♪邪馬台国東遷説 その15 [転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国研究の本道「東遷説」臨死体験後復活♪
汝らに平安あれ 倭国の名称は九州北部。
倭国の名前を出さなければその通りです。 >>902
8世紀以前の奈良盆地に、繁栄を誇った痕跡があれば納得できますが、
なるほど、倭国の王都だと思えるものが8世紀以前の奈良盆地に有りますか?
まず、それを先に示すべきでは。 @阿波 3世紀半ば以降、当代最大の古墳は常に畿内にある
古墳の築造という土木工事は、動員できる人口を誇示するモニュメントと言える
最大の動員人口を誇る地域が栄えていないとどうして言えるのか
古墳時代以降は畿内の優越が一目瞭然だから、邪馬台国東遷説を唱える人は
古墳時代の開始を遅らせることに躍起になっている 栄えていようがいまいが、中国に情報が届かないところなら意味がない。
邪馬台国とは、関係ない。 畿内は強いぞすごいんだぞ。
ああ、そうですか。
で? その強い畿内を差し置いて弱小地域が倭王に除せられることはない
出雲でも明白に北部九州より強い王権が認められ、大陸との交渉が確認できる時点で
九州説は死んでいる
投馬国(上古音でヅマ)を出雲国と考えれば、
水行20日7万餘戸とちょうど合うし、さらに10日水行で丹波に上陸し、
陸行1月で大和に向かう旅程は、弥生末期の強大な地域王権の発達が見られる地域を
順に巡っており、倭国の情勢を報告する役割を課せられた魏使(除正使)の行動として
非常に合理的と言える >>909
>その強い畿内を差し置いて弱小地域が倭王に除せられることはない
魏がその存在を知らなければ意味はない。 >>909
>出雲でも明白に北部九州より強い王権が認められ、大陸との交渉が確認できる時点で
>九州説は死んでいる
出雲は纒向よりも九州北部と強く結びついている。
出雲と筑紫が弥生時代の強者であるという図式に変わりはない。
まして、出雲から筑紫に政権交代したことが史書に明記されているのだから、むしろ九州に王都が移動したことを裏付けている。 魏志倭人伝では狗奴国が邪馬台国の南にあるのに隋書倭国伝では東にある
記紀でも南九州から近畿に東遷してる
狗奴国から大和朝廷になったと考えるとすっきりしそうなんだが 中国にとって興味がある産物が北部九州にほとんど産しないからな 記紀の筑紫の日向は福岡県。
宮崎県が日向と命名されたのは、後の景行天皇の時。
筑紫の日向は、イザナギが禊をした住吉のある福岡県の博多湾-高祖山周辺。 >>911
>出雲から筑紫に政権交代したことが史書に明記されているのだから、むしろ九州に王都が移動したことを裏付けている。
はいはい、お薬飲みましょうね
出雲では、西谷墳墓群で巨大墳墓が累代的に作られ続けているのに、
北部九州では、14×12メートルの小さな墓を卑弥呼の墓の候補にしなければならない始末
どこに、政権交代の証拠があるのかな?
思い込みは証拠にならないんだってば 記紀に出雲の国譲りの話しがあるよね。
その後は出雲国造家が墳墓を作るから、墓制が変化している。
考古学的状況は、記紀を否定していない。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 >>917
>その後は出雲国造家が墳墓を作るから、墓制が変化している。
この出雲国造家の墳墓って、どれを想定しているんだい?
前方後方墳のことを言っているなら、単に畿内で始まった墳墓祭祀を受け入れた
あるいは、墳墓祭祀の確立に参加したってだけなんだか? >>919
その自称考古学者と若い古代史研究家たちの名前を5人ずつ挙げてみな
当然、研究機関に所属する学識経験者のことであって、まさかお前のような偏った
歴史好きのど素人が古代史研究家を自称しているんじゃないよな?w
そんな幼稚なレベルで話しているのなら、「お遊び」のまま終わるよ
自分がオナニー自慢をしていることにも気づかないままね >>922
>四隅突出型墳
これ、出雲国造家とは関係ないだろ?
もっと範囲広いぞ? >>924
>出雲の領土を継承したなら、広範囲でいいよね。
出雲国造家は、大国主に仕える立場だぞ?
出雲国造家が高天原を裏切ったから、国譲りの談判が必要になった
出雲国造家は、出雲の領土を継承していない
924の頭の中でどんな妄想物語になってるのか、教えてくれよ 時間がワープしてるね、いろいろと。
「弥生時代は九州が優勢で先進!」ってわめくやつ。
確かに弥生後期までは九州が先進なんだよ、誰も否定していない。
だけど、三世紀の始めのことなんだ。
紀元前にどんなに九州が先進的であっても、関係ない。
200年頃の最大の古墳は丹後の赤坂今井古墳 卑弥呼は弥生時代だし、古墳の年代は確かなものではない。 定義ができないなら>>929の反論は無効ということで決着 赤坂今井は、弥生墳丘墓の扱いが多いと思う
出雲の西谷9号墓も大きいし、吉備の楯築墳丘墓も72メートルある
こうした各地のローカル王権の発達から取り残されているのが九州なんだよな 王都である伊都は伝統の方形周溝墓を守り、地方では好き勝手に田舎のお大臣が大きな墓を競っていたんだね。
九州北部の特殊性こそ、そこが魏の使いも逗留する倭の王都であった証だよ。 >>934
>王都である伊都は伝統の方形周溝墓を守り
それなのに古墳時代に入ってすぐ端山古墳を作るよね
後追いでしかも小さなやつを
伊都国の実力なんてこんなものだよ
国造ではなく県主レベルの豪族に過ぎない
そもそも、伊都国が邪馬台国の都なら「伊都国、女王之所都」って書かれなきゃいけないだろうが
邪馬台国と伊都国が別に書かれている時点で、伊都国が都なんていう誤読が成立する余地は
最初からない >>935
卑弥呼より後のことを持ち出して、何か意味があるの? >>937
卑弥呼の時代と古墳時代の始まりは同じ時代なんだよ
そして弥生時代の終わりと古墳時代の初期は、古墳を作るかどうか以外の違いはない
だから、古墳時代の始まりを見れば、その時期=卑弥呼の時代の倭国の中心が分かるんだよ >>936
>伊都国は京
なぜ「伊都国女王之所都」と書かれずに「邪馬壹國女王之所都」と書かれたのか、
説明できた人がいないんだが 卑弥呼の時代と弥生時代の終わりは同じ時代なんだよ
そして弥生時代の終わりと古墳時代の初期は、古墳を作るかどうか以外の違いはない
だから、弥生時代の終わりを見れば、その時期=卑弥呼の時代の倭国の中心が分かるんだよ
弥生時代の倭国王墓は全て福岡県にあるんだ >>939
帯方郡からの使者がなぜ邪馬台国ではなく伊都国に宿泊するのかがよくわからん。 >>941
>帯方郡からの使者がなぜ邪馬台国ではなく伊都国に宿泊するのかがよくわからん。
帯方郡からの使者がなぜ邪馬台国ではなく伊都国に宿泊する理由を教えて進ぜよう。
それは、伊都国が一大率(筑紫忌部)をして、大陸出入りを監視するための言わば税関所だったから。
大陸からの往路 玄関口(福津市周辺 万津浦)
大陸への復路 出航地(平戸市周辺)
伊都国(直方)は大陸往復路の分岐点である。
だから、大陸出入りを監視出来る立地(内陸)の直方辺りに一大率が置かれたんだね。
伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば税関所。
その伊都国は千戸程度だから、感田上原遺跡や帯田遺跡だろう。 @阿波 畿内や阿波には滞在しなかった。
しかし卑弥呼に会って金印や国書を渡している。
つまり卑弥呼は伊都国から簡単に行き来した範囲にいた。
伊都国から不弥国までの筑紫が当時の倭国の王都、いわゆる女王国であった。 >>943
魏使が九州で留まっていようがいまいが、「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。
倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
子供みたいに延々と無意味な論争は時間の無駄。
こういう痕跡を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>944
使いが逗留した伊都こそ中心地。
阿波は筑紫の支配下の工業地帯。
そんなところに卑弥呼はいない。 >>946
>使いが逗留した伊都こそ中心地。
伊都国(直方辺り)は倭国(阿波)への単なる通過点。 又、大陸へ渡る単なる通過点。 @阿波 伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば税関所。
その伊都国は千戸程度だから、感田上原遺跡や帯田遺跡だろう。 @阿波 >>948 訂正
伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、出入国管理局。
その伊都国は千戸程度だから、感田上原遺跡や帯田遺跡だろう。 @阿波 >>941
>帯方郡からの使者がなぜ邪馬台国ではなく伊都国に宿泊するのかがよくわからん。
遠いからだよ
水行、陸行合わせて2ヶ月かかるんだから、邪馬台国に着くまで
宿泊しないって訳にはいかないだろ
倭国に着いたら、とりあえず伊都国に泊まって、そこで用が済めば帰ればいいし、
女王の都に用があるときはがんばって、2ヶ月かけて邪馬台国まで行く
いずれにしても、伊都国には泊まるから郡使往來常所駐となるってことでいいんじゃないの >>950
>女王の都に用があるときはがんばって、2ヶ月かけて邪馬台国まで行く
宿泊なら、途中の寄港地もすべて宿泊していたはず。
まさか帯方郡から纒向まで一泊二日では移動できないだろw
何度もあったはずの魏の使いは九州北部、それも福岡から一度も出た形跡がなく、卑弥呼に会って金印を与えている。 >>951
>魏の使いは九州北部、それも福岡から一度も出た形跡がなく
それはない。 四国の阿波にきた形跡、あるよ。 若杉山知ってるし、中国産朱も持参してるし。 @阿波 >>953
>阿波への道のりが説明されていない。
はい、これが阿波への道のり
末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)
↓【東南】陸行500里 福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】 豊後水道 水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛辺り)
↓【南】水行10日(太平洋ルート)又は陸行1月(旧土佐街道) 途中、阿南の若杉山辰砂採掘現場視察
女王・卑弥呼のおわす《邪馬台国 阿波》到着(七万戸)
↓【東】海渡1000里 (阿波から東へ1000里渡海)
女王国(阿波)の東、海(紀伊水道)を渡る千余里、復(ま)た国(畿内)有り、皆倭種なり。 >>951
>それも福岡から一度も出た形跡がなく
南至投馬國水行二十日。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
これを無視または誤読してるから、福岡から出ていないなんていう寝言が言えるんだよ >>955
行程の解釈で様々な説があるが、正解はわかってない。
誤読?何をもって誤読とすることができるのかい?
陳寿が何を考え、何を見て記述したかわからないのだが?
錯かんの可能性もあるし。
だからこそ、どの説もはっきり"誤読"と言い切れないし、通説の解釈が正解とも限らない。
文献的に様々な可能性を考え、考古学的根拠で確認していくしかない。
今のところ九州説が一歩リード、というところか。 >>956
>だからこそ、どの説もはっきり"誤読"と言い切れないし、通説の解釈が正解とも限らない。
通釈がなぜ通釈とされているか、きちんと調べて自分なりの考えを示せばいいじゃないか
通釈で不都合だと思うところがあれば、「根拠」を示して論じればいい
「帯方郡から」とするのが不合理な理由は「東南」ではなく「南」至邪馬壹國となっているから
魏志倭人伝の冒頭に「倭人在帶方『東南』大海之中」とあるし 邪馬壹國までの水行10日陸行1月が
帯方郡からの全行程ならば、当然「東南」でなければならない >>958
そもそも、その通説の根拠が見当たらないんだよなぁ。
誰が通説が正解だと論じてるのかい?
〜思われる、〜だから〜解釈するのが妥当、止まりじゃないかい?
説が出尽くした感はあるけどね。 >>958
東南でなければならないというのは、少しでも畿内に近づけたいからかな?
帯方郡から筑紫なら、南で十分なのだけれど。 >>958
いや、倭人の住んでる所と邪馬台国は違うでしょう。
東南は倭人が"いる"所の広範囲を示し、
南は"邪馬台国"という限定的な範囲だね。
邪馬台国が北部九州のみを指すのなら、南は妥当ということになる。
全て行程を直線的に読み、"南"も正しく、日程も距離を示すのであれば、邪馬台国は日本じゃないな。 >>961
>東南は倭人が"いる"所の広範囲を示し、
>南は"邪馬台国"という限定的な範囲だね。
>邪馬台国が北部九州のみを指すのなら、南は妥当ということになる。
なるほど。
この説明は合理的ですね。 >>964
963は自演だから、反応してもムダだよ >>959
>そもそも、その通説の根拠が見当たらないんだよなぁ。
>誰が通説が正解だと論じてるのかい?
ほら、また根拠なしでごまかす
大陸の史書の地理・旅程記事で、
途中からいきなり「起点からの表記」になるものはない
要するに、大陸史書の表記法の標準に合わない「異端の読み方」だって言ってるんだよ
こっちは根拠を示しているんだから、反論も根拠をつけてどうぞ
これに対する最もシンプルで有効な根拠は、
大陸史書の地理旅程記事で「途中から起点表記になる例」を出してくれればいい
本来的には、それが標準と見てよいほど多数例を示す必要があるけれど、とりあえず1例でいいよ
がんばれ! >>960
>東南でなければならないというのは、少しでも畿内に近づけたいからかな?
違うよ
魏志倭人伝の表記=撰者の認識が「東南」であるという意味だ
>帯方郡から筑紫なら、南で十分なのだけれど。
魏志東夷伝の表記では、韓が方4千里で、
循海岸水行、歴韓國、乍南乍「東」、到其北岸狗邪韓國、七千餘里
とあるから、まず南へ四千里行って、そこから「東へ三千里」行ったところが
狗邪韓國という認識になっている
末慮国上陸後も
東南陸行五百里到伊都國
東南至奴國百里
と、東南に進み続けている
それを、南と書くことはない
大陸の認識としては帶方「東南」大海之中の国なんだから、起点が帯方郡なら
「東南」でなければならない
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月
を帯方郡からと読むのは、明らかな誤読だよ >>961
>邪馬台国が北部九州のみを指すのなら、南は妥当ということになる。
この時点で、妥当じゃないんだよ
>全て行程を直線的に読み、"南"も正しく、日程も距離を示すのであれば、邪馬台国は日本じゃないな。
だから、旅程をそのままに読んでも仕方がないと言っている訳だ
要するにあてにならないってこと >>968
>要するにあてにならないってこと
結論が先にあるんだろう? >>969
>結論が先にあるんだろう?
九州説はそうなんだろ?
帯方郡の「南」を、無理に正当化しようとするし 南と書いてあるからだろ?
畿内説のように南を東と読み替えるような破廉恥なことはしない。 >>971
>南と書いてあるからだろ?
その前に、帶方「東南」大海之中と書いてあるのと矛盾する
南と書いてあるのは、帯方郡からではおかしいし、福岡平野からでも南に水行はできない
つまり、記載をそのままに受け取ることはできない、が結論だ >>972
東南は"大海"を修飾してるなら、帯方郡の東南にある大海の中に、となるな。
さらに範囲が広がるなぁ >>972
で、君はどこに邪馬台国があると思うんだい?
君の解釈だと、邪馬台国は倭人がいる国ではない事になってしまうが? >>966
まず、それなら直線的行程の中に里数から日程記述に変化している記述をしりたいなぁ。
場所の地理的説明ではなく、行程でね。
後、放射読みだったら意味がないよ? >>976
相手の質問・要求に対して、逆質問で返すのは詐欺師の基本だよ?
まずは、そちらが論証すべきことを、先に論証するのが筋だ
漢書/列傳 凡七十卷/卷九十六上 西域傳第六十六上/大月氏國
大月氏國,治監氏城,去長安萬一千六百里。不屬都護。戶十萬,口四十萬,勝兵十萬人。
東至都護治所四千七百四十里,西至安息四十九日行,南與罽賓接。
大月氏国、監氏城に治す。長安を去ること萬一千六百里。都護に属さず。
戶数は十萬,人口四十萬人,勝兵は十萬人。
東の都護の治するところに至るに四千七百四十里、西に安息国に至るに四十九日行、
南は罽賓に接す。
これを見ても分かるように、全行程は最初に書かれるもので、途中に起点からの
全行程が入るのがおかしいって分かるだろ?
それに勝手に「放射読みだったら意味がないよ?」とか付けているが、
こっちはそんなことを主張したことはない
そして、ここに挙げた大月氏国の地理は、大月氏国基準だと放射読みだが、
安息国への情報としては、
西域都護まで里数
大月氏国まで里数
安息国まで日数 となっている訳だ
問題ないだろ
さあ、大陸史書の地理旅程記事で「途中から起点表記になる例」を出してくれ
本来的には、それが標準と見てよいほど多数例を示す必要があるけれど、とりあえず1例でいいよ
がんばれ! >>974
>君の解釈だと、邪馬台国は倭人がいる国ではない事になってしまうが?
「私の解釈」ではなく、「陳寿の認識」では、倭国は南へと
伸びていく列島となっていて、現実の日本列島に当てはめると
「倭人がいる国ではない事になってしまう」んだよ
つまり、旅程記事はあてにならない、だ
>で、君はどこに邪馬台国があると思うんだい?
となれば「倭国は南へと伸びていく列島」という「陳寿の認識」を修正して
考えていくよりないってことになる そして「水行」の大陸史書の地理・旅程記事での用例を見ると、
海岸沿いの海の移動であることが分かる
そうである以上、北部九州、奴国周辺からの水行は、
「日本海の山陰地方沿岸を東へ」、というのが一番考えやすい
可能性としては、
「瀬戸内海を東へ」
「九州東岸を南へ」
「九州西岸を南へ」
もあり得るが、これらのルートではないって、5万戸の投馬国、7万戸の邪馬台国の
比定地が得られない
であるなら、日本海の山陰沿岸を東へ水行し
投馬国(出雲国)5万戸を経由し、邪馬台国(大和国)7万戸に至るのが、
一番齟齬のない旅程となる なぜ出雲と大和と特定できるのか。
なぜ阿波と吉備ではいけないのか。 >>980
>東じゃ論外
九州説はそこしか頼るところがないからね
そして、根拠なしに一言だけ書くのはいつものこと
そもそも魏志倭人伝の記述通りでは、どこにも行き着かない
だから>>974でも書いたように
「倭国は南へと伸びていく列島」という「陳寿の認識」を修正して
考えていくよりないってことになる
そして、北部九州から水行して行ける、考古学的に確認できる大勢力を求めることになる 要するに畿内説は結論先にありきの論理性のない思い込み。 >>990
>要するに畿内説は結論先にありきの論理性のない思い込み。
論理性って言葉が使いたかったんだな? 無理しなくていいんだよ?
前提1
陳寿の記述通りではどこにも行き着かない
↓
陳寿の記述は倭国が南北に伸びる列島であることを前提にしている
↓
現実の日本(倭国)は、南北に延びる列島ではない
↓
現実の日本列島に合うように修正する必要がある
きわめて論理的だろ?
前提2
大陸史書の地理旅程記事での「水行」は海岸沿いのの海の移動
↓
水行の起点は北部九州(奴国・福岡平野周辺)
↓
可能な経路は
1「日本海山陰沿岸を東へ」、2「瀬戸内海を東へ」、3「九州東岸を南へ」、4「九州西岸を南へ」
の4通りが考えられる
↓
上記4経路のうち、投馬国五万戸と邪馬台国七万戸にあたる考古学的に確認できる大国がある経路を選べばよい
↓
投馬国:出雲国、邪馬台国:大和国と考えれば、上記の条件を満たす
と、こちらもきっちり論理が通ってるだろ?
卑彌呼共立以前の段階で、巨大墳丘墓を作れるローカル首長が居なかったところは考慮に入らないんだよ 短里の報告書を長里で解釈していたから、朝鮮半島と九州の南北の長さを過大に評価していただけだよ。
本州と四国は、海の東にも倭人がいると記録されており、方角を間違えていたわけではない。 >>992
>陳寿の記述通りではどこにも行き着かない
前提から間違ってる 勝手に変えて読めばどこにでも行き着く
そんなこと、する意味がない
つまり使い物にならない >>993
>本州と四国は、海の東にも倭人がいると記録されており、
九州説はいつもこうやってごまかそうとするが、
女王國東「渡海千餘里」復有國だ
幅600メートルの関門海峡は、九州説のいう短里であってもどうやっても千里にはならないだろ?
本州を渡海千里の国とするのは、あまりにも恣意的なこじつけ
>短里の報告書を長里で解釈していたから
そもそも短里などというものはない
紀元前3世紀の秦の始皇帝の度量衡の統一から卑弥呼の時代までに400年以上経過している
辺境だから古い度量衡が残っていたとするのは、妄想に近い憶測
倭地が漢土から萬二千里の彼方というのは、淮南子に見られる世界の果てまでの距離に合わせ
司馬懿の功績を顕彰するための数字あわせで、短里などというものはない
短里を前提とする論説はそれだけで破棄してよい >>994
>前提から間違ってる
どこがどう間違っているかを「根拠」を挙げて論じられない時点で
九州説の立場を取る人間の能力の限界が明らか
基本的に個人の感想レベルのことしか書いてないのが九州説の書き込みの常 古墳時代に入れば、畿内が倭国の中心になることは明らか
そして、標準的な編年では、古墳時代の始まりと、邪馬台国の時代は重なる
東遷説の成りたつ時間的な余裕はない このスレッドは1000を超えました。
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