質問だけど水行10日って何キロなの? [転載禁止]©2ch.net
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>モンスーン・台風・サイクロンに乗った帆走。
時速18km/h
「水行半歳」なら、時速3.1km/h キチガイしかいないスレで反論するだけアホ
見守ってきたが、そろそろ潮時だな。あばよ >>195
返答に窮した言い訳としては下手な部類だね。
自説に自信があるなら時間をかけてもいいから、ちゃんと潰しておいた方がいいんじゃない?
日中から2ちゃんねるに来てるけど、そんな暇は無いのかな?
こちらは別に期限を設けてるわけでもないから、よろしく。
>>魏から一ヶ月で驢分に行くにはどうしたのか、とても気になる。
>回答済み。
いや、今初めて回答をもらったんだけど?
>モンスーン・台風・サイクロンに乗った帆走。
すげーwww
よく難破しないで辿り着いたねw
現代でも嵐の時にわざわざ航海に出る船は居ないのにw >>196
「水行半歳」は大秦からじゃないの?
>>197
じゃあね、キチガイ。 >>198
>>>魏から一ヶ月で驢分に行くにはどうしたのか、とても気になる。
>>回答済み。
>いや、今初めて回答をもらったんだけど?
ごめん、大きな勘違いをしてた。
あなたは>>150だったのね。
>>156の時点で違う人になってたと思ってたのよ。
失礼しました、そして、なんというか、お気の毒さま。 日本人の起源 〜遺伝学電子博物館
http://www.nig.ac.jp/museum/evolution/02_e.html
特に、韓国人と本土日本人の二集団間の遺伝距離はゼロであった。やはりこの分析で
も、韓国人と本土日本人は遺伝的にきわめて近縁な関係にあることが明らかとなった
のである。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_26_02.gif
つぎに、集団間で求めた遺伝距離をもとに集団の系統樹を作成した(図26)。この系
統樹では、アフリカ人が他の人類集団に先がけて分岐し、続いてヨーロッパ人が分か
れ、さらにアメリカ先住民が分岐している。最後に、東アジアの五集団が単一系統
のクラスターを形成して枝分かれしてくる。東アジア人のクラスターでは、アイヌ
が最初に分岐し、続いて中国人が枝分かれしてきたことが読み取れる。続いて琉球人
が枝分かれし、最後に韓国人と日本人が緊密なグループとして分岐してくる。
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2014/05/21/dna.jpg
本土の日本人は縄文人と無関係だった
http://www.kahaku.go.jp/research/department/anthropology/report02/s-IshidaFig1.jpg まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>191
>奴国については「行」の字が無いが、「至」の一字でも到着の意味はあるし、
「至」が到着の意味をもつのは、「動詞+至」の時。
「行至」「渡至」「度至」等
「至」の一字では、到着の意味はない。
「至」の一字では、「〜迄」の意味
>私や汝より漢文に精通していたであろう梁書の解釈からも、位置関係であるとは解せない。
梁書倭伝は魏志倭人伝を誤読している。
魏志倭人伝:「東南 至 奴國 百里」
「至」は起点(伊都國)と終点(奴國)の位置関係の表示。
梁書倭伝:「又 東南行 百里 至奴國」
「至」は終点(奴國)に到着の意味。 >>204
>「至」の一字では、到着の意味はない。
>「至」の一字では、「〜迄」の意味
それは目から鱗だ。以下の解説たのむ。
魏書・武帝紀
太祖至陳留、散家財、合義兵、將以誅卓。
冬十月、太祖至東阿。
太祖遂至洛陽、衞京都、暹遁走。
紹於是渡河追公軍、至延津南。
公自江陵征備、至巴丘、遣張憙救合肥。
>>私や汝より漢文に精通していたであろう梁書の解釈からも、位置関係であるとは解せない。
>梁書倭伝は魏志倭人伝を誤読している。
私はともかく、汝に、梁書や陳書と同等か、それを凌駕する書物を著す力量があるのかね。
とりあえず、漢詩の一つも作ってみれくれれれば納得しよう。
そのくらいのこともできないなら、安易に誤読しているなどと決め付けないことだ。
それから、姚思廉の見たテキストと、我々の見ているテキストが、同一であった可能性は相当低い。
我々より良質のテキストを見ていたなら、姚の解釈の方が妥当であると考えていいだろう。
さて、何よりも気になるのは、魏代のすんばらしい航海技術だよ。
暴風雨の中を進むと、魏からオリエント?に到達するらしいが、
現代でも暴風雨の中をわざわざ航海する愚かな船舶は存在しないのだが、
当時の船が、風向きも一定しない暴風雨の中を、本当に急行できたのかね?
それと、「水行半歳」は、大秦からなのか魏からなのか、はっきりしてもらいたい。 >>205
「太祖至陳留、散家財、合義兵、將以誅卓。」
「冬十月、太祖至東阿。」
「太祖遂至洛陽、衞京都、暹遁走。」
「公自江陵征備、至巴丘、遣張憙救合肥。」
上記は、状況や位置を示す単独使用の「至」である。
達して在る、及んで在る、行き着いて在る。距離を伴うと(Aから)B迄に在る。
「紹於是渡河追公軍、至延津南。」
上記は、「動詞+至」の例 「渡&追+至」
至る、きたる、到着
>我々より良質のテキストを見ていたなら、姚の解釈の方が妥当であると考えていいだろう。
君の言動は、畿内説が南を東に換えたり、
一部の九州説が伊都國は末盧國の東南を東北に換えたりしているのと同じだ。
>「水行半歳」は、大秦からなのか魏からなのか、はっきりしてもらいたい。
驢分(エジプト)から魏への「水行半歳」です。
なぜなら、風疾風時に水行一月は、順風の西から東のコースの時に可能性がある。
低気圧の進行方向や左巻きの風向きと、モンスーンの風向きから不可能ではない。
魏人のアラビア人やインド人からの伝聞知識と考えられる。
東から西のコースは絶望的な可能性。 >>206
毎度のことで悪いけど、そういう読み方が訓読だとどうなるのか、示して欲しいんだが?
もしかして、できないの?
>我々より良質のテキストを見ていたなら、姚の解釈の方が妥当であると考えていいだろう。
>君の言動は、畿内説が南を東に換えたり、
>一部の九州説が伊都國は末盧國の東南を東北に換えたりしているのと同じだ。
論点をずらしているようだが。図星すぎて返事もしたくないということでいいのかな?
漢詩の一つも作れないのに、姚思廉が誤読していると、どうして断言できるのか?
驢分の話は、つまらないから結構だ。
基本的な読解すら満足にできていない人の話を聞いても無駄だしね。
ネタで言ってるなら、ふざけるのもいい加減にして欲しいし、
まじめに言ってるなら、ちょっと救いようが無いかもね。
ま、雨天決行どころか、暴風雨中敢行には笑わせて貰ったので、それについては感謝してるよw
ありがとう。
これからもお笑い漢文講座を続けてください。 >>1
1400年前にメートル法はまだ無かったよね? たしか日本でも唐でも律令に日数あたりの里程がきまってたろ
水行十日=水行一日×十日≒千里/日×十日≒76.4km/日×十日=764km
>>207
漢文訓読がオールマイティだと思っている馬鹿発見 >>212
白文だと、語順の違いや文字の有無で大きく意味が変わるけど、
訓読では、それを表現しようがないって、例えばどんなのがある? まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 「漢文訓読がオールマイティ」なんて誰も言ってないじゃん
漢文訓読すら出来ないのに何が解るの?って話だろ
基礎の基礎が解ってない奴に何が解るの? 要は「日本語に翻訳してみろ」って話だろ
日本語に翻訳出来ないのに「この文章の意味は…」と解説した所で何の意味もない
日本語に翻訳出来ない=文意を理解していないってこと
自身が理解していない文章をどう解説しようというのか >>212
数種類の言語をある程度のレベルまで学んだ者にはわかると思うが。
*直訳
単語を置き換えただけなので、事実に基く意味が全く違うものになることがある。
*意訳
感情情緒の翻訳に重点をおく方法と、
事実の正確な伝達に重点をおく方法がある。
漢文訓読は、定型化した翻訳であるので、直訳の一例。
最近の事例の意訳
force to laber 強制労働
force to work 勤労動員(韓國では強制労働と国内向けに発表) >>213
>>217
「父母兄弟臥息異處 」
上記を訓読しても、事実の正確な伝達としての意訳は出来ない。
さて、上記は別の部屋と読むのか、別の室と読むのか、はたまたベッドは別と読むのか、どう読めばいいのだろう? >>220
>>213だけど、その例文のどこが、私が>>213で求めたような文なんだ?
私は、>>204>>206の言うような、特定の文字や語順の場合に、
それがどう訓読に反映されるのかを知りたかったのだが。
>>220は動詞が変わったり、語順が変わったりすると、意味が大きく変わるのか?
そしてそれを訓読には反映させられないのか?
>上記を訓読しても、事実の正確な伝達としての意訳は出来ない。
というけど、なら白文では、意訳に十分な情報が読みとれるのか?
白文の段階で簡潔すぎるものの不十分さを、訓読の所為にしてどうするの?
ピントのぼけたことを言うのはやめてもらいたい。 >>220
文脈で明らかな場合はなるべく簡略な文にするのが漢文の常識だろ
「屋室あり」の前提だからベッドがちがうとか部屋や違うとかでなく
建物がちがうのは明らか >>223
つまり屋室が竪穴住居でこれがいくつも集まって倭人伝のいう「1戸」になってる
この屋室は奈良時代の房戸に相当し、倭人伝のいう「戸」は奈良時代の郷戸に相当 「父母兄弟臥息異處 」
遺跡を掘っても縦穴住居の数は多くない。
父母と娘子供は竪穴住居に住み、兄弟は其々苫屋(掘立小屋)に住む。
竪穴住居1軒と2〜3軒の兄弟用小屋で一戸。
壱岐対馬や玄界灘に面した冬季強風寒冷地では、
竪穴の深い竪穴住居に、一戸全員が雑居。 コテ付けて語る前にスレタイでも見たらいいんじゃなかろうか >>1
唐六典や日本の律令から簡単に割り出せるだろ 国土を過大に見積もらせるために、同じところを行ったり来たりしてる可能性さえあるよ。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>231
瀬戸内ならジグザグに進むだけで相当距離が延びる。 漢書や魏志で書かれた日本の呼称は「倭」の一文字。
シナの王朝が国外に与えた呼称で、一文字って他にどんな例があるのか。 >>233
>>235に加えるなら、濊、貊、氐、奚、羌、羯、とか、
取り込まれたものでは、莱、閩、粤、俚、とか、
今に残るものでは、壮、苗、瑶、白、彝、とか、
たくさんあるが、何を言いたいんだ? >>236
漢字一文字はシナ諸王朝と同格で、二文字より格上ってのは俗説か ところで?、トリビアで大阪湾(チヌの海)には右回りで還流する速い流れがあります。
神武天皇らの船舶が明石海峡(速吹の水門)を東に抜けた途端に未知の速い海流に流され
アレヨアレヨという間に大阪岸(住之江?)に流れ着いた。故に浪速と名付けた。
謡曲『高砂』で高砂から住之江(住吉大社)へ向かう行は、明石海峡に向かう引き潮と大阪湾の速い還流に乗れば約1日弱の船旅
淡路島の霊泉水が船で毎日樽に入れて朝廷に送られていた。
この還流を利用して河内、和泉地域と対岸の淡路島東浦側は歴史的に往来(船舶)が意外と簡単な為、結び付きが強い。
冬場の季節風で海が荒れる河内、和泉沿岸の漁労民らが淡路島の島陰で比較的海が穏やかな淡路島東浦側に移り仮小屋を建て漁労をしていました。、 渦潮で有名な鳴門海峡の最大流速は20〜25Km(大潮。瀬戸内海と太平洋(紀伊水道)との内外の落差2m)
また、明石海峡は意外と流れが速く最大流速は15Km以上。
同じく、紀淡海峡も流れが速く最大流速10Km以上。 >>237
それ司馬遼太郎だろ、最初に言い出したの。俗説だよ >ところで?、トリビアで大阪湾(チヌの海)には右回りで還流する速い流れがあります。
それで難波津の代わりに大和田の泊の福原京が出てきたのかね。
江戸の世に下ってさえ、播磨明石でなく摂津兵庫津という価値観だったのだろう。
北前船とかでね。 >>242
>で、南への水行の起点となった不弥国はどこ?
不彌國は吉野ヶ里遺跡(魏使佐賀ルート説に基いて)
不彌國からの水行はありません。
投馬國と邪馬台国は不彌國に南接して並んであります。
投馬國は有明海沿いの筑後平野(5万戸)。
邪馬台国は筑後平野の内陸部(+北野地域)(7万戸) 例えば瀬戸内海を昼間は本州から四国、夜間は四国から本州というように
ジグザグに進めば、魏の使いに国土の大きさも方向感覚も誤魔化せるよ。
東に行ってるのにずっと南に進んだように思わせ、しかも相当の距離を
進んだかのように誤解させられる。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 520 名前:日本@名無史さん [age] :2015/01/23(金) 16:58:43.06
>>518水系が違っていても、近くまで川が来ている場合、山越えの必要はない。
少なくとも宝満川と衣笠川は徒歩数分圏内
595 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 20:44:38.96
この川か。
筑紫野市紫2丁目付近だけど、思ったより水があるな。
http://i.imgur.com/zH9Ooir.jpg
一般に、川の水は昔の方が豊富だったそうだけど、これなら
今でも小舟が通れるぞ。
582 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 20:13:55.51
>>539
御笠川の源流か支流なんだね。
この辺りがあやしい。
http://i.imgur.com/MLlBZJK.jpg
664 名前:日本@名無史さん [sage] :2015/01/23(金) 22:52:40.12
>>661
ここか。
http://i.imgur.com/3tJHuyy.jpg
3から真南、モロに道になってる。これだなwww 舟の中で何日も接待していたから、邪馬台国まで行くのが遅れたのだろう 岸の人足が舟を縄で引っ張って進むんだから、時間かかるよ。 柳川の川下りでは、船頭の爺さんが、空舟を竹竿ついてさかのぼっていってたな。
流速が少なくて、堀が浅いからできるんだろうけどね。
で、昔水路として使われていそうな川で、しばしばいい具合に浅い川が見られることがある。 そもそも、帯方郡から女王国まで1万2千里だと言ってるが、
帯方郡から朝鮮半島南部まで7千里、朝鮮半島南部から対馬まで1千里、
対馬から壱岐(一大国)から1千里、壱岐から末盧国(長崎県松浦)まで1千里、
末盧国から伊都国(福岡県糸島)まで5百里と言っているので、
と言っているので、この時点で既に1万5百里。
大和までは、1万2千里の数字では無理ですな。 ところが漢書だと
朝鮮半島南部から邪馬台国まで7千里なんだよな >>252
>ところが漢書だと
>朝鮮半島南部から邪馬台国まで7千里なんだよな
漢書の何処に書かれてあるか、
何処にも無い。 >陸行1月についてまとめ
>畿内説
>@河内湾→奈良 35km 1.5km/日
>A舞鶴→奈良 120km 4km/日
>九州説
>@日田→佐伯(大分) 130km 4.6km/日
>A日田→日向(宮崎) 150km 5.5km/日
>B有明海→熊本 60km 2km/日
1月行=陸行1月=海行1月≒80km
5月行=海行1.5月+陸行3.5月≒400km(対馬北端〜大隅半島)
3月行=海行0.5月+陸行2.5月(五島西端〜豊後水道)
1月行=陸行1月=海行1月≒80km
5月行=海行1.5月+陸行3.5月≒400km(対馬久ノ下崎〜大隅半島佐多岬)
3月行=海行0.5月+陸行2.5月(五島大瀬崎〜大分佐伯市鶴御崎)
1月行=陸行1月=海行1月≒80km
5月行=海行1.5月+陸行3.5月≒400km(対馬久ノ下崎〜大隅半島佐多岬)
3月行=海行0.5月+陸行2.5月≒240km(五島大瀬崎〜大分佐伯市鶴御崎) 1か月が80kmとか100%ありえないだろ。
1日2km程度しか進めなくなる。
そのうえ、陸行と水行の単位を同系列で論じてるしwww 道が整備されてるわけでもないだろうから、1日あたり5キロがせいぜいだよ。 また痴呆老人が湧いてるのかwwwwww
うはw 直線距離とかwwww >>259
>そのうえ、陸行と水行の単位を同系列で論じてるしwww
陸行500里=水行500里≒40km
>1か月が80kmとか100%ありえないだろ。
1月行=80kmとすると、
陸行1月=陸行(1月行)=陸行80km=80km
海行1月=海行(1月行)=海行80km=80km
隋書百済伝俀國伝で確認できますよ。 >>263 意味わかってる? 陸行と水行が同じ速さだったのか…ってことが
問題なんだよ。 隋書倭国伝が九州のことを指しているという根拠ないし 普通に考えれば、「博多から畿内までかかった1月」という行程に
都合を合わせるために、月日で九州の大きさを示したんだろうね。
この隋書倭国伝の時点で、九州島の測量はされていただろうからね。
そうでないと、この時点で二種類の単位があることになっちゃうからね。 >>264
>意味わかってる?
意味は理解出来ています。
「陸行」「水行」「海行」は、進行する場所と方法の違いを示しているに過ぎない。
他例
陸行1日、水行1日、馬行1日、渡1000里(水を渡る時)、度1里(谷を渡る時) ・天皇家の祖先は山都から出たことにしよう。
・博多から1400里ぐらいじゃね。
・よし、九州の描写で固めるぞ。
・日数は1月だな。大和まででそれぐらいかかってたから。
・都合を合わせるために九州の大きさも月で表示しとこww
まさにこれw >>263,>>267の
再度の修正
1月行=陸行1月=海行1月≒80km
5月行=海行1.5月+陸行3.5月≒400km(対馬北端久ノ下崎〜大隅半島佐多岬)
3月行=海行0.5月+陸行2.5月≒240km(平戸島西端〜大分佐伯市鶴御崎)
他例追加
陸行1日、水行1日、馬行1日、船行1年、渡1000里(水域を渡る時)、度2里(谷等非水地域を渡る時) >>269 久留米氏、乙です。
ところで久留米氏は邪馬台国はどこにあったと考えている方でしたっけ >>270
邪馬台国の範囲は、筑後平野内陸部と北野地域(筑後川中流平野)で、
女王國の範囲は筑後平野(奴國・不彌國・投馬國・邪馬台国・他)です。
女王之所都は久留米南部(三潴に近い所)で邪馬台国の領域内にあります。
(根拠は日本書紀景行紀にある。)
又別に、邪馬台国の都は、広川か八女(八女丘陵の北側か南側)である。 >>271 すいません、名前に全て出ていたんですね。失礼しました。 又も修正
>>270
邪馬台国の範囲は、筑後平野内陸部と北野地域(筑後川中流平野)で、
女王國の範囲は筑紫平野ほぼ全域(奴國・不彌國・投馬國・邪馬台国・他)です。
女王之所都は久留米南部(三潴に近い所)で邪馬台国の領域内にあります。
(根拠は日本書紀景行紀にある。)
又別に、邪馬台国の都は、広川か八女(八女丘陵の北側か南側)である。 女王国以北特置一大率検察諸国畏憚之常治伊都国於国中有如刺史
女王国の北に伊都国(福岡県糸島市)があるそうで
大和とは無縁ですな >>274
女王国以北特置一大率検察諸国畏憚之常治伊都国於国中有如刺史
女王国の北に伊都国(佐賀市大和町大字久池井惣座)があることになる。
伊都國は女王國(筑紫平野のほぼ全域)の北端になる。 >陸行1月についてまとめ
>畿内説
>@河内湾→奈良 35km 1.5km/日
>A舞鶴→奈良 120km 4km/日
>九州説
>@日田→佐伯(大分) 130km 4.6km/日
>A日田→日向(宮崎) 150km 5.5km/日
>B有明海→熊本 60km 2km/日 ヤマトが近畿の奈良(ヤマト)なら、
半島から九州北部に渡った後、瀬戸内海や山陽道を行くのが順当なところ。
ですが、吉備王国がヤマト朝廷と関係が良くない、反目〜敵対していたとしたら、、、
九州から関門海峡を抜けた後、瀬戸内海を通行するのは危険。(中世の瀬戸内海各地の海賊(水軍)は名残では?)
安全上、豊予海峡を南下して一旦太平洋に出て足摺岬を廻って(一旦上陸して土佐国沿岸を行き)室戸岬の手前で再度船に乗り換えて海上を航行。
(土佐藩の参勤交代の行程がこれ。)
室戸岬を越え、伊島(剣山と熊野本宮の中間点。真北は淡路島の大和大国魂神社(二宮)〜加古川河口)を見つけたら急いで航路を北にとり、満ち潮に乗って紀伊水道に入り
遥かに沼島が見えて来たら航路を東側の友ヶ島の方向に取って紀ノ川河口を目指します
。
紀ノ川河口〜遡上して橋本辺りで上陸して、北に少し行けば
高天原のヤマト(都の意味) 高天原は高天山(金剛山)の東側(奈良県側)の高原地帯。とりわけ高天地区を指します。
これは、延喜式の中で正式にネタバラシされて公認されるところ。 >>9
全く嘘。
魏志倭人伝
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行、韓国を経て、南へ行ったり、東へ行ったりして、
北岸の狗邪韓国に到ること七千余里。
帯方郡からどうやって河だけを渡って狗邪韓国へ行くのかな?
w 因みに、と言うか長江(揚子江)や黄河他の大河を知る中国人に取っては
例えば瀬戸内海はそれらの川幅にも満たないもの。
(本州四国の三架橋ルートは考え方として、例えば長さ500キロの中国の大河に橋を架けるのと代わりない。と関係者は曰っていました) >>286 海と川の区別がつかないなんて中国人をバカにしてる もうこのスレに書き込むのやめませんか?
畿内説スレか九州説スレで事足りる話ですよね。
あっちのスレもこっちのスレも確認しないといけないの面倒なんですが… そうだな。そろそろやめるか。
じゃ続きは九州説スレと畿内説スレでやるということで…。OK? >>270
>>274>邪馬台国の都は、広川か八女(八女丘陵の北側か南側)である。
邪馬台国の中心地である「官有伊支馬」の居る場所は、八女室岡遺跡群が最有力であることを書き足します。
どの遺跡かはまだ特定できていません。 ★★★★★★★★★★★★お願い★★★★★★★★★★★★
このスレにはもう書き込まないでください。
佐藤と名乗るスレ主がトンズラしています。
内容的にも邪馬台国スレで間に合いますので、今後は
畿内説スレか九州説スレで議論の継続をお願いします。 そういう意味ではなくなって、瀬戸内海は酔っ払い寝ぼけた中国人には河川と勘違いする位の規模。
(瀬戸内海は場所にも依るけど意外な程流れが早い)
時代が下り、外国からの使節団は直接、首都港湾の難波津(墨廼江)には 行く事を禁じられていて
その手前の敏馬(ミヌメ)の泊(神戸市灘区沖合い)に定錨して
敏馬神社の迎賓館に一旦入り、生田神社で醸した御酒で歓待する決まりが有った。
(安全保障上の問題と防疫(過去、半島からの使節団が来る度毎に疫病(天然痘)が蔓延したことから)の為。ワンクッションを置いた) ★★★★★★★★★★★★お願い★★★★★★★★★★★★
このスレにはもう書き込まないでください。
佐藤と名乗るスレ主がトンズラしています。
内容的にも邪馬台国スレで間に合いますので、今後は
畿内説スレか九州説スレで議論の継続をお願いします。 >>292 日本語が読めんのかボケ。もうこのスレは終わりにしようと
言ってるんだ。与太話なら他のスレでやれや >>281
>帯方郡からどうやって河だけを渡って狗邪韓国へ行くのかな?
「帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行、韓国を経て、南へ行ったり、東へ行ったりして、
北岸の狗邪韓国に到ること七千余里。」は、私の訳を引用しているようですが、
>>9は私じゃないよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています