明智光秀はなぜ織田信長に謀反したのか?3 [転載禁止]©2ch.net
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>>770
うん、斎藤道三は信長を大うつけだと判断していないし、誰もそんな書き込みしてないね。
>>769
>「我が子たちはあのうつけ(信長)の門前に馬をつなぐようになる」だけど、
これは家臣に語っただけだからやはり平手政秀は知る由もない。
ここ読んだ? >>772
>平手政秀が自害したのは斎藤道三との外交で
>面目が立たなかったことが原因だと思う。
>命をかけて信長を婿養子に勧めて婚姻を成立させたにも関わらず、
>信長を大うつけに育ててしまったことへの絶望
これの根拠は?
平手が斎藤道三との外交で失敗したと思ったと
書いてある一次史料を上げてよ 濃姫は義龍が殺したんだよ!
道三の娘だから憎かったんだろ? >>776
義龍は道三の実子説もあるからなあ。
義龍は道三と道三の正室腹の子で弟の孫四郎は殺したが
さすがに非戦闘要員の姉妹まで殺すとは思えない。
姉妹たちはそれぞれ他家へ嫁いでいたし。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
8GD6A 濃姫は親父の殺害にショックを受けて自殺したか、上記に書いてある通り義龍に殺されたか
どっちかじゃないか? >>779
義龍が織田信長が寝泊まりする織田の城の奥御殿に忍びを遣わして
その正室を殺したらタダじゃ済まんだろうw
ただし斎藤道三死後信長が濃姫を離縁して義龍に返したというのならば
その限りではないが 織田信長が構想していた海外進出は、どんなものだったのか?
その1. 第2のイエズス会≠フ翼賛を得た壮大な征服計画だった!
キリスト千年王国を叶えるべく2000隻を超える膨大な 数の軍船を建造し、
明朝中国を手始めにインド、西アジア までも視野の内に入れたものだった。
信長の構想は、一次資料たるイエズス会の『1582年日本年報追加』に、
そしてまた、ほぼ同文が『日本史』に見える。引いてみよう。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/t-saito_world/docum_03_world/w01_nobunaga_basic/12a_nobu-kaigai-sinshutu.html
信長は毛利を平定し、日本六十六カ国の絶対君主となった暁には、
一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに
分ち与える考え(計画)であった。(括弧内は「年報追加」における文言)
秀吉は、関白に任官された天正13年(1585年)、早くも唐入りを表明していたことが、
家臣の一柳末安へ宛てた朱印状で確認できる。
それには、「秀吉、日本国は申すに及ばず、唐国迄仰せ附けられ候心に候歟」とある。
本能寺の変からわずか3年後、九州、関東、東北が未だ服属していない段階であるにもかかわらず、だ。 すなわち千年王国の君主、いわば神軍の長、大天使ミカエルの化身として後継キリストに
擬したデウスの剣こそ 「我、信長なり」 と段々と神学論にのめり込んだのだろう。
信長は日本の伝統的秩序に囚われずこれ等を破壊し、世界の大天使ミカエルを目指した。
秀吉や守旧派、光秀、家康、日本史好きでは到底理解できず、信長の真似事をするのが精々、
秀吉は朝鮮出兵で失敗し、家康は死後「権現様」として日光に祀られた。 明智光秀が率いていたのは足利幕府軍な訳で、
織田軍には、足利幕府軍として参加していたにしか過ぎない。
ただ、斉藤道三正室、小見の方は叔母さん、
その娘、帰蝶は従兄妹だし、信長の生母、
土田御前は明智家の家臣の娘。
木曽川上流の明智家と下流の港、津島の代官の織田家は、
ビジネスで交流があったのは間違いないだろうし、
身内に近い存在だったのは間違いないだろう。
斉藤道三失脚後、長山城を攻め落とされた後、
明智光秀の祖父、明智光継は数年生きていた様で、
そのつてをつたって若狭武田氏を頼って落ち延びていったのは想像できる。
その後に幕府でどういう役割をこなして幕府軍をまとめる存在になって行ったのか。
お手紙将軍の足利義昭やら、有職故事に通じる光秀や、
膨大な文書を処理していた幕府にいて、史料が残っていないと言う事はあるまい。
明智光秀の半生が謎だという事が謎であり、
それなりのところを当たれば、膨大な史料が発見される可能性が高いと言えるだろう。 若狭武田氏とは足利義昭の姉婿が武田義統であり、
その縁でつながっている様だ・ >>783
明智軍記にある通り光秀が明智城主・明智光安の嫡男で
道三正室・小見の方の甥、濃姫の従弟といういいところの坊ちゃんなら
三好三人衆から命を狙われている将軍就任前の足利義昭のお供でをして
田舎を放浪したりしないだろ
光秀は細川藤孝の中間で藤孝の命令で義昭に付けられたんだし >>782
信長は天下人として失敗しているんだが
秀吉や家康は成功してるんだが >>785
放浪してたり朝倉仕官した話は
本能寺の変から100年後くらいに書かれた「明智軍記」に載っている話で信憑性無いよ
最近は研究者の人は否定的みたいだ
足軽というのも、役人名簿に後日付け足して書かれているのが疑われてる
細川藤孝の中間はよくわからないけど、本能寺の変後に書かれた記録で確か敵対してた人の記録だったような?
