質問だけど水行10日って何キロなの? [転載禁止]©2ch.net
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>>94
淮水を「水行」したという用例を挙げてください。 >>94
海岸を航行するときは、「海岸水行」と書いてますよ。
単なる「水行」は、川。 「孟賁,古之勇士,水行不避蛟龍,陸行不避豺狼,發怒吐氣,聲音動天」史記-卷百一十七‧司馬相如列傳第五十七
蛟龍が生息できるのは、淮水流域と長江流域である。黄河流域は蛟龍生息不可。
長江流域ではないので、水行するのは淮水流域となる。
「水」が「淮水」を意味する実例は失念。今は実例を忘れて見つからない。
「彭城要兼水陸,魏人南寇,水行自清入泗,陸行自歷城、瑕丘, 皆湊彭城,故云要兼水陸。請以皇子撫臨州事。」資治通鑑-卷一百二十五
彭城(徐州)は淮水流域にある。
>>96
海岸を航行するときは、「海岸水行」です。
単なる「水行」は、岸に沿う淡水域航行。
水域「水行」の概念に水域としての海も含まれている。 「水行」
水辺(淡水域・海水域)を岸に沿って(循岸)舟(船)で行くこと
「陸行」
内陸を(徒歩・車で)行くこと
「馬行」「草行」「泥行」「山行」「擿行」 >>98
明らかに間違ってる。
「水行」が岸に沿って進むだと、「海岸水行」は、海岸を岸に沿って進むになってしまい、
岸が重複する。そんな無駄な表現はしない。
また、川なら常に岸に進んでるわけで、言わずもがな。
「海岸水行」は、「海岸に沿って進む」だけど、単に「水行」と書いたら、川を進む
か、あるいはまったく逆に、大海の中を岸を見ずに進むという意味だよ。 >>99
>大海の中を岸を見ずに進むという意味だよ。
上記は、「海行」である。「水行」ではない。
「水行」は「岸辺に沿って水域を進む」の意味。
「循海岸水行」の「循」と「岸」は、進行している水域が海であることを重ねて強調しているだけ。 >>94-97
>古代の中国語で「水」とは、「淮水」のことです。
明らかに誤り。そもそも音が違う。
古代中国で川の固有名詞は、一音節一文字で、三水+声符というのが通例。
「河」(黄河・河水)や「江」(黄河・江水)ですらそうなのに、
済水を含めた華夏四瀆の中で、どうして淮水が「川」の代表で「水」と呼ばれるのか。
>「水」が「淮水」を意味する実例は失念。今は実例を忘れて見つからない。
そもそも古代中国で普通に「淮水」を「水」と呼んでいたのなら、
経書や正史に幾らでも用例を見出せるはずで、忘れて見つからないというのは理屈が破綻している。
例が多いなら検索で出るはずだし、見つからないほど例が少ないなら主張が通らない。
ただ「水」と書かれていても、前後の文脈からそれが「淮水」であると判読できるのは、この場合の用例にならない。
例えば、九州北部を話題にしている文章に「港」と書いてあった場合、
それが博多であると解されるのは文脈から類推できるからであって、「港」の字に博多の意味があるわけではない。
「水」単独で淮水を示すのなら、字書に解説があって良さそうなもの。しかし、ない。
ttp://tw.18dao.net/%E6%BC%A2%E8%AA%9E%E8%A9%9E%E5%85%B8/%E6%B0%B4
まさかとは思うが、説文の「准也」を「準」でなく「淮」と誤認しているのではあるまいな。 >>94-97
>淮水流域である北緯35度以南の河南平原を船で移動することが「水行」です。
この主張は以下の一文から導かれるものだと思うが、
>蛟龍が生息できるのは、淮水流域と長江流域である。黄河流域は蛟龍生息不可。
蛟龍が黄河で生息できないというのは、何に書かれているのか。
> 淮水本支流湖沼を船で1日移動することが「水行1日」で、 その移動距離は約千里(80km)です。
具体的な数字は何を出典として算定されたのか。
>淮水本支流湖沼の岸に沿って移動することが「水行」なので、
>海を含めた水域の沿岸を移動することは「水行」とされています。
漢籍での「水行」の用例で、最も古い時期に当たるのは、
史記・夏本紀の「陸行乘車、水行乘舟、泥行乘橇。」であり、
同・河渠書に「陸行載車、水行載舟、泥行蹈毳、」と異同はあるが同じ意味で出ている。
漢文というのは対比表現が多いので、この「水行」が地域を限定した意味なら、
「陸行」や「泥行」にも想定される地域がないと表現として成立しない。
「水」が淮河なら、「陸」「泥」とは、どこなのか。
当然ながら、用例と一緒に説明してもらいたい。
>海岸を航行するときは、「海岸水行」です。
これについては>>99に全面的に合意する。 >>102
>「水」単独で淮水を示すのなら、字書に解説があって良さそうなもの。
実例があるよ。
【河】 河の名、黄河の称
【江】 揚子江の称=大江・長江
【水】 河川、「淮水」「湘水」「漢水」 >>104
字書の読み方も知らない童蒙は去ね。
引用した文の上の三行も理解できない奴の来る所ではない。 >>105
辞書の読み方は少しは解かるが、字書の読み方は全く知らん。 >>106
そんな頭だから中共がどうとかバカみたいなことを平気で言えるんだよ
電波は引っ込んでろ 日数は火時計の経過時間、それと太陽方位角測定で距離を算出 >>104
その説明文をどう読むと、「水」一字で淮水を指すと言えるのか?
3の場合、「水」には河川の意味しかない。
「河」には「黄河の称」、「江」には「揚子江の称」という説明がある。
しかし「水」には、「淮水の称」という説明がない。
特定の河川を指す場合には、固有名詞の文字を加えている。
「水」を含む熟語の例として、「淮水」「湘水」「漢水」を挙げただけだ。
その説明で「水」が淮水を指すというのなら、湘水や漢水を指す場合もあるわけで、
結局文脈に拠らざるをえないではないか。
ごく普通の短文も曲解する、用例も出せない、そういう人には引っ込んでてもらいたい。
屁理屈をひねり出す知恵比べをしているのではない。 >>109
なんだ、魏志を読む時の用例は、少なくとも六朝以前とか考えていたんだけど、
そういう制約が無いなら、北史を使うね。
ちなみに、先行史書からの引き写しと見られる、倭の記事も載ってる。
流求傳
流求國居海島、當建安郡東、水行五日而至。
赤土傳
赤土國、扶南之別種也。在南海中、水行百餘日而達。
さて、建安から流求への経路、扶南から赤土への経路を教えてください。
どこの河川を航行して到達したのでしょう? まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>110
【水】 河川、「淮水」「湘水」「漢水」 ・・・の解説
河川は、北緯32°〜北緯35°の傾斜の殆どない平野にある。
この平野は多雨地帯にあって湖沼が数多く分布する。水田耕作地域である。
歴史上の政権は、この地域を支配するには治水をせざるをえなかった。「政治」の語源
この平野に分布する河川は全て淮水の本支流である。「淮水水域」
北緯35°以北の平野は少雨畑作地帯の「黄河水域」である。
北緯32°以北であっても「長江水域」はこの平野には含まれない。
この平野にある河川だけが「水」であった。
であるから、この淮水水域平野の河川の名称を「○水」と呼ばれた。 >>96
>海岸を航行するときは、「海岸水行」と書いてますよ。
>単なる「水行」は、川。
海岸を航行するときは、「循海岸水行」と書いてますよ。
しかし、「水行」には「循岸」の意味も含まれます。
「循岸」無しの水行は不可能。
単なる「水行」は、河川湖沼。 >>114
無知蒙昧の輩が、自分勝手な結論を先に拵えて、屁理屈を展開するから、
そのような支離滅裂で常人に受容されない文章を書くのだ。
>河川は、北緯32°〜北緯35°の傾斜の殆どない平野にある。
河川は、地球上のあらゆる所にある。
>この平野は多雨地帯にあって湖沼が数多く分布する。水田耕作地域である。
>歴史上の政権は、この地域を支配するには治水をせざるをえなかった。
華夏族、中華帝国の、治水における最大の関心は黄河に向けられた。
禹の伝説もそうであるし、史上何度か流路を大きく変えた黄河の話は、今更述べるまでもない。
>「政治」の語源
どこがどう語源になっているのか、全く説明できていない。
>この平野に分布する河川は全て淮水の本支流である。「淮水水域」
>北緯35°以北の平野は少雨畑作地帯の「黄河水域」である。
>北緯32°以北であっても「長江水域」はこの平野には含まれない。
冒頭からそうだが、水系や平野を緯度で恣意的に区分する正当性が全く明らかでない。
>この平野にある河川だけが「水」であった。
>であるから、この淮水水域平野の河川の名称を「○水」と呼ばれた。
「水」の一字のみで文脈に拠らずとも淮水を示すことができるなら、漢籍から用例を挙げて主張すること。
引用する字引が何であるかも示さず、その説明を曲解するような輩には、荷が重いか?
「湘水」「漢水」が例示されている時点で、既に論理が破綻しているではないか。
自分以外で、「河川」をそのように解説している学者を、一人でもいいから挙げてみよ。
誰も居ないなら、そのような支離滅裂な解説が成立する余地は皆無である。
全く以て説明の体を成していない。
屁理屈をひねり出す知恵比べをしているのではない。
食い下がれば、議論が続行するわけでもない。 思い込むのは勝手だが、議論の成立する理解能力を有しているとは、とても思われない。
はっきり言って出る幕ではない。
>>115
「水行」について詳しそうなので、是非御教授ねがいたい。
裴註所引の魏略・西戎傳に以下の文が見える。
澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歳、風疾時一月到、
沢散と驢分の位置、水行の経路について、当然知見に含まれるであろうから、どうか高説を賜りたい。
また、時代の異なる用例だが、>>103や>>111について、どういう認識をされているか。
不躾ながら、寸暇の折りに回答をいただければ幸いである。 >>117
>蛟龍が黄河で生息できないというのは、何に書かれているのか。
蛟龍(アリゲーター)は、温暖で水の豊かなところでないと生息出来ない。(生物学の常識)
黄河流域は冬寒冷で水量の変動が激しく蛟龍の生息は不可能。
>(「水行1日」80kmの)具体的な数字は何を出典として算定されたのか。
魏志倭人伝もそのひとつ
>漢籍での「水行」の用例で、最も古い時期に当たるのは、
>史記・夏本紀の「陸行乘車、水行乘舟、泥行乘橇。」であり
言語「水行」の成立は、史記よりも古い淮水水域が舞台となった東周春秋戦国時代です。
>制約が無いなら、北史を使うね
「北史」は大部分が散逸したため、10〜12世紀頃「周書」等からコピーして編纂されたものです。
どのような集団が編纂したのかは失念。
散逸した部分の「北史」は、唐初(650年以前)までに編纂された「周書」等からコピペ編纂したものです。
「周書」と「北史」のコピペ部分を比較すればどちらが原本かよくわかります。
>建安から流求への経路、扶南から赤土への経路を教えてください。
>どこの河川を航行して到達したのでしょう?
「北史」のコピー引用した先行史書が5〜6世紀のもの(梁書、周書等)であれば、
シナ大陸長江・東南海岸・南海岸・ベトナム海岸・タイ湾東岸を「循海岸水行百餘日(8000km)」(5500km)です。
マレー半島回ってミャンマーまで行っておれば航路は約8000kmです。
「澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歳、風疾時一月到」は調べてから。 >>118
>蛟龍(アリゲーター)
三国時代までの記述で、蛟龍=アリゲーターであるというのは、何を根拠としているのか。
生物学の常識ではなく、当時の中国人の知見として、何に書かれていたのか。
>>「水行1日」80km
算出した具体例を挙げよ。隋書倭国伝か?
三国志より後代の記事では、参考値にしかならないが、引用されたい。
>魏志倭人伝もそのひとつ
現時点では魏志倭人伝の諸国の推定地は、諸説紛々なので根拠にならない。
>言語「水行」の成立は、史記よりも古い淮水水域が舞台となった東周春秋戦国時代です。
ならば、先秦の「水行」で文脈に拠らず淮水であると判読できる用例を挙げよ。
また、史記・夏本紀の記事が、先秦に遡らないと断言できるのか。
少なくとも、「陸行乘車、水行乘舟、泥行乘橇。」は三国志より先行する。
「水」が淮水なら、「陸」と「泥」がどこなのか答えてもらいたい。
>「北史」は大部分が散逸したため、10〜12世紀頃「周書」等からコピーして編纂されたものです。
どうせ三国志より後代なのだから、時期や出典は拘らなくて宜しい。
余計な講釈は要らないから、海岸伝いでどうやって流求へ到達するのか解説せよ。
>シナ大陸長江・東南海岸・南海岸・ベトナム海岸・タイ湾東岸を「循海岸水行百餘日(8000km)」(5500km)です。
>マレー半島回ってミャンマーまで行っておれば航路は約8000kmです。
中国から扶南までの経路は問うていない。
扶南から赤土へ、なぜわざわざ迂遠にもタイランド湾を周回せねばならないのか。
例えば、鳥羽から伊良子へ行くのに、どうして伊勢湾を巡らねばならないのか。
>「澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歳、風疾時一月到」は調べてから。
「水行」がどうのこうの語っているくせに、すぐ答えられないなら、
直近の裴註すら碌に読んでいない証拠ではないか。 >>蛟龍(アリゲーター)
>生物学の常識ではなく、当時の中国人の知見として、何に書かれていたのか。
当時のシナ人が「アリゲーター」のことを「蛟龍」と呼んだのです。現代日本語なら「ワニ」。
当時シナに「カミツキガメ」がいたなら「蛟亀」と呼んだのでしょうね。
>>「水行1日」80km
>算出した具体例を挙げよ。隋書倭国伝か?
隋書倭国伝では「1月行」80km(=「海行1月」)がわかります。
隋書百済伝では「海行1月」80kmがわかります。
>海岸伝いでどうやって流求へ到達するのか解説せよ。
書き忘れていた。
流求傳
流求國居海島、當建安郡東水行五日而至。
この「水行」は、渡海の様な例ですね。
航路は台湾海峡を越えて、右手に台湾を見て「水行五日(400km)」で八重山群島(流求國)に着いたと読めます。
このような用例は、魏志倭人伝にも見えます。
水行10日=韓地循海岸水行7日(7000餘里)+渡海3回水行3日(1000餘里×3回)
で帯方郡から末盧國です。
>「水」が淮水なら、「陸」と「泥」がどこなのか答えてもらいたい。
「淮水水域」は東西800km南北400km(河南省。安徽省、江蘇省)の
湖沼河川が網の目のようにある低湿地と呼ばれてもよいような勾配が殆どない平野ですよ。
>>「澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歳、風疾時一月到」
今のところ、「大秦」「在海中央」「驢分」の場所が特定できませんので、未だご要望に応えられません。 >>120
9 15 53 62 93 109 120
他スレでもそうだし、結局荒らし風情は、何も議論できないわけか。
言い張るだけで、疑問に答えられないなら、自説が正しくないと認めているようなものだ。
掲示板でのコピー&ペースト連投は違反である。そんな奴の主張は合理的でもなんでもない。 >>121
>当時のシナ人が「アリゲーター」のことを「蛟龍」と呼んだのです。
自分がそう思い込んでいる、それ以上の根拠が無い、ということだな。
つまり議論に値しない、そう認めているわけだ。出典も挙げられないのだからな。
>隋書倭国伝では「1月行」80km(=「海行1月」)がわかります。
>隋書百済伝では「海行1月」80kmがわかります。
地点の推定が正しいと言い切れない以上、そのような算出に、全く価値が無い。
地球上のどこを航行しても、全く同じ条件、同じ速度で進めるわけはない。
参考値にはなるが、そんな安易な尺度を他の史料の全てに適用できるはずもない。
>この「水行」は、渡海の様な例ですね。
「水行」は専ら内水沿岸通行だと言っておきながら、文脈によって渡海と解釈するのか。
投馬國や邪馬臺國も渡海と解する者が居ても、文法として何ら誤りでないと言ってるようなものではないか。
>このような用例は、魏志倭人伝にも見えます。
酷い自己矛盾だのう。狡いと思わないのか。
「水行」で渡海を示しているのは、魏志倭人伝のどこか。文面を引用せよ。
>>「水」が淮水なら、「陸」と「泥」がどこなのか答えてもらいたい。
>「淮水水域」は東西800km南北400km(河南省。安徽省、江蘇省)の
>湖沼河川が網の目のようにある低湿地と呼ばれてもよいような勾配が殆どない平野ですよ。
回答になっていない。漢文の読解として、対比を考慮しないのだな?
つまり、「水行乘舟」が淮水であるというのは、思い込みでしかないと、そういうわけだな。
>今のところ、「大秦」「在海中央」「驢分」の場所が特定できませんので、未だご要望に応えられません。
そうかそうか。他の部分も全く要望に応えていないから気にするな。
まあ、場所の特定などせずとも宜しい。珍解釈など聞きたくもないしな。
「水行」だけでは川なのか海なのか判別できないということが理解できるなら構わない。
理解できない、川だ、と言い張るなら、少なくともどこの川なのかくらい、特定してもらわないとな。 >>94
>古代の中国語で「水」とは、「淮水」のことです。
>>118
>言語「水行」の成立は、史記よりも古い淮水水域が舞台となった東周春秋戦国時代です。
結局、「水」だけで淮水を示すような用例を挙げることができない。
要するに、そんなものは無いのだ。
めぼしい経書や史書の殆どは、ネット上で一般人も全文検索できるのに、
端的な用例が、忘れたら出て来ないというのは、言い訳として成立しない。
>>97からして、「史記」や「資治通鑑」からの引用ではないか。
先秦の史料を自分で挙げられないなら、主張が全く成立しない。
「史記」より古い史料を挙げられないのに、なぜ東周春秋戦国時代だと言い切れるのか。
恥を知らぬか。ここは信念や信仰の強さを競う場ではない。
蛟龍=アリゲーターというのは、何か面白い話が聞けるかと思って期待したが、
生物学の常識などというくせに、漢籍の出典も、そのように考察した経緯も、全く出て来ないのには呆れる。
>>103でも述べたが、漢文というのは対比表現が好きである。
「蛟龍」の「水」が淮水なら、「豺狼」の「陸」というのも、ただ漠然と陸地というのではなく、
どこかの地域を想定しているはずである。具体的にどこなのか。
因みに、「豺狼」というのは、現代の常識的な生物学では、何に該当するのか。
それにしても、コピペ荒らしよりはマシかと思ったが、結局この程度か。
屁理屈は言い続けていれば通るというものではない。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>124
幅の狭い理解能力の御方だね。
>「蛟龍」の「水」が淮水なら、「豺狼」の「陸」というのも、ただ漠然と陸地というのではなく、
>どこかの地域を想定しているはずである。具体的にどこなのか。
「豺狼」(ヤマイヌとオオカミ)は、「水域」に対する「陸域」である。
「陸域」は、少雨乾燥地帯の北緯33°以北。
紀元前のシナ文明の中心地は華北平原である。
北緯33°以北の華北平原が陸域、商殷西周代の中心地域、少雨畑作地域
北緯33°以南の華北平原が水域、多雨水稲作地域
BC17C〜BC11Cに北緯33°以北の華北平原の陸域で交易商人が、
旅中に「豺狼」から身を守る為にも使ったのが周髀(8尺棒)。 >>127
>幅の狭い理解能力の御方だね。
いやあ、お恥ずかしい。
受け売りしかできない、都合の悪い質問には答えない、誰かほどではありませんよ。
漢文は対比であると度々言ってきた。
反論が無い以上は、当然に異論は無いのであろう。
>「豺狼」(ヤマイヌとオオカミ)
「豺狼」が、「豺&狼」という並称なら、「蛟龍」も「蛟&龍」という並称になるはずである。
蛟龍=アリゲーターであるという回答は得たが、「蛟」と「龍」とはそれぞれどういう意味か。
また、「ヤマイヌ」と「オオカミ」とが、どのように異なるのか、門外漢には分からない。
現代の常識的な生物学には、学名という識別にはもってこいの方法があるので、
是非、「豺」「狼」「蛟」「龍」それぞれ学名では何というのか、解説して欲しい。
ちなみに、「アリゲーター」と同様に、「ヤマイヌ」と「オオカミ」についても、
出典となる漢籍や、そのような回答に至った過程が全く説明されていないので、
結論ありきの議論するに値しない、個人的な思い込みを披露されたものと考えて宜しいな。 さて、訊ねてもいないことは得々と語るくせに、肝心なことに答えないというのは、
ある種の人々によくあることで、今更気にしないけど、はっきりさせておこう。
「水」は一字で淮水を示すことは無い。
「水」の字は、waterでなければ、riverの意味であることが多く、特定の河川を指すことは無い。
但し、文脈によって分かる場合は除く。これは>>102の博多の例えのようなことである。
川を指し示すことが多くとも、池沼や海洋を排除するものでもないことは、字書を見てもわかる。
そして、「水行」は水上を行く意味でしかない。
中国は大陸国家であるから、専ら河川内航であろうけど、海上交通を排除しているわけではない。
「水師」「水程」が海にも使われるのと同様である。
反論があるなら、ただ言い張るのではなく、先秦の漢籍を引用すること。
今のところ、「水行乘舟」「水行半歳」、流求や赤土の件で納得できるような回答を得ていない。
思い込むのは自由だが、誰もが納得できる論拠を呈示できないなら、独りよがりの謬説である。 倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。
魏書東夷伝の倭人の条は、この有名な一文から始まる。
冒頭から倭人は海島に居るという大前提を示している。
このことは、後続する倭人についての記述の全てに掛かっている。
海を意味する文字が近接して無くとも、大海の中の山島を「水行」したことは明らかである。
海島である倭地を「水行」する場合、大陸国家の中国本土とは違うのだから、
海岸通行、もしくは渡海と考えて、何も不思議なことはない。
河川通行を完全に排除するわけではないが、海でないと断言することもできない。
また、倭が海の向こうの国なのであれば、海上を通行した推定するのが自然と考えて、何もおかしくない。
>>127
少しは期待したのだが、結局根拠も無い思い込みを繰り返して述べることしかできないか。
全く以て残念だ。
不毛な応酬をしても得るところがないので、根拠が示されない妄言には、今後コメントしない。 帯方郡
↓水行七千里
狗邪韓国
↓海渡千里
津島国
↓海渡千里
一支国
↓海渡千里
末盧国
↓陸行五百里
伊都国
↓(東南)百里
奴国
↓(東)百里
不弥国
↓(南)水行20日
投馬国
↓(南)水行10日・陸行1月
邪馬台国
女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり
畿内説は、邪馬台国から東に海を渡った倭人の住む国を明らかにせよ! なんだよ、もう出て来ないのか。
>>127で「幅の狭い理解能力」なんて捨て台詞をはいたは良いが、
自分の論理構成の方が未熟だったと、漸く気付いたか?
それならそれでめでたいが、ほとぼりが冷めるまで隠れているだけなら、未来は無いな。
>>131
そういうのは他の邪馬台国スレでやればいいのでは? これを真南に一直線に線を引いて、
「これでは海のどまんなかに出てしまいます」と
大真面目にやる学者共って本物のバカだよな >>133
具体的に誰のこと?
「共」ってくらいだから三名くらい挙げられるよね? >>128-159
もし、理解しようとする気があるなら、理解の手助けをしよう。
「豺狼」
「豺」:野生のイヌ 山イヌ、家畜のイヌ(狗)ではない。
イヌ科オオカミ型ドール属(古代中国にいた動物「豺狼」「豺蜀」)
イヌ科オオカミ型イヌ属(古代中国にいたジャッカル、コヨーテの様な動物)
「狼」:イヌ科オオカミ型イヌ属(大陸オオカミ、ジャッカル、コヨーテ)
「狗」:イヌ科オオカミ型イヌ亜属(家畜のイヌ)
よって、「豺狼」は、野生イヌの様なオオカミ又はオオカミの様な野生イヌと解することができる。
「蛟龍」:アリゲーター、シナ大陸に生息するワニ
「蛟」:咬みつく爬虫類
「龍」:想像上の大型爬虫類
よって、「蛟龍」はシナ大陸に生息するワニのアリゲーター
>>129には、ほぼ同意であるが、何に反論しているのか理解できない。
しかし、「水」は単なる河川ではなく、「淮水水域」を指す言葉である。
黄河が華北平原を南東に横断して淮水に合流していた一時期には、
北緯35°以南の華北平原の黄河流域も「淮水水域」に含まれる。
未だお望みなら、
「水行乘舟」「水行半歳」「流求や赤土の件」「華北平原の北緯33°線の補足説明」については、そのうち説明する。 >>
>>129
3世紀に貿易風を利用した大洋横断航海知識があったとの仮定があれば、
「水行半歳」は説明できます。
「水行半歳」=「水行183日」=183000里=14000km まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>136-137
根拠が全く示されていないので、個人の勝手な臆測と解釈していいのだな。
何の価値も無い駄文を、一生懸命考えてきたわけだ。
御苦労様。 >>140
自明の理を説明してもらっているのがわからないようだな。
君の言は、1+1=2の根拠を示せといっているのと同じだ。
お互いの論理が噛み合う事はないね。
君の「論理」は、私の「非論理」。「無論理」かな? >>140
自明の理なら、他に多数の人がそういうことを書いているはずだ。
また、自明の理なら相当数の学者がそれを語っているはずだ。
幾つか例示して見せよ。
例のブログくらいしか挙げられないようではダメだ。
それと、自明の理なら、なぜこんな掲示板でしつこく主張するのだ?
おまえは「1+1=2」であると、声高に主張して楽しいのか?
幼稚園児か?
私は「論理」、おまえは「非論理」。
良く分かってるじゃないか。 ちなみに「1+1=2」も説明しようとすれば出来る。
検索するといくらも出てくる。
自明の理を、誰に頼まれたわけでもないのに、わざわざ何度も掲示板に投稿するくらい、
「1+1=2」というのを広めたいなら、
「1+1=2」を自分の言葉で説明してみたらどうだね?
そうすれば、私のように、自明の理を理解しない愚か者でも、
「1+1=2」を理解しようとするかもしれない。
まあ、できないのだろうけど。 漢籍を読むのに自明の理が使えたとは、掲示板を読んでいると勉強になるわ。
これからは、根拠の無い思いつきは、自明の理だと強弁することにしようか。
相手にされなくなるだけだから、やめとくわw >>144
>漢籍を読むのに自明の理が使えたとは、掲示板を読んでいると勉強になるわ。
私は漢籍を読むのが目的ではない。
私の目的は、古代シナの歴史を探求することだ。
漢籍を読むことは探求の一法に過ぎない。
私は、生物地形地勢気象地球物理天文等の自然科学的技法も動員して、
古代シナの歴史を探求しているのだ。
生物地形地勢気象地球物理天文等自然科学を学んだ者以外では理解し難い自明の理がある。 >>142
>例のブログくらいしか挙げられないようではダメだ。
「例のブログ」とは何だ。私は知らない。 「周髀算經」には、商殷人の見た紀元前12世紀末(BC1125〜BC1113)の
天体(北極中大星)が書かれている。
君たちには文献史学だけをする者には想像もつかないだろう。 >>145
なるほど。
国語を学んでいない輩の文章とは、こんなものか。
博学多識でも国語が怪しくては無理もない。辞書を引いたことはあるか?
「自明の理」というのは、何人でも理解する説明不要の道理を指す。
碩学にしか理解しえないのは「自明の理」とは言わないの。
何をどう学んだか知らないが、程度によるぞ?
高校レベルなら、こんな所で他人に自慢するほどのこともない。
老子に「大賢は愚なるが如し」という言葉がある。
自分から学識を誇るような奴に碌なのは居ない。
まして、こんな掲示板で、説明に窮して気勢を上げる能しかないのでは、なおさらだ。
始めの内は、求められるように用例を出していたくせに、
「自明の理」だの「自然科学を学んだ」だの、言い訳しかできないのを見苦しいとも思わないようだ。
客観的に自分がどう見られているか、少し考えてみたまえ。
人一倍学んでいようと、根拠を説明できないのなら、おっさんの単なる妄想としか受容されない。
論理学の基礎も知らないようでは話にならんな。
余人に説明できないのは、余人より優秀だからではなく、余人より愚劣だからだ。
古代支那の歴史を究明する前に、自分の身の程を知った方が、今後の人生のためにもなろうぞ。 >>146
おやおや。
たかだか150に満たないこのスレを、一読すれば分かることも知らないのか。
そんな疎漏な奴に古代支那の歴史が究明できるのかね。
滑稽だし、心配だよ、もっとがんばりたまえ。
>>147
巻三十の裴註すら碌に読んでいなくて、未だに回答できないくせに、
随分と機嫌が宜しいことで。
根拠が何も無くても、説明するだけの能力が無くても、
このように勿体付けて披露すると自己満足に浸れるのか。
自分もやってもようかな、誰にも相手にされなくなるからやめておこう。
歴史の真実を探究して、好き放題に書き散らすのは、さぞや楽しい日々であろうな。
これからもがんばってね。 ご要望があったので遅ればせながら「水行半歲」について解説いたします。
「澤散王屬大秦 其治在海中央 北至驢分,水行半歲,風疾時一月到」
「澤散」:エジプト、
「大秦」:ローマ帝国
「澤散王」:ローマ人のエジプト執政官
「海」:地中海
「驢分」:中北イタリアの国、コルシカ島の対岸付近、ピオンビーノ?
「半歲」:半年の期間、6ヶ月、183日間
「水行半歲」=「水行183日」=「水行183000里」=14000km
「風疾時一月到」:疾風に乗れば1ヶ月で着く
シナから澤散(エジプト)までの航路
東シナ海―台湾海峡―南シナ海縦断―シンガポール―マラッカ海峡
―スマトラ島北端―インド洋横断―スリランカ―インド洋横断
―アデン湾―紅海―スエズ湾 >>150
なんで「水行」なのに海だけ通行してるの?
なんで河川池沼じゃないの? >>151
「水行」には、淡水域だけでなく海水域でも「水行」とする用例があります。 >>152
投馬国や邪馬台国は大海の中の山島だよね?
違うの? まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>153
>投馬国や邪馬台国は大海の中の山島だよね?
>違うの?
だから、投馬國へは帯方郡から「水行20日」、
邪馬壹國へは帯方郡から「水行10日」となっている。 >>156
あなたは
94 97 100 104 114 118 121 127 136-137 141 145-147 150 152
の誰かなのかな?
「水行二十日」「水行十日」以外にも、旅程の記事は終点のみを記しているのが殆ど。
直前に記載された地点からでなく、帯方郡からだというのは、どうやって判断するの? 真水も水、海水も水、水であることに変わりはない
水行とは、陸路行に対する水行のこと >>157
>>http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1433068961/403
その他例文W
@南水行二十日至投馬國
A南至投馬國水行二十日
@では、水行二十日は「南」を修飾します。
直前の不彌國と投馬國の距離が水行二十日となります。
Aでは、水行二十日は投馬國を修飾します。
距離の起点である帯方郡と投馬國の距離が水行二十日となります。
その他例文X
@南水行十日陸行一月至邪馬壹國女王之所都
A南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
@では、水行十日陸行一月は邪馬壹國を修飾します。
直前の不彌國と邪馬壹國の距離が水行十日陸行一月となります。
Aでは、水行十日陸行一月は邪馬壹國を修飾します。
距離の起点である帯方郡と邪馬壹國の距離が水行十日陸行一月となります。
「南至」と「南行至」の違いについて注意。
「東南至奴國百里」と「東行至不彌國百里」と同様。
上記「奴國」と「不彌國」への距離の起点は伊都國であることに注意。 >>159
>南水行二十日至投馬國
南へ水行すること二十日にして投馬國に至る。
>南至投馬國水行二十日
南の投馬國に至るには水行すること二十日なり。
>南水行十日陸行一月至邪馬壹國女王之所都
南へ水行すること十日、陸行すること一月にして、邪馬臺國に至る。女王の都とする所なり。
>南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
南の邪馬臺國、女王の都とする所へ至るには、水行すること十日、陸行すること一月なり。
>東南至奴國百里
東南の奴國に至るには百里なり。
>東行至不彌國百里
東へ行きて不彌國に至るには百里なり。
はて?
何が言いたいのかさっぱり分かりないね。
文中の修飾関係だけで、起点が変わるの?
起点が変わる時は「自郡」というふうに明示されると解すのが自然だろうね。
前二者は伊都国で、後二者が帯方郡というのも、御都合主義だし。
全四者が何れも伊都国か帯方郡というのなら、まだ付き合ってもいいけど。
>やっと理解できる方々が現れました。
要するに、常人には理解できないということかな。 >南水行十日陸行一月至邪馬壹國女王之所都
南へ水行すること十日、陸行すること一月にして、邪馬臺國なる女王の都とする所に至る。
>南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
南の邪馬臺國なる女王の都とする所へ至るには、水行すること十日、陸行すること一月なり。
この方がいいかな、大して違わないけど。 >>161
>文中の修飾関係だけで、起点が変わるの?
>起点が変わる時は「自郡」というふうに明示されると解すのが自然だろうね。
「從郡至倭」であって「自郡至倭」ではない。
「自郡至倭」ならコロコロ起点は変わらない。
「從」は「帯方郡」が経過点であること示す語である。
「從郡」:郡を通って、郡の先、郡の向こう
距離の起点になることが出来る語句
從:「從郡」
到:「到其北岸狗邪韓國」、「到伊都國」 >>161へ追加説明
@「始度一海千餘里、至對海國」
A「始度一海、至對海國千餘里」
@一海の大きさが千餘里、其北岸狗邪韓國と對海國の間の海峡(一海)の幅が千餘里。
A其北岸狗邪韓國から對海國中心地までの距離が千餘里。
「從郡至倭」で「到其北岸狗邪韓國」であることは、
其北岸狗邪韓國が韓地における倭人の中心地であることを意味する。
「歴韓國」の韓國も、韓地における倭人の小さな国である。
なぜなら、倭人条に書かれた国々は倭人の住む国々であるから。
「狗邪韓國」は韓条にも「弁辰狗邪國」とあるから、倭人と弁人が混住していたと考えられる。 http://img.hani.co.kr/imgdb/resize/2012/0607/00432833701_20120607.JPG
▲昨年7月、中国西岸骨董市場で発見され現地学術誌に公開された百済人「祢軍」の墓誌銘拓本。
今日の日本の国号が本来、百済の土地を称する言葉であり、国号成立に百済人らが関与したと
いう学説が提起された。
7世紀の百済滅亡期、義慈王と唐に投降して官吏になった後、日本に使節として派遣された「祢軍
(禰軍)」(613〜678)という人物の墓誌銘の文章に彫られた「日本」の文字が現在の日本の国号で
はなく百済の他の表現という根拠が見つかったという。この様な主張をしたのは日本古代史学界
権威である東野治之(とうの はるゆき)大阪市立大教授だ。
墓誌銘の「日本」は祢軍が日本に使節に行った背景を書いた部分に登場する。「660年官軍(唐
軍)が私たちの蕃国(百済)を平定した日…日本の残党が扶桑に立てこもって殺戮を免れ、風谷に
残った輩は盤桃を信じて堅く抵抗した…」という内容だ。
文中の「日本」を既存学界は公式国号と見たが、東野教授は「技巧を凝縮させた墓誌銘の文章と
見れば決して国号とは見られない」と否定した。墓誌銘に記録された当時、百済など中国の周辺
国は国号を使わず、扶桑・風谷・盤桃など自然環境的特徴に基づいた隠喩的名称を使ったが、唯
一、日本だけ公式国号を使ったはずがないという論旨だ。
墓誌銘の「日本」は中国から見る時「日が昇る所」という意味ですなわち百済を示すということだ。
彼は「墓誌銘で実際、倭国(日本)は‘ヘジュァ(海左:海東側)’、‘ヨンドン(瀛東:中国東側)と表記さ
れたと推定される」として「当時、国号が存在したとすれば書いた人は日本という表記を使わなか
っただろう」と主張した。
ハンギョレ新聞(韓国語) 「日本は本来百済の土、称する言葉だった」
http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/536435.html 水行10日
出雲⇒敦賀⇒琵琶湖⇒淀川⇒木津川⇒奈良湖 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>159
目的語(終点)と修飾語(旅程)の位置が交替しても、主題(起点)は変動しない。
和文で言えば、「下り列車は東京駅に三〇分で着く」が「下り列車は三〇分で東京駅に着く」になっても、
起点は変わらないし、変えられない。明示されなくては分からないし、分かりようがない。
「東南至奴國百里」と「南至投馬國水行二十日」とでは、
里程か日程かだけで構文は変わらず、後続する文が官名と戸数を記す点も同じなのに、
どうして起点が伊都国だったり帯方郡だったり、変わってしまうの?
>>163
>「從郡至倭」であって「自郡至倭」ではない。
>「自郡至倭」ならコロコロ起点は変わらない。
>「從」は「帯方郡」が経過点であること示す語である。
申し訳ないけど、意味がさっぱり分かりない。
倭人条の冒頭には「從郡至倭」とあるけど、途中には「自郡至女王國」とある。
「自」と「從」は、音価は異なるけど、声母は破裂音で、韻母は前舌狭母音で始まるという共通点からは、
類音同義の単なる助字と解されるので、殊更厳密に意味を使い分けてるとは思えない。
「從」が起点でなく経過点なら、訓読は「郡より」でなく「郡をへて」となり、起点を別に設定しなくてはならない。
「郡を通って」なら、起点は郡から見て倭の反対方向になるし、
「郡の先」「郡の向こう」だと、起点は郡より倭に近い所になるよ?
>>164
>始度一海千餘里至對海國
始めて一つ海を度ること千餘里にして對海國に至る。
>始度一海至對海國千餘里
始めて一つ海を度りて對海國に至ること千餘里なり。
意味は変わらない。
>其北岸狗邪韓國が韓地における倭人の中心地であることを意味する。
航路の起終点というだけで中心地なら、倭地の中心は末盧國かね。 以下、裴註所引の魏略・西戎傳から引用する。
魏略を著した魚豢は、陳寿より少し前の世代に当たるが、同時代人とみなして異論はなかろうし、
用字、語法、構文においても、同時代の史家として陳寿と比較して問題はないどころか、好適ですらあろう。
從敦煌玉門關入西域、前有二道、今有三道。
從玉門關西出、經婼羌轉西、越蔥領、經縣度、入大月氏、爲南道。
從玉門關西出、發都護井、回三隴沙北頭、經居盧倉、從沙西井轉西北、過龍堆、到故樓蘭、轉西詣龜茲、至蔥領、爲中道。
從玉門關西北出、經坑、辟三隴沙及龍堆、出五船北、到車師界戊己校尉所治高昌、轉西與中道合龜茲、爲新道。
玉門関から西方へ延びる三つの道について、それぞれの経由地やら終点やらを述べている。
各文末に終点と道路名称を記しているのだから、156の主張が正しいなら「從玉門關西出」の三出はあまりにも冗長であろう。
つまり、旅程の記事では、直前の地点から任意の地点へ起点が変わる場合、明示されるというのが原則であるという好例である。
澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歲、風疾時一月到、
同一の文に「至」と「到」を見ることができる。意味に違いがあるのなら、解説をおねがいしたい。 驢分王屬大秦、其治去大秦都二千里。從驢分城西之大秦渡海、飛橋長二百三十里、渡海道西南行、繞海直西行。
「二千里」というのは、後述される「二百三十里」以下の行程の総距離である。
倭人条で、「南至邪馬臺國、女王之所都、水行十日、陸行一月。」が帯方郡からの行程であるなら、
「自郡至女王國萬二千餘里。」を行程記事の末尾に、わざわざ「自郡至女王國」を改めて書き加えて置く理由が分からない。
近接して「南至邪馬臺國、女王之所都、水行十日、陸行一月、凡萬二千餘里也。」とでも書けば良かったではないか。
「南至邪馬臺國」と「自郡至女王國」は離れて記されており、わざわざ「自郡至女王國」と断っているのだから、
「水行十日、陸行一月」と「萬二千餘里」とがイコールではないことが知れよう。
此上三國、堅昆中央、
俱去匈奴單于庭安習水七千里、南去車師六國五千里、西南去康居界三千里、西去康居王治八千里。
ある地点から複数の地点の距離を示すには、「去」を使った構文がある。
行程記事の途中で、伊都国や帯方郡からの分岐記事を示すのであれば、「去」構文にしたと考えるのが自然である。
より分かり易い「去」構文があるのに、「自」「従」「至」「到」に微言大義を与えて解釈するのは、邪道ではないか。 「去」構文にしたのでは、主人公は遠国の「女王・女王国」になってしまう
わざわざ「自郡至女王國」にしたのは、あくまで主人公は郡で、女王は臣下あるぞえ、と言わんがため
このあたりが稀代の執筆者の筆の冴え >>173
「去」にすると目的語が与格から奪格になるだけだぞ?
なんで主人公になるの? >>175
夫餘在長城之北、去玄菟千里、
北沃沮一名置溝婁、去南沃沮八百餘里、
又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。
何れも東夷傳からだが、なぜこれらは「去」を使って、天子から去ったという表現にしたのか、
筆の冴えとやらの解説をおねがいしたい。 >夫餘在長城之北、去玄菟千里
長城の北だから取るに足りない異民族扱いでよかろう
>人長三四尺、去女王四千餘里
小人の国で、政治軍事的脅威を考慮するに及ばず、さして役に立たない奴らだ
要するに差別用語だな >>177
「去」構文では後置される語が主語になるという高説にはとても感心したので、
後学のために手数ながら、>>176の三文に訓点をつけてもらいたい。 自分の訓読も示しておくので、添削してもらいたい。
夫餘は長城の北に在り、玄菟(郡)を去ること千里なり、
北沃沮は一名を置溝婁とす、南沃沮を去ること八百餘里なり、
また侏儒國有りて其の南に在り、人の長は三、四尺なり、女王(國)を去ること四千餘里なり。
何れも「を去ること」としたが、「を」は「より」「から」に置換できる。
あくまでも目的語であって、西欧の文法に則して言えば奪格に相当する。
動詞(術語)に後置される語が主語のように解される例は、
「有」「無」「多」「少」を含む文くらいのものであろう。
ついでに「自郡去女王國」という場合の訓読も、どのようにすればいいか、お尋ねしたい。
主語となる以上は、「は」「が」といった格助詞を付けるか、格助詞を付けないものになると思うが、いかがか。 倭人伝の執筆者(監修者)はいたるところで階層区分(区別・差別)の表現を取っている
すなわち基本的には文法の問題でなく、
主従隷のような上中下の身分関係をどのようにして表わすかに腐心しているように思える
そのような目で見ると、たとえば倭人伝30カ国も、
数グループに分け、巧妙に階層区分(差別)を行っていると読める >>180
>倭人伝の執筆者(監修者)はいたるところで階層区分(区別・差別)の表現を取っている
要するに、倭人条にしか関心が無い、ということを言いたいのかな。
>すなわち基本的には文法の問題でなく、
要するに、文法の話はできない、ということを言いたいのかな。
>主従隷のような上中下の身分関係をどのようにして表わすかに腐心しているように思える
根拠も示さず、ただ思うなら、誰にでもできる。
>そのような目で見ると、
個人的な主観で見ても意味が無い。
>たとえば倭人伝30カ国も、数グループに分け、巧妙に階層区分(差別)を行っていると読める
ではその巧妙な階層区分の成果を披露されたい。
腐心して表現した巧妙な階層区分というのが、用字、語法、構文を用いず、どうやって他人に伝えられるのか、
実に興味深い。 >>169
こまけー事は、いいんだよ
実際、海から川を上り、湖に川を下れば、陸行は5〜10km程度だろ >>182
そんな面倒な行程ふむなら日数かかっても関門回って瀬戸内を行くわ。
そしてその細かいことを無視した行程が水行十日なら、
陸行一月でどこまで行っちゃうんだか、出雲に戻れそう。 >>170
>「從」が起点でなく経過点なら、訓読は「郡より」でなく「郡をへて」となり、起点を別に設定しなくてはならない。
>「郡を通って」なら、起点は郡から見て倭の反対方向になるし、
正解です。
「從(从)」は現代語でいうところの前置詞の働きをしています。
(通過地点・経過コースを示し)…から,…を通って,…越しに
だから、視野点の起点は天子洛陽となり、距離の起点は「郡」となります。
距離の第一起点は、「從郡」となり、
距離の第二起点は、「到其北岸狗邪韓國」となり、
距離の第三起点は、「到伊都國」となります。
>澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歲、風疾時一月到、
>同一の文に「至」と「到」を見ることができる。意味に違いがあるのなら、解説をおねがいしたい。
上記回答は得られたことと思う。
「至」の距離の起点は「大秦」
「到」の距離の起点は「魏」 >>183
後の時代でも九州から関西へは対馬海流にただ乗りできる日本海ルートだよ
無論、
もし陸行すれば一月という事で、態々実践するほどシナ人も暇じゃないだろう >>始度一海千餘里至對海國
> 始めて一つ海を度ること千餘里にして對海國に至る。
>>始度一海至對海國千餘里
> 始めて一つ海を度りて對海國に至ること千餘里なり。
> 意味は変わらない。
誤訳された日本語で考えたらだめよ。
>航路の起終点というだけで中心地なら、倭地の中心は末盧國かね。
「到末盧國」なら倭地のひとつの中心地と言えるが、
「至末盧國」では倭地のひとつの経由地に過ぎない。
>玉門関から西方へ延びる三つの道について、それぞれの経由地やら終点やらを述べている。
>各文末に終点と道路名称を記しているのだから、156の主張が正しいなら「從玉門關西出」の三出はあまりにも冗長であろう。
玉門が終点が異なる3方面に分かれる分岐点だから、
方面別に「從」が必要。各「從」がなければ「玉門」から「龜茲」までの行ったり来たりの一本道になる。 >>184
反駁しない点については、全て是認された、とみなすほかないので、よろしく。
>視野点の起点は天子洛陽となり、
不必要な説明の典型例だね。
Wikipediaのオッカムの剃刀の解説にある「神が」と同じ。
「視野点」という不思議な単語にはきちんと定義を与えて欲しい所だが、まあ要りまへん。
野暮なことを言えば、天子は皇帝であって、洛陽は首都だし。
起点と終点はセットなので、洛陽から帯方への行程記事が無いから、洛陽は起点にならない。
正史が記述の視点を首都に置いたとするのは、暗黙の了解であろうが、行程記事で一々意識する必要性は無い。
主語と目的語で、君臣の義を説くというのも、主張の根拠が全く示されない。
臣下が主語となっている文など幾らでもあるのに、行程記事いおいてはそれが認められないというのも、全く恣意的でしかない。
倭人条だけを恣意的に解釈するための独自理論は要らない。
「自」と「從」とに主張するような使い分けがあったというなら、他から類例を紹介されたい。
で、「到」で示す地点が任意の起点になりうるという根拠が、さっぱり示されていない。
奴国から邪馬台国までの記事が、「到」で示された伊都国を起点としたものだというなら、
「到」で示された狗邪韓國からの分岐記事は、なぜ無いのか。整合性がまるでない。 >>澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歲、風疾時一月到、
>>同一の文に「至」と「到」を見ることができる。意味に違いがあるのなら、解説をおねがいしたい。
>「至」の距離の起点は「大秦」
>「到」の距離の起点は「魏」
まるで頓珍漢だね。
澤散王は大秦に屬す、其の治(所)は海の中央に在り、北の驢分に至るには、水行すること半歳なり、風の疾き時は一月にして到る、
この文が述べているのは、澤散王の治所と驢分国との距離だよ?
後続する「驢分王屬大秦、其治去大秦都二千里、」以下の文を読んでないね?
驢分の時には「其治」で驢分の治所を述べるのに、澤散の時にはどうして大秦の治所になるの?
「北至驢分」が大秦からだとするなら、「從驢分城西之大秦渡海」と矛盾するよ? 北の反対は西なの?
更に後続して「且蘭王屬大秦」「賢督王屬大秦」と出てくる。
別枝の小國が大秦に屬していると書かれているだけなのに、また術語の「屬」に後置される語が主語になるの?
漢文はSVO型。現代中文はSOV型にもなる。けど、主語が述語の後に来るということは、殆ど無いよ?
澤散はローマの属国だけど、条件が良ければ魏から一月で到達するの?
現代のヨットもびっくりの凄い高速航海技術だね。
>上記回答は得られたことと思う。
説明が漢頓珍すぎて、回答の体を成していない。 >>186
>誤訳された日本語で考えたらだめよ。
では、正しい訓読を示してもらいたい。
それほど漢文の知識があるなら、訓読くらい朝飯前だろう。
それから、目的語と修飾語の位置関係によって、主語や主題が変更される、
というような漢文法の解説は、他に誰が主張しているのか、それを知るのに適した教本なり論文なりはあるのか。
>「到末盧國」なら倭地のひとつの中心地と言えるが、
>「至末盧國」では倭地のひとつの経由地に過ぎない。
相変わらず、根拠がまるで示されていないではないか。言い張るだけなのか。
また野暮なことを言えば、中心地が幾つもあるのには違和感を覚える。要地であるなら了承するが。
「到」と「至」を端的に使い分けている用例を、三国志でなくともいいから呈示されたい。
>方面別に「從」が必要。各「從」がなければ「玉門」から「龜茲」までの行ったり来たりの一本道になる。
倭人条で伊都やら帯方やらから分岐しているなら、「從」なり「自」なりを付してあるはずである。
申し訳ないが、反論になっていない。
信念を貫くのは勝手だが、無理に出て来なくてもいいよ? 西域伝では行程が玉門で3方向に分岐している。
倭人条では、洛陽から不彌國まで一本道の行程。
奴國は伊都國との位置関係の表示で行程外。
投馬國と邪馬壹國も不彌國との位置関係の表示で行程外。
行程を示す文の構成は、「方向」+「動詞」+「至」+「目的地名」
位置関係を示す文の構成は、「方向」+「至」+「目的地名」
石頭の御方理解できるかな? >>190
反駁しない点については、全て是認された、とみなすほかないので、よろしく。
でも、魏から一ヶ月で驢分に行くにはどうしたのか、とても気になる。
>倭人条では、洛陽から不彌國まで一本道の行程。
どこにも洛陽は出て来ない。残念だね。
>奴國は伊都國との位置関係の表示で行程外。
>投馬國と邪馬壹國も不彌國との位置関係の表示で行程外。
不彌國が起点となっているのに、なぜ「東行到不彌國」ではないのか。
「至」と「到」の使い分けは、もう諦めたのか。
>行程を示す文の構成は、「方向」+「動詞」+「至」+「目的地名」
>位置関係を示す文の構成は、「方向」+「至」+「目的地名」
「行(渡)+目的語+至+修飾語」「至+目的語+行(渡)+修飾語」
確かに漢文の性質として、語順が変われば意味も変わる時があるが、大差の無いこともある。
主張は宜しいがそれならば、他の類例を挙げて説明して欲しいと、先にも願ったはずだ。
漢文読解の通例としてそのように理解するしかないなら、なぜ他書の用例が出て来ないのか。
奴国については「行」の字が無いが、「至」の一字でも到着の意味はあるし、
私や汝より漢文に精通していたであろう梁書の解釈からも、位置関係であるとは解せない。
脳軟化症から見れば常人は石頭なのかもしれない。 >>191
失礼した。
×「行(渡)+目的語+至+修飾語」「至+目的語+行(渡)+修飾語」
○「行(渡)+至+目的語+修飾語」「至+目的語+行(渡)+修飾語」 「自郡至女王國」「從郡至倭」
帯方郡から女王國(不彌國)まで12000里
不彌國は女王國に属す。
「從郡至倭」
帯方郡から邪馬壹國まで水行10日陸行1月
帯方郡から末盧國まで水行10日(11400里)
末盧國から邪馬壹國まで陸行1月(1000里)
末盧國から不彌國まで陸行600里
故に不彌國から邪馬壹國までは400里
この邪馬壹國は官伊支馬の城柵であって、「女王之所都(卑弥呼の城柵)」ではない。
石頭君は理解したくない? >>193
反論への再反論には全くなってないけど、いいのかな?
用字、文法の主張は全部放棄ということで、いいのかな?
あと一番気になる、魏から一ヶ月で驢分に行った経路を教えて欲しいんだが。 反駁しない点については、全て是認したのではなく、返答にうんざりしているだけ。
>魏から一ヶ月で驢分に行くにはどうしたのか、とても気になる。
回答済み。モンスーン・台風・サイクロンに乗った帆走。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています