明智光秀はなぜ織田信長に謀反したのか?3 [転載禁止]©2ch.net
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>>595 >>596
仮に、光秀の使者が秀吉に捕まらず毛利が秀吉をあの世行きにした場合、光秀と柴田の対戦になるが、
どちらの勝利かな。 >>598 織田家の後継は? 信雄と信孝以外の誰? 和解するのは柴田相手の話
信長を殺しているので今更信雄信孝もないが柴田と光秀の共同経営というのもありえないので三法師をたてて傀儡政権 光秀の使者が捕まらなくても秀吉は畿内に戻ってきたよ
ちょっと遅くなるから結果は違っただろうけど >>602 戻るにしても、滝川のような戻り方では? それに、柴田が先に信孝・丹羽 細川 筒井 摂津の諸将らと先に光秀を撃ってしまつたら様相はかなり変わってくる。 諸説色々あるが
光秀の使者を捕まえた結果、毛利に情報が渡らなかっただけで
秀吉は別のルートで知ってたから滝川のようにはならない >>601
史実でも家康とらえたくて街道は封鎖したということだけど山越えルートつかう家康には結局関係ない
柴田と組んだ三成は毛利および羽柴を警戒して畿内へのルートに防衛線をひくと思う
孤立してないので細川だの筒井だのも参陣
家康は駿府城に戻るも滝川が武田領にて睨みをきかしているのでうかつに動けない
とりあえず北条と同盟して光秀の動きをみるんじゃないかな
そのうち追い出された織田兄弟が尾張から畿内を攻めるようになるからそれに乗じて武田領をゲット >>573
本能寺後、細川幽斎に出した手紙で、光秀は
畿内を征服した後は、私は隠居する
あとは娘婿の忠興と光秀実子の小十郎に天下は譲る
細川と明智で天下を統治しようみたいな手紙を送ってるじゃん >>605 森長可らは甲斐から逃げ出し、滝川・河尻らは止まるも河尻は切られ、
滝川は命からがら伊勢に返る。
後情勢に関係あるのは、景勝と長曾我部、佐竹あたりかな。東北と九州は関係ないでしょう。 >>604
有名なのは長谷川宗仁ルートだよね
秀吉が黒幕だった場合、コイツは絶対にグルになるはずなのに
何故か千利休にすり替えられてしまう哀れな人 >>604 秀吉も知ってて毛利も早期に知ってた場合、秀吉は領土も清水の命も取らずに撤退しただろうか? そりゃ秀吉の軍勢だけでは高松城は落とせなかったんだから領土も城主の命もとれないでしょ >>611 小早川と恵瓊は領土と清水の命と引き替えに秀吉を返してやるかな。 >>613
返す必要ないかもね
だって織田は倒れて家内は乱れているだろうし
後ろ盾のない羽柴を見逃してやる必要もない
せいぜい帰還した羽柴が光秀ともめて共倒れになれば、とか考えるかもしれんけど。 >>612
書状の花押は光秀が当時使っていた花押とちがう 光秀の花押って15年分くらいだろ?
そんなコロコロ変えたんか?
うっかり前の花押を書いたとか無いのけ? 立花京子 「明智光秀花押の経年変化と光秀文書の年次比定」 『古文書研究』46(1997) 花押は自分発給の文書と証明するもんだから間違えることはないでしょ 伊達政宗とか「花押ミスったけど俺からだから!」とか言ってる書状あったような あれは花押に針さして、針あるの俺のだから、だからちょっと違う いや公文書はあまり変えなかったみたいたが、親しい相手宛ての花押は度々変えてたみたいだし。使い分けで 光秀の子で、坂本城落城直後に死亡が確認された者はいないだろう
行方不明の者が多いが >>624
史料上で確認できる光秀の息子は手紙に見える十五郎だけじゃなかったか
娘婿の明智秀満を明智家の跡取りに考えていた時期もあったようなので
実息子の誕生はだいぶ遅かったとみられる >>626
長男は山崎の戦い当時で元服が済んでいるのだから、遅いというほどでもないだろう >>629 山崎の戦い時光秀は55。40くらいの時の子だね。現代ならざらにある話だが。 光慶という名も本当かどうか分からんし、元服の記録も初陣の記録も無いし。元服してなかったかもよ >>632
長男元服の記録は何の史料に載っている?
中国征討の支援に向かう明智光秀軍に同行していないが
元服しているなら同行するだろう
ガラシャが本能寺の時19歳、十五郎はその弟なので
当時としては十分晩年の子 >>626
>娘婿の明智秀満を明智家の跡取りに考えていた時期もあったようなので
ソースは? >>636
愛宕百韻は8人の出席者で100句の連歌を継いでいったもので
8人で回し詠みして合計100句、1人で何句も詠む
光秀は100句中14句も詠んでいるし他の出席者も同様
しかし光慶なる作者は100句中たった1句、しかも最後の1句のみ
明らかな違和感 見学してた息子に、「せっかくだから、おまえも一句詠んでみ」みたいな あれ100歌で7時間くらいかかるらしいしなー
延々と歌を聞かされた挙げ句に話を振ってくるって凄い罰ゲームよのー 光慶が実在していたか否かから、光慶が歌会に出席していたか否かに論点のすり替えw
それなら
>中国征討の支援に向かう明智光秀軍に同行していないが
このソース教えてくれ 実在はしてたんだろうよ。ただ光慶の名の元ネタが明智軍記なのはどうよ?って感じの話 ・秀吉がそそのかした
・光秀は織田家排除の先兵に使われただけ
・光秀は自分に協力するために秀吉が中国から戻ってきた(準備してたから手際よく戻れた)と思ったら、
自分を討つためでえええええ?????状態に
・光秀討伐後証拠は全て消した
という説に一票 >>644
本能寺の変で誰が一番得をしたかといえば秀吉。
推理小説の犯人でいえばそうなる。
緊急時の戦争にしては泥仕合にもならず、あまりにも手際よすぎ。 >>641
違うだろ
光慶が実在していたかどうかの証明として歌会出席が提示されたから
そもそも歌会に光慶なる人物が出席していたか怪しいと言っている
そんな人物が本当は参加していないなら
光慶がその時代に存在していなかったことになる >>646
家康説あったが秀吉を倒したから家康がやってたってなるかもw 最終的には秀吉が得したけど、本能寺の時点じゃ信孝あたりが得してたんじゃね?
変がなけりゃ当主候補にもならなかったじゃろ ああ、あるかもなあノッブと信忠を排除
ただそれなら信雄もあわせて排除したいな 本能寺の変はフリーメイソンの陰謀だった!!? とかやれそうありそう >>643
鉄砲玉に使われた光秀は生き延び、天海となり豊臣家に復讐。 >>653 四国へ行くのに兵を集めていたのに余り集まらず、変後逃亡される。秀吉が早く帰って来なきゃ
、丹羽ともども討ち死にしてたかも。 5日に信澄を殺してから11日に秀吉と会うまで何をしてたんだ信孝 昔からある説だよね>秀吉共犯説
でも唯一の欠点は光秀がそれを暴露しなかった事だな 唯一というか…
変の直後から秀吉は信長親子が生きてると言いまくるし
光秀は長浜城を占拠してるし
全然協力しとらんがな >>661
山崎の戦いの後、光秀から手紙をもらった武将たちから
関係書類を全部没収して、秀吉が証拠隠滅
「何かしゃべったら畜生塚に埋める」とか脅迫して口封じとかないのかな あるかも知れんが後世に残ってないからな
歴史は秀吉に味方して光秀は謀反のそしりをうけた、そんだけの話だな
まあ秀吉もその後は似たりよったりだが。 >>663
豊臣家の天下がずっと続いたのならともかく山崎の戦いのわずか30年後に滅亡する
そんな口封じをしてたのならそのことが表に出ないことの方が不自然に思う
徳川にとっては絶好の豊臣批判のネタになるし
秀吉も家康もグルと言うのならそこまでは知らん >>663
山崎の戦いの後なら、脅されたって柴田にでも訴えればいいじゃん。喜んで話を聞いてくれるぞ 特別なアンチ秀吉でない限り、勝家まで知らせに行かないだろう
長いものに巻かれる畿内の武将だし 秀吉と光秀の密約があったという前提なら
丹羽は脅迫されたというより、新領地を提示されて懐柔されたかもしらん あまり知られていないが斉藤利三の娘婿は柴田勝全だといわれている
柴田勝家と同族だが明智家に仕え本能寺の変や山崎の戦も明智軍として加わった
光秀滅亡後は堀秀政に仕えたそうだ
斉藤利三の息子の斉藤利治だって生き残って、加藤清正の家臣になったりしている
何を言いたいかというと明智光秀が滅亡したからといって
明智家重臣の血縁者が全滅したわけじゃない ガラシャだっている 口封じはできない そうかも
だがそこであえて理由づけをしてみると、
勝全と利宗は就職先確保のために無言をつらぬいた。
ガラシャはDV夫によって監視つき幽閉状態 >>670
そもそも春日局という究極の勝ち組がいるしな なんとなくここら(明智、秀吉、家康、公家、信長に怨みをもつ皆さまや縁者等)
みんなグルだったような気がしなくもない
で、殺してとりあえずリセット
あとは予測通り各々言いたい放題やりたい放題で混乱 >>663
鶴松の出生を揶揄する落書が書かれて秀吉激怒
処分したことまで後世に残ってるぞ
都合の悪いことは残さないようにしようとしても
完全な焚書坑儒など不可能だろう
>>672
秀吉が主君殺しに加担していたのならば
家康はそれを理由に豊臣を滅ぼすべくもっと宣伝したと思うね
光秀に加担していた可能性は秀吉よりも家康のほうが高いだろう
謎の伊賀越え、直前まで家康と行動を共にしていた
穴山梅雪の変死→家康の息子が武田家を継ぐ、など変な話多すぎる こんなもの拾ってきたけど結構これってあり得るんじゃね?
28 :日本@名無史さん 2015/06/01(月) 06:20:52.76
武田埋蔵金と信玄の墓(ただし一部)は富士五湖のどこか。
大久保長安の埋蔵金は河内地域〜富士南麓にかけてのどこか。
信長の首は富士山麓のどこか。
信長の倅2人の首は旧武蔵地域のどこか。
ココ→【本能寺の変は信長は秀吉&クロカンが、信忠は家康&正信が糸引き人
それぞれ実は別働隊を編成していてつなぎが利三】
本物の光秀は殺されていて京に入ったのはニセ者。
以上前に霊感ある奴が酔っ払った勢いで吐いた霊視結果
信じるか信じないかはあなた次第 まあ確かにあり得なくもないかなあ…
というか別動隊はある意味盲点だったわ 西山本門寺にもあるけどね
私的には建勲神社の方が面白い >>681
小和田哲男さん一押しの説やろ
小和田さんは歴史学者のなかではかなりまともな部類にはいる >>681
というかその建勲神社が船岡山なんじゃがのw >>684
武功夜話を偽書よばわりするようなのは最低の部類にはいる 織田信長と生駒吉乃のあつあつぶりについて少しは語れ、ばかちん 大河ドラマの推察を邪推w
もともと足利将軍家の信長の与力だった明智は義昭追放をよく思っていなかった
毛利氏は織田軍が全軍をあげて進行してきた場合、織田20万の兵に対して五万の
寡兵でしかなく、また独立した国人衆を束ね切る自信もなかったので、織田軍と
の早期講和を狙っていたが、信長に講和の意思がなかったので、当時毛利領に逃
走していた義昭を通じて明智光秀に内応し、信長を討ち果たした際に和議を速や
かに締結した恩のある豊臣政権との友好関係を通じて命脈を保った >>692
前野家文書にあるようにアツアツであるなら4年もの間
病気であることすら知らないなんてあり得んだろ
その生駒の一族だってほとんど信雄の北畠入りの時に一緒に
行くよう命じられて本拠地から離されてるじゃん
信忠の生母だって本当に生駒だったのかかなり怪しいんだし 生駒吉乃は南朝の末裔であった、うんうん
ということで信忠は南朝の末裔ということになる、うんうん 信忠の生母は身分はそれほど高くないが、濃姫の強力な推薦があった
のかもしれない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています