♪邪馬台国東遷説 その15 [転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国研究の本道「東遷説」臨死体験後復活♪
汝らに平安あれ た嫌儲の邪馬台国スレから参りました
なぜ畿内派の方は『すでに畿内で確定だから』『識者の9割は畿内派だから』などの一言でレスで片付けちゃう人が多いのでしょうか?
ここのような専門板ではなく、広く浅い雑談2カテゴリーの嫌儲(ニュース速報嫌儲)でそういう態度をされるとあれこれ議論にならず会話がつまらないのと、
さもそれが正しいかのような印象操作にがっかりします
畿内派スレに書くべきだと思うのですがお許しください 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり あのよ。プラントオパールは微細すぎて、土粒の隙間を通って下にしみこみ、不透層でとまるわけよ。だから全くあてにならないわけよ。 倭王朝は、百済王朝を援け、新羅を討伐するため三万余の大軍を朝鮮半島に送りましたが、唐・新羅連合軍のために壊滅させられる大惨敗を喫したのです。このため倭王朝に対する国民の信頼は一挙に喪失し、国民の深い恨みと強い怒りだけが残ったのです。
唐朝は、日本を代表するのは九州筑紫に都を置く倭王朝と見ていました。朝鮮半島に軍を送ったのは倭王朝です。七世紀の後半になっても、日本列島には統一王朝は成立していなかったのです。近畿大和王朝は、倭王朝より格下でした。
倭王朝の朝鮮出兵の惨敗が、近畿大和王朝と倭王朝の立場を逆転させたのです。
http://www.snsi.jp/bbs/page/1/ 唐軍が倭国九州に上陸したため、倭国は畿内に遷都を画策して壬申の乱を起こして
畿内を攻略(672年)。徐々に首都機能移転とおもっていたところに、九州倭国で
大地震が起こってしまった(679年)。そのため、移転を急いだ。
移転前の国家伝承を公的に残すために、記紀を編纂させた。九州倭国で作られた
万葉集は、畿内移転後に再編された。 ↑が九州説の最終弁論であった
そして判決公判で九州説の死刑が宣告されたのである 続日本紀の記載
文武二年(698年) 九月乙酉(廿八)○乙酉。
伊勢国朱沙・雄黄。
常陸国。備前。伊予。日向四国朱沙。
安芸・長門二国金青・緑青。
豊後国真朱。
日向(宮崎)から朱沙
豊後(大分)から真朱(辰砂)
がそれぞれ献上されている
西日本の丹朱文化は九州発祥である点
縄文時代から丹は使われていた点
そもそも同時期に日本複数地域で丹山採掘技術が存在していた点
丹山(水銀鉱山)の露頭は朱沙として見つけやすい点
以上から
北部九州に丹山があったのは間違いないだろう >>649-651
ヒナは「鄙・夷」で辺境のこと、ヒナモリは辺境防衛のこと。
一大率から派遣された武官だろう。
卑狗とかの長官が行政官で、卑奴母離は副官=武官。
中国風にいうと太守(長史)と都尉(司馬)みたいな関係。
格式の上下があるから副官と書いてるけど
一大率から派遣されてるなら指令系統は別だろうな
日本書紀にでてくる派遣軍はだいたい将軍が複数で一人は文官(監督官)
昔から文官と武官をわけて権力を集中させない仕組みでやってる >>662 理由もなく「間違いないだろう」ってアホじゃね? 畿内説スレで暴れてる阿呆のせいで東遷説全体がキチガイ集団に見られてる 弥生時代に稲作があったところから、戦国時代の呉が越によって滅ぼされ、
呉の貴族・軍隊・国民が日本に逃げてきたと考える方が自然だ。
場所も奴国、今の博多。後漢に使節を送った国だ。
邪馬台国は奴国と対立する勢力だから、魏の使節は船で博多に来ていない。
唐津から有明海を通って邪馬台国に行っている。 >>669
Y遺伝子をみたら、それが
いかにトンデモ説なのか、よく分かる。 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 大げさに言うと
世界中が敵
この意味が、わからないのかな どこの世界中?
政治家とか企業とかそんなレベルの話かな? >>674
だから朝鮮人なのか?と聞いているんだよ 日本は好かれている
このような捏造は、いくらでも出来るんだよ 観光誘致目的で遺跡なんか発掘してそれが気にいらないとか?
あとは海外のやつらをバカにしたような商品作るとか?
それを出してるやつらもそれがヒットしないと死んじゃうんだよ
別に死んでもいいんだけどさ 債権やらヤクザやらあとは怖い人たちが自分らの金や命を狙ってやってくるんだよね〜
防衛策はほんとザルだからなwww だから半島人なのか?聞いているんだよw
元々、半島に住んでいた人?
という意味 どこの半島?
ずいぶんお角違いの質問してくるんだねwww 本当に頭が悪そうだな
誰と間違えているのか、わからないけど、
モレ(仮)は東北に住んでいた者だよ あなたは40代ロサンゼルス府警新聞作りですか?ドーハの悲劇「中国衝撃イヤフォン」「中国悪夢イヤフォン」ですか?
それともいくつですか?
それともいくつですか?
それともいくつですか? wikipedia見てたら東遷説とは微妙に似ててちょい違うものとして
「二王並立説」って昔あったみたいなんだが。
これ日本史板的にはどういう感じなのかね。
東遷説よりはマシ?東遷説以下? 二王並立説には賛成しないが
ある時期の政権内部が二大派閥に分かれて
争ったというなら、あり得ると思う。 倭国大乱は、中世の南北朝の動乱と一緒で
王家が二つに割れて王位継承争いをした事件。
それは、皇室系図で言う欠史八代の時期で、
これは現在の天皇家にとって隠したい事件でもある。
倭国大乱の王家二つとは
まず、正式な倭王だったのはホアカリの後胤たちで、これは後に名古屋へ落ち延びて
熱田社の尾張氏になる。
出雲国譲りさせた時の高天の正式な倭王はホアカリで
彼は天つ神と国つ神の両方を統合したので、天照国照彦と呼ばれた。
もう一方は、ホアカリの弟のニニギの後胤で、この系統は
当初は九州南部の地方官として働いていたのが、
ニニギの曽孫のワカミケヌ(神武)の代に再び畿内に戻り
最終的には一族のモモソ媛命(卑弥呼)を立てて、正当な倭王を独占する。
これが現在の天皇家。 皇位継承争いなんて記紀にはいくらでも載ってるじゃねぇかよ
べつにことさら隠したいものじゃないだろw
卑弥呼と卑弥弓呼の争いも、
記紀にでてくる数多くの皇位争いの中のどれかに該当するんだろう。
数多くの皇位争いの一つにすぎない 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>691
皇位継承争いなんて、いくつでもあるけど
最初の皇位継承争いは、万世一系を主張する皇室の主張が微妙に揺らぐ可能性があるので
皇室としては隠したいんだよ。
おそらく、現在のヤマト朝廷の前身は、出雲国譲りの時に誕生したのであろう。
当然、それならば、その時に最初の天皇として認めても良い倭王が誕生したはずだ。
しかしながら、そのへんは記紀では神話として事実が薄められ
事実上、闇に葬られ、皇室の祖先は何故か、天孫降臨として
九州南部に左遷されているのだ。
つまりだな、出雲国譲りの時に誕生したはずの真の初代天皇(倭王)は
現在の天皇家の男系の直系の先祖ではないのだ。
よって、その人物を初代天皇として祭り上げると
現在の天皇家に正統性に疑問符がつくというわけ。 >>694
勝手な憶測を積み重ねてるだけだね
「隠したい」ってのは奈良時代の政府がか?
神武に敵対した長脛だって饒速日を担いでたって書いてるし
綏靖もタギシミミと殺し合ってる。隠してないじゃん
「実は直系ではなかった」とかいうけど
記紀編纂の結果できた系譜だってジグザグで直系にはなってないのに何いってんだ
ぜんぜん隠してないやん 大昔の「二朝並立説」って
九州の女王国と畿内の邪馬台国が別々になったって説みたいだな↓
久米雅雄は「二王朝並立論」を提唱し、
「自郡至女王国萬二千餘里」の「筑紫女王国(主都)」と
「海路三十日」(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」
してたどり着く)の「畿内邪馬台国(副都)」とを想定し
両者は別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が
「倭国大乱」を通じて畿内に主都を遷した(東遷した)のであるとした[24]。
また大和岩雄も、九州にあった女王国とは「畿内をも含む倭国全体の首都」
であって、女王壹與の代になってから畿内の邪馬台国へ東遷したが、
それは倭国の勢力圏の内部での移動にすぎないとした
(ただし神武東征や天孫降臨などの神話と関係づけることはしていない)。 >>696
東遷の時期が久米雅雄と大和岩雄でちがう。
久米雅雄は倭国大乱の時に東遷
大和岩雄は台与が即位してから東遷(266年の朝貢はすでに東遷後) 国宝海部氏系図の本が出版されているけど
著者の結論が
どうも、大和朝廷の創世記は、倭国の王政は
祭祀を行う祭祀王と政治を行う世俗王の二頭体制で
それに即位できる二つの王統があって、
両者はホアカリとニニギの兄弟から別れた家系だった。
前者が熱田社の尾張氏の先祖、後者が現在の天皇家の先祖だった。
そして、その場合、おそらく、形式上の真の倭王は前者のほうだったはずだけど
実際に権力を握っていたのは後者だったけど
いわゆる欠史八代の時期に、前者は後者によって畿内から追放されましたと。
そのあたりの系図に卑弥呼と噂される箸墓古墳の被葬者もいる。 ホアカリ=ニギハヤヒ同一説を前提に何か言うやつは
9割ぐらい基地外の電波説 >>698
父系での継承でしか考えられないところがまぬけ
隋書の段階でも九州の王家は異父同母を基調とした兄弟姉妹の三王体制だろ
「天王日月」銘の鏡のもてはやされるのもここにある >>700
国宝海部氏系図についての著者は
ニギハヤヒとホアカリは別だろうという結論だぞ。
丹波籠神社の宮司の海部さんも、ホアカリとニギハヤヒは別だろうという考え。
ただし、物部氏が同じだと主張していただけ。
新撰姓氏録でも、両者は別だという前提だしな。 >>701
九州の王家とかそんな説はないってw
皇室の祖先も畿内発祥だけど、
ニニギから三代ほど九州南部の統治をまさかされて
赴任していただけだからw
ニギハヤヒに関しては、ホアカリの櫛玉(形見)命ということで
おそらく、ホアカリの御落胤だと主張して、一時期
クーデター起こしただけだろうと思う。
だからこそ、皇室や尾張氏は、ニギハヤヒとホアカリは別だとし
物部氏は、ニギハヤヒとホアカリは同じだと主張していた。
ちなみに、Y染色体の研究が盛んで、物部氏の子孫だと自称している人たちを複数調べたら
皇室も物部氏も一応、旧石器時代からのD系統の遺伝子だったけど
両者の分岐はおそらく1万年以上前だから、
ニギハヤヒやホアカリやニニギが実在していたとしても、せいぜい2000年前だから
ニギハヤヒとホアカリは別だったんだろうな。 >>703
おまえさんも十分にファンタジー系の人だよ >>696
「二朝並立なんだけど東遷してはいない」
↑これならどうかと思うんだが。
九州の女王国は最初から一貫して畿内の邪馬台国の支配下の一国にすぎない
伊都国に「世々王あるも」とあるがその王が「伊都国に治す」とは書いてない
女王国にいたのがこの邪馬台国に統属していた伊都国王なのではないか
つまり伊都国王=女王国王 「勝手に」じゃないよ
女王国が女國になってる例や奴国が女国になってる例はある(どっちも誤記)
まぁ「邪馬台国はなかった」系の信者に言っても無駄だろうけどw そもそも邪馬台国がなかったとか言っちゃうのって場所を議論する以前の問題だから相当やばいと思うんだけど >>709
でも古田ブームの頃は大量に湧いたし、今でも生き残りがこの板にいるだろ ↑邪馬台国じゃなくてあえて「邪馬壹国」って書いてるキチのことだろw 古田ブームだか何だか知らないけど
その古田という人物より、家の祖母のほうが詳しいような?
年齢も上だし >>713-715
なにがなんでも古田の話はしてほしくないようだなw 中国の歴史書で、単なる水行は河川交通で、それが海上交通を意味する例は1つもありません。
海を行くときは、必ず文には「海」と明示します。
これで、九州であることが明らかな不弥国から南へ河川交通を利用してたどり着く邪馬台国は、
九州島内であることは明らかです。
★畿内説論者が、海を水行する例として出てきた文
>沢散王属大秦、其治在海中央。北至驢分、水行半歳、風疾時一月到。最与安息安谷城相近。(魏志注魏略西域)
「海」の明示あり
>赤土国、扶南之別種也。在南海中、水行百余日而達所都。土色多赤、因以為号。(隋書南蛮)
「海」あり
>流求国、居海島之中,当建安郡東、水行五日而至。(隋書東夷)
「海」の明示あり
>注輦国東距海五里、西至天竺千五百里、南至羅蘭二千五百里、北至頓田三千里。
>自古不通中国、水行至広州約四十一万一千四百里。(宋史外国)
>(※数字からして明らかに海)
「海」の明示あり
>佛逝国東水行四五日、至訶陵国。(新唐諸蛮)
>(※シュリヴィジャヤから東なので当然ながら海)
これだけないように省いてるけど、実は、
「又五日行至海z、蕃人謂之質、南北百里、北岸則羅越国、南岸則佛逝国、佛逝国東水行四五日」で、
「海」の明示あり >>697
安本の説だと、台与よりもっと後になって東遷だよな? お前ら、ごちゃごちゃ言ってるうちに、満州本の売り上げがここへ来て急上昇してるぞ。
amazonランキング古代史部門の13位だ。早く買わないと初版本が無くなってしまうぞ。
( * ̄▽ ̄)σレッツクリック!http://ecx.images-amazon.com/images/I/415rVDKlphL._SX351_BO1,204,203,200_.jpg 皇室の祖先もアフリカ発祥なんだけど
いつ畿内に来たのって話だろうな >>721
そう、だから東遷説にも何種類もあるのだよ
東遷の時期の範囲を不明にすれば
畿内説だって九州説だって東遷説の一種になってしまう
つまり、東遷した時期をある特定の時期の範囲の中に設定する説が「東遷説」なのであり
遅すぎるとありきたりの九州説になってしまい
早すぎるとごくふつうの畿内説になってしまう >>695
>
> 「実は直系ではなかった」とかいうけど
> 記紀編纂の結果できた系譜だってジグザグで直系にはなってないのに何いってんだ
> ぜんぜん隠してないやん
たとえ直系でなくても、始祖王の血縁者ならOKではあったんだろうなあ。 >>722
邪馬台国東遷説ではなく、クナ国東遷説というのもある。 倭国東遷と言うか近畿武力攻撃はあって
淡路島と難波占領はあった 東遷中の食料調達はどうしていたのでしょう、略奪しながら?
東遷の人数はどれくらい、500人くらいか50人くらいか?
男ばっかりだったのか、家族で移動したのか
期間は数ヶ月だったのか数年だったのか
わからないこと多し
東遷というより東への逃亡だった可能性は >>726
こまけーことはいいんだよ!
「東遷はあった」
これが大事 >>726
> 東遷というより東への逃亡だった可能性は
可能性はある。
阿蘇山が大噴火して九州の農業が大ダメージを追ったので東遷したとか
中国の勢力が朝鮮半島に及んできたので先手を打って逃げるために東遷したとか。 今のところそんな大噴火は無い。それは確定。
やはり人口圧力じゃ無いだろうか。ミニ氷河期で世界的に戦争や飢餓、
民族の移動が起こっていたからね。
それでも当時の「クニ」の力や領域を考えると、肥沃な土地と中華から
の印綬と外交史、文化の窓口などを放棄してまで都を移すという賭けは
考えられない。何も無いに等しい中央アジアからの大移動を遷都とは言
いがたいのと同じで、本拠からの派遣軍で、それが時代を下る毎に強力
な遠征軍になっていったと考えるのが自然。神武史は変に詳細で、また
栄光の初代の割によれよれだから、嘘とは思えない。と同時に、あれを
東に遷都する使命を担った強力な遠征軍とはまったく思えないw 神武軍が小規模というのは同意。
遺跡地図が公開されている自治体があるが
その高密度の遺跡数から見て、
人口の限界に達していたと思う。
そういう勢力の一部が各地に移住開拓しており、
神武もその一つだろう。 小規模でないと食料を得られない
長期移動だから、宿営地で得ないといけないが、くれるところなど無いから略奪
日向を出ると関西まで言葉も通じないから、お願いも無理
オス猿は群れを離れて数年間放浪するらしい
天候不順の年にあぶれた次男坊以下がなかば追い出され
途中でグループを組んで始まったのが東遷でないかな 神武記のあっちふらふらこっちふらふらは、自分で屯田しながらは流石に
無理があるっぽい。
三種の神器振りかざして、客人として田んぼ耕したり魚取ったりしながら
やんわり追い出されてきたんだと思う。瀬戸内は既に先進開発地域で、そ
んな広大な未開地は無かったっぽいからね。奈良盆地、続いて大阪平野が
形成されたのはその後だが、弥生水稲耕作の先進地域の神武一行にとって
は、低湿地も垂涎の土地だったんだろう。 あほか
そんな頼りない集団が3〜4世紀のあたりにふらふら畿内にやってきて
畿内を征服できるわけないだろ 4兄弟のうち3人失う敗戦で、これではとても「鉄器で優勢に戦いを進めた」とは
言いがたい。最大勢力をだまし討ちにしたり、本当に軍としてどれだけの能力があ
ったのか判然としがたい。ニギハヤヒ=長髄彦から王権を奪取できたのかどうかも
判じがたく、ウマシマジから覇者の位を譲られたと言ってもその盟約の内容は謂わ
ば安保条約下の日本のようで、本当に主権独立した王とは考えがたい。依然物部王
朝は続いていたのでは無いか?
でも、ふらふらは実際残された記録だからしょうが無いよね。あれほど改ざん捏造
の嵐の、そのために他の書物をほとんど焚書してまでした書紀で、この記録が残さ
れた意味は限りなく重いと思うね。 漢委奴国王印が九州にあったことから見て、当初は九州北部が倭の中心地だったろうけど、
そのあと時代がたつにつれて、人口の多い畿内に権力が移ったということでいいんじゃないかな。
なにしろ大阪のあたりはその後、巨大古墳を多数作れるほどの人口があったんだから。
九州の人口ではどうしてもかなわなくなってしまう。 >>737
むしろ、九州の人口が増えすぎて、
農地が確保できる地方に出て行った
のではないかと思います。
大きい古墳が作れるくらい
土地が余っている地域ですから
まさに新天地でしょう。 まー、そーゆーことよ
喰いっぱぐれがあちこち頼って西へ東へ、んで、転がり込んだ先の奈良県大田舎村で運よく大成功な >>737
倭による朝鮮半島への進出は、366年に百済と同盟してから663年の白村江での唐・新羅との戦いを経て668年の高句麗の滅亡までの303年間で、政治・軍事・外交面で朝鮮半島に関わった年次は81回にも及ぶ。
これは4年に1回の割合でほとんど300年の間、連続的に起こっており、また倭は万余の大軍を朝鮮半島に送り続けたことが記録されている。
倭は朝鮮半島へ永年兵を送り続けたんだからな。 >>741
それって倭は朝鮮半島にあったからだよ。 済州島の人々が古来勝手に日本と交流してきたために、時々の政権から弾圧を
受けてきたのは有名な話。ために古来慰安婦として奴隷労働を強制され続け、
近くは戦後すぐの済州島大虐殺を起こされた。沖縄戦でうしろからうたれたど
ころの話じゃ無い、日本からの解放後に韓国軍が起こした虐殺なのである。
未だに残ってると言うことなら、古代においては相当数存在した民族だったの
は間違いなかろう。半島南部から北部九州にかけては気候も植生も似ており、
かつ戦後でも空気のきれいな時代は対馬から南端が見えたと言うぐらいの近距
離だから、海の民にとっては指呼の間だっただろう。
半島利権と言うより、同じエリアの兄弟国そのものだったんだろうね。
だから、突然近畿まで飛ぶなんて相当不自然で、無理ありすぎ。出土品や遣唐
使等の記録からも、優秀な水上移動能力はなかったわけだし。 対馬どころか九州からでも半島がうっすら見えたらしいね 宮崎に邪馬台国があり、奈良にもそれなりの国があった。
宮崎にいた神武が奈良を侵略して、大邪馬台国と名乗った。
後に大邪馬台国が大和国になった。それだけのことではないの? そこで問題になるのが、
1首都をそんな簡単に手放せるものなのか
2国際情勢へのコミットメントの問題
3残された元首都をどうするのか
4半島戦争をどうするのか
首都ならそれなりの設備、建造物、歴史、外交、中央官庁などがある。
それを、奈良から長岡、京都へ移すのとは政権の強力さが違う。国内生産力を
完全に一元的に支配収奪できるからどこでもいいってことであって。それでも
せいぜい奈良→京都でしかなく、そんな強大な統一政権などない弥生に首都の
移動など、賭けにしても無理がありすぎる。生産力が下がったと言うより、人
口増加圧力の方が問題では無かったか。沃野千里を捨てるのか?
また、鉄利権は東へと延び、その力で弥生末には各地に独立王国と呼べる規模
の国が生まれつつあった。それよりずっと後も半島出兵する動機は何か?距離
と同一民族、それに始祖の土地というくらいしか考えられない。やはり首都は
九州に存続したと考えたい。
確かに民俗的特質は畿内人=古弥生(朝鮮)人を支持している。だがそれは、
時代の節目毎に数度に及ぶ軍事行動では無かっただろうか。それが神武、崇神、
応神に対応していたのでは無いか。応神は、神功と死後宇佐に合祀もされている。
古くに首都が移っていたとしたら、なぜそんなことをする必要があるのか。
九州の首都は、国際情勢へのコミットと、始祖の土地へのこだわり、東からの
圧力に抗して、ボロボロになるまで中華の叙任にしがみついたのである。 同時並行で、各地にも弥生人が次々に植民していった。何故奈良・大阪だけが
巨大王国を築いたのかは不明だが、単に耕作地が巨大と言うだけではなく、
(水耕可能面積だけなら他にも広い土地はあった)、「弥生の北九州勢力」=
天孫族が集中的に植民し、軍事的にも増強していたからだというのが最も合理
的な説明では無いだろうか。それまで存在していた銅鐸文化圏との覇権争いと
いうのもあったろう。高地性集落に銅鐸は埋納もしくは損壊放棄され、降伏し
たのであろう。ニギハヤヒが平和裏に長髄彦と結んだ方法から、神武のような
戦闘、更に既存勢力を一掃する勢いの巨大古墳=応神王朝へと侵略的色彩が次
第に強まっていった。もしかすると巨大古墳とは抵抗の激しかった村をそのま
ま埋めたのかも知れない。耕作地が限られているのにあんな墓を作る動機がわ
からない。 衣食住が満足できるようになると段々気候が安定するところへ移動していく。
裸の生活: 最初は熱帯亜熱帯に人が増える
衣を着、住居ができる: 亜熱帯、温帯地方に移動 九州
衣住が安定し人が増え始めると食を求めて台風や火山の被害の少ない地に移動する。 大和 > 江戸 >>747 人が住んでいないところに作ったから無問題 当時は大阪は海だったから、結構狭いよ。限られた耕作地なのに、
なんであんな巨大な墓がいるのか。
まあ、巨大化はむしろ遅れた文化というケースもあるけどね。 大阪の巨大古墳は、墓の役目と他国人に見せて
威嚇するためのものという説があった。 それはあるかもね。
瀬戸内周辺の巨大古墳は海から見えるところが多かったりするから。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています