♪邪馬台国東遷説 その15 [転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国研究の本道「東遷説」臨死体験後復活♪
汝らに平安あれ >>695
>
> 「実は直系ではなかった」とかいうけど
> 記紀編纂の結果できた系譜だってジグザグで直系にはなってないのに何いってんだ
> ぜんぜん隠してないやん
たとえ直系でなくても、始祖王の血縁者ならOKではあったんだろうなあ。 >>722
邪馬台国東遷説ではなく、クナ国東遷説というのもある。 倭国東遷と言うか近畿武力攻撃はあって
淡路島と難波占領はあった 東遷中の食料調達はどうしていたのでしょう、略奪しながら?
東遷の人数はどれくらい、500人くらいか50人くらいか?
男ばっかりだったのか、家族で移動したのか
期間は数ヶ月だったのか数年だったのか
わからないこと多し
東遷というより東への逃亡だった可能性は >>726
こまけーことはいいんだよ!
「東遷はあった」
これが大事 >>726
> 東遷というより東への逃亡だった可能性は
可能性はある。
阿蘇山が大噴火して九州の農業が大ダメージを追ったので東遷したとか
中国の勢力が朝鮮半島に及んできたので先手を打って逃げるために東遷したとか。 今のところそんな大噴火は無い。それは確定。
やはり人口圧力じゃ無いだろうか。ミニ氷河期で世界的に戦争や飢餓、
民族の移動が起こっていたからね。
それでも当時の「クニ」の力や領域を考えると、肥沃な土地と中華から
の印綬と外交史、文化の窓口などを放棄してまで都を移すという賭けは
考えられない。何も無いに等しい中央アジアからの大移動を遷都とは言
いがたいのと同じで、本拠からの派遣軍で、それが時代を下る毎に強力
な遠征軍になっていったと考えるのが自然。神武史は変に詳細で、また
栄光の初代の割によれよれだから、嘘とは思えない。と同時に、あれを
東に遷都する使命を担った強力な遠征軍とはまったく思えないw 神武軍が小規模というのは同意。
遺跡地図が公開されている自治体があるが
その高密度の遺跡数から見て、
人口の限界に達していたと思う。
そういう勢力の一部が各地に移住開拓しており、
神武もその一つだろう。 小規模でないと食料を得られない
長期移動だから、宿営地で得ないといけないが、くれるところなど無いから略奪
日向を出ると関西まで言葉も通じないから、お願いも無理
オス猿は群れを離れて数年間放浪するらしい
天候不順の年にあぶれた次男坊以下がなかば追い出され
途中でグループを組んで始まったのが東遷でないかな 神武記のあっちふらふらこっちふらふらは、自分で屯田しながらは流石に
無理があるっぽい。
三種の神器振りかざして、客人として田んぼ耕したり魚取ったりしながら
やんわり追い出されてきたんだと思う。瀬戸内は既に先進開発地域で、そ
んな広大な未開地は無かったっぽいからね。奈良盆地、続いて大阪平野が
形成されたのはその後だが、弥生水稲耕作の先進地域の神武一行にとって
は、低湿地も垂涎の土地だったんだろう。 あほか
そんな頼りない集団が3〜4世紀のあたりにふらふら畿内にやってきて
畿内を征服できるわけないだろ 4兄弟のうち3人失う敗戦で、これではとても「鉄器で優勢に戦いを進めた」とは
言いがたい。最大勢力をだまし討ちにしたり、本当に軍としてどれだけの能力があ
ったのか判然としがたい。ニギハヤヒ=長髄彦から王権を奪取できたのかどうかも
判じがたく、ウマシマジから覇者の位を譲られたと言ってもその盟約の内容は謂わ
ば安保条約下の日本のようで、本当に主権独立した王とは考えがたい。依然物部王
朝は続いていたのでは無いか?
でも、ふらふらは実際残された記録だからしょうが無いよね。あれほど改ざん捏造
の嵐の、そのために他の書物をほとんど焚書してまでした書紀で、この記録が残さ
れた意味は限りなく重いと思うね。 漢委奴国王印が九州にあったことから見て、当初は九州北部が倭の中心地だったろうけど、
そのあと時代がたつにつれて、人口の多い畿内に権力が移ったということでいいんじゃないかな。
なにしろ大阪のあたりはその後、巨大古墳を多数作れるほどの人口があったんだから。
九州の人口ではどうしてもかなわなくなってしまう。 >>737
むしろ、九州の人口が増えすぎて、
農地が確保できる地方に出て行った
のではないかと思います。
大きい古墳が作れるくらい
土地が余っている地域ですから
まさに新天地でしょう。 まー、そーゆーことよ
喰いっぱぐれがあちこち頼って西へ東へ、んで、転がり込んだ先の奈良県大田舎村で運よく大成功な >>737
倭による朝鮮半島への進出は、366年に百済と同盟してから663年の白村江での唐・新羅との戦いを経て668年の高句麗の滅亡までの303年間で、政治・軍事・外交面で朝鮮半島に関わった年次は81回にも及ぶ。
これは4年に1回の割合でほとんど300年の間、連続的に起こっており、また倭は万余の大軍を朝鮮半島に送り続けたことが記録されている。
倭は朝鮮半島へ永年兵を送り続けたんだからな。 >>741
それって倭は朝鮮半島にあったからだよ。 済州島の人々が古来勝手に日本と交流してきたために、時々の政権から弾圧を
受けてきたのは有名な話。ために古来慰安婦として奴隷労働を強制され続け、
近くは戦後すぐの済州島大虐殺を起こされた。沖縄戦でうしろからうたれたど
ころの話じゃ無い、日本からの解放後に韓国軍が起こした虐殺なのである。
未だに残ってると言うことなら、古代においては相当数存在した民族だったの
は間違いなかろう。半島南部から北部九州にかけては気候も植生も似ており、
かつ戦後でも空気のきれいな時代は対馬から南端が見えたと言うぐらいの近距
離だから、海の民にとっては指呼の間だっただろう。
半島利権と言うより、同じエリアの兄弟国そのものだったんだろうね。
だから、突然近畿まで飛ぶなんて相当不自然で、無理ありすぎ。出土品や遣唐
使等の記録からも、優秀な水上移動能力はなかったわけだし。 対馬どころか九州からでも半島がうっすら見えたらしいね 宮崎に邪馬台国があり、奈良にもそれなりの国があった。
宮崎にいた神武が奈良を侵略して、大邪馬台国と名乗った。
後に大邪馬台国が大和国になった。それだけのことではないの? そこで問題になるのが、
1首都をそんな簡単に手放せるものなのか
2国際情勢へのコミットメントの問題
3残された元首都をどうするのか
4半島戦争をどうするのか
首都ならそれなりの設備、建造物、歴史、外交、中央官庁などがある。
それを、奈良から長岡、京都へ移すのとは政権の強力さが違う。国内生産力を
完全に一元的に支配収奪できるからどこでもいいってことであって。それでも
せいぜい奈良→京都でしかなく、そんな強大な統一政権などない弥生に首都の
移動など、賭けにしても無理がありすぎる。生産力が下がったと言うより、人
口増加圧力の方が問題では無かったか。沃野千里を捨てるのか?
また、鉄利権は東へと延び、その力で弥生末には各地に独立王国と呼べる規模
の国が生まれつつあった。それよりずっと後も半島出兵する動機は何か?距離
と同一民族、それに始祖の土地というくらいしか考えられない。やはり首都は
九州に存続したと考えたい。
確かに民俗的特質は畿内人=古弥生(朝鮮)人を支持している。だがそれは、
時代の節目毎に数度に及ぶ軍事行動では無かっただろうか。それが神武、崇神、
応神に対応していたのでは無いか。応神は、神功と死後宇佐に合祀もされている。
古くに首都が移っていたとしたら、なぜそんなことをする必要があるのか。
九州の首都は、国際情勢へのコミットと、始祖の土地へのこだわり、東からの
圧力に抗して、ボロボロになるまで中華の叙任にしがみついたのである。 同時並行で、各地にも弥生人が次々に植民していった。何故奈良・大阪だけが
巨大王国を築いたのかは不明だが、単に耕作地が巨大と言うだけではなく、
(水耕可能面積だけなら他にも広い土地はあった)、「弥生の北九州勢力」=
天孫族が集中的に植民し、軍事的にも増強していたからだというのが最も合理
的な説明では無いだろうか。それまで存在していた銅鐸文化圏との覇権争いと
いうのもあったろう。高地性集落に銅鐸は埋納もしくは損壊放棄され、降伏し
たのであろう。ニギハヤヒが平和裏に長髄彦と結んだ方法から、神武のような
戦闘、更に既存勢力を一掃する勢いの巨大古墳=応神王朝へと侵略的色彩が次
第に強まっていった。もしかすると巨大古墳とは抵抗の激しかった村をそのま
ま埋めたのかも知れない。耕作地が限られているのにあんな墓を作る動機がわ
からない。 衣食住が満足できるようになると段々気候が安定するところへ移動していく。
裸の生活: 最初は熱帯亜熱帯に人が増える
衣を着、住居ができる: 亜熱帯、温帯地方に移動 九州
衣住が安定し人が増え始めると食を求めて台風や火山の被害の少ない地に移動する。 大和 > 江戸 >>747 人が住んでいないところに作ったから無問題 当時は大阪は海だったから、結構狭いよ。限られた耕作地なのに、
なんであんな巨大な墓がいるのか。
まあ、巨大化はむしろ遅れた文化というケースもあるけどね。 大阪の巨大古墳は、墓の役目と他国人に見せて
威嚇するためのものという説があった。 それはあるかもね。
瀬戸内周辺の巨大古墳は海から見えるところが多かったりするから。 神武東征が仮に史実を元にしてそれを膨らませたものであったとして。
神武天皇は卑弥呼より前の時代の人か?それともあとの時代の人か? 巨大化は畿内文化文明の思考停止を物語る
滅びゆく種族あわれ 日本史@2ch掲示板はIDつけてほしい。
スレ主もハンネつけないから、大混乱を招く。
他スレでもそうですがスレ主はハンネつけるべきです。
成りすましと疑われるスレ主も多いと思います。 >>755
そうだな。コテハン名乗ったほうがいいな。 >>750
稲作に不適な丘陵だからね。
大きな古墳はたいていそんな場所だよ。 卑弥呼はモモソ媛命で正解だよ。
だとしたら、イワレ彦こと神武天皇は西暦1世紀後半ぐらいの人物。
このことは明治時代にも誰かが指摘していた。
でも、初代の倭王(天皇)は彼ではなく、天火明命で、
出雲国譲りによって最初に倭王になった。それは西暦元年前後の話。
天火明命の弟にはニニギ命がおり、その曽孫がイワレ彦(神武) 阿蘇、霧島、桜島辺りの火山の三連動噴火でも起こったら、
神武は東に逃げるしかない。それが東征ではないのか? >>761
噴火を「神の怒り」と解釈したとか、そういう理由ならありうるな。 そうすると、卑弥呼の都のあったところは阿蘇山周辺があやしい >>762
合理的理由ではなく、原始宗教的な理由による東遷だな。
たしかに噴火だの連続地震だのがあれば
当時の人なら自然現象とは思わず、神の意思だと思うだろう。 >>761
そうなると四国か北九州が日本の都になりそうだな しかし東征神話が事実とすると
海から熊野に攻め込んで奈良盆地に入るのは過酷だし、熊野灘沿岸の海洋勢力になってる可能性も高いな >>765
火山灰で米が育たなくなるから北九州や四国ではダメだと思うよ 津波で大きな被害を受けた海神族の国の人が、
津波のない奈良盆地に移住した可能性も高い。 誰かがちゃんと系図や図解で分かりやすく説明してあげればいいんだけどな。
大和朝廷の初代天皇はイワレ彦(神武天皇)ではない。
真の初代天皇(倭王)は天火明命。出雲を国譲りさせて天下を平定した初代の倭王。 噴火がどうのっていってるやつらは本当に白痴の掃き溜めだな
そう思うんならまず九州の火山活動が実際にあった時期を年表におこしてから
神武東征の年代についての各説を一つづつ検討しろ
お前らは「俺は思った」だけの話なんだよ、どれもこれも 寒冷化による混乱で大陸からの難民の流入が起因というのはあると思う >>758
バカ 後の人物だよ
初期の天皇が
百年前後生きたの信じてるのかよ >>772
関係ない。そもそも、天皇家のY遺伝子は
3万7000年から3万8000年の間ぐらいに日本へ渡ってきた遺伝子なのに。 >>773 魏志倭人伝に倭人は長生きで100歳生きると書かれてるだろうが。
其人壽考或百年或八九十年
其俗國大人皆四五婦下戸或二三婦
婦人不淫不妬忌不盗竊少諍訟其犯法輕者没其妻子重者没其門戸及宗族尊卑各有差序足相臣服
倭人の寿命は100年、あるいは8、90年。
貴人は妻を4、5人、一般人でも2、3人。
婦人は淫らではなく、嫉妬などをしない。窃盗などはせず訴訟も少ない。
法を犯した場合は、軽い場合はその妻子を取り上げ、重い場合は、一族を没収する。尊卑には様々な序列があり。たがいによく服従する。 神武、崇神、応神は別王朝というのは何となく説得力がありそうだ。
神になれるのは創始者だけではないか? 記紀には神武は即位前のみ崇神は即位後のみの記載しかないし
神武=崇神だと思うがなあ 別人だろ。
ただ、それぞれに新たな王家の始祖であり、祖先神としての諡が突いている。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 魏志倭人伝曰く、邪馬台国は圧倒的に女が多い。身分の低い人でも複数人と結婚していた。
東遷で男子が多く駆り出されたんだろうな。現在でも九州は女の方が多い。 「小学生より学力が足りないで賞」受賞
↓
「テンプレの誤字も直した方が良いで賞」受賞
↓
「まだわからないで賞」受賞
↓
俺は悔しくて泣いた。
↓
だが、ボキャ貧キウスの知らない単語な線もある。
↓
「無教養露見で賞」受賞
↓
❓❓❓
. /テンプレ\ 誤字ったってキウスやサイキバみたいは
/ \ 単なるタッチミスもある
. / (゚) (゚) \ ❓❓❓
| )●( | キウスが笑い者なだけ❓
. \ 廿 / 誤字って何❓
. ノ \ ❓❓❓
👆「自分で発見しないと笑いもので賞」 九州説の短所
・丹が採れなかったので、邪馬台国論争に参加する資格が無い。
・対馬海流に流されて、末盧国(呼子・唐津)は有り得ない。
・想像力は豊かだが、ストーリーは北部九州どまり。8世紀奈良大和政権へ繋がらない。
・見たこともないくせに、わけの分からんものを三種の神器などと偽って、まことに無礼である
・紀元前の遺跡ばかりで、卑弥呼時代の興味を引く遺跡が無い
・ 九州は天皇家・宮内庁と今も昔も縁が無く、今以って天皇家祭祀において蚊帳の外。
推して知るべし。 倭人伝には記紀における同時代の皇室王室のメンバーがそろっている。西暦200年前後
トップは伊支馬(いきま) → 第11代垂仁天皇 「伊久米入日子伊佐知命」
次席は弥馬升(みます) → 垂仁天皇后 「氷羽州比賣命」
三席は弥馬獲支(みまかし) → 皇太子 大帶日子命、後の第12代景行天皇妃 「美波迦斯毘賣命」
四席は奴佳醍(ぬはだい) → 垂仁天皇妃 「沼羽田入毘賣命」
ヤマト (邪馬台国)は
代々男王 → 共立卑弥呼 →男王 →復立卑弥呼宗女
男王女王共立の国(ヒメヒコ制)。 共立を繰り返す(復立)
伊勢神宮の斎王 ←「王」 鏡 太陽 アマテラス 巫女 宗女
崇神 ももそ姫 初代 夜麻登登母母曽毘売 (やまととももそひめ)ヒミコ 崇神
2代目 豊鋤入姫 (とよすきいりひめ)トヨ 崇神・垂仁
3代目 倭姫 垂仁・景行
現今上陛下の姉 天皇
107年 倭国王帥升等 倭のクニオシヒト
第六代 考安天皇 国押人
升は飛の略字。欠史八代は実在。 90 : 日本@名無史さん2017/03/12(日)
>>88
狗邪韓國は何人の領土?
95 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/03/12(日)
>>90
領土といいう観念に語弊があるかとは思いますが韓人の国でしょう
金官国の全身とするのが通説です
↑
この衝撃的な失言を落とすために
スレ乱立して板操作しておりますですよ 1 ◆q8leUXpsw. こいつが邪馬台国スレを乱立させているのか?
日本史板になんの恨みが???
日本の歴史が嫌い?? 似たようなスレを作りすぎ。
古いのから順番に、使用して、使い切れ。 倭人が支配した新羅『新羅本紀』
紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵
紀元前20年
瓠公という倭人、瓠を腰につって海を渡って来たために瓠公と称した。
諸王に仕えた重臣で。金氏王統の始祖となる金閼智を発見する。
新羅の3王統の始祖の全てに関わり新羅を建国した倭人である。
初代新羅王の赫居世居西干の朴姓も同じ瓠で同一人物。
後に倭人の四代目新羅王、脱解尼師今が新羅に着いた時に瓠公の家を継いだ。
この瓠公の屋敷が歴代新羅王の王城である月城。
新羅の王族3姓(朴・昔・金)のうちの昔氏始祖。
朴氏初代の朴赫居世朴氏=瓠公は倭人であり。
金氏始祖の金閼智(第13代味鄒尼師今の7世祖)説話では、
鶏の鳴き声を聞いたので瓠公が調べると、金色の小箱なかから小さな男の子が現れた。
金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。
新羅の王族3姓(朴・昔・金)の起源は倭人であり倭人が支配した。 >>785
> ・ 九州は天皇家・宮内庁と今も昔も縁が無く、
宇佐八幡宮は伊勢神宮と並ぶ
「二所宗廟」
と言われていたはずだが。 >>794
九州は天皇家・宮内庁と今も昔も縁が無く、今以って天皇家祭祀(践祚大嘗祭等)において蚊帳の外。 推して知るべし。 @阿波 宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。
源氏など武家も八幡神への信仰が強かった。 『国府町井戸 八幡神社』
「是社ノ奥深ク厳シク鎮守シ給フ当八幡宮(古称 井上八幡宮)ハ奉勧請白鳳二年
宇佐八幡宮ヨリ御分遷誉田別命 仲哀天皇 三女命ヲ奉斎爾来惟神ノ誠を捧ゲ今ニ至
迄幾度改修....」
以下略
御祭神 誉田別命、仲哀天皇、三女命(いわゆる宗像三神)
※「国府町井戸 八幡神社」は、大分宇佐神宮より遡る白鳳二年(674年)に「宇佐八幡宮ヨリ御分遷」とある。
※宇佐八幡宮(宇佐神宮)の開基は725年。
※宇佐八幡宮(宇佐神宮)は、国府町の八幡神社より後に神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮) から勧請されたことになる。
※よって、宇佐神宮の勧請元は 神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮)なのである。 @阿波 「宇佐八幡宮ヨリ」とあるじゃないか。
宇佐八幡は応神の宗廟だから、4世紀の終わりか5世紀の初めくらい? >>798
>「宇佐八幡宮ヨリ」とあるじゃないか。
そうですよ。
※大分宇佐神宮より遡る白鳳二年(674年)に「宇佐八幡宮ヨリ御分遷」とある。
※大分宇佐神宮の開基は725年。
※よって、大分宇佐神宮は「国府町井戸 八幡神社」に51年遅れて、 神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮)から勧請されたのである。 @阿波 >>1 こっちのスレのが適してるな
>>793
自分は、狗奴=日嗣 東遷ではなく東征説でいく。
この場合、事実の検証をするのではなく、天武や鎌足、記紀時代の後世に伝えたい意図、若しくは記紀での彼らの仮説のより具体を検証していきたい。
その検証の参考資料を倭人伝とする。なぜなら当時のエリート達は倭人伝など漢書については深い見識を持ち、国史に当てはめたり、端折ったりして、特に倭人伝では注を入れてる点にある。
その検証での具現化(仮説)していく過程で、神話の妥当性や現実性、またはその思惑の現実性などを深めていきたい。
少しだけ見えてきてるのがあるんで以降レスする。 まずは、記紀編者は倭を大和、しかも三輪山辺周辺と考えていた。
神武紀「椎根津彦を倭国造」とあり、別に葛城国造を指定している。
当時も国号「日本」改名の動きはあったと思うが、記紀当時の国号である漢字「倭」と表音の"やまと"を考えると、倭国日本国の発祥、倭人伝の邪馬台国もそこを比定してるように思われる。
そこで邪馬台国を想定した時、当然、狗奴国の記載と神武東征は重なる。
それでは倭、邪馬台、女王国をどう見てたかというと、国津神系(三輪王朝?)として描かれている。
ここにわが国の神話、天津、国津の2大勢力の葛藤を、狗奴を天津、女王国を国津として、倭人伝の狗奴と女王国の葛藤として合わせている。
東征では女王が出てこないですが、神武が橿原に営した後に三輪の神の血統である娘を正妻とし、後々まで皇統の証として書いている。
以上、常識の範囲内ですが確認の為に
ところで日本書紀は端折ってますが、神武の本来の名前らしいのが「"けぬ"のみこと」なんですねぇ。
狗奴(クヌ)とケヌ。どうでしょう? w
(崇神帝については神武の同一か2,3代後の後継と見てますが、孝霊系との関わりとかまだ整理できてません) あと倭人伝の倭国大乱を記紀側がどう描いたかといえば、国譲りが一番近くて、ニニギが降臨するんですが、降臨の地がソシシの空国(背の肉がないからっぽの国)で九州中央山岳地帯なんですね。
私はこの大乱の時に、逃げたか流されたと思うんですよね w
そこで合ったのが、熊襲国津系ハヤト(海彦)や久米だったり鰐だったり w
ま、ちょっとした頼朝伝ですが、誰に追い出されたかになると、神社勢力などを参考に加えてもう少し整理すると、記紀が書いてない国譲りの後の出雲、北九州(初期倭王朝=高天原?)の姿が見えそうです。 後世の誤解やこじつけをそのまま飲み込んでしまっているのではないか。
まず、ニニギの降臨の舞台は、宮崎ではなく筑紫、つまり福岡県。
クシフル山は福岡市と糸島市の間の高祖山にある。
ここは奴国と伊都国という、考古学的に倭国の王墓が多数ある地域である。
ニニギは高天原から筑紫に船でやって来た。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城がり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。
そして、倭国大乱で筑紫日向を出たのが神武ということになる。 高天原=宗像大社沖ノ島の方がありうると思う。
あの大規模な古代祭祀は誰を祭るためのものであったのか? 高天ヶ原は葛城/高天。ソースは延喜式に明記。
、、、高天山(金剛山の古名)の東麓の高台地域(葛城)を高天ヶ原と表記。古代の倭国の中心地/高尾張)
また、中国(大陸)や出雲(島根)、それぞれの都(首都)も高天ヶ原と表記。
現代の高天ヶ原はさしずめ東京。 この国はある意味では北朝鮮以上の国民を騙す国家だと思う 北朝鮮以上に国民を騙し詐欺師の様に搾取する
★★★★政治家・マスゴミ・が隠す日本の真実!★★★★
https://www.youtube.com/watch?v=pX9COqRfCSU
↓ ↓ ↓
https://www.youtube.com/watch?v=A-cKT-sKly4&;;list=PLTEQ4LklraVRq1fq3xbolEhHFm4lhBYVM&index=1
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ やっと畿内説を議論しようとする意見が出てきました。
スレ主論・・・3世紀(邪馬台国)畿内に馬は居た
>>6421 ◆q8leUXpsw.
>>329
<3世紀に畿内に馬はいたと解釈してよいか。>
↑
<可です。>
☝
畿内説でぎろんしま賞
スレ主の探究心の現れで賞 >>809
スレ主が酔っぱらって書きこんだのじゃないの?
3世紀に畿内に馬が居たという証拠も根拠も無い。
畿内説論者で初めてじゃないか?
邪馬台国に3世紀馬は居ない >>804
> ニニギは高天原から筑紫に船でやって来た。
朝鮮人から聴いたのか? 2600年前に神武は九州に王都を開いていない。
260年に九州は東征していない。
同様に九州は平定されていない。
300〜350年には日本が半島に進出している。
400年に東国に高句麗馬の御牧が成立する
これは、倭の五王と一致する。
中国文献は考古学を裏付けている。
記紀はデタラメである。
半島放棄の白村江後に半島同様だった九州を
古代からの日本固有の領土だと主張しただけ。 >九州を 古代からの日本固有の領土だと主張しただけ。
記紀は九州のことなど一切主張していない。
あくまで、倭国(阿波)国内の出来事だけを記している。
ただし、特に日本書紀は倭国(阿波)国内の真実を改竄している。 「記紀」は奈良遷都以前に在った、祖国王都「阿波」の歴史を天武天皇が残そうとしたもの。
ただし、一部は改竄されてしまっている。 大海人の天皇号は没後に武則天からの追贈だろ
これに関しては面識とか無かったら
天皇号ゲットできるようなラッキーはありえないけどね >>816
いや、天皇号は奈良時代に
「懐風藻」で知られる漢学者の淡海三船(天智天皇の子孫)が選定した
この時代にはまだ和風諡号しかない >>812
俺は毎日読んでいる。
おまえこそ、古事記・日本書紀を読めよ。
ニニギは高天原から筑紫に船でやって来た。
こんな事は、書いてないぞ。
朝鮮人のような、バレバレの嘘をつくなw 高天原のある韓半島から船に乗ってやって来たニダ!
ニニギは韓国人ニダ! >>819
古代朝鮮半島南端部は日本の勢力範囲だったから倭人もたくさん住んでいたのだが。 だから
高天原 = 任那のどこか
皇祖 = 任那に住んでいた倭人
だと思う。
対馬海峡だよ。
いまのところ、朝鮮半島には筑紫を超える遺跡はないと思う。
天津神は大陸からやってきたんだよ。
多分。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています