邪馬台国
を天孫降臨の地であるかのように詐称させることで、大和朝廷が邪馬台国
を滅ぼしておらず、むしろ正統な後継者であるかのようにする偽装が完成した。
このように、宮崎を天孫降臨の地であるかのように詐称したのは意味が
あり、そこが邪馬台国であったからだ。 記紀の記述に可能な限り忠実にあろうと考えると、高天原は九州北部と
考えるのが妥当。もちろん、卑弥呼もここにいたし、倭国の三十カ国余りも
このあたりでまかなえると考えられる。
その後、南九州に勢力を拡大するために、日向に行った一団があり、
これが天孫降臨伝説として残った。それは、ここの勢力がやがて東征し、
大和朝廷を樹立したからである。
つまり、東征の出発点も日向(宮崎)ということになる。 27 名前:日本@名無史さん :2015/03/19(木) 18:56:29.55
邪馬台国は宮崎県にあった。
謎が解けたよ。
宮崎を日向と名付けたのは景行天皇で、神武東征の時には、宮崎は日向では
なかった。
つまり、天孫降臨の地は宮崎ではなく、後から宮崎を日向と偽称させた。
なぜか?
邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされた土蜘蛛であったが、これを明らかにすることは
できなかった。
なぜなら、邪馬台国は魏の冊封国であり、これを滅ぼしたとしたら、中華帝国
への反乱ということになってしまうからだ。
そこで、大和朝廷は、卑弥呼と台与の事績を神功皇后一人の記とするなどの
混乱を見せつつ、これらが皇統であるかのような偽装を行った。
神功皇后は、日本が倭国であるかのような偽装を行うための架空の人物であり、
だこらそれは女性である必要があった。
そして、もう一つの偽装が、宮崎を日向の呼び、天孫降臨の地であるかのように
詐称したことだ。
なぜ宮崎だったのか。
それは、宮崎が邪馬台国だったからだ。
卑弥呼や台与が神功皇后であったかのように記述したのと同様、邪馬台国
を天孫降臨の地であるかのように詐称させることで、大和朝廷が邪馬台国
を滅ぼしておらず、むしろ正統な後継者であるかのようにする偽装が完成した。
このように、宮崎を天孫降臨の地であるかのように詐称したのは意味が
あり、そこが邪馬台国であったからだ。 なに宮崎が発狂してんの?
日向国は7世紀中頃にでき、702年頃に薩摩国、713年に大隅国が別れる前は、
鹿児島宮崎を併せた地域でした。
薩摩国の名称は唱更国、薩麻国と変遷し8世紀半ば以降に薩摩国となっています。
古事記が712年、日本書紀が720年に出来ていることを考えれば、用心深く言えば南九州となります。
しかし、記紀に出てくる阿多が薩摩半島南部を指しているので、まぁ鹿児島でしょう。
日向国は以前は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀に書いていることは海幸が隼人の祖だったり
薩摩の古名である阿多(吾田)が名前につく人が何人も出てきたりしている
ということで宮内庁は日向三代の墓を全て鹿児島県内に治定した
しかし宮崎の学者は古事記が712年、日本書紀が720年に出来た時もう分立していたと
イチャモンをつけ宮崎の古墳を参考地としてねじ込んだ
しかし古事記には竺紫日向と書いているので
宮崎の学者の言うことは筑紫は九州の意味日向は国名でダブルスタンダードと言える
しかも薩摩国は分立した当初は唱更国その後薩麻国となり薩摩国に定着したのは8世紀半ば以降
おまけにその後宮崎の学者が参考地にねじ込んだ古墳は5世紀前半の新しいものとわかったとさ
ついでに言うと国産み神話で筑紫島(九州)には
筑紫国(福岡)豊国(北九州大分)肥国(熊本佐賀長崎)熊曾国(熊本南部鹿児島)の4つがあるとされ
宮崎は忘れさられていた
宮崎の勘違いで面白いのは地名間違い
「木花咲耶姫」「五瀬」「吾田」の読みがわからなくて
「きばな」「ごかせ」「あがた」という地名を付けてしまう
これは昔から伝わっていたのではなく書物で見ただけで後付けした証拠
他にも宮崎には証拠は津波で流れたとか大友宗麟に焼かれたとか
どこかの国と同じようなことをいう
さすが神話「だけ」の国 >>547
地名の類似に人の移動は関係があると思うけど、神武東征の時代とは思えないね。
神武がヤマトへ入った頃、すでに多くの住民がおり、「クニ」があったらしいことが
書かれている。奈良盆地の弥生遺跡から見れば、弥生中期にはかなりの人口が
あった。 遺跡データベース
弥生時代 建物(竪穴式建物、掘立柱建物等)
奈良県 128件
福岡県 1076件 >>562
奈良は住居跡が出てこないんだよなあ。
奈良だけじゃなくて後期は近畿全体がそうらしいけどさ。
墓ばっかり出てくると言われているらしいよ。
幽霊の墓でも作ってるのかねw >>561
日本書紀には、神武東征の前に饒速日命がやって来ていたと書かれている。
饒速日命の子孫は物部氏。その物部氏の歴史書と言われる先代旧事本紀には、
饒速日命は東征してきて、最初は生駒山地の西側に居住、その後、
奈良盆地に移ったとなっている。
この移動と庄内式土器の分布に関連があるように思える。
これと地名の移動を関連付けるならば、むしろ饒速日命の出身地が
安本氏の言う甘木付近ということも考えられる。 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
『新唐書』日本伝
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書) 記紀の「クシフル」伝説は韓国伝説の剽窃か
http://ameblo.jp/kujitsutomu/entry-11617714587.html
記紀など倭国の「クシフル」伝説が、韓国の「亀旨(クジボン)」伝説の剽窃、
あるいは焼き直しであろうことは、その類似した内容をみれば理解できる。その
伝説の解説を試みれば、以下のようになる。
(中略)
ちなみに、『三国史記』の「金官加羅」は「金官伽耶」と同じ国家を表し、単に
「加羅」とも「伽耶」とも表記する。駕洛国ともいった。さらに韓国語の「クシ
フル」は「クソウル」からきており、クは大きい、ソウルは朝鮮を意味し、「クシ
フル」は朝鮮の美称であるという説もある。 前から思っているんだけど
北部九州東遷説の人って北部九州から直接畿内への東遷し、ヤマト王権を樹立じゃないと納得できないの?
私は、畿内の前に東四国の阿波国辺りに一旦腰をすえてさらに文化を高めて
その後、畿内へ文化移転をしたんじゃないかと思っているんだけど
たまたま、魏志倭人伝に書かれた時代が阿波国にいた卑弥呼の時代だったというだけのこと
みんな同じ日本人だよ 西から東へ文化の中心が移動しただけのことだろ 大和王権と邪馬台国は何の関係もない。
朝鮮半島の韓国が九州北部に天下って、九州南部は手強いから、まず畿内に東遷して
その後、熊襲や土蜘蛛と言われる倭国を征服したというのが真相だろう。 アホか!w
半島勢力が日本にはいって、大暴れした大事件なら、日漢鮮どれかの歴史書に載っているはずだぞ。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先にwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先にwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前から弥生人が来てたのか。
ちなみに、縄文人も朝鮮半島経由です。 >>575
間違いです。縄文人は@黒潮に乗ってやって来たポリネシア人、ミクロネシア
人、Aカムチャッカや沿海州からやって来たアイヌ人、ギリヤーク人、B朝鮮
半島経由でやって来たモンゴル人などの混血です。その中でも半島経由は少数
派とされています。アマテラス(海を照らす)やワダツミの神を祀る神社が現代
でも多いのは、南海系の人が多かった証しです。 『アフリカで誕生した人類が日本人になるまで』溝口優司(国立科学博物館人類研究部長)2011
日本人の成り立ちについての3つの仮説(P173)
縄文人と弥生人の関係については、これまでに大きく分けて3つの仮説が唱えられてきま
した。「置換説」「混血説」「変形説」です。
(中略)
では、今はどうかというと、「置換に近い混血説」が主流です。(中略)
その後、侃々諤々の議論が繰り広げられましたが、今では「大陸から渡来した弥生人が、
もともと日本に住んでいた縄文人と混血しながら広がっていき、かなり置き換わったのに
近い状態になった」と考える人が多いのです。
私が行った、頭蓋の7つの計測項目による多変量の距離分析でも、西日本の古墳時代人は
弥生人に似ているけれども、東日本の古墳時代人は縄文人と弥生人に同程度に似ていると
いう結果が出ています。 日本人の起源 〜遺伝学電子博物館
http://www.nig.ac.jp/museum/evolution/02_e.html
特に、韓国人と本土日本人の二集団間の遺伝距離はゼロであった。やはりこの分析で
も、韓国人と本土日本人は遺伝的にきわめて近縁な関係にあることが明らかとなった
のである。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_26_02.gif
つぎに、集団間で求めた遺伝距離をもとに集団の系統樹を作成した(図26)。この系
統樹では、アフリカ人が他の人類集団に先がけて分岐し、続いてヨーロッパ人が分か
れ、さらにアメリカ先住民が分岐している。最後に、東アジアの五集団が単一系統
のクラスターを形成して枝分かれしてくる。東アジア人のクラスターでは、アイヌ
が最初に分岐し、続いて中国人が枝分かれしてきたことが読み取れる。続いて琉球人
が枝分かれし、最後に韓国人と日本人が緊密なグループとして分岐してくる。
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2014/05/21/dna.jpg すいませーん。ここは邪馬台国東遷説スレですよ。スレタイに沿ったカキコを
して下さい。日本人の遺伝子がどうのという話題は、そういうスレを作ってね。 古代史シンポジウム「発見・検証 日本の古代」
http://www.kadokawa-zaidan.or.jp/news/2015/03/000297.php
大盛況だったそうな。九州人の古代史熱は健在だな。
寺澤 薫氏は、出土遺物の特性や墓制などから畿内勢力の発展ではなく、
北部九州や吉備勢力などの移動により誕生したと述べた。
そして、107年、後漢に朝貢した倭国王帥升を伊都国王であるとして
伊都国を盟主とした「イト倭国」の存在を提唱し、
延長上に新たな倭国が誕生したと述べ、卑弥呼共立の様相を推測した。
石野博信氏が、銅鏡副葬など平原王墓と纒向の前期古墳の共通を述べ、
伊都国からヤマト王権への習俗の連続を述べたが、
今回の寺澤 薫氏の説はそれを補完したかたちとなっている。
東遷説の復活だな。 日本人の起源 〜遺伝学電子博物館
http://www.nig.ac.jp/museum/evolution/02_e.html
特に、韓国人と本土日本人の二集団間の遺伝距離はゼロであった。やはりこの分析で
も、韓国人と本土日本人は遺伝的にきわめて近縁な関係にあることが明らかとなった
のである。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_26_02.gif
つぎに、集団間で求めた遺伝距離をもとに集団の系統樹を作成した(図26)。この系
統樹では、アフリカ人が他の人類集団に先がけて分岐し、続いてヨーロッパ人が分か
れ、さらにアメリカ先住民が分岐している。最後に、東アジアの五集団が単一系統
のクラスターを形成して枝分かれしてくる。東アジア人のクラスターでは、アイヌ
が最初に分岐し、続いて中国人が枝分かれしてきたことが読み取れる。続いて琉球人
が枝分かれし、最後に韓国人と日本人が緊密なグループとして分岐してくる。
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2014/05/21/dna.jpg
http://www.kahaku.go.jp/research/department/anthropology/report02/s-IshidaFig1.jpg 古代史シンポジウム「発見・検証 日本の古代」
桜井市纒向学研究センターが東遷と言ってるぞ。 卑弥呼以前の段階で九州から畿内方面に人が来た
ことを否定するやつはほとんどいないだろ 問題は邪馬台国の東遷という話で
これは明らかな捻じ曲げ 断続的に九州から畿内へ、人の移動があったのだろうね。
もちろん他の地方からもね。
特に奈良は弥生時代から古墳時代前期は、非常に人口の少ない
空白地帯だったから、開拓に入ってきた人も多かったでしょう。 大陸・半島から九州へ
九州からは当然人が押し出されて他地域に 日本の中心地の変遷 西→東へ
北部九州→四国の東部(卑弥呼の時代)→畿内
これは当時の古代人の文化・価値観による必然的な移動でしょう
その後の歴史も変遷が続いています >>583
畿内説が伊都国東遷説に傾くというのはだいたい予想できた。
NHKの番組に、寺澤薫と柳田康雄が一緒に出てきたというのは、
伊都国東遷説になる考えるのが自然。
九州の勢力の東遷は考古学的にありえないと主張してきたのに
手のひらを返すようにこういうことを言い出す。
畿内説ってのは本当に節操がない。
しばらくすると、ローガンみたいなのが出てきて、畿内説は
ずっと前からこういう考え方だったと言い出すんだろうな。 畿内説のほとんどは帥升が九州の王だという考えだろう
とすれば伊都国が東遷して畿内邪馬台国になったというのは昔からあって
纏向が2世紀末頃から邪馬台国として始まったという話だろ 纏向の畿内自生説というのは様々な点から難しい
とすればこれは自然な考え方で
伊都国東遷もあれば吉備東遷もある 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
『新唐書』日本伝
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書) 邪馬台国の途中、卑弥呼から台与の間に東遷があったという説が不自然すぎる >>594
出た、昔からあったのローガン。ローガンもどきか。 >>598
馬鹿か
昔からあった纏向スレはずっとこのテーマだ 日本人の起源 〜遺伝学電子博物館
http://www.nig.ac.jp/museum/evolution/02_e.html
特に、韓国人と本土日本人の二集団間の遺伝距離はゼロであった。やはりこの分析で
も、韓国人と本土日本人は遺伝的にきわめて近縁な関係にあることが明らかとなった
のである。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_26_02.gif
つぎに、集団間で求めた遺伝距離をもとに集団の系統樹を作成した(図26)。この系
統樹では、アフリカ人が他の人類集団に先がけて分岐し、続いてヨーロッパ人が分か
れ、さらにアメリカ先住民が分岐している。最後に、東アジアの五集団が単一系統
のクラスターを形成して枝分かれしてくる。東アジア人のクラスターでは、アイヌ
が最初に分岐し、続いて中国人が枝分かれしてきたことが読み取れる。続いて琉球人
が枝分かれし、最後に韓国人と日本人が緊密なグループとして分岐してくる。
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2014/05/21/dna.jpg
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