北条義時は望めば関白になれた! [転載禁止]©2ch.net
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最近資料読んであっとおどろいたんだが、
後鳥羽上皇が流された時、道中で「いつ死んでもいいように」僧侶がつけられてるんだね。
義時は、後鳥羽を、京を出たあたりで斬ってしまうことも考えたんだろうね。
今から考えれば、その決断は是非とも必要だった。
後鳥羽を斬っていれば、後醍醐だって斬られただろし、
何よりも自分勝手なゴダイゴはびびって倒幕なんてできなかっただろう。
義時は卑しい出だから将軍になれないなんて言われてるがそんなのは結果論。
彼は生前からて竹内宿禰の生まれ変わりと崇められた。竹内は人臣最高の地位なのだから、
義時でも望めば関白太政大臣も有り得たと思う。 >>850
お前の言う所の新陳代謝働きまくってる中国にでも行けば? 足利義満に変わってもらって
日王とか呼びたいんだろうな
あちらの国はw >>848
あれはフィクションだから。当時でも「冷泉帝ガー」なんて言ったら馬鹿にされたんでは。 >>848
風聞て何時の風聞だよ。昭和の風聞か?w
歴史をちょっと見れば、義満の後小松実父説は非常に成り立ちにくいことが分かる。 >>848
帝の子である一世源氏と、
何世代も経た足利では、
皇統からの距離の次元が違いすぎる。 北条氏は桓武平氏だけど、桓武平氏だからといって
その貴種性があったのは、初期の将門や貞盛のいた時代まで。
頼朝の時代の頃は、桓武平氏は皇室本流から遠い貴族。
清原氏や高階氏よりは近いという程度。 現代でも、ずっと何代にも渡って貴族だった家と
大昔に貴族だったけど、ここ数代は普通の庶民だった家とでは
雲泥の差だろう?
北条氏の家系は、平直方の代まではギリギリ武門の名家だったけど
それ以降は武門の名家の地位から離れている。
平貞盛の家は、平良文の末裔である坂東平氏からみたら、
同族と言っても宿敵の家だから、平将門の乱の時代から。
まあ、北条氏は、平直方の嫡男の子孫ではなかったらしいから。
源氏や足利氏は、頼朝や尊氏の代までずっと武家の棟梁になれるべく
地位にあった家だったわけだから。 >>851
どうして行かなきゃならん?
幾ら能力があろうとトップになれんとか、組織として致命的な欠陥だと思うが。
天皇は早くから政治的な権限を喪失していた・・・と言っても、傀儡を置くコストもかかるしな。
要は傀儡に一々意見を認めさせる時間が無駄ってこった。
そしてその承認機関も腐敗するしな。
こんなんだったら早めに武家政権に一本化した方がマシな位だったね。
正直細川政元ではないが、そんなに天皇が欲しいなら御簾の後ろに天皇とでも書いた置物でも置きゃいいんだ。 >>859
コスト云々でわざわざ王朝変えるの?
浅いなあ全てが 足利新田が挙兵するまで関東どころか西国の御家人もみな幕府に従順だった
どこも財政難だったのに幕府に兵を出せと言われれば素直に大量の兵を
差し出している
徳川幕府ですら最末期は威光が衰え長州征伐の際にいくつかの藩から
出兵拒否されてるのに 武家の最高峰は大長州毛利大公爵
一族で首相も出している
武家政権の最強はやっぱり大江氏か
闘戦経の家格で骨強い
息の長い成功序列は大江(毛利)>細川>前田
NO.2でいれば生き残れる恒例 >>860
コストに合わなきゃ変えるのは当たり前だし、争い事に勝てない体制を変えるのも当たり前だ。
じゃあ無駄だらけの体制と心中すればいいのかい?
まあ無駄が多い劣った体制は、歴史上自然と外敵に淘汰されていく物だからな。
これまでが幸運過ぎたのかもしれない。 >>862
毛利一族で首相なんかいたっけ
細川はいたけど 皇族以外だと宮内庁的には徳川恒孝徳川家第18代当主と前田利祐加賀藩主第18代当主が別格なんだろう
皇族、宮内庁職員以外だとこの二人と元児玉多幸学習院大学長しか出てこない
http://tamutamu2011.kuronowish.com/yogohoritu5.htm
>平安時代の古装束(そうぞく)に身をまとった読書役の元児玉多幸学習院大学長が日本書記の一説を朗読、
>続いて同じ装束の鳴弦役の徳川恒孝(つねなり)徳川家第18代当主(日本郵船副社長〈61〉)と前田利祐(としやす〈66〉)加賀藩主第18代当主の2人が、「おっ」との掛け声をかけながら邪気(悪いもの)を払う呪(まじな)い(破魔)として気合を込めて弓の弦を鳴らす 前田利家は元々は足利一門に仕えていただろう三河武士
加藤清正は、尾張の鍛冶屋のカトちゃんの息子
家康とやらにしてみれば、前田利家は仲間だが、加藤清正は縁もゆかりもない鍛冶屋の息子
これが前田と加藤の処遇の差の裏事情だ
家康が伊賀越えの際、三河に上陸し滞在した寺には前田利家の先祖の墓伝わる鎌倉時代の墓があり、その事情を家康とやらは把握していた
この清浄院の隣の寺には前田利家とやらの伯母さんの墓もあるらしい
http://s.webry.info/sp/asitahaharerukana.at.webry.info/201406/article_10.html >>867
皇室にとって別格なのは、どっちか言うと前田家より近衛家じゃないだろうか。武家華族筆頭の徳川と
公家華族筆頭の近衛家、ってことで。貴族院議長なんかは57年間の存続期間のうち42年間まで
両家の当主が勤めてるし。
ここで徳川と前田なのは、破邪の儀式ということで武家代表、という意味じゃないかな。近衛家の
伝統的家職を考えると、この儀式には相応しくない、と言うことで。武者が鳴弦で邪を払うのは
八幡太郎義家や源三位頼政の故事もあるし。 そんな事は分かっている、現在の公武の最上位は三河武士
細川護煕墓参記念碑
http://sakuraoffice.com/hosokawamorihiro.html
現代社会における日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子
武家(No.1、No.2)
・足利家(喜連川家)←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)
大給松平家
菩提寺・墓所
・松明院(三河県岡崎市細川町字根古屋123)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
・大給城(三河県豊田市大内町字城下)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46) 歴史の覇者
細川 5冠
総理大臣(連立幕府の長 初の非自民総理)
摂関家筆頭(公卿の頂点)
半将軍管領(戦国時代の幕開け 実質的に将軍と同格)
古今伝授伝承者(全国の公武に通信教育。関ヶ原では朝廷すら和睦を斡旋)
喜連川御所様(徳川将軍と対等の、喜連川ぷち幕府温泉経営)
>>863
君主制が共和制に劣ってる?お前の主観じゃん
全てが共和思想ありきの結論なんだよなあ、お前
日本が今更君主制廃止して纏まるとは思えないし、伝統とか国民風土とか全てを無視した無機質な机上の空論でしかない >>874
戦争に負けた、故に劣っている。
それは事実だろう?
日本史でもその事実は冷徹に貫かれているよ。
劣っている体制は、優れた体制に倒される。
幕府が朝廷を倒したように、官軍が幕軍を倒したように。
だから、この国も勝てる国にならねばならないというだけの話。
国家の第一義は国民を守ることなのだから、勝てない体制なんてお話にならないんだ。
まぁ、出来なければ滅びるだけだな。 >>875
日本って今だに戦前と同じ体制なんだ、知らなかった
たしかに戦前の体制には欠陥があったが、それが改まった結果が現代日本だろ?
現代日本において象徴天皇制が国を滅ぼす原因になるとは思えないが? >>876
天皇が、皇室が国民の味方だと誰が言った?
では何故戦後、GHQは皇室を生かしたのだろう。
それは取りも直さず、誰が考えたって皇室を占領統治に利用したって事だよな。
しかし、逆に言えば、皇室はそれを了承したという事になる。
天皇は認めたんだよ。
アメリカ幕府の権力を。
日本人は見捨てられたんだ、天皇に。
何、そんなおかしいことじゃない。
皇室は何度もそんな事を繰り返してきただろう。
その権力者が異民族の征服者であろうとどうでもいいって事だな。
そんな中で、この国の民が自立して生き残るためにはどうすればいい?
征服者の神輿を倒すことなんだ。
倒して、大政を委任させるしか無いんだ。
かつて関東の武士達が承久の乱でやったように、ね。 >>877
そこで承久の乱に戻るんかいw
話が鎌倉時代に戻った所で、俺たちスレチだしこの話題やめようぜ。
俺も消えます。 三河きちがいは切腹するかガス自殺するか、どっちかしろ 関白なんて鎌倉時代以降はなっても仕方ないものだろ
六波羅探題の方がはるかに権力あるし
むしろ羽柴秀吉がなんでそんなものに目を付けたのかってくらい 天下の秀吉が
「天下人『六波羅探題』秀吉」なんて名乗るかよw
それこそ天下の笑いものだろw 武家政権
六波羅幕府 畿内惣官職
これだと天下人っぽいか 秀吉とやらは天下を取ってないからな
強いていうなら、頼朝時代と構図が似ている
関ヶ原の戦いは承久の乱だな
それでまた西国が負けたと
西国
朝廷(秀吉)
東国
源頼朝(家康) それを言ったら家康も天下を取ってないことになってしまうんだよなぁ・・・
とりま全国を自分に服従させたんだから統一でいいんじゃないの? >>888
関ヶ原は、豊臣軍と豊臣軍に戦いだよw
家康も三成も、自らが豊臣家の忠臣だと言って戦った。 忠臣とか、そんな間抜けだから、息子と嫁を真っ黒けの炭にされるわなw 逆臣と言えば足利治部大輔高氏(尊氏ではない)だろうか
幕命に従い幕府軍の一員として出陣しておきながら突然反旗を翻すなんてやり方は汚すぎる
どうしても北条政権が気に入らないというなら最初から出陣拒否して宣戦布告するべきである 黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3) しょせん伊豆の代官某でしょw
それはさておき、鎌倉前期の御家人たちの集団合議体制の中で、当時、有力御家人もたくさんいて、唯一の強みは将軍の縁戚なだけでしょ。
鎌倉幕府のコンセプトとして、北条氏は関白になれないでしょw
だから結局、北条高時まで従五位下のままだし、それが日本の最高権力者だった。
一方、右大臣の実朝が生きてたら、無力ながらも、最高位を望めたかもw 関白になれるかもしれないけど在京を求められるだろうな。 平家は平治の乱の戦功で武家として初めて公卿の壁を突き破った
もっとも忠盛が数年長生きしてたら保元の乱の前に三位になってたかもだが
なら承久の乱で北条以下鎌倉御家人がもっと上の官位を得ても不思議はない
なぜそうならなかったのか ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>900
平氏はもともと貴族だったからではないか?
平忠盛以前から、国司クラスの官位を持ち、朝廷や院とも近い関係にあった。
多くの武士とも主従関係を築いて、その主君の立場にあった。
関東武士団の主君(鎌倉殿)が公卿の地位に上ることは、源頼朝の時代に
確定したことで、もはや問題はない。鎌倉政権は摂関家の家政機関のような
もので、鎌倉殿は摂関に準ずる社会的地位だったのではないか。
その家宰たる執権や連署は、国司クラスの官位に就くのが自然だった
ものと思われる。 高師直が足利尊氏を抜くことはない。松永久秀が三好長慶を抜くことはない。
鎌倉将軍家の筆頭家司である北条氏は従四位で上等。足利でも従五位下。 902の続き
ただ、ひとつ考えられるのは、承久の乱勝利の勢いで、鎌倉殿である藤原頼経の
官位をできる限り高くすることだ。もともと頼経は摂関家出身であるし、平清盛
に習って従一位太政大臣に昇ったとしてもおかしくはない。
だが、北条氏をはじめとする御家人たちはどうだろうか?
平氏政権において、高官に昇ったのは清盛の一門であって、悪七兵衛景清などの
家人・郎党ではない。相模守・陸奥守・武蔵守などの国司になっただけでも、
十分な昇進だと言える。 >>904
天皇にさせて、将軍と天皇を兼ねる鎌倉殿 >>903
義時が高時の立場だったら、後醍醐天皇を処刑して、御内人も粛清。
王になったかもしれないね >>891
後ろめたさがあるから、赤橋トウコと離縁せずに、執権の甥を2代目にして、側室の子供と対立したんだろう。北条の血脈が将軍にながれている >>907
そんなことしたら日本は内乱状態になる。王莽や朱全忠の末路を見よ >>909
両方共結局皇帝になってるじゃないか。
寧ろ力なきものが権威だけぶら下げていることが問題。
馬鹿な奸臣をうろつかせて民を虐げることになるからね。
だったら馬鹿な奸臣も、その傀儡も一緒に纏めて捨ててしまえ。 >>1
バーカ、天皇権威がだだ下がりで関白=天皇にも権威を与えることは控えたかったんだ
弱気天皇に官位を貰う意味は全くなかった 義時は関白にならんだろ
西国の統治は六波羅にやらせてる
だから六波羅探題の息子の泰時を関白にしたならあり得る
でも、北条てガチに鎌倉大事だからなあ
なんかあると京をほったらかして鎌倉に行ってしまう
六波羅探題が鎌倉に叛旗を翻すこともない
元寇の時はいざとなったら帝を鎌倉に移して防衛するぞ、てまるで首都は鎌倉w
だから結局関白自体に興味なくてあのような体制に >>913
御家人たちは北条家の栄華のために戦ったのではなく
頼朝から脈々と続く鎌倉殿のために戦ったのだからそれはどうかね
鎌倉にはすでにまだ幼かったが時期鎌倉殿として
九条頼経が都から下向済みであった
御家人たちは北条義時を将軍に据えることすらしなかったのに 鎌倉殿にすらなれない北条丸が征夷大将軍や関白になれるはずがない。
権力と権威は違う。 摂家将軍や皇族将軍を立ててこそ執権・得宗として
御家人を統率できる。
鎌倉殿になれる資格は軍事貴族や摂関家・皇族といった「ハイソサエティ」な家柄でないとな。
これが戦国後半になると下剋上となり、銭や武力で家柄が買える時代となるが、
鎌倉時代はそこまでいかない。 九条はまだその頃は鎌倉と仲良くやってたから、関白にはならんだろ
気に入らない関白をおろしてたがw
九条は後鳥羽院帰京問題で北条ににらまれ失脚
近衛は娘が時頼の猶子に
このあたりが鎌倉だよな
摂関家の姫が北条の娘の形をとるんだからさ
だから浮気とかし放題で宗尊はあっさりお払い箱w >>915
ハイソサエティな家じゃないと将軍になれないなんて後世の思い込みだよ
当時、そんな考えがあったと史料に残ってるか
阿野時元が、父が頼朝の弟で母が政子の妹だから自分に将軍の資格がある言ってたが
鎌倉殿は頼朝の政子の縁が重要と思われたのはあるな
当初はなかった将軍に貴種性をくっつけたのは実は北条だよ
誰でも将軍になれるじゃ困るから皇族将軍もってきて武士が反乱できないようにした
最初は後鳥羽に拒否られて摂家将軍になったがね
だから、後醍醐が暴れてやっと御家人は倒幕に動けたわけ >>916
九条道家は後鳥羽院帰京問題で失脚したのではなく宮騒動のせいだろ
仮にも親王の正室に本当の北条の娘はあてがえないから
都からしかるべき筋である近衛家の姫を連れてきて正室とし
でもそれでは執権の立場がないから猶子扱いにしたんだろ
近衛宰子の不倫は別に北条の猶子にされたせいではない
当たり前だが
近衛宰子も一緒に都に返されてるし >>914
実は鎌倉殿=幕府=執権殿なんだよね
後鳥羽側近が院宣一つで武士は義時の首持ってくるぜ、と盛り上がってたら
鎌倉方の武士が、義時に恩を受けたものは関東に山のようにいるから
味方するやつは万をくだらないよ、て言ってたが
へー執権に恩を受けたという言い方するのか、と面白く思った記憶ある
頼朝が鎌倉殿とされてた時も、なんで義朝の息子風情が!つってた源氏の連中いたから
当然、なんで北条風情が!てのは当然あるだろけどなー >>919
>鎌倉方の武士が、義時に恩を受けたものは関東に山のようにいるから
>味方するやつは万をくだらないよ、て言ってたが
これの元ネタどこ?
「吾妻鏡」でも北条政子が御家人たちに頼朝の恩をときはしたが
義時の恩なんていってないわけだが >>917
>阿野時元が、父が頼朝の弟で
頼朝公の男系血族だから、ハイソな血筋だな。
>当時、そんな考えがあったと史料
あー、ゴメン。本などからの受け売りで一次史料は知らない。当時の東国武士たちの
家格意識を示すエピソードなどから彼らの身分意識 貴種観を類推したまで。
というか、
>当初はなかった将軍に貴種性をくっつけたのは実は北条だよ
こっちの方が要出典モノじゃないかね? こんな見解聞いたことない。
貴方独自の解釈じゃないですか。 >>917
征夷大将軍は坂上田村麻呂や文屋綿麻呂が任じられた職で
もともとはそれほど高い身分ではない
ただし朝廷から東国軍事権を与えられるというメリットがあった
難しいのは征夷大将軍になることではなく「鎌倉殿」になることだよ
頼朝は都に親戚も多く朝廷から権大納言の地位も受けていた
実朝は右大臣にまで上った
しかし北条義時では陸奥守が限度 あの時代こそ身分なんて全部覆って常識が通用しなかった時代だぞ
平家一門がぞろぞろ公達になって要職しめたり
頼朝の家だって大した家格じゃない
頼朝の父や祖父の官位なんて北条以下じゃん
頼朝がただ成り上がっただけで >>921
別に独自じゃない
むかーしから義時は関東の王が欲しかった説はある
後鳥羽院が息子の東下を拒否したのは国が二つに割れるから、という理由
関東に京とは違う王権ができるのを警戒したのさ
逆にいえば、源氏は王には不足ちいうこと
頼朝が娘の入内にこだわったのは貴種性を上げたかった説もあるよな
で、頼朝死後も、三幡入内を進めてたから政子や北条にも
貴種性をあげたい気持ちはあったのだろう
頼朝はただの源氏の出だから支配の正統性にかけて、次々と粛清しなければならなかった
その不安定さはずっと続き、源氏の殺し合いはお家芸で、とうとう断絶
そういうのをずっと見てきた義時が、貴種を頂きたいおもってもおかしくないだろ
で、姫の入内が失敗したんで、皇子にこっちにきてもらって竹御所と結婚させて
関東に安定した王権をつくろうとしたんじゃないかい
そういう意識だから、後鳥羽院他をばっさり処断できたんだよ >>920
承久記だね。
庄四郎兵衛何がしといふもの進み出でて申しけるは、「式代申させ給ふ人々かな。
あやしの者討たれ候ふだにも、命を捨つる者五十人・百人は有る習ひにて候。
まして代々の将軍の後見、日本国の副将軍にて候時政・義時父子二代の間、
公の御恩と申し、私の志を与ふること幾千万か候らん。就中元久に畠山を討たれ、
建保に三浦を亡ぼしゝより以来、義時が権威いよいよ重うして、靡かぬ草木もなし。
この人々の為に命を捨つる者二三万人は候はんずらん。某も東国にだに候はゞ、
義時が恩を見たる者にて候へば、死なんずるにこそ」と申せば、御気色悪しかりけれども、
後には「式体なき兵士なり」と覚し召し合せられたり。 >>926
「鎌倉殿=幕府=執権殿」この記述は?
義時・泰時は代々の将軍の後見を立派に勤めてきたので
このために命を捨てる者はいるでしょうという内容であって
義時・泰時と鎌倉殿(将軍)は別だし執権とも呼んではいない >>925
>むかーしから義時は関東の王が欲しかった説はある
だから、鎌倉殿の資格に貴種性が必要だと北条義時が認識していたということでしょ。
貴方の>>917は「それは後知恵」みたいな書き方するから、そっちこそ要出典じゃないかと思うわけですよ。
北条が実朝以降に摂家や皇族を鎌倉殿に迎えたことについて、
@ 鎌倉開府当初からその必要があった。
A 北条氏がそうしたのでそいう貴種観は北条氏が作った。
という2つの見解について、通説では@なんだが、貴方はAをとっている。
そこが「初耳アワー」だと言ってるわけ。
どういう理由でAをとっているのか知りたいわけ。 >>917の主旨は
「ハイソサエティな家じゃないと将軍になれないなんて後世の思い込みだよ
当時、そんな考え」は無かった、と貴方は言いたいのと読み取ったので訊きたいわけ。
通説は@だよ。 928補足
@は摂家や皇族必要という意味ではなく、ハイソな貴種が必要という意味ね。
源氏も入ります。(含む軍事貴族ちゅうこと) 頼朝は貴種性に欠けたんだよ
そら、その辺りの土豪をまとめるレベルならいいけどさ
関東に政権をたてようと思ったら、ただの一武士でしかないわけ
武家政権が普遍的なものになるには公的な性格が必要で
頼朝の家人みたいな私的なものじゃダメってこと
そこまで鎌倉が成長してったわけで、そんで式目制定ということになってく
成長した先の将軍イメージを頼朝に遡及させるのはおかしいという意味だ
なんで北条が将軍にならなかったかも分かるよね
源氏じゃもの足りん、つってるのに自分がなるわけないw
摂家将軍は三浦が言い出したんだよね
義時は皇族将軍にこだわったと思う
三浦クラスだと、別に摂関家でいいやん、となるが >>931
摂家将軍は三浦が言い出したんじゃないよ
そもそも後鳥羽上皇からは親王を貰えなかったので
仕方なく北条政子が交渉して九条家から三寅を貰った
三浦が九条頼経の側近を命じられたのは三寅が鎌倉に来てからだよ
承久の乱前はまだまだ朝廷の意向を鎌倉は無視できなかった
承久の乱後は鎌倉幕府が皇位継承に口出しできるほどに権限が大きくなったから
宗尊親王の下向もあっさり決まった >>931
でも高時の時には宮将軍の行事を高時の息子が代行していたみたいだ。
あのまま存続していれば、或いは将軍にもなったかもしれない。 将軍のまねごとなんてするから潰れたのだな
得宗は血生臭い権力闘争やってこそ得宗であり貴族化して闘犬田楽に
ふける得宗に露ほどの価値もない 北畠親房とか太平記とかあの時代の書は、北条は望めばいくらでも昇進できたが
位四位を越えなかったのは謙虚で素晴らしいことだ、つって賞賛してる
つまり、官位の低さは褒め言葉
いくらでも上にいけたという認識があったことになる
そらそうだわな、1世紀以上日本国の主をやってたんだからさ
家格のせいで昇進できなかった!とか言うのバカだろwとしか思わないんだが
自分の興味は誰が最初にそういうことを言い出したのか、てことだw
江戸時代なんか? 朝廷としては高い官位やって飼い慣らしたかったというのが本音だったのだろう
そもそも従四位や五位では本来なら摂関はもちろん大臣クラス相手でも
手紙のやりとりすら出来ないレベルのはず >>935
北条は望めば従四位以上貰うことは可能だったかもしれんが
だからと言って関白になれたとか大臣になれたとかも言ってない
望めばなんでも貰えたという意味ではないだろ
それって次の足利が京都に幕府を開いて軍事力を背景に
北朝の天皇に圧力をかけ尊氏が権大納言→贈太政大臣
義満の代には生前に准三后太政大臣になって
権力を振るいまくったことに対する批判だろう
(武士なんてものは北条のように従四位、五位程度でいいものを、
という都の人から見た批判) 徳川幕府が成功したから、幕府はすごいものだと思うかもしれないが、鎌倉のときは、将軍なんてものに権威なんてなかつと まぁ権力者の名前が得宗だからな。
明らかに中国の皇帝をイメージしたネーミングだ。
実際の権力は将軍よりも天皇よりも上だって事でこういう名前にしたんだろう。 征夷大将軍て実朝のためにあったような職だよね
頼朝も一時期しかなってないし、頼家は死ぬ前年になった
頼朝は自分で旗揚げして勝利したことで鎌倉殿になったし、頼家は
その長男で家督をついだから鎌倉殿になったけど
実朝は兄をおしのけて鎌倉殿になるのを正統化するために
オレは兄に代わって征夷大将軍になったから!鎌倉の主だから!とやったような気がする
実朝死後、征夷大将軍不在でも鎌倉が普通に動いてたの当たり前というか
頼家は、実朝に簒奪されるために征夷大将軍になったようなもんだ
これも北条の謀略なんかな 北条が将軍になったとしたら、時宗か貞時の時代じゃね
ほら、蒙古が来るから!つって征蒙大将軍に任命とかさw
実際は、執権の命令で武士を動かせたから任命の必要なかったけど 実際、貞時は公式の書面に副将軍と署名していたらしいぞ。
そして世間からも天下の副将軍だと通称されていたらしい。
まぁあのまま鎌倉幕府が滅びずに続いていれば将軍になったんじゃないだろうか?
若しくは、時宗が蒙古撃退の功だとか言ってせびれば、朝廷は確実に任命しただろう。
しかし、時宗はそうやって朝廷にせっきんするんのではなく、弱らせる方を選んだからな。
もう少し公武合体に積極的なら将軍になったろう。 でも将軍になったら将軍親政になって、それまでの鎌倉の体制と変わってしまう
執権はどーなるんで?
足利尊氏と直義兄弟もそこでもめたんだろ
どっちがどういう権限あるかでgdgdで結局分裂して戦う羽目に >実際、貞時は公式の書面に副将軍と署名していたらしいぞ
聞いたことねえな 執権という言葉が紛らわしい
後見役だから将軍に代わって軍勢催促ができる
承久の時も義時の名前で軍勢催促の文が諸国にとんで動員したはず
蒙古がこようと同じ
将軍家の執事だったらそれは無理だが 北条は政所と侍所の別当だから下文で軍勢催促できるだろ普通に 北条が将軍になったら内管領が執権になって得宗家は飾り物になる。 それこそ逆霜月騒動でも起こして、御内人の大粛清に走るんじゃないの?
少なくとも高時は兎も角、貞時や時宗が傀儡に甘んじるとは思えない。 将軍は政治はしないイメージ
北条得宗が将軍になったら一子相伝wされる執権能力がもったいない
義時泰時父子の政治は武家政治の理想なのに いや、足利は普通に政治してたっしょ。
それは通常の状態じゃなくて、臨時状態だってのは当時の人間も分かっていただろう。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。