没落してた家柄だけど
元々はいいとこのお坊ちゃんだったと思う
教養あったという事は家柄が良かったという事に等しいし
信長の家来になる前に、京都の幕府奉公衆の屋敷が立ち並ぶ場所に屋敷があった
公家がお正月参りをした日記にある
足利義昭が京都に入る時、信長は光秀の屋敷を宿所としてたくらいだから大きい屋敷だったはず
先祖代々の屋敷だったのでは? ちなみに滋賀・福井関連の歴史上の人物
大友皇子……大海人皇子との壬申の乱に敗れ自害
木曽義仲……源義経との戦いに敗れ、近江の瀬田で泥田で動けなくなったところを
矢が深く貫通し無念の最後
新田義貞……足利尊氏との戦いに敗れ、越前にて討ち死に
朝倉義景…織田信長との戦いに敗れ、越前一乗谷にて自害
明智光秀……山崎の合戦に敗れ、百姓に竹槍で刺され落命
柴田勝家……秀吉との戦いに敗れ、越前北の庄にて自害
石田三成……関ヶ原の合戦に敗れ斬首
井伊直弼……桜田門にて浪士達の襲撃を受け、最後は薩摩脱藩浪士により首を落とされる。
なんか呪われてるといえば呪われてるような気もするし。光秀謀反の原因とかも、やれ朝廷がどう
怨恨がどういう前に、こういう角度から見たら面白いかもな >>789
滋賀関連で憤死したやつの代表である信長をシレッと忘れてんぞ >>787
光秀が京都に大きな先祖代々の邸を構えていたなら
相応の大名だったと思うがそういった史料が何もない
朝倉仕官は史実なのにその間、京都の馬鹿でかい屋敷がどうしてた?
だいたい光秀が京都に大屋敷を構える大名なら
そこへ足利義昭を迎え入れればよいのであって
田舎の越前まで義昭を連れて放浪する意味がない >>794
朝倉士官が史実って何の資料にあるの?
初出は本能寺の変から100年後くらいの「明智軍記」では?
細川家記の「綿考輯録」も本能寺の変から200年後くらいで明智軍記を参考にしてるし
当時書かれた「言継卿記」によれば
永禄13年(元亀元年)正月には光秀の屋敷は幕府奉公衆や公家の邸宅がある一等地に屋敷があったのは間違いないよ
信長の京都滞在中、明智の屋敷を宿所にしてたとも記述がある
光秀自身がこの時、どんな地位だったかわからないけど
土岐明智氏は元々幕府奉公衆だったから
そんな豪華な京屋敷があるのは先祖代々のものなのかな?と思っただけ
足利義昭は命狙われてたから信長無しでは京都に入れなかったのでしょう?
単に家屋の設備が無いからとかでなく >>796
「言継卿記」2月30日
信長が上洛し、言継と一緒に光秀のところへ行った。
「言継卿記」7月5日
信長が上洛し、義昭のところへ参上。次に光秀のところへ行った。
>光秀の屋敷は幕府奉公衆や公家の邸宅がある一等地に屋敷があったのは間違いないよ
この記述はどこにある? >>796
永禄11年 信長が足利義昭を奉じて上洛
永禄12年 信長、足利義昭のために二条御所を造営
永禄13年 この頃、光秀の屋敷が洛中にあった
織田信長は主にこの頃岐阜城にいたため
自分が上洛した際の屋敷を洛中に作り
留守居として光秀を置いていただけともとれるし
光秀が自腹で先祖代々の豪華な京屋敷を所持していた
とまでは読めない >>799
私の見た書き下し文は
「言継卿記」2月30日の記述は
「信長、岐阜城より上洛し、明智邸を宿所となして泊まり、三月一日に禁裏へ伺候」
「言継卿記」7月5日の記述は
「七月四日に上洛し、七日まで、信長は近習四、五騎、徒士三十人ばかりと共に、明智邸に滞在した。」
となってて、明智邸の原文は「明智十兵衛所」
これは信長の屋敷とかでなく、明智光秀の私邸という意味らしいよ
光秀はこの2年後に坂本城を建てる
安土城の次に豪勢な城だとフロイスは言ってたけど
光秀は裕福だったのでは?と主張してる人もいるよね あと、「言継卿記」の永禄13年の年頭挨拶の記述は「路次次第」(行った道順)で記されていて
わかりやすいの見つからなかったけど
「十三年一月廿六日、
甲午、雨降、自未刻晴、天一ヽヽ、○未下刻(14:30頃)より奉公衆方、年頭之禮に罷向、路次次第、
竹内治部 少輔(濃州へ下向云々)、三淵大和守、同彌四郎、一色式部少輔、曽我兵庫頭(助乗)、
明智十兵衛(濃州へ下向云々)、摂津守(下京)、大和治部少輔、朽木刑部少輔(酒之)、竹田法印、同治部卿、荒川與三、三福寺、清和院、
眞下式部少輔、疋田彌九郎(父入 道出合)、松林院等也、○今日當番代倉部參了、」
と記されてるみたいです
光秀以外の名前は御供衆や御部屋衆などだそうです >>800
上洛時の為に自分の屋敷を作ったなら、この年の2回だけでなくもっと使うだろうし
足利義昭の側近達が多く住む所に信長が宿所を建てるなど絶対無いと思う
信長はこの2回の前後は妙覚寺、相国寺、本能寺などを使ってるようだ(ほとんどが妙覚寺)
信長が自分の上洛時の為に作った二条御新造は誠仁親王に献上するまで何度も使っている
戦もしてて忙しいだろうにかなり頻繁に上洛してるのでびっくりしたよ >>804
足利義昭自体、信長が上洛して将軍職に就けたものだし
将軍御所も焼失して跡形もなかったことから信長が新造している
義昭付き家臣たちの屋敷も信長の援助だろう
(将軍御所がないのに側近たちは皆洛中の先祖代々の豪邸に住んでいたと妄想してる?)
で、光秀が信長家臣になったのはいつだと思ってる?
光秀は信長直臣になる以前、幕府直臣ではなく幕府直臣である細川藤孝の中間だよね これはみんな思い込みだが明智光秀自身は信長の家臣にはなっていなかった。幕府同盟軍みたいな形で信長に組み込まれた。 >>795
禄以外にもいろいろ援助してもらっていたんじゃね?
本能寺挟んでいるからなかったことにされている可能性もある
その細川も実際は傍流の傍流で出自に関して結構怪しいという噂もあるね… >>806
光秀が没落した足利義昭に同行もせずに
信長のもとで禄を貰い自分だけ豪勢に暮らしていたのに 幕府同盟軍も何もない
没落した義昭を自分のところにかくまってた毛利を見習え >>809
光秀は義昭が都落ちするかなり前に信長に鞍替えしてるよ
不信ではあるもののまだ義昭を見放してないような時
細川は、信長家臣となる時、手土産に義昭裏切ってますよーと告げ口したと思う(初期の書状のやりとりがそんな感じする)
その後、信長は確信を持って義昭を追放したと思う
同行しなかったのはその後で幕臣やめて光秀臣下になった伊勢氏とか 明智光秀は縁者に何人もの連歌師がいたらしい
その素養があるから「ときは今、天が下しる五月哉」もよめた とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
FDN また、新説とは別に、研究の結果、人物の評価が一変しつつある例もある。
その代表は、誰あろう、日本史上最大のスーパースター・織田信長だ。
南蛮趣味の甲冑に身を包んで自ら「第六天魔王」と称し、古臭い常識を躊躇なく破壊する戦国の革命児。
長らく、そう語られてきた信長だが、近年の研究成果から垣間見える人物像は、それとはかけ離れたものだ。
「信長は、朝廷や寺社など、既存の権威に対して非常に気を遣う人だったことが分かっています。
皇居の修理や皇太子の元服費用を負担し、困窮する公家たちの借金をチャラにしたりと、常に尊重していますね。
一方、対立したといわれる寺社勢力に関しても、既得権益を守るために一揆を主導して歯向かった本願寺との戦いが
有名になっただけで、他の寺社はむしろ手厚く保護し、人心の安定に役立てています」(前同)
悪名高い比叡山延暦寺の焼き討ちにも、実は信長自身は慎重だったという。
「敵対勢力をかくまったということで火はかけましたが、よく言う抜き打ちでの皆殺しではなく、1年以上前に予告し、
威嚇程度にいくつかの建物を焼いただけ。このときは、むしろ家臣の明智光秀のほうがイケイケだったようです」(前同)
比叡山焼き討ち後、その所領の多くは“実行犯”光秀のものとなったが、光秀は延暦寺に残された領地まで横領し、
信長に「返してあげなさい」と命じられたりもしている。
「クレイジーな主君についていけず、本能寺で反旗を翻した“良識の人”として描かれることも多い光秀ですが、
実はかなりしたたかでクセのある人物だったようです。2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』は、
こうした最新の研究を反映しているらしく、楽しみですね」(歴史専門誌記者)
https://news.infoseek.co.jp/article/taishu_60236/?p=1 しょせん凡人にはわからない天才だよ信長は
信長より俺のほうが偉いって凡人は必ず現れるけどねw 別に俺と信長は比較対象でも何でもないし
むしろ俺と比較対象になるほど信長の小物感がよくわかるわwww 光秀は細川親子や筒井順慶の動向を見誤ったし、秀吉が毛利と電撃和解することも誤算だった
それにしても柴田勝家・織田信雄・徳川家康の連合と戦っても勝てるはずはないのに、なにゆえ本能寺の変を起こしたのか
家康あたりが事前に支持を与えていないと動かなかった気がするよ 黒田官兵衛の神道大麻の販売
今は医療大麻オイルとして一部成分が認められてます
https://plaza.rakuten.co.jp/denkyupikaso/diary/201806090001/
黒田のインテリさは山崎の戦いで毛利の旗だけをすぐさま借りて旗揚げて、毛利を味方につけたと明智を錯覚させ、3時間で戦いを終わらせたところにあります
今は娯楽として販売されてます
ちなみに日銀にもなれば何もしなくてもお金が入ってくるんですよ 森蘭丸が主犯
動機は信長との痴話げんかによる無理心中 信長が家康を暗殺なんて昔からあるトンデモ説の一つであって
あほらしすぎるから言う人がいなくなっていたんだよ 漫画アプリで信長を殺した男を読んだ
笑うくらい明智がイケメンの正義の人で秀吉が性格の悪いサルに描かれてた
引くわw >>820
最近では信長と家康の仲は言われている程じゃなかったという
見方も出てきているから真面目に検証してみる価値はある 家康が一番怪しいな
どのみち信長体制は限界に来てたと思うけど なんか黒幕説の容疑者たちって光秀被害者の会員ばかりな気がする
正親町天皇
→比叡山焼き討ち後に朝廷の廬山寺や曼殊院など三門跡の領地を横領されて 信長に抗議したら 勅使を買収
足利義昭
上記の件で光秀を制止したが、無視された挙げ句東寺の下久世庄の一職にしたのに金を払わず、挙げ句に地子銭止めたら、信長に叱責させた
吉田兼見
吉田山の吉田神社本山を光秀の進言で宿舎にされかけた 黒幕がいてもいなくても光秀が信長をころしたかったのは変わらない 明智が正義の人だって・・
正義の人が百姓に殺されるなんて
凄惨で馬鹿丸出しな死に様する
訳がないじゃん 勝ってるなら、反乱や謀反ではないだろう。挙兵の時期から。豊臣が怪しいな。その範疇。 安部龍太郎の説
ポルトガルが国破れてスペインに併合されたのが関係している
大きくなったスペインの後ろ盾でザビエルが明国征服に出兵しろと信長に要求、断られた後本能寺
キリシタン大名を動員しようとしたが、一向一揆を知っている秀吉に追っ払われてしまった
当時は蒸気船発明以前でく、欧州やインドから中国まで大兵力を送る手段がなかった 明智光秀は足利幕府の家臣団を束ねてる訳で、
やはり奉公衆だったんじゃないのか??
無名の浪人がそんな事が出来ますかね??
伊勢氏なんか、名門中の名門だからな。
そんな名家が、光秀と心中する理由は?? 伊勢貞興の子孫は代々徳川に遣えた。
斎藤利三の娘は春日の局。
やはり、足利幕府の奉公衆と言う形で、
徳川家とつながってくるのではないだろうか。 >>833
絶対に光秀の子孫も徳川幕府に仕えていたと思うんだよね
だけど素性を隠して仕えてると思う 光秀に人望が無かったというより
なんだかんだ信長に結構人望があったということかも? 武田攻めの時 天皇から快川国師を傷つけないように言われていたのに恵林寺の山門で
他の僧侶と共に焼き殺した。土岐源氏の英雄なのだが明智光秀も土岐源氏。 >>837
これは大きな動機の一つだと思う
信長って仏教徒をたくさん殺してるよね
だから、どこだかの寺で見つかった当時の書物に(信長を打った)光秀は英雄だと書き残されているんだと思う 比叡山は光秀が首謀者なんだが。
鎌倉時代から土岐家と比叡山はバトルを繰り返していたから、
相当な恨みがあったらしい。 >>838
信長はすべての仏教と仲悪かったわけじゃないぞ
安土城内に総見寺を建てるくらい臨済宗とは仲良しだし
京へ行ったときの定宿にしていた本能寺は日蓮宗で超仲良しだった
快川は臨済宗の僧で本来信長と宗教的には合致していたのだが
甲斐武田家菩提寺の住職で残党を匿ったために焼き討ちされた
もっとも信長は武田勝頼の首が得られれば引き上げたため
甲斐に残って残党狩りして焼き討ちしたのは織田信忠だが 快川は記録が古いほど火定とされているから
焼殺とも焼き討ちとも厳密には違う
火定や水定のように(仏教的に)正当な理由で
自ら涅槃に向かう行為で死んだ場合とそれ以外で死んだ場合では
過去帳の書き方もかわる
言い換えればむやみに使わん用語 >>840
確か切腹した平手のために政秀寺も造っていますね。 >>841
織田信忠が甲斐武田家菩提寺・恵林寺を焼き討ちしたのは事実だろ
快川が燃え盛る三門の上に自ら立ち「火もまた涼し」と偈を唱えながら
自ら火中に身を投じたというのは伝説に近く後世の脚色とされる 火定→妙心寺、向嶽寺、恵林寺(史料、過去帳、位牌裏書すべて)
焼討→恵林寺(江戸期以降史料)
焼死→向嶽寺(〃)
てな感じだから火定でいいんじゃね?
確かに信忠は焼き討ちをしたがそれが直接の死因とするのは
火定というしっかりとした記録がある以上厳しいぞ
まあ焼き討ちされたとする方が後世の倫理的には都合がいいのだろうけどな >>847
司馬遼太郎の「国盗り物語」はそんな感じの話になってるが
濃姫も本能寺当時は生きてたところで48歳だからな
光秀と引き裂かれた14歳の時に美少女だったとしても
今更54歳の光秀と48歳の濃姫が燃え上がるのかよ >>848
今でも老人ホームで老人同士の恋が生まれているぞ >>849
配偶者に先立たれ高齢になってから初めて出会ったならだが
光秀と濃姫など10代の頃から想い合っていた設定で
なぜ50前後になってからなんだよ >>842
本能寺は早くから種子島に布教しておりその関係から鉄砲・火薬の入手につき信長と繋がったんじゃないか。 >>851
信長は堺の商人から鉄砲を買い付けていた
千利休は鉄砲商人でもあった(利休から信長が鉄砲を買った書状が残る)
本能寺が鉄砲広めたわけじゃない 明智にとっては信長は武士の師範だ。反乱のような迫害心理より、中は悪くないからやりあうんだ
。日本の歴史は日本に売れないな。世界史
の文脈に引用されているはずだ。 明智にとっては信長は武士の師範だ。反乱のような迫害心理より、仲は悪くないからやりあうんだ
。日本の歴史は日本に売れないな。世界史
の文脈に引用されているはずだ。 >>847
多分本能寺の時点で死んでるか、織田家にいないよ
お濃は 最近出た本を見てわかるが、藤田達生ってまだ、義昭黒幕説を諦めていないんだな
見苦しい 藤田は秀吉関連でも、結論ありきで状況証拠や妄想で決めつけているからな
一度決めたらなかなか軌道修正なんかできんのだろう Amazonに藤田の説を未だに信じてるヤツがいるが、
細川や筒井を説得するのになぜ、義昭の名を出さないのか、これで終わりだよな 家康暗殺の司令に悩んだ光秀が、
信長殺しを実行した。
筒井順慶は落ち延びる家康を
奈良領内で待ち伏せる役だったのだろう。
それで家康は筒井順慶に庇護を求めず、
甲賀伊賀ルートで落ち延びて行った。 >>1
パワハラ上司に対する逆襲じゃないの?
まあ今の日本だと、パワハラ上司に対しては最悪会社を辞めるという選択肢も
あるけど、
明智光秀の場合、辞めるという選択肢は取れないだろう?
となると殺すしか選択肢がないわけで、 >>859
自称子孫説に影響されたのか知らんが、家康暗殺なんて非現実的
落ち延びる家康を、って明智は失敗する前提なの? 信長の寝たばこで本能寺が全焼して
消火に駆け付けた明智軍が犯人を誤射したら信長だったんだよ 明智光秀「俺って本能寺の変を
起こして凄いでしょ?」
こんなん自慢していて
明智光秀自身もファンも痛い
アホにしか見えないわ! >>860
光秀は生涯に何度もコロコロと主君を変えており辞めると言う手はもちろんあったよ
主君の足利義昭が信長に追放されたとき
直臣の光秀はこれについていくという方法が妥当だったのに
信長の直臣になることを自ら志願して旧主君の義昭を見捨てたし
信長を裏切ろうとした荒木村重の説得に行ったとき一緒に挙兵することもできたのに
村重の息子に嫁いでいた娘だけ取り返して荒木と手切れし信長のところへ帰ったし >>861
光秀が打ち逃す可能性を考慮して、筒井順慶を配備していたし、
実際、伊賀越え前に、明智領に駆け込もうとしていたのを見ても、
明智は家康暗殺を裏切った、
筒井は引き続き家康暗殺の任についていると言う判断だったのだろう。 >>866
どうしても謀略にこだわりたいらしいが、信長が家康を殺したいのなら安土でやればいい
なぜ、安土で殺さないの? 徳川家康饗応役の光秀を信長が激怒した一件がある。
この激怒した原因が、今も不明だが、
家康に毒を盛って等で、暗殺する事にしくじったからと考えれば理解できる。
それで饗応役にも関わらず、途中解任、
後は兵による実力行使を命じられたのだろう。
当日の明智軍の兵士達も、
家康を殺る為に行軍していると思っていた事が判っているからな。 家康を安土で仕留め損ねた事が、
筒井を配備する用意周到さに結びついたのだろう。 あとさあ、謀略にこだわるとか言われても困るんだよねえ。
本能寺の変自体が謀略なんだから。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています