邪馬台国は九州南部くさい [転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。
1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
(日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。
朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。 邪馬台国こそ、サメの国じゃね?
住民は全身に刺青をして、海に潜ってアワビとかとってたって書いてあるじゃん
天皇家はその外にいて、サメの国から妃をもらったりして続いていたのが、神武の時代に東征したんじゃないかな
だとしたら、それは狗奴国で、倭人伝の時代のあとサメの国邪馬台国との長年の戦争解決の証として、妃をもらったんじゃないかな 今日の深夜、NHK総合で0時5分から歴史秘話 高松塚の
再放送あります。 >>376
えーと
単純に関係が深いのは地理的要因
昔は瀬戸内海を通っていたため
まぁ解説しとくと鹿児島県大崎町(志布志湾の中)からは兵庫県の土から出来た縄文式土器が出土している
もし神武天皇の出身地がどこかわからないなら
今現在仲が良い大隅隼人の出としたかもしれない
だが天皇家の縁者とされたのは海幸彦の子孫である阿多君
関係性が薄くとも天皇家に故郷は阿多と伝わっていたのなら無理に変える必要もない
余談だが隼人族には大隅直、曽於君、薩摩君、阿多君と4つの大豪族がいた
曽於君(曾君)は熊襲の末裔と思われるし隼人の乱もその支配地域で起こっている
隼人の乱の時も阿多隼人は大和朝廷側に付いた 地理的要因は同時にそのまま東征のきっかけとなる。
神武のモデルとなった一族が日向出身だった。ゆえに古墳時代の日向と畿内は関係が深い。
その前段階では吉備とも関係が深かった。
古墳時代、畿内から遠く離れているにもかかわらず日向からは4人の后を出している。
これら全ての后も薩摩半島出身とするのか?
仮に記紀のいう阿多が薩摩半島にあったとして
別に薩摩に神武一族の縁者がいたことを否定するわけでもない。
現に東九州は、比較的文化的関係の薄い薩摩半島も日向の一部としていた。
天皇家の祖先が神話時代から近隣の薩摩半島の豪族とも縁故があったという話
それだけをもって、神武の出身は日向ではなく薩摩半島と言い切るには無理がある。 ひどい誤解と妄想のスレだ。
邪馬台国畿内説も顔負けの。 >>380
なら素直に大隅なり諸県なり書けばいいでしょ
何か書けない理由があるの?
>その前段階では吉備とも関係が深かった。
大和朝廷は瀬戸内海沿いに勢力を伸ばしたけど縄文の昔から行き来する人々はいたんだよ
逆に考えて目が見えなくなっているかのようだ
大隅が隅っこなら諸県も国の役所という意味か
君だから諸県牛諸井も地生えの豪族だと思ってたけど植民の子孫かもね 神武が日向出身であることを記紀は隠してるかな?
弥生時代中期後半、縄文から弥生中期までの列島内における交易とは明らかに一線を画すモノとヒトの移動が行われている。
瀬戸内から日向への搬入土器の種類の推移をみると初めにモノがきて、間をおいてヒト(労働力)が来ている。
なので瀬戸内側に主体性がある入植の可能性は低い。
地理的要因もあって日向は北部九州と同様に本州四国に進出していたんだよ あと瀬戸内側の土器の搬出地域が、時代が下るにつれて西部から東部へと拡大しているというのもある
つまり、九州側が時間をかけて瀬戸内を西から東へと交易範囲を広げている状況が推測できる 九州東部の発展はわかるけど、邪馬台国や記紀の日向三代とは関係ないだろうね。
九州の中では北部がずっと中心勢力で、邪馬台国も九州北部。 大帝国というものは、得てして周辺部から発生する
アレクサンダー帝国しかり、モンゴル帝国しかり、大英帝国しかり 神武は北九州に行った後、広島に7年、岡山に8年いたが、東征のために
親戚の海神族の力を借りて勢力を結集していたのだろう。
その後淡路を前線基地にして、住吉から大阪に上陸し、
生駒ルートで奈良に攻め入ったが撃退されたため、
すぐに作戦を変えて那智新宮方面から攻め入っている。
広島と愛媛の間の大三島には海神族の拠点の大山祇神社があり、
大阪には東征の道案内をした海神族オリオン座の住吉大社がある。 >>387
これの元は倭人伝。
最初の南を東に変えて
東に水行20日で大阪。次に、南に水行10日で
熊野。次に、北へ陸行一月で奈良。 神武東征では年単位の時間がかかってるのになんで邪馬台国だと日単位で済むんだ?
距離が圧倒的に短いからだろ 邪馬台国は温暖でサメのいる地域。九州北部や機内ではない。九州南部〜沖縄の間でしょう。
神武東征、宮崎県の美々津から出航となっているがこれは誤り。出航は鹿児島県東串良町柏原から出航。
鹿児島湾奥の霧島市福山にも出航も碑あり。
なぜ、このような間違いが起こったか?神武天皇が生まれ育ち東征した日向(ひむか)を宮崎県と思っているからです。
ひむかの国は宮崎県、鹿児島県、熊本県の一部で中心は志布志湾近辺と思われます。700年代にひむかの国から
薩摩の国、大隅の国が分立。新日向がいつのまにか旧日向も含めて日向国とみられています。
この分国も大和政権が歴史の改ざんのために行った可能性大です。
高速道の建設でここ最近、重要遺跡が数多く出土し学者は困っています。歴史を覆しずらいのでしょう。
大崎〜志布志〜日南、この間からも今後重要遺跡が出土するでしょう。 刺青は元々は呉の民の鮫避けだったが
今は飾りとなって倭人がしているのだろうと
書かれている ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ 「女王国東渡海千余里復有国皆倭種」
つまり邪馬台国は東が海に面してる。
「水行10日陸行1月」を水行10日後陸行1月では海に面して
いないのでは?この読み方誤りといえる。
ここは、水行なら10日。陸行なら1月と読むのが矛盾しない正しい解釈と
思う 常識的に考えて格上の国から来た使者を一か月間船に乗せっぱなしにしたり10日間も歩かせ続けたりするわけない
毎日飲めや歌えの宴会をやりつつ進んだと考えれば九州内に十分おさまるでしょ 落ちこぼれ馬鹿の歴オタが、当時の国家レベルの方針を想像しても無駄 国家レベルの方針も何も>394みたいな事は古来から変わらんだろ 神武東遷は作り話だろうが、何故、
近畿政権の発生を宮崎にしたのか?
南九州の有力者とは何か? 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
4FZ41 宮下文書では、
日向霧島に都があったとされてるな。 >>404
完全に後代の魏書であることを白状してるなw >>405
そうかな、出口おにザぶろうも深見東洲も、正史として評価してるけどな そこを笑っただけで、
お前がどんな背景か想像できるな で、お前はどんな古代史にしたいの?
どんな日本に貶めようとしてるの? 俺は、個人的推測では
昔誰かがいってた
神武天皇とその妻が日本を統一したと思ってる。
なんせ、古事記に神の子としるされているからね。 神武天皇が統一とは書いてないけど、
神武天皇の妻が神の子とは書かれてるよ。 あ、ごめん、
古事記じゃなかったかな、日本書紀だっけかな ああ、それは
当時のスレの流れ知らないと理解できないよね。 >>416
時々、5chがすごいこと言うときあるでしょ?
古事記が偽書だって言う人いるから 神武や饒速日が天神の子であると言う記述は出てくるよ。
天照の末裔という意味らしいけど。 関西に降臨した饒速日と九州に降臨した邇邇芸は兄弟で、どちらも天照の孫。 頭の病院に行け、
そのまま収監されるだろう
天孫、天神〜??????不明、
そんな言葉、聞いた事がない 何か言われるのが嫌なら、
書き込みをするな
それか他の国へ行け
無理して日本に住む必要はないと思う、
他にもあるでしょ、あなたの住む国 九州南部とかありえないからw
大嘗祭を目前にして近畿や九州で争ってる馬鹿が
まだ存在してることに驚愕 素直に解釈すると九州南方の海上になるから説が別れてる、というのに
九州北部がありえて九州南部がありえない、とか意味不明すぎる 素直にも何も、目上の国から来た使者を一か月もの間移動させっぱなしって考えてる方がどうかしてるだろ 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 宮崎の都城という地名の意味も研究してみるべきではないか。 >>429
新疆で、それまでの写本よりも古い、最古の三国志が出土した 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 畿内説を論破されてしまった既知害キナイコシが、必死に荒らしているね。。。 天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの延べ何百時間にも及ぶ大規模調査が実施された2013年以来、箸墓古墳を卑弥呼の墓とは、誰も言い張らなくなってきたね。。。 そもそも形が違うのに卑弥呼の墓のわけがないだろ
卑弥呼の墓は円墳だ 径っていうのは差し渡しくらいの意味だから、
方墳なら長辺、前方後円墳なら墳長が径として書かれるよ
円墳とかいうのは、根拠がない その小道の起点はどこだよ?
「大いに冢を作る」の後ろに「小道は百歩」って書いてあったら、
誰でも「何言ってだ、こいつ?」って思うだろw >>446の「どうして?」は>>445に対してのものなのか?
だとしたら、頭おかしいぞ?
平原1号墓から、小道が百歩分あったとして、どこに行けるんだ?
どこにも行けないだろ?
伊都国の中心、三雲遺跡群までは1キロ以上あるから、
百歩=140メートルちょいでは着かない >>449
>墓までのアプローチが百歩あっただけなんだろ
その「墓までのアプローチ」が、「どこから」のアプローチなんだ?って訊いてるんだが?
そもそも、そちらの主張どおりに和訳すると
「そして卑弥呼は死んだ 大いに塚を作る 小道は百歩」
意味が通らないと思わないのか?
標準的な通釈では
「そして卑弥呼は死んだ 大いに塚を作る 差し渡しで百歩」となり
塚の大きさの説明として素直に読めるだろ?
素直に読めない時点で、誤読だよ >>451
「そして卑弥呼は死んだ 大いに塚を作る 小道は百歩」
これを、「余分な情報を『憶測』で足さずに」分かりやすく説明してくれ
「余分の情報を『憶測』で補わないと読めない」時点で「意味が通らない」んだよ とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
ZLL >>451
「そして卑弥呼は死んだ 大いに塚を作る 小道は百歩」
これを、「余分な情報を『憶測』で足さずに」分かりやすく説明してくれ
「余分の情報を『憶測』で補わないと読めない」時点で「意味が通らない」んだよ 中国の文化では王に準ずる地位の人の墓地の大きさは
数十メートルから数百メートルはある。
その墓の入口までの距離が数百歩ということだろ? 横からだけど
実際のところ、異言語のやりとりは難しい。
しかも、辞書も無い時代だ。
当時、100%の意思疎通が可能だった
なんてのは幻想にすぎない。
現代ですら、
「私は一般的な成人男性です」と言おうとして
「私はアダルトマン将軍だ」になる訳だ。
https://eow.alc.co.jp/search?q=general
冗談みたいなミスも普通に起こる。
卑弥呼の時代の魏人とやりとりするとして
はたして、通訳をまじえても
自分がミスしないといえるか想像してみると良い。
(古語かどうかなんてのは、大した違いじゃない。
てさぐりな事に変わりはないんだから)
むしろ、ミスしてるとしたら
なにをミスしてるか想定した方が良いだろう。
https://dotup.org/uploda/dotup.org1602923.png >>461
>鳥居と御神体の間には、参道が必要だな
平原1号墓で、鳥居とされているものがどこに立っているか知ってるか?
しかも、二つ並んでいるのに向きが違うんだぜ?
片方は周溝の中に立ってるし、鳥居としての役割はない
それを鳥居を呼ぶのが間違いだろう >>458
>中国の文化では王に準ずる地位の人の墓地の大きさは
>数十メートルから数百メートルはある。
>その墓の入口までの距離が数百歩ということだろ?
それは地下墓に続く墓道だろ?
地上の方形集溝墓にそんなものはいらない
平原遺跡の、何処から何処までを百歩の小道だと言い張る気だ? 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています